インフルエンザと結核の昔話
インフルエンザは宇宙からの影響力?
インフルエンザにもう少しこだわる。インフルエンザ(Influenza)という言葉は、18世紀にイタリア語から英語に入ってきた外来語だが、意味は英語の"influence"(影響)と同じ。現代人からすると、インフルエンザはウイルスの影響と考えたいところだが、当時はなぜか宇宙にある天体の影響と考えられていた。
インフルエンザ(Influenza)という言葉が英語に入ったのは1743年のこと。全欧を覆った流行性感冒が"influenza di catarro(咽喉・鼻粘膜炎症のインフルエンザ)"と呼ばれた。人間の病気が、天体によって起こるという考え方は現代からすると奇妙だが、当時は広く受け入れられていたようだ。
典型例には、1493年にスイスのアインジーデルンで生まれたパラケルスス(Paracelsus)の医学論がある。彼は各種の病気は、天体がもたらす毒が原因だとし、また身体は天体や金属と調和していると考えた。呪術的な医学観に過ぎないが、病気の原因について外在的な要因と内在的な要因の両面を総合して考えていた。
18世紀になってもインフルエンザの理由は、季節的な流行から天体の影響と見なされていたようだ。しかし18世紀末からの英雄的治療では、瀉血や瀉下によって身体内の毒を排出することが治療になるという考えで行われたものだが、内在的な病因への重視である。パラケルスス的な医学観の一面でもある、身体内の毒という内在的な要因が重視され、天体といった外部の要因は切り離された。
ベルナールに始まる近代医学と時代精神
英雄的治療時代が終わり近代的な医学が始まるのは、1865年にクロード・ベルナール(Claude Bernard)が「実験医学の原理(ntroduction a L'etude De la Medecine Experimentale)」(参照)を著したころからである。フランス、ローヌ地方で1813年に生まれた彼は。人間を実験可能な対象とすることで近代医学を切り開いた。
背景には、彼がデカルトを重視ししたように、人間を一種の機械と見る身体観があった。反面彼は、生体の独自性について内部環境(Milieu intérieur)という概念も考慮していた。その着想にはヒポクラテス以来の四体液説があり、パラケルスス的な考え方の残滓もあったかもしれない。
ベルナールの内部環境という考え方は、後の時代にホメオスタシスとしてまとめられていくが、彼自身はそれとはやや違った考え方をしていたようだ。実験的な方法論を重視することで、生体が機械論として捉え切れない現実に直面し、困惑していたのではないだろうか。現実的には、病因と疾病の関係は、原因と結果の関係として直接的にはつながらない。確率的なつながりをしている。彼はこれを医学実験の平均値という考えでまとめられていく。現代医学のEBM(evidence-based medicine:証拠に基づいた医療)の考え方に近い。
ベルナールが切り開いた実験医学の歴史は、ベルナールの密かな困惑とは別に、病因の外在論に傾いていく。1862年、彼はルイ・パスツール(Louis Pasteur)とともに低温殺菌法(パストリゼーション:pasteurization)の実験を行い、腐敗・発酵という現象が細菌といった外在因子によることを証明した。これらの現象を病気と見なせば、やはり病気は細菌など外部の要因によると考えられた。
パスツールはこの業績を元にやがてコッホと並び現代細菌学の父と呼ばれるようになるが、彼の思惑は、1861年の「自然発生説の検討」(参照)に見られるように、生気論の撲滅であった。アリストテレス以来、西洋では生命の自然発生説が唱えられていたものだった。関連して興味深いのは、ほぼ同時代この時期、1859年に、チャールズ・ダーウィン(Charles Robert Darwin)の「種の起源(On the Origin of Species)」が出版されたことだ。キリスト教的な創造論に対しても近代世界は反論を提出しはじめていた。
現代世界から見ると、パスツールにもダーウィンにも「遺伝」という共通の概念がありそうだが、1865年に発表されたメンデル(Gregor Johann Mendel)の遺伝研究が実際的に知られるようになったのは20世紀に入ってからである。パスツールやダーウィン時代では、遺伝の因子は、現代とは異なり、パラケルススのホムンクルス(Homunculus)や、あるいは病気をもたらす細菌のようなものとして理解されていたのではないだろうか。
細菌学を切り開いたコッホ
生命は無からは発生しない。病気は外在的な病原体から発生する。こうした自然観が19世紀半ばに確立し、医学もこれに基づいてコッホ(Heinrich Hermann Robert Koch:1843 - 1910)が推進した。
コッホは、1876年、後にコッホの原則を満たすものとして炭疽菌を発見し、各種の病因に細菌が存在することを証明した。と同時に、各種の病気の原因は細菌ではないかと見なされる時代が続き、インフルエンザをもたらす「インフルエンザ菌」や脚気をもたらす「脚気菌」といった医学の間違いも発生した。「脚気菌」はまったくの幻想であったが、インフルエンザ菌はインフルエンザの病原体ではないものの、髄膜炎を起こす病原体として注視されるようになり、日本の社会では今なお現在の問題でもある。
細菌学が19世紀末の医学を変容させていくなか、当時の世界がもっとも重視したのが、多数の死者を出す、死病ともいえる結核であった。結核菌もまたコッホが発見したものである。1882年3月24日の「結核の病因論(he Aetiology of Tuberculosis)」によって証明された。これを記念して3月24日は世界結核デーともされている。しかし、結核菌の存在が確定されても、結核の有効な治療はなかなか可能にはならなかった。
かくして19世紀後半になり、コッホを擁したドイツでは優生学が興隆し始める。これは細菌学の逆説でもあった。細菌学が進展するなか、「インフルエンザ菌」や「脚気菌」といった医学の間違いもだが、細菌学の考え方の枠組みが疑問視されるようになってきた。特に結核菌に顕著だが、感染者が診断されるほどには結核を発症しない人が増えていった。
グロートヤーンの優生学
病因としての細菌に間違いはないのだが、なぜ感染者には発症する人と発症しない人がいるのだろうか? ベルナールの疑問と相似的な疑問でありながら、優生学誕生に寄与したグロートヤーン(Alfred Grotjahn:1869 - 1931)は、これに社会的要因と遺伝的要因を組み込んだ。社会的な限界に加え、彼は「その限界は、肺結核が発症しやすい体質において見い出すことができ、この体質はここでもまた多くの場合、遺伝による身体の低価値にもとづいている」とした。社会的な要因はある意味で可視だが、それ以外の病因は遺伝という概念に帰着されていった。
グロートヤーンの考えは1930年代には衰退していく。彼の死が衰退の原因ではない。「優生学と人間社会」(参照)は経緯をこう述べている。
肺結核の発症を遺伝に結びつける、グロートヤーンの先のような主張が、特効薬ペニシリンによって肺結核が十分治療可能なものとなる三〇年代以降、影をひそめるようになるという事実は、かつて遺伝概念が担っていたそうした機能をよく物語っている。
そして、優生学の課題は、遺伝として説明された不治の病や障害をもつ人びとがその生命を再生産する回路を、何らかの方法で遮断することによって、彼らの病や障害そのものを将来社会から根絶することに、求められたのである。
ここに錯綜した問題が潜んでいる。
ペニシリンとストレプトマイシン
単純なところでは結核を治療可能にしたのはペニシリンではなくストレプトマイシンであり、年代も混乱している。フレミング(Sir Alexander Fleming)が、1928年、ペニシリンを発見したのは偶然であった。彼は黄色ブドウ球菌を培養したペトリ皿の滅菌に失敗しカビを生やしてしまったが、たまたまそれを観察すると、カビが黄色ブドウ球菌の繁殖を阻止していることに気がついた。翌年これをまとめて発表した。抗生物質の発見と言われる。が、異論もある(参照)
発見されたペニシリンだが彼はこれを治療用に精製する手法を見つけることはできなかった。精製が可能になったのは、発表から11年後の1940年、英国オックスフォード大学の化学者ハワード・フローリーとエルンスト・ボリス・チェーンの研究による。1940年代以降、ペニシリンが臨床で利用されるようになった。
肺炎にはペニシリンが有効だったが、結核には効かなかった。1943年、結核に効く抗生剤としてストレプトマイシンを発見したのは、ラトガース大学のセルマン・ワクスマン (Selman Waksman)であった。実際には彼の指導にあったアルバート・シャッツ(Albert Schatz)であり、もめた(参照)。
ペニシリンが臨床で利用され肺炎治療に利用されるようになったのは1942年以降、ストレプトマイシンで結核が治療されるようになったのは第二世界大戦後と見てよい。また、抗生物質の登場によって長時間にわたる外科手術が可能になり、これらが戦争時の負傷者にも適用された。
健康と栄養の登場
グロートヤーンの優生学の主張が1930年代以降影を潜めるとしても、ストレプトマイシンによる結核治療がきっかけではない。では、結核と優生学の関係はどのようなものだったのだろうか。二点ありそうだ。
まず、1930年代以降の優生学的主張が障害者などの断種として実現してきたことは確かである。これは遺伝の因子が人間種に対する病因のように設定されたことを意味する。これは病因としての細菌の延長としての遺伝因子はないだろうか(もちろん遺伝子はまだ発見されていない)。
もう一点は、グロートヤーンの優生学主張が、優生学という文脈をしだいに離れて「健康」という概念を生み出していくことだ。あるいは「健康」という概念に優生学の一部が統合されていったのではないだろうか。有名なことだがナチスは非常な健康国家であり、今日の先進国の先駆として国家規模での禁煙を実施していた。
さて、第二次世界大戦後のストレプトマイシンの登場によって結核は撲滅したのだろうか。たしかに、結核は治療可能な病気になった。しかし全体的に見たとき、結核を現代社会から追い出したのは、抗生剤ではなかった。
ストレプトマイシンを発見したワクスマンの高弟でもあるルネ・デュボス(René Jules Dubos:1901-1982)が1960年に来日公演をした際、聴衆にこう問いかけた、「この数年で日本人の結核死亡率が激減している理由は何だかと思いますか?」 聴衆はストレプトマイシンやツベルクリンとBCGの体制を想起した。彼はこう答えた、「栄養の改善です」。
統計的に結核死亡率を見ていくと
まさか。しかし、ストレプトマイシンに確かに効果があるとしても、くじ引きで安静にのみしていた群でも回復しているとする研究(BMJ 1998;317:1248)もあった。ストレプトマイシンに焦点を当てても、それが決定的な要因だったとも言い切れない。ツベルクリンとBCGの体制はもっと疑わしい。もっとも効果があると見られる乳児で25%ほど発生率を抑える。1996年から1999年と近年になるが、乳児の結核発生は220人ほどで死者は1人ほど。BCGを100万人体制で接種してもおそらく死者が1人増える程度だろう。
統計的に結核による死亡率を見ていくと、英・独・仏では19世紀初頭からただ単調にだらだらと減少しているだけで、コッホによる結核菌の発見も、ストレプトマイシンも、BCG導入の影響も見られない。逆に国民の身長は伸び始めている。要因として考えられるのは、やはり栄養しかない。(詳細に見ると、15歳から44歳までの英国女子の死亡率には抗生剤の影響がある。)
デュボスによれば、歴史を見ていくと、人類は一度は結核をそれなりに抑え込んでいたが、これが再発するのは産業革命に沿って工場労働者が増えたからだったという。密室での集団行動が結核を蔓延させていた。デュボスは述べていないが、これに学校を加えてもよいだろう。
近代国家が人びとを労働者として国民として徴集(ゲシュテル)したとき、自然(ピュシス)の力である結核も徴集された。そして徴集された近代の技術が結核という自然を打ち破ったかに見えたが、実は近代医学と細菌学の進展は、実はその徴集の随伴的な事象であった。
抗生物質の登場で細菌性の病気は克服可能になったが、これもまた大きな流れで見れば、自然の力に勝利したわけではない。抗生物質を使うほどにその効き目は落ち、自然界に抗生物質をまき散らし、耐性菌を増やした。肺炎によく利用されたマクロライドという抗生剤は世界的に耐性菌が多く出現した。米国ではその耐性菌は20パーセント、ドイツでは10パーセント、南米では15パーセント。日本では、80パーセント。
参考
「優生学と人間社会(米本 昌平、ぬで島 次郎、松原 洋子、 市野川 容孝)」(参照)
「クスリ社会を生きる(水野肇)」(参照)
「医原病(近藤誠)」(参照)
「麻疹が流行する国で新型インフルエンザは防げるのか(岩田健太郎)」(参照)
| 固定リンク
「歴史」カテゴリの記事
- 荒地派のスペクトラム(2016.02.15)
- 新暦七夕のこと(2004.07.08)
- 一番大切なものが欠落していた戦後70年談話(2015.08.15)
- 日本国憲法の八月革命説について(2015.08.11)
- 日本国憲法の矛盾を考える上での参考書……(2015.08.02)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント
19世紀の「生物学(19世紀には、まだ、生物学という言葉と概念はなかった)」の精華を紹介してもらえてうれしいです。
太陽系は、たぶん、エコシステムだろうと思いますよ。仮に、木星が存在しなかったら、地球の公転軌道も公転周期も、ずいぶん違っていたのではないでしょうか。太陽の黒点やフレアーの活動も、木星や土星に影響を受けているのではないかと思います。そう考えると、占星術も、まるっきり無根拠でもないと思うのです。
投稿: enneagram | 2010.07.25 07:27