« 2010年7月 | トップページ | 2010年9月 »

2010.08.30

フィナンシャル・タイムズ曰く、間違えられた男・小沢

 現下の日本政局を論じた、29日付けフィナンシャル・タイムズ社説「The wrong man for Japan(日本にとって間違われた男)」(参照)は、厳かに始まる。


If Dante’s version of hell had nine circles of suffering, then Japan’s version of politics must have at least nine circles of farce.

ダンテが語る地獄が九層の苦痛から成り立っているというのであれば、日本政治という地獄は少なくとも九層のおふざけから成り立っているに違いない。


 細い蜘蛛の糸をよじ登ろうとしている、あの痩せて弱々しく笑う男は誰? そしてその下に群がるそれは何?

After only three months in the job, Naoto Kan – the third prime minister in a year – is being challenged for the leadership of his party

たった三か月仕事に就いたのち、菅直人、すなわちこの一年間で三番目の首相であるが、自党からその指導力を問われている。


 対する、間違われた男・小沢はどう言及されているか。

If Mr Ozawa, who recently referred to Americans as “single-celled organisms”, becomes prime minister, he will be Japan’s most interesting prime minister since Junichiro Koizumi left office in 2006. He would also be a disaster.

米国人を「単細胞生物」と呼ぶ小沢氏が仮に首相ともなれば、2008年に首相を辞した小泉純一郎以降、日本にとってもっとも興味深い首相となるだろう。小沢氏は災厄ともなるであろう。


 フィナンシャル・タイムズは、小沢氏をなるほど多細胞生物(doubtless a multi-celled organism)だと呼び、かつては重要な政治家であったと評価しつつも、外交で何を考えているのかわからないと論じている。内政面でもかつての政局混乱を想起させている。

The last US ambassador to Tokyo could not even arrange to meet him when he was leading a revolt against a Japanese mission to refuel US ships operating near Afghanistan.

アフガン近隣で活動する米国船給油に自衛隊が任務に当たることに反対する点で小沢氏は主導的な役割を果たし、そのおりには、前駐日米国大使は小沢氏と面会スケジュールを組んでもらうことすらできなかった。



More than his confusing foreign policy stance, Mr Ozawa is unfit to be prime minister because of his domestic record. Though strategically brilliant, he is quixotic and destructive.

小沢氏の混乱した外交姿勢に加え、首相に適さない理由には内政面の過去がある。彼は政局に鋭敏ではあるが、破壊的なドン・キホーテなのだ。


 これからどうなるとフィナンシャル・タイムズは見ているか。

The Japanese public dislikes him. In a recent poll, 79 per cent of respondents said they did not want him returning to an important party post. (He quit as secretary-general in part because of an alleged funding scandal.) Yet so out of touch are Japan’s politicians that he may win anyway.

日本人の多くは小沢氏を好んでいない。最近の世論調査でも、79パーセントが主要なポストに返り咲くことを拒絶している。(小沢氏は政治資金疑惑で幹事長職を辞任してもいる。)にも関わらず、日本の政治家は非現実的なので、小沢氏が勝ち切るかもしれない。


 民主党のこの、お笑い地獄の最終層はどのようになっているか。

If the DPJ makes him its head, and hence prime minister, it will have betrayed its promise to bring Japan a new kind of politics. If it goes on to surrender power, it will only have itself to blame.

民主号が小沢氏を首相に据えるなら、日本に新しい政治をもたらすという公約を裏切ることになるだろう。そしてもし与党を辞すことになれば、それは自らを責める以外にはない。


 不吉な話になってしまった。ここはお笑い地獄なのだ。
 それらしく、懐かしのナンバー、Jojoの"Wrong man for the Job"をどうぞ。

You're the Wrong man for the job.

I Thought that you were the best part of me,
Baby I guess that we just believe what,
We wanna believe
I Thought I knew you so well , I couldn't tell
That this was sinking so deep,
I see it now,
I'm breathing now,
Its time for me
For me
To let it go

あなたはこの仕事を間違ってしているの。

あなたが私のベストだと思ってた
そうよ、信じたいと思っていることを
私たち信じているだけ
私はあなたをわかっていたと思ってたから言えなかった
それは心に沈んでいった
今わかるの
ようやく息をしてみるの
自分のために
終わりにしましょう

(コーラス)
It was cool when it started but now the flame has gone
You're The Wrong man for The Job,

出会いはすてきだったけど燃え上がる心はないの
あなたはこの仕事を間違ってしているの




| | コメント (6) | トラックバック (2)

2010.08.28

[書評]お前の1960年代を、死ぬ前にしゃべっとけ!(加納明弘、加納建太)

 太平洋戦争が1945年に終わり、二、三年後、ベビーブームと呼ばれるが、新しい日本人が多く生まれた。その子供たちが青春を迎えた1960年代後半は、日本の歴史においても特異な時代となった。戦後のリアルな貧困は体験しているものの、戦争を知らずに育った多数の若者たちは、その時代、親の世代や、因習と米国に盲従する日本というシステムに反抗した。

cover
お前の1960年代を、
死ぬ前にしゃべっとけ!
加納明弘、加納建太
 戦後世代の反抗。そう概括することはたやすい。現在からあの時代を記録のような大著にまとめることも、簡単とは言えないまでも、難しい作業とは言い難い。難しいのは、あの時代に生きて、その反抗の総括をその後の人生において成し遂げること。「お前の1960年代を、死ぬ前にしゃべっとけ!(加納明弘、加納建太)」(参照)は、その見事な達成だった。
 昨今のネット時代では、1957年生まれの私なども爺扱いされ、団塊世代とごっちゃにされることがあるが、私はポスト全共闘世代で、それなりにインテリ青年志向でもあったので、上の世代である全共闘世代をいかに否定するかが精神的な課題だった。自分なりに戦後世代の反抗というものの意味づけに格闘した。
 私は二つの戦略を採った。一つは、私の父の世代、つまり全共闘世代より上の世代を知ること。歴史を戦争によって分断するのではなく、連続した近代史として見ること。それを通して、GHQが残した神話を戦前・戦後のリアル体験を持つ世代の視点から相対化することだった。私は父世代の体験を拾い集めながら、吉本隆明と山本七平に傾倒した。
 もう一つは、直に全共闘世代から聞くことだった。1984年にパソコン通信を始めたころ、その縁で全共闘世代のかたとの知己を得た。親身にしていただき、いろいろ伺った。長いお付き合いで、全共闘世代の内側から見えるものがわかったように思えた。この本もそうした関心の延長から読み始めた。
 この本は、広義の団塊世代、そして全共闘世代としてみればその中心位置にいた親父(オヤジ)と息子との対話である。背景は、長い副題のとおりでもある。

肺がんで死にかけている団塊元東大全共闘頑固親父を団塊ジュニア・ハゲタカファンド勤務の息子がとことん聞き倒す!

 帯にはこうある。

親父、1965年東京大学入学後、東大駒場で三派全学連系の活動家となる。1968年1月、佐世保エンプラ寄港反対闘争で、1968年3月、王子野戦病院反対闘争で逮捕・起訴される。その後、ノンセクトとして駒場共闘会議のリーダーとなり、東大全共闘に参加。1969年6月、東京大学中退。1960年代後半。二十歳そこそこだった親父は何を見て、何を読み、何を考えていたのか。親父とサシで話したこと、ある

 父・加納明弘氏は1946生まれ、息子・加納建太氏は1974年生まれ。団塊世代と団塊チルドレンである。仮にその中間を取ると1960年になるが、それだと日本の風景を変えた東京オリンピックの記憶はなく、東大安田講堂事件の意味合いもわからない。それがわかる最後の世代が、1957年生まれの私である。
 この本には、内側から見るあの時代について、きちんと答えるものがあった。それ以上に、「親父」である加納明弘氏という人にも圧倒された。何者だろう? この恐るべき知性は? と驚いた。
 学術書の類を書く頭のいい人の話をいくら聞いても頭がすっきりするとはいかないことが多いが、本当に頭のいい人の話を聞いているときは、脳がきーんと活性化してくる。この本は、読みながら、そのピーク感覚が続いた。加納明弘氏の話を、対談本としてだが、聞きながら、脳の中がキーンとしてくるのが感じられた。とことん考え詰める知性がここにある。こんな人が市井に隠れていたものだろうか? 実際には本書でも語られているが、氏には高野孟氏との共著もある。が、いわゆる思想の世界で表立っていた人ではないようだ。
 その整然とした語りのなかには、ポスト全共闘世代としてようやく到達した思想の地点というものもきちんと包括されていた。特に、その戦後史的な、世界史的な展望は見事なものだった。新左翼の本来の課題である、体制左翼的なるものを完全に思想的に解体する孤独な営為の結実があった。
 しかし、それは息子さんにうまく伝わってはいかない。世代ギャップ以上のものがそこここにある。私なども、小さく呆然とした。

親父 (前略)加藤登紀子っていう歌手がいるでしょう。
息子 えっ知らん。
親父 東大出たシャンソン歌手だよ。
息子 知らない。
親父 加藤登紀子知らないのかよ。
息子 世代が違うんで。
親父 世代じゃなくて、国籍が違うやつと話しているような気がしてきた。

 結果的に言うのなら、息子の聞き取り・合いの手は、ボケを演じながらも聡明な聞き役となっている。意図的ではないのかもしれないが、アポロ陰謀説などは吹き出しそうになった。が、それもまさに団塊世代チルドレンなら考えそうな発想や知識をきれいになぞっていることで、若い世代の人にも本書のよい入り口になっている。

息子 月着陸の証拠が、全部消されて無くなっているとかっていう噂なんだけど、あの映像はひょっとしてすごい特撮をしたのか?
親父 月着陸は嘘じゃないかっていうのは、ネトオタのヨタ話だよ。
(略)
息子 今それ解析されたらなんか特撮がばれちゃうのかな、わかんないけど。
親父 そんなことはないと思うけどね。
息子 安っちい映画だったら。
親父 それはない、おまえはネトオタ話に弱すぎだよ。

 こうしたすれ違いは大したことではないと言えば大したことではない。重要なことは、時代認識の総体に関わる、第二次世界大戦と冷戦の認識だ。
 核兵器などなくなれば平和になるという若い人らしい平板な発想がきちんと潰されていくあたりは、ぞくっとする。説明は、独ソ戦から説かれる。誰がヨーロッパをナチスから解放したか?

息子 ソ連は、雪で守られているあまりドイツと戦争に参加しなかった?
親父 違う、違う、そうじゃない。ソ連軍は連合軍側では一番死者を出したんだよ。独ソ戦は第二次世界大戦のハイライトだよ。ナチスを軍事的に打倒したのはソ連だから。この点について、日本人の多くの認識が世界の常識と違うんだよ。ちゃんとした歴史教育を受けていないんだよ。ナチを倒したのは、
息子フランスじゃないんだ。
(略)
息子 イギリスでもないんだ。
(略)
親父 (略)このナチ打倒の功績によって、戦後の世界政治のシステムが、米ソ二極システムになった。そこを理解しないと、20世紀の歴史がわかったことにならない。
(略)
ソ連軍は対ドイツ戦に動員した大兵力をそのまま中央ヨーロッパの戦線の駐留させたから、ソ連がその気になりさえすれば、西ドイツ、フランス、ギリシャ、イタリアまでもが、ソ連圏になっている可能性は非常に高かった。それだけ米英とソ連の間の軍事バランスはソ連優位だった。だから、冷戦が始まった1940年代後半にアメリカが核兵器を持っていなければ、ソ連が一気にイギリスを除く西欧を衛星国にしていた可能性はあったんだよ。そこで核兵器の話に戻るけどね、スターリンがなぜ西進の決断ができなかったかっていったら、やっぱりアメリカの核兵器が恐かったからだよ。


息子 アメリカが日本に核兵器を落とした。しかし、アメリカの核兵器はヨーロッパの平和維持に役立ったというわけ? その睨みが?
親父 それを平和というか安定というかはともかくとして、少なくともソ連軍の西進を抑止することに核兵器が貢献したと、アメリカもロシアも西ヨーロッパ諸国も考えている。(後略)

 冷戦の解説の話は、公平に言えば、一つの独自の史観とも言えるが、引用部分以外も包括的にかつ完結にまとまっていて、それだけでも本書の価値を高めている。
 さらに、ソ連というものの歴史的な出現をフランス革命から説き起こして、近代史の全貌も語られる。本人も「大風呂敷」と述べているが、その鳥瞰図のなかで1960年代後半の全共闘世代の経験がきちんと位置づけられていく。
 いや、位置づけというのではない。歴史的説明を装った知的な弁明ではないからだ。内ゲバという実体験の深化に伴う、背景的な考察として、近代理性というものの鳥瞰図が要請されていく。一言で言えば、理性が負け、欲望と自由が勝ったとされるが、その理性のなかに、日本という社会主義的なシステムも描き出されていく。歴史というもののなかに投げ出されたリアルな人間が、その全的な関与において感受したものを通して、歴史の意味が説き明かされていく。そのプロセスにはため息が漏れる。
 内ゲバ体験とその背景の力学については、類書でも語られるが、この本では民青の描き方が興味深い。対談の貴重な価値にもなっている。余談めくが、NHKの朝ドラ「ゲゲゲの女房」は穏便で受け身の主婦の昭和史のように見られがちだが、あそこで描かれた工員や女工の背景には民青の物語も潜んでいる。
 こうして全共闘世代の青春の意味がその後の人生のなかに問われて、では結局なんだったのか? 息子に語る、一種の自己満足のようなものだったのか。
 まったく違う。戦後日本がまったく新しい市民というものを形成した一つの勝利と呼べるものだろう。この対談こそが、日本に本格的な市民というものが生まれたということの証左でもある。
 市民としての思索を辞めてしまうことが、冗談を込めて「脳死」として語られる。

親父 (略)やっぱり脳死のフリをしないと、サラリーマンや組織人やってられないいう側面はあるわけだからね。だけど、脳死のフリをしているとしばしば本当に脳死しちゃうわけだよ。そういうやつがたくさんいると思うよ。
息子 かろうじて逃げてきたのがTさんであるのか、親父はかなり変わった形で逃げてきた。
親父 T君なんかは、かろうじて脳死から逃げきったと思う。我々の世代が脳死から逃げるためには、やっぱり大変なエネルギーが必要だったんだよ。

 「脳死」は現代日本そのものでもある。なぜか。

親父(略)異議申し立てをすれば叩き潰されるんだから、異議を申し立てしてもしょうがないっていう諦めになる。いわゆる政治的無気力感であり、政治的無関心になるわけだよね。その上に、昨夜いったような異議申し立て者の末裔が引き起こした幾つかの芳しくない事件が重なって、無力感はますます深くなり、やがて異議申し立てする奴が日本社会からほんとどいなくなっていった。キミが対談の冒頭で言ったように、暴動を起こす元気もなくなっていったわけだよ。で、何が起こった? 異議申し立てされない権力っていうのは必ず腐敗するんだよ。

 ポスト全共闘世代の私からすれば、ああ、また言ってら、という印象もある。
 むしろ、全共闘世代は異議申し立てゲームをやりつづけて、ついにリアルを浸蝕して、現在のお馬鹿な政府まで作り上げてしまった。ネットでは異議申し立ての正義や社会主義的な正義の名を借りて、記号的に形成された異端者を屠り上げる快感のゲームが繰り広げられる。現代は、異議申し立て幻想の倒錯の時代であると私は思う。
 それでも、全共闘世代、いやそれを包み込む戦後の最初の世代としての団塊世代が、市民とその原理を、社会や国家の基盤に据えたこことに私は疑いを持たない。人が一人一人起立して自己の意見を語り、場合には異議申し立てで軋轢を生んでも、友人に語り、配偶者に語り、息子に語り、娘に語る、そういう市民社会が、戦後の日本人の経験化から生まれつつあることは、どのような両義性をもっていたとしても、まず肯定されなければならない。その点で、この本の終章と後書きは、ユーモラスでありながら力強いものだった。
 本書はネットに公開された内容を書籍化したものということだ。探してみると、「Eastedge1946」(参照)にある。異同はあるらしいが、ざっと見たところでは書籍版と同じ内容のようだ。

| | コメント (8) | トラックバック (2)

2010.08.27

菅さん、衆院解散しちゃいなさいよ

 民主党小沢一郎前幹事長が9月の民主党代表選に出馬することになった。まあ、出馬することは一向にかまわないがと、素人ながら代表選の票を読んでいくと、ありゃ、小沢さん、勝ちそうだ。ということで、今更、暗澹たる気分になった。これで小沢独裁アゲインか。
 小沢さんの自前のグループが150人、これに鳩山さんのグループが50人。これだけで都合200人。民主党所属国会議員は412人。勢いだけで過半数はガチというところだ。
 対する菅さんの自前が40人。前原さんは反小沢派ということでこっちに40人プラス。同じく野田さんの30人。都合110人。小沢さんの半分くらい。
 お残しは許しへん、ということで、他に目立ったところというと、旧社会党の赤松さんとかが30人と、旧民主党の直嶋さんとかが30人。グレーゾーンが都合60人だが、すでに旧社会党のドン・輿石さんが小沢さん支持に回っているので、それほど菅さんの勢力にならない。
 今回の代表選は前回のように議員だけに閉じることはないので、地方議員2382人と、党員・サポーター約35万人も加わる。彼らが国民の声に近いとすれば、小泉政権成立のような民意に近いものが出そうだが、期待薄。
 民主党国会議員の1票は2ポイントだが、地方議員は全部で100ポイント。つまり議員50人換算になる。党員・サポーターは300ポイント。議員換算にすると150人。
 国会議員以外が全員菅さん支持に回れば、200人のグループ相当となり、小沢首相を阻止できる。が、それはないでしょう。仮に半々だとしても、小沢さんの勝ち。1対3で割れて、菅さん支持が多ければ、なんとか菅さんに目が出る。無理。
 ねじれ国会とか言わず、地味に政策議論を開いてやっていけばよいではないか、堪え性がないな、日本国民、とか思ったが、これ、別段国民の声で小沢さんが出てくるわけではない。日本国民から見ればそう多くもない、一政党の物語。
 この急変の事態、過去の人かと思った鳩山前首相が思わぬキーマンとなってとんでもないことになったものだ。今日は27日だが、たった二日前の空気はこうではなかった。25日付け読売新聞記事「外堀埋められた?…鳩山氏、小沢氏に「菅支持」」(参照)より。


 鳩山前首相が24日夜の小沢一郎前幹事長との会談で、9月の民主党代表選では菅首相を基本的に支持する考えを伝えたことで、小沢氏の代表選出馬は厳しい情勢になってきた。
 党内でも首相再選を支持する声が広がっており、「小沢氏は外堀を埋められた」(党幹部)という見方も出ている。

 2日前まで菅さん支持だった鳩山さんだけど、お得意のブレで小沢さん支持に回る。あっさり覆った。小沢さんの政治力はさすがというべきなのだろうか、すごすぎるよ、鳩山さんというべきか。最悪。
 かくして小沢首相阻止ができるのは、もう菅首相の伝家の宝刀しかない。岩に刺さったエクスカリバーを引き抜くことができるのは、勇者だけだ。菅さん、衆院解散しちゃいなさいよ。小泉元首相のように、乾坤一擲、国民を信じて語りかければ、国民は菅さんを支持しますよ。
 しかし御大師様の霊言があってもそうはならないでしょう。それが菅さんの限界でしょう。菅さん支持派が党を割って出ることもなく、仙石さん、枝野さん、なんとなくさようならで、終わりそうだ。
 小沢首相と暮れていく日本の秋。そして冬将軍。民主党から誰が首相になっても、ねじれ国会とやらは変わらないといえばそうだが、どういう風景になるのか。今日の読売新聞社説(参照)を見ると、ナベツネさんがまたオレの出番かとはしゃぎだしているようでもある。
 マニフェスト堅持というのだから、バラマキを基本にするのでしょう。盟友亀井さんが戻って懐かしい歌を歌い上げる。市場は即座に反応し、長期金利は1%台に急騰した(参照)けど、そこだけ見れば、自民党小渕内閣アゲインといった風情で、そう悪いことでもないし、案外亀井さんなら寝ぼけた日銀を動かすこともできるかもしれない。
 そして、郵政問題は振り出しに戻る、普天間飛行場問題はも一度ちゃぶ台返し。
 それが希望なのか。上手にすれば「指導力」とかいうポピュリズムでやっていけるかもしれないが。

| | コメント (6) | トラックバック (3)

2010.08.24

[書評]王妃オリュンピアス―アレクサンドロス大王の母(森谷公俊)

 ちくま新書「王妃オリュンピアス―アレクサンドロス大王の母(森谷公俊)」(参照)は書名通り、アレクサンドロス大王の母であり、フィリッポス二世の王妃オリュンピアスを描いた書籍である。
 昨日のエントリで扱った「ヒストリエ」(参照)に関心のある人なら、今後の展開の指針ともなる部分も多く、かなり興味深く読むことができるだろう。この機に再読してみると、「ヒストリエ」の著者岩明均氏も本書を読んで得た着想がありそうだなとすら思った。

cover
王妃オリュンピアス
アレクサンドロス大王の母
森谷公俊
 いつの出版だったかと初版日を見ると1998年2月20日とあり、もう十年以上も経つのかと感慨深く思った。私がペラに行って現地の遺跡や博物館などを巡っているときも、遺跡調査が進行中で、従来ローマ時代に書かれた物語風のマケドニアの歴史がいろいろと書き換えられていたさなかであった。本書もそうした、その時点の最新の情報を取り入れてバランスよく、そして新書らしく空想豊かに描かれていて、なるほどと思ったものだった。しかし、もういくつかの情報や歴史の知識はリニューしておかないといけない時期なのかもしれない。
 にもかかわらず、日本語で読めるオリュンピアスについての書籍は依然この本が最善のように思える。森谷公俊氏には本書の後もアレキサンドロスについての著作が数点あり、それはそれで面白いのだが、この時代のある種本質と言えるものはオリュンピアスに集約されているので、本書は新書として古典的な意味合いを持つかもしれない。と思って書籍情報を見ると、すでに絶版のようでもある。いずれ「ヒストリエ」が映画などで一段とブレークしたら再版されるだろう。
 書名は簡素に「王妃オリュンピアス」となっており、また副題はオリュンピアスを知らない人のためもあり「アレクサンドロス大王の母」となっているが、おそらく書名については著者の思いは反映していないのではないだろうか。本書の特徴は、マケドニア王国の体制の根幹に「王」と「王妃」という概念を持ち込まないことにある。

王や王妃という称号が定着し始めるのは、アレキサンドロスが死んだ後、ヘレニズム諸国が成立する前四世紀末以降のことなのである。注意深い読者なら、本書ではこれまで王妃という呼び方を一切していないことにお気づきであろう。

 フィリッポス二世の七人の「王妃」間のは序列はなかったという立場で本書は説明していく。それは外交上の意味合いとも関連つけて、歴史解説書らしく丁寧に解き明かされていくが、この説明は、物語としてこの時代を見たときの最大の山場であるフィリッポス二世暗殺にも強く関連してくる。
 本書は、合理的な推論を重ねてフィリッポス二世暗殺についてオリュンピアス説を排している。読めばなるほどとも思えるが、従来からの物語に馴染んだ者やそれでもオリュンピアスが疑わしいと思う私などからすると、物語としてはそれでもオリュンピアス黒幕だろうと思いがちだ。そこも著者の心憎い配慮がある。一応否定した後、こう続く。

 そうであっても正直言って、オリュンピアスが真犯人だという物語はたしかに面白い。面白いからこそ、ヘレニズム時代からローマ時代に好んで書かれたのである。これが現代の事件であれば、マスコミの絶好の話題となり、芸能レポーターが殺到してオリュンピアスにマイクを突きつけるに違いない。この私にしても、もしオリュンピアスを主人公にする歴史小説を書くとすれば、やはり彼女を真犯人するだろう。

 そうでしょう。というか、本書もアレキサンドロス死後のオリュンピアスを描いているがそれを見ていると、私としてもオリュンピアスが黒幕としか思えない。
 が、そのあたりで、「ヒストリエ」のエウメネスを読んだ後に、本書を再読すると、アレキサンドロスの背後にオリュンピアスがいたとしても、アレキサンドロス死後のオリュンピアスというのは、実際にはエウメネスなのではないかという疑問が浮かんできた。
 あの残酷な仕打ちは、いくら密儀宗教のオリュンピアスとはいえ正気の沙汰とは思えないし、しかし狂気でできる残虐でもないというあたりで、ああ、なるほどスキタイ(Σκύθαι)という設定かと思った。「ヒストリエ」がそういう展開になるのか、その時代まで描けるのかわからないが、そういう歴史を描いてみたい誘惑には駆られるものだろう。
 「ヒストリエ」の関連で言えば、アレキサンドロスを多重人格的に描きたい着想に近いものも本書にある。ミエザでアリストテレスの元で学ぶアレキサンドロスについてその二面性をこう指摘している。

こうしてアレキサンドロスは、空想と情念、歓声と陶酔の優る母親の元を離れ、実在と観察、理性と論理によって人格を鍛える道に足を踏み入れたのである。もっともこれらの二つの志向と性格は、後年のアレキサンドロスの生涯において、時にバランスを崩しながら拮抗しあうのであるが。

 「ヒストリエ」で独特の想像力で描かれるヘファイスティオンについては、本書では当然ながら歴史書の通例通りに描かれる。

 ヘファイスティオンはアレキサンドロスと同年で、幼い頃から一緒に育てられた。背丈はアレキサンドロスより少し高く、容姿でも王を上回っていたと伝えられる。彼はアレキサンドロスの最も親密な、心を許すことのできる友であり、政治的にも側近ナンバーワンの地位を占めていた。

 ヘファイスティオンはエウメネスと異なり軍事的な功績は何もない。いろいろと謎の多い人物でもあり、その極みはオリュンピアスとの諍いである。本書にはオリュンピアスを罵るヘファイスティオンの手紙が「我々を非難するのはおやめ下さい」と始まるのが、ちょっとぞくっとするところだ。
 本書の最終部分ではエウリデュケの悲劇も登場する。陰惨な歴史でもあるし、これが歴史というものなのかとも思えるが、女性の歴史として見ても面白く、本書はそこにかなり意識を配しているようだ。

| | コメント (1) | トラックバック (2)

2010.08.23

[書評]ヒストリエ 1-6(岩明均)

 こんな面白い物語を読んだのは何年ぶりだろう。「ヒストリエ(岩明均)」(参照)は、たまたまブックマークコメントで知った歴史物のマンガだった。

cover
ヒストリエ(1)
 扱っている時代は、私が関心を持っているアレキサンダー(アレキサンドロス)大王とおそらくその死後である。主人公は大王の書記官となるエウメネス。面白いところに目を付けたなと思い、とりあえず一巻目(参照)を買って読んでみた。この時点ではそれほどの期待はしていなかった。
 冒頭いきなりスプラッタなシーンで始まる上、背景となる物語は一巻の終わりで回想シーンに接続するため、スターウォーズエピソード4から1に戻るような印象もあった。巻頭から登場する主人公エウメネスと他の登場人物の関連も多少つかみにくい。エウメネスのキャラクターもシニカルで冷たく、描画上もいわゆる主人公らしさは薄い。私など、カルディア包囲の指揮官に「あれがマケドニア王だったんじゃないかのかなァ」というエウメネスの台詞に「そうかぁ?」とひっかりをもったりもする。
 たまたま私が読み終えた一巻を他の人が読んでいたので、「どう? それ面白い?」と聞いてみたが「一巻だけではわからない」と要領を得なかった。カルディア攻略の話は歴史好きには面白いが、普通に物語として一巻目を読むならそう思うかもしれない。
cover
ヒストリエ(2)
 だが巻を読み進むにつれてじわじわと面白さがわかってくる。先の「マケドニア王か?」とする推測の台詞もそうだが、物語の多重な伏線の一つであり、特に冒頭シーンを回想の終わる五巻以降につなげて読み返すと、歓声を漏らさざるをえないトリックが一巻の随所にあったことがわかる。ものすごく巧緻な物語だ。マンガという形式やいわゆる歴史物といった分野を超えている。
 一巻目ではそれほど特徴も感じられなかった主人公エウメネスのキャラクターも二巻からぐっと深みを増す。それどころか、近代的な歴史物語では禁忌になりつつある、民族というもののもっとも恐ろしい本質が主人公を突き抜けて出現してくる。エウメネスがこの物語でスキュタイ(Σκύθαι)人として設定され、随所スプラッタなシーンがあるのも、そうした恐ろしい領域へ表現の補助なのだろう。
 恐ろしさといえば、六巻(正確には五巻)の王子アレキサンドロスと王妃オリュンピアスの伏線もわくわくとさせる。六巻の扉に血塗られた剣を持つ全裸のオリュンピアスが描かれているが、六巻にそのシーンはない。
 
cover
ヒストリエ(3)
 その他の女性の描写も巧みだ。歴史物では、小説でもマンガでもそうだが、女性のキャラクターはステレオタイプで描かれるか、いかにも特異なキャラクターとして描かれがちがだ。だが、この作品では女性というものの特徴と多様さがにじみ出るように描かれている。ああ、女ってこういうもんだなと思う。若い人の恋の描写なども、なかなか若い人にはこうは描けないだろうなという深みもある。
 現在刊行されているのが六巻まで、過去の推移を見ると年に一巻出るくらいのペースのようだ。どう推測しても二〇巻で終わりそうにはない物語なので私など完結を読むことができるかなという不安と、このままこの高い構成力が維持できるのかという懸念の二つが錯綜する。
 ネタバレしない程度に少し話を追ってみよう。
 いわゆる歴史物語として見るなら、六巻に至ってまだ始まっていない。こういうのもなんだがエウメネスという人間は歴史的にはフィリッポス2世とアレクサンドロス3世の親子が亡くなってからの人物である。その活躍は歴史的には面白いが、その少年時代・青年時代を描いても特段に面白いとは思えないものだろう。
 だが、そこをあえてオデッセイとスキュタイの伝説を交え、智恵はあるが歴史の残虐に耐えそうもない少年を、まさに冷徹に歴史に引きずり出すところにこの物語の巧みさがある。それは、どこかしら戦後の日本人がもつある種の薄気味悪さにも通じる。読みながら、エウメネスは私なのだという無意識な同意の情感が伝わる。
 一巻目の巻頭で、トロイ遺跡の海岸に青年エウメネスが立ち現れ、蛇の装飾品を拾う。なぜ彼はここにいるのか。なぜ蛇の装飾品なのか。彼は対岸の故地、カルディアを訪問しようとしている。蛇の装飾は渡海に利用される道具でもあるのだが、物語すべての象徴でもある。それは五巻末の王子アレキサンドロスと六巻目の王妃オリュンピアスの登場まで伏せられる。
cover
ヒストリエ(4)
 一巻目のトロイの海岸でエウメネスは哲人アリストテレスに会う。アリストテレスは歴史上、王子アレキサンドロスの教師であることは常識の類でもあるが、ここではペルシャのスパイとして追われている。追っ手はギリシャ風男装の女、ペルシア帝国トロイアス州総督妻バルシネである。彼女は、エウメネス青年が海岸で渡海の用意をしているところで、その裸身の上半身に傷跡を残す背中のアフラマズダーの飾りを見つける。バルシネの物語は六巻でも始まらない。
 渡海後エウメネスは故地カルディアを訪問するが、市の城壁は閉ざされ、マケドニア軍に包囲されて、市内に入ることはできない。そこで一計を案じ、右目を失っている、アンティゴノスと名乗る商人らと市内に入る。
cover
ヒストリエ(5)
 市内では自分が育った家は廃墟になっていた。そこから物語は、なぜエウメネス青年がカルディアを追われたかという、幼年期から少年期の回想になる。エウメネスは歴史上、ヴィンチ村のレオナルドのように地名を冠して「カルディアのエウメネス(Eumenes of Cardia)」と呼ばれるため、エウメネスの物語はカルディアを起点とせざるを得ない。上手な筋立てである。
 カルディアから放擲された後の、少年エウメネスの胸を抉り取るような苦悩と冷徹さの物語は二巻、三巻、四巻と続く。ここは、まったくのフィクションである。エウメネスがスキュタイ人であるというのも創作でしかない。だが、このフィクションは読み進めるほどに、「なるほどエウメネスという人物の謎はこのように設定するしかなかったのだろう」という、ある理詰めの推定に納得させられる。物語の進行もだが歴史的な想像力としても面白い部分だ。
cover
ヒストリエ(6)
 五巻目で少年時代の回想が終わり、六巻目では青年エウメネスがマケドニアに仕えるべく、ギリシア北部の王都ペラに向う。そこからはマケドニアの物語になる。アレクサンドロスやオリュンピアスが登場する。
 私はそのペラに行ったことがある。王宮を思わせる遺跡やギリシャとはまったく異なる様式の墓などを見て回った。もし前世というものがあるなら、ここに来たことがあるなという不思議な印象を持った。


マケドニア王都ペラ

| | コメント (6) | トラックバック (3)

2010.08.21

日本経済成長鈍化・進む円高、フィナンシャル・タイムズの見立て

 16日に内閣府が発表した、今年の第二・四半期の国内総生産(GDP)速報値では、実質GDP(季節調整値)は前期比の0.1%増だった。年率換算では0.4%増となる。かろうじて輸出で持ちこたえているものの、日本の経済成長率が急速に鈍化したことが明らかになった。
 結果、米ドル換算で日本のGDPは1兆2883億ドルとなり、同期の中国の1兆3369億ドルを下回り、(参照)、経済規模で日本は中国に続く世界第3位となった。
 年初ころには年率2%の予測もあったことから、日本経済の失墜の兆候として同日には株価も落ち込み、9000円を割るかとも思えたが、その後は少し持ちこたえている。が、円高も進んだため、今後の輸出の展望も開けない。
 日本はどうしたらよいのか。すでに事実上のレームダックである菅直人首相だが、20日、閣僚懇談会で円高や景気減速への対応策を検討するよう関係閣僚に指示した。内実は「予算を伴わない形の経済対策にどういうものがあるか考えてほしい」「財政出動によらないで需要の拡大、経済成長につながることもある」と強調するなど、菅首相らしいユーモアであった(参照)。余談だが、19日には菅首相は北沢俊美防衛相に「ちょっと昨日予習をしたら、(防衛)大臣は自衛官じゃないんですよ」と語り、自衛隊制服組首脳には「改めて法律を調べてみたら『総理大臣は、自衛隊の最高の指揮監督権を有する』と規定されており、そういう自覚を持って、皆さん方のご意見を拝聴し、役目を担っていきたい」と述べるなど(参照)、炎暑のなか国民をヒンヤリとさせる気配りが際立っている。
 首相の戯れ言にかまっている余裕のない、玄葉光一郎公務員制度改革相・民主党政調会長は、円高について「一番大きいのは米連邦準備理事会(FRB)と日銀の姿勢の違いだ」と言明し、「FRBは量的緩和の姿勢を維持し、デフレを防ぐ姿勢を維持した。日銀は様々な手段があり得る」と日銀への要望を明確にした。
 だがそこは愉快な民主党である。峰崎直樹財務副大臣のほうは、日銀による追加金融緩和の必要性について、流動性のわなの状態では、「金融緩和ということで抜けられるのか非常に疑問だ」と延べ(参照)、結果的に現状の日銀の援護をすることで、政府の混乱を明らかにしてくれた。なんなのこの政府。
 当の日銀は泰然と構えている。日銀白川総裁と菅首相の話し合いが期待されるなかも、慌てず、週明けを待って電話で少し話しましょうということになった(参照)。面談せずとも日銀を信頼してもらえるとの自信の表れと見るか、レームダックというのはこう処理せよと見るか、なんてさほど意見が分かれることもない。
 海外はどう見ているか。一例だが、フィナンシャル・タイムズは16日社説「Japan and its growing pains」(参照)で論じていた。表題を見ると、"growing pains"(成長痛)とあり、今後の日本の経済成長の過程では多少我慢しなければならない痛みなのかと思うが、日本の痛みが今後も成長するという含みなのかと、英国流のユーモアの難解さを痛感する内容であった。
 結論から述べると、フィナンシャル・タイムズは、日本の経済鈍化の理由を、内需志向転換できない構造に見ている。


Japan’s problems are of its own making. The economy is meant to be shifting towards consumption after years of export-addiction. But domestic demand made a negative contribution to growth in the second quarter. That has left exporters, struggling with a strong yen, doing all the heavy lifting.

日本問題は自らが作り出しているものだ。日本経済は、輸出中毒の年月の後、消費に変化するはずだった。が、国内需要低迷は第二・四半期の成長を阻んだ。なんとか持ち直そうと強い円と格闘している輸出企業だけが残っている。


 菅内閣はどうすべきだというのか。政府にはほとんど選択肢はない("The government has very few options. ")と匙を投げている。財政赤字から財政政策はむりだろうし、補助金バラマキは貯金に回るだけだろうと見ている。
 為替介入による円高阻止もできないだろうと言う。

With European (especially German) competitors benefiting from a weak euro, this hurts. But international concerns tell against currency intervention, so Japan is unlikely to take steps beyond talking down the yen.

日本に競合する欧州、特にドイツは弱いユーロのメリットを得ているので、このことが日本に痛みをもたらしている。国際社会は通貨介入を嫌っているので、日本は口先介入以上の行動することはまずない。


 まったくに日本に打つ手はないのかというと、非伝統的な金融政策("unconventional monetary policies")はあるだろうとはしている。ネットの用語で言えば、リフレである。

This leaves monetary policy. At 0.1 per cent, interest rates are already as low as practicable. But given the risks posed by worsening deflation policy is still too tight. Japan’s best bet is a vigorous embrace of unconventional monetary policies.

金融政策が残っている。金利は0.1%とすでに可能なかぎり下がっている。だが、デフレ政策による悪化がもたらす日本のリスクを考慮に入れるなら、これでも引き締め過ぎているのである。日本ができる最善のチャレンジは、各種の非伝統的な金融政策("unconventional monetary policies")の手を打つことだ。

Proper anti-deflationary action could have the side-effect of weakening the yen, giving Japanese exporters a much-needed shot in the arm. In the short term, this is the best Japan can hope for.

デフレ阻止対策がきちんと実施されると、その影響で円は弱くなり、輸出産業へのカンフル剤となる。手短に言えば、これ(リフレ政策)が日本に望まれる最善の方策である。


 フィナンシャル・タイムズはリフレ政策を打つしかないだろうとしているが、基本線として日本の輸出産業がまた強化されることを懸念しているため、それほど強く、リフレ政策を推しているわけではない。あくまで最悪の現状のための提言であり、短期的な措置としての提言である。
 長期的にはどう見ているか。株の利回りをよくしろと言っている。

A long-term solution will have to address the frugality of Japan’s corporations. Annual dividend payments are worth just 3.5 per cent of national output. In Germany, where operating profits are similar, the figure is 14 per cent.

日本経済への長期的な解決策の一つは、しみったれた企業に取り組む必要性だ。年間配当はGDPの3.5%しかない。ドイツでは、利益率は日本と同じでも、14%も配当している。

Returning more to shareholders could boost private consumption. This will be key.

株主配当を増やせば国内消費が活性化されるだろう。これが日本経済再生の鍵だ。

China’s rise has kept Japanese exporters afloat; but it is domestic demand that will save Japan from drowning.

中国の経済成長は日本の輸出産業の沈下を防いでいるが、国内需要こそが日本を救済する。


 このあたりの話は、日本人からしてみると微妙だ。
 端的に言えば、日本企業はその構成員のメンバーシップのために存在しているという傾向が強い。このため、日本の格差は、実際には、労組のある大手企業や公務員対その他の労働者の間に存在している。そして民主党は、大手企業であるマスメディアに援助されて、前者の側の利権を守ろうとしている。そこでこの構造は崩しがたい。
 この構造は日本の富を鎖国状態にしているので、その利害も関連する。ナショナリズム的に見るなら経済発展とトレードオフしながら、日本の富の国際化阻止しているとも言える。
 フィナンシャル・タイムズ社説が、率直に言ってむかつくのは、いろいろ対比されるドイツの扱いだ。この間、ドイツ経済は中国輸出で食ってきたのである。露骨にいうなら、フィナンシャル・タイムズが輸出志向として日本を批判するなら、それはお門違いでしょ、ドイツはどうよ、ということがある。
 それでも、もう一段深い読みも可能で、中国経済の成長はこのあたりで終了かもしれない。カンフル剤を打っているドイツやEUの真似はやめとけ、ということかもしれない。
 まあ、いろいろ議論はあるが、現実的には空しい。菅内閣はレームダックだし、日銀はたまにエレガントでトリビアルな手品をするくらいだ。

| | コメント (4) | トラックバック (3)

2010.08.20

南北朝鮮統一費用「統一税」提言の波紋

 15日、韓国の光復節(参照)の記念式典で、韓国・李明博(イ・ミョンバク)大統領が、南北朝鮮の統一時に必要とされる費用捻出のために、統一税を提言し、大きな波紋を呼んだ(参照)。
 李大統領は南北朝鮮統一にかかる費用の参考として、東西ドイツ統一に20年間で2兆ユーロ(約220兆円)を要したとの推定を含めた(参照)。ドイツでは、統一後、統一連帯賦課金が導入されたので、それを模したいという含みもあるだろう。
 南北朝鮮統一にはどの程度の費用が掛かるだろうか。韓国政府としては、今後30年間に渡り、最大2兆1400億ドル(現行レートで約182兆円)と推定しているようだ。年間では、84兆ウォン(約6兆447億円)の財政支出が30年にわたって継続することになる(参照)。その倍の5兆ドルとする推定もある(参照)。財政的に非常にきついと思われる。その事態になれば、おそらくその少なからずを日本が負担することになるだろうし、先日の菅総理談話はその布石でもあるのだろう。
 個別には統一費は3つの区分がある。(1)危機管理費用、(2)制度統合費、(3)所得格差是正費、である。長期的に見て大きな問題となるのは、3点目の南北間の格差是正であろう。北朝鮮の住民一人当たりの国内総生産は約8万5270円、韓国は約170万円と大きな開きがある(参照)。
 前二者は予断がなければ大きな衝撃となりかねない。その意味で、李大統領の今回の提言は有意義であるとはいえるだろう。
 欧米紙は今回の提言を好意的に見ている。18日付けワシントン・ポスト社説「南北朝鮮統一税構想、議論始めること重要」(参照翻訳参照原文)がその一例である。


 この10年間、韓国国民は歴代指導者によって、北朝鮮は真の脅威ではなく、南北朝鮮の統一コストはあまりに巨額で、心配しないほうが無難と考えるように言い含められてきた。韓国の李明博(イ・ミョンバク)大統領はこのポリアンナ(楽観)的な見解を持っていない。従って韓国国民も持つべきではない。
 李明博大統領が15日、北朝鮮の政治体制が崩壊した場合、北朝鮮を吸収するコストを賄うため、「統一税」を示唆したことで物議を醸したが、大統領の現実的な認識こそが実質的に価値のあるものだ

 17日付けフィナンシャル・タイムズ「A taxing reunion」(参照)も好意的である。

Mr Lee is signalling to all parties, including his own people, that reunification is something worth planning for. The timing is right given signs that Kim Jong-il, North Korea’s sickly leader, is preparing for succession.

李氏は、自国民も含めてであるが関係国すべてに対して、統一は計画に値するものであるとの警告を出しているのである。北朝鮮の病んだ指導者・金正日が後継用意の兆候を出す現状、よいタイミングであった。


 フィナンシャル・タイムズは、経費よりも重要になりかねない問題についても、さらっと言及している。

Certainly, reuniting the two countries would be an expensive and risky undertaking, and one hard to square with China’s strategic interests.

実際のところ、朝鮮南北統合は失費も多く危険性もあるだろうし、中国の戦略的国益と正面から向き合うことも困難だろう。


 これまで南北統合が実施されなかったのは、朝鮮戦争に見られるような北朝鮮による「統一」の思惑が実質的な統一と齟齬を来していたこともだが、韓国としても統一の衝撃を回避したかったためだ。太陽政策とは実際には統一のモラトリアムであった。加えて、米中、さらには潜在的に南下を目論むロシアも含めて、この地域に各自の思い入れがあり、均衡していたことがある。そうした観点から、このパンドラの箱を開くと何が起こるのか、そして何が将来的に起こるのかは、いくつかの想像やシナリオは立つものの、確実的なことは何も言えない。
 歴史を学ぶものからすれば、あるいは歴史を学んでいる中国とすれば、朝鮮は基本的に中国の従属国であるが、隋唐時代から半島の軍事衝突は鬼門であるし、朝鮮が旧渤海含めた大朝鮮主義のナショナリズムを抱えている問題も知っている(ので布石も打っている)。現状は、北朝鮮がソビエト連邦の傀儡国であるがゆえに白頭山で国境を封じされているにすぎない。加えて、統一朝鮮は南西に中国、北にロシア、東南に日本という大国によって封じ込められているため、潜在的な拡張の傾向がある。
 李大統領による統一税導入のその後だが、予想されたことではあり、北朝鮮からは言葉の上だけであるが、反発が出た。17日付け聯合ニュース「北朝鮮「統一税の提案は不純な体制対決宣言」」(参照)はこう伝えている。

北朝鮮の対韓国窓口機関・祖国平和統一委員会は17日、李明博(イ・ミョンバク)大統領が15日の光復節(日本植民地支配からの解放記念日)記念式典で提示した「統一税」構想に対し、「全面的な体制対決宣言」だと非難した。北朝鮮の朝鮮中央通信が伝えた。
 祖国平和統一委報道官は同通信とのインタビューで「逆徒(李大統領)が騒ぎ立てた統一税とは、愚かな妄想である北朝鮮の急変事態を念頭に置いたものだ。不純極まりない統一税の暴言の代価をしっかり支払うことになる」と述べた。北朝鮮が統一税に対する公式の反応を示したのはこれが初めて。

 日本国内の北朝鮮シンパとしてもとりあえずその指針を掲げることになるだろうが、実質的にはまだ様子見の状態が続くだろう。
 より気になる韓国でのその後の動向だが、端的に言えば、尻つぼみになった。18日付け毎日新聞「韓国:李大統領、「統一税」火消し躍起 与野党の慎重論に配慮」(参照)は標題通り、火消しフェーズと見ている。

韓国の李明博(イミョンバク)大統領は17日、北朝鮮との統一に備えた「統一税」について「今すぐ課税することはない」と釈明した。李大統領は、いずれ必要になる統一費用について国民的な論議を起こすことを狙って15日の演説で言及したが、与野党から「時期尚早」といった慎重論が相次ぎ、自ら火消しに回ることになった。

 韓国内での世論は、基本的に、精神論として受け止めるということで、急速に沈静化してきたようだ。結果論からすると、日本の菅首相の消費税増税のように思いつきで言ってみたという形で納まったことになる。
 ただし、現実はウォールストリート・ジャーナルやフィナンシャル・タイムズのように高みの見物のほうが事態を正確に見ているだろう。

| | コメント (1) | トラックバック (2)

2010.08.19

一週間はなぜ七日か?

誰もが一度は疑問に思う謎
 一週間はなぜ七日か? 誰もが一度は疑問に思うらしく、ネットを探すといろいろそれらしい答えがある。どれも的外れとも言い切れないが、「なるほどそれが解答か」と合点のいくものもなさそうだ。残念ながら、このエントリも解答を提示するわけではない。が、このところのミトラ教関連エントリの文脈で言及しておこう。
 その名の通りの本がある。ダニエル・ブアスティン著「どうして一週間は七日なのか」(参照)である。「The Discoverers(Daniel J. Boorsti)」(参照)を邦訳し、分冊した本だ。合本の「大発見 未知に挑んだ人間の歴史」(参照)もある。この本は私が20代の頃、米国でベストセラーとなったから、私の年代の知識人は大半が読んでいる。「一週間はなぜ七日か?」という疑問も、そのあたりで収束したとも言える。同書はどう書いていたのか。


 なぜ一週間は七日なのか?
 古代ギリシアには週はなかったらしい。ローマ人は八日を一週間として生活していた。農民は畑で七日働き、八日目には町に出かける――それが市の日(ヌンディナエ)である。これは仕事を休むお祭りの日で、学校も休みになり、公の告示がなされ、友人とのつきあいを楽しむ機会だった。ローマ人がいつ、どんな理由から八日を単位にしたのか、またその後一週間を七日に変えたのはなぜかは明らかではない。

 というわけで、ローマの制度を継いだ現在の一週間が七日になった理由は、わかっていない。わからない類のことらしい。

当初のローマでは一週間は八日だった
 一週間はなぜ七日なのか。その謎がそれほどまでに疑問視されないのは、欧米ではキリスト教の普及があり、そこでは天地創造に合わせ、一週間を七日とする神話が記載されているためだ。
 しかし、キリスト教――実際にはその根にあるユダヤ教――の世界観・時間観が、一週間を七日とする制度の理由ではない。ローマは当初八日の週を使い、その後七日の週を採用後、キリスト教化した。順序からすると、たまたまローマに七日の一週間があってキリスト教ともよく馴染んだというだけのことである。
 正確に言えば、当初ローマの一週間が八日だったかについては議論がある。もしやと思い、日本語のウィキペディアのローマ暦の項目(参照)を見ると、ヌンディナエ(nundinae)という用語は無かった。代わりに、Kalendae(カレンダエ)、Nōnae(ノーナエ)、Īdūs(イードゥース)のちょっと変わった説明が付いている。
 ローマでは当初、市の日ヌンディナエを基準して週を表していた。日本の「五日市」「八日市」といった考え方(Nundinal cycle)である。庶民としては、後代の歌だが「月曜日に市場に出かけ」と口ずさむように、週というものは自然に市と結合しやすい。
 ローマ暦で七日の一週間が採用されたのがいつかは、はっきりとしない。ブアスティンも次のように書いている。


ローマ人が週を八日から七日に変えたのは公的な措置によるわけではなさそうである。紀元三世紀初頭には、ローマ人は一週間を七日としていた。

 その時期にはすでにユリウス・カエサルを敬して名付けられた太陽暦のユリウス暦が利用されていた。ただし、私が子どもの頃一般的だった旧暦併記のカレンダーのように、ヌンディナエも併記されていらしい。ローマのカレンダーからヌンディナエが消えたのは、ミラノ勅令(313年)でキリスト教を公認したコンスタンティヌス1世の時代らしい。そのため、一週間を七日とすることが広まったのはキリスト教の影響かと思いがちだが、そうではない。

日曜日を起点としたのはミトラ教の影響か
 コンスタンティヌス帝はキリスト教の聖人ともされるため、なんとなくキリスト教的な文脈で理解されがちだが、異教にも敬意を払った皇帝である。興味深いのは、彼が321年、3月7日を日曜日とした宣言である。この背景は、日曜日のシンボルである太陽、つまり、ソル・インウィクトス(Sol Invictus:不滅の太陽神)への彼の敬神があった。この太陽神カルトは、それ以前のアウレリアヌス帝の時代からのものでもあった(参照)。
 日本でミトラス教研究者の第一人者である小川英雄は、アウレリアヌス帝やコンスタンティヌス帝のソル・インウィクトス信仰についてミトラス教との関連を認めていない。だが、コンスタンティヌス凱旋門設立に至るコンスタンティヌス帝の行為からすれば、ミトラス教が明確に意識されていたとは言えないにせよ、異教の重視は基本にあり、逆にキリスト教的な背景が強いとは言い難い。
 私は単純にソル・インウィクトス信仰はミトラ神の習合の結果だろうと考えている。そして、であれば、実質的に日曜日を基点に曜日を固定した七日の週という制度の確立は、広義にミトラ教の結果であるとしてよいように思う。

曜日は七日ではなくオクターブとして理解されていた
 ローマ時代のキリスト教徒は七日の週を創世記神話から自然に受け入れるのだが、その受容には興味深い問題がいくつかある。
 まず、彼らは安息日を8日目と理解していた。一週間は七日なのだが、後の西洋音階のようにオクターブの原理として8の数値で一週間を捉えていた。ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ・ドとするとオクターブで8という数字が明示されるように、日・月・火・水・木・金・土・日もオクターブなのである。この時代のキリスト教徒は、一週間が七日である由来を創世記に求めるとしても、その意味づけはゲマトリア(数霊術)的なものがあり、その起源は異教的なものであるかもしれない。
 またローマのカレンダーが太陽暦を採用しているのに、キリスト教徒はユダヤ教以来の太陰暦も採用していた。そのため問題となったのは、現代でも問題とも言えるのだが、太陽暦と太陰暦の双方が関連する復活祭の日取りである。ニカイア会議というとキリスト教史では教義がテーマになりがちだが、この二種類のカレンダー調整も会議の重要なテーマであった。
 それで、暦法の問題は解決したか。しなかったとも言える。春分の計算は天文学によるしかない。そして天文学とはこの時代、占星術でもあるから異教文化を必然的に招く。結局、計算は占星術が進んだアレキサンドリアの司教に委ねられ、後の紛糾の元になった。
 さらにローマのキリスト教徒の週理解から変なことが起きた。重要である安息日の曜日が土曜日から日曜日に移動してしまったのである。この背景は多少込み入っていて、曜日名について触れておく必要がある。

月火水木金土日の順序になる理由
 現代日本人は曜日といえば、月火水木金土日である。特に疑問もなく、また太陽の日曜日を重視するソル・インウィクトス信仰などまったく関係なく、普通に受け入れている。だがこの曜日名と順序にはそれなりの起源がある。その話の前に、関連してそもそも一週間が七日になったのはどの文化だろうかという問題がある。
 ローマやユダヤ・キリスト教の七日週の起源は、太陰暦を作ったバビロニアだと広く理解されている。太陰暦は約29.5日周期の月の満ち欠けを基にしているから、満月から新月までの約14日間は意識されやすい。そしてその半分を意識するなら、7日になる。この割り算がしばしば、一週間が七日の理由とされるのだが、そういうふうに計算すればそうなるというだけのことだ。満月と新月の間を週という単位で区切らねばならない理由はない。月を四分割したから一週間は七日、というのはそれほど納得のいく答えではない。
 これに対して、古代人が理解していた7つの主要惑星、①月、②水星、③金星、④太陽、⑤火星、⑥木星、⑦土星のレパートリーを日に割り当てたら七日の週になったという考えもある。なお、天王星、海王星、冥王星といった惑星は古代の天文学である占星術にはない。
 二つの考えがある。(1)一週間が七日に決まってそれに惑星が当てられたのか、(2)七つの惑星を日に割り当てたら七日で一週間になったのか。どちらか。
 残念ながらどちらかわからないが、惑星を割り当てるという考え方は、ローマを経由して現代日本の曜日にまで影響している。日本語の「月火水木金土日」は、惑星の略号でもある。
 正確に言えば、古代人は惑星を日に割り当てたのではない。ブアスティンの説明を借りよう。


彼らが信じていたところでは、各惑星は一時間だけ支配力をふるい、そのあとの一時間はそれに次いで地球に近い惑星に支配力がゆだねられる。このようにして、七つの惑星すべてが順番に支配力をふるうのである。七時間かかって一巡すると、この惑星の支配は最初からまったく同じ順序でくりかえされることになっていた。したがって、それぞれの日を「支配」する惑星は、その日の第一時間をつかさどる惑星ということになり、こうして週の曜日は最初の一時間を支配する惑星の名で呼ばれるようになった。

 ブアスティンはこれ以上詳しく説明していない。少しわかりづらいと思うので補足しよう。
 「地球に近い惑星」だが、当時の天動説では、①月、②水星、③金星、④太陽、⑤火星、⑥木星、⑦土星の順になっていた。
 「次いで地球に近い惑星に支配力がゆだねられる」ということなので、遠いところの土星から影響力が開始される。一日を24時間とすると、支配力の1時間交替から次のシーケンスができる。

土木火日金水月・土木火日金水月・土木火日金水月・土木火

 7惑星のシーケンスが3つできて、3惑星余る。「七時間かかって一巡すると、この惑星の支配は最初からまったく同じ順序でくりかえされる」ので、24時間後である翌日は「日」からシーケンスが始まる。

初日:土木火日金水月・土木火日金水月・土木火日金水月・土木火
二日:日金水月・土木……

 つまり初日の支配は「土」、二日目の支配は「日」になる。続けてみよう。

金水……
土木……
日金……
月土……
火日……
水月……
木火……
金水……

 冒頭の支配惑星を並べると、現代日本の曜日である「日月火水木金土」となり、七日でサイクルする。だから、このような曜日であり、一週間は七日なのだ、ということになる。

フランス革命とロシア革命は曜日を壊した
 一週間を古代の惑星観で七日にまとめるなんて、現代人からすればバカバカしいかぎりの話である。現代人のみなさん、なんでこんなバカバカしい起源の曜日なるものを現在でも使っているでしょうか。答えられますか。天皇制やホメオパシーよりも先に、こんな非科学を世界から排除すべきじゃないでしょうか。
 ということで、世界史的な近代理性の出現であるフランス革命後の国民公会では、曜日を廃止し、新しい曜日を作ろうということになった。数学者ピエール=シモン・ラプラス(Pierre-Simon Laplace)も曜日の改革に参加した。かくしてできたのが、フランス革命暦である。
 基本は十進法である。一か月は十日ずつ3つのデカード(décade)に分けられた。曜日名はシンプルに序数になる。primidi(一曜日)、duodi(二曜日)、tridi(三曜日)、quartidi(三曜日)、quintidi(五曜日)……十曜日まで一週間が続く。実に合理的だ。え? なんだかそれもバカバカしいって? そんな非合理的かつ非科学的こと言ったらギロチンかもしれないよ。
 偶然のクーデターを科学的社会主義の革命と呼んで出来たソビエト連邦も、科学的社会主義の看板ゆえに、非科学的な曜日は廃止にした。出来たのは、ソビエト連邦暦である。
 一週間は五日になった。曜日は当然数字で呼ばれたが、色も割り当てた。黄色、ピンク、赤、紫、緑の五色である。そして全労働者を色分けして、該当色の曜日がその労働者の休日ということにした。合理的だなあ。社会主義っていいな。宗教的な要素を排除してこそ人類の進歩というものじゃないですか。敵対するものを完全に排除することこそ理性というものですよ。え? 恐ろしい? じゃあ、シベリア送りね。

曜日の背後にある守護神
 話をローマに戻そう。ローマでは、惑星の考え方に基づく曜日名だが、日曜日と月曜日はそれぞれ、dies Solis(太陽の日)、dies Lunae(月の日)と惑星名になったが、他は、ローマ神話に基づきその惑星の守護神の名となった。ただし、厳密に言えば、dies Solisもdies Lunaeも神名であるとも言える。


火曜日は、dies Martis(マルス神の日)
水曜日は、dies Mercurĭi(メルクリウス神の日)
木曜日は、dies Jovis(ユピテル神の日)
金曜日は、dies Venĕris(ウェヌス神の日)
土曜日は、dies Saturni(サトゥルヌス神の日)

 これらの惑星の守護神名はそのまま、現代英語でも該当惑星の名前になっている。

火星は、マルス神で、Mars
水星は、メルクリウス神で、Mercury
木星は、ユピテル神で、Jupiter
金星は、ウェヌス神で、Venus
土星は、サトゥルヌス神で、Saturn

 ローマ神話の神はギリシア神話の神と対応している。惑星と守護神の関係はギリシア神話で成立していたと見られる。すると次のような対応になる。対応のための主要な意味づけを重視して見ていこう。

日、太陽神ヘリオス
月、セレネ女神
火、軍神アレス
水、智の神ヘルメス
木、大神・雷神ゼウス
金、愛と美のアフロディテ女神
土、巨神・祖神クロノス

 ローマの支配域では、このように惑星を神として実体化し、曜日をその守護神の名に当てた。さらにその神の意味づけを通して、他の神話での相当の神名をエーリアス(別名)として割り当てる考え方が採用された。これがゲルマン族の北欧神話にも適用され、その後裔が使う英語の曜日ができた。

火曜日、マルス・軍神 → テュール(Týr)神 → Tuesday
水曜日、メルクリウス・智の神 → オーディン(Odin)神 → Wednesday
木曜日、ユピテル・雷神 → トール(Thor)神 → Thursday
金曜日、ウェヌス・愛と美神 → フレイヤ(Freyja)神 →Friday

 日曜日と月曜日は、英語でも惑星のまま、Sunday(太陽の日)、Monday(月の日)となる。土曜日はなぜかローマ神サトゥルヌスの日として、Saturdayとなった。
 サトゥルヌス神についてのイレギュラーは、この神の特性によるのかもしれない。土星=サトゥルヌスの日(土曜日)は、ローマでは悪運の日と理解された。そして、土曜日は悪運の日なので慎むということと、ユダヤ教以来の土曜日の安息日(正確には金曜日の日没から土曜日の日没)とは馴染みやすかった。しかし、これが崩れた。

キリスト教徒が安息日をずらしたのはミトラ教の影響
 ローマのキリスト教徒は、土曜日の安息日を日曜日にずらしてしまった。ブアスティンはそこにミトラ教の影響を見ている。


太陽神ミトラを祀るペルシアの神秘的な宗教を奉じるミトラ教徒は、ローマ帝国のキリスト教徒の最も強力なライバルだったが、彼らは一週間を七日としていた。そして、当然のことながら、当時の誰もが太陽(サン)の日と呼んでいた日にたいして特別の崇敬の念を抱いていた。
 こうしてキリスト教徒が主の日を定めたので過ぎゆく週ごとにイエス・キリストのドラマが再演されることになった。

 日曜日を主の日とすることを当時のキリスト教徒はどう見ていたか。ブアスティンが引用するユスティヌス・マルティア教父の説教がわかりやすい。

儀式はいわゆる太陽の日にとり行われ、町に住む者も田舎に住むものも、すべてがあい集います……われわれが日曜日に集うのは、それこそ神がやみと単なる物質を用いてこの世をかたちづくった最初の日であり、また、救い主イエス・キリストが死からよみがえった日だからです。この土星(サトルゥヌス)の日の前日にキリストは十字架にかけられ、土星の日の翌日、つまり日曜日にキリスト教徒と弟子たちにあらわれ、教えをといたのです。

 私の率直な感想を述べれば、これは屁理屈というものだろう。イエス・キリストの復活を祝うとしても、ちゃんと復活祭というものがあるのだから、毎週祝う必要はない。もっと率直に言えば、これがキリスト教なのかというくらいミトラ教や土星の占星術の考えに浸されていると見て取れる。しかも安息日の基となったユダヤ教では、曜日は単に番号で呼ばれるだけで曜日名なるものはない。

占星術とミトラス教との関連はどうなっているのか?
 ローマ時代に完成した曜日に潜む神秘性だが、これは単に惑星を使った占星術なのだろうか。つまり、バビロニア由来の占星術なるもがあり、それとは別に、ミトラ教の教えがあるのだろうか。
 ミトラ教が、その最高シンボルの牡牛供犠(Tauroctony)に占星術を内包していること(参照)からすると、ミトラ教において、惑星と曜日はどのように理解されていたのか当然、気になる。その観点からミトラ教を見直すと、ミトラ教の密儀に奇妙なものが相当することがわかる。
 ミトラ教はローマでは密儀宗教のミトラス教として広まったのだが、その密儀の参加者は7つの位階に分けられていた。小川英雄著「ローマ帝国の神々」(参照)は次のように説明していた。


 ミトラス神殿には専従の祭司もいたと思われるが、信者たちは入信後、七つの位階のいずれかに属し、お互いに兄弟と呼び合った。


 ミトラス教徒の位階は七つからなり、下から、⑦烏、⑥花嫁、⑤兵士、④獅子、③ペルシア人、②太陽の使者、①父、である。最初の下位の三位階は奉仕者、上位の四位階は参加者とされ、両者は祭儀における役割を意味していた。

 この位階だが、それぞれに惑星を守護神としてもっていた。同書による位階の順と対応をまとめると次のようになる。

1 父 ← 土星・サトルゥヌス神
2 太陽の使者 ← 太陽
3 ペルシア人 ← 月
4 獅子 ← 木星
5 兵士 ← 金星
6 花嫁 ← (水星)
7 烏 ← (火星)

 同書の説明には花嫁と烏の位階の守護惑星は記されていないが、花嫁は水の要素の守護を受けているとあるので、水星であろうと思われる。すると残りの烏は火星が推測される。
 これに対して、「The Roman Cult of Mithras: The God and His Mysteries (Manfred Clauss )」(参照)では次のような対応になっている。

1 父 ← 土星・サトルゥヌス神
2 太陽の使者 ← 太陽
3 ペルシア人 ← 月
4 獅子 ← 木星
5 兵士 ← 火星
6 花嫁 ← 金星
7 烏 ← 水星

 上位の位階については小川と指摘と同じなので、おそらく上位の三位階と惑星の関係には異論はないだろう。下位の位階の惑星の割り当てについては、小川とClaussの説明が異なるが、兵士に火星、花嫁に金星を配する説明は自然であるようには思われる。
 疑問が浮かぶのは、最高位の父が、太陽神のミトラ神ではなく、土星・サトルゥヌス神が配されている点だ。
 不思議と言えば不思議だが、サトルゥヌス神はギリシア神話ではクロノス神であり、この神はオリュンポス神に先行するタイタン族である。また、クロノスはゼウスの父でもあるので、サトルゥヌス神が神々の父としての最上位にあり、それゆにミトラ教の位階で「父」であるというのは理解しやすい。さらに、サトゥルヌス神を祭るサトゥルヌス祭は、太陽暦で基点となる冬至の祭でもあり、太陽神ソル・インウィクトゥスの祭に接合するので、太陽神を支える位置にあるともいえる。
 第三位の「月」は太陽とのセットなので不自然さはないが、第四位に木星が配される理由はわからない。位階が惑星の順であれば、すでに触れたように①月、②水星、③金星、④太陽、⑤火星、⑥木星、⑦土星が関連しそうなはずである。もっとも、この順では、太陽神ソル・インウィクトゥスは強調されない。
 話が錯綜してきたが、ミトラ教の密儀における位階と惑星の対応は不明だ。位階として現れたものの本質が、その守護神である惑星なのか、惑星は位階シンボルの補助なのかもわからない。
 ミトラ教が占星術を含み込んでいることから、惑星で表現されるオーダーの理由が存在するはずだが、太陽を曜日の筆頭に置かせたこと以外に、他の曜日の惑星のオーダーとは簡単には整合しそうにはない。
 ミトラ教と惑星の関係は、曜日の決定にはそれほどには影響していないのか、なにか隠された秘密があるのか。もちろん、そこに秘密があるとしても、現代に残る曜日の理由にはほとんど影響はないだろう。

| | コメント (9) | トラックバック (2)

2010.08.18

牡牛供犠:トーロクトニー(Tauroctony)とタウロボリウム(Taurobolium)

 ミトラ神による牡牛供犠(Tauroctony)についてもう少し言及しておきたい。
 古代宗教であるミトラ教(ミトラス教)では、ミトラ神による牡牛供犠の図像・レリーフは、おそらく最終的な密儀に関連しているのだろう。これはローマ時代からよく見られた。そこではミトラ神はフリジア帽によって識別される。背景には太陽と月の神格と思われる神像も配されている。


ミトラ神レリーフ、2-3世紀

 牡牛供犠のアイコニックなモチーフは占星術(参照)と統合されていく。


Fresque Mithraeum Marino

 ローマ帝国時代のオリエント宗教をまとめた「ローマ帝国の神々―光はオリエントより (小川 英雄)」(参照)では、牡牛供犠(Tauroctony)と占星術の関連についてこう言及していた。


 この神聖な行為(キリスト教の磔刑に相当する)は、宇宙的な規模で行われた。洞窟自体が宇宙を象徴しており、牛殺しの行為は太陽、月、七惑星、黄道十二宮がその瞬間を表していた。


その永遠はいくつかのミトラス教図像で天文学的占星術的に表されている。すなわち上述の星たちは神殿内部の天上や壁に描かれているばかりでなく、ミトラスの青い外衣にも星が記されている。

 では当然ながら、ミトラ神が牡牛を供犠することにも占星術的な意味が存在するはずである。それどころか、おそらく占星術的な各種シンボルのなかで最も主要なシンボルであるはずだ。昨日のエントリ(参照)では、話が煩瑣になることもあり言及しなかったのだが、それで済むわけもないと思い返した。その意味については、同書にもあるので引用しておこう。
 引用の文脈としては、ヘレニズム時代の小アジア諸王家におけるミトラ神信仰とローマ帝国で普及したミトラス教の密儀との差違がある。簡単に言えば、なぜローマでミトラス教は密儀化したのかということである。ただし、引用部はこの問いに十分に対応していないようには思えるし、私は同書とは違った考えを持っている。

 第一の問題については、キリキアの首都タルソスの知識人たち、とりわけストア派の哲学者たちの活動が指摘されている。ここではミトリダテス王と同じように英雄ペルセウスが崇拝されていた。当時の天体図では、ペルセウスは後のミトラス神と同じくフリュギア帽(三角帽)をかぶり、牡牛に向かって刀を振りかざしていた。このペルセウスがペルシア伝来の神ミトラスと同一された。他方、当時の天文学によれば、歳差(天界の南北軸のゆらぎ)が牡牛座から牡羊座に移動したことによる新時代の到来が祝われていた。それゆえ、ミトラスと同一されたペルセウスは、牡牛を殺すことによって新時代を到来させたと考えられた。こうして、最新の天文学の知識とミトラスの崇拝が結びついて、ミトラス教の最重要な教義、すなわち、牡牛を殺すミトラスが新時代をもたらす、という信仰が形成されたのである。

 タルソスの知識人というところで聖書の背景知識を持つ人には当然思い当たることがあるはずだが同書では、敢えてであろうが該当文脈においては、その言及はない。
 「ペルセウス」は、名前からも連想されるように、「ペルシアの者」であり、フリジア帽を被り、ミトラ神と同一視されるという前提があるが、それよりも、この牡牛供犠(Tauroctony)自体が、コスモロジー的な象徴として原点を持っていた点が重要になる。ただし、後にタウロボリウム(Taurobolium)で触れたいのだが、牡牛供犠が先行しそれに天文学的な意味づけがあったとも考えられる。この点については同書では、アイコニックなモチーフとしてはギリシア神話のニケ女神による牛の殺害との関連を見ている。ニケ神による牡牛供犠のモチーフが先行していたのだろうという示唆なのだろうが、それほどには説得力はないようにも思える。
 牡牛供犠の図像学的な解釈で私によくわからないのは、天界の南北軸の揺らぎなるものが実際にあったのだろうかということだ。それがあったなら(現代天文学的に確認できるなら)、牡牛座から牡羊座に移動するという発想は理解できないでもない。また、同書では、そうした天界の変化がコスモス(宇宙)で過ぎ去ったことして語られるが、なぜその過去の天界の歴史が密儀の中核となるのかについても、私には理解できない。
 牡牛供犠、トーロクトニー(Tauroctony)がローマ時代の密儀宗教としてのミトラス教の教義及び儀式の中核であったとして、では実際に、密儀で牛は殺されていたのだろうか。この点について、同書では、ローマ時代のミトラス教の神殿構造から、存在しなかっただろうと推測している。代わりに、キリスト教的な聖餐があっただろうと推測している。加えて、その時代、このミトラス教の聖餐はキリスト教の模倣でないかとの非難があったことも言及している。だが、私はそれは逆かもしれないという疑念がある。
 キリスト教との関わりでは、同書ではマゴイについて次のような言及をしているが、キリスト教との関わりの推測は、これも敢えてであろうが、含まれていない。

 ヘレニズム時代小アジアにおけるこのようなミトラス神崇拝の流布の背後には、ヘロドトスが伝えるペルシアの祭司部族マゴイ(マギ)の小アジア進出があった。


 他方、コマゲネ王アンティオコス一世(在位前六九-前三四年)の長大なギリシア語碑文が、ネムルッド・ダーの禿山の山頂に見出されているが、そこでは他の神々とともに、ヘリオス、ヘルメス、アポロンと同一視されたミトラスが言及されており、王自らミトラスと握手する彫像も残っている。このような王家のミトラス崇拝には、マゴイが祭司をつとめていたと思われる。

 

アンティオコス一世とミトラ神

 マゴイ(マギ)は、昭和訳聖書(マタイ2:1)では「博士たち」と訳されている。


イエスがヘロデ王の代に、ユダヤのベツレヘムでお生れになったとき、見よ、東からきた博士たちがエルサレムに着いて言った、「ユダヤ人の王としてお生れになったかたは、どこにおられますか。わたしたちは東の方でその星を見たので、そのかたを拝みにきました」。


7世紀・ビザンチンで描かれたマギ(東方の博士)

フリジア帽子を被っている点に注目

 ミトラ神とマゴイの背景からすれば、イエスはミトラ神と同一視されているというメッセージにしか読めないのではないか。
 ローマ時代のミトラ教における、牡牛供犠つまりトーロクトニー(Tauroctony)が象徴的であったというのは同意しやすいものの推測でしかない。これらが実際に行われていた可能性はないのだろうか。
 ここで当然連想されるのは、もう一つの牡牛供犠であるタウロボリウム(Taurobolium)である。同書では、小アジアの神々の項目でプルンデンティウスの長詩から解説しているが、不思議なことにミトラス教との関連への考察はない。


 それによると、深い穴ぐらがキュベレやアッティスの聖域に掘られ、信者の一人がそこに下りる。その上に木材を組み合わせて作った板がわたされる。この板にはいたるところに穴があけられてる。その上には猛々しい牡牛や牡羊が引き出される。神官たちは、こうして引き出された獣を死にいたるまで切りつける。板の穴からは獣の血がしたたり落ち、穴のなかの信者はその血を全身で浴び、真っ赤になる。

 HBOとBBC共作のROME [ローマ](参照)で現代風の映像によって、タウロボリウムが再現されている。幸せをもたらすめでたい儀式なのだが、見方によってはけっこうグロいので再生は自己責任でどうぞ。

 牡牛供犠であるタウロボリウム(Taurobolium)は、広範囲に実施されていた。


 タウロボリウムとクリオボリウムは二世紀以降にまずイタリアのオスティアやポズオリで行われ、すぐにローマのヴァチカヌス丘にあったフリギュア神の聖域でも催されるようになった。その場合、個々の信者のためばかりでなく、皇帝や宮廷の安寧のためにも挙行された。この行事が記録された多くの祭壇が、イタリア各地のほか、スペイン、フランス、北アフリカなどの属州で発見されている。

 同書では、これもなぜか言及していないが、常識的にも、「ああ、それがスペインの闘牛の起源なのではないか」と連想するだろう。おそらく、その連想は正しいだろう。そして、ミトラ神のトーロクトニー(Tauroctony)のマントにも連想は及ぶだろう。
 タウロボリウム(Taurobolium)は、同書ではミトラス教との関連は問われていないが、「フリギュア神の聖域」といえばミトラ神を想起しないわけにはいかない。
 だが、「キュベレやアッティスの聖域」とあるように、ここで登場する神はキュベレ神でありアッティス神である。彼らはどのような神なのか。この点は同書に基本的な解説がある。

 ローマ帝国の最初の支配者たちはユリウス・クラウディウス家に属していたが、彼らはトロイ出身のアイネイアスの子孫を称したので、トロイ知覚のイダ山の女主人である太母神キュベレを尊重し、国家公認の神とした。


キュベレ

 「アイネイアスの子孫を称した」については映画トロイのエントリ(参照)でも言及した。トロイのアポロンがミトラ神の習合であるなら、キュベレ神・アッティス神にその関連はあるだろう。なにより、これらの象徴はすべてフリギュアのフリジア帽で統一されている(参照)。
 キュベレ神・アッティス神の神学はローマにおいて追究された。


たとえば、哲人皇帝ユリアヌスにとって、キュベレは「全生命の女主人であり、あらゆる生成の原因者」であり、アッティスはその下で生命界の創始者(デミウルゴス)である。他方、哲学者ポルフュリウスによれば、アッティスの自己去勢は、物質界をこれ以上増大、増加させないためのものである。アッティスはこのようにして、地上での生成を停止させ、霊魂を天界へと上昇させる。三月の大祭はこのような救済活動にほかならない。

 教父たちはこの教えを復活祭と混同しないように戒めたという。だが、無理だったのではないか。復活祭の起源はキュベレ神・アッティス神の信仰によるものだろう。また、キュベレ神は聖母マリアであろう。もちろん、批判はあった。

 キュベレとアッティスの崇拝は紀元五世紀になっても、ひそかに続いていた。キリスト教の神学者は、神の母マリアと神々の母キュベレの混同を戒めている。

 キリスト教を神学なり教義の側から見れば、それは異教と区別できるものだろうが、その現実の信仰はどうだろうか。
 占星術を駆使するミトラ教神官によって王と確約されたイエスは、人間の罪の贖罪の仔羊として牡牛供犠のように血を流した。そして、信者はその血を飲み、その血で清められ復活を期待するというのがキリスト教の実際ではなかったか。

| | コメント (2) | トラックバック (3)

2010.08.17

[書評]ローマ帝国の神々―光はオリエントより (中公新書:小川 英雄)

 以前は、堀米庸三の「正統と異端」(参照)ではないが、キリスト教の正統とは何かという観点から私は西洋史を見てきた。その観点でローマの宗教も考えていた。だが次第に異教のほうが面白く思えるようになり、また、率直なところキリスト教の教理における正統は正統としても、実態は異教とされてきた諸宗教とそれほど差違はないどころか、異教が独自の変化をして西洋キリスト教になった側面が大きいのではないかという疑念もあり、少し概論的なものを読み直してみようと思うようになった。とりあえず選んだのは、「ローマ帝国の神々―光はオリエントより (小川 英雄)」(参照)である。読みやすく、よくまとまっており、また抑制が利いているので、通説はこのあたりなんだろうということがよくわかる好著だった。

cover
ローマ帝国の神々
光はオリエントより
(中公新書)
小川 英雄
 古代ローマ帝国の盛衰は長期に渡り、版図を広げつつ異文化を積極的に取り入れたが、それは当然、人間の交流を伴うものであり、ギリシャ、ペルシャ、エジプトなど諸宗教も取り入れることになった。ローマ市民にも浸透した。その多様性は目がくらむほどである。本書はそうした多様性をカタログ的というほどフラットではないが広く扱っている。これらの各宗教の要素は異端排除されつつもキリスト教に収斂されていくようにも思える。

1 古代オリエントの神話と宗教
2 ヘレニズムからローマへ
3 ローマ帝国の宗教
4 イシスとセラピス―エジプト系の神々
5 シリアの神々
6 キュベレとアッティス―小アジアの神々
7 ミトラス教―イラン起源の神
8 ユダヤ教の存続
9 キリスト教―その成立と発展
10 グノーシス主義
11 占星術の流行

 個人的に面白かったのは、ミトラ教を扱った7章「ミトラス教―イラン起源の神」である。こういうとなんだが、本書を読んで、ミトラ教については学問的にはその教義や儀式といった内情的な部分はほとんどわかっていないと言ってよさそうなのだと、率直にいうと少しほっとした印象を持った。ミトラ教について、いろいろ言われていることの大半は、俗説としてよいのだろう。特に皇帝の関わりはすっきりとした記述だった。

 皇帝自身もミトラス教に注目するようになった。コンモドゥス帝はこの宗教に入信したとも言われるが、それは誤りで、オスティアの皇帝領地の一部を寄進したというのが真相である。セプティミウス・セウェルス帝の時代には宮廷人で入信する者もいた。アウレリアヌス帝のソル・インウィクトス(不滅の太陽神)崇拝は有名であるが、彼とミトラス教組織の関係を示す資料は存在していない。


ミトラスは上述のように皇帝たちの奉納を受け入れるいたったが、それが信者数を増大させることはなかった。ついで現れたコンスタンティヌス大帝はソル・インウィクトス(不滅の太陽神)を信奉したが、それはミトラスではなく、キリスト教の神であった。そしてそれまで同じ称号で呼ばれていたミトラスはローマ市や地方の町々でも、軍隊駐屯地でも影が薄くなった。背教者といわれるユリアヌス帝は、自らの著作のなかで、ミトラスの名をあげ、それを太陽王と称しているが、ミトラス教には入信しなかった。

 概ねそのように理解してよいのだろう。ただ、これらはすでに習合の結果のように見えないこともない。
 全体として本書ではミトラ教は四世紀に姿を消したとしている。これも穏当な見解だろう。だがそれで終わり、過去のことなのかというと難しい。本書も次のように指摘しているが、どうも占星術のなかにミトラ教的なものが融解しているようだ。

ミトラス教徒は、オリエント系の神をいただく、占星術と秘密の教えを中心とする社会的小グループであった。

 この点について詳しい考察は本書にはないが、「11 占星術の流行」でレリーフの写真に次のような注釈を加えている。

「牛を殺すミトラス」のひるがえるマントにも星座が見られる

 本書のレリーフではないが、このモチーフは他にも見られる。



Fresque Mithraeum Marino

 ミトラの牡牛供犠(Tauroctony)については、ウィキペディアにも項目(参照)があり、占星術的な説明を加えている。


Luna, Sol and the other five planetary gods (Saturn, Mars, Mercury, Jupiter, Venus) are also sometimes represented as stars in Mithras' outspread cloak, or scattered in the background.

月、太陽と他の5つの惑星神(サターン、マース、マーキュリー、ジュピター、ヴェーナス)はしばしば星としてミトラ神の翻るマントか、または背景に配置される。


 「7 ミトラス教―イラン起源の神」の章では、牡牛供犠(Tauroctony)という名称は使っていないが、次のように説明している。

 この神聖な行為(キリスト教の磔刑に相当する)は、宇宙的な規模で行われた。洞窟自体が宇宙を象徴しており、牛殺しの行為は太陽、月、七惑星、黄道十二宮がその瞬間を表していた。

 もしかすると「(キリスト教の磔刑に相当する)」という注釈に本書の思いが隠れているのかもしれない。

その永遠はいくつかのミトラス教図像で天文学的占星術的に表されている。すなわち上述の星たちは神殿内部の天上や壁に描かれているばかりでなく、ミトラスの青い外衣にも星が記されている。

 ミトラス教図像は占星術のなかに保存・継承されていたようにも思うし、意外と言えば意外、当たり前といえば当たり前な部分で現代にも継承されている部分もあるが、それは別の機会にエントリを起こしたい。
 ミトラ教関連以外に、4章「イシスとセラピス―エジプト系の神々」も興味深いものだった。イシス像とマリア像を並べた写真もあり、どう見てもそのままだろうと思えるが、「子神ホルスを抱くイシス女神像は、幼児キリストを抱く聖母マリア像のもとになったともいわれている」と本書は控えめなコメントに留めている。
 意外といってはなんだが、9章「キリスト教―その成立と発展」も蒙を啓かされる指摘が多かった。古代ユダヤ教というとマックス・ヴェーバーの著作でもそうだがつい、タルムードなど後代のユダヤ教につながる部分から遡及してしまいがちだ。しかし、イエス時代を含めて初期キリスト教の大枠はヘレニズム世界であり、ユダヤ人の大半はコイネを主としてギリシア語を使う民族であった。
 その他、「2 ヘレニズムからローマへ」では、エレウシスの密儀に言及しているが、このあたり、オリュンピアスとの関連でもう少し考えてみたいと個人的に思っている。
 個人的な話だが、パウロの足跡を探しにギリシア内陸を旅行したことがあるが、パウロ関連の風物も感銘深いものだったが、ギリシャ北部ではマケドニア王国の遺物に関心をもった。ギリシアというとアテネの神殿などを想起するが、ヘレニズムの時代ではエレウシスの密儀のようなものが勢力をもっており、いわゆるギリシア神話の信仰というものではなかったのだなとしみじみ思ったものだった。

| | コメント (1) | トラックバック (2)

2010.08.15

[書評]私たちが子どもだったころ、世界は戦争だった(サラ・ウォリス、スヴェトラーナ・パーマー)

 本書、「私たちが子どもだったころ、世界は戦争だった」(参照)のカバーには15人の少年少女の顔写真と名前が記されている。古そうな写真だ。写りの悪い写真もあり、親しみづらい印象をもつかもしれない。しかし、本書を読み終えたあと、その一人一人を自分の友だちのように身近に感じるようになる。その生命をたまらなくいとおしく思えるようになる。10代の彼らは第二次世界大戦を体験し、その戦火のなかでかけがえのない経験を記した。戦争とは何か。知識や善悪の教条を超えた答えがその手記の中にある。

cover
私たちが子どもだったころ、
世界は戦争だった
サラ・ウォリス
スヴェトラーナ・パーマー
 手記はそれぞれを個別に扱うのではなく、ドイツ軍がポーランドへ侵攻した1939年9月1日から、日本政府が降伏文書に署名した終戦の日である1945年9月2日(米国時間9月1日)までの時間軸に沿いながら、全12章で各地域に分けて配置されている。数章に渡る手記もあり、章の始めと、手記の前後にはそれぞれの背景を補うナレーション的な解説がある。小説のように読み進めることができる。その多元的な叙述と多彩な視点で巨大な歴史を見つめる感触は、トルストイの「戦争と平和」(参照)にも似ている。
 カバーの写真では15人だったが、もう1人、氏名不詳の少年を加え、16人の手記で本書は構成されている。
 ポーランド人が4人。うち2人はユダヤ人。ドイツ軍によって封じ込められ、ホロコーストにあう。フランクルの「夜と霧」(参照)とは異なった視点からその凄惨さが描かれる。
 イギリス人少年が1人。彼は同年代の米国人少女と文通しつ、ユーモアを交えて日常生活と戦争の状況を語る。同盟国の米国への焦りを漏らすこともある。
 フランス人少女が1人。ミシュリーヌ・サンジュ。ドイツがフランスに侵攻した1939年に13歳だった。彼女の手記には怒りも恋心もある。魅力的な叙述だ。本書を通じて事実上主人公的な位置を占めている。この部分だけ取り出しても「アンネの日記」(参照)のように一冊の書籍になっただろうが、あえてそうせず、戦争を多角的に描き出すように編集されている。フランス人少女から見た第二次世界大戦といえば、私は若いときに見た映画「ルシアンの青春」(参照)も思い出した。
 ドイツ人が3人。ナチス党青少年組織ヒトラー・ユーゲント出身の17歳の少年、ヘルベルト・ファイゲルは本書前半でドイツ側の内情とその動向を表している。後半は15歳の少年クラウス・グランツォフの手記になる。彼は、ヴォネガットの「スローターハウス5」(参照)のテーマでもあるドレスデン空爆を目撃する。人間の目を通すことで、戦争が正義と悪、あるいは加害と被害で単純には色分けできない様相が描き出される。
 米国人が1人。ユダヤ人少年である。彼は遠いところの戦争を静かに見つめつつ、同時に戦時下の米国のユダヤ人の生活を伝える。
 ソ連(ロシア)の少年少女は4人。レニングラード包囲戦を内側から描いた15歳の少年、ユーラ・リャビンキンの手記は凄烈だ。人間の極限を描くことになった。17歳の少女イナ・コンスタンチノワは祖国愛からパルチザンに身を投じ、愛国の英雄ともなる。手記も愛国心に満ちあふれたものだが、それを歴史のなかに置き直せば、少女としての悲しみが読み出せる。
 日本人は2人。一高生で海軍航空隊(特攻隊)に志願した佐々木八郎の手記を私は読みながら、その懐疑的なメンタリティと純粋志向の点で、少年時代の私とあまりにメンタリティが似ていて驚いた。私があの時代にいたら佐々木のようになっていただろうという共感から涙した。開戦の翌日、彼は「どうも皆のように戦勝のニュースに有頂天になれない」と書く。11日には、「純粋に戦勝を喜べない俺の頭をぶちこわしてしまいたい。ヒトラーの演説を聞き、三国協定の締結を聞いても、国民の歓喜に共鳴しない俺の頭をぶちこわしてしまいたい」と続く。それでも彼は死地に赴く。2年後に「頭も体も何もかも揃ったこの僕をむざむざ殺す海軍であれ日本国であったなら、人を使うことを知らん奴なのだと思ってもいい。自分が死んだら、自分が要らなかったからだ」と書く。若者らしい心には、国家というものの本質は見えないと50歳を超えた私は思う。「きけ わだつみのこえ」(参照)とは少し違う色合いで本書は日本の少年を描いている。
 加藤美喜子は出征兵士を見送る位置にいる。1944年6月12日の手記では、大本営の情報からきちんと欧州のドイツ軍の状況を見抜いている。「敵を七万もやっつけたとの事、戦果は大したものだが、けっきょくドイツ軍は少しずつテッ退を続けて居る」「”無中になる”これは日本国民の悪いくせ、むろんこれが長所になる時が有るんだけど……」と書く。14歳の少女にそれが見えていた。
 彼らのいくにんかは戦争の犠牲となって死ぬ。その時代を生き延びた者についてはエピローグで語られる。誰がどういう運命に遭うかについては、知らないで読み進めたほうがよいと思うのでここには書かない。
 本書は戦争を語る書籍としても優れている。大人はもとより、高校生や大学生にはぜひお薦めしたい。類書では得難い知識や視点を得ることで、歴史と世界というものがくっきりと見えてくるようになる。困ったことと言ってもよいのかもしれないが、日本人は、戦争をつい太平洋戦争や対アジアの枠組みだけで捉えがちだ。しかし、本書を読めば日本が第二次世界大戦のなかにどのように組み込まれていたかもわかるし、日本人からすれば遠い国の話のように思えるポーランドの惨状なども理解しやすい。
 本書はBBCドキュメンタリー制作にかかわてきた米国生まれの英国人サラ・ウォリスとモスクワ生まれで英国で暮らすスヴェトラーナ・パーマーの2人が5年かけて描き出したものだ。読みやすく編集されたそれぞれの手記の裏側に膨大な努力が潜んでいることは容易に察せられる。
 それにもまして、ここまでやるのかという努力は邦訳書にもある。本書のオリジナルは英語で書かれたもので、各手記もその少年少女たちの言語から英訳された。だが、邦訳書では英訳された手記部分をそのまま日本語に訳すことはしていない。それぞれの言語で書かれた手記の原文から新たに翻訳し直している。そのため、英語の本文訳を田口俊樹が担うほか、「カラマーゾフの兄弟」(参照)の新訳した亀山郁夫、「ヒトラーの秘密図書館」(参照)を訳した赤根洋子、サガンの新訳をした河野万里子、ポーランド文化に詳しい関口時正を加えている。
 邦訳書では、また各手記が誰の手によるものかわかりやすくなるように、手記の冒頭に書いた少年少女の小さいポートレートをアイコンふうに配しているほか、書体も工夫されている。この編集の意気込みからは、日本でも長く読み継がれる書籍であってほしいという願いが感じ取れる。

| | コメント (1) | トラックバック (1)

2010.08.14

[書評]日本経済のウソ(高橋洋一)

 「日本経済のウソ (ちくま新書)(高橋洋一)」(参照)は奥付を見ると8月10日が第一刷となっているので新刊と言ってよいのだろうが、一読して大半の内容に既視感があった。執筆方針や編集過程についての言及はないので書き下ろしということになるのだろうが、内容的には著者がネット媒体でこの半年に書いてきたものをまとめたものという印象をもった。

cover
日本経済のウソ
高橋洋一
 執筆完了時点はわからないが、菅内閣の比較的最近の動向への言及もあるが、参院戦争点を論じるもののその結果への考察はない。あと半月待ってそれらの考察を含めての出版のほうがよかったようには思った。
 基本的な議論には、著者の考えになじんでいる人や、インタゲ政策に賛同している人にとってはそれほど新味はない。しかし、小泉政権後の迷走を金融政策の視点で総括する簡便な書籍という意味合いはあり、その歴史の帰結が見える5年後には、また本書を振り返って、日本がどこで失墜したのか後悔を満喫するためにも書架に留めておきたい好著だ。
 書名「日本経済のウソ」とあるようなウソの大半は、日銀批判に充てられているが、終章にあたる三章の展望では、日銀批判から離れ、民主党の経済政策の混迷、特に郵政問題に言及しているため、やや尻つぼみな印象もある。むしろ本書は、単純に日銀批判部分を評価するとよいだろう。
 日銀批判についてはこのところ類書も目立つようになり、また批判も定型化しつつあるようには見えるが、率直なところ、経済学の素人には詰めの部分で日銀の理論をきちんと反論することは難しいように思う。本書では、日銀式テーラー・ルールをやや詳細に追っているが、経済学的な背景知識がないとなぜこのような迷路があるのかについてまでは納得しがたいだろう。
 別の言い方をすればそうした難解さの陰に日銀的な視点は大手紙社説などにも及び、卑近なところでは粗雑な「新自由主義」なるものの批判や小泉政権批判に結びつく。本書は後者の部分については端から相手にしていないが、小泉政権における金融政策は落第点だったと認めており、さらに現状の景気については、2006年から2007年における金融引き締めの問題として、リーマンショックを原因とする論を排している。
 本書を読み、内容的な理解から少し逸れるが、感慨深く思ったことは二点ある。一つは、近視眼的にはデフレは悪くないという立場も現状はそれなりに強くあり得るということだ。本書も指摘しているが、年金生活者と、公務員やしっかりした労組のある大手企業の正規職員がそれにあたる。固定的な収入のある人にとってデフレは手持ちのカネを増やしているに等しい。もちろん、少しなりとも経済の全般を見渡せばそんなメリットが吹っ飛ぶくらいのことはわかりそうなものだが、「後の千金のこと」のような政治状況がある。率直にいえば、現在の日本の内閣は年金に依存するような老人票と、労組票を当てにしているのでなかなか変革は難しいだろう。
 もう一点は、私自身の困惑である。私はどちらかといえばリバタリアンなので金融政策そのものを好まないが、それでも日本の惨状を思えばそうとも言ってられない。そこでインタゲ政策は実質的に国際的にも常識でもあり、最低限度のそうした政策は好ましいと思ってきたのだが、具体的にその数値について明確に4%以下では意味がないとする議論は、頭ではそれなりに理解できても、なかなか心情的にはついていけない部分がある。だが、そうした曖昧な弱腰の見解は結果的に日本経済の宿痾を支援しかねないのかもしれない。
 個別の例でいうなら、現在の国債金利は1.4%だが、これが5%に上がれば、国債価格は25%低下する。

 二五%くらい低下することを「暴落」というのなら、もし日本経済が本格的に回復すれば確実に「暴落」します。つまり、日本がノーマルな成長をして名目成長率が四~五%になれば、国債金利も四~五%くらいになるからです。

 もちろん、その時には、GDPも増え税収も当然上がり財政問題は消えている。そこをきちんと国民に納得させる政治は可能なのだろうか。
 そこが難問だと思う。だが、日々存在感を薄くしている菅総理や、九月にまた御輿を取り替えようと活躍される面々を見ていると、そうした難問に悩む日は来ないのだろうなと、ほっと安心してしまうダメな私がいる。

| | コメント (2) | トラックバック (1)

2010.08.13

なぜ月遅れ盆なのか?

 先日ツイッターで、なんでお盆が八月中旬なのか、七月の地域もあるのか、という話題があり、八月のほうは月遅れ盆で、七月は新暦のお盆ですよ、とツイートしたものの、月遅れ盆と旧暦のお盆の違いがうまく伝わらないふうであった。日本では、大きく分けて三種類のお盆の時期がある。(1)旧暦七月、(2)新暦七月、(3)月遅れ盆(八月)である。一番多いのが月遅れ盆で、お盆といえばほぼ月遅れ盆ということになっている。なぜ月遅れ盆が一般的になったのか?
 お盆のことをネットで調べてみて、そのあたりのことがとんとわからなかった。いちおうウィキペディアにはお盆の項目があり、多少言及がある(参照)。


伝統的には、旧暦7月15日に祝われた。日本では明治6年(1873年)1月1日のグレゴリオ暦(新暦)採用以降、以下のいずれかにお盆を行うことが多かった。
 1. 旧暦7月15日(旧盆)
 2. 新暦7月15日(もしくは前後の土日)
 3. 新暦8月15日(月遅れの盆。2.を主に祝う地方では旧盆とも)
 4. その他(8月1日など)
しかしながら、明治6年(1873年)7月13日に旧暦盆の廃止の勧告を山梨県(他に新潟県など)が行うということもあり、1.は次第に少数派になりつつあり、全国的に3.(月遅れのお盆、旧盆)がもっぱらである。岐阜県中津川市付知町、中津川市加子母は8月1日である。現在の報道メディアでは、多数派である8月中旬(3.)を「お盆」と称するため、「お盆」というと月遅れのお盆を指すことが全国的になりつつある。ただし、沖縄県では現在でも1.の旧暦による盆が主流である。そのため、お盆の日程は毎年変わり、時には9月にずれ込む[2]。なお、旧暦での盆を旧盆というが、一部の地方を除いて通常、新暦での盆は新盆[3]とは言わない。新盆(にいぼん)は別の意味となる。

 間違ってはいないのだが、「なぜ」に対応すべき知識を示唆する内容ではない。他のサイトでもそれほど情報もなく、またブログなどでも考察は見かけなかった。どこかに適切な情報や考察があるのだろうが、うまく辿り着かない。最近、インターネットで情報を調べると同じような薄い情報のコピーが多いと思うようになったが、その典型のようにも思えた。
 まず明確なところを整理すると、お盆は本来旧暦で行うものである。これが原点だが、明治6年(1873年)、近代日本がグレゴリオ暦を新しい暦法として採用して以降、各種の民間行事を新暦に移し替えた。
 典型的なのが正月である。興味深いのが春節で、明治以降、日本は中国文化の影響を受けた圏内ではめずらしく春節を軽視しているが、これは、おそらく建国記念の日が春節の亜種であるためだろう(参照)。
 私は沖縄暮らしの経験で知ったのだが、沖縄も琉球処分(1871年)の結果でもあるが内地流に新暦が推進されて、沖縄でも旧暦の正月を新暦にしようということになった。新正運動という名称だったか、方言札のような社会運動として推進された。しかし、沖縄の場合、各種の行事が綿密に旧暦で組み立てられていて、そう簡単には新正は定着せず、おそらく内地の戦後も米軍統治下で内地の影響がある程度遮断されたこともあり、現在でも漁村では旧暦の正月が基本である。もっとも、概ね新正に移行したとも言えるが、それでも旧正月の日のテレビ番組は正月番組でコテコテになっている。
 推測なのだが、おそらく内地における新正月採用もそうした一種皇民化政策のように推進されたのではないだろうか。ウィキペディアでは山梨県・新潟県における旧暦盆廃止の挿話を引いているがその名残であろう。
 ここで話が細かくなるが、私の両親は信州人で水木家の家庭が鳥取文化のように私の家庭は長野県文化なのだが、信州のお盆は旧暦であった。昭和30年に東京に出てきた私の両親は東京の新暦盆に戸惑っていたようだった。
 そしてここが重要なのだが、8月の月遅れ盆には私の家族は信州に帰るのである。私は高校生になるくらいまで毎年盆と正月は信州で迎えていた。おかげで自分は信州人だと思わざるをえない。このずくなし。
 同様の行動パターンをしているのは昭和30年代以降に東京に出てきた労働者たちだ。この労働者の大半は工場労働者であり、効率的に工場を止めるためにも八月中旬がよかった。つまり、月遅れ盆は、東京に出てきた労働者を帰省させることがもっとも重要な意味であったのだろう。この風習は、おそらく江戸時代から奉公人は盆暮れの休みがあったことの継承ではないだろうか。
 当然ながらお盆ということで地方に帰省した労働者は、主に長男以外の資産継承から外された人びとがそれでも血族を確認するための風習であった。
 沖縄の話に戻ると、沖縄では当然ながらお盆は旧暦である。墓参りはしない。しない理由はうちなーんちゅには当たり前すぎることだが、内地の人にはほぼ通じないだろう。あえて解説はしないことにするが、沖縄のお盆は、シチガチ(七月)であり、シチガチといえばシチガチエイサー待ちかんてぃである。

 この映像は新宿である。子どもが手にしているタンバリンのような太鼓はパーランクーである。沖縄の幼稚園児はたいていエイサーをやらされるので子どものいる家庭ならかならず一個か二個パーランクーがある。

 いかにも沖縄の伝統のように内地からは見えるのだが、この原形はおそらく内地からの伝承であろう。念仏廻り(にんぶちまーい)とも呼ばれることからも推測される。現在の福島県に生まれた浄土宗の僧袋中(1552-1639)が渡明失敗後、琉球に漂着し、そこで尚寧王の歓待を受け、浄土教を広めた。その折りの念仏行事が原形であろうといわれる。ただし、琉球の浄土教の興隆はもう少し時代が古いので袋中以前にも念仏廻りがあったのではないか。なお、現在のエイサーの華々しさは当時のものではないようだ。
 お盆自体の起源についてはよくわかっていない。枕草子に「右衞門尉なる者の(中略)人の心うがり、あさましがりけるほどに、七月十五日、盆を奉るとていそぐを見給ひて」とあり、平安時代には定着していたのだろう。名称的には、盂蘭盆の省略とされる。伝承は中国からで、梁の武帝の時代にはあったようだ。
 日本のお盆は日本の習俗と習合し、さらに戦後は戦没者追悼の風習とも習合していき、八月になるとなにかと終戦を想起するという一種の国民宗教行事のようなものになった。
 盂蘭盆は仏教行事のようにいわれているが、近年では否定的な見解が多い。ウィキペディアでもその説が書かれている(参照)。


 盂蘭盆は、サンスクリット語の「ウランバナ」の音写語で、古くは「烏藍婆拏」「烏藍婆那」と音写された。「ウランバナ」は「ウド、ランブ」(ud-lamb)の意味があると言われ、これは倒懸(さかさにかかる)という意味である。
 近年、古代イランの言葉で「霊魂」を意味する「ウルヴァン」(urvan)が語源だとする説が出ている。サンスクリット語の起源から考えると可能性が高い。古代イランでは、祖先のフラワシ(Fravaši、ゾロアスター教における聖霊・下級神。この世の森羅万象に宿り、あらゆる自然現象を起こす霊的存在。

 ウィキペディアではこれがインドに入ったと続くが、「古代イランの言葉」はおそらくソグド語であり、ソグド人の交易と一緒にステップルートで中国に伝わったと考えたほうがよいように私は考える。当然ながら、これは拝火のゾロアスター教の神事であり、お盆の火もその名残かもしれない。余談だが、ミトラ教はゾロアスター教である。
 盂蘭盆は中国では中元節つまり鬼節となる。地獄の扉が開いて飢えた鬼(Hungry Ghosts)がやってくるということだ。

 日本のお盆も、いわゆる盆踊りなどをともなって興隆するのは江戸時代からのようで、その当時の祭りはかなり華々しいものもあり、鬼神の異界を堪能する華僑圏の文化の影響もあったのではないかとも思われる。
 むしろそれが現在のように祖先信仰や鎮魂といったお盆に変換していくのは、近代日本が作り出した新しい国家宗教化の一環ではないだろうか。靖国神社も大祭は春秋であり、その折りに詣でるのが自然に思われるが、戦後はお盆と習合してしまったように見える。

| | コメント (7) | トラックバック (1)

2010.08.10

南シナ海領有権問題に関わる中国と米国

 南シナ海の領有権問題で米中間に一つ目立った動きがあった。問題の根は深く展望もないが、今年に入ってからの背景と概要にふれておこう。
 目立った動きは、7月23日、ハノイで開催された東南アジア諸国連合(ASEAN)地域フォーラム(ARF)におけるクリントン米国務長官の発言とその反響である。発言の全文は米政府サイト"Comments by Secretary Clinton in Hanoi, Vietnam"(参照)にある。
 要点は、同日付けAP"Clinton claims US interest in resolving territorial disputes in South China Sea disputes"(参照)が強調するように、この地域の領有権問題を解くことが米国の国益であると断じたことだ。南シナ海は米国の問題であると関与を鮮明にした。クリントン発言から抜粋するとこのあたり。


I’d like to briefly outline our perspective on this issue. The United States, like every nation, has a national interest in freedom of navigation, open access to Asia’s maritime commons, and respect for international law in the South China Sea.

南シナ海の領有権問題について米国の考え方の概要を述べたいと思います。米国にとって、他のどの国々とも同様に、航行の自由、アジア公海がすべての国に開かれていること、そして東シナ海における国際法の遵守の三点は、国益をなしています。



The United States supports a collaborative diplomatic process by all claimants for resolving the various territorial disputes without coercion. We oppose the use or threat of force by any claimant.

米国は、多様な領有権問題の解決に向けて、強制なく関係国が協調外交を展開することを支援します。米国は、関係国がどの国であっても、軍事的脅威の行使に反対します。


 これだけでも中国に対する米国側からの非難であることは明白であり、この海域を実質的に支配しようとする中国に明確に対立したとも言えるが、APによれば、中国からその場での抗弁はなかった。

China's Foreign Ministry had no immediate comment on Clinton's remarks but U.S. officials present at the meeting said Chinese Foreign Minister Yang Jiechi repeated Beijing's long-standing position that the disputes should not be "internationalized."

中国外務省はクリントン発言に即時のコメントを返すことはなかったが、会議に出席している米国高官によれば、楊潔箎中国外相は、南シナ海の領有権問題をけして国際問題化してはならないことが中国政府の長期的見解であると繰り返し主張したとのことだ。


 中国政府はクリントン発言に怒ったのか。そう見られている。その上で事後南シナ海で展開した中国軍事演習にもふれつつ、4日付けフィナンシャル・タイムズ「Spat over Spratlys」(参照)は簡素に指摘している。

Trouble is brewing in the South China Sea. Beijing has just conducted a massive show of force, sending three naval fleets to participate in war games – televised in case anyone wasn’t watching.

南シナ海で問題が醸されつつある。中国政府は、三艦隊を南シナ海に派遣して軍事演習を行い、盛大に軍事力を見せつけたばかりだ。見落とす人がないように、テレビで放映したほどだった。

This may not have been a direct response to US secretary of state Hillary Clinton, who made remarks about the South China Sea that angered Beijing. But they are a potent reminder of China’s growing capacity – and willingness – to project strength regionally.

この軍事演習は、南シナ海についての発言で中国政府を怒らせたクリントン米国務長官への直接的な返答ではなかったのかもしれない。それでも、この軍事演習は中国の拡大しつつある軍事力を強く留意させるものであり、同時にこの海域に軍事力を投入する意思を示すものでもあった。


 中国の軍事演習については日本国内でも報道はあった。7月31日付け読売新聞「南シナ海で中国海軍演習、米・ASEANけん制」(参照)がその例である。

中国やマレーシアなど6か国・地域が領有権を主張する南沙(スプラトリー)諸島などを抱える南シナ海で、中国の胡錦濤政権が7月下旬、海軍による大規模な実弾演習を行うなど軍事力を誇示した。
 先の東南アジア諸国連合(ASEAN)地域フォーラム(ARF)で南シナ海問題に結束して対処する方針を打ち出したASEANや、関与姿勢を強めている米国をけん制する狙いがあるとみられる。

 こうした応答は実に中国らしくわかりやすいともいえる。この手のコミュニケーションに慣れている米国も同じ次元できちんと応対している。共同「米空母がベトナム沖合に 南シナ海、中国を刺激」(参照)より。

AP通信によると、米海軍横須賀基地配備の米原子力空母ジョージ・ワシントンが8日、ベトナム中部ダナン沖合の南シナ海に到着した。南シナ海の南沙(英語名スプラトリー)、西沙(同パラセル)両諸島の領有権をめぐってベトナムと対立する中国を強く刺激しそうだ。

 正確には、空母ジョージ・ワシントンの訪問は、米国とベトナムの国交正常化15年祝賀の一環とされたものだが、この状況では対抗的な意味合いが色濃くなっている。
 米中間のやりとりで日本として注意したいことは、空母ジョージ・ワシントンの母港が横須賀であることと、南シナ海を巡る中国とベトナムの領有権対立から(この対立で中国とベトナムは二度死者を出す紛争を起こしている)、かつての仇敵ベトナムと米国が軍事を含めた親密な関係に移行しつつあることの二点だろう。
 問題に戻る。中国側からは、南シナ海の領有権問題を米中間の争点としてしまったことはどのように意識されているのだろうか。
 これまで平和的台頭を演じ来た中国としては、外交上の失態とする見方もあるかもしれない。しかし、6月5日、シンガポールで開催された第9回アジア安全保障会議でロバート・ゲーツ国務長官が、簡素ではあるが、ARFにおけるクリントン米国務長官の発言と同等の発言(参照)をすでにしていて、中国も注視していた。今回のクリントン発言も中国にとって寝耳に水ということはなく、むしろ中国にとっては予想された米国の対応であっただろう。
 このシンガポール会議については、日本側からは出席した岡本行夫氏による「外交評論家・岡本行夫 日米同盟を弱めるな」(参照)もいろいろと興味深いので簡単に引用しておこう。

 アジア太平洋地域の専門家が地域の安全保障について議論する会議がシンガポールであった。会議で日本は退潮国家、後退国家として言及された。私は強く反論したが、どこまで届いたか。日本への懸念の多くは、「ザ・フテンマ」が象徴する日米安保体制の運用ぶりに向けられた。
 アジアでは、海洋国家群とも呼べるひとつの輪郭ができつつあるようだ。日本、韓国、台湾、フィリピン、ベトナム、シンガポール、インドネシア、豪州…。これらの国々や、地域(台湾)の最大の懸念は、中国海軍活動の活発化だ。特に南シナ海。中国海洋戦略への警戒感は、あからさまに表明された。
 海洋国家群にとっては、日米安保体制はアジア太平洋地域の公共財だ。日米連携が海洋における中国のカウンターバランスになる。それなのに日本は日米関係を弱めて地域の安定を危うくしようとしている。何人もがそう言った。

 南シナ海を巡る今後の中国の動向はどうなるだろうか。
 重要なのは、今年に入ってから中国が南シナ海を「中核的利益(core interest)」とみなしてきた点だ。ただし、この表明がどの程度公式なものであるかについては評価が難しい。話題となったのは、4月23日付けニューヨーク・タイムズ記事「Chinese Military Seeks to Extend Its Naval Power」(参照)である。これによると表明は3月のことだったようだ。

China is also pressing the United States to heed its claims in the region.

中国はまた米国に対して領有権問題での主張を慎むように圧力をかけている。

In March, Chinese officials told two visiting senior Obama administration officials, Jeffrey A. Bader and James B. Steinberg, that China would not tolerate any interference in the South China Sea, now part of China’s “core interest” of sovereignty, said an American official involved in China policy.

3月のことだが、訪問してきたオバマ政権高官である、ジェフリー・A・ベイダーとジェイムズ・B・スタインバーグに対して、中国は、今や中国主権の中核的利益となっている南シナ海においていかなる干渉も断固として受け入れないと、中国当局者は語った。

It was the first time the Chinese labeled the South China Sea a core interest, on par with Taiwan and Tibet, the official said.

また高官によれば、この事態は、中国は初めて南シナ海を、台湾およびチベットと同様に中核的利益としたとのことだ。


 関連報道がニューヨーク・タイムズの飛ばしでないことは、高官名が明記されていることからもわかるし、8月4日付けフィナンシャル・タイムズ記事「America must find a new China strategy」(参照)でも相当の受け止められかたをしていることでもわかる。
 また、中国主権による中核的利益の意味合いについても、台湾とチベットが例に挙げられたとことで明瞭になったともいえる。だが、そこまで血なまぐさいことをやる決心を中国政府が断固として持っているのかは米国とは図りかねることでもあった。
 このフィナンシャル・タイムズ記事に前段の話がある。オバマ政権のこれまでの対応を考える上で参考になる。

The Obama administration at first thought the best approach was to co-opt China into the order, since it was believed to share core US interests.

オバマ政権は当初、中国を国際秩序に取り込むことが最善の政策であると考えていた。それなら米国の中核的利益とも共有できるはずだ。

To their surprise, the overtures may have served as a catalyst to bring about the very outcome they were intended to prevent.

驚いたことに、その序曲は、彼らが避けたいと思っていた結果をもたらす触媒として作用していたかもしれない。

Sensing that the financial crisis had accelerated its own rise, Beijing adopted a more assertive and unilateral foreign policy.

金融危機が急速に深まるとわかるや、中国政府は明確に片務的な外交政策を採用した。


 おそらく4月の時点で、米国は中国の外交政策への強い疑念と危機感を持つようになっており、それが南シナ海領有問題に結びついていた。
 このような背景からシンガポール会議でのゲーツ発言は、中国による南シナ海の中核的利益化に応答したものであり、ARFにおけるクリントン発言はその明確化であった。
 中国はなぜ強行に南シナ海を支配しようとするのだろうか。公海として開きつつ、アジア諸国と友好を保つことがなぜできないのだろうか。
 要点は3つあると私は考えている。(1)中東・アフリカからのシーレーンの確保、(2)海洋資源の確保、(3)海南島原潜基地からの海路の確保である。
 原潜基地については、2008年のエントリ「中台緩和にフィナンシャルタイムズが望むとした2つのこと: 極東ブログ」(参照)でも触れたが、中国は海南島の海軍基地を強化し、原潜基地化する予定である。
 また、1日付け毎日新聞「中国:空母の港か 開発急ぐ--海南島」(参照)が伝えるように、中国初空母の基地もここに出来る予定だ。

中国南部・海南島。五つ星ホテルが並び、家族連れが透き通った波と戯れるこのリゾート地は、「中国の空母の母港になる」(カナダの軍事専門誌)といわれる。島南部・三亜市の亜竜湾には「軍事禁区」と書かれた鉄柵があり、その先は中国海軍敷地。軍港開発が急ピッチで進められている。

 Googleマップで見るとそれらしいものがあることがわかる(参照)。
 広域の地図を見ても明らかだが、海南島に海軍の拠点基地を置くなら、南シナ海(South China Sea)を支配するというのも理解できないことではない。そして考えてみれば、中国には他に海軍基地の候補地もないだろう。


海南島と南シナ海(South China Sea)

 南シナ海の南沙諸島については、中国が9個、ベトナムが29個、フィリピンが8個、マレーシアが3個の島の領有を主張している。最大の太平島を実効支配しているのは台湾である。

| | コメント (1) | トラックバック (2)

2010.08.09

[書評]ロスト・シンボル(ダン・ブラウン)

 読書の少し捻くれた楽しみの一つは、上手に期待を裏切られることだ。ロスト・シンボル(ダン・ブラウン)(参照)はエンタテイメントの小説だからこの程度の仕立てに違いないという期待を持って読み進めると、ぽろぽろと崩れ落ちる。予想は微妙に外れる。期待は小気味よく裏切られる。その都度、シニカルな笑いが襲う。やられた。面白いじゃないか、これ。
 テーマはフリーメーソンの謎だから、これは欠かせないという一連のネタが出てくる。お約束だ。出るぞ出るぞと思っていると出てきて、きちんと肩すかし。さすがによく練られている小説だ。犯罪小説ではないが十分にミステリー仕立てにもなっていて、誰が味方で誰が敵かは話の進展で変わっていく。

cover
ロスト・シンボル
ダン・ブラウン
越前敏弥訳
 実質的な主人公である全身入れ墨の怪人マラークにはもう少し深みが欲しいところだったなと下巻半ばで思っていたら、どんでん返し。追求者ラングドンも一巻の終わりかというところで思わぬ逆転。純文学だったら使えないお笑いトリック満載。もちろんフリーメーソンにまつわるありがちな知識はふんだんに盛り込まれているし、おそらく作者が作ったのであろうパズルも二点ほど入っている。お好きなかたなら、ラングドン教授より先に解けるかもしれない。
 物語の描写は映像的で比喩的な深みはないが、その分読みながらくっきりした映像が浮かぶ。げっこうグロい映像もきちんと見えてくるので、若干悪夢にうなされるかもしれない。この感触は、映画作品をノベライズしたかのようだ。すでに映画化は決まっているのではないかと調べてみると、そのようだ。
 上巻を開くとプロローグ。そこで34歳のある男がフリーメーソンの最高位に上るための儀式が描かれる。秘密の儀式である。「秘密はいかにして死ぬかだ」というのがこの小説の最初の一文だ。そして、それがこの物語のすべてでもある。
 物語は主人公ハーヴァード大学宗教象徴学者ロバート・ラングドンが、恩師ともいえる年上の大富豪慈善家ピーター・ソロモンから、合衆国議会議事堂の講演を緊急で依頼され、特別機でワシントンに降り立つところから始まる。空港での出迎えまではさすがに至れり尽くせりだが、議事堂に着くと何かおかしい。お約束通り騒ぎに巻き込まれる。議事堂で子どもの悲鳴。ドームの床には天井を指さす人間の生の右腕が置かれていた。切断された腕はフリーメーソンの最高階位にあるピーター・ソロモンのものだ。その指にはそれぞれフリーメーソンのシンボルが描かれている。これをその場で解くことができるのは、ラングドン、君だ。息を継ぐ間もなく彼は押し寄せるフリーメーソンの謎を解きまくる。事態は急速に展開する。物語は12時間。そして最後に何が起きるのか。アメリカ合衆国建国に仕組まれたフリーメーソンの謎は解き明かされるのか。結果、それなりに解き明かされるのもご愛敬。
 登場人物の中では、CIA局長でもある日系の老女イノエ・サトウが映像的にも面白いキャラに仕上がっている。日本名は「井上佐藤」だろうから、日本人にはけっこう違和感があるが版元で直せなかったのだろうか。もう一人、物語に花を添えているのが純粋知性科学というオカルトのような科学を研究しているピーターの妹キャサリン・ソロモンである。ラングドンと大人の恋が芽生えそうな個所もあるのだが、展開しない。ラングドン、恋は苦手か。次回作もたぶんあるしな。寅さんなら毎回淡い恋という展開もあるが。
 邦訳書では上下巻と分かれて大著だが、普通に読んで12時間はかからない。丁寧に読んでその半分くらいなものだろうか。ただ、読み出すと止まらない。私も30代のころはエーコの「薔薇の名前」(参照上巻参照下巻)や村上春樹の「ノルウェイの森」(参照上巻参照下巻)を読み出したら止まらず、つい徹夜したものだ。が、もうさすがに読書で徹夜はできない。この物語は2日かけて読んだ。それでもなかなか途中ストップしづらい読書ではあった。
 ミステリー仕立ての他に面白かったのは、グーグルや類似の検索技術が情報探索の小道具としてそれなりに利用されていることであった。現代においてグーグルもまたフリーメーソンなみの情報を提供してしまうという戯画であるのが笑える。このあたりのシニックなトーンも愉快だった。
 物語としては下巻の四分の三でクライマックスを迎える。その後に取り散らかした謎の始末や、フリーメーソンの謎をからかうだけではない現代風の解釈が大学の講義のように比較的淡々と続く。この部分も悪い出来ではない。秘密の言葉の解釈について、そういえばと、アーヴィング・ウォーレスの「新聖書発行作戦(The Word)」を連想した。こちらの本はもう絶版かと思ったら「イエスの古文書」(参照上巻参照下巻)で復刻されていた。これもおもしろ本だったな。
 翻訳の質も悪くない。「日本人なら必ず誤訳する英文」(参照)の越前敏弥さんのことだから誤訳もないだろう。訳の工夫もしている。例えば、こんなところ。

キャサリンは笑った。「請け合ってもいいけど、私が研究成果を発表したとたん、ツイッター好きがいっせいに”純粋知性を学ぶ”なんてつぶやき(ツイート)を投稿しはじめて、この学問への関心が一気に深まるでしょうね」
 ラングドンのまぶたは抗いがたいほど重くなっていた。「どうやってツイッターを投稿するか、まだ知らないんだよ」
「ツイートよ」キャサリンは訂正して笑った。

 「ツイッター」を投稿するのではなく、投稿するのは「ツイート(つぶやき)」だということだが、キャサリンの笑いにはこの言葉をラングドンが理解していない含みがある。
 最後に余談。ついでなので本書で重要な意味をもつ「ワシントンの神格化」について本書を補う点として少し触れておきたい。


ワシントンの神格化

 1865年に描かれたものだ。実際にワシントンの下、アメリカが独立したのは1776年なのでこのフレスコ画は独立当時の時代を表現しているとは言い難い。絵の解説は本書になんどか書かれている。注目したいのは二点。


コロンビア

 戦いを鼓舞しているのがお馴染みのコロンビア神である。フリジア帽は被っていない。


ネプチューン(ポセイドン)

 神々がケーブルを持っていることに注目。これは米英間を結ぶ大西洋横断電信ケーブルである。このフレスコ画完成の翌年、1866年に完成した。つまり、この絵は大西洋横断電信ケーブル完成に合わせてその記念の絵でもあった。

| | コメント (4) | トラックバック (1)

2010.08.08

[書評]ギリシア神話の語り:ブルフィンチや斉藤洋

 団塊世代の下になる私の世代までだと、ギリシア神話といえば、トーマス・ブルフィンチ(Thomas Bulfinch)がまとめた"The Age of Fable, or Stories of Gods and Heroes"の訳本が定番ではないだろうか。タイトルの直訳は「寓話の時代:神々と英雄の物語」だが、日本では「ギリシア・ローマ神話」となっていた。私は中学生のとき、角川文庫のけっこう分厚い本で読んだ。辞典のようにも利用できるのが便利だった。
 今でもあるのかと調べると、ある。上下巻に分かれるが「完訳 ギリシア・ローマ神話」(参照上巻き参照下巻)となっている。映画「トロイ」(参照)がきっかけで復刻したようだ。
 他に岩波文庫のがあったはず。調べると、こちらも、ある。一冊にまとまった「ギリシア・ローマ神話―付インド・北欧神話 (岩波文庫)」(参照)である。
 角川文庫の訳は昔と変わらず大久保博、岩波文庫もお馴染みの野上弥生子。野上のほうの訳のほうが古いはずで、調べてみると最初の翻訳は1913年。これには夏目漱石が序文を書いている。漱石も読んだのだろう。大正・昭和に日本人に読まれたギリシア神話というのは野上のブルフィンチだったのではないだろうか。もちろん、「荒城の月」の格調をもつ土井晩翠の詩文訳も有名だ(参照参照参照)。
 大久保・野上の他に新訳があってもよいようにも思うが、ざっと見たところ見つからなかった。もともとブルフィンチも子ども向けとまではいえないが、当時の一般向けに書いた簡便な解説書でもあり、原文の英語もそう難しくもない。これも探すと挿絵付きの"The Age of Fable"(参照)が無料公開が見つかる。
 ブルフィンチは1796年にマサチューセッツ州で生まれ、1867年、71歳で亡くなった。黒船を引いて日本に開国を迫ったペリー提督ことマシュー・カルブレイス・ペリー(Matthew Calbraith Perry)が1794年生まれ、1858年没なので、ブルフィンチと同時代の人と見てもよいだろう。ちなみに、ブルフィンチの父、チャールズ・ブルフィンチ (Charles Bulfinch) は著名な建築家でアメリカ合衆国議会議事堂の設計にも関わっている。ということは、メーソンリーかなと思ってざっと調べてみたがわからないようだ。
 「寓話の時代」が出版されたのは1855年。ギリシア・ローマ神話に模してアメリカの女神をジョン・ガスト(John Gast)が「アメリカ的進歩(American Progress)」(参照)で描いたのは1872年なので、ガストもブルフィンチの作品を読んでいた可能性は高い。
 日本での訳書に戻ると、ブルフィンチを継ぐような形でよく読まれたのがイリアスやオデュッセイアも訳した呉茂一の「ギリシア神話」(参照上巻参照下巻)だった。そういえば呉先生のラテン語入門(参照)も懐かしい。
 ギリシア神話学といえば、カール・ケレーニイ(Karl Kerenyi)が日本で注目されるようになったのも1970年代で私は当時の現代思想の特集を持っている。ケレーニイにも入門的な「ギリシア神話 神話の時代」(参照)と「ギリシア神話 英雄の時代」(参照)があるがあまり読みやすくはない。
 ギリシア・ローマ神話はある意味、気軽に読めたほうがいいという面もあり、漫画でもないのかと探すと、知らなかったが里中満智子(参照)やさかもと未明(参照)が書いている。絵にちょっとクセが強そうな感じはしないでもない。そういえば天上の虹はどうったんだろうか、と見ると、ありゃまだ完結してないのか(参照)。終わったら大人買いするかな。

cover
ギリシア神話
トロイアの書
斉藤洋
 つらつら思い出したり関連の書籍を見ているうちに、斉藤洋のギリシア神話を思い出した。子ども向けに書かれているとはいえ、あのエレガントな語りでトロイを読んでみたいものだなと思い、「ギリシア神話 トロイアの書(斉藤洋)」(参照)を読んでみた。さすがに面白い。当然ながら人物関係と神々が多く、そこが多少読みづらいのだが、それでもかなりすんなりと読めるし、アテネ神に視点を置いているのもわかりやすさにつながっている。ギリシア神話と限らないのだが神話には現代人からすると理解しづらい思考形態がある。そうしたところに、ふとアテネ神扮する斉藤洋がつぶやく。

 こう物語ってくると、すじみちがとおっているようだが、わたし自身、ひとつ心にひっかかるものがある。


 そのことについて、あれこれ考えをめぐらせると、わたしは、じつはこうではなかったのかと思う。

 独自のヘンテコな解釈をするわけでもない。物語に現代的な整合を与えるだけということもない。こっそりと読み手の子どもにギリシア神話を考えさせようとしている。斉藤洋には、他の作品でもそうだが、物語の面白さというものの背後にこっそりとメタ物語の視点を忍び込ませている。ギリシア神話もそうした新しい視点から子どもに読ませることができるという点で、こうした語り手をもつ日本語の文化は強いものだなと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2010.08.06

[映画]トロイ

 パリスとヘレンといえば、そうだブラッド・ピットがアキレスを演じていた2004年のハリウッド映画「トロイ」(参照)を見ようと思って見逃していたことを思い出し、見た。160分もあった。どうせといってはなんだけど、大人の紙芝居なのだから、もう少し短くてもよかったのではないかなとも思ったが、ブルーレイのディレクターズ・カット版(参照)だと196分あるらしい。元の話は日本でいったら大河ドラマみたいなものだから、そのくらあってもいいだろう。イリアス(参照)では、トロイ戦争はこんな短期間の戦争ではない。

cover
トロイ[DVD]
 トロイ戦争の始まりだが、ギリシア神話「キュプリア」では、主神ゼウスは戦争によって地上にあふれる人間を減らそうとテミス女神と図ったことだ。まず諍いのきっけかを作る。それには、不和と争いをもたらすエリス女神をパーティのメンツから外して怒らせることだった。エリス神は「一番の美女にこれあげるわよ」と黄金の林檎を神々のパーティに投げつけた。じゃあ、私が私が私がと殺到した三女神が、ヘラ、アテネ、アフロディテであった。ゼウスはその判定をトロイアの王子パリスに委ねた。これがパリスの審判。
 三女神はそれぞれパリスを籠絡するために供応品を示す。権力のヘラは世界の支配力を、軍神アテネは戦闘能力を、美神アフロディテは美女を、ということで、パリスは美女を選んだ。それがスパルタ王メネラオスの嫁ヘレンであった。かくしてパリス王子は人妻ヘレンをかっさらってトロイに連れてくる。寝取られメネラオスは怒り、兄アガメムノンと、嫁返せとしてトロイに戦争を仕掛ける。
 かくしてトロイ戦争の火蓋が切られるということで、「イリアス」の世界になる。ギリシア神話ではこの戦は、ヘラとアテネ女神と海神ポセイドンによるギリシア・チームに、対するアフロディテ女神と太陽神アポロンによるトロイ・チームによる神々の戦いなのだが、映画「トロイ」では、実質的な神々は登場せず、アポロン神殿と、それとちょっこっとポセイドンの名前が出てくるだけ。世界の仕組みとしては、現代人が神を思うように神は無形の信仰であり、よって奇跡的な事態も発生しない。つまり、神々を除去したギリシア神話が歴史っぽく見えるという、不思議な設定になっている。また、戦闘をコテコテ描くわりには、戦争は悲惨であり愛あふれる女は平和を求めているというというありがちの米国観が出てくる。ご愛敬。
 トロイ側では、王のプリアモスとその息子兄弟、兄ヘクトル王子とパリス王子、スパルタ側では戦士としてアキレスが登場する。アポロンの加護を持つヘクトルとアキレスの戦いで、ヘクトルが死ぬところで「イリアス」は終わるのだが、映画ではその後のトロイの木馬の故事とトロイ滅亡で王族が逃げ延びる話が描かれ、渦中、アキレスはパリスの矢に当たって射殺される。アキレス腱が弱点であった。

 この手の作品は期待してみるというのも野暮なものだし、ブラピのアキレスというのも最初は違和感があったが、見ているとブラピっていい人なんだなが滲んでくるところがあって、それはそれでよかった。絶世の美女ヘレンのダイアン・クルーガーはというと、あー、これかぁ、ちょっとついてけんわとも思ったが、見てると慣れてくる。これも美女かもとかつい思ってしまう。余談だけど、この手の造作の人、間近で見たことがあるが、ひく。
 イリアスの主人公ともいえるヘクトルのエリック・バナも、うーん、イメージ違うなと思うけど、見ていくと好演でした。トロイの王、プリアモスのピーター・オトゥールはありがちにさすがでしたね。彼のおかげでギリシアなるものがうまく表現されていた。この二人の演技でもってる映画と言ってもいいのかもしれない。パリスのオーランド・ブルームのへたれ加減もよかった。当然だが、フリジア帽は被っていない。ついでにいうと、トロイのアポロン神はミトラ神の習合で、ヘクトルはミトラを表現している面もあるのだろう。
 この作品でイリアスからいちばん逸れているとも言えるというか作品的な登場人物であるブリセイスのローズ・バーンはまあよかったが、ごく個人的な好みの問題。アンドロマケのサフロン・バロウズは良妻賢母的に描いているのかもしれないけど、背景知識を持っていると微妙にエロい感じがするのであった。
 アガメムノンは、ああ、あれだ罪作りなアガメムノンのマスク(参照)から配役が決まったのだろう。なので寝取られ男メネラオスもそれに似ている。
 日本で公開当時、塩野七生がこんなんじゃダメみたいなネタを文藝春秋に書いていたが、実際に見てみると、丁寧にイリアスの故事を追っているように思えた。考古学的な知見もそれなりに活かされている。ヘクトルとアキレスの立ち回りは現代的な味付けはあるにせよ、古典的な知見も含まれているように思え、面白かった。ヒッタイトの名前も一度だけ出てきた。
 一つの物語として見るなら、トロイ王族逃避のエンディングは不可解に見えるかもしれないが、これはローマ帝国起源の神話「アエネイス」につながるところなので、欧米的には外せないのだろう。
 娯楽映画ではあり、暴力と性が多少出てくるが、レベル的には高校生くらいであり、この映画を高校の世界史の時間に見せ、先生がいろいろ背景説明をしてあげるとよいのではないかと思った。

| | コメント (2) | トラックバック (2)

2010.08.04

フリジア帽はミトラ教の帽子

 自由の女神、マリアンヌ、コロンビアとなんとなく続く散漫な余談。

   ※   ※   ※

 ダン・ブラウン「ロスト・シンボル」(参照)の影響だろうと思うが、前二回のエントリについて、フリーメーソンや陰謀論の話をしたいのではないかと期待(懸念?)されているむきもありそうだが、私はその手の話にはあまり関心がない。
 ニューヨークの自由の女神がフランスのフリーメーソンから寄贈されたというのは史実のようだが(参照)、そのこと自体に歴史的な意味があるとも思えない。たまたまニューヨークの名物になったというだけで、そうでなければ東京大仏(参照)みたいなものになっていたかもしれない。
 この機に「石の扉―フリーメーソンで読み解く世界 (新潮文庫)(加治将)」(参照)もざっと読み直したが、龍馬伝とのからみは話題になるかもしれないが、西洋のフリーメーソンの歴史についてはほとんど記されていないなと思った。これも古い本になってしまったが、「フリーメイソン (講談社現代新書)(吉村正和)」(参照)も今見返すと妙にバランスの悪さを感じた。関連してフランス革命関連の本も見回してみたが、あまり参考にならなかった。

   ※   ※   ※

 昨日のエントリのコメント欄で、ノートルダム寺院のマリアンヌ神についてアテネ神と似ているのではないかという指摘をいただいたが、似ているのは古代的に武装する女神という原形くらいだろう。アテネ神の継承であればどこかにミネルバの梟のようなシンボルが配されているはずなので、マリアンヌ神とは直接の関係はなさそうだ。
 どちらかというとアテネ神に近いのは、その甲冑姿からして、マリアンヌやコロンビアの英国の版である国家女神、ブリタニアのだろう。見ればわかる。


プリマスのブリタニア

 とはいえ、引き連れているのはライオンだし、なにより手にしている槍が海神ポセイドンのトライデントなのでブリタニア神であることが明確にわかる。(ところでIEのレイアウトエンジンはなぜトライデントなんだろうか。また、マリアンヌの槍は実は聖槍ではないのか?)
 ブリタニアはマリアンヌの原形だろうか? 歴史的にはブリタニアのほうが若干古いように見えるが関連はなさそうだ。
 時代考証の目安としては、彼女をたたえる"Rule, Britannia!"(参照・YouTube)があるが、この作詞をジェームズ・トムソンがしたのは1740年代ごろらしい。


Rule, Britannia! Britannia, rule the waves:
Britons never never never shall be slaves.

 ブリタニア神はそのまま英国における女王崇拝に結びついていく。興味深いことに、国歌である"God Save the Queen"も"Rule, Britannia!"と同時期のものである。
 なぜ18世紀半ばのこの時期にブリタニア神が登場するのか、当然、"Kingdom of Great Britain"の成立が1707年だったというのはあるだろう。いずれにしても、英国はフランスとは異なり、国民的女神は革命の機動力ではなく、その対外的な結果、つまり"never shall be slaves"ではあったようだ。このあたりに、マリアンヌ神とは異なる英国的な自由の概念はあるだろう。
 話をブリタニア神とアテネ神の原点に戻すと、国家を女神が守るという考えはアテネ神などギリシア神によく見られる都市守護神の類型で、アテネ神の場合アテネに限定されなかったようだ。ただし、都市守護神はその後、キリスト教の守護聖人になっていく。
 近代国家というものは、従来絶対主義として見られた社団国家的な守護聖人に対立する形で古代的な国家守護神を作り出したのだろうか。気になるのは、日本でもアマテラス神が女王的に描かれる時期も同質の時代にあることだ。

   ※   ※   ※

 フリジア帽(Phrygian cap)の起源は、名前のとおりフリギア(Phrygia)、つまり現在のトルコである古代アナトリアの内陸の王国に由来する。ギリシア神話のミダス王(Midas)がフリギア人だったと言われる。
 他に、トルコといえば、トロイ戦争となる、トロイ王子パリスとスパルタ王妃ヘレンの禁じられた恋の物語だが、このパリスが西洋の美術史ではフリジア帽を被っている。典型的なのが、1788年のジャック=ルイ・ダヴィッドによる「パリスとヘレン」(参照)である。


パリスとヘレン

 考証として、1788年の作品をもってくると、まさにマリアンヌ神にフリジア帽を被せた時期と同じなので、むしろ、この絵はその当時のフランスの状況を語ってしまうとも言える。
 特に、このフリジア帽が赤いのはまさに当時のフランスを物語っているだろう。おそらく、自由=理性というのは、こうした不倫=自由な恋愛、を意味してもいたのだろう。というか、どうも、西洋における理性というのは恋愛感情を指しているのではないだろうか。普通に考えれば恋愛感情は狂気に近く理性の対極のようだが、この時代の理性は、神の秩序としての結婚から、性欲を解放する動因だったのでないか。

   ※   ※   ※

 ギリシアにとって異教のパリス王子がフリジア帽を被っているのだが、この異教はなにかと言えば、ミトラ教である。太陽神ミトラ神像もフリジア帽を被っている。


ミトラ神像

 ミトラ教は古代ローマに入り、紀元前1世紀より5世紀にかけて興隆した。実際のところ、ローマ経由のキリスト教というのはミトラ教との習合であろう。


ミトラ神レリーフ、2-3世紀

 ローマ、ミトラ、フリジア帽といえばサトゥルヌス祭が連想される。土星に配される神であるサトゥルヌス神の祭だが(だから土曜日がSaturday)、この祭のシンボルがフリジア帽であった。祭での意味づけは、ローマにおける元来の意味、つまり、奴隷からの解放であった。
 これだけでは、ミトラ教とは関係ないようだが、実は、サトゥルヌス祭は、太陽暦で基点となる冬至の祭りソル・インウィクトゥス(Sol Invictus)(参照)に接続する。これはアレキサンダー遠征でローマに入ってきたミトラ教の祭である。さらにこれが、クリスマスに変化する。奇妙な符号なのだが、サンタクロースが被っている赤い帽子は、実はフリジア帽なのである。(サンタクロースの聖ニコラスは今のトルコの出身でもある。)
 サトゥルヌス祭のフリジア帽はミトラ教の祭祀の名残であろうか?
 サトゥルヌス祭でミトラ神が意識されていたということはないだろう。だが、パリス王子についてのアイコニックな伝承からすれば、異教の信仰がまったく意識されないこともなかったのではないか。
 西洋キリスト教はギリシア・ローマを経てミトラ教を含み込むことで、その内部に、反キリスト教的な要素のダイナミズムを保持し、そのダイナミズムが近代におけるキリスト教支配への反抗として飛び出したのが、異教的シンボルとしてのフリジア帽だったのではないだろうか。

| | コメント (3) | トラックバック (1)

2010.08.03

マリアンヌとコロンビア、国家の擬人化、理性教というカルト

 昨日のエントリの続きみたいなもの。昨日のエントリも、もう少し整理してもよかったのだけど、とりあえずそこまでは書いておくかな、さてその先はどうしようかなと少しためらっていた。
 くだらない話から簡単に先につづけると、自由の女神は日本全国ラブホの象徴だろという話だが、それは知っていた。というかそれが普及するのは吉祥寺の像の移転の時期と重なるのではないか、という時代の問題の端緒として考えてみたいかなというのがあった。
 さて続きだが、「アメリカ的進歩(American Progress)」の女神について、「あるいは、これは自由の女神とは別なのだろうか。だとすると、それは何か(たぶん次回に続く)」ということだが、絵のタイトルのなかに答えは隠れている。

 「アメリカ的進歩」と訳すと誤訳ではないがわかりづらくなる。"American Progress"は、「アメリカなるものの前進」で、この女神がアメリカなのである。もちろん、それは象徴としてということなのだが、少し踏み出して言うと、この女神の名前がアメリカ、というか、国家を国家たらしめる精神が女神なのである。
 これはドラクロアの絵の女性、マリアンヌがフランスであるということと同じ仕組みだ。これも踏み出して言うと、あの女性の名はフランスで、愛称がマリアンヌといった感じだ。
 では、アメリカの女神の名前はということ、これはコロンビア(Columbia)(参照)である。コロンブスから女性の名に見立てたものだ。現代日本風に言えば、萌え擬人化である。
 "American Progress"の女神がコロンビアであるという実証はなにをもってするか難しいが、常識的な理解として十分言えることはウィキペディアにもあることでわかる。


In this painting (circa 1872) by John Gast, called American Progress, Columbia, in the implementation of Manifest Destiny, leads civilization westward with American settlers."

"American Progress"、コロンビア、と呼ばれるジョン・ガストのこの絵(1872年頃)は、「明白なる運命(Manifest Destiny)」のもと、アメリカ移民の西部開拓を導いている。


 同様な常識は、コロンビアについて、VOAの教育リソースでは、アンクル・サムに続けて、こう説明している(参照)部分でも見られる。

But a softer and more nurturing figure was once America's favorite icon. She was Miss Columbia, a goddess of freedom whose regal bearing projected America's positive ideals and poetic nature.

しかしより温和で育む像がアメリカの好まれる像としてかつてあった。彼女は、ミス・コロンビア、自由の女神である。彼女の颯爽とした容姿はアメリカの積極的な思念と詩的な本性を表している。


 現代米人に、ごく普通にコロンビアが"a goddess of freedom"と理解されていることを示している。もっともこの問題は、歴史的にイメージの生成を追いながら見ていくと、味わい深いものがある。
 コロンビアが意識された年代がいつかだが、初出からみると1738年らしい(参照)。1740年代にはある程度広まっていたと見てよさそうだ。つまりフランス革命よりも前であり、マリアンヌが生まれるのと類似の土壌であるとしても系統は異なる。この時代意識の背景だが、どうも「ガリバー旅行記」がありそうだ。
 コロンビアとマリアンヌの違いは、ニューヨークの自由の女神設立の時点で意識されていた。先のVOAより。

In 1886, sculptor Frederic Bartholdi's monumental Statue of Liberty rose in New York Harbor — a gift of the French people. The copper Lady Liberty looked a lot like Columbia, though she wore a spiked crown and held high a torch of welcome.

1886年、ニューヨーク港に、フランス国民の寄贈としてフレデリク・バルトルディによる自由の女神像が建造された。この銅像はコロンビアに多くの点で似ているが、棘付き王冠や歓迎トーチを掲げる点で異なる。

She fired Americans' imagination, and pretty soon she had elbowed Miss Columbia out of most illustrations.

彼女がアメリカ人の想像力を喚起し、建造後遠からず絵画の面ではミス・コロンビアを押しのけた。

One of Columbia's final, though most enduring, appearances came in 1924, as the logo of the Columbia Pictures movie studio, though this Columbia borrowed Lady Liberty's torch.

その後もコロンビアの画像は生き延びるが、最終的なコロンビアの形態は1924年のコロンビア映画のオープニング・ロゴである。これはコロンビアとはいえ、自由の女神のトーチを借りている。

 1924年時点のここまでの像になると、コロンビアとニューヨークの自由の女神のアイコニックな意味合いでの差違はほぼないと言えるまで融合している。
 その間に、マリアンヌとコロンビアの過渡的な形態もある。ポール・スターの第一次世界大戦中のポスターが興味深い。


Be Patriotic, Sign Your Country's Pledge To Save The Food by Paul C. Stahr

 コカコーラの広告みたいな印象だが、過渡的な特徴は彼女がフリジア帽を被っていることからわかる。しかもこのフリジア帽が、ニューヨークの自由の女神の王冠の棘を模した五芒星をあしらっている点も特徴的だ。スターはこのモチーフが気に入っていたようでもある(参照)。コロンビアのその他の変遷は「YouTube - Columbia: American Goddess」(参照・YouTube)が各種集めていて面白い。
 ところで、ここまで日本の慣例として「自由の女神」と表現してきたし、VOAに"a goddess of freedom"ともあるから、まったく和製英語ともいえないが、ニューヨークの自由の女神は、"Liberty Enlightening the World"であり、簡素に言うと"Statue of Liberty"である。ドラクロアの絵のほうも、"La Liberté guidant le peuple"であり、国民を導く自由、ということで、これらに「女神」なる呼称というか、解釈もない。ではなぜ「女神」なのか。日本人がそう解釈したからなのか。
 答えは、そもそもLibertyが「自由」という概念ではなく、自由という女神だからということだ。起源的には、ローマ神話のリベルタス神である。もっとも、リベルタス神は、自由というものの権現と見なすこともできるが、重要なのは、リベルタス神の実体的な信仰が存在したことだ。これがなぜか、西洋近世において、復活したことにある。
 端折って言うと、マリアンヌとはリベルタス神であり、その性が女性だったということなのだが、ここでやっかいなのは、この近世のベルタス神復活における「自由」の意味は、ローマ時代のそれではなく、「理性」と同義になっている点だ。当然、日本語でいう「自由」とはかなりかけ離れた概念でもある。
 これがフランスという乳房を持つ国民国家から国を超えたとき、理性のシンボルであるトーチが強調され現れる。
 自由=理性=光、そして、これが理性=光=電灯線という技術を介して侵略となるところでコロンビアが変成する。ガストのコロンビアはトーチとして電灯線を持っているのである。

 マリアンヌに戻ると、このマリアンヌ神は、自由の権化であると「理性」による至高神でもある。あるいは、理性という神に従って破壊を行うことが自由という意味であった。
 マリアンヌは理性教というカルトの神なのである。いや、これはまったく冗談ではない。"Le culte de la Raison""Le culte de l'Être Suprêm"(参照)、つまり「理性のカルト」「至高存在のカルト」である。
 理性教というのは、カルトとして出現し、そのカルトが国家したのものがフランスでありアメリカであった。
 実際に理性教という宗教の祭典も1794年に実施された。ノートルダム寺院も一時期だがキリスト教が廃されてマリアンヌ神を崇拝した。


Fête de la Raison ("Festival of Reason"), Notre Dame, 20 Brumaire (1793)

 マリアンヌ神の図像も興味深い。

 当然マリアンヌ神はフリジア帽を被っている。手には槍をもちその暴力性を示している。また、トーチはその神の前に置かれている。
 "ALA PHILOSOPIE"も興味深い。これは、フィロソフィーが至高に至る門に掲げられている。つまり、「哲学」の意味合いもいわゆる哲学ではなく、むしろ、哲学は理性教なのである。
 マリアンヌ神と理性のカルトは、ぶっちゃけていえば、1848年の2月革命・3月革命を経て、マルクス主義に内包されていく。そしてエンゲルスによって「理性」は「科学」に書き換えられる。科学的でないものは、暴力的に攻撃することが理性教カルトの継承の特徴であり、それは後の歴史にも継承されていく。今でもそうなのかもしれないが。
 コロンビアのほうは、先に触れたように、「明白なる運命(Manifest Destiny)」を実現していく。これが第一次世界大戦中を経て、第二次世界大戦にまで続く。スターンのコロンビアのセクシーなイメージから類推するのだが、その後は、1953年にへフナーが創刊したPLAYBOYのプレイガールズとなっていったのではないか。ドラクロアのマリアンヌ神がトップレスなのは、母性のシンボルであったが、コロンビアもその時期からは母性・あるいは女性性なくしては、「明白なる運命」の実践が難しくなったのだろう。

| | コメント (5) | トラックバック (1)

2010.08.02

あいまいな記憶と歴史の中の自由の女神

 記憶は歴史に似ている。あるいは歴史は記憶に似ている。結局、歴史とは記憶のことではないか。記憶には間違いがあるし、不明瞭な部分と錯覚もある。歴史もそう。いやいや、難しい話をしようとしているのではない。自由の女神について、このところ考えていたことを話をしてみたいだけだ。出だしはいたってくだらない。
 下り中央線で吉祥寺の駅に入る手前、南側、比較的駅の近くに自由の女神の像が見えたものだった。何年前だろうか。私が学生時代にあったころだろうか。見かけるたびに、なんでこんなところに自由の女神があるのかと疑問に思った。
 そこで記憶が定かではない。最初からあれはソープランドのしるしだと知っていた。そしてまた記憶が不確かになる。ソープランドと呼ばれるようになったのは、いつだったっか?
 以前はトルコだった。トルコ風呂である。が、ハマムではない。アングルのトルコ風呂(参照)の影響かもしれない。風俗店である。実態は、残念ながら無粋者の私は、知らない。改名はいつだったか。1984年、東京都特殊浴場協会の公募したらしい。私はもう社会人になり、パソコン通信を始めていたころだ。
 とすると、私の学生時代は「トルコ」だったのだろうか。そういえば、1990年初頭でも、「トルコに行った」と語ると、周りの大人が、おお、それはよかったね、と声をかけてくれたものだった。アンカラの話などできる雰囲気ではなかった。
 吉祥寺のソープランドは今でもあるのか。検索してみると、ここではないかというのがあった。角海老グループの経営らしい。そういえば以前、その方面に詳しい知人が角海老宝石ボクシングジムについて、長い説明をしてくれたことがあった。が、興味がないので内容は忘れた。
 そこに自由の女神はもうない。

 私の記憶でも、その後吉祥寺駅北側に移動していた。ちょうど中央線で折り紙を折ったような地点だった。移動ではなく別の新設かもしれない。
 いずれにしても、吉祥寺駅北側の自由の女神はどうなったのか。そのあたりとおぼしきところをストリートビューで探していて、見上げると、あった。

 ホテル・ニューヨークというのの上に立っている。ニューヨークという名前にちなんで持ってきたのだろうか。これを看板にするためにホテルの名が付いたのだろうか。今では南側のビルに隠れて、中央線側からは見えづらい。
 ところで自由の女神だが、原形は、ニューヨーク港内、リバティ島にある、あれである。私は現物は見たことがない。見に行こうと思った年にいろんなことがあった。
 物思いにふけりつつ、ニューヨークの自由の女神の写真を見ていて、ふと、あれ?と思った。なんで今まで気がつかなかったか。いや知ってはいたのだが、記憶に問うたことはなかった。
 ニューヨークの自由の女神は、とげとげの王冠をしている、ということは、つまり、フリジア帽を被っていない。えええ!?
 横から見た写真はないかと探すとそれなりのがある(参照)。やはり、フリジア帽は被ってない。王冠というよりヘアバンドのようになっている。
 そのあたりから私の歴史認識と記憶の混乱が始まる。
 自由の女神はいつできたのか。米国の独立百周年記念でフランスから贈呈されたものだ。完成したのは1886年だった。フランス革命からけっこう経っている。そんなに古いものでもない。
 イメージの近い原形となるフランス革命の自由の女神のイメージといえば、ドラクロアの「民衆を導く自由の女神(La Liberté guidant le peuple)」だろう。トップレスはさておき、この女神、つまり、マリアンヌ(参照)なのだが、頭の部分を見るとわかるが、スマーフ(参照)のようにフリジア帽を被っている。

 そこでまた私はあれれれ?と思う。この作品は1830年。そう、7月革命だ。ウィーン体制後の世界である。というか、1789年のフランス革命を記念して7月14日が祝日となるのは、1880年のこと。フランス革命というのは、事後の歴史が地味に創作していった物語なのではないか。
 気になるフリジア帽だが、ご存じのとおり、職人などサン・キュロットの出で立ちである。革命の象徴でもあり(参照)、起源はローマ時代に遡る。解放された奴隷の象徴でもあった。
 ここでもまた、あれれ?と思う。もしかして、マリアンヌにフリジア帽をかぶせたのは、ドラクロアが最初だっただろうか。気になった。
 調べてみると、国民公会は、1792年、マリアンヌの像にはフリジア帽をかぶせろ(参照)としている。ドラクロアはむしろその自然な流れにあったと見てよさそうだ。ここで、私は、あることに気がついて、愕然する。現代のマリアンヌである。
 フランス政府のシンボルは、フランス政府のサイト(参照)に付いている。サイトの上部にある、フランス国旗の配色で白い女性のシルエットにしたものだ。

 マリアンヌである。ということは、これ、フリジア帽を被っているのではないだろうか。政府サイトではよくわからないので、該当部分を拡大してみる(参照SVG)。

 これ、被ってますよね、フリジア帽。うひゃあ。
 フランスって、イスラム教徒にスカーフを被るなと言いつつ、自国政府のシンボルにフリジア帽被せてんじゃないだろうか。
 ニューヨークの自由の女神に戻ると、これにはフリジア帽がない。米国において、フリジア帽が軽視されていたかというと、そんなことはない。米陸軍のシール(参照)に描かれていたことでもわかるし、1986年以降の地金型銀貨アメリカン・シルバー・イーグル(参照)でもフリジア帽のマリアンヌを刻んでいる。
 しかし、と、ここで私は変な絵を思い出す。ジョン・ガスト(John Gast)が描いた「アメリカ的進歩(American Progress)」(参照)である。西部開拓を自由の女神が推進していくというテーマなのだが、現代から見ればかなり気持ち悪い代物だ。

 この女神の頭部なのだが、五芒星が一つ付いているが、フリジア帽は被っていない。

 この作品の年代はいつだったのだろうかと見ると、1872年である。つまり、この絵の女神はニューヨークの自由の女神よりも古い。ドラクロアのマリアンヌを知らなかったのだろうか。それとも、アメリカ的自由の女神というのは、マリアンヌとは別の系統を持っているのではないだろうか。あるいは、これは自由の女神とは別なのだろうか。だとすると、それは何か(たぶん次回に続く)。

| | コメント (5) | トラックバック (1)

2010.08.01

[書評]本格折り紙―入門から上級まで(前川淳)

 「本格折り紙―入門から上級まで」(参照)という書名に「本格」とあり、語感としては"authentic"もあるが、実際の内容は、総合的・包括的・体系的と言えるかもしれない。おそらくこの本が現代折り紙に関するものとしてもっとも優れた書籍だろうと思う。

cover
本格折り紙
入門から上級まで
前川淳
 掲載されている作例は多いとは言えない。伝統折り紙や多面体形成のユニット折り紙についての言及はあるがその作例は少ない。現代折り紙の世界で国際的にも評価の高い「神の手」こと吉澤章(参照)についても参照はされているが特別な扱いはいない。むしろ、そうした部分をあえて除くことで、折り紙本来の原理性をくっきりとさせている。
 著者自身「いわば、作品の紹介を通した、折り紙の教科書です」としているが、実際に折り紙の技術と体系が理解できるように、入門編から上級編まで階梯的に説明されている。
 パズルを簡単なレベルから難関レベルに進むようにも読めるし、上級作品を作るために身につけておかなければならない基礎技術をステップごとに習得できるようにもなっている。折り紙好きの人にとっては、著者を有名にした、表紙写真にもある「悪魔」を作りたいということがあるのだろう。たしかに、これは非常に魅力的な作品だ。

 とはいえ私自身はというと、そこまでの情熱はなく、折に触れて読みながら、ところどころ感心するくらいだ。個人的には、本書購入動機の一つでもあったが、江戸時代の連鶴に関心があった。連鶴は切り込みを入れた折り紙を使って、一連につながった鶴を折ったものだ。原形は、桑名・長円寺住職・義道、号は魯縞庵が考案した連鶴49種含め、秋里籬島が編集した狂歌集「秘傳千羽鶴折形」によるもので、同書は1797年(寛政九年)、京都・吉野屋為八から発行された。同書は、長く忘れられていたが1957年に吉澤章が見い出して発表し、有名になった。私が子どものころテレビ番組でなんどか見かけた。


花見車
志賀寺の上人さへも其むかし花見車の内に恋草

 「清少納言智恵の板」(参照)が出版されたのは、1742年(寛保二年)であったが遊女などが同パズルを遊んでいたのは1780年代と推定されるから、連鶴の時代と重なるだろう。
 「秘傳千羽鶴折形」を見ると、本書「本格折り紙」の特徴でもある設計図・展開図の発想もすでに見られ、興味深い。
 本書「本格折り紙」にはその他にも興味深い作例がある。一番心惹かれたのは、入門編にある「変形折鶴」である。単に別の作り方を考案したというのではない。折り鶴を投げてて飛ぶように重心と浮力を考慮して設計されているのである。投げると、飛ぶのである。発想のきっかけとまでは書かれていないが、千葉紘子「折鶴」(参照YoutTube)の言及もある。「まだ覚えていた折鶴を今あの人の胸にとばす夕暮れどき」である。
 作例はそう多くはないといいつつ十二支はさりげなく含まれているし、雛人形も美しい。実用的というのもなんだが、ティーバッッグの紙を使った立体的なトナカイの作例もある。
 実際に中級くらいの作例を手順通りにきちんと作り、できあがってみると、存外に満足感があり、楽しいものある。


| | コメント (2) | トラックバック (1)

« 2010年7月 | トップページ | 2010年9月 »