« [書評]本格折り紙―入門から上級まで(前川淳) | トップページ | マリアンヌとコロンビア、国家の擬人化、理性教というカルト »

2010.08.02

あいまいな記憶と歴史の中の自由の女神

 記憶は歴史に似ている。あるいは歴史は記憶に似ている。結局、歴史とは記憶のことではないか。記憶には間違いがあるし、不明瞭な部分と錯覚もある。歴史もそう。いやいや、難しい話をしようとしているのではない。自由の女神について、このところ考えていたことを話をしてみたいだけだ。出だしはいたってくだらない。
 下り中央線で吉祥寺の駅に入る手前、南側、比較的駅の近くに自由の女神の像が見えたものだった。何年前だろうか。私が学生時代にあったころだろうか。見かけるたびに、なんでこんなところに自由の女神があるのかと疑問に思った。
 そこで記憶が定かではない。最初からあれはソープランドのしるしだと知っていた。そしてまた記憶が不確かになる。ソープランドと呼ばれるようになったのは、いつだったっか?
 以前はトルコだった。トルコ風呂である。が、ハマムではない。アングルのトルコ風呂(参照)の影響かもしれない。風俗店である。実態は、残念ながら無粋者の私は、知らない。改名はいつだったか。1984年、東京都特殊浴場協会の公募したらしい。私はもう社会人になり、パソコン通信を始めていたころだ。
 とすると、私の学生時代は「トルコ」だったのだろうか。そういえば、1990年初頭でも、「トルコに行った」と語ると、周りの大人が、おお、それはよかったね、と声をかけてくれたものだった。アンカラの話などできる雰囲気ではなかった。
 吉祥寺のソープランドは今でもあるのか。検索してみると、ここではないかというのがあった。角海老グループの経営らしい。そういえば以前、その方面に詳しい知人が角海老宝石ボクシングジムについて、長い説明をしてくれたことがあった。が、興味がないので内容は忘れた。
 そこに自由の女神はもうない。

 私の記憶でも、その後吉祥寺駅北側に移動していた。ちょうど中央線で折り紙を折ったような地点だった。移動ではなく別の新設かもしれない。
 いずれにしても、吉祥寺駅北側の自由の女神はどうなったのか。そのあたりとおぼしきところをストリートビューで探していて、見上げると、あった。

 ホテル・ニューヨークというのの上に立っている。ニューヨークという名前にちなんで持ってきたのだろうか。これを看板にするためにホテルの名が付いたのだろうか。今では南側のビルに隠れて、中央線側からは見えづらい。
 ところで自由の女神だが、原形は、ニューヨーク港内、リバティ島にある、あれである。私は現物は見たことがない。見に行こうと思った年にいろんなことがあった。
 物思いにふけりつつ、ニューヨークの自由の女神の写真を見ていて、ふと、あれ?と思った。なんで今まで気がつかなかったか。いや知ってはいたのだが、記憶に問うたことはなかった。
 ニューヨークの自由の女神は、とげとげの王冠をしている、ということは、つまり、フリジア帽を被っていない。えええ!?
 横から見た写真はないかと探すとそれなりのがある(参照)。やはり、フリジア帽は被ってない。王冠というよりヘアバンドのようになっている。
 そのあたりから私の歴史認識と記憶の混乱が始まる。
 自由の女神はいつできたのか。米国の独立百周年記念でフランスから贈呈されたものだ。完成したのは1886年だった。フランス革命からけっこう経っている。そんなに古いものでもない。
 イメージの近い原形となるフランス革命の自由の女神のイメージといえば、ドラクロアの「民衆を導く自由の女神(La Liberté guidant le peuple)」だろう。トップレスはさておき、この女神、つまり、マリアンヌ(参照)なのだが、頭の部分を見るとわかるが、スマーフ(参照)のようにフリジア帽を被っている。

 そこでまた私はあれれれ?と思う。この作品は1830年。そう、7月革命だ。ウィーン体制後の世界である。というか、1789年のフランス革命を記念して7月14日が祝日となるのは、1880年のこと。フランス革命というのは、事後の歴史が地味に創作していった物語なのではないか。
 気になるフリジア帽だが、ご存じのとおり、職人などサン・キュロットの出で立ちである。革命の象徴でもあり(参照)、起源はローマ時代に遡る。解放された奴隷の象徴でもあった。
 ここでもまた、あれれ?と思う。もしかして、マリアンヌにフリジア帽をかぶせたのは、ドラクロアが最初だっただろうか。気になった。
 調べてみると、国民公会は、1792年、マリアンヌの像にはフリジア帽をかぶせろ(参照)としている。ドラクロアはむしろその自然な流れにあったと見てよさそうだ。ここで、私は、あることに気がついて、愕然する。現代のマリアンヌである。
 フランス政府のシンボルは、フランス政府のサイト(参照)に付いている。サイトの上部にある、フランス国旗の配色で白い女性のシルエットにしたものだ。

 マリアンヌである。ということは、これ、フリジア帽を被っているのではないだろうか。政府サイトではよくわからないので、該当部分を拡大してみる(参照SVG)。

 これ、被ってますよね、フリジア帽。うひゃあ。
 フランスって、イスラム教徒にスカーフを被るなと言いつつ、自国政府のシンボルにフリジア帽被せてんじゃないだろうか。
 ニューヨークの自由の女神に戻ると、これにはフリジア帽がない。米国において、フリジア帽が軽視されていたかというと、そんなことはない。米陸軍のシール(参照)に描かれていたことでもわかるし、1986年以降の地金型銀貨アメリカン・シルバー・イーグル(参照)でもフリジア帽のマリアンヌを刻んでいる。
 しかし、と、ここで私は変な絵を思い出す。ジョン・ガスト(John Gast)が描いた「アメリカ的進歩(American Progress)」(参照)である。西部開拓を自由の女神が推進していくというテーマなのだが、現代から見ればかなり気持ち悪い代物だ。

 この女神の頭部なのだが、五芒星が一つ付いているが、フリジア帽は被っていない。

 この作品の年代はいつだったのだろうかと見ると、1872年である。つまり、この絵の女神はニューヨークの自由の女神よりも古い。ドラクロアのマリアンヌを知らなかったのだろうか。それとも、アメリカ的自由の女神というのは、マリアンヌとは別の系統を持っているのではないだろうか。あるいは、これは自由の女神とは別なのだろうか。だとすると、それは何か(たぶん次回に続く)。

|

« [書評]本格折り紙―入門から上級まで(前川淳) | トップページ | マリアンヌとコロンビア、国家の擬人化、理性教というカルト »

「歴史」カテゴリの記事

コメント

フランス革命が美化されるようになったのは、19世紀後半に県知事のウースマンの都市計画でパリ市街が幾何学的な巨大都市になってからのことだと思いますよ。それまでは、トクヴィルみたいな保守派はフランス革命をよく思っていなかったはず。

アメリカ独立だって、偉業になったのは、1920年代のアメリカの史上空前の繁栄のころからの認識のはず。それまでのアメリカ人は、ヨーロッパに劣等感を持っていた。

日本の明治維新だって、維新の大業と考えられるようになったのは、日露戦争後のはず。西南の役の前までは、反革命を模索している人はたくさん士族にいたはずです。

江戸時代の平和だって、明治を終わってからの結果論の認識で、長州の毛利家なんかは、いつでも徳川幕府と一戦交えるつもりでいた。北海道の松前藩や対馬の宗家なんかは、自分たちを、日本とさえ認識していたかどうか。むしろ、徳川家への服従は表向きだけで、自分たちは独立国家だと考えていたのではないかとさえ思います。

人間は、少し前のことだって、簡単に忘れてしまえるんですよ。だから生きていられるのかもしれません。何も忘れられないと、パレスチナみたいな話になって、かえって不幸なのかもしれません。

投稿: enneagram | 2010.08.02 14:28

>フランス革命というのは、事後の歴史が地味に創作していった物語なのではないか。

日本人はフランス革命があって、ナポレオンが出てきて、その政体がずっと続いているようなイメージがあるんでしょうけど、実際には王党派が一定の支持を集めて、何度もブルボン家の復権がありました。

ドラクロアがなぜ「自由の女神」を描かなくてはならなかったのか。また1880年代になって、なぜ自由の女神が流行ったのか。またこの時期に革命記念日が休日となったのか。
その背景にはナポレオンの栄光から普仏戦争での没落までの、繁栄と屈辱に彩られたフランスの19世紀史がからんでくるのですが、まあ、謎解きはブログ主にまかせましょう。

投稿: F.Nakajima | 2010.08.02 21:30

なかなか面白い投稿だったのでコメントを。

いやぁ、長らくドラクロアの「自由の女神」の名前も知らず、被ってるのはベールかスカーフかと思ってました。フリジア帽も名前すら知りませんでしたが、いわゆる「西洋のファンタジーや民話で小人の被ってる赤い帽子」ってやつですかね。

 ちなみに井の頭線使って吉祥寺行きますが、たしかにあの女神像何処に行ったのかなと思うことがありましたね。こんど行く時気をつけてみよう........

投稿: とおりすがり | 2010.08.02 23:38

ホテルニューヨークはすでに1981年にはありました。このホテルの前の焼き肉やによく行ったので覚えています。自由の女神をラブホのシンボルに使ったということで、アメリカ人の団体(大使館?)から抗議があったとかなかったとか。それ以前は南口のソープランドの上にあっのか記憶が定かでありません。当時、吉祥寺に住んでいた者がいますので尋ねてみます。新たなことがわかったらまたコメントします。しかし、自由の女神というのはキリスト教的には多神教になってしまうのではないかと・・・なんでニューヨークに堂々と立っているのだろうとか、疑問に思います。

投稿: ジモ人 | 2010.08.03 12:11

このシリーズも面白いです。そのうち、聖書シリーズに行き着くのを期待しています。

投稿: richmond | 2010.08.03 23:05

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: あいまいな記憶と歴史の中の自由の女神:

» 極東ブログ「あいまいな記憶と歴史の中の自由の女神」に続け! [godmotherの料理レシピ日記]
 ウォーリーを探せ「自由の女神」版って感じ(参照)。思考の順路が面白い。 物事への興味というのは、とてつもなく広がる。中途半端な記憶と歴史上の事実が合致しないと、どうも気持ちが悪い。いつまでも後を引く... [続きを読む]

受信: 2010.08.03 08:50

« [書評]本格折り紙―入門から上級まで(前川淳) | トップページ | マリアンヌとコロンビア、国家の擬人化、理性教というカルト »