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2010.10.01

コスプレ金日成、見参、その陰で

 キム・ジョンウンなる人物は本当に存在するのかと私は少し疑問に思っていた。よく見かける少年時代と称する写真だが、左門豊作だろ、これ。ワクワクさん、メガネを貸してくれ。

 近影はどうなのか。疑問に思っていたら、たまたま昨日ガーディアンで見かけた(参照)。コスプレ金日成、だな。

 すごいな、このレンダリング。動く? あとでNHKの7時のニュースを見たら、動いていた。北朝鮮の特撮技術は侮れない。まさか。
 というわけで金王朝三代目のお披露目ニュースだが、別段このコスプレ金日成が実質の権力を持ったわけでもない。北朝鮮テレビまいどの李春姫(リ・チュニ)さんも、にこやかにリアル金日成の娘、金敬姫(キム・ギョンヒ)の名前と並べていた。言うまでもなく、婿の張成沢(チャン・ソンテク)が実質の権力者という意味だ。

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誰がテポドン開発を許したか
クリントンのもう一つの“失敗”
 張成沢が金正日(キム・ジョンイル)体制を支えることは、1994年にタイミングよく不思議な死を遂げた金日成の生前から決まっていたことだった。1991年に韓国に亡命した当時の駐コンゴ大使館の元一等書記官、高英煥(コ・ヨンファン)はこの時点で、三大革命小組事業部長だった張こそが正日の側近ナンバーワンであり、ポスト金日成時代は「金正日・張成沢指導体制」になる、と公言していたものだった。高によれば、正日が1984年来外交を担当しており(ちなみに大韓航空機爆破事件は1987年)、1993年の党大会で正日に主席のポストが譲られるだろう、とも述べていた。この点については、予想が外れたといえば微妙に外れと言えないこともない。
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金正日に悩まされるロシア
将軍様の権力
 1991年時点の高の発言通り、金日成の亡くなった後の北朝鮮は金正日・張成沢指導体制となった。張は薬物取引などで外貨を稼ぎまくり、権力の掌握もそれなりに順調に進んでいるかに見えた。順調というのはつまり、深化組事件(参照)とも呼ばれるが、1997年から2000年にかけて新指導体制強化のため社会安全省内に新組織として深化組を形成し、張の指揮の下、2万5000人の粛清を断行したことだ。
 だが2004年6月17日、朝鮮日報は韓国情報機関説として、張が金総書記の指示で自宅軟禁されていると報じた。続報によれば、張は軍内部に独自の派閥を形成したため、八名ほどの軍幹部とともに粛清されたとのことだった。そうなのか。
 はずれ。2005年6月、南北共同宣言5周年記念行事に参加した当時の鄭東泳(チョンドンヨン)統一相に、正日自身がこう耳打ちした、あいつは爆弾酒(参照)を飲み過ぎて体をこわしたの休ませているだけだよ、と。
 年明けて2006年1月28日、平壌で開かれた正月(旧正月)の国防委員会主催の祝宴には張が元気に出席した。2年半ぶりの登場であったが、その間の実態は謎に包まれている。謎といえば、同年9月末、張は平壌市内で交通事故で腰に重傷を負った。命に別条はなかった。傷も癒えて正式に張が復権したのは2007年11月。治安・司法部門を統括する朝鮮労働党行政部長に任命された。
 この間の2006年12月18日、韓国国会の情報委員会は北朝鮮の体制の崩壊を予測した報告書「北朝鮮の危機管理体制と韓国の対応策」を発表した。それによると、近未来に金正日が死亡した場合、軍部が政権を掌握し、集団指導体制になるとの予想だった。中心人物として上げられているのは、朝鮮労働党作戦部長の呉克烈(オ・グクリョル)であった。
 実際のところ正日が死ぬ気配はしばらくなかったが、2008年9月9日、六か国協議を破棄して北朝鮮が核開発を推進しようとするなか、欧米メディアは正日の重病説を流した。8月中旬に正日に脳卒中があった。突然最高権力者が病に倒れたことで後継者問題が一気に浮上した。
 当時の韓国国防研究院・国防政策研究室長・白承周(ペク・スンジュ)によれば、後継者は、長男で2001年の訪日で日本でも「まさお」の愛称で人気の高い金正男(キム・ジョンナム)と二男の金正哲(キム・ジョンチョル)の争いとなり、金総書記の妹の金敬姫とその夫で党幹部の張の支援を受ける正男が有力だと見ていた。まじで。白と限らず、この時期では張は正男の支援者と見られていたものだった。チャクシがトートーメー嗣ぐだろう普通。
 正日重病説の他に死亡説も噂されるなか、翌2009年の旧正月の国家合唱団・慶祝公演をご本人が観覧したとも伝えられたが写真は公開されず、えっ、これが本人なのか、影武者にしては元気なさそうだといった老人の写真が公開されたのは3月になってからだった。そのころ張はフランスを訪問し正日の治療に当たったことのある医師と面談し、その健康状態についての情報を得ていた。
 存外に元気そうだねという感じで動く正日装束の老人が報道されたのは最高人民会議のある4月だった。以降、あの彼が正日だということで現在に至る。いや別段、本人じゃないよあれはと言いたいわけではないが。
 この最高人民会議では張は国防委員に選出され、憲法も改定した。加えて、三男の金正恩(キム・ジョンウン)を国防委員会の指導員とした。この時点で、張は名目上の権力後継者を正恩に据えたようだ。では、それまで支援してきた正男はどうなるのか。どうなんだろ、正男。問われた正男は、後になってオレは政治には関わってないから知らないと答えている(参照YouTube)。そりゃね、中国が擁立してくるその日まで中国ビジネス、ビジネス。
 正日が卒中で倒れた2008年の時点で張は実質的な最高権力に就いていたのだろうか。そうとも言い難い。かつて正日後には集団体制で権力を握ると目されたこともあった呉克烈だが、2009年2月19日、最高軍事指導機関である国防委員会副委員長に任命された。実質的には、呉は軍の最高実力者である。今年3月に起きた韓国海軍哨戒艦沈没事件についても韓国政府は、呉の影響下の人民武力省偵察総局が主導したと見ている。
 この時点で、張と呉の関係はどうなっていたのか。呉が軍をまとめ、張が党をまとめて正恩擁立をするとも見られていた。が、今年に入って両者の関係は緊張してきたとも伝えられた。
 呉に遅れて張は今年の6月7日に国防委員会副委員長に任命され、両者ともに同じ位置に立った。そして両者の間に利権を巡る権力闘争が報じられた。7月5日付け中央日報「北朝鮮は‘第2人者’パワーゲーム中」(参照)より。

 消息筋によると、昨年2月に国防委副委員長に任命された呉克烈(前労働党作戦部長)は外資誘致と関連した利権を本格的に握り始めた。呉克烈側は専門機構として朝鮮国際商会(総裁・高貴子)を設立し、昨年7月1日に最高人民会議常任委で承認を受けた。政権レベルの追認手続きを踏んだのだ。
 これに対し張成沢側は急いで中国朝鮮族出身の事業家、朴哲洙(パク・チョルス)を呼び入れた。続いて対北朝鮮投資誘致を掲げて朝鮮大豊(デプン)グループを設立、金養建を理事長に、朴哲洙を総裁に任命した。


 消息筋は「呉克烈は自分が主導してきた外資誘致事業に割り込んだ張成沢と金養建に対して相当な不快感を抱いており、現在、朝鮮大豊グループと朝鮮国際商会が主導権争いを繰り広げている」と述べた。

 この争い、どうなったのだろうか。わからない。まったく推測できないわけでもない。
 今回の三代目お披露目の集合写真をよく見ると呉が写っていない。79歳ともなるので写真撮影の日に体調を崩していたのかもしれない、なんて昔の卒業写真でもない。つまり、これは正恩を写した写真というよりも、呉を写さないための写真なのだろう。

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