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2010.07.22

[書評]感染症は実在しない―構造構成的感染症学(岩田健太郎)

 「感染症は実在しない」(参照)とは刺激的なタイトルであり、また前半は修辞的な議論が饒舌に展開するきらいはあるが、内容はいたって正統的な医学的な立場で描かれ、著者の履歴からもわかるように米国標準の臨床も批判的に踏まえている点で、今後の日本の臨床のありかたを展望する内容となっている。日本の医療がどうあるべきかに関心をもつ人には、必読とまでは言えないものの、多くの示唆を得ることができるだろう。また、一般向けに書かれている本ではあるが、実は医療関係者にこっそりウケのよい書籍ではないかとも思えた。

cover
感染症は実在しない
構造構成的感染症学
岩田健太郎
 本書での、感染症は実在しないということは、端的に言えば、感染症というのは現象であるということで、細菌やウイルスが実体的に存在しないという話ではない。
 興味深い例が書かれている。2009年、日本の社会で新型インフルエンザが流行したとき、通常なら季節型のインフルエンザは終わる時期なのに、報道などではこの年は異例にインフルエンザが流行していると語られたものだった。ところが、著者のグループは片っ端から患者さんの喉や鼻をRT-PCRという手法で調べてみた。

 2009年5月のことです。もうインフルエンザは流行していない、と考えられている季節です。初夏ですから。ところが、出るわ出るわ、探してみたら、たくさんの患者さんから、新型インフルエンザではなく、従来型の季節性インフルエンザが検出されたのでした。しかも、その多くは迅速検査で陰性だったのでした。2009年だけ特別、季節性インフルエンザが初夏に流行ったのではありません。いままで、初夏にインフルエンザ検査をした医者がいなかったのです。

 こうした事例が象徴的だが、感染症は実在しないということは、感染症という症状、つまり現象を起こすには、その背景としての関係性や基準・視点が重要になるということでもある。
 実在と現象の扱いは、本書では、哲学の現象学のごく基本的な枠組みが修辞的に展開されているのであって、病理医や臨床医にとっても、個別例における最新の知見を除けば、言い方によっては「そうも言えるかな」というくらいものもあった。
 むしろ、こうした臨床における現象面から見た医学というものの基本的な構図は、一般社会における、病気や健康という日常生活的な理解・受容や、さらには日本のマスコミにおける感染症を含め、各種疾患に対する報道といったものとの対比のなかで、違和感をもって浮き立ってくる。そこが本書の結果的な面白さでもあり、現代医学がより臨床面において市民社会に語りかける必要があることも示している。
 本書では、構成がやや散漫になり、興味深いが雑学的な挿話が続く後半部に、その側面、つまり、臨床医は率直に医療の事実を語り、市民に選択を委ねましょうという表明に、医療と市民関係への新しいあり方がよく示されている。本書の真価は、池田清彦的な構造主義生物学的な医学の見直しというより、臨床医の新しい市民社会への語りかけの態度にある。
 その象徴的な挿話がある。著者がニューヨークで臨床医をしていたおり、レズビアンでエイズ患者、さらにPMLという脳の病気、リンパ腫というがんの一種、肺炎など合併症の患者を診ながら、その喫煙を黙認していた話だ。

 この方が、「こんなつらいことばかりの人生だけど、タバコだけがあたしの楽しみ」と一日一箱吸っていたのでした。私には「からだに悪いから、タバコはやめなさい」とはとても言えませんでした。通俗的には人間の幸せの根拠となる事物をほとんどすべて失ってしまった彼女にとって、タバコはただひとつ残された幸福の源泉のように見えたからです(もちろん、非通俗的には彼女は大切なものを他にもたくさんもっていましたが。例えば、エイズという病気を持ってそれとまっとうに対峙していることなど)。医療を患者さんの目的・関心から逆算した価値との交換作業であると解釈すれば、この方にとっての喫煙指導は意味の小さいものであると感じたのでした。

 おそらく、日本の臨床の現場でも同じようなことはあるだろうし、そうしたなかに臨床というものの本質があるのだろう。こうした許容性の社会的な意義については、長寿化していく日本社会では、対話を通して意味を変えていかなければならない点も多いだろう。著者が言うように、「医療は総じてリスクとの価値交換」ということだ。
 それは倫理性を単純に相対化するということではない。著者のインフルエンザ菌の予防接種の見解にも表れている。

 ほとんどの親は、自分の子どもが「予防できるはずの病気」で死んでしまうことを容認しないでしょうし、子どもだってそんなにぽっくり死にたくはないでしょう。だから私は予防接種を薦めるのです。

 同じことが生死に関わる標準医療について言える。重要なのは、こうした医療のもつ意味を市民社会に情報公開を通して伝えることにある。
 民間医療についても、ただ否定するのではなく、二つの条件として提示している。

条件その1 「何にでも効く」「絶対に効く」と主張している療法は信用しないほうがよい。


条件その2 成功例しか示していない療法は信用しないほうがよい。

 そうであろうし、著者も「これらの条件を満たすことを義務化したら、世にある民間医療の大多数は消滅する可能性が高いと思います」と見ているが、そこでも市民社会への委託の原理性のようなものは維持されている。非正統医療である漢方についてこう述べている部分に反映されている。

 とはいえ、漢方薬がダメだと私は主張する気はありません。現段階で漢方薬が医療においてどのくらい貢献してくれるものなのか、私にはわかりません。この「わからない」という謙虚な認識こそが大事なのだと思います。

 そのあたりの「わからない」は、医学の科学的側面の謙虚な限界であるというより、市民社会の許容部分でもあるだろう。
 と同時に、栄養維持が可能になり高度な医療が可能になった豊かで長寿の日本社会では、医療は、前近代的な致死性の疾病に対する国民厚生よりも、個人がよりよく生きる限界を補助するようなビジョンが求められる対象になってきている。
 そうした未来の医療の感覚を内面化していく著者のような新しい医師も増えてくるのだろうし、臨床を通して市民社会側から対話していく必要性の場も増えてくる。本書はその先駆けのようにも見える。

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