サミュエル・ハーネマン(Samuel Hahnemann)
医師サミュエル・ハーネマン(Christian Friedrich Samuel Hahnemann)は 、1755年4月10日、現在のドイツ、ザクセン州マイセン郡に生まれた。11日だったという異説もある。なお、ドイツ語読みではザムエルだが、英米圏での話題が多いことから英語読みとしておく。
サミュエル・ハーネマン |
サミュエルの父は画家でもあり、また親族にはマイセン磁器の絵付け師も多かった。だが彼は芸術の道には進まなかった。子供の頃から語学の才能があり、英語、フランス語、イタリア語に習熟した。ギリシア語やラテン語は当然できた。さらにアラビア語、 シリア語 、ヘブライ語、カルデア語までにも通じていた。
医学に志し、ライプチヒやウィーンで学び、最終的にエアランゲンのフリードリヒ・アレクサンダー大学で優秀な成績を修め、1799年、医学博士(MD)の称号を得た。
1781年、ザクセン州の銅鉱山地区マンスフェルトの村巡回医師となり、翌年薬屋の娘ジョアンナ・ヘンリエッテ・キュヒラーと結婚した。新郎は27歳。後9人の娘と2人の息子を持つようになる。
彼は夢をかなえて医者になったのだが、しばらくして医者を辞めたいと思うようになった。医療に押さえがたい疑問を持つようになったからだった。良心的な彼は医療が、治療の効果より危険のほうが多いことを知っていた。これでよいのだろうか。
では、当時の医学とはどのようなものであったか?
当時、1780年から1850年の主流の医学では、英雄的医療(Heroic medicine)と呼ばれる医療が実施されていた。主要な治療法は瀉血である。もっとも効果的なのは、静脈を切り取る方法だ。一回に1パイント(0.47リットル)の血を捨てる。これに使われたのが、両刀のメス「ランセット(lancet)」である。権威ある医学誌はここに名前の由来を持つ。
英雄的医療の提唱者の一人は、合衆国建国の父でもあり、米国医学の父でもあるベンジャミン・ラッシュ(Dr. Benjamin Rush:1745-1813)である。おかげをもって、ジョージ・ワシントンは当時最高の医療を受けることになった。こんな感じ。
大統領の職を辞していたワシントンは、1799年12月14日、激しい喉の痛みを訴えた。それで、1パイント瀉血。状態は好転せず。さらに、1パイント瀉血。なお好転せず。3人の医師が討議して今度は一気に、1クオート(1.14リットル)瀉血。ワシントンは脱水症状を起したが、ドロドロの血液を絞り出したと医師たちは満足した。治療は成功したが、そのままワシントンは死亡した。
なぜそんな恐ろしい医療をしていたのか。当時の正統医学ではあらゆる病状は悪い血液から起こるとされていたためだ。ラッシュはすぐれた医師でもあり、医師の倫理感も強かった。「息があり、手が動くかぎり治療を尽くしたい。瀉血をやめるくらいならランセットを握ったまま死を選ぶ」と語った。瀉血療法が死亡率を上げていることに感づき医療過誤ではないかとした者も裁判で打ち負かした。まさに英雄であった。米国の医師の四分の三を育てた。みんなせっせと瀉血した。
身体の毒を出すために、瀉下も広く行われた。下剤である。甘汞つまり塩化第一水銀(Hg2Cl2)が広く用いられた。流涎。つまりよだれがだらだらとなるまで塩化第一水銀を飲ませるのが指針であった。現代医学からすれば、それは水銀中毒の初期段階なのだが、当時は科学的に正しい治療であった。
その他、嘔吐剤や発汗、皮膚火傷で水疱を作るといった治療もあった(参照)。耐えるほうも英雄である。ワシントンは瀉血以外にそうした治療も受けていた。
こんな医療でよいのだろうかと、正統医学に疑問をもった人もいた。科学的な医療に疑問を持つことなど、近代理性の時代、許されるわけもない。当然、薬草を使った治療などは魔術や呪術の類に扱われた。
サミュエル・ハーネマンも、こうした医療に疑問を持ったのだった。悩んだ。そして医者を辞めて、得意な語学を活かして翻訳家で食いつなぐことにした。それと、サミュエルには、当時流行の思想の影響もあった。日本では鈴木大拙訳で紹介されたスエーデンボルイの思想である。そこでは、癒しとは神と自然の技とされていたのだった。
翻訳者としてサミュエルが最初に着手したのは、スコットランドの化学者ウィリアム・カレン(William Cullen)が記した「A Treatise on the Materia Medica(薬物論)」のドイツ語訳であった。翻訳をしながら、サミュエルには疑問が浮かぶ。これらの薬物は臨床で利用されたのだろうか? 少なくとも健常者にどのような薬理作用をもたらすかという知見があってしかるべきではないのか? それでは、とサミュエルは思うのだ、まず、手始めに自分の身体で人体実験。冗談ではない。
マラリア対処に利用されるキニーネ(参照)のもとになるキナの木の皮を飲んでみた。苦み成分で健胃剤であろうと医学を極めたサミュエルは思っていた。が、実際には、熱が出た。な、なにゆえ?
それからいろいろ試してみた。薬物のよからぬ作用はその薬物が適用される病状に似ていると思うようになった。もしかして、逆に特定の病気については、類似の症状をもたらす薬物を施せばよいのではなかろうか? 古代から伝わる秘密、引き寄せの法則みたいなものである。
そういえばとサミュエルは思うことがあった。薬物投与をすると、一定の効果の後に逆の症状が出る。例えば、アヘンを投与すると多幸感になるがしばらくすると逆に抑鬱状態になる。これは、もしかして、人間の身体が薬物の影響を均衡させようとする仕組みを持っているからではないか。
であるなら、サミュエルは考え続けた、病気に抵抗する自然治癒的な力を引き出すように類似症状をもたらす薬物を投与すれば治療になるのではないか? 1796年、ドイツの医学誌にこの知見を発表し、1810年、「Organon der rationellen Heilkunde(医療技法の原理)」を著し、新しい医療を提唱した。
サミュエルの新医療は、英雄的医療の時代のただ中に静かに医師たちの間に広まっていった。サミュエルも静かに名声を高め、そして人生の成功者として多くの富を得て、さらに医者の不養生ともならず、88歳まで生きた。亡くなったのは1843年7月2日である。晩年は1835年から住み着いたパリであった。その前年治療を通して知り合うことになった34歳のフランス貴族家系の女性メラニーと80歳で再婚した。
サミュエルの医療が米国に伝承されたのは1828年のことである。1836年、フィラデルフィアに専門の医科大学、ハーネマン医科大学が設立され、1840年代には主要著作が英語で読めるようになった。この時代、米国で広まったコレラについて、彼の医療で救われたという評判も高まった。
米国での指導者はコンスタンチン・ハリング(Constantine Hering:1800-1880)であった。彼もドイツ、ザクセン州に生まれ、医学を志すなか、サミュエルの新医療に出会い、サミュエル自身とも個人的なつながりも得るようになった。1833年にペンシルベニア州に移住した。ハリングは、それから現代人に恩恵を残すことになる。
それは不思議な物質だった。イタリアの化学者、アスカニオ・ソブレロ (Ascanio Sobrero)は爆発力の強い液体を合成した。一滴でドッカン。ニトログリセリン。後にアルフレッド・ノーベルが爆薬として実用化することになるが、ソブレロ自身はこれは危険すぎて爆薬にも使えないだろうと残念に思った。しかしまあ、作ってみたんだから、ちょっと試食、というわけではないが嘗めてみた。グリセリンなので甘いとでも思ったのだろうか。するとこめかみがズキズキとした。ほぉ。
後にハリングも嘗めてみた。1849年のことだ。ずきずきする。これは使えると、ハリングは思った。仲間とも試してのち、1851年ドイツでこの知見を発表した。ハリング自身は狭心症状緩和の薬を意図していたわけではないが、他の研究者の成果もあり、やがてこれが狭心症状緩和として広く利用されることになった。機序が解明されたのは2002年のことである。
サミュエルの新医療は、しかしながら、米国に根付くことはなかった。英雄的治療の医師たちは、米国医師会(AMA)を結成し、1887年次のような医師の倫理条項を定めた。
But no one can be considered as a regular practitioner, or a fit associate in consultation, whose practice is based on an exclusive dogma, to the rejection of the accumulated experience of the profession, and of the aids actually furnished by anatomy, physiology, pathology, and organic chemistry.医療で蓄積してきた経験を拒絶し、排他的なドグマに基づく治療を行う者は、正規の医師、または診察助手にふさわしいものとは認められない。正しい医師は、正しく解剖学、生理学、病理学と有機化学に依っている。
「排他的なドグマに基づく治療(practice is based on an exclusive dogma)」とは、米国に根付こうとしていたサミュエルの新医療であった。1855年には、サミュエルの新医療を併用する者は米国医師会から除名されることになった。規定違反者へは告訴も行われるようになった。違反病院のボイコットも推進された。正しい医療のためには、なんだってやるというラッシュの英雄的精神は生きている。
しかし、幸いというべきか、英雄的医療も終わりの時代を迎えていた。瀉血と塩化第一水銀による瀉下から、アヘンによる麻酔治療に移ってきていた。サミュエルの医療の時代も実は自然に終わりを迎えていたのかもしれない。
サミュエルの医療は地球上から完全に消えたわけではない。英国を経由してインドやスリランカに残った。私がコルカタに旅行したときだが、現地の人がその筋の医者に行くのだけど君もいらっしゃいといって、ついでに診てもらった。医師は僅かに瞑想して、私の不具合を言い当てたのには驚いた。お薬を出してもらいましょうかと誘われたけど、私は、正統医療しか信じないのでお断りした。
他の地域でも、サミュエルの医療が生き延びているという主張もある。しかし、サミュエルの医療では、懇切で長時間にわたる問診が不可欠なのである。そうした重要な部分が割愛されたり、問診が可能とは思えない対象者へと拡大しているなら、それはもはやサミュエルの医療とは言い難いだろう。
参考
「代替医療のトリック(サイモン・シン、エツァート・エルンスト)」(参照)
「人はなぜ治るのか(アンドルー・ワイル)」(参照)
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コメント
ん?
ホメオパシーの人?
投稿: 774 | 2010.07.18 00:49
20世紀の医学や常識も、22世紀になると、問題外になる話が多そうですね。こういう話を聞くと。
私なんか、仏説と末那識の関係ですか、仏説をたくさん薫習することでエゴイズムの源泉の認識原因が解体していくという、正聞薫習の唯識説なんかは、医療と教育(の生産性向上のため)に活用できないものだろうかと考えていますが。
薬師寺のお坊さんたちは、世親菩薩の唯識三十頌を毎日声に出して唱えているそうですけど、横山紘一先生や竹村牧男先生は、毎日、ちゃんと声に出して唯識三十頌を唱えてらっしゃるんでしょうかね。サンスクリット原典やチベット語訳をローマ字表記で読んで含意がわかればよしとして研究してらっしゃるんじゃないかと疑ってます。ああいうものは、暗誦できないと話にならないもののようです。もちろん、唯識三十頌位は暗記しているでしょうけれど。
毎日朝風呂につかって、晩酌して酒飲まないと、唯識論の研究ができないなんていうのは、本来の仏教の研究者のあり方からは、少し外れているのではないかと思うのだけれど、お坊さんが妻帯していないほうが変な風に見られる世の中だから、まあ、それでよろしいのかもしれません。
投稿: enneagram | 2010.07.18 05:07
失礼します。
7月9日付けの読売新聞記事に関連して書かれたと思いますが、何故、今この内容なのかも書かれた方が宜しいのではないですか?
投稿: YY | 2010.07.18 05:38
問診が可能とは思えない対象者
という部分が気になりました。単純に言葉通りに物理的にと、とらえて良いのでしょうか。
投稿: 熊 | 2010.07.19 09:43
このエントリーに触発されて国内の業界団体が出しているホメオパシーの入門書(?)を本屋でパラパラめくってみました。コレはないだろというような部分が半分以上でしたが、一方でハーネマンの考え方と符合する真っ当なこと(科学的に検証済みという意味ではなく、代替医療全般に共通の原則論的議論)も書いてあって、すべてが忘れ去られたというわけでもないのですね。当たり前ですが道具や知識の価値は使う人間によって決まるということでしょう。
投稿: nanasi | 2010.07.19 21:53