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2010.08.23

[書評]ヒストリエ 1-6(岩明均)

 こんな面白い物語を読んだのは何年ぶりだろう。「ヒストリエ(岩明均)」(参照)は、たまたまブックマークコメントで知った歴史物のマンガだった。

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ヒストリエ(1)
 扱っている時代は、私が関心を持っているアレキサンダー(アレキサンドロス)大王とおそらくその死後である。主人公は大王の書記官となるエウメネス。面白いところに目を付けたなと思い、とりあえず一巻目(参照)を買って読んでみた。この時点ではそれほどの期待はしていなかった。
 冒頭いきなりスプラッタなシーンで始まる上、背景となる物語は一巻の終わりで回想シーンに接続するため、スターウォーズエピソード4から1に戻るような印象もあった。巻頭から登場する主人公エウメネスと他の登場人物の関連も多少つかみにくい。エウメネスのキャラクターもシニカルで冷たく、描画上もいわゆる主人公らしさは薄い。私など、カルディア包囲の指揮官に「あれがマケドニア王だったんじゃないかのかなァ」というエウメネスの台詞に「そうかぁ?」とひっかりをもったりもする。
 たまたま私が読み終えた一巻を他の人が読んでいたので、「どう? それ面白い?」と聞いてみたが「一巻だけではわからない」と要領を得なかった。カルディア攻略の話は歴史好きには面白いが、普通に物語として一巻目を読むならそう思うかもしれない。
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ヒストリエ(2)
 だが巻を読み進むにつれてじわじわと面白さがわかってくる。先の「マケドニア王か?」とする推測の台詞もそうだが、物語の多重な伏線の一つであり、特に冒頭シーンを回想の終わる五巻以降につなげて読み返すと、歓声を漏らさざるをえないトリックが一巻の随所にあったことがわかる。ものすごく巧緻な物語だ。マンガという形式やいわゆる歴史物といった分野を超えている。
 一巻目ではそれほど特徴も感じられなかった主人公エウメネスのキャラクターも二巻からぐっと深みを増す。それどころか、近代的な歴史物語では禁忌になりつつある、民族というもののもっとも恐ろしい本質が主人公を突き抜けて出現してくる。エウメネスがこの物語でスキュタイ(Σκύθαι)人として設定され、随所スプラッタなシーンがあるのも、そうした恐ろしい領域へ表現の補助なのだろう。
 恐ろしさといえば、六巻(正確には五巻)の王子アレキサンドロスと王妃オリュンピアスの伏線もわくわくとさせる。六巻の扉に血塗られた剣を持つ全裸のオリュンピアスが描かれているが、六巻にそのシーンはない。
 
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ヒストリエ(3)
 その他の女性の描写も巧みだ。歴史物では、小説でもマンガでもそうだが、女性のキャラクターはステレオタイプで描かれるか、いかにも特異なキャラクターとして描かれがちがだ。だが、この作品では女性というものの特徴と多様さがにじみ出るように描かれている。ああ、女ってこういうもんだなと思う。若い人の恋の描写なども、なかなか若い人にはこうは描けないだろうなという深みもある。
 現在刊行されているのが六巻まで、過去の推移を見ると年に一巻出るくらいのペースのようだ。どう推測しても二〇巻で終わりそうにはない物語なので私など完結を読むことができるかなという不安と、このままこの高い構成力が維持できるのかという懸念の二つが錯綜する。
 ネタバレしない程度に少し話を追ってみよう。
 いわゆる歴史物語として見るなら、六巻に至ってまだ始まっていない。こういうのもなんだがエウメネスという人間は歴史的にはフィリッポス2世とアレクサンドロス3世の親子が亡くなってからの人物である。その活躍は歴史的には面白いが、その少年時代・青年時代を描いても特段に面白いとは思えないものだろう。
 だが、そこをあえてオデッセイとスキュタイの伝説を交え、智恵はあるが歴史の残虐に耐えそうもない少年を、まさに冷徹に歴史に引きずり出すところにこの物語の巧みさがある。それは、どこかしら戦後の日本人がもつある種の薄気味悪さにも通じる。読みながら、エウメネスは私なのだという無意識な同意の情感が伝わる。
 一巻目の巻頭で、トロイ遺跡の海岸に青年エウメネスが立ち現れ、蛇の装飾品を拾う。なぜ彼はここにいるのか。なぜ蛇の装飾品なのか。彼は対岸の故地、カルディアを訪問しようとしている。蛇の装飾は渡海に利用される道具でもあるのだが、物語すべての象徴でもある。それは五巻末の王子アレキサンドロスと六巻目の王妃オリュンピアスの登場まで伏せられる。
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ヒストリエ(4)
 一巻目のトロイの海岸でエウメネスは哲人アリストテレスに会う。アリストテレスは歴史上、王子アレキサンドロスの教師であることは常識の類でもあるが、ここではペルシャのスパイとして追われている。追っ手はギリシャ風男装の女、ペルシア帝国トロイアス州総督妻バルシネである。彼女は、エウメネス青年が海岸で渡海の用意をしているところで、その裸身の上半身に傷跡を残す背中のアフラマズダーの飾りを見つける。バルシネの物語は六巻でも始まらない。
 渡海後エウメネスは故地カルディアを訪問するが、市の城壁は閉ざされ、マケドニア軍に包囲されて、市内に入ることはできない。そこで一計を案じ、右目を失っている、アンティゴノスと名乗る商人らと市内に入る。
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ヒストリエ(5)
 市内では自分が育った家は廃墟になっていた。そこから物語は、なぜエウメネス青年がカルディアを追われたかという、幼年期から少年期の回想になる。エウメネスは歴史上、ヴィンチ村のレオナルドのように地名を冠して「カルディアのエウメネス(Eumenes of Cardia)」と呼ばれるため、エウメネスの物語はカルディアを起点とせざるを得ない。上手な筋立てである。
 カルディアから放擲された後の、少年エウメネスの胸を抉り取るような苦悩と冷徹さの物語は二巻、三巻、四巻と続く。ここは、まったくのフィクションである。エウメネスがスキュタイ人であるというのも創作でしかない。だが、このフィクションは読み進めるほどに、「なるほどエウメネスという人物の謎はこのように設定するしかなかったのだろう」という、ある理詰めの推定に納得させられる。物語の進行もだが歴史的な想像力としても面白い部分だ。
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ヒストリエ(6)
 五巻目で少年時代の回想が終わり、六巻目では青年エウメネスがマケドニアに仕えるべく、ギリシア北部の王都ペラに向う。そこからはマケドニアの物語になる。アレクサンドロスやオリュンピアスが登場する。
 私はそのペラに行ったことがある。王宮を思わせる遺跡やギリシャとはまったく異なる様式の墓などを見て回った。もし前世というものがあるなら、ここに来たことがあるなという不思議な印象を持った。


マケドニア王都ペラ

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コメント

いまさら岩明均が面白いと言われても、だいぶ遅れているとしか言いようが・・・。

投稿: みかん | 2010.08.23 17:42

黒岩氏は精密に構成した作品を書かれ続けています。
また、主人公は大ヒットした寄生獣でも主人公はエウメネス同様、ブログ主の仰る如く特徴のある人物ではありませんでした。

じっくりと見ていると面白くなりそうな作品が多いのですが、例えば、正確な作品名を失念しましたが(七夕の郷だったかな?)戦国時代の末裔のお話など、短期で切られたと思われる作品が多いのが残念です。

ヒストリエについては作品では「スキタイ」との表記だったと思いますが「スキュタイ」とこだわられるのは不思議です。

投稿: YY | 2010.08.23 22:47

今まで読まれていないことが意外でした。
後世、歴史について資料考証の系譜が途絶えたところにこの漫画だけが残れば、この漫画が第一級資料ということになるかも、とか読んだときは思いました。

岩明均には、関東の名門佐竹家が戦国の家風から幕藩体制下の新発田藩へと変わっていく様を描いた短編があります。これもお勧めです。

投稿: KU | 2010.08.24 15:35

 かなり昔ですが、「若き英雄」(河津千代 著)というアレキサンダー大王を巡る本が読書感想文の課題図書となったことがあり、ある年代の者にはこの大王の名は不思議な感慨を喚起するものがあります。
 岩明氏の作品は、ストーリー自体のスペクタクルに関わらず、不思議な静謐感があって、謎解きでも、フィクションでもない「歴史」を提示してくれる貴重な作風と感じています。

投稿: Idyll | 2010.08.27 10:16

幸村誠『ヴィンランド・サガ』(http://kc.kodansha.co.jp/content/top.php/1000000195)はまだお読みでないでしょうか。

投稿: zoffy | 2010.08.30 00:13

>みかんさん
いやぁ、finalventさんの年齢で当世漫画事情で詳しかったら、世間一般的には奇異に写るモノなのではないでしょうか、一般的に考えて。

岩明均の漫画というと、あの「目」をすぐ考えますね。鋭角な、力強いけど、何かが抜け落ちてる。
アレなんなんでしょね。色々と形容する言葉は浮かびますけど、あの「目」を見た時にゾワッとする感覚ってまさしく「名状しがたい」ってな具合です。

投稿: BPM280 | 2010.09.16 23:49

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