« 2010年8月1日 - 2010年8月7日 | トップページ | 2010年8月15日 - 2010年8月21日 »

2010.08.14

[書評]日本経済のウソ(高橋洋一)

 「日本経済のウソ (ちくま新書)(高橋洋一)」(参照)は奥付を見ると8月10日が第一刷となっているので新刊と言ってよいのだろうが、一読して大半の内容に既視感があった。執筆方針や編集過程についての言及はないので書き下ろしということになるのだろうが、内容的には著者がネット媒体でこの半年に書いてきたものをまとめたものという印象をもった。

cover
日本経済のウソ
高橋洋一
 執筆完了時点はわからないが、菅内閣の比較的最近の動向への言及もあるが、参院戦争点を論じるもののその結果への考察はない。あと半月待ってそれらの考察を含めての出版のほうがよかったようには思った。
 基本的な議論には、著者の考えになじんでいる人や、インタゲ政策に賛同している人にとってはそれほど新味はない。しかし、小泉政権後の迷走を金融政策の視点で総括する簡便な書籍という意味合いはあり、その歴史の帰結が見える5年後には、また本書を振り返って、日本がどこで失墜したのか後悔を満喫するためにも書架に留めておきたい好著だ。
 書名「日本経済のウソ」とあるようなウソの大半は、日銀批判に充てられているが、終章にあたる三章の展望では、日銀批判から離れ、民主党の経済政策の混迷、特に郵政問題に言及しているため、やや尻つぼみな印象もある。むしろ本書は、単純に日銀批判部分を評価するとよいだろう。
 日銀批判についてはこのところ類書も目立つようになり、また批判も定型化しつつあるようには見えるが、率直なところ、経済学の素人には詰めの部分で日銀の理論をきちんと反論することは難しいように思う。本書では、日銀式テーラー・ルールをやや詳細に追っているが、経済学的な背景知識がないとなぜこのような迷路があるのかについてまでは納得しがたいだろう。
 別の言い方をすればそうした難解さの陰に日銀的な視点は大手紙社説などにも及び、卑近なところでは粗雑な「新自由主義」なるものの批判や小泉政権批判に結びつく。本書は後者の部分については端から相手にしていないが、小泉政権における金融政策は落第点だったと認めており、さらに現状の景気については、2006年から2007年における金融引き締めの問題として、リーマンショックを原因とする論を排している。
 本書を読み、内容的な理解から少し逸れるが、感慨深く思ったことは二点ある。一つは、近視眼的にはデフレは悪くないという立場も現状はそれなりに強くあり得るということだ。本書も指摘しているが、年金生活者と、公務員やしっかりした労組のある大手企業の正規職員がそれにあたる。固定的な収入のある人にとってデフレは手持ちのカネを増やしているに等しい。もちろん、少しなりとも経済の全般を見渡せばそんなメリットが吹っ飛ぶくらいのことはわかりそうなものだが、「後の千金のこと」のような政治状況がある。率直にいえば、現在の日本の内閣は年金に依存するような老人票と、労組票を当てにしているのでなかなか変革は難しいだろう。
 もう一点は、私自身の困惑である。私はどちらかといえばリバタリアンなので金融政策そのものを好まないが、それでも日本の惨状を思えばそうとも言ってられない。そこでインタゲ政策は実質的に国際的にも常識でもあり、最低限度のそうした政策は好ましいと思ってきたのだが、具体的にその数値について明確に4%以下では意味がないとする議論は、頭ではそれなりに理解できても、なかなか心情的にはついていけない部分がある。だが、そうした曖昧な弱腰の見解は結果的に日本経済の宿痾を支援しかねないのかもしれない。
 個別の例でいうなら、現在の国債金利は1.4%だが、これが5%に上がれば、国債価格は25%低下する。

 二五%くらい低下することを「暴落」というのなら、もし日本経済が本格的に回復すれば確実に「暴落」します。つまり、日本がノーマルな成長をして名目成長率が四~五%になれば、国債金利も四~五%くらいになるからです。

 もちろん、その時には、GDPも増え税収も当然上がり財政問題は消えている。そこをきちんと国民に納得させる政治は可能なのだろうか。
 そこが難問だと思う。だが、日々存在感を薄くしている菅総理や、九月にまた御輿を取り替えようと活躍される面々を見ていると、そうした難問に悩む日は来ないのだろうなと、ほっと安心してしまうダメな私がいる。

| | コメント (2) | トラックバック (1)

2010.08.13

なぜ月遅れ盆なのか?

 先日ツイッターで、なんでお盆が八月中旬なのか、七月の地域もあるのか、という話題があり、八月のほうは月遅れ盆で、七月は新暦のお盆ですよ、とツイートしたものの、月遅れ盆と旧暦のお盆の違いがうまく伝わらないふうであった。日本では、大きく分けて三種類のお盆の時期がある。(1)旧暦七月、(2)新暦七月、(3)月遅れ盆(八月)である。一番多いのが月遅れ盆で、お盆といえばほぼ月遅れ盆ということになっている。なぜ月遅れ盆が一般的になったのか?
 お盆のことをネットで調べてみて、そのあたりのことがとんとわからなかった。いちおうウィキペディアにはお盆の項目があり、多少言及がある(参照)。


伝統的には、旧暦7月15日に祝われた。日本では明治6年(1873年)1月1日のグレゴリオ暦(新暦)採用以降、以下のいずれかにお盆を行うことが多かった。
 1. 旧暦7月15日(旧盆)
 2. 新暦7月15日(もしくは前後の土日)
 3. 新暦8月15日(月遅れの盆。2.を主に祝う地方では旧盆とも)
 4. その他(8月1日など)
しかしながら、明治6年(1873年)7月13日に旧暦盆の廃止の勧告を山梨県(他に新潟県など)が行うということもあり、1.は次第に少数派になりつつあり、全国的に3.(月遅れのお盆、旧盆)がもっぱらである。岐阜県中津川市付知町、中津川市加子母は8月1日である。現在の報道メディアでは、多数派である8月中旬(3.)を「お盆」と称するため、「お盆」というと月遅れのお盆を指すことが全国的になりつつある。ただし、沖縄県では現在でも1.の旧暦による盆が主流である。そのため、お盆の日程は毎年変わり、時には9月にずれ込む[2]。なお、旧暦での盆を旧盆というが、一部の地方を除いて通常、新暦での盆は新盆[3]とは言わない。新盆(にいぼん)は別の意味となる。

 間違ってはいないのだが、「なぜ」に対応すべき知識を示唆する内容ではない。他のサイトでもそれほど情報もなく、またブログなどでも考察は見かけなかった。どこかに適切な情報や考察があるのだろうが、うまく辿り着かない。最近、インターネットで情報を調べると同じような薄い情報のコピーが多いと思うようになったが、その典型のようにも思えた。
 まず明確なところを整理すると、お盆は本来旧暦で行うものである。これが原点だが、明治6年(1873年)、近代日本がグレゴリオ暦を新しい暦法として採用して以降、各種の民間行事を新暦に移し替えた。
 典型的なのが正月である。興味深いのが春節で、明治以降、日本は中国文化の影響を受けた圏内ではめずらしく春節を軽視しているが、これは、おそらく建国記念の日が春節の亜種であるためだろう(参照)。
 私は沖縄暮らしの経験で知ったのだが、沖縄も琉球処分(1871年)の結果でもあるが内地流に新暦が推進されて、沖縄でも旧暦の正月を新暦にしようということになった。新正運動という名称だったか、方言札のような社会運動として推進された。しかし、沖縄の場合、各種の行事が綿密に旧暦で組み立てられていて、そう簡単には新正は定着せず、おそらく内地の戦後も米軍統治下で内地の影響がある程度遮断されたこともあり、現在でも漁村では旧暦の正月が基本である。もっとも、概ね新正に移行したとも言えるが、それでも旧正月の日のテレビ番組は正月番組でコテコテになっている。
 推測なのだが、おそらく内地における新正月採用もそうした一種皇民化政策のように推進されたのではないだろうか。ウィキペディアでは山梨県・新潟県における旧暦盆廃止の挿話を引いているがその名残であろう。
 ここで話が細かくなるが、私の両親は信州人で水木家の家庭が鳥取文化のように私の家庭は長野県文化なのだが、信州のお盆は旧暦であった。昭和30年に東京に出てきた私の両親は東京の新暦盆に戸惑っていたようだった。
 そしてここが重要なのだが、8月の月遅れ盆には私の家族は信州に帰るのである。私は高校生になるくらいまで毎年盆と正月は信州で迎えていた。おかげで自分は信州人だと思わざるをえない。このずくなし。
 同様の行動パターンをしているのは昭和30年代以降に東京に出てきた労働者たちだ。この労働者の大半は工場労働者であり、効率的に工場を止めるためにも八月中旬がよかった。つまり、月遅れ盆は、東京に出てきた労働者を帰省させることがもっとも重要な意味であったのだろう。この風習は、おそらく江戸時代から奉公人は盆暮れの休みがあったことの継承ではないだろうか。
 当然ながらお盆ということで地方に帰省した労働者は、主に長男以外の資産継承から外された人びとがそれでも血族を確認するための風習であった。
 沖縄の話に戻ると、沖縄では当然ながらお盆は旧暦である。墓参りはしない。しない理由はうちなーんちゅには当たり前すぎることだが、内地の人にはほぼ通じないだろう。あえて解説はしないことにするが、沖縄のお盆は、シチガチ(七月)であり、シチガチといえばシチガチエイサー待ちかんてぃである。

 この映像は新宿である。子どもが手にしているタンバリンのような太鼓はパーランクーである。沖縄の幼稚園児はたいていエイサーをやらされるので子どものいる家庭ならかならず一個か二個パーランクーがある。

 いかにも沖縄の伝統のように内地からは見えるのだが、この原形はおそらく内地からの伝承であろう。念仏廻り(にんぶちまーい)とも呼ばれることからも推測される。現在の福島県に生まれた浄土宗の僧袋中(1552-1639)が渡明失敗後、琉球に漂着し、そこで尚寧王の歓待を受け、浄土教を広めた。その折りの念仏行事が原形であろうといわれる。ただし、琉球の浄土教の興隆はもう少し時代が古いので袋中以前にも念仏廻りがあったのではないか。なお、現在のエイサーの華々しさは当時のものではないようだ。
 お盆自体の起源についてはよくわかっていない。枕草子に「右衞門尉なる者の(中略)人の心うがり、あさましがりけるほどに、七月十五日、盆を奉るとていそぐを見給ひて」とあり、平安時代には定着していたのだろう。名称的には、盂蘭盆の省略とされる。伝承は中国からで、梁の武帝の時代にはあったようだ。
 日本のお盆は日本の習俗と習合し、さらに戦後は戦没者追悼の風習とも習合していき、八月になるとなにかと終戦を想起するという一種の国民宗教行事のようなものになった。
 盂蘭盆は仏教行事のようにいわれているが、近年では否定的な見解が多い。ウィキペディアでもその説が書かれている(参照)。


 盂蘭盆は、サンスクリット語の「ウランバナ」の音写語で、古くは「烏藍婆拏」「烏藍婆那」と音写された。「ウランバナ」は「ウド、ランブ」(ud-lamb)の意味があると言われ、これは倒懸(さかさにかかる)という意味である。
 近年、古代イランの言葉で「霊魂」を意味する「ウルヴァン」(urvan)が語源だとする説が出ている。サンスクリット語の起源から考えると可能性が高い。古代イランでは、祖先のフラワシ(Fravaši、ゾロアスター教における聖霊・下級神。この世の森羅万象に宿り、あらゆる自然現象を起こす霊的存在。

 ウィキペディアではこれがインドに入ったと続くが、「古代イランの言葉」はおそらくソグド語であり、ソグド人の交易と一緒にステップルートで中国に伝わったと考えたほうがよいように私は考える。当然ながら、これは拝火のゾロアスター教の神事であり、お盆の火もその名残かもしれない。余談だが、ミトラ教はゾロアスター教である。
 盂蘭盆は中国では中元節つまり鬼節となる。地獄の扉が開いて飢えた鬼(Hungry Ghosts)がやってくるということだ。

 日本のお盆も、いわゆる盆踊りなどをともなって興隆するのは江戸時代からのようで、その当時の祭りはかなり華々しいものもあり、鬼神の異界を堪能する華僑圏の文化の影響もあったのではないかとも思われる。
 むしろそれが現在のように祖先信仰や鎮魂といったお盆に変換していくのは、近代日本が作り出した新しい国家宗教化の一環ではないだろうか。靖国神社も大祭は春秋であり、その折りに詣でるのが自然に思われるが、戦後はお盆と習合してしまったように見える。

| | コメント (7) | トラックバック (1)

2010.08.10

南シナ海領有権問題に関わる中国と米国

 南シナ海の領有権問題で米中間に一つ目立った動きがあった。問題の根は深く展望もないが、今年に入ってからの背景と概要にふれておこう。
 目立った動きは、7月23日、ハノイで開催された東南アジア諸国連合(ASEAN)地域フォーラム(ARF)におけるクリントン米国務長官の発言とその反響である。発言の全文は米政府サイト"Comments by Secretary Clinton in Hanoi, Vietnam"(参照)にある。
 要点は、同日付けAP"Clinton claims US interest in resolving territorial disputes in South China Sea disputes"(参照)が強調するように、この地域の領有権問題を解くことが米国の国益であると断じたことだ。南シナ海は米国の問題であると関与を鮮明にした。クリントン発言から抜粋するとこのあたり。


I’d like to briefly outline our perspective on this issue. The United States, like every nation, has a national interest in freedom of navigation, open access to Asia’s maritime commons, and respect for international law in the South China Sea.

南シナ海の領有権問題について米国の考え方の概要を述べたいと思います。米国にとって、他のどの国々とも同様に、航行の自由、アジア公海がすべての国に開かれていること、そして東シナ海における国際法の遵守の三点は、国益をなしています。



The United States supports a collaborative diplomatic process by all claimants for resolving the various territorial disputes without coercion. We oppose the use or threat of force by any claimant.

米国は、多様な領有権問題の解決に向けて、強制なく関係国が協調外交を展開することを支援します。米国は、関係国がどの国であっても、軍事的脅威の行使に反対します。


 これだけでも中国に対する米国側からの非難であることは明白であり、この海域を実質的に支配しようとする中国に明確に対立したとも言えるが、APによれば、中国からその場での抗弁はなかった。

China's Foreign Ministry had no immediate comment on Clinton's remarks but U.S. officials present at the meeting said Chinese Foreign Minister Yang Jiechi repeated Beijing's long-standing position that the disputes should not be "internationalized."

中国外務省はクリントン発言に即時のコメントを返すことはなかったが、会議に出席している米国高官によれば、楊潔箎中国外相は、南シナ海の領有権問題をけして国際問題化してはならないことが中国政府の長期的見解であると繰り返し主張したとのことだ。


 中国政府はクリントン発言に怒ったのか。そう見られている。その上で事後南シナ海で展開した中国軍事演習にもふれつつ、4日付けフィナンシャル・タイムズ「Spat over Spratlys」(参照)は簡素に指摘している。

Trouble is brewing in the South China Sea. Beijing has just conducted a massive show of force, sending three naval fleets to participate in war games – televised in case anyone wasn’t watching.

南シナ海で問題が醸されつつある。中国政府は、三艦隊を南シナ海に派遣して軍事演習を行い、盛大に軍事力を見せつけたばかりだ。見落とす人がないように、テレビで放映したほどだった。

This may not have been a direct response to US secretary of state Hillary Clinton, who made remarks about the South China Sea that angered Beijing. But they are a potent reminder of China’s growing capacity – and willingness – to project strength regionally.

この軍事演習は、南シナ海についての発言で中国政府を怒らせたクリントン米国務長官への直接的な返答ではなかったのかもしれない。それでも、この軍事演習は中国の拡大しつつある軍事力を強く留意させるものであり、同時にこの海域に軍事力を投入する意思を示すものでもあった。


 中国の軍事演習については日本国内でも報道はあった。7月31日付け読売新聞「南シナ海で中国海軍演習、米・ASEANけん制」(参照)がその例である。

中国やマレーシアなど6か国・地域が領有権を主張する南沙(スプラトリー)諸島などを抱える南シナ海で、中国の胡錦濤政権が7月下旬、海軍による大規模な実弾演習を行うなど軍事力を誇示した。
 先の東南アジア諸国連合(ASEAN)地域フォーラム(ARF)で南シナ海問題に結束して対処する方針を打ち出したASEANや、関与姿勢を強めている米国をけん制する狙いがあるとみられる。

 こうした応答は実に中国らしくわかりやすいともいえる。この手のコミュニケーションに慣れている米国も同じ次元できちんと応対している。共同「米空母がベトナム沖合に 南シナ海、中国を刺激」(参照)より。

AP通信によると、米海軍横須賀基地配備の米原子力空母ジョージ・ワシントンが8日、ベトナム中部ダナン沖合の南シナ海に到着した。南シナ海の南沙(英語名スプラトリー)、西沙(同パラセル)両諸島の領有権をめぐってベトナムと対立する中国を強く刺激しそうだ。

 正確には、空母ジョージ・ワシントンの訪問は、米国とベトナムの国交正常化15年祝賀の一環とされたものだが、この状況では対抗的な意味合いが色濃くなっている。
 米中間のやりとりで日本として注意したいことは、空母ジョージ・ワシントンの母港が横須賀であることと、南シナ海を巡る中国とベトナムの領有権対立から(この対立で中国とベトナムは二度死者を出す紛争を起こしている)、かつての仇敵ベトナムと米国が軍事を含めた親密な関係に移行しつつあることの二点だろう。
 問題に戻る。中国側からは、南シナ海の領有権問題を米中間の争点としてしまったことはどのように意識されているのだろうか。
 これまで平和的台頭を演じ来た中国としては、外交上の失態とする見方もあるかもしれない。しかし、6月5日、シンガポールで開催された第9回アジア安全保障会議でロバート・ゲーツ国務長官が、簡素ではあるが、ARFにおけるクリントン米国務長官の発言と同等の発言(参照)をすでにしていて、中国も注視していた。今回のクリントン発言も中国にとって寝耳に水ということはなく、むしろ中国にとっては予想された米国の対応であっただろう。
 このシンガポール会議については、日本側からは出席した岡本行夫氏による「外交評論家・岡本行夫 日米同盟を弱めるな」(参照)もいろいろと興味深いので簡単に引用しておこう。

 アジア太平洋地域の専門家が地域の安全保障について議論する会議がシンガポールであった。会議で日本は退潮国家、後退国家として言及された。私は強く反論したが、どこまで届いたか。日本への懸念の多くは、「ザ・フテンマ」が象徴する日米安保体制の運用ぶりに向けられた。
 アジアでは、海洋国家群とも呼べるひとつの輪郭ができつつあるようだ。日本、韓国、台湾、フィリピン、ベトナム、シンガポール、インドネシア、豪州…。これらの国々や、地域(台湾)の最大の懸念は、中国海軍活動の活発化だ。特に南シナ海。中国海洋戦略への警戒感は、あからさまに表明された。
 海洋国家群にとっては、日米安保体制はアジア太平洋地域の公共財だ。日米連携が海洋における中国のカウンターバランスになる。それなのに日本は日米関係を弱めて地域の安定を危うくしようとしている。何人もがそう言った。

 南シナ海を巡る今後の中国の動向はどうなるだろうか。
 重要なのは、今年に入ってから中国が南シナ海を「中核的利益(core interest)」とみなしてきた点だ。ただし、この表明がどの程度公式なものであるかについては評価が難しい。話題となったのは、4月23日付けニューヨーク・タイムズ記事「Chinese Military Seeks to Extend Its Naval Power」(参照)である。これによると表明は3月のことだったようだ。

China is also pressing the United States to heed its claims in the region.

中国はまた米国に対して領有権問題での主張を慎むように圧力をかけている。

In March, Chinese officials told two visiting senior Obama administration officials, Jeffrey A. Bader and James B. Steinberg, that China would not tolerate any interference in the South China Sea, now part of China’s “core interest” of sovereignty, said an American official involved in China policy.

3月のことだが、訪問してきたオバマ政権高官である、ジェフリー・A・ベイダーとジェイムズ・B・スタインバーグに対して、中国は、今や中国主権の中核的利益となっている南シナ海においていかなる干渉も断固として受け入れないと、中国当局者は語った。

It was the first time the Chinese labeled the South China Sea a core interest, on par with Taiwan and Tibet, the official said.

また高官によれば、この事態は、中国は初めて南シナ海を、台湾およびチベットと同様に中核的利益としたとのことだ。


 関連報道がニューヨーク・タイムズの飛ばしでないことは、高官名が明記されていることからもわかるし、8月4日付けフィナンシャル・タイムズ記事「America must find a new China strategy」(参照)でも相当の受け止められかたをしていることでもわかる。
 また、中国主権による中核的利益の意味合いについても、台湾とチベットが例に挙げられたとことで明瞭になったともいえる。だが、そこまで血なまぐさいことをやる決心を中国政府が断固として持っているのかは米国とは図りかねることでもあった。
 このフィナンシャル・タイムズ記事に前段の話がある。オバマ政権のこれまでの対応を考える上で参考になる。

The Obama administration at first thought the best approach was to co-opt China into the order, since it was believed to share core US interests.

オバマ政権は当初、中国を国際秩序に取り込むことが最善の政策であると考えていた。それなら米国の中核的利益とも共有できるはずだ。

To their surprise, the overtures may have served as a catalyst to bring about the very outcome they were intended to prevent.

驚いたことに、その序曲は、彼らが避けたいと思っていた結果をもたらす触媒として作用していたかもしれない。

Sensing that the financial crisis had accelerated its own rise, Beijing adopted a more assertive and unilateral foreign policy.

金融危機が急速に深まるとわかるや、中国政府は明確に片務的な外交政策を採用した。


 おそらく4月の時点で、米国は中国の外交政策への強い疑念と危機感を持つようになっており、それが南シナ海領有問題に結びついていた。
 このような背景からシンガポール会議でのゲーツ発言は、中国による南シナ海の中核的利益化に応答したものであり、ARFにおけるクリントン発言はその明確化であった。
 中国はなぜ強行に南シナ海を支配しようとするのだろうか。公海として開きつつ、アジア諸国と友好を保つことがなぜできないのだろうか。
 要点は3つあると私は考えている。(1)中東・アフリカからのシーレーンの確保、(2)海洋資源の確保、(3)海南島原潜基地からの海路の確保である。
 原潜基地については、2008年のエントリ「中台緩和にフィナンシャルタイムズが望むとした2つのこと: 極東ブログ」(参照)でも触れたが、中国は海南島の海軍基地を強化し、原潜基地化する予定である。
 また、1日付け毎日新聞「中国:空母の港か 開発急ぐ--海南島」(参照)が伝えるように、中国初空母の基地もここに出来る予定だ。

中国南部・海南島。五つ星ホテルが並び、家族連れが透き通った波と戯れるこのリゾート地は、「中国の空母の母港になる」(カナダの軍事専門誌)といわれる。島南部・三亜市の亜竜湾には「軍事禁区」と書かれた鉄柵があり、その先は中国海軍敷地。軍港開発が急ピッチで進められている。

 Googleマップで見るとそれらしいものがあることがわかる(参照)。
 広域の地図を見ても明らかだが、海南島に海軍の拠点基地を置くなら、南シナ海(South China Sea)を支配するというのも理解できないことではない。そして考えてみれば、中国には他に海軍基地の候補地もないだろう。


海南島と南シナ海(South China Sea)

 南シナ海の南沙諸島については、中国が9個、ベトナムが29個、フィリピンが8個、マレーシアが3個の島の領有を主張している。最大の太平島を実効支配しているのは台湾である。

| | コメント (1) | トラックバック (2)

2010.08.09

[書評]ロスト・シンボル(ダン・ブラウン)

 読書の少し捻くれた楽しみの一つは、上手に期待を裏切られることだ。ロスト・シンボル(ダン・ブラウン)(参照)はエンタテイメントの小説だからこの程度の仕立てに違いないという期待を持って読み進めると、ぽろぽろと崩れ落ちる。予想は微妙に外れる。期待は小気味よく裏切られる。その都度、シニカルな笑いが襲う。やられた。面白いじゃないか、これ。
 テーマはフリーメーソンの謎だから、これは欠かせないという一連のネタが出てくる。お約束だ。出るぞ出るぞと思っていると出てきて、きちんと肩すかし。さすがによく練られている小説だ。犯罪小説ではないが十分にミステリー仕立てにもなっていて、誰が味方で誰が敵かは話の進展で変わっていく。

cover
ロスト・シンボル
ダン・ブラウン
越前敏弥訳
 実質的な主人公である全身入れ墨の怪人マラークにはもう少し深みが欲しいところだったなと下巻半ばで思っていたら、どんでん返し。追求者ラングドンも一巻の終わりかというところで思わぬ逆転。純文学だったら使えないお笑いトリック満載。もちろんフリーメーソンにまつわるありがちな知識はふんだんに盛り込まれているし、おそらく作者が作ったのであろうパズルも二点ほど入っている。お好きなかたなら、ラングドン教授より先に解けるかもしれない。
 物語の描写は映像的で比喩的な深みはないが、その分読みながらくっきりした映像が浮かぶ。げっこうグロい映像もきちんと見えてくるので、若干悪夢にうなされるかもしれない。この感触は、映画作品をノベライズしたかのようだ。すでに映画化は決まっているのではないかと調べてみると、そのようだ。
 上巻を開くとプロローグ。そこで34歳のある男がフリーメーソンの最高位に上るための儀式が描かれる。秘密の儀式である。「秘密はいかにして死ぬかだ」というのがこの小説の最初の一文だ。そして、それがこの物語のすべてでもある。
 物語は主人公ハーヴァード大学宗教象徴学者ロバート・ラングドンが、恩師ともいえる年上の大富豪慈善家ピーター・ソロモンから、合衆国議会議事堂の講演を緊急で依頼され、特別機でワシントンに降り立つところから始まる。空港での出迎えまではさすがに至れり尽くせりだが、議事堂に着くと何かおかしい。お約束通り騒ぎに巻き込まれる。議事堂で子どもの悲鳴。ドームの床には天井を指さす人間の生の右腕が置かれていた。切断された腕はフリーメーソンの最高階位にあるピーター・ソロモンのものだ。その指にはそれぞれフリーメーソンのシンボルが描かれている。これをその場で解くことができるのは、ラングドン、君だ。息を継ぐ間もなく彼は押し寄せるフリーメーソンの謎を解きまくる。事態は急速に展開する。物語は12時間。そして最後に何が起きるのか。アメリカ合衆国建国に仕組まれたフリーメーソンの謎は解き明かされるのか。結果、それなりに解き明かされるのもご愛敬。
 登場人物の中では、CIA局長でもある日系の老女イノエ・サトウが映像的にも面白いキャラに仕上がっている。日本名は「井上佐藤」だろうから、日本人にはけっこう違和感があるが版元で直せなかったのだろうか。もう一人、物語に花を添えているのが純粋知性科学というオカルトのような科学を研究しているピーターの妹キャサリン・ソロモンである。ラングドンと大人の恋が芽生えそうな個所もあるのだが、展開しない。ラングドン、恋は苦手か。次回作もたぶんあるしな。寅さんなら毎回淡い恋という展開もあるが。
 邦訳書では上下巻と分かれて大著だが、普通に読んで12時間はかからない。丁寧に読んでその半分くらいなものだろうか。ただ、読み出すと止まらない。私も30代のころはエーコの「薔薇の名前」(参照上巻参照下巻)や村上春樹の「ノルウェイの森」(参照上巻参照下巻)を読み出したら止まらず、つい徹夜したものだ。が、もうさすがに読書で徹夜はできない。この物語は2日かけて読んだ。それでもなかなか途中ストップしづらい読書ではあった。
 ミステリー仕立ての他に面白かったのは、グーグルや類似の検索技術が情報探索の小道具としてそれなりに利用されていることであった。現代においてグーグルもまたフリーメーソンなみの情報を提供してしまうという戯画であるのが笑える。このあたりのシニックなトーンも愉快だった。
 物語としては下巻の四分の三でクライマックスを迎える。その後に取り散らかした謎の始末や、フリーメーソンの謎をからかうだけではない現代風の解釈が大学の講義のように比較的淡々と続く。この部分も悪い出来ではない。秘密の言葉の解釈について、そういえばと、アーヴィング・ウォーレスの「新聖書発行作戦(The Word)」を連想した。こちらの本はもう絶版かと思ったら「イエスの古文書」(参照上巻参照下巻)で復刻されていた。これもおもしろ本だったな。
 翻訳の質も悪くない。「日本人なら必ず誤訳する英文」(参照)の越前敏弥さんのことだから誤訳もないだろう。訳の工夫もしている。例えば、こんなところ。

キャサリンは笑った。「請け合ってもいいけど、私が研究成果を発表したとたん、ツイッター好きがいっせいに”純粋知性を学ぶ”なんてつぶやき(ツイート)を投稿しはじめて、この学問への関心が一気に深まるでしょうね」
 ラングドンのまぶたは抗いがたいほど重くなっていた。「どうやってツイッターを投稿するか、まだ知らないんだよ」
「ツイートよ」キャサリンは訂正して笑った。

 「ツイッター」を投稿するのではなく、投稿するのは「ツイート(つぶやき)」だということだが、キャサリンの笑いにはこの言葉をラングドンが理解していない含みがある。
 最後に余談。ついでなので本書で重要な意味をもつ「ワシントンの神格化」について本書を補う点として少し触れておきたい。


ワシントンの神格化
 1865年に描かれたものだ。実際にワシントンの下、アメリカが独立したのは1776年なのでこのフレスコ画は独立当時の時代を表現しているとは言い難い。絵の解説は本書になんどか書かれている。注目したいのは二点。

コロンビア
 戦いを鼓舞しているのがお馴染みのコロンビア神である。フリジア帽は被っていない。

ネプチューン(ポセイドン)
 神々がケーブルを持っていることに注目。これは米英間を結ぶ大西洋横断電信ケーブルである。このフレスコ画完成の翌年、1866年に完成した。つまり、この絵は大西洋横断電信ケーブル完成に合わせてその記念の絵でもあった。

| | コメント (4) | トラックバック (1)

2010.08.08

[書評]ギリシア神話の語り:ブルフィンチや斉藤洋

 団塊世代の下になる私の世代までだと、ギリシア神話といえば、トーマス・ブルフィンチ(Thomas Bulfinch)がまとめた"The Age of Fable, or Stories of Gods and Heroes"の訳本が定番ではないだろうか。タイトルの直訳は「寓話の時代:神々と英雄の物語」だが、日本では「ギリシア・ローマ神話」となっていた。私は中学生のとき、角川文庫のけっこう分厚い本で読んだ。辞典のようにも利用できるのが便利だった。
 今でもあるのかと調べると、ある。上下巻に分かれるが「完訳 ギリシア・ローマ神話」(参照上巻き参照下巻)となっている。映画「トロイ」(参照)がきっかけで復刻したようだ。
 他に岩波文庫のがあったはず。調べると、こちらも、ある。一冊にまとまった「ギリシア・ローマ神話―付インド・北欧神話 (岩波文庫)」(参照)である。
 角川文庫の訳は昔と変わらず大久保博、岩波文庫もお馴染みの野上弥生子。野上のほうの訳のほうが古いはずで、調べてみると最初の翻訳は1913年。これには夏目漱石が序文を書いている。漱石も読んだのだろう。大正・昭和に日本人に読まれたギリシア神話というのは野上のブルフィンチだったのではないだろうか。もちろん、「荒城の月」の格調をもつ土井晩翠の詩文訳も有名だ(参照参照参照)。
 大久保・野上の他に新訳があってもよいようにも思うが、ざっと見たところ見つからなかった。もともとブルフィンチも子ども向けとまではいえないが、当時の一般向けに書いた簡便な解説書でもあり、原文の英語もそう難しくもない。これも探すと挿絵付きの"The Age of Fable"(参照)が無料公開が見つかる。
 ブルフィンチは1796年にマサチューセッツ州で生まれ、1867年、71歳で亡くなった。黒船を引いて日本に開国を迫ったペリー提督ことマシュー・カルブレイス・ペリー(Matthew Calbraith Perry)が1794年生まれ、1858年没なので、ブルフィンチと同時代の人と見てもよいだろう。ちなみに、ブルフィンチの父、チャールズ・ブルフィンチ (Charles Bulfinch) は著名な建築家でアメリカ合衆国議会議事堂の設計にも関わっている。ということは、メーソンリーかなと思ってざっと調べてみたがわからないようだ。
 「寓話の時代」が出版されたのは1855年。ギリシア・ローマ神話に模してアメリカの女神をジョン・ガスト(John Gast)が「アメリカ的進歩(American Progress)」(参照)で描いたのは1872年なので、ガストもブルフィンチの作品を読んでいた可能性は高い。
 日本での訳書に戻ると、ブルフィンチを継ぐような形でよく読まれたのがイリアスやオデュッセイアも訳した呉茂一の「ギリシア神話」(参照上巻参照下巻)だった。そういえば呉先生のラテン語入門(参照)も懐かしい。
 ギリシア神話学といえば、カール・ケレーニイ(Karl Kerenyi)が日本で注目されるようになったのも1970年代で私は当時の現代思想の特集を持っている。ケレーニイにも入門的な「ギリシア神話 神話の時代」(参照)と「ギリシア神話 英雄の時代」(参照)があるがあまり読みやすくはない。
 ギリシア・ローマ神話はある意味、気軽に読めたほうがいいという面もあり、漫画でもないのかと探すと、知らなかったが里中満智子(参照)やさかもと未明(参照)が書いている。絵にちょっとクセが強そうな感じはしないでもない。そういえば天上の虹はどうったんだろうか、と見ると、ありゃまだ完結してないのか(参照)。終わったら大人買いするかな。

cover
ギリシア神話
トロイアの書
斉藤洋
 つらつら思い出したり関連の書籍を見ているうちに、斉藤洋のギリシア神話を思い出した。子ども向けに書かれているとはいえ、あのエレガントな語りでトロイを読んでみたいものだなと思い、「ギリシア神話 トロイアの書(斉藤洋)」(参照)を読んでみた。さすがに面白い。当然ながら人物関係と神々が多く、そこが多少読みづらいのだが、それでもかなりすんなりと読めるし、アテネ神に視点を置いているのもわかりやすさにつながっている。ギリシア神話と限らないのだが神話には現代人からすると理解しづらい思考形態がある。そうしたところに、ふとアテネ神扮する斉藤洋がつぶやく。

 こう物語ってくると、すじみちがとおっているようだが、わたし自身、ひとつ心にひっかかるものがある。


 そのことについて、あれこれ考えをめぐらせると、わたしは、じつはこうではなかったのかと思う。

 独自のヘンテコな解釈をするわけでもない。物語に現代的な整合を与えるだけということもない。こっそりと読み手の子どもにギリシア神話を考えさせようとしている。斉藤洋には、他の作品でもそうだが、物語の面白さというものの背後にこっそりとメタ物語の視点を忍び込ませている。ギリシア神話もそうした新しい視点から子どもに読ませることができるという点で、こうした語り手をもつ日本語の文化は強いものだなと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

« 2010年8月1日 - 2010年8月7日 | トップページ | 2010年8月15日 - 2010年8月21日 »