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2010.09.21

興興(コウコウ)の憂い

 千年に一度という異例の暑い夏が続く日々。2010年の9月9日、気怠い午前のことだった。人見知りの彼女は発情していた。
 中国から神戸に連れてこられた時はまだ4歳だった。旦旦(タンタン)、雌のパンダ。14歳になる。
 一緒に来日した雄のパンダが興興(コウコウ)である。一つ、年下だった。旦旦と興興は震災に襲われた神戸にとって「復興の使節」とも呼ばれ、歓迎された。野外プール付きの新居には3億円をかけた。その生活は誰もが羨んだ。好きな時に寝て、好きな時に起きる。公務は少ない。だが、人びとの笑顔の裏から重たいプレッシャーが伝わった。子どもを産んでくれ、是非、お世継ぎを、と。
 別れは突然にやってる。6歳となった興興は惜別の声に送られて2002年、中国に帰ることになった。「なぜ帰っちゃうの」と近隣の幼稚園児は聞いた。興興は答えることができない。大人も答えることができない。彼の生殖器の発達が依然未成熟だったからだと知っていても。
 別れの悲しみは新たなる出会いを伴った。龍龍(ロンロン)が来日した。7歳の雄のパンダである。こんどこそ、こんどこそ、子作りをという人びとの願いが紅く染める神戸の空の下で龍龍は、興興と呼ばれることになった。興興? 旦旦はその名前を知っている。だが、一瞥して、誰?と思ったかもしれない。襲名興興はその後旦旦に吠えられるといつもしゅんとおとなしくなってしまったものだった。
 6年が過ぎた。子どもが生まれた。妊娠は人工授精によるものだった。どうしても望まれる世継ぎである。20年ぶりの人工授精が決断されたと報道された。旦旦は望まれて母となったが、彼女自身が望んだかはわからない。
 悲劇は早々にやってきた。24時間態勢で監視している3人の専従飼育員は、赤ちゃんの鳴き声が弱くなってきたことに気がついた。そして訪れる沈黙。一時間後、死んでいた。ミルクが飲めなかったことによる衰弱死である。なぜ? 新聞は「パンダの赤ちゃん天国へ」と伝え、大人向けに生物学的な推定も書いた。パンダは出産から3日の間に、あかちゃんを押しつぶしてしまったり、育児放棄したりすることがある、と。その報道では前年2007年の人工授精による死産があったことは書かれていなかった。
 そして二度目の悲劇。焦りがもたらしたのかもしれない。旦旦と興興は当初の予定では今年帰国することになっていた。子もなく帰国されてはと無理を押して、あと5年延長することになった。興興は、人工授精用精子取得のための麻酔が30回にも及んでいた。
 運命の暑いその夜。いつもの夜ではなかった。パンダの排卵は年に一度だけ。発情ホルモンが最高値に達した翌日である。そんな夜であることを興興は知らず、麻酔とそれに続くことが終わり、夜11時20分、寝室に戻された。麻酔から冷めつつあるそのとき、興興の呼吸は浅くなり、途絶えた。死ぬんじゃない、興興、興興、子宝、生きて中国に帰るんだ。懸命の心臓マッサージ。だが酸素マスクの下、途絶え行く意識のなかにその声は届いただろうか。
 死因に麻酔が関係しているのだろうか。わからない。はっきりしているのは、殺したくて殺したわけではないという一点のみである。だが、その一点も通じない。世界というものはそのようにできている。
 興興が死んだ2日前。7日の午前10時15分ごろ。日本の領海である沖縄・尖閣諸島海域をパトロール中だった石垣海上保安部所属の巡視船「よなくに」に、中国トロール漁船と接触したとの連絡が入った。直ちに巡視船「みずき」と「はてるま」が派遣され、問題の中国トロール漁船に停船命令を出しながら追跡した。
 中国船は従わず、「みずき」に追突するも、ついに停止。海上保安官が中国船に乗り込み、取り調べを開始した。ちなみに、容疑は漁業法違反の「立ち入り検査忌避」である。日本には領海侵犯で取り締まるための法律は存在しない。
 同海域を日本領海と認めない中国政府と中国の人びとは怒った。副首相級の戴秉国国務委員はわざわざ、開戦通知を想起させる時間帯を選んだ。12日午前0時(日本時間午前1時)、丹羽宇一郎駐中国大使を緊急に呼び出して、中国漁船と漁民の即時引き渡しを要求した。日本が普通の国ならこの侮辱に即刻大使を召還するところだが、そこは菅内閣である。耐えた。
 中国民衆の怒りも爆発したかに見えた。デモの光景が日本のメディアに伝えられた。が、私の知る限りではあるが、なぜか日本のメディアに伝えられなかったことがある。あの悲劇の興興との関連である。興興が中国に反感をもつ日本人によって殺されたというのだ。ネットの噂らしい。
 そんなものメディアで報道することじゃないし、日本人は知らなくてもよいということかもしれないが、国際的には報道されていた。20日付けワシントンポスト「Boat collision sparks anger, breakdown in China-Japan talks」(参照)はこう伝えている。


Chinese online commentators posted conspiracy theories connecting the panda's death to the boat captain's arrest, alleging a Japanese campaign to insult China.

中国のオンライン評論家たちは、日本人は中国を侮蔑するキャンペーンを展開しているとして、あのパンダの死と中国船船長の拘留を結びつける陰謀論をネットに投じた


 17日付けテレグラフ「Tensions between China and Japan rise over disputed gas field」(参照)も珍妙に報道していた。

China has also accused Japan of failing to take adequate care of a panda that died at a zoo in Kobe and is seeking $500,000 in compensation, while Chinese bloggers have suggested that the death of Xing Xing was linked to the arrest of the fisherman close to the Senkaku islands.

中国は神戸の動物園のパンダを適切に扱わず死に至らしめたと非難し、50万ドルの補償を求めている。他方、中国人ブロガーらは興興(Xing Xing)の死について、尖閣諸島海域での中国漁民の拘留に結びつけている。


 パンダの名前が違うというツッコミはさておき(追記:コメント欄にて中国読みの場合はXing Xingでよいと教えていただいた)、探せば他にも同種の報道は見つかる。というか、中国語のわからない私は英文の国際報道を見ていて唖然とした。
 フィナンシャル・タイムズはこの問題を社説で論じていた。17日付け「Bye bye, Kou Kou」(参照)である。国際的な高級紙らしく冒頭が格調高い。

The Roman poet, Ovid, thought that the best way to die would be in the middle of making love. Expiring under anaesthetic while donating semen lacks the same appeal. But this is the fate that has befallen Kou Kou, a Chinese giant panda on loan to a Japanese zoo.

ローマの詩人オウィディウスは、性交の途中で訪れる死が最上であると考えた。精子採取の麻酔中の死は、最上の死と呼ぶには足りないものがある。しかしその運命は、日本に貸与されている中国ジャイアント・パンダ興興に降りかかった。


 なんたる悲劇。そしていかなる国際問題であるのか。

To Chinese conspiracy enthusiasts, however, Kou Kou’s demise was not merely ignominious: it was a dastardly act of murder.

陰謀論好き中国人にとっては、しかしながら、興興の最期は屈辱ではすまかった。それは卑劣な殺害事件であった。


 フィナンシャル・タイムズは興興の死について中国での陰謀論に言及していくが、発信点をブログではなくチャットルーム(internet chatrooms)だとしている。
 その先の論だが、領海問題や中国の反日動向ではなく、有償貸与されるパンダ外交の問題に絞られ、台湾やドイツの例が引かれる。なかでも、ドイツでのパンダの死に中国が補償を求めた際の拒絶事例が興味深い。それを踏まえた上でこう締めている。

But assuming that the zoo’s case is black and white, Tokyo should not give in. That would be pandering to its bigger neighbour.

しかしこの動物園の事件を白黒の明瞭なものとし、日本政府はくじけてはいけない。そんなことをすれば、この大きな隣国の愚劣な欲望につけ入ることになるだろう。


 訳が難しいのは、"pandering"である。この深刻な問題がダジャレ落ちかよ。"black and white"もパンダの洒落だろう。
 とはいえ、日本政府としても日本人としても、興興の件については、最大級の誠意を見せるべきであろう。不当な死だからという賠償ではないとしても、それ以上の恩義をきちんとした金額で示したほうがよいのではないか。

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コメント

というか、レンタル契約のときに「レンタル中の死亡について」の条項がないのか、非常に興味深いところですな。


そもそもそんなにパンダいらんわ。上野動物園でなんでばか高い動物を都民の税金使って飼育せにゃならんのかと思ってる。

投稿: とおりすがりの。 | 2010.09.21 20:53

ジャイアントパンダのおかげで、中国は、イメージ的に、国際社会ですごく得しているんですね。

いまとなっては、ジャイアントパンダもそんなに目新しさはないけれど、動物園では今でも子供たちの人気者ですか。

投稿: enneagram | 2010.09.22 08:26

中国語では、興の発音はXingとなります。

新の発音は、Xinです。

従って、17日付のテレグラフは正しい発音で興興の名前を表記しています。


投稿: xin xin | 2010.09.22 09:30

Xing Xingについてのご指摘ありがとうございます。訂正を加えました。

投稿: finalvent | 2010.09.22 09:39

"pandering"は何を意味しているのですかね?
goo辞書では、panderで迎合するというのがありますが、それでも良いような。

でも、そこまで子供を作らせるのは、何か契約条項で繁殖実験のためなんてのもあるんですかね。
死なせた非はあるので、誠実に対応すべきではあります。

投稿: charlestonblue | 2010.09.22 11:12

初代コウコウ錦竹は、中国に戻された後、双子の女の子(錦心、錦意)を産みました。性別はメスとなっています。いまだに出来損ないのオス扱いされて可哀相なやつです…

投稿: ちーちゃん | 2010.09.28 17:23

punditという字をみるたびに,民国時代あたりのヤギヒゲと黒縁眼鏡の貧相な儒学者がパンダの着ぐるみに身をつつむ絵が脳内にやってきます。

投稿: | 2010.11.19 08:08

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