[書評]王妃オリュンピアス―アレクサンドロス大王の母(森谷公俊)
ちくま新書「王妃オリュンピアス―アレクサンドロス大王の母(森谷公俊)」(参照)は書名通り、アレクサンドロス大王の母であり、フィリッポス二世の王妃オリュンピアスを描いた書籍である。
昨日のエントリで扱った「ヒストリエ」(参照)に関心のある人なら、今後の展開の指針ともなる部分も多く、かなり興味深く読むことができるだろう。この機に再読してみると、「ヒストリエ」の著者岩明均氏も本書を読んで得た着想がありそうだなとすら思った。
![]() 王妃オリュンピアス アレクサンドロス大王の母 森谷公俊 |
にもかかわらず、日本語で読めるオリュンピアスについての書籍は依然この本が最善のように思える。森谷公俊氏には本書の後もアレキサンドロスについての著作が数点あり、それはそれで面白いのだが、この時代のある種本質と言えるものはオリュンピアスに集約されているので、本書は新書として古典的な意味合いを持つかもしれない。と思って書籍情報を見ると、すでに絶版のようでもある。いずれ「ヒストリエ」が映画などで一段とブレークしたら再版されるだろう。
書名は簡素に「王妃オリュンピアス」となっており、また副題はオリュンピアスを知らない人のためもあり「アレクサンドロス大王の母」となっているが、おそらく書名については著者の思いは反映していないのではないだろうか。本書の特徴は、マケドニア王国の体制の根幹に「王」と「王妃」という概念を持ち込まないことにある。
王や王妃という称号が定着し始めるのは、アレキサンドロスが死んだ後、ヘレニズム諸国が成立する前四世紀末以降のことなのである。注意深い読者なら、本書ではこれまで王妃という呼び方を一切していないことにお気づきであろう。
フィリッポス二世の七人の「王妃」間のは序列はなかったという立場で本書は説明していく。それは外交上の意味合いとも関連つけて、歴史解説書らしく丁寧に解き明かされていくが、この説明は、物語としてこの時代を見たときの最大の山場であるフィリッポス二世暗殺にも強く関連してくる。
本書は、合理的な推論を重ねてフィリッポス二世暗殺についてオリュンピアス説を排している。読めばなるほどとも思えるが、従来からの物語に馴染んだ者やそれでもオリュンピアスが疑わしいと思う私などからすると、物語としてはそれでもオリュンピアス黒幕だろうと思いがちだ。そこも著者の心憎い配慮がある。一応否定した後、こう続く。
そうであっても正直言って、オリュンピアスが真犯人だという物語はたしかに面白い。面白いからこそ、ヘレニズム時代からローマ時代に好んで書かれたのである。これが現代の事件であれば、マスコミの絶好の話題となり、芸能レポーターが殺到してオリュンピアスにマイクを突きつけるに違いない。この私にしても、もしオリュンピアスを主人公にする歴史小説を書くとすれば、やはり彼女を真犯人するだろう。
そうでしょう。というか、本書もアレキサンドロス死後のオリュンピアスを描いているがそれを見ていると、私としてもオリュンピアスが黒幕としか思えない。
が、そのあたりで、「ヒストリエ」のエウメネスを読んだ後に、本書を再読すると、アレキサンドロスの背後にオリュンピアスがいたとしても、アレキサンドロス死後のオリュンピアスというのは、実際にはエウメネスなのではないかという疑問が浮かんできた。
あの残酷な仕打ちは、いくら密儀宗教のオリュンピアスとはいえ正気の沙汰とは思えないし、しかし狂気でできる残虐でもないというあたりで、ああ、なるほどスキタイ(Σκύθαι)という設定かと思った。「ヒストリエ」がそういう展開になるのか、その時代まで描けるのかわからないが、そういう歴史を描いてみたい誘惑には駆られるものだろう。
「ヒストリエ」の関連で言えば、アレキサンドロスを多重人格的に描きたい着想に近いものも本書にある。ミエザでアリストテレスの元で学ぶアレキサンドロスについてその二面性をこう指摘している。
こうしてアレキサンドロスは、空想と情念、歓声と陶酔の優る母親の元を離れ、実在と観察、理性と論理によって人格を鍛える道に足を踏み入れたのである。もっともこれらの二つの志向と性格は、後年のアレキサンドロスの生涯において、時にバランスを崩しながら拮抗しあうのであるが。
「ヒストリエ」で独特の想像力で描かれるヘファイスティオンについては、本書では当然ながら歴史書の通例通りに描かれる。
ヘファイスティオンはアレキサンドロスと同年で、幼い頃から一緒に育てられた。背丈はアレキサンドロスより少し高く、容姿でも王を上回っていたと伝えられる。彼はアレキサンドロスの最も親密な、心を許すことのできる友であり、政治的にも側近ナンバーワンの地位を占めていた。
ヘファイスティオンはエウメネスと異なり軍事的な功績は何もない。いろいろと謎の多い人物でもあり、その極みはオリュンピアスとの諍いである。本書にはオリュンピアスを罵るヘファイスティオンの手紙が「我々を非難するのはおやめ下さい」と始まるのが、ちょっとぞくっとするところだ。
本書の最終部分ではエウリデュケの悲劇も登場する。陰惨な歴史でもあるし、これが歴史というものなのかとも思えるが、女性の歴史として見ても面白く、本書はそこにかなり意識を配しているようだ。
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コメント
アレクサンドロスの政策は、結局、東西融合ではなく、ペルシャのギリシャ化、アリストテレス派化となって、ヘレニズム時代の幕を開けるのですが、のちのイスラムの躍進の時代にイスラムに改宗したペルシャ人たちが目覚しい活躍をするのも、アレクサンドロス時代の遺産がペルシャに生きていたからで、アレクサンドロスなしには、イスラム文化の栄光もなく、ルネサンス以降のヨーロッパもなかったのでしょう。
唐の太宗がインドから帰国した玄奘三蔵を厚遇していなかったら、インドから仏教が滅ぶとともに、地球上から仏教は消滅していたかもしれません。消滅しないまでも、東アジアの一部にのみ残存し、ジャイナ教のような少数派の信仰に転落していたことでしょう。
トップの意思決定というのは、後の時代まで大きな影響を残すもののようです。
投稿: enneagram | 2010.08.24 12:36