[書評]RAILWAYS 49歳で電車の運転士になった男の物語(小林弘利著・錦織良成クリエイター)
昨年のNHKだったかと思うが、映画「RAILWAYS 49歳で電車の運転士になった男の物語」(参照)のロケシーンを見た。本仮屋ユイカ演じる娘が自転車で駅に駆けつけるという場面であった。加えて、ロケ現場の出雲の話などもあり、なるほどこの映画は面白そうだなと思っていた。
映画の公開は5月29日で、そのころ主題歌が、松任谷由実の「ダンスのように抱き寄せたい」(参照)であることを知った。歌はユーミンが老いを迎える男女の思いを描いた感動的なものでもあった。
実際に映画を見たのは、鉄道の日、10月14日にDVD・ブルーレイが発売されてからのことだった。
RAILWAYS [DVD] |
私は筋金入りの「鉄」ではないが、主人公のように子どもの頃なりかったものは電車の運転手である。まあ、電車は好きな部類なので「鉄」の気持ちは少しわかる。この映画には「鉄」の心の奥底に響くシーンがあるし、DVDの編集にもそれが感じられた。正直に言えば、主人公の筒井肇を演じる中井貴一が運転手の訓練をしているシーンには深く感動した。
話はタイトルどおり、49歳で電車の運転士になった男の物語である。大手家電メーカーの営業で鳴らしたのち、経営企画室長となり、工場リストラの功から取締役にまで出世という矢先に、そのキャリアを捨て、子どもの頃なりかった故郷のローカル線の運転手となるという話だ。おとぎ話と言ってもよい。
彼の心を変えたものは何か。故郷の出雲に暮らす老母が倒れ末期の癌であることがわかったこと。リストラされる工場長であった同期の親友が交通事故で不慮の死を遂げたこと。仕事ばかりに専念し家庭を顧みないことから、妻と20歳になる一人娘との家庭が事実上、崩壊していたこと。
49歳になる主人公の男は、人生の危機が三つも折り重なって、故郷に戻り母の死を看取り、そして子どもの頃の夢を叶えたいという願うようになる。そしてその過程で娘との対話が生まれ、妻との新しい関係が築かれていく。わかりやすい物語であるとも言える。
映画ではそうした心の動揺や心の転機は映像的に表現されているし、それはすでに十分であるように思えた。映像も美しく、大きな物語の破綻もない。中井貴一は好演であるし、妻役の高島礼子も悪くない。物語には思わぬクライマックスもあるし、静かな感動の余韻もある。
だが、奇妙な違和感は残った。ネタバレに近いかもしれないが、そこが私にとってはもっとも重要な問題でもあった。
エンディングで、運転士となった男と東京から訪問した妻が対面するのだが、そこで、妻は「このまま私たち、夫婦でいいんだよね?」と問うのだが、そこがいまひとつわからなかった。
もちろん物語的にわからないわけではない。妻は東京でハーブ店を経営し順調になり、出雲の運転士の夫に添えるわけではない。別居暮らしになるが、そういう夫婦でもよいでしょうという意味はわかる。さらに前段には、主人公が仕事に専念し家庭を顧みず家族が崩壊に瀕していたことが変化したということもわかる。ただ、何かが違う。
ダンスのように抱き寄せたい |
主題歌のユーミンの歌では、老いた男を老いた女が支えていくというテーマで、「どんなに疲れみじめに見えてもいい。あなたとならそれでいい」となる。映画と歌は必ずしも同じでなくてもよいが、やはり夫婦の再生が問われている。
RAILWAYS (小学館文庫) 小林弘利 |
ノベライズは映画公開の前に出されているが、映画と独立した作品というより、映画の脚本家に携わった著者によるせいか、映画で沈黙とした登場人物の内面をかなり饒舌に描き込んでいる。小説として感動的な作品であると言ってもよい。プロの書いた達文であり、それゆに非常に読みやすくもあった。美文的な要素もある。ただ、しいて言えば比較的に純文学を好む読者には多少困惑する面もあるにはある。
先の違和感だがノベライズを読んで、ようやく納得した。話のなかで、主人公の男が人生を転換し、運転士となると妻に告げるシーンが重要だった。映画でもそこで高島礼子(由紀子)が中井貴一(肇)のデコを指ではじくシーンがあるが、そこである。こう描かれている。
肇はきっと、このデコピンの意味を何度も何度も考えることになるだろう。この自分勝手な男が、自分の夫であると認めた妻からの、それは新たな決意表明のデコピンであったと気づくまでにどれくらいの時間がかかるだろう?
由紀子はこのとき、彼女なりの切り換えポイントを迎えていたのだった。もしあのまま肇が、会社で働き続けていたら、由紀子のほうから「別れ」を切り出していただろう。店を始めたのには、そのための準備という意味もあった。
けれど、夫は人生の進路を変更した。ならば由紀子もまた、夫との離婚というひとつの進路を変更すべきだとそう決心した。
主人公の男が人生の転機で立ち止まり、その先に虚無しかないと気がついたとき、その手前で夫婦関係は崩壊していた。ノベライズで描かれる妻は映画の高島礼子より、もう少しひんやりとしながら、不思議なリアリティを持っている。
それは例えば、運転士となるための東京での研修で出雲から東京に戻る夫に対してこういう描写に表現されている。
いるだけでうっとうしいと感じ始めていた夫に対して、由紀子はいないと寂しい、という気持ちにもなっていた。そんなにふうに肇に対して感じるのは、結婚してたぶん三年目以降はまったくなかったのに、いないならいないでいい、ハーブの店を出したときにはほとんどそう思っていたのだ。けれど、肇の体内で新陳代謝が変化したように、由紀子の中でも変化は起こっていた。夫を再び男として感じるようになり、自分の中の女も目を覚ました、という感じだ。
島根から帰ってくる夫を迎えるためにアロマキャンドルを焚き、いたずら心もあって、イランイランを多めに使ってみた。軽い催淫効果があるというその香りに包まれて、肇と由紀子の間に夫婦の生活が戻ってきた。
49歳の男とおそらく46歳ほどの女の性関係ということなだろう。そして、映画の最後(ノベライズでも最後)の、「夫婦でいいんだよね?」というのは、たまに会って性関係を結ぶという意味もあるのだろう。
どうもお下品な推測のようだが、そうしてみて、私としてはこの物語の多重化された基本モチーフがわかったように思えた。さらに言えば、主人公が49歳なのは、脚本家の同年齢の男の内省、特に性的な存在としての内省が深く関わっているのだろう。
映画でもそうだが、ノベライズでは、男の心情は、しかし、妻との性関係というよりも、母との子の関係を美化して描かれていく。
率直に言えば、母にとって良き息子が性的な自立を遂げるとは私には思えない。むしろ、母にとって良き息子として若返った男を、若さと生き生きしたものとして妻は受け入れるだろうか。
老いの扉を前にした男の、人生の虚無や性的な自立は、こういう日本的な情緒性のなかで解消されるものだろうか。
私はまったく否定するものではないし、その情緒性を日本人的な心情として理解でないこともない。だが、この物語を、初老の夫婦の枠組みで見るなら、またユーミンの歌の描き出した老いた夫婦の物語として見るなら、大きく失われた何かがあるように思えてならない。
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