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2010.07.10

明日に迫った参院選

 参院選が明日に迫った。関心がないと言えば嘘になるし、関心があるかというとそれほどでもない。民主党には投票しないと決めているが、ではどこに入れるかというのが依然決まらない。自民でもなく民主党でもなく、現下の政治的な状況から効果的な票となれば、みんなの党ということなのだろうが、個人的には気乗りしない。
 個人的にと言うなら、舛添さんが一番首相としての見識を持ち合わせているように思うが、新党改革という小党が政治的に機能するほどの票を得ることはないだろう。ついでに不思議なのだが、新党改革は、みんなの党より明確にインフレターゲット政策を掲げているが、いわゆるリフレ派的な支持を得ているふうにも見えない。
 状況的にはどうか。民主党はそれほど大敗しないのではないかと思うが、まあ上限から見ると、民主党単独過半数の60議席なら、政権交代をぐちゃぐちゃにした国民新党を放り出せるはずだが、その線はまるでない。内心では郵政国有化に反対であろう枝野さんまで郵政国有化の血判を押したようなことをしている(参照)。要するに、民主党的にも単党の路線は無理だと諦めている。
 国民新党を抱え込んだまま現状の民主党の混迷路線を良しとしても、連立与党で過半数の56議席が必要になる。そこで民主党としては54議席を勝敗ラインとし、国民新党から3議席ほど加えるという線で進めようとしているのだろうが、可能だろうか。そこがわからないが、意外とその線に行くかもしれない。そうなると、政治の風景はまるでなんにも変わらない。民主党はそれほど大敗しないのではないかと冒頭書いたのは、そのあたりだ。
 もう少し民主党が低迷するというのが現実的な見方かもしれない。菅首相の面白ろパフォーマンスの成果で民主党の人気は面白いように落ち込んできていることもある。それがどのくらい選挙に反映するか。民主党があと4議席減らし、概ね50議席くらいになるだろうか。それだと、国民新党と連立しても過半数には届かず、3議席ほどの社民党と個別提携で乗り切るということだろうか。それでも政治の風景は変わらない。なんかうんざりするような疲労感を覚える。
 政治の風景に変化が生まれるのは民主党が50議席を割ったあたりからになる。露骨にいえば、国民新党と社民党を切って、みんな党と公明党と個別に提携する可能性も見えるあたりからだ。そのほうが本来の民主党らしさが出てきてよいと思うのだが、同時にその状況はあっけなく菅さん終了でもあり、小沢さん再登場という別の面白劇場を伴うだろう。そこまで行くだろうか。
 自民党側から見ると別の風景が見える。自民党が意外と善戦しそうで45議席くらい行くかもしれない。そもそも自民党にお灸を据えるとしたはずが自身で火傷を負ったあたりの層が自民党に返ってくるだろうし、外国人参政権・夫婦別姓制・人権侵害救済制度といった民主党がマニフェストから隠している部分への忌避の票も流れるだろう。
 仮に自民党が46議席、みんなの党が10議席とれば、可能性としては、これで参院の過半数が取れる。その可能性が見えるだけでがらっと政治の風景は変わるだろう。そのことを懸念してみんなの党は自民党の別部隊だとか一生懸命ツイッターとかでふかしている勢力もあるが、まあ、それはない。自民党は一枚板ではない。
 仮にというなら、もう一つ面白いシナリオはある。たぶん、菅さんの内心にくすぶる思いというか、財務省のプランBでもあろうが、増税へ向けての自民党との大連立という線だ。このまま日本の政治をさらに混乱させて、大手紙あたりを誘導していけばそれも不可能ではないだろう。
 そもそも民主党が名目成長率3%として、増税回避の名目成長率4%を切っているのは、財務省へ秋波を送るための糊代みたいなもので、このあたりは自民党の合意とも近い。ついでだが、7日時事「消費増税不要は無責任=みんなの党を批判-民主政調会長」(参照)を見ると、玄葉さん、内心ではみんなの党に負けたとうっすら思っているのだろう。


 民主党の玄葉光一郎政調会長は7日、福島市内の会合で、みんなの党が年率4%以上の名目経済成長を達成できれば消費税率引き上げは不要と主張していることについて「誰が考えても税の抜本改革は避けられない。それが必要ないというのは真っ赤なうそであり、国民に対して無責任だ」と厳しく批判した。 
 玄葉氏は「(経済が)成長すると確かに税収は上がるが、金利も上がる。国には世界一の借金があり、利払いが雪だるま式に増える」と指摘。「名目成長率が4%になれば財源ができるというのは百パーセントうそだ」と強調した。

 ただ、そのあたりの合意はまるで民主党内で整合しているわけでもない。大連立なら多少党内整理してもよいとするのかもしれないが。
 まとめると、少し国民の気分が変われば、それなりに面白い風景の見えそうな選挙だが、それほどの変化はなく、民主党のうんざりした政権が続くのではないかと思う。そのあたりが財務省の実質的な思惑でもあるのだろう。
 余談だが、いわゆるリベラルといった人たちが、結果的に財務省に取り込まれていく姿は、ゆうパックのドタバタでも思った。元大蔵省官僚斎藤次郎・日本郵政社長も元郵政省官僚鍋倉真一・郵便事業会社社長もなんら責任は取らないし、原口一博総務相も業務改善命令は出さず、郵政民営化委員会を葬った。いわゆるリベラルといった人たちからその批判の声は聞かなかった。国家を批判しているかに見える人びとが、国家主義に転換していく歴史の公式通りの展開は醜いものだなと思うが、国民がそれをどう見ているか、この選挙の結果に出てくるだろう。

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2010.07.09

クレア・ブース・ルース(Clare Booth Luce)

 編集者、劇作家、米下院議員、米駐イタリア大使でもあったクレア・ブース・ルース(Clare Booth Luce)は、1903年4月10日、ニューヨークに生まれた。父親ウィリアム・フランクリン・ブース( William Franklin Boothe)は特許医薬品販売人かつバイオリン奏者、母親アンナ・クレア・シュナイダー(Anna Clara Schneider)は踊り子だった。

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Clare Boothe Luce
 クレアは嫡出子ではなかったらしいが、生まれたときの名前はアン・ブース(Ann Boothe)であったので父名を継いでいる。育ったのはシカゴ(メンフィス)だった。1912年に両親は別れ、母親の元に置かれた。母親は富裕層向けの"call girl"もしていたらしい。そのあたりの時代感覚はよくわからない。
 クレアの少女期は、送られていたニューヨークの学校だった。10歳のときブロードウェイで10歳年上のメアリー・ピックフォード(Mary Pickford)の代役をしたことがあるというから、当時すでに相当な美少女だったのだろう。ニューヨークで劇場役者の学習もしつつ、女優を目指した。1919年に卒業。同年、母は欧州旅行で再婚し、その両親の影響で、クレアは女性参政権に関心を持つようになったとのこと。なお、米国で女性参政権が確立したのは1920年である。
 クレアの初婚は1923年ということなので20歳だった。相手は43歳の資産家で弁護士でもありスポーツマンでもあったジョージ・タトル・ブロコー(George Tuttle Brokaw)である。クレアは翌年、娘のアン・クレア・ブロコー(Ann Clare Brokaw)を産むが、1929年に離婚。理由はブロコーがアル中だったからとのこと。その後ブロコーのほうはといえば、1931年にフランシス・フォード・シーモア(Frances Ford Seymour)と再婚した。ブロコーが死んだのは1935年。その翌年残された妻フランシスは、ヘンリー・フォンダ(Henry Fonda)と再婚し、生まれたのが、ジェーン・フォンダ(Jane Fonda)とピーター・フォンダ(Peter Fonda)である。
 クレアは離婚後、1930年、ファッション誌ヴォーグの編集に加わり、翌1931年雑誌ヴァニティーフェアの副編となる。風刺的文才で世間の注文を浴び、"No good deed goes unpunished(正直者が馬鹿を見る)"などの句が彼女の引用で有名になる。1933年同誌主幹となるも劇作家を目指して翌1934年退職した。
 1935年にヘンリー・ロビン・ルース(Henry Robinson Luce)と再婚した。つまり、夫はタイム、フォーチュン、ライフ創刊したメディアの覇者にして、中国宣教師の息子にして親中国イデオローグ、ヘンリー・ルースである。というわけで、クレアの名前は、クレア・ブース・ルースとなる。ヘンリー・ルースはこのとき37歳。再婚であった。クレアは32歳。それほど歳差もない。まあ、お似合いというところなんだろうか、双方。出会って、1か月後の結婚で、ヘンリーのほうは12年連れ添った妻と別れてすぐのことだった。その後、二人の間に子供はなかった。
 1935年、クレアは、気の重くなる劇作「日暮れて四方は暗し(Abide with Me)」を発表し酷評されたが、翌1936年有名喜劇「女たち(The Women)」(参照YouTube)を発表し大ヒットする。その後の作品でも劇作家としての名声を高めていく。
 その頃、経営学者ピーター・ドラッカー(Peter Ferdinand Drucker)が、夫妻とニューヨークのレストランで会食している。そのころドラッカーが書いた「経済人の終わり」(参照)にヘンリー・ルースが関心を持ったのである。「傍観者の時代」(参照)より。

 ルースは、本について突っ込んだ質問をしてきた。かなり丁寧に読んだことは明らかだった。クレアのほうは、これまた明らかに退屈していた。本を読んでもいなければ、読む気もなさそうだった。彼女は退屈な話を止めさせようとして、ほほえみながらこう言った。「ドラッカーさん、経済人が終わった後は、肉体人の番になるんじゃありませんこと?」

 1940年第2次世界大戦が勃発すると、クレアは文才を生かし、夫ヘンリ・ルースの雑誌ライフの欧州戦記記者ともなる。翌1941年、日本と戦時下にあるヘンリ・ルースと中国に視察旅行し、中国視点の記事を発表した。この時の夫妻のエピソードはディヴィッド・ハルバースタムの「ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争」(参照)にも登場する。
 1942年に、クレアは政治家に転身。コネティカット州から共和党下院議員となった。1944年、日本の敗戦が色濃くなり、ソ連および中国共産党の勢力が増してくるなか、クレアは共和党政治家として反共主義の視点を強く打ち出すようになる。この頃、英国作家ロアルド・ダール(Roald Dahl)はスパイをしていてクレアに接近し、恋仲にもなったらしい。ワシントン・ポスト「Jonathan Yardley on 'The Irregulars'」(参照)にそんな話がある。
 1944年、クレアに思いがけぬ不幸が襲う。ルースの元で育てられていた、初婚相手との一人娘、アンが交通事故で死亡した。19歳だった。この苦痛からクレアはカトリックに改宗し、後その苦悩から精神的な作品も発表するようになる。
 1952年、大統領選挙でドワイト・アイゼンハワーを支持した恩賞としてイタリア大使となった。このイタリア滞在期間、クレアの寝室天井から漏れるヒ素の中毒で重病となり、1956年イタリア大使を退任した。
 その後も、ブラジル大使を務めたり、ニクソン大統領にキッシンジャーを紹介したり、反共政治家として活躍したりとしたが、1964年、ヘンリ・ルースがタイム誌を引退するのに併せて、クレアも公的生活を引いた。
 1967年2月28日、ヘンリー・ルースは突然の心臓発作で死亡。68歳だった。クレアは、それから20年一人で生き、1987年10月9日、脳腫瘍で亡くなった。84歳だった。

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2010.07.08

韓国産パプリカ・沖縄産クレソン・トンガ産カボチャ

 暑くなってきたのでカポナータをよく作る。ラタトゥイユとの違いはよくわからない。以前ラタトゥイユのエントリを書いたことがあるが(参照)、最近はちょっと作り方を変えている。カットを小さくして、トマトソースを減らして野菜の味を生かすようにしている。まあ、素人料理。ズッキーニがなければキュウリを入れることもある。オクラと同じように余熱が通るくらいにする。ナスは欠かせない。パプリカも欠かせない、ということでこの季節、八百屋に行けばパプリカを見て回るのだが、韓国産が多い。なんで韓国産のパプリカなのだろうか。検索してみるとオーシャン貿易というサイトに話があった(参照)。


 今でこそ電子部品を世界に供給するまでになった韓国ですが、10年程前までは農業が中心で輸出する製品はあまりありませんでした。
 農作物を海外に輸出したい、と考えてはいましたが一番近い消費大国日本にはなんでもあります。そんな中、日本に視察にきた韓国の生産者の方がデパ地下に並んでいるオランダ産のパプリカが1個600円で売られていることに目をつけたのです。
 味もおいしく、韓国で栽培がさかんなトウガラシ(もちろんキムチ用ですね!)と同じ果菜類なら販売できるのではないかと考えた生産者は、パプリカの輸出を思いつきます。

 そういう背景があるらしい。しかし、今では200円を割っている状態なんで、どうなんだろう。円とウォンの関係でそれなりの儲けになっているのだろうか。よくわからないが、韓国産パプリカの品質はよい。ちなみに、きっちり肉厚のあるパプリカだったら、全体に黒焦げが付くまで焼いてから皮をむいてカットしてオリーブにつけて半日くらい冷蔵庫でひんやりと寝かせてから食うと、すごくうまいよ。
 韓国の農園のパプリカをなんとなく想像してみるうちに、沖縄暮らしのことを思い出した。いや、ようするに地場産業というか、地元ならでは農産物というのが各地域にはあるのだが、沖縄にもある。
 沖縄の地元野菜ということでよく食べたのはクレソンだった。どういう仕組みなのかわからないが、クレソンがどっと束で安価で売っているのだった。最初見たときに、そのやけくそな売り方が気に入った。生でももちろん食べられるが、おひたしとかにしてやたらと食べた。うまい。空心菜もこれでもかという量が安価で売っていた。よく食べた。炒めても湯がいてもうまい。野菜といえば、ハンダマ(水前寺菜)がなつかしい。いちおう探すと東京でも売っているのだが、なんかこー、やけくそ感が足りない。味噌汁に入れると紫色になってグー。
 オクラも山ほど売っていた。サイズもでかい。率直にいうとあまり美味しくないが、あのどさっとオクラの山盛りというのは幸せなものである。オクラは花も美しい。和名で秋葵というのか葵の一種と見てよいのか、あれが畑いっぱいに咲いているのは見事なものだった。サトウキビの穂と同じでなんか独自な美しい自然風景である。
 パッションフルーツもやけくそのように売られていた。両手に抱えて300円という感じだったか。ジュースにしたりした。パッションフルーツはあちこちの家の庭先にもあった。花が時計草に似ていてきれいなものだった。
 花といえば電照菊をあちこちで作っていた。那覇で酔っ払ってタクシーで山間部を過ぎるとあちこちに電照菊の電照がきらめいて不思議な光景だった。内地向けの仏花である。沖縄では菊の消費はあまりないらしい。内地向けといえばポインセチアも作っていた。内地にいるとクリスマスの寒い季節のイメージだが、沖縄なんぞで作っているのだった。庭先に植えている人も多い。それが巨木化する。見上げるようなポインセチアとなってこそ南国であるな。
 南国といえば、これも最近知ったのだが、カボチャはけっこうな量がトンガから来るらしい。検索するといろいろ情報はあるが、ガーディアンの記事「From squash to space tourism」(参照)にもあった。

Squashes are as unpopular with Tongans as the country's native vegetables are with outsiders. Such dietary niceties matter less when the squash's role in Tonga's economy is worked out. At times, more than half of the island kingdom's export earnings come from the crop, and the figure rarely falls below a third.

トンガ産の野菜が他の国の人に馴染みがないのと同じようなものだが、カボチャはトンガの人には馴染みがない。そうした食習慣の細部はトンガ経済におけるカボチャの意味を考えるなら些細なことだ。この王国の貿易上収益の半分以上をカボチャだったりすることがある。三分の一以下にはまず落ちない。

Almost the entire crop goes to Japan, where it makes up 96% of Tonga's exports. The other 4% comes mostly from tuna and mozuku seaweed, a delicacy grown in Japan's southern Okinawa islands until May and in Tonga until November.

カボチャの大半は日本向けで、トンガの輸出の96%になる。残り4%の大半はマグロ、それとモズク。五月までは沖縄産で、11月まではトンガ産の珍味である。


 記事の日付をみると2002年とあるので、最近はどうだろうかと思うが、それほどの変化もないのではないか。トンガではその後政変があり、今年の11月には総選挙もあるらしい。安定するとよいのだが。
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トンガ・ベビーホルダー
 トンガと言えばどういう理由なのか知らないが、子供を抱えるフランス産のスリングにこの名前が付いている(参照)。夏場は赤ん坊を腰につるしていてむれない。というか、ああ、夏場だから南国のトンガなのか。今、気がついた。

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2010.07.07

[書評]小倉昌男 経営学(小倉昌男)

 「小倉昌男 経営学(小倉昌男)」(参照)は、宅配便という分野を創始したヤマト運輸の元社長小倉昌男氏が初めて書いたいわば自伝で、手元の初版を見ると1999年とある。もう10年も経つのかと感慨深い。絶版か文庫本になっているかもしれないとアマゾンを覗いたら普通に単行本として販売されていた。普通にロングセラーなのだろう。もしまだ読まれたことのない人がいたら、読めばロングセラーの理由がわかる。名著だからだ。

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小倉昌男 経営学
 小倉昌男名の書籍は他に数点あるが、この本が最初だった。ヤマト運輸の宅配ビジネスについては、私も20代の終わりでひょんなことで参加した経営セミナーでケーススタディとして学び、ビジネスの基本・新しいビジネスの考え方・独創的な展開などの点からも驚いたことがある。小倉さん本人の本を読みたいものだとその頃から思ったが、その後もずっとなかった。理由は本書に書いてある。ヤマト便のCMがテレビに流れるころのことだ。

 ヤマト運輸の社長だった私のもとに、本を書かないか、という依頼が次々に舞い込んできたはちょうどその頃である。
 けれども、私は一切お断りした。
 成功した経営者が自らの経営談義を出版すると、やがてその企業自体は不振に陥り、一転、失意に陥る―そんな例をいくつも見てきたからである。経営者が本を出すと不幸な軌跡を辿るというジンクスを私は信じ、守ってきた。

 それでもヤマト運輸の役員を退任して四年が経ったので、ということで、「サクセスストーリーを書く気はない。乏しい頭で私はどう考えたか、それだけを正直に書くつもりである」と書き出した。正直というのがまさに的確である。
 本書を読むと、小倉昌男さんという人はすごい経営者だということがわかるが、より正直に言えば、変な人である。いわゆる見た目の変人・奇人の類ではなく、なんというか、世界とビジネスをきっちり見つめながら、なにか根本に不思議な浮世離れのようなものがある。世間や権力に戦うという気負いはそれほどなくて、世の中をきちんと見つめつつ、世の中の力に飲み込まれない。誰もが宅配ビジネスなんかダメだと言っても、いやこれは理詰めに考えればできるはずだと計算して考え続ける。政府と官僚がいじめに入ると腹は立てても、それで負ける気は平然とない。

 ヤマト運輸は、監督官庁に楯突いてよく平気でしたね、と言う人がいる。別に楯突いた気持ちはない。正しいと思うことをしただけである。あえて言うならば、運輸省がヤマト運輸のやることに楯突いたのである。不当な処置を受けたら裁判所に申し出て是正を求めるのは当然で、変わったことをした意識はまったくない。
 幸いにしてヤマト運輸はつぶれずにすんだ。しかし、役人のせいで、宅急便の全国展開が少なくとも五年は遅れている。規制行政がすでに時代遅れになっていることすら認識できない運輸省の役人の頭の悪さにはあきれるばかりであったが、何より申請事案を五年も六年も放っておいて心の痛まないことのほうが許せなかった。与えられた仕事に最善を尽くすのが職業倫理でないか。倫理観のひとかけらもない運輸省などない方がいいのである。

 さらりと「与えられた仕事に最善を尽くすのが職業倫理でないか」と言う。「倫理観のひとかけらもない運輸省などない方がいい」と国家の向こうを端然と見ている。その中心に「心」というものがある。心というものを持てば、国家なんぞ怖いものでもなんでもないよと見切っている。

 私は、役人とは国民の利便を増進するために仕事をするものだと思っている。だから宅急便のネットワークを広げるために免許申請をしたとき、既存業者の利権を守るために拒否されたのは、芯から腹が立った。需給を調整するため免許を与えるどうかを決めるのは、役人の裁量権だという。では需給はどうかと聞いても資料も何も持っていない。行政指導をするための手段にすぎない許認可の権限を持つことが目的と化し、それを手放さないことに汲々としている役人の存在は、矮小としか言いようがないのである。
 すべての役人がそうだというわけではないが、権力を行使することに魅力を感じて公務員になる人もいると聞く。何とも品性の落ちる話ではないか。

 さらりと「品性」が語られる。さらりと語られるなかにマックス・ヴェーバーの社会哲学の神髄は語り尽くされている。
 ヤマト便のビジネスを広げるあたり、小倉さんは淡々と過疎地に営業を広げることを考えていく。

ヤマト運輸は民間企業である。無理して郡部の集配をやらなくてもいいのではないか。郡部は郵便局に任せるべきではないか。赤字のところをやるのは官の責任である、という意見にはもっともなところがあった。
 宅急便を初めてやろうと決心したとき、清水の舞台から飛び降りる気持ちであった。幸い狙いは当たり、五年で成功のめどがついた。だが次のステップとして郡部にサービスを拡大しようとしたとき、再び清水の舞台から飛び降りる気持ちになった。

 ところが小倉さんは、「しかしよく考えてみると、郡部イコール過疎地、過疎地イコール赤字、という図式があるとは限らない」とまた理詰めで考えていく。

 日本は山が多いから、地方には山奥の過疎地が多いことは否定できない。でも、過疎地から過疎地に行く荷物はほとんどないと思う。過疎地から出てくる荷物は都会に行き、過疎地に着く荷物は都会から来るのがほとんどである。過疎地の集荷や配達はコスト高からもしれないが、一方で、都会の集配車の集積率が高くなりコストが下がることを考えると、過疎地に営業を伸ばしたことによって収益が悪くなるとは考えられないのである。

 そして再び清水の舞台から飛び降りてみせた。成功した。1997年、ヤマト便は全国ネットワークも完成した。つまり、ヤマト運輸はすでにユニバーサルサービス実現しているのである。余談だが、日本郵政はヤマト便を追いかけてその利益を削り取ろうとしていた。2004年「民間がすでに提供しているサービスを日本郵政公社が真似をしてまで提供する必要があるのでしょうか?」と疑問を出した(参照)。
 ヤマト運輸を創業したのは小倉昌男氏の父小倉康臣氏であって、彼は二世社長であるが、トラック運輸の業態からヤマト便に変えたのは彼である。その歴史の話も本書の面白いところだ。
 二世であり社長が約束されていた小倉昌男氏だが、実際に昭和23年に入社すると結核になった。戦前は死病であった。二年にわたり病院で闘病生活を送ることとなった。半年の余命と言われ、救世軍から差し入れられた聖書を読みクリスチャンとなった。
 幸い退院できたが、さらに二年半自宅でリハビリをした。働き盛りに四年半の空白はつらかったと書かれている。仕事に復帰後も社長ではなく、関連会社の静岡運輸の出向だった。ヤマト運輸に戻って百貨店部長になったときは三十一歳だったという。遅いスタートであり、そしてその後、百貨店の配送を止める決意をした。
 亡くなったのは2005年。80歳だった。若い頃大病したが長生きの部類だろうし、晩年に至るまでも聡明な人だった。ブログではR30さんの「[R30]: 経営者は何によって記憶されるか――追悼・小倉昌男」(参照)に心情がこもっていたが、そういう人だった。

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2010.07.06

さらばペリカン便クロニクル

 2008年4月25日、福田康夫内閣時代、日本郵政グループの郵便事業会社と日本通運(日通)は、両者の宅配便事業を新会社に移管し統合することに合意した。日本郵政の「ゆうパック」と日通の「ペリカン便」が新会社の下、一つのサービスとなるはずであった。この時点で統合が予定されていたのは、2009年4月である。新会社は後のJPエクスプレス(JPEX)である。
 JPエクスプレスという名称はそれ以前からあった。旧日本郵政公社が全日空が2006年2月に設立した空輸貨物会社「ANA&JPエクスプレス」である。この会社は、2009年8月8日に全日空へ譲渡することで解消の方針が打ち出され、2010年7月1日、ANAの子会社であるAir Japanに統合され、JPエクスプレスを冠した名称も消えた。

 2008年6月2日、郵便事業会社と日通が共同出資し「JPエクスプレス」が設立された。

 2008年9月24日、麻生内閣成立。鳩山邦夫氏が総務相となる。鳩山総務相は、JPエクスプレスによる宅配便事業の統合で、過疎地への宅配サービス切り捨てが懸念されるとして、郵便事業会社に2009年度事業計画の再考を求めた。これにより事実上、日本通運のペリカン便がJPエクスプレスとなり、ゆうパックと併存することとなった。

 2009年6月12日、日本郵政の西川善文社長の続投人事をめぐって、退任を要求する鳩山邦夫氏が総務相辞任(事実上の更迭)し、佐藤勉氏が後任となった。

 2009年7月29日、JPエクスプレスは、過疎地の集配業務を郵便事業会社委託する際の手数料を見直しを含め、事業計画変更認可を総務省に申請。この時点でJPエクスプレスによる統合は、衆院選挙後の10月1日に予定されていた。
 当時の統合議論では、統合時の混乱・配達遅延は何があっても避けよと号令され、繁忙期であるお中元、お歳暮のある7月と12月時点の統合を避けるが議論の前提だったとのこと(参照)。

 2009年7月30日、ひと月またふた月置きに開催されていた郵政民営化委員会の第58回が開催され、以降翌年2010年7月6日に至るまで開催されない状態が続く(参照)。
 なお、2009年9月成立の民主党政権下では、郵政民営化委員会担当の郵政民営化推進室の職員がすべて異動させられ、事務局は空っぽ状態とのこと(参照)。

 2009年8月11日、佐藤総務相はJPエクスプレスによる統合延期を日本郵政の西川善文社長に要請。10月実施の予定を延期する理由について佐藤総務相は「準備が間に合うのか危惧している。業務に混乱や支障があれば、郵便事業会社は利用者の信頼を著しく失墜させる」と述べた。

 2009年9月8日、佐藤総務相は「日程に無理がある。現段階で認可の判断を下せない」として統合を認めない方針を表明。

 2009年9月16日、政権交代で鳩山内閣出現。

 2009年9月30日、郵便事業会社は日通の持ち株を引き取り、JPエクスプレスの完全子会社化を検討開始。

 2009年10月23日、日通はJPエクスプレスの発行済み株式の20%を郵便事業会社に売却。出資比率は日通が14%、郵便事業会社が86%。これに合わせたかのように、ペリカン便マークが消え、JPエクスプレス宅配便という名前も聞かれるようになった。統合が進まず、JPエクスプレスの赤字が続いた。

 2009年11月27日、亀井静香郵政改革担当相が任命した日本郵政の斎藤次郎社長(もと大蔵省官僚)は、JPエクスプレス完全子会社化や会社の清算を含め事業を年内をめどに再検討するとした。

 2009年12月1日、ゆうちょ銀行の井沢吉幸社長、郵便事業会社の鍋倉真一社長、郵便局会社の永富晶社長の3人が就任記者会見を行い、JPエクスプレスについては2009年内に存続を決めるとした。

 2009年12月4日、郵便事業会社によるJPエクスプレスの完全子会社化で「ゆうパック」と「ペリカン便」の両ブランドを消し、新ブランドに統合する予定と、一度は、なった。

 2009年12月25日、郵便事業会社はJPエクスプレス精算を決定。結局、宅配ブランドは統合されないことになる。
 この時点で、2010年7月1日には、ゆうパックのみが存続し、ペリカン便は消えて、日通の宅配便事業を吸収することとなった。さらばペリカン便、黙って消えていくのか。そうはいかない。
 郵便事業会社は、日本通運からJPエクスプレスに出向している1200人を含め、5300人の従業員を引き受け、肥大した。
 7月1日という期日については、郵政関係者から、参院選後の郵政改革法案の行方が不透明なため、選挙前に前倒ししたとの声もある(参照)。また、7月を節目と考えるのは人事異動で新事務年度を迎える公務員ぐらいのものとの声も(参照)。

 2010年6月中旬、ゆうパックと旧ペリカン便の統合に伴う業務マニュアルがようやく現場に届く。現場からは「訓練も1回だけ。わずか2週間で習得するのは無理。押し切った経営陣が現場に責任を転嫁するのはおかしい」との声(参照)。

 2010年7月1日、郵便事業会社は、ゆうパックJPエクスプレスのペリカン便を吸収し、取り扱い店舗を現在の約5万店から約11万店に倍増し、集荷の翌日午前中に配達する地域を広げ、新たな顧客の取り込みを目指すと発表(参照)。
 他方現場では、「荷物の受領書などを発行する支店内の新システムは、7月1日の新サービス開始まで動かず、触れることもなかった」との声(参照)。
 大混乱の火ぶたが切られる(参照)。

 2010年7月2日、鍋倉真一社長(もと郵政省官僚)は「土日の対応で正常化できる」と判断(参照)。過去のこの時期のゆうパックとペリカン便の量を加算した想定の上の判断だったのだろうか。

 2010年7月3日、郵便事業会社は、遅配の全容が把握できていないことを理由に遅れの事実やその規模を公表しいない状態が続く。
 世間沸騰をよそに、日本郵便幹部の談、「1日2日の遅れはよくある。今回は数が多いが、1日ぐらい遅れても大丈夫と思った。甘いのかもしれないが、土日できれいにすればほとんど影響ない、と思っていた」(参照)。

 2010年7月5日、chihhi1105さんに黴びた佐藤錦が届く(参照)。ただし、これは遅滞によるものではなかったとのこと。土日に届けるはずが不在で持ち帰り、郵便事業会社保冷指定(0~5℃)で保存したら黴びた模様(参照)。

 2010年7月6日、原口一博総務相は、郵便事業会社の鍋倉真一社長に対し報告を今月末までに求める書面を手渡し、郵便業務への影響などについて説明を聞いたうえで、業務改善命令などの行政処分が必要かどうかを判断するとのこと(参照)。
 業務改善命令を出せば、原口一博総務相は、郵政民営化法78条2項によりほぼ一年間停止していた郵政民営化委員会の開催を迫られることになり、その会議内容も公開される。

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2010.07.05

マニフェストからは政党が何をしようとしているかわからない

 雑談みたいな話から。相変わらず菅首相が面白い。鳩山前首相と芸風は違うが笑いを取る勘所がよい。2日付け朝日新聞「「財政破綻したとき、誰が困るかご存じですか」―菅首相」(参照)が伝える金沢市内での街頭演説は名調子だ。


 財政が破綻(はたん)したとき、誰が困るかご存じですか。あの大金持ちのカルロス・ゴーンさん(日産自動車社長)は、(日本から)いなくなりゃいいんですよ、簡単なんですよ。ギリシャの例を見ても、財政破綻したとき、年金をさあもらえると思ったら、「67歳からしか払えませんよ」と言われたら困るでしょう。仕事が続けられると思ったら、「あなたはクビですよ」と言われたら困るでしょう。財政破綻で一番困るのは、そうした年金を受給している人や、比較的所得が少ない人。その方々がダメージが大きいんですから。

 ちなみに財政破綻を示唆する指標で見ると、ギリシャのCDSスプレッドは1125pb(参照)であるのに対して日本は136bp(参照)。日本はギリシャにはるかに及ばない。菅さんみたいな心配している人は国際的には皆無。これ、お笑いでしょ。ただ、カルロス・ゴーンさんに「いなくなりゃいいんですよ」云々の話は、西洋現代史を知る常識人にしてみると、大国の総理の冗談と言われても鼻白む。
 これも爆笑。3日付け時事通信「金利低下は日本への信頼=菅首相」(参照)はこう伝える。

 菅直人首相は3日、甲府市内で街頭演説し、東京債券市場で長期金利の指標となる10年物国債の流通利回りが連日低下していることについて「日本は自分の力で、ちゃんと責任ある行動を取るだろうと世界が思っているから、国債の金利も下がっている」と述べ、財政健全化を目指す政権の姿勢が一定の評価を得ているとの見方を示した。

 それデフレ期待ですから。というか、同じ理屈は同歩調の米国債に言えますよね。
 それにしても、財務省に「菅落ち」したと言われる菅さんが、本当に財務省に完落ちしたらこんな面白い話をするわけない。どうなってんだろうと疑問に思っていたら、わかった。
 産経新聞の報道のみで他ソースの確認はできないのだが、「テレビ討論 首相が練った「責任転嫁」戦術、あえなく返り討ち」(参照)によると、2日のテレビ討論会でみんなの党・渡辺喜美代表に追い詰められた後、4日の名古屋市内街頭演説で、こうぶち上げたらしい。

「渡辺喜美さんは民主党がいつの間にか官僚に取り込まれたと言ってますが、違うんですよ。私が財務省を洗脳しているんだ。ぜひ渡辺さんの口車に乗らないでください!」

 そ、そうだったのか! なるほど、それで得心した。
 菅さんは官僚に取り込まれてもいないし、財務省に洗脳されているんでもいないんだ。菅さんが財務省を洗脳しているんだ! だよね、でなきゃ、財務省のほうがお笑い者。
 菅話休題。
 迫る参院戦。いち選挙民としてどうするかな。考えあぐねて、まず、条件に合わない政党を外すかなと思った。条件は単純。デフレで増税は止めてくれ、そんだけ。
 他に、環境問題や、外国人地方参政権、選択性夫婦別姓といった問題に関心がある人も多いようだけど、私としみれば、それは日本人の多数が決めればよいので、決まったことを自分は受けれようというくらいしか関心はない。郵政国営化も止めとけと思うけど、いずれ国民に手ひどいツケを回して元に戻るのだから、痛い目に遭わないとわからない国民の愚行権。
 そこでマニフェストを見る。皆目、わからん。一覧表はないのかと探すと、ヤフーに「マニフェスト早見表」(参照)というのがあって、こりゃ便利と思って見た。でも、わからない。
 単純な話、民主党はデフレで増税やる気なんだろうか。マニフェストに書いてないんだよ。「消費税を含む税制抜本改革の協議を超党派で開始」というだけなのか。確かに菅さんの話は二転三転していて、結局、最近はどうなんだろう? わかんないんだよな。この人の言っていることも、あまり信じられない。
 なので、増税はしないと明記している政党はどれかと考えると、共産党と社民党。でも、両党、財政再建についてなんもデフレ克服についてもまるで考えていない無責任政党みたいに見えるので、パス。増税すると明記している自民もパス。すると幸福実現党? というのはヤフーの表には載ってない。まあ、それもパス。あれ、残りなし?
 私としても何が何でも増税はするなではなく、デフレ下でするなということなので、デフレ克服をどう考えているかという視点で見直してみる。名目成長率4%としている政党には、デフレ克服の考えがあるということなのだろう。
 すると、自民、公明、国民、新党改革、みんなの党が生き返る。民主は3%だけど、それもありか。
 と見ていて新党改革だけがインフレ・ターゲットに言及しているのを見つけた。これもデフレ克服と同じと言っていいだろうし、舛添さんはかねてそういう持論だったな。
 というわけで、こんなに選択肢が増えると、選べない。
 民主党のおかげでマニフェストで政党で選べなくなった。これはちょっと痛い歴史的教訓になった。さて、困ったな。

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2010.07.04

清少納言智恵の板

 「清少納言智恵の板」という日本版のタングラムがある。タングラム好きには必携の一品で、タングラムを世界的にリバイバルさせたサム・ロイドも感嘆していた。タングラムは、正方形を三角形・四角形の7片に切りわけ、2次元の形を作る遊びだが、あらかじめ形作られたシルエットにどう組み合わせるかとする、シルエット・パズルとして有名だ。
 タングラムと清少納言智恵の板の違いは、似ていると言えば似ている、違うと言えば違うようにも思える。相違についてはシルエット形成の利得から幾何学的な計算が可能なようにも思う。左がタングラム、右が清少納言智恵の板である。

 タングラムのほうが大きな三角形が2つあり、シルエット形成に強いボディを与える反面、面積を取ることからパズル的な解法戦略として着眼されそうでパズルの興を弱めるかもしれない。清少納言智恵の板のほうは、細いピースでまとまっていることから、線画的な表現がしやすい。中抜きなども作りやすい。ひらがなのいろはも表現できるらしい。


cover
大人の健脳パズル3
清少納言智恵の板
 清少納言智恵の板の原理はこれだけなので、木片などを切り出し、シルエット集があれば楽しめる。市販品はあるにはある。学研が出している「大人の健脳パズル参 清少納言智恵の板」(参照)がそれだ。これが非常に変った企画だ。微妙に通向けを狙った開発元クロノス(参照)の思いは伝わってくるのだが、単純にパズルとして楽しむ企画、あるいはもう少し現代日本人にもわかりやすい解説冊子を別途添付して教養をくすぐる企画であったらよかったのかもしれない(もちろん、クロノスの購入者向けに特別ウェブページは評価したい)。
 製品は一時代前のパッケージソフトのような箱に、手のひらに載るサイズの黒檀の「清少納言智恵の板」に、江戸時代の「清少納言智恵の板」「江戸ちゑかるた」合本のミニチュア復刻本が付いている。黒檀ピースの出来は悪くない。どうせならもっと上質の黒檀がいいとは思わないでもないが。復刻本も手のひらサイズでしかもステープラー中閉じで、紙質も残念というのがつらい。黒檀上質+リアル復刻+解説新書で6000円でいけなかっただろうか。ちょっと悔やまれる。
 それでも、この「清少納言智恵の板」復刻本は面白い。出版されたのは「寛保二年 戌八月」とあるので1742年である。同年代の人物を連想すると、平賀源内が1728年生まれなので、源内は遊んでいたかもしれない。関孝和は1708年に没しているので、江戸時代の数学的な知性はすでに絶頂期にあったと見てよいだろう。
 「清少納言智恵の板」が出版された1742年の夏は江戸では寛保二年江戸洪水があったが、同書は京都で出版されている。
 著作者だが「含霊軒述」とあるので、「含霊軒」という人なのでろうが、見ればわかるように戯れ言である。「霊軒」は号で、貝原益軒(1630-1714)を連想させる。なお、益軒号は最晩年のもののようでその名で生前知られていたわけではないだろう。ちなみに、伊藤仁斎は益軒とほぼ同年代なので儒学の風土も連想される。荻生徂徠(1666-1728)は少し遅れるが、荻生徂徠なども当時のインテリらしく中国かぶれしていて、物徂徠と称していた。「含霊軒」も、含・霊軒ということで何かの洒落なのではないか。ただ、「含霊」も言葉としてはあるのでよくわからない。が、概ね、中国人由来を擬していると見てよさそうで、そのあたりが、タングラムの起源史を曖昧にしている要因かもしれない。
 時代の感覚を知るには内容にも立ち入ってみるとよい。「清少納言智恵の板」を読んでみよう。原文は崩し字で書かれている。

清少納言の記せる古き書を
見侍るに智ふかふして人の
心目をよろこばしむこと多し
其中に智恵の板と名づけ
図をあらわせるひとつの巻
あり是を閲するに幼稚の児女
智の浅深によって万物の形
を自然にこしらへもろもろの器
の図はからずも作り出すこと
誠に微妙のはたらき有しかれ
ども其図は往昔の器物の形
又は雲上の御もてあつかひの品
ゆへ今の児女その心を得がた
し故にあらたに図を作り
当用の器物まぢかき形を
記せり人々智の至るところ
にしたがひ板のはこびによっ
て品かわりたる形あらはれ
ずといふことなしこゝに手
引のために百分の壱つを示
すものなり初に諸物の図を
出し奥に板のならべ様の図
を載すされども奥のならべ様を
見ずして初めの図のごとく
人々の作意にて七つ板のならべ
はこびを考へ給はゞ不測の
はたらきありて一座の興を
催すべきものならし

寛保二年 戌八月 含霊軒述

秘伝の巻に残らず顕はすといへども
爰に壱つを出し板のならべ様を見す

八角かがみ
七つ板
ならべ様


 清少納言が書いたとされる書籍を読むと智恵が付き心豊かになることが多いが、その書のなかで「智恵の板と名づけ図をあらわせるひとつの巻」を見つけたというのだ。もちろん、大嘘である。
 当時というかこの時代より前になるが、仮名草子で「清少納言犬枕」などが有名になっていた。犬というのはまねごとという含みで、枕は枕草子。ようは、枕草子のパロディー文化であり、「物は尽くし」の趣向である。すぐにわかるように、落語の起源とも関わりがあるだろう。
 枕草子がパロディー化される前後関係はわからないが、「清少納言犬枕」でもわかるように、清少納言がどうもネタキャラになっていたようだ。他にも類書はある、とちょっと調べていたら、こんなの発見。「暴れん坊少納言1 (ガムコミックスプラス:かかし朝浩)」(参照)。日本人って変わらないなあ。いずれにせよ、江戸時代の清少納言はネタキャラ化していて、その類推から「清少納言智恵の板」が出てくる。
 「清少納言智恵の板」のターゲット読者だが、「是を閲するに幼稚の児女智の浅深によって万物の形を自然にこしらへもろもろの器の図はからずも作り出すこと」というくだりから、どうも女子供向けということが窺われる。
 これを裏付けるのが、ボストン美術館蔵、喜多川歌麿(1753-1806)の「角玉屋内 誰袖 きくの しめの」(参照)に描かれている智恵の板だ。

 画中のピースを見ると7つ以上あり、また、長方形も含まれているので「清少納言智恵の板」ではないかもしれない。時代的には、1780年代であろうか。「清少納言智恵の板」の1742年以降も智恵の板は楽しまれていたようだ。
 「大人の健脳パズル3 清少納言智恵の板」に含まれているシルエット集「江戸ちゑかた」は天保八年(1837年)の刊行なので、その後、明治時代が近くなるまで「清少納言智恵の板」は楽しまれていたようだが、さらに明治時代にも続く。樋口一葉「たけくらべ」(参照)に登場するからである。明治28年(1895年)の小説である。


あゝ面白くない、おもしろくない、彼の人が來なければ幻燈をはじめるのも嫌、伯母さん此處の家に智惠の板は賣りませぬか、十六武藏でも何でもよい、手が暇で困ると美登利の淋しがれば、

 主人公の女の子が暇つぶしに智惠の板を所望している。それらが玩具として普通に販売されていたこともわかる。さらに、主人公の美登利は遊女になる身の上なので、智惠の板は遊女の文化という背景も多少あるのかもしれない。
 天保八年ですでに「江戸ちゑかた」とあり、樋口一葉の時代に「智惠の板」とあることから、すでに明治時代以前に犬枕・清少納言という文脈は抜けていたのだろう。
 ところで、タングラムと清少納言智恵の板の起源の関係だがわからない。タングラムの歴史は、サム・ロイドが古代中国とかいう冗談を言ったため欧米では俗説が蔓延しているようでもあるが、「[書評]タングラム・パズルの本 Tangram Puzzles: 500 Tricky Shapes to Confound & Astound(Chris Crawford): 極東ブログ」(参照)にも否定の言及があった。
 起源については、1800年代の中国とする説が有力のようだが、実際の文献として遡及できる最古のものは日本の「清少納言智恵の板」であり、冷ややかに考えればタングラムの起源は日本だとしてよさそうに思う。
 その場合、「清少納言智恵の板」のカットからタングラムのカットに変化したことになる。自分が学んだ言語学や聖書学の類推すからすると、その派生を合理的に示唆する数学的な指標みたいなものがあればよいのだが、よくわからない。直感的にはタングラムのほうが単純なカットのようにも思えるが、シルエット形成のディテール部は「清少納言智恵の板」と同様であり、そもそもシルエット・パズルを想定してカットされたなら、「清少納言智恵の板」が原型にあると見てよいようにも思える。あと、この発想は、折り紙から来ているのではないかという思いからも、タングラムの起源は日本ではないかと私は思う。

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