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2010.07.24

インフルエンザと結核の昔話

インフルエンザは宇宙からの影響力?
 インフルエンザにもう少しこだわる。インフルエンザ(Influenza)という言葉は、18世紀にイタリア語から英語に入ってきた外来語だが、意味は英語の"influence"(影響)と同じ。現代人からすると、インフルエンザはウイルスの影響と考えたいところだが、当時はなぜか宇宙にある天体の影響と考えられていた。
 インフルエンザ(Influenza)という言葉が英語に入ったのは1743年のこと。全欧を覆った流行性感冒が"influenza di catarro(咽喉・鼻粘膜炎症のインフルエンザ)"と呼ばれた。人間の病気が、天体によって起こるという考え方は現代からすると奇妙だが、当時は広く受け入れられていたようだ。
 典型例には、1493年にスイスのアインジーデルンで生まれたパラケルスス(Paracelsus)の医学論がある。彼は各種の病気は、天体がもたらす毒が原因だとし、また身体は天体や金属と調和していると考えた。呪術的な医学観に過ぎないが、病気の原因について外在的な要因と内在的な要因の両面を総合して考えていた。
 18世紀になってもインフルエンザの理由は、季節的な流行から天体の影響と見なされていたようだ。しかし18世紀末からの英雄的治療では、瀉血や瀉下によって身体内の毒を排出することが治療になるという考えで行われたものだが、内在的な病因への重視である。パラケルスス的な医学観の一面でもある、身体内の毒という内在的な要因が重視され、天体といった外部の要因は切り離された。

ベルナールに始まる近代医学と時代精神
 英雄的治療時代が終わり近代的な医学が始まるのは、1865年にクロード・ベルナール(Claude Bernard)が「実験医学の原理(ntroduction a L'etude De la Medecine Experimentale)」(参照)を著したころからである。フランス、ローヌ地方で1813年に生まれた彼は。人間を実験可能な対象とすることで近代医学を切り開いた。
 背景には、彼がデカルトを重視ししたように、人間を一種の機械と見る身体観があった。反面彼は、生体の独自性について内部環境(Milieu intérieur)という概念も考慮していた。その着想にはヒポクラテス以来の四体液説があり、パラケルスス的な考え方の残滓もあったかもしれない。
 ベルナールの内部環境という考え方は、後の時代にホメオスタシスとしてまとめられていくが、彼自身はそれとはやや違った考え方をしていたようだ。実験的な方法論を重視することで、生体が機械論として捉え切れない現実に直面し、困惑していたのではないだろうか。現実的には、病因と疾病の関係は、原因と結果の関係として直接的にはつながらない。確率的なつながりをしている。彼はこれを医学実験の平均値という考えでまとめられていく。現代医学のEBM(evidence-based medicine:証拠に基づいた医療)の考え方に近い。
 ベルナールが切り開いた実験医学の歴史は、ベルナールの密かな困惑とは別に、病因の外在論に傾いていく。1862年、彼はルイ・パスツール(Louis Pasteur)とともに低温殺菌法(パストリゼーション:pasteurization)の実験を行い、腐敗・発酵という現象が細菌といった外在因子によることを証明した。これらの現象を病気と見なせば、やはり病気は細菌など外部の要因によると考えられた。
 パスツールはこの業績を元にやがてコッホと並び現代細菌学の父と呼ばれるようになるが、彼の思惑は、1861年の「自然発生説の検討」(参照)に見られるように、生気論の撲滅であった。アリストテレス以来、西洋では生命の自然発生説が唱えられていたものだった。関連して興味深いのは、ほぼ同時代この時期、1859年に、チャールズ・ダーウィン(Charles Robert Darwin)の「種の起源(On the Origin of Species)」が出版されたことだ。キリスト教的な創造論に対しても近代世界は反論を提出しはじめていた。
 現代世界から見ると、パスツールにもダーウィンにも「遺伝」という共通の概念がありそうだが、1865年に発表されたメンデル(Gregor Johann Mendel)の遺伝研究が実際的に知られるようになったのは20世紀に入ってからである。パスツールやダーウィン時代では、遺伝の因子は、現代とは異なり、パラケルススのホムンクルス(Homunculus)や、あるいは病気をもたらす細菌のようなものとして理解されていたのではないだろうか。

細菌学を切り開いたコッホ
 生命は無からは発生しない。病気は外在的な病原体から発生する。こうした自然観が19世紀半ばに確立し、医学もこれに基づいてコッホ(Heinrich Hermann Robert Koch:1843 - 1910)が推進した。
 コッホは、1876年、後にコッホの原則を満たすものとして炭疽菌を発見し、各種の病因に細菌が存在することを証明した。と同時に、各種の病気の原因は細菌ではないかと見なされる時代が続き、インフルエンザをもたらす「インフルエンザ菌」や脚気をもたらす「脚気菌」といった医学の間違いも発生した。「脚気菌」はまったくの幻想であったが、インフルエンザ菌はインフルエンザの病原体ではないものの、髄膜炎を起こす病原体として注視されるようになり、日本の社会では今なお現在の問題でもある。
 細菌学が19世紀末の医学を変容させていくなか、当時の世界がもっとも重視したのが、多数の死者を出す、死病ともいえる結核であった。結核菌もまたコッホが発見したものである。1882年3月24日の「結核の病因論(he Aetiology of Tuberculosis)」によって証明された。これを記念して3月24日は世界結核デーともされている。しかし、結核菌の存在が確定されても、結核の有効な治療はなかなか可能にはならなかった。
 かくして19世紀後半になり、コッホを擁したドイツでは優生学が興隆し始める。これは細菌学の逆説でもあった。細菌学が進展するなか、「インフルエンザ菌」や「脚気菌」といった医学の間違いもだが、細菌学の考え方の枠組みが疑問視されるようになってきた。特に結核菌に顕著だが、感染者が診断されるほどには結核を発症しない人が増えていった。

グロートヤーンの優生学
 病因としての細菌に間違いはないのだが、なぜ感染者には発症する人と発症しない人がいるのだろうか? ベルナールの疑問と相似的な疑問でありながら、優生学誕生に寄与したグロートヤーン(Alfred Grotjahn:1869 - 1931)は、これに社会的要因と遺伝的要因を組み込んだ。社会的な限界に加え、彼は「その限界は、肺結核が発症しやすい体質において見い出すことができ、この体質はここでもまた多くの場合、遺伝による身体の低価値にもとづいている」とした。社会的な要因はある意味で可視だが、それ以外の病因は遺伝という概念に帰着されていった。
 グロートヤーンの考えは1930年代には衰退していく。彼の死が衰退の原因ではない。「優生学と人間社会」(参照)は経緯をこう述べている。


 肺結核の発症を遺伝に結びつける、グロートヤーンの先のような主張が、特効薬ペニシリンによって肺結核が十分治療可能なものとなる三〇年代以降、影をひそめるようになるという事実は、かつて遺伝概念が担っていたそうした機能をよく物語っている。
 そして、優生学の課題は、遺伝として説明された不治の病や障害をもつ人びとがその生命を再生産する回路を、何らかの方法で遮断することによって、彼らの病や障害そのものを将来社会から根絶することに、求められたのである。

 ここに錯綜した問題が潜んでいる。

ペニシリンとストレプトマイシン
 単純なところでは結核を治療可能にしたのはペニシリンではなくストレプトマイシンであり、年代も混乱している。フレミング(Sir Alexander Fleming)が、1928年、ペニシリンを発見したのは偶然であった。彼は黄色ブドウ球菌を培養したペトリ皿の滅菌に失敗しカビを生やしてしまったが、たまたまそれを観察すると、カビが黄色ブドウ球菌の繁殖を阻止していることに気がついた。翌年これをまとめて発表した。抗生物質の発見と言われる。が、異論もある(参照
 発見されたペニシリンだが彼はこれを治療用に精製する手法を見つけることはできなかった。精製が可能になったのは、発表から11年後の1940年、英国オックスフォード大学の化学者ハワード・フローリーとエルンスト・ボリス・チェーンの研究による。1940年代以降、ペニシリンが臨床で利用されるようになった。
 肺炎にはペニシリンが有効だったが、結核には効かなかった。1943年、結核に効く抗生剤としてストレプトマイシンを発見したのは、ラトガース大学のセルマン・ワクスマン (Selman Waksman)であった。実際には彼の指導にあったアルバート・シャッツ(Albert Schatz)であり、もめた(参照)。
 ペニシリンが臨床で利用され肺炎治療に利用されるようになったのは1942年以降、ストレプトマイシンで結核が治療されるようになったのは第二世界大戦後と見てよい。また、抗生物質の登場によって長時間にわたる外科手術が可能になり、これらが戦争時の負傷者にも適用された。

健康と栄養の登場
 グロートヤーンの優生学の主張が1930年代以降影を潜めるとしても、ストレプトマイシンによる結核治療がきっかけではない。では、結核と優生学の関係はどのようなものだったのだろうか。二点ありそうだ。
 まず、1930年代以降の優生学的主張が障害者などの断種として実現してきたことは確かである。これは遺伝の因子が人間種に対する病因のように設定されたことを意味する。これは病因としての細菌の延長としての遺伝因子はないだろうか(もちろん遺伝子はまだ発見されていない)。
 もう一点は、グロートヤーンの優生学主張が、優生学という文脈をしだいに離れて「健康」という概念を生み出していくことだ。あるいは「健康」という概念に優生学の一部が統合されていったのではないだろうか。有名なことだがナチスは非常な健康国家であり、今日の先進国の先駆として国家規模での禁煙を実施していた。
 さて、第二次世界大戦後のストレプトマイシンの登場によって結核は撲滅したのだろうか。たしかに、結核は治療可能な病気になった。しかし全体的に見たとき、結核を現代社会から追い出したのは、抗生剤ではなかった。
 ストレプトマイシンを発見したワクスマンの高弟でもあるルネ・デュボス(René Jules Dubos:1901-1982)が1960年に来日公演をした際、聴衆にこう問いかけた、「この数年で日本人の結核死亡率が激減している理由は何だかと思いますか?」 聴衆はストレプトマイシンやツベルクリンとBCGの体制を想起した。彼はこう答えた、「栄養の改善です」。

統計的に結核死亡率を見ていくと
 まさか。しかし、ストレプトマイシンに確かに効果があるとしても、くじ引きで安静にのみしていた群でも回復しているとする研究(BMJ 1998;317:1248)もあった。ストレプトマイシンに焦点を当てても、それが決定的な要因だったとも言い切れない。ツベルクリンとBCGの体制はもっと疑わしい。もっとも効果があると見られる乳児で25%ほど発生率を抑える。1996年から1999年と近年になるが、乳児の結核発生は220人ほどで死者は1人ほど。BCGを100万人体制で接種してもおそらく死者が1人増える程度だろう。
 統計的に結核による死亡率を見ていくと、英・独・仏では19世紀初頭からただ単調にだらだらと減少しているだけで、コッホによる結核菌の発見も、ストレプトマイシンも、BCG導入の影響も見られない。逆に国民の身長は伸び始めている。要因として考えられるのは、やはり栄養しかない。(詳細に見ると、15歳から44歳までの英国女子の死亡率には抗生剤の影響がある。)
 デュボスによれば、歴史を見ていくと、人類は一度は結核をそれなりに抑え込んでいたが、これが再発するのは産業革命に沿って工場労働者が増えたからだったという。密室での集団行動が結核を蔓延させていた。デュボスは述べていないが、これに学校を加えてもよいだろう。
 近代国家が人びとを労働者として国民として徴集(ゲシュテル)したとき、自然(ピュシス)の力である結核も徴集された。そして徴集された近代の技術が結核という自然を打ち破ったかに見えたが、実は近代医学と細菌学の進展は、実はその徴集の随伴的な事象であった。
 抗生物質の登場で細菌性の病気は克服可能になったが、これもまた大きな流れで見れば、自然の力に勝利したわけではない。抗生物質を使うほどにその効き目は落ち、自然界に抗生物質をまき散らし、耐性菌を増やした。肺炎によく利用されたマクロライドという抗生剤は世界的に耐性菌が多く出現した。米国ではその耐性菌は20パーセント、ドイツでは10パーセント、南米では15パーセント。日本では、80パーセント。

参考
「優生学と人間社会(米本 昌平、ぬで島 次郎、松原 洋子、 市野川 容孝)」(参照
「クスリ社会を生きる(水野肇)」(参照
「医原病(近藤誠)」(参照
「麻疹が流行する国で新型インフルエンザは防げるのか(岩田健太郎)」(参照

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2010.07.23

インフルエンザ菌を巡る話

 昨日のエントリ(参照)で一個所だけ「インフルエンザ菌」という言葉をそのままの形で入れておいた。「それは倫理性を単純に相対化するということではない。著者のインフルエンザ菌の予防接種の見解にも表れている」という部分だ。「インフルエンザは菌ではなくウイルスですよ」というご指摘が入るかもしれないとは多少思った。
 細菌とウイルスを混同する人は少なくない(参照参照)。私もよく事実認識の間違いや誤字脱字をする。幸い、この点ご指摘をいただいたが、この部分は、該当書「感染症は実在しない―構造構成的感染症学(岩田健太郎)」(参照)をそのまま受けたものだった。


 子どもの命は貴重ですが、リスクを無くすことはできません。しかし、明らかなリスク減少効果をもたらす医療行為もあります。

 明らかなリスク減少効果をもたらす医療行為には、乳児ビタミンK欠乏性出血症の予防の目的で処方されるK2シロップなどもあるが、同書では予防接種を挙げ、この文脈にインフルエンザ菌を置いている。

それが予防接種です。特にインフルエンザ菌、麻疹、水痘の予防接種などは小児の死亡を減らす効果が示されています。


 私はインフルエンザ菌の予防接種を推奨しており、日本でもっときちんと接種されるべきだと思っています。

 この「インフルエンザ菌」がインフルエンザのウイルスを指していないことは後続の文脈でわかる。

それは、物言わぬ小さな子どもが細菌性髄膜炎や急性喉頭蓋という死に至る病気で死んでしまう理不尽が、私の価値観では容認できないからです。

 同書では、インフルエンザ菌がもたらすものに細菌性髄膜炎が明記されていることから、明白にインフルエンザ・ウイルスの誤記ではない。
 インフルエンザ菌は、Hib(ヒブ)とも呼ばれるHaemophilus influenzae type bを指している。インフルエンザ菌には、インフルエンザという名前が付いているものの流行性感冒をもたらすインフルエンザとは直接関係はない。1892年にリチャード・ファイファー(Richard Friedrich Johannes Pfeiffer)が当時のインフルエンザの原因として分離し、発見したとされている。異論もあり、ファイファーと同年に北里柴三郎も分離している(参照)。その後、インフルエンザ菌はインフルエンザの病原体ではないことが明らかになったが、当時のままインフルエンザの名前が残った。誤解しやすいため、最近ではメディアでも「ヒブ」または「ヒブ(Hib)」の名称を取ることが多くなりつつある。
 インフルエンザ菌による細菌性髄膜炎の患者数は、2009年時点で日本国内で年間約600人ほどいて、乳幼児、特に1歳未満の乳児の発症が多い。罹患者の5%が死亡し、25%に発達遅滞や聴覚障害などの後遺症を残す。概算すると日本国内で毎年30人ほどがインフルエンザ菌のもたらす細菌性髄膜炎で亡くなってきたことになる。この大半はインフルエンザ菌のワクチンを制度化することで防げると見られる。なお、細菌性髄膜炎の3割は肺炎球菌によるものである。
 米国では、ほとんどの子どもがインフルエンザ菌b型ワクチンの接種を受けているため、この菌がもたらす被害は最小限に抑えられ、髄膜炎の患者数が100分の1にまで減少した。1998年に世界保健機関(WHO)が定期予防接種を推奨したこともあり、世界的には133か国で定期接種化されている。
cover
細菌性髄膜炎から子どもたちを守る会
 日本では、1998年のWHOの推奨から遅れ、2003年3月にインフルエンザ菌のワクチンの新薬承認を国に申請した。その後も手間取り、承認されたのは2007年1月である。2008年12月からは任意接種可能となっている。現状、約60ほどの自治体が公費助成を行っている。
 ワクチン接種は、標準的には、生後2か月から7か月未満までに始める、4週間から週間隔で3回接種を受け、さらに1年後にもう1回の計4回の接種を受ける。接種した部分に24時間以内に赤い腫れができることがあるが、発熱など全身の副作用は少ない。詳細な情報は「細菌性髄膜炎から子どもたちを守る会」(参照)が参考になるだろう。
 雑談的な話に戻る。
 現代医学からすれば明白なことだが、インフルエンザは、インフルエンザ菌によってもたらされるものではなかった。確かにインフルエンザ菌なる菌は分離・発見されたが、それはインフルエンザの病原体ではなかった。では、ファイファーや北里によるインフルエンザ菌の発見の意味は何なのだろうか?
 細菌性髄膜炎をもたらす病原菌が発見されたのだから、医学的な意味は大きいと言えないことはないが、インフルエンザという文脈では、ファイファーや北里は間違っていたことになる。医学史によくある間違いでもある。私はこの歴史で重要なことは、病原体なら細菌に違いないと認識されていた時代があったことだと考えている。細菌医学の時代と呼んでもよいかもしれない。
 端緒となるのは、1850年以降、英雄的治療が終息した時代に置かれる、1876年のコッホによる炭疽菌の発見である。ここから細菌医学のパラダイムが起こり、大きく進展した。病気の原因とされる病原体を同定するには、コッホの原則が重視された。インフルエンザ菌にもコッホの原則が適用されたが、その解明は容易ではなかった。
 1918年にインフルエンザのスペイン風邪が大流行したときでも、医師たちはインフルエンザ菌がインフルエンザをもたらすと考えていた。だが、動物実験で細菌を遮断しても空気感染が起きることがわかり、インフルエンザ菌が病原体であることへの疑問が生じた。インフルエンザの病原体がウイルスであることが特定されたのは、1933年になってのことだった。
 感染症には細菌の病原体があるに違いないとする細菌医学の時代がもたらした同時期の象徴的な間違いには「脚気菌」もある。ベルリン大学でコッホの弟子フリードリヒ・レフラーに細菌学を学んだ緒方正規は、1885年(明治18年)に脚気病原菌説を発表した。緒方は、死亡した脚気患者から分離・発見した細菌を動物に接種し、下肢の知覚麻痺を得たとした。緒方とは別にオランダのペーケルハーリング(Cornelis Adrianus Pekelharing)も細菌感染として「脚気菌」を想定していた。なお、彼の助手がエイクマン(Christian Eijkman)である。
 ペーケルハーリングが「脚気菌」と想定した球菌は、後に北里によって、脚気とは関連のないブドウ球菌であることが確認され、また緒方も晩年は「脚気菌」が誤りであることを認めたが、1907年に陸軍の医務局長に就任し、脚気細菌説を採った森林太郎は終生、脚気を細菌性の伝染病だと想定していた。
 病因に関与しない医学史上の誤りという点だけ見れば、インフルエンザ菌と実在しなかった「脚気菌」とは似ている面がある。前者の場合、それがインフルエンザとは異なる深刻な疾病をもたらすことと、インフルエンザの病原体がウイルスに特定されたことで、インフルエンザという疾病の問題は解決された。後者の脚気の場合は、それをもたらすウイルスも存在せず、この問題は、医学のパラダイムを変え、そもそも病原体は存在せず、ビタミンB1という特定の栄養素の不足がもたらしたものして理解されるようになった。
 このような感染症の病原体を特定には、次のようなコッホの原則(Koch's Postulates)を現代から顧みると興味深い。

  1. ある一定の病気には一定の微生物が見出されること
  2. その微生物を分離できること
  3. 分離した微生物を感受性のある動物に感染させて同じ病気を起こせること
  4. そしてその病巣部から同じ微生物が分離されること

 インフルエンザ菌も幻の「脚気菌」も当初はこの原則を満たしていると思われたが、後の研究で原則を満たさないものとして排除された。しかし、現代の微生物学では、コッホの原則は疑問視されている。「感染症は実在しない」(参照)ではそのようすをこう説明している。

 先に紹介したコッホの原則は、感染症の原因微生物を特定するのに十分な条件ですが、必ずしもいつも使える条件とは限りません。コッホは炭疽菌という細菌でこれを実験的に証明したのですが、実は炭疽菌はこの条件を満たせる便利な(そしてまれな)微生物だったからOKだったのです。実際には、コッホの原則を満たさない感染性微生物もたくさんあるのです(後でそういうことがわかってきました)。コッホが自分の原則の確立に炭疽菌を使ったのは、ラッキーだったのですね。

 感染症ではないが、Aspergillus(アスペルギルス)属菌の真菌は毒性の強いアフラトキシン (aflatoxin) を生み出す。食物に有毒物質を生成する真菌が発生すると、集団的な中毒が発生する。真菌が特定されないとその集団内では伝染病のような様相を示すこともある。しかし、コッホの原則に合わない感染症や真菌のもたらす疾病は、細菌医学が興隆していた時代には十分に解明されていなかったようだ。
 医学史の流れで見ていくと、1780年から主流の医学であった英雄的治療が1850年代に終わりを迎え、麻酔による外科治療と、細菌医学が興隆した。その後は、細菌によって特定されない病理を追求するかたちで、病原としての遺伝が注目され、そこから優生学が生まれてくる。

参考
「予防接種は安全か―両親が知っておきたいワクチンの話」(参照
「感染症は実在しない―構造構成的感染症学(岩田健太郎)」(参照
「優生学と人間社会 ― 生命科学の世紀はどこへ向かうのか(米本昌平、橳島次郎、松原洋子、市野川容孝)」(参照

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2010.07.22

[書評]感染症は実在しない―構造構成的感染症学(岩田健太郎)

 「感染症は実在しない」(参照)とは刺激的なタイトルであり、また前半は修辞的な議論が饒舌に展開するきらいはあるが、内容はいたって正統的な医学的な立場で描かれ、著者の履歴からもわかるように米国標準の臨床も批判的に踏まえている点で、今後の日本の臨床のありかたを展望する内容となっている。日本の医療がどうあるべきかに関心をもつ人には、必読とまでは言えないものの、多くの示唆を得ることができるだろう。また、一般向けに書かれている本ではあるが、実は医療関係者にこっそりウケのよい書籍ではないかとも思えた。

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感染症は実在しない
構造構成的感染症学
岩田健太郎
 本書での、感染症は実在しないということは、端的に言えば、感染症というのは現象であるということで、細菌やウイルスが実体的に存在しないという話ではない。
 興味深い例が書かれている。2009年、日本の社会で新型インフルエンザが流行したとき、通常なら季節型のインフルエンザは終わる時期なのに、報道などではこの年は異例にインフルエンザが流行していると語られたものだった。ところが、著者のグループは片っ端から患者さんの喉や鼻をRT-PCRという手法で調べてみた。

 2009年5月のことです。もうインフルエンザは流行していない、と考えられている季節です。初夏ですから。ところが、出るわ出るわ、探してみたら、たくさんの患者さんから、新型インフルエンザではなく、従来型の季節性インフルエンザが検出されたのでした。しかも、その多くは迅速検査で陰性だったのでした。2009年だけ特別、季節性インフルエンザが初夏に流行ったのではありません。いままで、初夏にインフルエンザ検査をした医者がいなかったのです。

 こうした事例が象徴的だが、感染症は実在しないということは、感染症という症状、つまり現象を起こすには、その背景としての関係性や基準・視点が重要になるということでもある。
 実在と現象の扱いは、本書では、哲学の現象学のごく基本的な枠組みが修辞的に展開されているのであって、病理医や臨床医にとっても、個別例における最新の知見を除けば、言い方によっては「そうも言えるかな」というくらいものもあった。
 むしろ、こうした臨床における現象面から見た医学というものの基本的な構図は、一般社会における、病気や健康という日常生活的な理解・受容や、さらには日本のマスコミにおける感染症を含め、各種疾患に対する報道といったものとの対比のなかで、違和感をもって浮き立ってくる。そこが本書の結果的な面白さでもあり、現代医学がより臨床面において市民社会に語りかける必要があることも示している。
 本書では、構成がやや散漫になり、興味深いが雑学的な挿話が続く後半部に、その側面、つまり、臨床医は率直に医療の事実を語り、市民に選択を委ねましょうという表明に、医療と市民関係への新しいあり方がよく示されている。本書の真価は、池田清彦的な構造主義生物学的な医学の見直しというより、臨床医の新しい市民社会への語りかけの態度にある。
 その象徴的な挿話がある。著者がニューヨークで臨床医をしていたおり、レズビアンでエイズ患者、さらにPMLという脳の病気、リンパ腫というがんの一種、肺炎など合併症の患者を診ながら、その喫煙を黙認していた話だ。

 この方が、「こんなつらいことばかりの人生だけど、タバコだけがあたしの楽しみ」と一日一箱吸っていたのでした。私には「からだに悪いから、タバコはやめなさい」とはとても言えませんでした。通俗的には人間の幸せの根拠となる事物をほとんどすべて失ってしまった彼女にとって、タバコはただひとつ残された幸福の源泉のように見えたからです(もちろん、非通俗的には彼女は大切なものを他にもたくさんもっていましたが。例えば、エイズという病気を持ってそれとまっとうに対峙していることなど)。医療を患者さんの目的・関心から逆算した価値との交換作業であると解釈すれば、この方にとっての喫煙指導は意味の小さいものであると感じたのでした。

 おそらく、日本の臨床の現場でも同じようなことはあるだろうし、そうしたなかに臨床というものの本質があるのだろう。こうした許容性の社会的な意義については、長寿化していく日本社会では、対話を通して意味を変えていかなければならない点も多いだろう。著者が言うように、「医療は総じてリスクとの価値交換」ということだ。
 それは倫理性を単純に相対化するということではない。著者のインフルエンザ菌の予防接種の見解にも表れている。

 ほとんどの親は、自分の子どもが「予防できるはずの病気」で死んでしまうことを容認しないでしょうし、子どもだってそんなにぽっくり死にたくはないでしょう。だから私は予防接種を薦めるのです。

 同じことが生死に関わる標準医療について言える。重要なのは、こうした医療のもつ意味を市民社会に情報公開を通して伝えることにある。
 民間医療についても、ただ否定するのではなく、二つの条件として提示している。

条件その1 「何にでも効く」「絶対に効く」と主張している療法は信用しないほうがよい。


条件その2 成功例しか示していない療法は信用しないほうがよい。

 そうであろうし、著者も「これらの条件を満たすことを義務化したら、世にある民間医療の大多数は消滅する可能性が高いと思います」と見ているが、そこでも市民社会への委託の原理性のようなものは維持されている。非正統医療である漢方についてこう述べている部分に反映されている。

 とはいえ、漢方薬がダメだと私は主張する気はありません。現段階で漢方薬が医療においてどのくらい貢献してくれるものなのか、私にはわかりません。この「わからない」という謙虚な認識こそが大事なのだと思います。

 そのあたりの「わからない」は、医学の科学的側面の謙虚な限界であるというより、市民社会の許容部分でもあるだろう。
 と同時に、栄養維持が可能になり高度な医療が可能になった豊かで長寿の日本社会では、医療は、前近代的な致死性の疾病に対する国民厚生よりも、個人がよりよく生きる限界を補助するようなビジョンが求められる対象になってきている。
 そうした未来の医療の感覚を内面化していく著者のような新しい医師も増えてくるのだろうし、臨床を通して市民社会側から対話していく必要性の場も増えてくる。本書はその先駆けのようにも見える。

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2010.07.21

カイロプラクティックと米国社会

 余談のような話になるが、カイロプラクティックと米国社会について、ごく一面ではあるものの、補足的に述べておきたい。
 カイロプラクティックは (Chiropractic) は、各種の疾病が椎骨の構造的・機能的な歪みにあるとし、その調整によって治癒を試みる治療法である。1895年に、ダニエル・デビッド・パーマー(Daniel David Palmer)が創始した。彼は、カナダ、トロント近況に生まれ、後、米国に居住した雑貨商で、医学的な背景はない。
 さて、先日のエントリー「オステオパシー(Osteopathy): 極東ブログ」(参照)に、こんなはてなブックマークのコメントが付いていた(参照)。


rhatter せいぜい善意の詐欺師にすぎない「偽医学」者を、正統医学からの「攻撃」の被害者みたいに語る翁の心情にはとても深遠なものがありそうだ。 2010/07/20 ★(naya2chan)

 「翁」というのは若い人から見て年食った私への愛称みたいなもので、私の心情に「とても深遠なものがありそうだ」と察してくださっている。
 コメントはご勝手にどうぞではあるが、当の本人としては、さしたる深遠もない。ネガコメと言われる一種の中傷・罵倒に近いものかもしれないが、もしかすると、アンドリュー・テーラー・スティルを「せいぜい善意の詐欺師にすぎない「偽医学」者」とみなさないことは、よろしくない、ということなのかもしれない。
 そうだとするとエントリーが言葉足らずだったかもしれない。D.O.(Doctor of Osteopathic Medicine)が米国で正規の医師の学位となっている現状、その創始者を「詐欺師」「偽医学」と見る人は米国では少ないのではないかと思う。歴史にはその進展の段階が存在し、現在から振り返り過去が稚拙であったとのみ断罪しがたいことは、正統医学における英雄的治療への評価なども含めた総合性からも理解しやすい。
 連想して思うことがあった。「代替医療のトリック(サイモン・シン、エツァート・エルンスト)」(参照)で、カイロプラクティックの創始者、D.D.パーマーの死について、こう述べていることだ。

 D.D.パーマーが活動できなかったとき、カイロプラクティックを広めたのは息子のバートレット・ジョシュア・パーマーだった。このB.J.パーマー自身、ダヴェンポートではじめて自動車を購入するほどの成功を収めたが、不運にも、一九一三年にパーマー・スクール・オブ・カイロプラクティックで父親の出所祝い行われた際に、祝賀パレードで父親を轢いてしまった。D.D.パーマーはその数週間後に死亡した――公式には、死因は腸チフスとされているが、息子の車に轢かれたケガが直接的な原因で死んだ可能性が高い。実は、これは事故ではなく、父親殺しだったとの見方もある。父と息子とは、カイロプラクティック運動の主導権をめぐって激しく敵対するようになっており、またB.J.パーマーは、父親の家族に対する仕打ちに怒り、つねづね父親と対立していた。

 カイロプラクティックの創始者D.D.パーマーが息子と対立していたというのはそのとおりであり、この文脈の後には息子が子供のとき父からニグレクトされた手記も続く。だが、事実はどうなのだろうか。また父親殺しという見方はどの程度公正だろうか。
 サイモン・シンとエツァート・エルンストの同書の文章からは、自動車で轢いたは意図的で、その背景に「父親殺しだったとの見方もある」としているが、どうなのだろうか。そういう見方もあるのは私も知っているが、この文脈は誘導的な印象を持った。
 この記述に違和感を持ったのは私だけではなかった。ウィキペディアのD.D.パーマーの死についての項目に、同書の見解への言及がある(参照)。
 「との見方もある」というのであれば、D.D.パーマーが息子に轢かれたとする見方を、神話の類ではないかとする見方もある。カイロプラクティック支持者側の意見ではあるのだが参考にはなる(参照)。チャイロは、父D.D.パーマーのことである。

Myth 4. Old Dad Chiro died of auto injuries sustained when B.J. Palmer attempted patricide: This contention is absurd in several respects.

神話4:老父チャイロが自動車事故で死んだのは、B.J.パーマーが父親殺しを試みたからだ。この主張はいくつかの視点でバカげています。

Firstly, we know that Dad Chiro's death certificate indicates typhoid fever as the cause of death (Gielow, 1981); I am unaware that trauma is considered an etiology for this disorder.

第一に、老父チャイロの死亡診断書には死因は腸チフスと示されています (Gielow, 1981)。精神的外傷がこの疾患原因となるという話は聞いたことがありません。

We also know that Joy Loban, DC, executor of DD's estate, voluntarily withdrew a civil suit claiming damages against B.J. Palmer, and that several grand juries repeatedly refused to bring criminal charges against the son.

また、D.D.パーマーの遺言状執行人であるジョイ・ロビンDCが意図的にB.J.パーマーに対する損害賠償の民事訴訟を引っ込めたことや、息子に対する刑事訴訟に持ち込むことを繰り返し拒んだ陪審員がいたことも私たちは知っています。

More importantly, the claim of patricide is absurd on its face. If BJ had desired to murder his father, why do it at the front of a parade with many witnesses?

より重要なのは、父親殺しという主張がばかげているのは当たり前だということです。もし、BJが父を殺したいなら、なぜそれを多くの目撃者のいるパレード前面で実行するのでしょう。

Lastly, Dr. Carl Cleveland Jr.'s grandmother, Sylva L. Ashworth, DC, a 1910 graduate of the PSC, related to Carl that she had been there on that fateful day in August 1913, had witnessed the events, and recalls that DD was not struck by BJ's car, rather, that the founder had stumbled and that she had helped him to his feet.

最後に、カール・クレブランドJr医師の祖母であり、1910年PSC卒業生シルビア・L・アシュワースは、カールに対して、彼女はあの運命の日に立ち会い事件を目撃したと述べています。その記憶では、DDは車にぶつかったのではなく、この創始者は転んだとのことです。彼女は彼の足を補助しました。

So why has this myth persisted so durably? Perhaps because BJ gave the profession so many other reasons to dislike him, and some of us cannot resist finding homicide credible? Yet logic and the available facts really do not support the perpetuation of this myth.

ですから、なぜこの神話がしつこく主張されるのでしょう? たぶん、BJがしてきたことが理由で嫌われ、こいつなら殺人だってありえると思う人もいたのでしょう。しかし、その話の筋立てと、入手できる事実は、この神話が存続することを支持しません。


 この理屈でサイモン・シンとエツァート・エルンストが引いた「父親殺しだったとの見方もある」という見方が完全に覆せるわけでもない。
 だが、同書の描写と「との見方もある」の文脈はあまり公平とは言い難いように思う。特に、代替療法の批判者が公平でないと見なされるなら、その批判も割引きされて読まれてしまう懸念もある。カイロプラクティックには、首への施術など危険と見られる施術もあり、この危険を的確に指摘した同書には、より全体的に公平な記述が求められるだろう。
 もう一点、先のコメントには、「正統医学からの「攻撃」の被害者みたいに語る翁の心情」とあり、オステオパシーが正統医学からの攻撃の被害者とするのが不服のような印象も受ける。
 もしかすると、正統医学は他の医学を攻撃しないし、他の医学が被害者のように扱われるのはよくないという主張かもしれない。
 この点については、オステオパシーよりカイロプラクティックのほうが興味深い歴史がある。話は「代替医療のトリック(サイモン・シン、エツァート・エルンスト)」もあるが、正統医学からカイロプラクティックへの攻撃は、示唆深い裁判結果に終わっている。

 米国医師会は一致協力して、カイロプラクティックという職業を撲滅しようと反撃を続けた。ところが一九七六年に、医師会の運動は突如として裏目に出た。

 米国医師会が、患者の治療という市場を独占したがっていると独禁法で訴えられたのだった。現代日本人からすると非常識な訴訟のようだが、裁判は十年以上続き、一九八七年に結審した。同書はこう伝えている。

 裁判の証拠によれば、被告側はカイロプラクティック教育機関の評判を落とそうと、しばしば秘密裏に積極的行動をとり、カイロプラクティックの有効性に関する科学的根拠を隠蔽し、カイロプラクターの患者に対する保険プログラムを低く設定し、カイロプラクティックの有効性に関する政府の審判をくつがえし、カイロプラクティックという職業の信用を落とし、弱体化させるために膨大な偽情報を流すという行為に手を染め、この国の保健医療における医師の独占を保持するために、それ以外の無数の行動をとった。

 かくして米国医師会はカイロプラクティックに裁判で負けた。米国医師会は最高裁に上告したが、一九九〇年に棄却された。
 司法に従い、米国医師会は路線の変更を迫られた。米国医師会は会員に対して、カイロプラクターと共同作業しないようにという規定ができなくなった。
 現状、米国全州でカイロプラクティックが認可されている。保険についてもこの裁判の文脈からもわかるように、米国ではカイロプラクティックに保険が適用できる。なお、日本では、カイロプラクティックについては厚労省から「医業類似行為に対する取り扱いについて」として危険な手技の禁止が通知されているものの、法的な整備はされていない。保険もきかない。
 米国のカイロプラクティックはこうした経緯でその後、どう変化したか? 善意の詐欺師や「偽医学」の蔓延となっただろうか。
 現実には、概ね、創始者親子時代の珍妙とも思える主張は減り、正統医学にも配慮しつつ、市民社会に適合していく道を辿っていると見てよさそうだ。米国だと医療の規制緩和・市場原理が医療そのものを、より市民社会に適合させてしまう傾向がある。

参考
「代替医療のトリック(サイモン・シン、エツァート・エルンスト)」(参照
「人はなぜ治るのか(アンドルー・ワイル)」(参照
「アメリカ医師会がガイドする代替療法の医学的証拠―民間療法を正しく判断する手引き(米国医師会)」(参照

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2010.07.20

靈氣とレイキ

 ヒーリング系ミュージシャンのルエリン(Llewellyn)にReiki Gold(参照)というアルバムがある。聞いただけで、ああルエリンという癒し系のしろもので、アエオリア(Aeoliah)より線が淡い感じがするが、このアルバムのなかにちょっと変わったタイトルの5曲がある。


  • Just for Today I Will Not Anger
  • Just for Today I Will Not Worry
  • Just for Today I Will Be Grateful
  • Just for Today I Will Honour
  • Just for Today I Will Respect

 今日一日だけでよいから、怒らず、心配せず、謝念を持ち、といったことだ。オリジナルは慶応元年(1865年)に生まれた臼井甕男(うすいみかお)の五戒である。

今日丈けは
怒るな
心配すな
感謝して
業をはけめ
人に親切に

 甕男は、これを朝夕合掌して心に念じ口に唱えることが、招福の秘法・萬病の霊薬であるとした。
 それって宗教ではないのかと思うだろう。正確には、これは臼井靈氣療法と呼ばれる明治時代に誕生した民間医療の一環である。後に略して靈氣と呼ばれ、欧米に伝わってレイキ(Reiki)と呼ばれるようになった。主要な療法は患部などに手を当てることであるために、世界各国にあるタッチセラーピー系の伝統療法のように理解されている。
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Reiki Gold:Llewellyn
 臼井甕男は、岐阜県山県郡谷合村に生まれた。臼井家は平安時代の武家千葉常胤の後胤と伝わっている。甕男は、ご維新の動乱の後、様々な職を点々としつつ、人生とは何かと求道し続けた。渡米・中国遊学もしたとも言われ、キリスト教宣教師であったという伝承もある。そのほかにも、その手のけっこうめちゃくちゃな伝承もある。実際のところ、臼井甕男の人生の大半はわかっていない。
 甕男は、禅の道に求道しつつも、50歳過ぎまで悶々とした。おそらく碧巌録・大死一番からの決心であろうと思うが、大正11年(1922年)、56歳のとき京都の鞍馬山にこもり、悟りを得ずば決死とまでの断食を始めた。ちなみに、藤村操が「萬有の眞相は唯だ一言にして悉す、曰く、不可解」として華厳の滝に飛び込んだのが1903年、漱石の「門」が連載されたのが1901年。甕男もそうした青春を送りつつ、悟り至らぬ人生の末を思ったのではないだろうか。
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臼井甕男
 断食に入り3週間経った深夜、脳内に落雷のような衝撃を受け、意識を失った。翌朝気がつくと気分爽快にして霊力を得た実感を持った。たまたま転んで足指の爪を剥がしたが、手を当てるだけで治癒した。この手当てによって他の人も癒すことができるのではないか。試すと、できた。秘伝を体得した甕男は、これを世ため人のために使おうと、青山で臼井霊気療法学会を始めた。靈氣の開闢である。
 靈氣の起源はこの神秘体験によるのだが、私は自分なりにこの逸話を追ってみた印象では、一種の道教と修験道の混合のようなものが背景にあったのではなかったかと考えている。語られるところの神秘体験の描写は空海の虚空菩薩求問持聡明法の描写にも似ている。ただし鞍馬山は天台宗なので真言系ではないだろうが一時期真言宗であった時期もある。なお、鞍馬山は、戦後になってからだが、神智学を学んだ鞍馬寺貫主信楽香雲によって天台宗を離れ、鞍馬弘教という新興宗教になって現在に至る。
 臼井霊気療法学会を開いた翌年が関東大震災である。甕男は東奔西走し、人びとを靈氣で救ったという。2年後の大正14年、手狭になった会場を中野に移し、本格的な全国活動を展開した。が、その翌年、旅先の広島県福山市の旅館で死んだ。60歳であった。自分自身は癒せなかったのだろうか。
 臼井甕男は20人の師範を残した。教義は、初伝、奥伝、神秘伝の三階梯に分かれていると言われ、また最終段階に残ったのは数名ほどだと言われている。その一人に林忠次郎がいる。海軍軍人でもあった。退役後、独立して大正14年に東京信濃町に靈氣の診療所を開き、昭和5年(1930年)に「林靈氣研究会」とした。林は日本各地で靈氣の普及を行うほか、昭和13年(1938年)、ハワイで研修会も開いた。これには興味深い前段がある。高田ハワヨの物語である。
 1900年(明治33年)12月24日、ハワイ、ホノルルで日系二世の高田ハワヨが生まれた。名の「ハワヨ」は生まれた島、ハワイを意味している。サトウキビ農園で育った。姓の「高田」は、1917年に結婚した夫、高田サイチによる。夫は、1930年、東京で治療するも、34歳のときに肺癌で亡くなり、ハワヨには2人の娘が残された。
 ハワヨは困窮し病がちとなり、盲腸の手術を受けることになったが、この時、手術の必要はないぞよとの天啓が下る。彼女は健康への道を探し求め、各種の情報から東京に向い、林のもとで靈氣を学ぶことになった。
 ハワイに戻ってからは靈氣の診療所を開き、恩師の林をハワイに招いたのだった。林のその後については、ハワヨの伝承では、軍人でありながら平和主義者であり、対米開戦に反対して切腹したとのこと。これがそのまま欧米で伝えられている。史実ではないだろうに。
 ハワヨは、ハワイに招いた林から神秘伝を伝承されたと主張している。その後、生涯に渡って治療家を続け、1980年12月11日、80歳で亡くなった。最晩年の数年に神秘伝を伝える伝承者をマスターとして20人ほど育成した。1980年代になって彼らが世界各国にハワヨのレイキを伝えることになった。
 マスターのマスターであるグランドマスターは、ハワヨの孫娘フィリス・レイ・フルモト(Phyllis Lei Furumoto)が継承し、1981年、レイキ・アライアンス協会を設立した。マスターたちは彼女に忠誠を誓ったが、それとは別に1982年、文化人類学者バーバラ・レイ(Barbara Ray)が、レイキの団体としてラディエンス・テクニーク協会を作った。彼女の「The 'Reiki' Factor in The Radiance Technique」(参照)はこちらの系統の基本になっている。日本でも1987年に「レイキ療法―宇宙エネルギーの活用(バーバラ・レイ)」(参照)として翻訳されたことがあった。
 以上の2系が国際的なレイキの源流となったのだが、よくわからないのだが、英国系のレイキはラジニーシ(Rajneesh)の影響を受けているようだ。チャクラなどの教義を持っているものがある。ネオ・レイキとも呼ばれているようだ。
 靈氣からレイキになるにつれ、伝授の儀式はアチューンメント(Attunement)と呼ばれるようになった。この伝授によって、臼井甕男の門外不出の秘伝が伝えられるとの建前になっている。が、それとおぼしき秘伝のシンボルは事実上暴露されている。それぞれ分けて使うらしい。


レイキ・シンボル

 左のシンボルは、"Choku rei"とある。私はこれは「勅令」ではないかと思う。道教の神を呼ぶ呪符によく見られ、道教儀礼の香浄でも唱えられる。つまり、道教が起源であろう。ただし、これには呼び出す道教的な神が前提となっているはずだが、その部分はレイキの伝承で欠落したのかもしれない。暗黙裏に千手観世音菩薩であろうか。
 中のシンボルは、"Sei He Ki"とある。呪の意味はわからない。が、シンボルの意味はすぐにわかる。キリークである。阿弥陀如来または千手観世音菩薩を示す梵字である。鞍馬弘教の尊天から推測すると、千手観世音菩薩であろう。これがなぜ"Sei He Ki"なのだろうか。
 右は"Hon Sha Za Sho Nen"の漢字であることは明らかだ。「本者是正念」である。意味はそのままで、本質は正しい念ということだ。問題はこの呪符の由来がわからないことだ。
 この3つのシンボルに加え、「大光明」という秘伝もあるらしい。
 これで秘技が暴露されてしまったと考える人もいるが、私はそうではないだろうと思う。さらなる秘密があるというのではない。新興宗教といえどもそれなりの師匠たる者は伝授者のレベルを見極めているので、その無言のなかに伝わるものがあるだろうということだ。
 しかし暴露された一端を見ると、これらは鞍馬寺関連の道教的な呪術であろうと思われるが、勅令される神や千手観世音菩薩の呪の関連など、主要な秘伝はすでに損失しているのではないかとも思われる。
 さて、ハワヨを基点に1980年代以降レイキが世界に羽ばたき、さらに日本に形を変えて逆輸入されるようになったわけだが、日本国内での臼井甕男の教え、または林忠次郎の伝承はどのようになったのだろうか。1980年代以降、西洋から逆輸入されるくらいだから日本国内では途絶したのだろうか。
 2つの展開があった。1つは、臼井霊気療法学会がそのまま現在でも継続していることだ。ただしその活動は外部からはほとんどわからない。臼井甕男の高弟は林忠次郎を含め海軍関係者が多く、戦時にも、私的であろうが、医療の代替として利用されていたようで、そうしたことから戦後のGHQ統治下で弾圧されるのを恐れたのかもしれない。1996年の時点で90歳を超える小山君子五代目会長が会員を連れて鞍馬参りをしていたとの話も聞く。
 林忠次郎による林靈氣研究会のその後の活動だが、林の死後、智恵夫人が継いだものの、夫人の死をもって終了した。その教えも途絶えたかに思われたが、伝承者が残っていた。山口千代子である。
 旧姓岩本千代子は大正10年12月18日、京都三条古川町で、7人兄弟の次女として生まれた。小学校2年生のときに、叔父の菅野和三郎に預けられたが、この和三郎が林忠次郎から靈氣を学んでおり、千代子も自然に菅野家の家庭の医学のように靈氣を使って育った。和三郎の妻も靈氣に傾倒し、林忠次郎が亡くなった後は智恵夫人を支援した。
 こうした環境から自然に千代子も靈氣に馴染み、林忠次郎から学び、師範となった。しかし千代子自身はその後家庭人として子供を靈氣で育てながらも、他に広めるということもなかった。後年、神経痛に悩んでいたところ、手かざしの宗教で改善したことからその宗教にも入信したらしい。年代から推測するに真光であろうか。しかし、千代子はその宗教からも離れるようになった。
 1980年代以降、逆輸入されるレイキによって千代子への伝承が注目されるようになり、当時の林忠次郎の「療法指針」をもとに、千代子の息子の山口忠夫が直傳靈氣として現在普及にあたっている。
 林の「療法指針」と現在の臼井霊気療法学会から漏れ聞くところをもとに古形の靈氣を推定すると、修行としては明治天皇御製と五戒の唱和を基本に呼吸法を含めた精神統一があり、療法の面では病腺が重視されていたようだ。手当の手順は病腺に関連している。また脊椎何番という脊椎への配慮もある。
 野口整体でもそうだが、脊椎何番という発想は戦前のカイロプラクティックの影響がありそうだ。また、こうして靈氣の治療面を再構成的に見つめていくと、全体像としては、これは明治時代に日本に入ったオステオパシーではないかとも思えてくる。

参考
「癒しの現代霊気法―伝統技法と西洋式レイキの神髄(土居裕)」(参照
「レイキ完全本―あなたを他人を世界すべてを癒すために(ブリギッテ ミュラー、ホルスト・H・ギュンター)」(参照
「直傳靈氣REIKI Japan―レイキの真実と歩み(山口忠夫)」(参照

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2010.07.19

オステオパシー(Osteopathy)

 米国の医者の学位にM.D.つまり、Doctor of Medicineがある。欧米の場合は、学位も名前の一部になっていると言ってもよい。そこでM.D.の学位が付く名前の人だけがお医者さんか。というと、もう一つ、D.O.という医者の学位がある。こちらは、Doctor of Osteopathic Medicineの略で、直訳すれば、「オステオパシー医療の医師」となる。オステオパシーと聞くと、「なーんだ、代替療法か」と思う人もいるかもしれないが、現実の米国社会では、D.O.はM.D.と遜色ない正規の医師である。
 では、オステオパシーというのは正統医学なのかというと、このあたりからは話が難しくなる。そしてこの難しさは、代替療法批判者を困惑させる。代替療法のいかがわしさを批判した「代替医療のトリック(サイモン・シン、エツァート・エルンスト)」(参照)では、英国書籍らしく、オステオパシーを代替療法の便覧に押し込んでいるが、米国と英国の状況の違いも手短に伝えている。正当な医療は科学に依るというより国によって違うことなのである。


 アメリカでは、オステオパシー医(DO)は完全に主流医療に組み込まれており、手技は稀にしか行わない。イギリスのオステオパスは法令で規制されているが、補完代替療法の施術者として見なされている。

 同書は米国のオステオパシー医の実態がよくわかっていないか、あえてなのか、あまり記述していない。現実には、D.O.とM.D.の治療にはほとんど差がない。また、同書では、伝統的な手技としてのオステオパシーについて、腰痛に限って科学的根拠があると述べているが、今日、正統医学の側では腰痛の大半は機能性ではないかと見なされつつある。
 いずれにせよ米国ではオステオパシーはすでに代替療法とは言えない現状がある。米国医師会(AMA)が編纂した代替療法ガイド「アメリカ医師会がガイドする代替療法の医学的証拠―民間療法を正しく判断する手引き(米国医師会)」(参照)にはオステオパシーへの言及すらない。M.D.の団体でもあるAMAとしては、D.O.の団体を代替療法なり異端医学とは認めていないからであろう。
 ところが、オステオパシーの歴史を振り返るとなかなか味わい深い。この歴史は逆に、M.D.というものが何であるかを逆に照射する側面もある。
 オステオパシーは、ギリシア語のOsteon(骨)とPathos(病理)からなる造語で、名前から連想されるように、骨格、軟骨、関節といった組織の動きを改善することで各種の疾患を治療する医療である。日本ではいわば整骨院の治療といった印象で受け止められることが多い。
 しかし、オステオパシーとは手技の技法や療法を指す言葉ではなく、対象とする疾患も捻挫や腰痛に限定されない。西洋医学とは異なる医療体系としての医学であり、原則としては、正統医学にその手技だけを都合良く組み込むということはできない。また歴史経緯からも、M.D.とD.O.は併存している。とはいえ、米国医療の実態はというと、病院経営やD.O.育成のカリキュラムなどを見ると、すでに融合していると言ってもよい。
 オステオパシーとは元来どのような医療だったのか。歴史がそれを物語る。
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アンドリュー・テーラー・スティル
 オステオパシーを創始したのはアンドリュー・テーラー・スティル(Andrew Taylor Still)である。アンドリューは、1828年8月6日にバージニア州の丸太小屋で生まれた。西部開拓時代、大草原の小さな家の風景である。父はメソジスト派の巡回牧師であり、彼らの多くがそうであったように医師も兼ねていた。少年時代は、テネシー州・ミズーリ州で過ごした。遊ぶ物がなかったのか生まれつきそうした傾向があったのか、人骨に強い興味を持った。幸い、近所のアメリカン・ネイティブの墓にはリアル人骨も豊富にあった。
 父にならったのであろうが、アンドリューは医師を志し、カンザス・シティの大学で医学を学び、M.D.の学位を得た。南北戦争(1861-1865年)にも北軍側で兵士として、また軍医として参加した。時代は、英雄的医療(Heroic medicine)(参照)が終わりを告げるころでもあった、同時にそれは英雄的医療に批判の目も生まれる時代でもあり、歴史を傍観すればオステオパシーもその批判的な潮流にあった。
 陰惨な戦争から医師の生活に戻った30代後半のアンドリューにはさらなる人生の試練が待ち受けていた。自らが医師でありながら、3人の息子(実子2人・養子1人)を脊髄膜炎で失った。自分が学んできた医学は本当に正しいのだろうか。有害なのではないか。彼は苦悶した。英雄的医療にも各種の薬物療法にも疑問を持った。瀉血・瀉下も使わず薬物も使わずに、骨格を整え、血液の循環を改善すれば、それで治療になるのではないか。そう考えた。子供のころから人骨に詳しいアンドリューは各種の骨の位置をポキポキと動かすこともできた。骨格調整を治療としてみた。感染症を含め、各種疾患の治療にも応用した。効果が確信できた。
 アンドリューはこの新治療の成果を多くの人に知らせようと、1870年代から1890年代に単身で全米に説いて回った。知見をカンザス州の大学に報告にした。が、無視された。アンドリューは憤慨し、ミズーリ州カークスヴィルに移り、オステオパシー治療院を開業した。そこでオステオパシーも教えた。学ぼうとする黒人や女性にも門戸を開いた。
 彼は説いた。英雄的医療が瀉下に使う甘汞、つまり塩化第一水銀(Hg2Cl2)など使わない。この薬は内臓をぼろぼろにする。正統医療が代用品として使い出したベラドンナも使わない。モルヒネの利用も拒絶する。それらは毒物である。人体には健康になる力がある。骨格を矯正すれば新鮮な血液が循環して治療できる。アンドリューは、熱心に説き、実際に治療を実践した。手応えはあった。
 治療院は、1892年、「米国オステオパシー学校(the American School of Osteopathy)」となる。オステオパシーに対して多くの人の理解と支援を受けるようになった。1910年には単科大学となり、独自にD.O.の学位を出せるまでになった。なお、同大学は現在、A.T. Still University (ATSU) (参照)として存続している。
 1917年、アンドリュー・テーラー・スティルは、多くの人から慕われ、尊敬され、惜しまれ、亡くなった。89歳であった。
 さて、米国医師会がこんな「異端医学」「偽医学」を見逃すだろうか。そんなわけはない。アンドリューの晩年には、オステオパシーへの総攻撃が始まった。それでも、オステオパシーは生き延びた。効果のある医療だったからという理由ではない。時代がもたらす偶然だった。
 アンドリューが亡くなった年号に注目してみよう。1917年。第一次世界大戦のさなかである。米国医師会は、オステオパシー医を軍医として認めるわけにはいかないと政府に圧力をかけた。もしオステオパシー医を軍医とするなら、米国医師会の医師を軍医にするわけにはいかないと脅した。どうなったか。オステオパシー医は国内に残った。そして、国内で多くの患者を集めて、さらに名声を高めることになった。
 米国医師会はまた、当時、オステオパシーとカイロプラクティック (Chiropractic) の違いがよくわかっておらず、攻撃は実際にはカイロプラクティックに向かうようになった。おかげでオステオパシーへの風当たりは弱くなった。カイロプラクティックは、1895年に、ダニエル・デビッド・パーマー(Daniel David Palmer)が創始した治療で、脊椎・椎骨(運動分節)の歪みが疾病原因となり、その矯正を行った。オステオパシーに比べると強制的に脊椎を動かすため治療の失敗から障害者も出ていた。
 オステオパシーもアンドリューが亡くなると変化しつつあった。正統医学と融合していったのである。結果、正統医学と組んで共通の敵としてホメオパシーを攻撃することもあった。共通の攻撃対象があると、違和のあるグループがそれなりにまとまるのは世の常である。代替療法というのはそうした点からも攻撃する価値が多いものだ。
 その後、米国ではD.O.のオステオパシー医師とM.D.の医師学会の医師との治療面での差はほとんどなくなる。別の言い方をすれば、アンドリューの手技の技法は、D.O.の現実ではそれほど活用されていない。
 現実的に見ればオステオパシーは消滅したと言ってよいかといえば、まあ、よいのではないだろうか。ところが完全に消滅したわけでもなく、いかにも代替療法のように残る側面もわずかにある。そのあたりが「代替医療のトリック(サイモン・シン、エツァート・エルンスト)」などにも残るところだ。
 アンドリューの理論をさらにそちらの方向で独自に進化させた人びともいる。注目されるのは、ウィリアム・サザーランド(William Garner Sutherland:1873–1954)だ。彼はプライマリ呼吸機構という新理論と頭蓋仙骨療法を考案し、実践した。通常の人間が行っている呼吸は二次的な呼吸であり、プライマリーな生命エネルギーの呼吸は頭蓋仙骨で行われているというのである。一度解説書が翻訳されたことがある(参照)。このほか、内臓オステオパシー(Visceral osteopathy)というのもある。
 こうした動向は、まあ、代替療法の王道に立ち返るということかもしれないが、これらの不思議な療法は、おそらくメソッド化したときに格好の批判対象になるのではないかという印象がある。
 オステオパシーが正統医学と融合を開始するころ、M.D.育成のカリキュラムよりもD.O.育成のカリキュラムのほうが多く、厳しかったという。治療というのは、証拠に基づいたメソッドが重視されるとともに、メソッドを超えたところでよい医師に付随する不思議な現象という側面もありそうだ。

参考
「代替医療のトリック(サイモン・シン、エツァート・エルンスト)」(参照
「人はなぜ治るのか(アンドルー・ワイル)」(参照
「いのちの輝き―フルフォード博士が語る自然治癒力」(参照

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