[書評]ロスト・シンボル(ダン・ブラウン)
読書の少し捻くれた楽しみの一つは、上手に期待を裏切られることだ。ロスト・シンボル(ダン・ブラウン)(参照)はエンタテイメントの小説だからこの程度の仕立てに違いないという期待を持って読み進めると、ぽろぽろと崩れ落ちる。予想は微妙に外れる。期待は小気味よく裏切られる。その都度、シニカルな笑いが襲う。やられた。面白いじゃないか、これ。
テーマはフリーメーソンの謎だから、これは欠かせないという一連のネタが出てくる。お約束だ。出るぞ出るぞと思っていると出てきて、きちんと肩すかし。さすがによく練られている小説だ。犯罪小説ではないが十分にミステリー仕立てにもなっていて、誰が味方で誰が敵かは話の進展で変わっていく。
ロスト・シンボル ダン・ブラウン 越前敏弥訳 |
物語の描写は映像的で比喩的な深みはないが、その分読みながらくっきりした映像が浮かぶ。げっこうグロい映像もきちんと見えてくるので、若干悪夢にうなされるかもしれない。この感触は、映画作品をノベライズしたかのようだ。すでに映画化は決まっているのではないかと調べてみると、そのようだ。
上巻を開くとプロローグ。そこで34歳のある男がフリーメーソンの最高位に上るための儀式が描かれる。秘密の儀式である。「秘密はいかにして死ぬかだ」というのがこの小説の最初の一文だ。そして、それがこの物語のすべてでもある。
物語は主人公ハーヴァード大学宗教象徴学者ロバート・ラングドンが、恩師ともいえる年上の大富豪慈善家ピーター・ソロモンから、合衆国議会議事堂の講演を緊急で依頼され、特別機でワシントンに降り立つところから始まる。空港での出迎えまではさすがに至れり尽くせりだが、議事堂に着くと何かおかしい。お約束通り騒ぎに巻き込まれる。議事堂で子どもの悲鳴。ドームの床には天井を指さす人間の生の右腕が置かれていた。切断された腕はフリーメーソンの最高階位にあるピーター・ソロモンのものだ。その指にはそれぞれフリーメーソンのシンボルが描かれている。これをその場で解くことができるのは、ラングドン、君だ。息を継ぐ間もなく彼は押し寄せるフリーメーソンの謎を解きまくる。事態は急速に展開する。物語は12時間。そして最後に何が起きるのか。アメリカ合衆国建国に仕組まれたフリーメーソンの謎は解き明かされるのか。結果、それなりに解き明かされるのもご愛敬。
登場人物の中では、CIA局長でもある日系の老女イノエ・サトウが映像的にも面白いキャラに仕上がっている。日本名は「井上佐藤」だろうから、日本人にはけっこう違和感があるが版元で直せなかったのだろうか。もう一人、物語に花を添えているのが純粋知性科学というオカルトのような科学を研究しているピーターの妹キャサリン・ソロモンである。ラングドンと大人の恋が芽生えそうな個所もあるのだが、展開しない。ラングドン、恋は苦手か。次回作もたぶんあるしな。寅さんなら毎回淡い恋という展開もあるが。
邦訳書では上下巻と分かれて大著だが、普通に読んで12時間はかからない。丁寧に読んでその半分くらいなものだろうか。ただ、読み出すと止まらない。私も30代のころはエーコの「薔薇の名前」(参照上巻・参照下巻)や村上春樹の「ノルウェイの森」(参照上巻・参照下巻)を読み出したら止まらず、つい徹夜したものだ。が、もうさすがに読書で徹夜はできない。この物語は2日かけて読んだ。それでもなかなか途中ストップしづらい読書ではあった。
ミステリー仕立ての他に面白かったのは、グーグルや類似の検索技術が情報探索の小道具としてそれなりに利用されていることであった。現代においてグーグルもまたフリーメーソンなみの情報を提供してしまうという戯画であるのが笑える。このあたりのシニックなトーンも愉快だった。
物語としては下巻の四分の三でクライマックスを迎える。その後に取り散らかした謎の始末や、フリーメーソンの謎をからかうだけではない現代風の解釈が大学の講義のように比較的淡々と続く。この部分も悪い出来ではない。秘密の言葉の解釈について、そういえばと、アーヴィング・ウォーレスの「新聖書発行作戦(The Word)」を連想した。こちらの本はもう絶版かと思ったら「イエスの古文書」(参照上巻・参照下巻)で復刻されていた。これもおもしろ本だったな。
翻訳の質も悪くない。「日本人なら必ず誤訳する英文」(参照)の越前敏弥さんのことだから誤訳もないだろう。訳の工夫もしている。例えば、こんなところ。
キャサリンは笑った。「請け合ってもいいけど、私が研究成果を発表したとたん、ツイッター好きがいっせいに”純粋知性を学ぶ”なんてつぶやき(ツイート)を投稿しはじめて、この学問への関心が一気に深まるでしょうね」
ラングドンのまぶたは抗いがたいほど重くなっていた。「どうやってツイッターを投稿するか、まだ知らないんだよ」
「ツイートよ」キャサリンは訂正して笑った。
「ツイッター」を投稿するのではなく、投稿するのは「ツイート(つぶやき)」だということだが、キャサリンの笑いにはこの言葉をラングドンが理解していない含みがある。
最後に余談。ついでなので本書で重要な意味をもつ「ワシントンの神格化」について本書を補う点として少し触れておきたい。
ワシントンの神格化
1865年に描かれたものだ。実際にワシントンの下、アメリカが独立したのは1776年なのでこのフレスコ画は独立当時の時代を表現しているとは言い難い。絵の解説は本書になんどか書かれている。注目したいのは二点。
コロンビア
戦いを鼓舞しているのがお馴染みのコロンビア神である。フリジア帽は被っていない。
ネプチューン(ポセイドン)
神々がケーブルを持っていることに注目。これは米英間を結ぶ大西洋横断電信ケーブルである。このフレスコ画完成の翌年、1866年に完成した。つまり、この絵は大西洋横断電信ケーブル完成に合わせてその記念の絵でもあった。
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コメント
>日本名は「井上佐藤」だろうから、日本人にはけっこう違和感があるが版元で直せなかったのだろうか。
未読なので詳しいことは分かりませんが、名前は「井上サト(Inoue Sato)」ではないでしょうか。
http://en.wikipedia.org/wiki/The_Lost_Symbol
>the head of the CIA's Office of Security, Inoue Sato
投稿: うぐいすパン | 2010.08.09 20:06
昨日、「CIA局長名は『井上サト』ではないでしょうか」とコメントを入れた者ですが、
よく考えたらこれだと姓名の順がおかしいですね。
現時点では未掲載(未公開)の先の投稿を取り消したいと思います。
(先の投稿を含め、この投稿も不掲載でかまいません。お手数おかけしてすみません)
投稿: うぐいすパン | 2010.08.10 02:56
私も読みました。
「ダ・ビンチ・コード」「天使と悪魔」からフリーメイソンのピラミッドの謎と、よく続きますね。
映画化を意識したのか、最後のどんでん返しには、私も騙されました。
投稿: 本のソムリエ | 2010.11.28 13:58
希望がわいてきましたね
投稿: | 2011.04.02 22:51