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2010.05.28

鳩山由起夫首相の尖閣諸島帰属問題意識について

 古い話から。
 東京オリンピックが開催されたのは1964年の秋、10月10日であった。これを記念した体育の日は現在ではその日に固定されてはいない。この年、東京の夏は、間近に迫る世界大会を前に活気にあふれていたが、重苦しい国際ニュースもあった。
 1964年8月2日、ベトナム北部トンキン湾にいる米海軍駆逐艦に対して、北ベトナム軍の哨戒艇が魚雷と機関銃で攻撃した。ベトナム戦争時代であり、北ベトナム軍は南ベトナムの軍だと誤認した。これがトンキン湾事件で、米国が本格的にベトナム戦争に介入するきっかけとなり、翌年から北爆(無差別爆撃)が開始された。現在ではこの事件は米国による陰謀であることがわかっている。ポスト安保闘争としてベトナム反戦運動を体験した団塊世代が、米国の関与する戦争をなんでも陰謀ではないかと見たがるのにはこうした背景がある。
 ベトナム戦争を始めたのは米国民主党である。ジョン・F・ケネディ大統領が開始し、リンドン・ジョンソンが継続した。米国世論がベトナム戦争への対応で二分されるなか、1968年にその未来を決めるべき大統領選挙が行われた。民主党の候補はヒューバート・ホレイショ・ハンフリーで、共和党の候補はリチャード・ミルハウス・ニクソンであった。支持者数は両党に及ばないが、アメリカ独立党はジョージ・コーレイ・ウォレスを立て、副大統領候補にカーチス・ルメイ(参照)を指名した。無差別爆撃こそが決め手と考えたのだろうか。
 1969年大統領に選出されたのはニクソンである。そして彼のもとでベトナム戦争は終結に向かうことになる。これと並行して、米国民主党政権では一顧だにされなかった沖縄返還の道が開けるようになった。
 ちなみに、よく日本はサンフランシスコ条約で1952年に独立を果たしたと言われるが、これには沖縄は含まれていない。沖縄なしで日本が成立するという誤解がいまだに日本に広まっているためであろう。
 沖縄は太平洋戦争終了後ずっと米国統治下に置かれていた。普天間飛行場に駐留する米海兵隊も米国統治下の沖縄に「あそこは日本ではないから」という理由で岐阜県と山梨県から移転されたものである。「米軍は日本から出て行けということで、日本ではない沖縄に基地機能が移転されたこと」を思うと、日本ではないテニアン諸島に米軍を移転せよという主張は、なんのことはない米国植民地主義を肯定する日本ナショナリズムであることがよくわかる。
 日本の自民党佐藤栄作首相とそのスタッフの尽力により(参照)、1969年、沖縄返還が約束された。返還が実現したのは1972年である。今年は本土復帰から38年になる。鳩山首相のようによく間違える人がいる(参照)。
 かくて話がようやく話題の尖閣諸島になる。当然だが、1972年以前の尖閣諸島を管理していたのは米国であるが、これは米国統治下の沖縄にある琉球政府が担っていた。
 沖縄が日本に返還されることが決まった1969年、国連アジア極東委員会(ECAFE)が尖閣諸島海底に石油が埋蔵されている可能性を示唆した。これを受けて、中華民国、つまり台湾国民党政府は、その海域を自国領土と見なしていることから、米国ガルフ社に石油採掘権を与え、台湾国民党政府自らも尖閣諸島魚釣島に上陸し、中華民国国旗である青天白日旗を掲揚し、国際報道を行った。
 この事態に琉球政府は困惑した。琉球政府としては、尖閣諸島は石垣市の所属と見なしている。1969年5月、石垣市は尖閣諸島に住所番地を記載したコンクリート標柱を設置、翌年1970年9月、尖閣諸島魚釣島の青天白日旗を撤去した。
 日本としては、すでに沖縄返還が確約されているとの立場から、同じく1970年9月、尖閣諸島が日本の主権下にあることを宣言した。
 米国のこの時の対応は微妙なものである。米国としては、尖閣諸島の帰属は琉球政府にあるとするに留めた。
 台湾国民党政府としては、当面の状況認識として尖閣諸島の領有の主張を米国に阻まれた形になったため、対抗するコメントを出すことができない状態になった。いわば、政府の弱みを露呈したことになる。こうしたとき、中国圏ではかならず弱みを突く政治工作が始まるのが法則である。
 1971年、台湾国民党政府および在米留学生による保衛釣魚台運動が開始される。現台湾馬英九総統も学生時代には保衛釣魚台運動を支持する論文を書いている。

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台湾ナショナリズム
東アジア近代のアポリア
 保衛釣魚台運の中心となったのは、大学院生だった王暁波である。丸川哲史著「台湾ナショナリズム」(参照)によると、彼は、『中華雑誌』に「保衛釣魚台!」というアジ文を発表した。王の意味づけでは、この運動は五四運動につながるものであった。保衛釣魚台運動は台湾の大学を拠点に素早く全土に広がったが、同年にその活力は減速し、1972年には、直接この運動のせいとは言えないものの、王暁波も逮捕された。
 経過からでもわかるように、保衛釣魚台運動は、愛国主義に正義を借りた国民党政府批判が本質であると言える。その後、保衛釣魚台運動は大陸中国からも繰り出されくるようになる。保衛釣魚台運動は愛国主義で煽動する自国政府批判という定番の構図が浮かび上がる。
 1971年12月には、今度は中国人民共和国、つまり、大陸共産党政府が、尖閣諸島の領有権を主張した。尖閣諸島が中国大陸棚上にあることや、竹島問題でもありがちのなんやかやの古文書を持ち出す理屈である。
 最近、保衛釣魚台運動について少し動きがあった。5月1日付け共同「尖閣防衛へ世界連盟計画 華人結集、来年上陸目指す」(参照)より。

 台湾で尖閣諸島(中国名・釣魚島)の領有権を主張する団体「中華保釣(尖閣防衛)協会」の黄錫麟秘書長は1日までに、世界各地の華人団体を結集して世界中から船などで同諸島上陸を目指す「全球保釣大連盟」を結成する計画を進めていることを明らかにした。
 米国から日本への尖閣諸島の施政権返還を決めた沖縄返還協定調印から40年となる来年6月17日に、同連盟から傘下団体に上陸を呼び掛ける。上陸活動が国際的に拡大すれば、阻止活動を行う日本当局は対応に一層苦慮しそうだ。


 黄秘書長によると、連盟結成は香港の団体が提案し、4月半ばに推進を決定。同秘書長が中心になって、中国本土やインドネシアなどの団体と連絡を取り、既にアジア地域では連盟結成への同意を取り付けた。

 すでに行動は開始されている。26日付け日経新聞「台湾の団体、尖閣諸島に接近 海保が阻止 」(参照)より。

 日本の対台湾交流窓口である交流協会台北事務所などによると、尖閣諸島(中国名は釣魚島)の領有権を主張する台湾の団体、「中華保釣協会」のメンバーが乗り込んだ漁船が25日午後、尖閣近海の日本の排他的経済水域(EEZ)に入り、日本の巡視船の警告を受けて引き返していたことが26日わかった。同団体は「釣魚島への上陸を目指していた」としている。
 日台間では今月6日、奄美大島西方沖の日本のEEZ内で事前通告なしに調査活動を実施していた台湾当局の調査船を日本の巡視船が発見。巡視船の警告に加え、今井正・交流協会台北事務所代表が台湾の楊進添・外交部長(外相)に抗議したにもかかわらず、14日まで同水域内にとどまる事件が起こったばかり。

 日本の鳩山由紀夫首相も友愛精神からなる「東アジア共同体構想」からだろうか、こうした運動に答えている。普天間飛行場撤去問題に関連して突然開催された昨日の全国知事会議の要旨、産経新聞「【普天間】首相と知事会のやり取り」(参照)より。

 東京都・石原慎太郎知事「尖閣諸島で日中が衝突したら日米安全保障条約は発動されるのか。沖縄問題の前に日本の領土を守る抑止力があるかどうかを米国に確かめてほしい」
 首相「(尖閣諸島の)施政権は当然日本が有しているが、日中間で衝突があったときは、米国は日本に対し安全保障条約の立場から行動すると理解しているが、確かめる必要がある。米国は帰属問題は日中間で議論して結論を見いだしてもらいたいということだと理解している

 いろいろちゃぶ台返しがお好きな民主党なので、自民政権で麻生前総理が詰めておいた確約もすでに覆しているのかもしれない。
 鳩山首相は「確かめる必要がある」としているが、昨年の2009年2月26日の衆院予算委員会で、自民党の麻生前首相は、尖閣諸島への安保条約適用を米側に確認するとし、外務省が改めて米側に再確認した経緯がある。「尖閣諸島に安保適用/米公式見解」(読売新聞2009.3.5)より。

日本が攻撃された場合に米国が日本を防衛する義務などを定めた日米安全保障条約が尖閣諸島に適用されるかどうかの米側解釈の問題を巡り、米国務省は4日、適用されるとの公式見解を示した。読売新聞社の質問に答えたもので、当局者は「尖閣諸島は沖縄返還以来、日本政府の施政下にある。日米安保条約は日本の施政下にある領域に適用される」と述べた。このオバマ政権としての見解は日本政府にも伝えられた。

 尖閣諸島の帰属問題については、学者さんには各種の議論があるものの、鳩山首相が米国の思惑として示唆するような、「日本と中国の当事者同士でしっかりと議論して、結論を見いだしてもらいたい」という見解を戦後一貫して日本政府は取っていない。
 政治主導の民主党なので、尖閣諸島の帰属も、民主党の観点から見直したいのかもしれない。

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2010.05.27

北朝鮮によるソウル急襲シナリオ

 韓国哨戒艦沈没事件を巡って、北朝鮮国防委員会報道官は、制裁が実施されれば、即時に全面戦争を含む各種の強硬措置で応じると20日アナウンスしたこともあり(参照)、いろいろ危機も取り沙汰されている。だが、実際には北朝鮮は意外なほど冷静な対応を取っている。
 北朝鮮祖国平和統一委員会はそれを示唆している。実質的な北朝鮮側からの応答は、南北関係の全面閉鎖、南北不可侵合意の全面破棄、南北協力事業の全面撤廃というくらいで、開城工業団地閉鎖への明確な言及はない。現実、開城工業団地と往来する南北間の陸路通行は26日時点でも開放されている(参照)。開城工業団地を人質にはとらないというメッセージである。仔細に見れば、北朝鮮側が戦争を避けようとしているシグナルが読み取れる。であれば、金正日総書記訪中もその流れであったと見てよいかもしれない。
 日本の鳩山首相はといえば、普天間問題という大失態のカムフラージュのためか「この国はこの国の人々で守るという、すべての国にとって当たり前の発想が今の日本にはない」(参照)とますます明後日の方向に息巻いているが、米中側としては事態がすでにもつれ込み過ぎているのでまずは静観というところだろう。
 概ねそれほど緊張した事態ではないと見てもよいのだが、二点気になることがないわけではない。一点目は、セプテンバーイレブンのような不測の事態だ。不測の事態というのだが予想もできないので、対応といってもナンセンスのようだが、同種の衝撃規模の事態が発生したときに日本国の対応はどうだろうか、という懸念はある。急に東アジアの現実に日本国民が目覚めましたというのでは無理を起こしかねない。二点目は、それでも北朝鮮からの急襲シナリオはありそうだということだ。
 話は実は今回の事態とは直接関係がない。が、関連して注視されるようにはなってきている。4月27日中央日報「金正日、「対南作戦計画」を変更」(参照)がわかりやすい。


 北朝鮮軍が韓国に対する作戦計画を変えたものと把握されている。
 軍関係者は26日、「北朝鮮軍が全面戦争を想定した従来の‘5-7戦争計画’を‘制約的占領後に交渉’方式に変えたものと判断している」とし「韓米軍の発展した武器に対処するための措置と見ている」と述べた。
 北朝鮮軍が1980年代に樹立した「5-7戦争計画」は、開戦初期に長距離射程砲などを浴びせた後、機械化部隊を前面に出して5-7日間で韓国全域を掌握する計画だ。
 この関係者は「北朝鮮軍の新しい計画は、開戦初期にソウルと首都圏に戦闘力を集中的に投入して占領するというものだ」とし「まず首都圏を占領した後、状況によって南にさらに進撃するか、その状態で交渉に入る方式」と説明した。韓国の経済力が集中しているソウルと首都圏を占領すれば、有利な条件下で交渉が可能ということだ。

 同記事でも指摘があるが、イラク戦争で示された米国の圧倒的な戦力と北朝鮮の国力低下から、北朝鮮は80年代に策定した軍事シナリオを放棄せざるをえなくなっている。つまり、朝鮮戦争のような半島全体に及ぶ軍事活動は北朝鮮はすでに無理。そこで新時代の戦略として、ソウル占領作戦が出てきたようだ。ソウルを国際社会に向けて人質に取る作戦だ。
 韓国軍側の現状理解はこうだ。

 軍関係者は「北朝鮮軍は南北間の通常戦力の差を克服するために前方部隊を改編した」とし「後方駐屯機械化軍団を機械化師団で編成した後、休戦ラインを担っている前方の4個軍団に1個師団ずつ前進配置したと把握している」と伝えた。
 また韓国の後方かく乱のために4個前方軍団に特殊部隊の軽歩兵師団を1個ずつ設置した。前方師団の軽歩兵大隊は連隊級に拡大改編した。軍当局は、これら軽歩兵部隊が韓国の前方部隊のすぐ後方に侵入し、かく乱作戦を行う、と見ている。北朝鮮は軽歩兵部隊の前方配置のほか、ミサイル・生化学武器などの非対称戦力を強化してきた。

 不可能な戦略ではないだろう。不安を招きたいわけではないが、開城工業団地がトロイの木馬である懸念も払拭しがたい。
 問題はこのシナリオの文脈に韓国哨戒艦沈没事件を置くとどうかということだが、そこが難しい。

 軍当局は、北朝鮮が韓米連合軍の上陸を防ぎ、韓国の海軍力に打撃を加えるために、先端魚雷および機雷戦力を補強したのも、その一環と判断している。

 それは少し無理な読みという印象もある。
 しかし、欧米報道でもあるグローバルポストも、中央日報経由でこのシナリオを国際的に吹いている。「North Korea: the drumbeats of war」(参照)より。

The new plan, it says, has added light infantry divisions at the front line to increase the speed with which the North could achieve a fait accompli by taking Seoul.

新シナリオによると、北朝鮮がソウル奪取の既成事実確立ができるように、急襲用の小規模歩兵師団を加えているとのことだ。

The JoongAng Ilbo article noted that South Korean military officials think North Korea has acquired late-model torpedoes from Iran, in exchange for submarines, and plans to use them to prevent a U.S.-South Korean landing behind the front lines.

中央日報記事では、北朝鮮は潜水艦との交換でイランから最新型魚雷をすでに獲得しているという韓国軍部の着想を記している。この魚雷によって、前線背後からの米韓上陸を防ごうとするものだ。


 こう書かれると仁川上陸(参照)の阻止だろうかという連想が浮かぶが、いずれにせよ、朝鮮戦争に関わった西側の懸念ポイントをグローバルポストは表現しているようだ。

 グローバルポストの視点といえば、事態のアウトラインについて「The Cleanest Race: How North Koreans See Themselves and Why It Matters」(参照)の著者マイヤーズを引いてこう描いている。


“The assumption prevails that the worst Pyongyang would ever do is sell nuclear material or expertise to more dangerous forces in the Middle East,” Myers writes. “All the while the military-first regime has been invoking kamikaze slogans last used by imperial Japan in the Pacific War.”

マイヤーズの書籍によると、「北朝鮮がやりかねない最悪の行動は核物質や核兵器情報をより危険な中近東に売ることだという推測が広がっているが、並行して、この軍事最優先体制は、カミカゼ・スローガンを続けている。それは、前回、大日本帝国が太平洋戦争でしていたスローガンである。


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The Cleanest Race:
How North Koreans See Themselves
and Why It Matters:
B.R. Myers
 欧米からは、北朝鮮、その汚れなき民族がやっているのは、日本と同じだということだ。いうまでもなくその含みは、オバマ大統領も選挙中に強調していたように、米側から卑劣に見えた真珠湾攻撃への恐怖である。
 戦後の日本人の私からすれば、なるほど北朝鮮とは戦前の日本のようだとも思う。だが、北朝鮮は戦前の日本よりずっと賢いのではないかとも思う。大きな違いは、日本の戦時下の苦難が数年であったのに対して、北朝鮮の市民の苦難はそれより遙かに長いことだろう。

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2010.05.25

[書評]集中講義!アメリカ現代思想 リベラリズムの冒険(仲正昌樹)

 「集中講義!アメリカ現代思想 リベラリズムの冒険(仲正昌樹)」(参照)はけっこう前に読んだ本だが、この本、失礼な言い方になるのをおそれるが、著者の考えが明示的に書かれた本というより、学習参考書というか事典といったタイプに見える書籍なので、便利ですね、お得ですね、という以外なかなか書評しにくいところがある。

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集中講義!アメリカ現代思想
リベラリズムの冒険
仲正昌樹
 もちろん、現代アメリカのリベラリズム思想の系譜をこれだけきちんとまとめるには、独自の視点が必要だということは当然なのだが、その視点とは何かと考えると、仲正氏の資質でしょうというのも拙いし、日本人的な微妙な立ち位置でしょうと言うのも自分が馬鹿みたいに思えるものだ。加えて、本書に紹介されている各種書籍を私が網羅的に読んでいるわけでもないので、所詮アマチュアが何を言うか、吉本隆明主義でもぶち上げますか、みたいなさらにお馬鹿みたいな話になりかねない。
 とはいえ、ざっと読み直したのは、昨日のエントリ「[書評]これからの「正義」の話をしよう いまを生き延びるための哲学(マイケル・サンデル): 極東ブログ」(参照)の関連である。サンデル教授の講義はたしかに白熱といったものなのだろうし、つまり、教育的な立場や実践的な思想という立場からするとすばらしいとしか言いようがないが、思想史的に見ると、こう言うと悪いが、ごく凡庸な代物である。教育なのだから凡庸でかまわないのだが、凡庸さの流れが、本書「集中講義!アメリカ現代思想 リベラリズムの冒険(仲正昌樹)」からよくわかる。

 ロールズ、ノージック、ローティの三人が亡くなり、「九・一一」以降のアメリカ内外の混迷状況に対応した壮大で体系的な理論を展開できそうな新世代の理論家が今のところ登場していないこともあって、「リベラリズム」は現在停滞期に入っているように思われる。コミュニテリアンのウォルツァーやサンデルも、相変わらず文化的共同体への帰属の重要性を強調し続けているだけで、「九・一一」に象徴されるような、破壊的な暴力にまで至る文化的な対立を解決できそうな画期的な提案をしているわけではない。

 あっけなく言うとそういうことにもなる。
 ただ、そういうあっけない部分を、学参的に暗記してもしかたないし、サンデル教授が地味にアリストテレスやカントを解き明かしたような思索の経緯は、まさに教育として重要な価値を持つことは確かだ。
 本書の場合、ロールズの議論を中心に、リバタリアニズムとコミュニタリアニズムの三者というおきまりの対立を、アメリカの戦後史のなかで俯瞰し、さらに画期的な提案はないとしても「九・一一」がもたらした各種の模索も、この三者の後継として、ネグリの思想やセンの思想なども紹介されている。他にも興味深い指摘もある。私はロールズの思想はナショナリズムに同型ではないかと見ているが、その克服の模索もあることは本書でわかる。

 ロールズの正義論をグローバルに展開する試みとしては、国際政治学者のチャールズ・ベイツ(一九四九-)が、国際関係論の視点から「正義」を論じた『国際秩序と正義』を一九七九年に出している。また九〇年代の半ばからロールズの正義論を現実的な構想として読み直すことを試みているホッゲは、その一環としてグローバルな正義論を導きだそうとしている。二人とも、ロールズの正義論が事実上、既成の「(国民)国家」を前提にしていることに関して批判的で、格差原理をグローバルに展開して貧困問題を解決しようとしている点は共通している。

 その詳細までは本書からはわからないが、私の印象では、率直に言えば、ロールズを使った知的なパズルのようにも思える。
 むしろ、「正義」概念を現実の国際政治の文脈から抽象してもて遊んだり、古くさいレーニン流左翼のペンキ塗り直しのような日本の思想状況では、知それ自体がパズルの様相を帯びるのは仕方ない。
 日本の知の状況はローティの言う文化的左翼そのものであり、「[書評]〈現代の全体〉をとらえる一番大きくて簡単な枠組(須原一秀): 極東ブログ」(参照)、「[書評]高学歴男性におくる弱腰矯正読本(須原一秀): 極東ブログ」(参照)、「[書評]自死という生き方 覚悟して逝った哲学者(須原一秀)」(参照)で触れた須原一秀は、この状況に怒った、独自なローティ哲学の過激な実践であった。余談だが、三島由紀夫でもそうだが日本の文脈で哲学が実践化するとき、どうしていつも自死が問われてしまうのか。これはイザヤ・ベンダサンがすでに解き明かしている。
 ローティの文化的左翼はまさに日本の知的な状況を描写している(強調部分は本書ママ)。

 そうした、「経済」の仕組みをあまり考えず「文化」にばかり力を入れる左翼のことを、ローティは「文化的左翼(Cultural Left)」と呼ぶ。ポストモダンの影響を受けた「文化左翼」は「差違の政治学」とか「カルチャラル・スタディーズ」などを専門とし、差別の背後にある深層心理を暴き出すことに懸命になる。彼らはフーコーの権力批判やデリダの「正義」論など、ポストモダンの言説に依拠しながら、現在の体制下でいかなる”改善”にも意味がないことを暗示する。ローティに言わせれば、「文化左翼」は、半ば意識的にアメリカ主義にはまっている。彼らが「アメリカを改良することはできない」という前提に立って、”差別を構造的に生み出すアメリカ社会”を告発し続けている限り、いかなる現実の改良も生み出すことができない。彼らは口先だけはラディカルであるが、現実の(経済的)改革には関心を持たないので、実はただの傍観者に留まっている。

 文化的左翼とレーニン流の古くさい老人左翼を薄ら左翼出版社と労働団体で結合すれば、日本の左翼的光景が一望できる。そしてそれが現実の改革に何ももたらさないことは、まさに日本の現況が示しているという意味で、アメリカ思想の問題はきちんと日本の状況を射ている。

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2010.05.24

[書評]これからの「正義」の話をしよう いまを生き延びるための哲学(マイケル・サンデル)

 「これからの「正義」の話をしよう いまを生き延びるための哲学(マイケル・サンデル)」(参照)をアマゾンで注文したとき、発送は随分遅れるとのことだった。発売日には来なかった。が、翌日来た。昨日である。読みやすく面白い。昨晩熱中して半分読み、今日後半を読み終えた。政治哲学をこれだけわかりやすく説明する書籍は希有ではないか。高校生や大学生には社会を考えていく上で是非お勧めしたい。

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これからの「正義」の話をしよう
マイケル・サンデル
 本書巻末謝辞を見ると、「本書は講義として誕生した」とある。講義は「ハーバード白熱教室」というタイトルで現在、NHK教育放送中らしい。私は見たことがない。英語のままであれば「Justice with Michael Sandel」(参照)で見ることができる。もっと小さなクラスの講義かと思ったら、大講堂での講義である。
 政治哲学というと厳めしいイメージがあるが、サンデル教授は卑近な例、日常的な問題、社会ニュースの話題など馴染みやすい切り口からそれらの問題の持つ本質的なことを解き明かしていく。
 例えば、あなたは時速100kmのスピードで路面電車の運転しているとする。その走行中に、ブレーキ故障に気が付く。直進すると前方の工事作業員5人をひき殺すことになるが、横の待避線入れば1人の作業員を巻き添えにするだけで済む。どうすべきか? やむを得ないのであれば1人の方へハンドルを切るという答えもあるだろう。では、第2問。前方5人は変わらずだが待避線はない。あなたは運転手ではなく線路を見下ろす橋にいる。そしてデブ男の後ろいる。デブ男を待避線上に突き落とせば、デブ男1人の死体で電車は止まり、5人が救える。どうすべきか? サンデル教授はおそらく「塩狩峠」(参照)を読んだことはないし、デブ男でないと自動車は止まらないらしい。
 この話は有名であり、いろいろバリエーションもあるが、本質は同じだ。5人が救えるからといってデブ男を突き落とす人はいないだろう。だがこの二問は、功利主義の考えからすると、最初の問いの1人の選択と同じになる。
 そしてサンデル教授は、功利主義批判を易しく展開する。功利主義とは、幸福の最大化ということだが、最大化には計量化が含まれ、人命も数値で換算され合理性が問われることになる。この奇妙な例はあくまで説明上のものだが、現実社会でも人命が功利主義的に考えられることがあることも、サンデル教授は解き明かしていく。
 人命を数値にして合理性を求める。それでよいのか? なにが正しいか。正義とは何か。本書のオリジナルタイトルが「Justice: What's the Right Thing to Do?(正義:何が正しい行為か?)」(参照)にはそうした含みがある。余談だが、英語では"Do the Right Thing(正しいことをなせ)"という言い回しもあり、スパイク・リー監督の同タイトルのアイロニカルな映画(参照)もある。映画は正義の持つ危険性をよく批判していて興味深い。
 本書は、政治的な課題や社会正義を考える立場として、功利主義の他に、自由の尊重と美徳の2つが提示される。2番目の自由の尊重は、ロックやカントに由来する古典的な自由主義と、現代のリベラリズムの基礎となるロールズの自由主義、さらにリバタリアニズムが問われる。特にカントとロールズの解説がわかりやすい。カントというと難しい哲学のようだが、サンデル教授は見事なほどわかりやすく実践的に解き明かしていく。リバタリアニズムについては、それらに比較してやや薄い解説に留まっている。
 3番目の美徳によって基礎づけられる正義の概念が、まさにサンデル教授の訴えたいところだ。思想の分類からすると、コミュニタリアニズムと呼ばれているものだ。日本では共同体主義とも訳されることから、伝統的かつ制約的な共同体や全体主義と誤解されがちだが、基本的にはリベラリズムのもつ問題点を克服するために提起された考え方だ。このため、リベラリズム、特にロールズの自由主義の考え方の対比が実践的に語られるのが本書の特徴である。その意味では、本書はわかりやすいロールズ批判とも呼べるものになっている。
 読んでいて興味深いのは、ロールズ批判でありながら、ロールズにのみ焦点を置くのではなく、正義を美徳で基礎づける考え方としてアリストテレスの哲学に深く踏み込んでいく点だ。サンデル教授の議論はどれもきちんと限界付けらていて他分野には及ばない。だが、経済範疇まで広げることは可能だろう。アリストテレス再考は経済学者田中秀臣氏の「需要(クレイア)の経済学」(参照)とも重なる点があり、知的な興味を誘う。
 本書の思想的な意義は、「ロールズかサンデルか」という問いを突きつけている点にある。だが、そのように定式化される以上に、現代日本人にも現実的な課題を投げている。その一例が、本書でも触れられている戦時慰安婦問題である。歴史的不正をどのように考えたらよいのか。先祖の罪を償うべきか? もちろん、これは難問である。公式謝罪について、その利点を挙げた後、サンデル教授はそれでも、状況しだいだと語る。

 これらのことが謝罪の根拠として十分かどうかは、状況しだいである。ときには、公式謝罪や補償の試みが有害無益となることもある。昔の敵意を呼びさまし、歴史的な憎しみを増大させ、被害者意識を深く植え付け、反感を呼び起こすからだ。公的謝罪に反対する人びとはそうした懸念を表明する。結局、謝罪や弁償という行為が政治共同体を修復するか傷つけるかは、政治判断を要する複雑な問題なのだ。答えは場合によって異なる。

 常識的な受け止め方でもあるだろう。だが、原理的に考えるとき、歴史的不正とはどのように問われるのだろうか?
 サンデル教授は、古典的な自由主義であれリバタリアニズムであれロールズのリベラリズム思想であれ、人間を自由で独立した自己と見るかぎり、こうした責は問えないとしていく。そしてそれでよいのだろうか、ということで、コミュニタリアニズムとして連帯の責務の議論を第三の責務として展開していく。
 この議論は本書の白眉として、第9章と最終章である第10章で展開され、とてもスリリングではあるものの、それまでの章のような明晰さは欠落していると私には感じられた。
 なぜか。連帯の責務は、サンデル教授の議論の展開からしてそうなのだが、兄弟愛や国家愛と接合していくからだ。愛国心には普遍性があるとしてこう彼は語る。

 したがって、愛国主義に道徳的根拠があると考え、同胞の権利に特別の責任があると考えるなら、第三のカテゴリーの責務を受け入れなければならない。すなわち、合意という行為に帰することができない連帯あるいは成員の責務である。


 歴史的不正への集団的謝罪と補償は、自分が属さないコミュニティに対する道徳的責任がどのようにして連帯をからつくりだされるかを示す例だ。自分の国が過去に犯した過ちを償うのは、国への忠誠を表明する一つの方法だ。

 つまり、ある国家が別の国家に歴史的な罪を謝罪すること自体がナショナリズムに基礎を置いていることになる。ナショナリズムがその罪責を生み出したのだから、それを償わせるのもナショナリズムなのである。
 私はサンデル教授の思想に違和感を覚える。私は、ナショナリズムが生み出した罪責はナショナリズムの解体を志向する方向で償わなければ、それ自身がナショナリズムを強化するし、また被害の側に転倒されたナショナリズムを強化することになると考える。歴史的不正がないとは言わない。だが、サンデル教授の理路は、違うのではないか。
 この違和感は、私のロールズのリベラリズムに対する違和感にも通じる。社会的な公平さを基礎づけるロールズの議論は、つまるところ、国家の内側に閉じている。ロールズは社会契約の暗黙的な合意を丁寧に議論するが、契約の内容が国家になることにおいて限界を持っている。人を差別することないようにする正義の女神の目隠しのような「無知のヴェール」も、すでにその国家の内側の構成員であり、その公平性は国家構成員内の限界を持つ。やはり、ロールズの公平もナショナリズムである。
 私はどちらかといえばリバタリアニズムを信奉するリバタリアンである。人は世界のどこに生まれても人権が保証されなければならず、そのために正義が行使されなければならないと考える(この考えはオバマ大統領と同じ)。
 そしてそのために、日本国憲法が明記するように、国家をその正義のための道具としなければならない、国家を正義の側に開いていく運動なくしてナショナリズムを克服することはできない、と考える。
 サンデル教授の議論では、国際化する現代に問われている正義の問題は解決できないのではないだろうか。
 余談だが、本書帯にある宮台真司氏の解説にやや不可解な違和感を覚えたので、記しておきたい。こう書かれている。

 1人殺すか5人殺すかを選ぶしかない状況に置かれた際、1人殺すのを選ぶことを正当化する立場が功利主義だ。これで話が済めば万事合理性(計算可能性)の内にあると見える。ところがどっこい、多くの人はそんな選択は許されないと現に感じる。なぜか。人が社会に埋め込まれた存在だからだ――サンデルの論理である。
 彼によれば米国政治思想は「ジェファソニズム=共同体的自己決定主義=共和主義」と「ハミルトニズム=自己決定主義=自由主義」を振幅する。誤解されやすいが、米国リバタリアニズムは自由主義でなく共和主義の伝統に属する。分かりにくい理由は、共同体の空洞化ゆえに、共同体的自己決定を選ぶか否かが、自己決定に委ねられざるを得なくなっているからだ。
 正義は自由主義の文脈で理解されがちだが、共和主義の文脈で理解し直さねばならない。理解のし直しには、たとえパターナル(上から目線)であれ、共同体回復に向かう方策が必要になる――それがコミュニタリアンたるサンデルの立場である。

 違和感はリバタリアンの理解についてである。
 「リバタリアニズムは自由主義でなく共和主義の伝統に属する」というのは、サンデル教授が本書で説くところとはかなり異なるのも奇っ怪だが、それでも宮台氏のような理解ができないわけではない。おそらく民主党=リベラル、共和党=リバタリアニズム、といったことなのだろう。だが、リバタリアニズムを共同体的自己決定主義としているところはいただけない。そのいただけない前提の上で、これをコミュニタリアンの共同体と接合しているのも困惑する。
 そうではない。共和主義とはローマのような帝国と市民の関係を指している。市民はコミュニティに所属しながらも、ローマ市民としての自由を持つ。パウロがエルサレムで逮捕されたとき、彼はそのコミュニティの法に従うことはなかった。彼はローマ市民だからだ。リバタリアンとは、むしろ帝国の平和のなかで国家が解体された自由の個人を指すものだ。「共同体回復に向かう方策」とはまったくの逆である。

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2010.05.23

鳩山由紀夫首相の嘘

 各種の問題に接したとき最も効率的な手法を決定するのがオペレーションズ・リサーチ(operations research)という学問で、鳩山由紀夫首相はこの博士号を持つ。博士号をもつ首相というのは国際的にも珍しい。米国人ならその称号にまず驚き敬意を払う。だが、実際に驚いたのはそこではなかった。
 鳩山首相は、普天間飛行場撤去問題を五月末までに決着すると国民に約束した。腹案もあると述べていた。まだ一週間がある。腹案を待ちたいところだが、おそらくはもう鳩山首相の心は歓迎で迎えてくれるはずの上海万博に飛んでいるのでないか。
 嫌な兆候はあった。普天間飛行場は最低でも県外移設が「五月決着」なのだから、今月いっぱいで問題は決着し、五月以降は実施に向かうというのが普通の理解だろう。だが五月に入ってから鳩山首相から漏れる「五月決着」の意味合いは変りつつあった。10日付け時事「普天間、5月決着断念=地元、米との合意困難」(参照)より。


 首相は同日夕、首相官邸で記者団に「沖縄と移設先、米国、連立与党の皆さんが『この方向でいこうじゃないか』ということでまとまることを、私は合意と呼んだ」と表明。これまでは、米国や地元などの「合意」を得て5月中に決着させると繰り返してきたが、「方向性」で一致できれば、「5月決着」の約束には反しないとの立場を示したものだ。

 また、「首相“合意の定義変えてない」(NHK 5/10)では、こうも述べていた。

 鳩山総理大臣は記者団に対し、「沖縄の皆さん、移設先にかかわりのある皆さん、さらにはアメリカや連立与党が、『わかった、この方向で行こう』とまとまることを『合意』と私は呼んだが、合意の定義を変えているわけではない。5月末までに、その合意が得られるような状況を作る」と述べました。

 決着の意味は、期限の五月末が近づくにつれ、沖縄、移転先県、米国、連立与党四者の方向性合意ということになった。しかし、四者で方向性が確認できれば、きちんと計画は可能だし、実務が待つばかりだから、許容できないものでもない。
 だが、今日、沖縄入りした鳩山首相の言葉からわかったことは、その方向性の合意は取れなかったということだった。今日付け朝日新聞「「県外、守れなかった」首相が沖縄知事との会談でおわび」(参照)より。

国内および日米の間で協議を重ねた結果、普天間の飛行場の代替地そのものはやはり沖縄県内に、より具体的に申し上げれば、この辺野古の付近にお願いをせざるをえないという結論に至ったところでございます。

 仲井真弘多沖縄知事の答えは明白だった。今日付け毎日新聞「普天間移設:首相「辺野古」表明 知事「厳しい」」(参照)より。

仲井真知事は「極めて大変遺憾だという点と、極めて厳しいことをお伝えするしかない」と述べ、県内移設は受け入れられないとの考えを示した。

 仲井真知事は前もってこう述べてもいた。今日付け沖縄タイムス「県内反発 不信も増幅 鳩山首相きょう再来県」(参照)より。

 仲井真知事は「場所も特定しないで工法というのは意味がない。杭(くい)打ちだか何かはエンジニアの話で僕らの知ったことじゃない」と政府からの伝達を否定。知事周辺は口々に「何も中身がないまま、政府はどんどんこちらを追い込んでくる。信じられない」とあきれかえる。
 仲井真知事は、今月10、11日に都内で会談した前原誠司沖縄担当相、北沢俊美防衛相、平野博文官房長官からも政府案の詳細を伝えられず、「食事はしても、協議は一切していない」と不信感を増幅させた。

 まったくのコミュニケーションもなかった。沖縄県民からすれば県外移設のための鳩山氏が汗をかいた形跡はこの一年弱ではあるが、まるで感じられることはなかった。
 合意に必要な四者の一人、連立与党はどうか。今日付け時事「辺野古移設、断じて反対=福島社民党首」(参照)より。

 社民党の福島瑞穂党首(消費者・少子化担当相)は23日、福岡市で記者会見し、鳩山由紀夫首相が米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の同県名護市辺野古周辺への移設を表明したことについて「実現不可能だ。沖縄県知事がサインするとは思えない。断じて反対を表明する」と語った。

 「五月決着」とは鳩山首相の定義では、沖縄、移転先県、米国、連立与党、四者の方向性合意であった。沖縄の合意は取れなかった。移転先県については、合意不要とみなしたのだろうか。連立与党も合意していない。合意のための尽力くしたのは、たった一者、米国だけだった。曖昧で話にならないと突っぱねることもなく、米国だけが結果的に民主党鳩山政権を支援した。
 期限はあと一週間はある。ただ、無理だろう。そしてこの話はもう終わったと見ても妥当だろう。政権交代選挙一か月前の昨年7月29日に「民主党の沖縄問題の取り組みは自民党同様の失敗に終わるだろう: 極東ブログ」(参照)と予測しておいたので、私としてはとりわけ意外ではないが、ここまでひどいことなるとは思っていなかった。仲井真沖縄県知事も当初は鳩山政権を支えようと示唆してもいたが、裏切られた形になった(参照)。
 この件で、ひどいなと思うことはいろいろあるし、それはブログにも書いてきた。それでも今日、唖然とした。公然と嘘をつく鳩山由起夫首相の姿があった(参照)。

私自身の言葉、出来る限り県外だということ、この言葉を守れなかったということ、そしてその結論に至るまで、その過程の中で、県民の皆さん方にご混乱を招いてしまいましたことに関して、心からおわびを申し上げたいと思っております

 それは嘘だ。
 「出来る限り県外」ではない「最低でも県外」と言っていたのだ。前回の沖縄訪問以降でもだ。6日付け朝日新聞「「最低でも県外、自分の発言」 鳩山首相、党公約を否定」(参照)より。

 鳩山由紀夫首相は6日午前、米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の移設先を県外とする方針の転換を沖縄県側に説明したことについて、「『最低でも県外』と言ったのは自分自身の発言。自分の言葉を実現したいと思い、政権の中で努力してきた」と釈明した。

 鳩山首相はこれまでもころころと意見を変えてきた。しかし、これは沖縄県民への約束であった。その結果は嘘だった。もっといえば、国民への嘘なのである。その言葉が信頼できない首相とは何者であろうか。
 鳩山首相はもう嘘をついているという自覚もないのかもしれない。先の沖縄タイムス記事にもそれを窺わせる挿話がある。

 鳩山由紀夫首相は4日の初来県後、周囲に「自分はそんなに反対されたとは思わない」との感触を漏らしている。周辺によると「首相はむしろ歓迎されたと思っている」という。
 4日は県庁前広場をはじめ、首相が立ち寄る各地で抗議行動が起きていた。しかし首相は「どこでも、同じ人が集まっている印象がある」と感じ、「車で走っているときは(沿道で)みんな手を振ってくれている。ほかの県を訪ねたときと比べてそれほど嫌われているとは思えない」と話しているという。
 このエピソードを聞いた与党議員は「宇宙人にもほどがある。本当に石を投げないと分からないのか」と吐き捨てるように話した。

 石を投げるべきではない。
 政治なんかのことで人を傷つけてはいけない。靴を投げつけるのもよくない。
 こういうときは、かつての台湾では、腐った卵を投げた。そのために、わざわざ腐った卵を作る業者もいた。専用の腐った卵が買えるものなら、鳩山首相に投げつけたい気もするが、衛生上よろしくはない。かくして腐った卵のようなエントリを書くだけにしよう。

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