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2010.03.20

本当は喜んではいられないクロマグロの話

 現在もカタールで開催中のワシントン条約締約国会議だが、大西洋クロマグロを絶滅危惧種と指定し、国際的な商業取引を禁止するモナコ提案については、日本時間で一昨日の夜、予想外の大差で否定された。
 否定の先頭に立っていたのが日本であることから、日本の主張が国際的に認められたという印象もある。当初の予想では、米国もEUも賛同しているモナコ案が優勢とも見られていたので、否決は意外という印象もあったし、私としても、やや意外感はあった。
 事前の国内ニュース報道などでは、これでもう日本人はマグロが食べられなくなるといった印象を撒いているものがあった。だが、この海域からの日本のクロマグロ輸入割合はマグロ全体の5%ほどにすぎず、また冷凍品も1年ほどのストックがあることから、モナコ案が通っても庶民の食生活にはそれほど大きな問題にはならないだろう。みなさん、そんなにクロマグロなんて食べてないでしょ。
 それでも絶滅が危惧されるというなら、規制もしかたないとはいえる。科学的に絶滅が推定されるかについては、私がざっくり読んだ範囲では、あらかたそう言えるようにも思えた。しかも、クロマグロの世界全体の消費の8割は日本であるなら国際的な責任は問われる。モナコ案が否決されても、クロマグロが絶滅すれば喜べる話でもないし、いわゆる捕鯨問題とも多少違う面があるだろう。違和感があるとすれば、ここでワシントン条約を持ち出すかというのもあるが、卵がキャビアにされるチョウザメ類はワシントン条約で保護されているので、考えようによってはそれほど違和感はないのかもしれない。
 欧米側の事前の受け止めはどうだったか。4日付けニューヨークタイムズ社説「A Chance for the Bluefin」(参照)が典型例に思えた。結論は予想通り明確である。


Now it has to persuade others — and fashion a winning vote in Doha.

今や他国を説得すし、ドーハでの勝利票に流れをつくらねばならない。


 結果からするとそれに功をなしたのは日本ということになった。が、同社説を読んでいて、実際には欧米側では事前に悲観論が根強いのではないかも思った。私も知らなかったのだが、モナコ案が通っても日本は無視することになっていたらしい。

Under the international rules governing endangered species, individual nations can opt out of any agreement. Japan has already said it would ignore a ban and leave its markets open to continued imports — even if the tuna are granted endangered species status. That means that for a ban to succeed, the big exporting countries will have to ensure that their fleets abide by the rules and don’t sell to Japan, which consumes four-fifths of Atlantic bluefin, and other countries that keep their markets open.

絶滅危惧種に対する国際規定(ワシントン条約)では、どのような協定であっても個々の国は抜け駆けができる。日本は、たとえクロマグロが絶滅危惧種に認定されても、すでに規制を無視する気でいるし、継続輸入に市場開放すると言明している。その意味で、規制を有効なものにするには、クロマグロ輸出国の船団に規則を遵守させ、大西洋クロマグロの五分の四を消費する日本や、市場開放している国々への販売禁止を確実にすべきだ。


 ワシントン条約はそれほどの拘束力はもたない。またここでは触れていないが、自国消費に規制力はない。そこで同社説は文脈上、あるいは政治的に日本を悪の根源のように描いていくことになるが、その文脈も追ってみると、問題の焦点は日本にクロマグロを売っている国にあるとも読める。実はこの段落の前に重要な一文がある。

The European Union, whose members account for much of the tuna harvest in those waters, has yet to take a formal position.

海域内でクロマグロ獲得の責任を持つ国々を抱えているEUは、いまだ正式には立場を明確にしていない。


 このあたりの報道が日本からは見えづらかったのだが、4日以降EUは確固たるモナコ支持に回ったのだろうか。またそれ以前に、なぜモナコという小国からの提案であったのだろうか。いすれにせよ、問題は実はEUの内部に根を持っていることは想像できた。
 この背景はグローバルポストに掲載されたMichael Moffett の昨年の記事「It's open season for bluefin tuna」(参照)がわかりやすい(同記事は日本版ニューズウィーク3・24にも翻訳されている)。

Watchdog groups point to Mediterranean countries — and particularly Spain— as major culprits in depleting the eastern Atlantic tuna. The global conservation group WWF said Italy, Algeria and Libya all had too many boats equipped for bluefin tuna fishing. It also said that catches have been seriously underreported in recent years, specifically pointing to Spain and Croatia.

監視団体は、東大西洋クロマグロを減少させている張本人を地中海諸国、特にスペインだと指摘している。国際会議団体世界自然保護基金は、クロマグロ漁に過剰な漁船を繰り出しているのは、イタリア、アルジェリア、リビアだと述べている。また、特にスペインとクロアチアの漁獲高は過小評価されているとも述べている。


 乱獲の根はヨーロッパおよび地中海諸国にある。
 日本はしかしその黒幕と見なされてもしかたがない背景もある。

Japanese businessmen revolutionized the Mediterranean industry a decade ago when they invested in a troubled Spanish fishing fleet and introduced the use of tuna fattening pens at sea.

10年前だが日本人商社マンが地中海産業に革命をもたらした。困窮していたスペイン漁船に投資し、マグロ養殖生け簀を紹介したのがきっかけだった。

The pens encourage fishermen to haul in many more and smaller bluefin during the limited fishing season. The technique allows them to fatten up the tuna to minimum catch size while in the pens and to sell the tuna fresh from the pens year-round for top dollar.

漁民たちは限られた漁業期間で生け簀により多くのクロマグロの稚魚を囲うようになった。この技術によって、生け簀内の稚魚を大きく育て、値のよいときに年間通じて新鮮なマグロが販売できる。


 日本人としても当時は乱獲してまでという思いではなかっただろうが、結果はこうなってしまった。
 こうした背景を知ると、今回の否決を礼賛するような今日付の読売新聞記事「極秘リビア説得工作が奏功…クロマグロ禁輸否決」(参照)は、微妙な陰影を持つだろう。

 実は今年2月末、水産庁の宮原正典審議官が極秘裏にリビアを訪問し、締約国会議でのクロマグロ禁輸反対に支持を求めていた。日本の説得工作で、当初関心が低かったリビアから、最終的には「日本支持」の言質を引き出すのに成功した。
 国際会議では途上国と先進国の対立がしばしば表面化する。いつもは途上国と利害を異にする日本が周到な準備を進め、今回はうまく途上国の欧米主導に対する不満をすくい上げ、“反欧米”と言えるうねりを引き出せたことが、大事な局面で奏功した。

 外交の勝利というなら、結果として日本の背後でうまく動いた中国のほうではなかったか。

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2010.03.17

[書評]世界一シンプルな経済入門 経済は損得で理解しろ! 日頃の疑問からデフレまで(飯田泰之)

 勝間和代さんの本は一冊も読んだことがないので、この機に読んでみようかと手に取ったのがこの一冊、と誤解をしそうな帯だし、めくってみると細野真宏氏の「カリスマ受験講師細野真宏の経済のニュースがよくわかる本」(参照)に似ているかなとも思うが、著者はブログ界で名著と評判のある「ダメな議論 論理思考で見抜く (ちくま新書)」(参照)の飯田泰之氏である。しかし、「世界一シンプルな経済入門」ってほんとかな。

cover
世界一シンプルな経済入門
経済は損得で理解しろ!
日頃の疑問からデフレまで
飯田泰之
 勝間和代さんも「こんな本を待っていました! 最高の経済入門本です。ぜひ読んで下さい」と一喝しているのだから、そうなんだろうと第1章「経済学ってなんですか?」をめくって、不覚にも、いきなり目から鱗が落ちた。まじかよ、俺は本書の上級編にあたる「経済学思考の技術 ― 論理・経済理論・データを使って考える(飯田泰之)」(参照)もきちんと読んでいるんだぜ。同書あとがきで「長崎県立大学経済学部の乙丸益伸君」の名前があることだって注意しているのに。
 なのに、しょっぱな目から鱗がポロリ。ここだ。

じゃあまずは「経済学とは何か?」について、はっきりと定義をしておくことにしよう。

経済学 = 希少な対象について考える学問

 これが経済学の出発点だ。そして、

・希少性
・インセンティブ
・ノーフリーランチ

の3つを使って問題を整理し、理解し、リアクションを考えるのが経済学だよ。


 あ、そのとおり。
 いや正確にいうと、「経済学思考の技術」にある「経済学思考の10ルール」も知っているので、インセンティブとノーフリーランチを重視するこの考えになじみがないわけではないが、最初に希少性を持ってきて、これとインセンティブとノーフリーランチの3点に絞るのは、すごくわかりやすいと思った。
 というか、誰かこういうふうに簡素に説明していたのだろうか。あるいはこういう説明はすでに一般的なのだろうか。有名なグレゴリー・マンキュー(Nicholas Gregory Mankiw)の経済学の10大原理(参照)も、この3つの視点を起点にまとまるように思える。さらに、「インセンティブ 自分と世界をうまく動かす(タイラー・コーエン)」(参照)を読んだとき、「足りないことへの対処」とインセンティブの関係が経済学の主導的な原理なんだろうなとなんとなく思っていたこともある。ちなみに、本書副題「経済は損得で理解しろ!」は費用・便益分析とトレードオフの重視によるものらしい。
 ただ、率直にいうと前著でも思ったのだが、「ノーフリーランチ」はこの名前を冠した数学的な定理に別の意味があるので、「ノーフリーランチの法則」と分けてはいるものの、ちょっと紛らわしいかなという印象はある。
 本書では、希少性とインセンティブからすぐに便益と費用が導かれ、費用・便益分析の基礎の話になる。そしてノーフリーランチを加えて「裁定」の話とトレードオフが出てくる。このあたり、いかにも初心者本を装っているけど、かなり鮮やかな手口なんで、びっくり。マンキュー氏の言う第一の原理「人々はトレードオフに直面している(People Face Tradeoffs.)」はむしろ、希少性・インセンティブ・ノーフリーランチを背景にしているので、やはりこちらの3点を基礎においたほうがよいだろう。
 本書はそのあと、機会費用からサンクコスト、比較優位と、毎度の経済学の基礎の話に流れていくし、それはそれで優しくていねいに書かれてはいるのだが、これらの個別の概念の説明は、「[書評]出社が楽しい経済学(吉本佳生, NHK「出社が楽しい経済学」制作班): 極東ブログ」(参照)で触れた同書のほうがわかりやすいようには思えた。いずれにせよ、この部分については類書でも優れた書籍はある。
 次に目から鱗が落ちたのは、経済学と経営学の対比だった。経済学的には、競争は好ましいが、経営学的には、いかにして競争を避けるかが重要だというのは、そう言われてみればまったくそのとおりで、なんでそうすっきり自分が理解していなかったのか恥じる。
 本書では触れていないが、国家が経営学的な方向を採れば、案外その国としては潤ってしまって、しかし世界は経済学的な原理に従うから合成の誤謬に陥る。これに地政学にも似たブロック経済を加えて、トレードオフとして鳥瞰すると現代世界の動向のかなりが説明できたりする(と私は思っている)。
 本書の展開は、基本的には以上のようなミクロ経済学的な視点から、マクロ経済学へ、そして日本経済の根幹的な問題であるデフレ対処へと絞り込まれていくのだが、各所に目から鱗が落ちるすっきりとした展望がありながら、物語的な求心力はやや弱いようにも思えた。
 それでも、デフレ対処の議論に、いわゆるバランスシート不況説もバランスよく配備されていて、そのためか中盤で簿記的な考え方にも触れているのは好ましい。いわゆるマクロ経済学一辺倒よりも、現代日本の企業が抱える問題がわかりやすい。
 こう言うと本書を読んでもらいたい新しい読者に不要な抵抗を招きかねないが、本書の最終的な基調はいわゆるリフレ派の議論であり、日銀アコードによるインタゲにもなっている。が、そのあたりも仔細に読むとなかなかバランスよく書かれている。
 特に、デフレ下で実質賃金が上昇して非自発的失業が起きるという説明は、それ自体はごく一般的なものだが、この話は、だから賃金を下げろという議論が起きる背景でもあるし、またインタゲが実施されれば、その結果の再配分的になるがインフレ税的な効果は当然出てくる。全体として見れば、日本にインタゲが求められるというベネフィットの反面のコストもある。だからこそ、経済学的な思考で全体が考慮されなければならないことになる。
 それにしても、本書は今の日本に求められているという状況も感じる。毎日新聞記事「首都高:事実上値上げ 年内にも距離別料金--政府検討」(参照)や日経新聞記事「子ども手当の家計への影響、年収多い層で恩恵大 大和総研試算」(参照)を見てもわかるが、日本の現政権はそういう経済学以前のレベルだ。
 ここはもう勝間和代さんの猛烈な鼻息で、民主党の議員に本書をぐいと押しつけるのもアリだろう。すでに締め切られているようだが、2010年3月19日(金)には本書のイベントもあるらしい(参照)。

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2010.03.16

採用試験の検査がダメな理由について少し考えてみる

 そういえばというのも変だが、心理学者村上宣寛氏には2005年の著作で「「心理テスト」はウソでした。 受けたみんなが馬鹿を見た」(参照)があり、各種心理テストを批判している。正確には、血液型人間学、ロールシャッハ・テスト、矢田部ギルフォード性格検査、内田クレペリン検査が批判対象になっていて、すべての心理テストがウソというものではない。そして、ではなにが正しいかという話の言及は本書にはあまりない。

cover
心理テストはウソでした
講談社+α文庫
 ネット的には、同書については、血液型人間学の批判に関心が集まったかのようだが、私個人としてはロールシャッハ・テスト批判にいたる村上氏と奥さんの物語が絶妙に面白かった。アマゾンを見ると、本書は文庫本にもなっているようだ(参照)。
 面白いといえば、本書のエピローグ「仕事の能力は測れるか」も面白い話だった。リクルートのSPIに触れた学生との対話で。

「リクルートのSPIの半分は学力検査問題で、高得点の人は、当然、中学校、高校の成績が良いだろうが、会社に入って何ができるかはわからないな。SPIの高得点者が会社に入るとスゴイ仕事ができるということがあればいいんだが、ほとんど証拠はないな」
「ええっ、そうなんですか」
「そうなんだよな。専門的には妥当性研究をしないといけない。さすが、リクルートは研究しているようだが、はっきりした証拠はないな。ものすごーく低い関連性ならあると思うが、そんなもの宣伝には使えないよな(後略)」

 そのあと、A8という適性検査にも触れて、話はこう続く。会社が必要な人材を得るための研究について。

「でも、研究は難しいんじゃないですか」
「いや、簡単だよ。SPIやA8の予測が本当に正しいかは、追跡調査すれば簡単にわかるよ。面接、SPI、A8などの点数を2、3年保存して勤務成績なり営業成績と突き合わせればいいだけの話だ。この程度のことがわからないなら人事部は馬鹿だろう。知っていてやらないのなら人事部は怠慢だろう。どっちみち、そんな人事部なら要らないな。また、逆に、会社内部で成績優秀者を選抜して、普通以下の成績の人と比較する方法もある。つまり、両方のグループに、SPIやA8を実施して、どの検査問題で差がでるかを調べればいいんだ。差の出た検査問題を集めて適性検査を作ると、妥当性の高い検査ができるんだ。しかし、SPIやA8はそんな作り方はしてないだろうな。だから予測力は期待できないよ」

 ではそうした問題を書籍で扱ったらという話の流れが期待されるが、ここで話は終わってしまい、これが「[書評]IQってホントは何なんだ? 知能をめぐる神話と真実(村上宣寛): 極東ブログ」(参照)で触れた2007年の同書につながっていく。

 SPIの性格検査分野では、都澤らによってメタ分析が行われている。基準は上司による職務遂行能力の評価である。33の個別研究、延べ被験者数5844名を対象としたのが分析1、12の個別研究、延べ被験者数1607名を対象としたのが分析2である。
 補正後の妥当係数は0.05程度高いが、それでも0.2を超えるのは、活動意欲の0.21(分析1)と0.27(分析2)だけである。その他の性格尺度はすべて0.20未満である。活動意欲がビッグファイブの良識性(勤勉性)の下位特性に該当したから相関があったのだと思う。SPIの性格検査は、ほとんど職務遂行能力を予測していないのではないか。

 見方によってはそれほど違和感のない結果紹介でもある。ではなぜ、効果のない検査が企業で放置され、あるいは新入社員の命運を分けるような場で利用されているのか。

 リクルートグループには職務遂行能力評価と各テスト問題の相関データがあるはずだから、そのデータを基にテスト問題の見直しを組み換えをすれば、ある程度の改良は可能なはずだ。いくら妥当性研究をしても、その結果を利用してテストを改良しなければ、予測力のあるテストにはならない。原理は単純だが、大きな労力が要求される。利益が上がっているので、放置されているのだと思う。

 その後の2年間にこの問題が改善されたかどうか私は知らない。改善されていないのではないか。なぜなのかについて、利益が上がっているから放置されているのではないかというが村上氏の見解だが、私は、もしかしたら別の理由かなと思った。その話題に入るには、もう一つ関連して次の村上氏のコメントを考えたい。先のエントリでも触れた一般知能gの関連である。

 リクルートグループのNMATやGATは、なぜ、こんなに予測力が小さいのか。筆者に言わせれば理由は簡単である。日本の職務遂行能力評価が特殊であるという仮説より、NMATやGATが一般知能gを十分に測定していないという仮説のほうが成り立つと思う。つまり、筆者は、知能テスト自体に問題があると思う。頭の良い人と悪い人を十分に分別していない可能性がある。

 一般知能gについてその存在をめぐる話は先のエントリで少し触れたが、村上氏のこのコメントは、意外というか、あるいは少し下品な言い方になるが、本音のようなものが見られる。頭の良い人と悪い人の差はgに依るもので、それが企業集団に生かされていない。つまり、日本企業はgを求めていない、ともなるだろう。
 おそらくそうなのではないか。そしてその理由だが、検査テスト業界の利潤の問題より、「日本の職務遂行能力評価が特殊」であることと合わせて、実は、日本企業はgをそもそも求めていないのではないか。逆にgを入社時に抑制することが企業の存続に適性であることの合理的な結果が日本企業の活動ではないのか。
 SPIについて、村上氏は、中学校・高校の成績が良い人が高得点になると見ていたが、つまり、これはセンター試験なりの結果と相似になることであり、日本の大学の系列を相対的に模倣するようになっているはずだ。別の言葉でいうと、企業は概ね、日本の大学の序列を受け入れることが結果的に人事上のメリットがあるとしているという結果の反映ではないのか。
 もちろん例外なり、臨界的な許容範囲も広いのではないかと思うし、日本の大学の序列がイコール大学の派閥ということでもないだろう。が、それでもそこに結果的に集約される傾向はあり、企業はそれを好んでいるのでないか。
 より強くそう言うためには、少し遡って、センター試験の結果がgとどのくらい相関があるかがわかればよいだろう。それがわかればかなり面白いことになる。個人的な印象でいうと、違いがあるように思える。
 いずれにせよ、入社試験の知能テストや適性検査が、直接的には職務遂行能力を反映していないとは言えそうで、そのことについての村上氏の結語はかなりきついものになっている。なぜこんなことになったのか。

 その理由として、企業の人事部が優秀でないことが挙げられる。知能テストや適性検査に通じている人はほとんどいないし、選抜システムの研究もしていない。勢い、テスト関係は外部委託が中心となる。その場合でも専門的知識がないので、予測的妥当性を検討して依頼している人事部は皆無だろう。
 もう一つの理由は、日本の心理学の水準が低く、科学として未成熟であるからである。人事部の人々が優秀で、勉強したくても、書籍や研究成果がなければどうにもならない。知能テスト関係は嫌われるし、研究もされていない。その結果、正しい知識も普及していない。
 学問が遅れていて、学会関係者がツケを払うのは自業自得である。しかし、基礎研究を軽視するツケは大きい。基礎がなければ応用もない。現在、日本社会はそのために膨大なツケを払っている。そのコストは年数百億円だろうか。数千億円だろうか。そろそろ気づいてもよいのではないか。

 gをむき出しにした黒船が東西からやって来れば、あかんぜよ、となるかもしれない。あるいは、黒船はすでに着ていても、上喜撰のカフェインは足りないのかもしれない。

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2010.03.15

[書評]心理学で何がわかるか(村上宣寛)

 「君の知りたいことはこの本に全部書いてあるよ」と言いたくなる本がたまにある。本書「心理学で何がわかるか(村上宣寛)」(参照)がそれだ。「ほんとか?」と思うなら、本書「はじめに」にある、次の11項目についての考えを聞かせてもらいたい。


・ 兄は兄らしい性格、妹は妹らしい性格になる。
・ 親の育児態度は性格や気質に永続的な影響を与える。
・ 乳幼児は他人の心が理解できない。
・ 自由意志は存在する。
・ 幽体離脱体験は本当だ。
・ 乳幼児は長期間、物事を記憶できない。
・ 記憶力は鍛えれば強くなる。
・ 女性の理想の相手は、自分をもっとも愛してくれる人である。
・ トラウマは抑圧される。
・ 暴力的映像は暴力を助長する。
・ うつ病の治療には薬物療法が効果的である。

 見るなり、それはないでしょと思う項目が多いかもしれないが、もしかして、一つでも、それはあるかもと思った項目があっただろうか。
 著者村上氏はこう続けている。

 まさかこんなことは信じてないでしょうね。

 つまり、これは全部、事実に反する。本書は、こうした話題を本書刊行2009年時点の研究からまとめている。

 心理学では、二〇~三〇年遅れの教科書は啓蒙書が主流なので、この種の事柄を真実だと思い込んでいる人が多いだろう。心理学ではよく「関係がある」、「影響がある」という仮説が立てられる。昔の研究を調べると、研究計画が不完全だし、統計分析もずさんである。綿密に精査すると、「関係がある」とか「影響がある」という仮説が否定されることがよくある。
 どんなことでも信じる自由はある。結果だけを信じるのは信仰で、科学は一種の試行的態度である。どのようにしてその、その知識が得られたのか、そのプロセスに注目し、確認する必要がある。だから、オリジナルの文献から見直さないといけない。

 ということで、村上氏は「腐っても国立である。電子ジャーナル関係のインフラは揃っている」として論文を検索し、幅1メートルにもなる文献を読みまくった。さらに単行本がある。本書の結果がそれである。

 全部、まじめに読むと身体を壊すので、なるべく読まないようにしたが、お陰で執筆に一年もかかった。

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心理学で何がわかるか
村上宣寛
 まいどのユーモアなコメントが続くが、本書は章ごとに村上氏の個人経験や雑談的な話が含まれていて、その部分も微妙に面白く、悪い意味ではなくちょっと変な本という印象も与える。内容は、私なんかが言うのもおこがましいが概ね正しく、また参考文献集もコンサイスにまとまっている。
 知能と遺伝については、昨日のエントリ「[書評]IQってホントは何なんだ? 知能をめぐる神話と真実(村上宣寛): 極東ブログ」(参照)で触れた2007年刊行の同書とほぼ同じ主張が繰り返されているのだが、どこか違うかなとこの機会に注意して読んだが、相違点ということではないのだが、デブリン(Bernie Devlin)の子宮内環境の影響について少し考えさせらるものがあった。
 本書でも一般知能gについて、それが遺伝子によって規定されているとするプロミン(Robert Plomin)の2002年の研究を引いているのだが、本書では子宮内環境についてこう言及されている。

 共分散構造分析で解析する際、どのようなモデルを立てるかによって数値が異なってくる。例えば、子宮内環境という変数を導入すると、一気に遺伝の影響力は小さくなる。プローミンらの数値は、狭い意味での遺伝の影響力である。

 本書ではそれがデブリンの1997年の文献であることの言及はないようだが、時系列からしてプロミンがデブリンのような視点を考慮していないのだろうかということと、いずれもこれらの見解は2002年止まりの研究によるもので、その後の研究の動向はどうなっているのか気になる。
 加えて子宮内環境の影響が実質的な遺伝的影響を形成しているというなら、卑近な考え方でいえば、母親の妊娠時の環境が出生後の子どもにかなりの影響力を及ぼすとも言えるだろう。この点について、どう評価されるべきなのだろうか。
 そのあたりの問題に関心が及ぶのは、似たような見解をまったく別の文脈から吉本隆明が、以前エントリで触れた「[書評]心とは何か(吉本隆明): 極東ブログ」(参照)の同書で触れているからだ。もっとも、吉本氏の場合は、出生後の1年のほうをより重視していた。
 広義に育児として、知能や人格という関係で見るなら、本書のまとめは非常に明快になっている。簡単に言えば、育児の及ぼす効果はかなり小さい。

 一般に期待されているほど、育児態度の影響力は大きくない。むしろ、育児態度の影響はかなり限定的である。育児態度が非常に否定的で、虐待的であれば、子供の自尊心や社会性にはある程度、影響は与える。しかし、気質や性格に永続的な影響を与えることはない。
 子育ての研究は多数に上るが、共分散構造分析等で、因果関係を分析した研究は少ない。養育態度の背景には、社会経済的地位や両親の性格、子供との共通の遺伝子要素などの変量が隠れている。この変量を統制すると、育児態度の影響力は消えてしまうだろう。
 『子育ての大誤解』は、育児態度の影響力をゼロであると、センセーショナルな話題作りをした。主張はやや極端にしても、基本的には肯定せざるを得ない。ほとんどの研究は、子育てが非常に小さな影響しかないことを示している。

 この問題も社会的な文脈で考えなおすといろいろとやっかいな問題でもある。

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2010.03.14

[書評]IQってホントは何なんだ? 知能をめぐる神話と真実(村上宣寛)

 知能とは何か。それは人種間で差があるのか。この問題について、米国ではチャールズ・マリー(Charles Murray)氏の1994年の共著「Bell Curve: Intelligence and Class Structure in American Life」(参照)および2008年の単著の「Real Education: Four Simple Truths for Bringing America's Schools Back to Reality」(参照)が社会的な話題になった。私はどちらも読んでいないが、その話題については米国の社会的話題として報道などから知識を得てずっと気になっている。関心事の焦点は、人種間の差異というより、知能を社会的に論じるというのはどういうことのなかという点だ。

cover
IQってホントは
何なんだ?
知能をめぐる
神話と真実
村上宣寛
 マリー氏のこれらの著作は日本では翻訳されそうにない。米国社会の問題だということもあるし、その根幹となる知能についての考えが日本社会ではそもそも受け入れがたいか、読まれる以前に妄説として反発を受けかねないというのもあるだろう。
 この点について、村上宣寛氏の「IQってホントは何なんだ? 知能をめぐる神話と真実」(参照)は示唆深いものだった。特にこの点については、イアン・ディアリ「1冊でわかる知能」(参照)の訳者・繁桝算男氏のあとがきを例として、間違いとは言えないが知能研究について否定的な言及したことに関連して、次のように日本の知能研究の状況について村上氏は述べている。

 実は、日本の心理学者は文科系に偏っていて、知能テストや心理テストに嫌悪感を抱く人が多い。知能指数(一般知能g)は差別であると発言しておけば、日本では居心地が良い。それで、繁桝のようなあとがきが生まれる。批判は結構だが、日本では知能を研究している心理学者がほとんどいない。新しい知能理論を研究している人もいない。結局、負け犬の遠吠えの印象しかない。

 そう言えるのか。同書を読めば、そう言っても概ねよいことがわかる。知能研究自体が日本に少ないように見えることもだが、知能研究として日本語で読める著作も少ない。
 村上氏は同書で、知能研究の背景史を簡素にまとめたあと、現代の知能研究の中心的な話題となる、スピアマン(Charles Spearman)氏による一般知能因子または一般知能g(General intelligence factor)の概念を紹介している。多元的に見える各種の知的能力の行使の基礎に、知能そのものを特徴付ける因子gがあるという考えかたである。つまり、「一般知能gは知的なすべての課題に影響する因子で、特殊知能sは課題ごとに異なる特殊な因子である」ということだ。これがいわゆる知能検査の知能を暗黙に指している。
 スピアマンはgとsが実在すると仮定し、知能をこの2つの因子でからなると主張した(実際には1因子で足りるようだが)。方法論としては、これらの因子を数学的モデルとして因子分析法に依った。
 この因子分析法を完成させたうえで、多因子を最初に採ったのがサーストン(Louis Leon Thurstone)氏で、彼は、知能を構成する7因子を提示した。言語理解力(V: verbal comprehensyon)、語の流暢性(W: word fluency)、数能力(N: number)、空間能力(S: space)、連想記憶力(M: memory)、知覚速度(P: perception)、機能的推理(R: reasoning)である。村上の書籍からははっきりとはわからないが、サーストンはgの存在については否定的であったようだ。
 日本では「矢田部ギルフォード性格検査」で比較的よく知られているギルフォード(Joy Paul Guilford)氏もサーストン氏とは異なる方法論から多因子説を採った。彼は知能を、領域(Contents)、所産(Products)、操作(Operations)の三次元で考え、それらを各下位の因子に分類し、その総計として120から150の知能因子を想定した。しかし、村上氏によれば、この説は他の学者からは十分に確認されていないらしい。また日本では心理学教科書としては知能の議論はこのギルフォード止まりになっているらしい。

 知能の章がある教科書でも、ギルファドまでの知能理論しか扱っていない。ギルファドまでなら、30年以上前の教科書のほうがずっと詳しい。執筆者が不勉強で、新しい知能理論を知らないからである。


 新しい知能理論について、日本語でのまとまった紹介は、この本が初めてだろう。では、誰も知らない世界を案内することにしよう。

 と、村上氏はユーモアをもってその後の主要説をまとめている。焦点が当てられているのは、「キャテル-ホーン-キャロルの知能理論(CHC)」、(Howard Gardner)による多重知能理論、スタンバーグ(Robert Sternberg)の三頭理論である。村上氏は、CHCを評価しつつ、スタンバーグの三頭理論に実践的な観点から関心を持っているようだが、書籍の説明として面白いのはガードナー説についてである。

 筆者が驚いたのは、その実証手続のずさんさである。例えば、プロジェクト・スペクトラムでは、1987~1988年に3~4歳児の七つの分野での活動を調べ、相関表を作成した。そして、恐竜ゲームとバスゲームだけが0.78の相関があったが、二つの音楽活動や二つの科学活動では、相関がゼロであった。このような結果から、多重知能理論が確認されたという。
 ところが、サンプルは比較的均一の白人の中・高所得層に限られている。このようにサンプルが均一の場合は、1世紀前のウィスラ博士論文が示したように、相関係数は小さくなる。しかも、ガードナーのサンプル数はたったの20名である。その他の研究でも最大で42名である。とても結果を一般化できない。

 そうなってしまったのはガードナー氏の主張が暗黙裡に研究に先行しているからかもしれない。

 ガードナーは一般知能gの存在を認めようとしない。マスコミや教育関係者には、知能が1次元的ではないという主張が心地よく響く。序列化の必要がなく、各自の個性が尊重できるからである。しかし、gは統計的に分離可能で、かなりの影響力がある。ガードナーの多重知能理論は「科学的な心理学から離れたところ」にあるというディアリの意見に賛成である。

 別の視点からうがった見方をすると、一般知能gの存在を否定したいがタメの理論として科学を装っているのかもしれない。そこまで中心的な話題でもあるgだが、存在するのだろうか。

 ガードナーの理論は、サーストンの、一般知能gだけでは人間の知能の複雑さを説明できないという初期の主張に、新しい装いを加えただけである。gの存在については、多くの証拠があるので、否定できない。

 gは存在するかのようにガードナー批判の文脈で語られているが、同書全体としてはgについて村上氏が明確な主張をしているわけではない。おそらく次のようなCHC理論についての説明にそれが垣間見られる。

また、一般知能gの取扱い方はホーンとキャロルで違う。ホーンはGfとGcの2因子を強調し、gを重視しなかった。一方、キャロルはgを最上位因子と位置付けた。gは統計的には抽出可能である。しかし、そのgが何を意味するのか、依然として論争中である。

 疫学などで疾病の要因がその統計学的な方法論上措定できることを考えると、因子分析の結果としてgが抽出できるなら、gは存在すると見てよい、とするのが妥当だろう。だが、村上氏は、その抽出の妥当性までは認めつつも、その実在に立ち入ることは微妙に避けているように思われる。
 おそらくgが実在するなら、それは脳構造であり、遺伝的構造に依拠することになるというやっかいな議論の意味合いに立ち入りたくないか、あるいはそこにある違和感があるのかもしれない。ちなみに、チョムスキーは統計的に分離もできないUG(普遍文法)を実在として脳構造・遺伝子構造に置くにまったくためらわない。
 このこと、つまりgの実在性は、エントリの冒頭で触れた「Bell Curve」の問題にも関連するように私には思われる。
 村上氏の同書は、後半で「Bell Curve」の方法論と結論を厳しく批判している。しかも、それがいわゆるありがちなイデオロギー的な批判に堕しておらず、統計学からきちんと指摘されている点で、非常に貴重なものにもなっている。
 その部分の結語は次のようになっている。

 要するに、バーンスタインとマリは、遺伝率からIQは遺伝的に決定されると考え、そのIQは社会的地位や貧困の原因であり、白人と黒人のIQの差も遺伝によると考えた。どれが原因でどれが結果であるかは、回帰分析ではわからない。わかるはずがないのに、わかったかのように書いたのは問題であろう。また、説明率が誤差の範囲でも、本文中では、非常に大きな影響力があるかのようにグラフを示している。回帰分析ではなく共分散構造分析を使えば、モデルが成立しない場合も明らかになっただろう。

 おそらく村上氏の指摘は正しく、特に遺伝率からIQが遺伝的に決定できるかの議論は間違いであろう。この点は次のように補足されている。

・遺伝率は特定集団内での遺伝の影響力を、環境の影響力などと比較した数値である。いわば、相対的な数値である。つまり、環境要因などが定常状態であれば、環境の分散が少ないので遺伝率が高くなる。
・特定個人について、遺伝と環境の大きさを表す数値は存在しない。個人内では遺伝率は計算不能である。計算可能なのは、個人と個人の違いを数値化したもので、この場合、初めて遺伝率が計算できる。つまり、遺伝率は特定の個人内部での遺伝子の影響力を表す数値ではない。遺伝率が90%であっても、ある特定の個人のIQが遺伝で90%決まるのではない。そのような数値は存在しない。

 それで間違いはない。
 だが、関連して私が昔、言語能力についてチョムスキー理論を学んだときの彼の比喩が思い出される。落下という現象において摩擦の存在しない状態はない。現実の落下では摩擦が考慮されなければならない。しかし、落下の本質は摩擦を除外して定式化される、というものだ。
 加えて、量子力学におけるリチャード・P・ファインマン(Richard Phillips Feynman)の経路積分(Path integral formulation)の考え方が気になる。個々の素粒子の行動は、シュレーディンガー方程式からはわからない。ただ確率としてのみ示される。それはいったいどいうことかといえば、無数の経路を積分したのち、一つの素粒子のあり方として、確率として反照されたということだ。
 ここから先が詭弁のように聞こえるかもしれないし、イデオロギー的な主張をしたいわけではないが、gが存在するなら、個人のIQについては特定の素粒子の所作のようにわからないせよ、その総合した振る舞いは経路積分的に捉えることは可能なのではないだろうか。私は個別には「Bell Curve」の議論の正否はわからないし、それを判断する能力もない。だが、gが存在するということは、やややっかいな問題を必然的に残すようには思われる。

追記
 Howard GardnerとMartin Gardnerを混乱していたのでその部分を訂正した。

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