[書評]グーグル秘録(ケン・オーレッタ)
「グーグル秘録(ケン・オーレッタ)」(参照)、オリジナルタイトル「Googled: The End of the World As We Know It 」(参照)は、すごい本だった。すごい内容が描かれていた。どのくらいすごいのか?
グーグル秘録 ケン・オーレッタ |
そのとおり。1987年、R.E.M.の曲、"It's The End Of The World As We Know It"(参照・YouTube)である。
It's the end of the world as we know it.
It's the end of the world as we know it.
It's the end of the world as we know it and I feel fine.
世の中がダメだとわかれば、こんな世界はもうおしまいさ。それで、いいんじゃね、"and I feel fine."というわけだ。それが、Googled(グーグルされた)ということ。本書のタイトルはそう語る。
"Google"という固有名詞を一般動詞化して、"Google it."といえば、「ググれ(Googleで検索しろよ)」という意味だが、本書タイトルの"Googled"はそうではない。「Google化される」ということだ。
何がGoogle化されるのか? その顕著な対象は新聞など伝統メディアである。こう使われている。
グーグルと関係が良好であるかどうかにかかわらず、伝統メディアのほとんどが「グーグル化される」という不安を抱いていた。
新聞などのメディアが発する情報は、その収入源である広告を混ぜてから読者・視聴者に提供されたものだった。Googleが台頭してからは、必要な情報だけGoogleで検索して読まれるようになった。さらにGoogle化は進む。テレビ番組は広告がカットされ、Googleが保有するYouTubeに無断掲載される。しかもそれにGoogleは別の広告を付ける。Googleの検索連動広告であるアドセンスの興隆でも広告業界の利益は奪われる。
各種の業界がその収益源を失っていく。それがGoogle化されるということだ。本書は、くどいほどにその姿を描き出す。
各種業界の利潤を産むプロセスをGoogleは中抜きする。その儲けでGoogleは太り出す。だが、手間のかかるコンテンツ(提供される内容)作成には手を出さない。かくして、コンテンツ産業への費用が削減されていく。本書はこれでよいのかと問いかける、執拗に。
各産業の中抜きだけが「Google化される」という意味ではない。労働環境も「Google化される」。有名なのは、20%ルールだ。Googleは開発に携わる社員の勤務時間の20%を勝手な研究に使ってよいとしている。会社にいながら好きな仕事ができる。しかもそうした勝手な研究がきちんとGoogleの成果に結びつく。他の企業はこれをどう見るだろうか。開発に関わる人材にGoogleの20%ルールのような待遇を与えないと人材は逃げていく。Googleに習うしかない。かくして、シリコンバレーや同種の産業が「Google化」され、開発者が優遇される。
まだある。Google化された世界のコンテンツは無料だ。この点は日本も同じ。例えば、新潮社の雑誌「考える人」2010年8月号(参照)に村上春樹ロングインタビューが掲載された。私は村上春樹のファンなのでこれを買って読んだが、一段落分感想を添えて「ちょっとだけ抜粋」したブログのエントリーに、はてなブックーマークが500以上も集まる(参照)。雑誌記事の備忘のためのブックマークであれば、雑誌購入に関連するWebページをブックマークすべきだろうがそうはならない。無料で読める部分で済んでしまう。コンテンツのパーツ化も、Google化された世界のありふれた風景である。邦訳書のサブタイトルに「完全なる破壊」とあるのも、その意図を酌んでことだろう。
そんなことは、みんな知っている、"As We Know It"である。
しかし、本書を読み終えた私は、そのことはそれほどすごいだとは思わない。すごいと思ったのは、本書の存在だ。著者オーレッタ氏がこの本のためにした地味なそして膨大な取材だ。この本の大半は、人間に直に合って話を聞くという人間臭い作業の地味で膨大な繰り返しから成り立っている。原注には裏付けとなる発言の日時がいちいち記されている。
この本は、一人のジャーナリストが、"Google it"を横目に、ただ人間的な知性によって成し遂げた作業の集積であり、Google的な知識に立ち向かうジャーナリストの挑戦でもある。Googleによってジャーナリズムの息の根が止まるといわれても、ジャーナリストはそれに立ち向かうことができるという挑戦の証でもある。
ここまでやるものかと私は思ったし、そこにこそ感動した。この労作の意義を理解したローレンス・レッシング氏も「法律文書を読むときと同じ慎重さで草稿にに目を通し」たという。
もう一つ感動したことは、Googleが、"Don't be evil" (悪をなすな)というとき、私たちの市民社会がそれをどのように信じるのかという水準を、本書によってジャーナリズムが明確に示したことだ。著者オーレッタ氏がGoogleに突きつけたのは市民社会の公正な視線であった。本書は当初、Googleをターゲットにしていたわけではなかった。メディアの行く末を模索することだった。
選んだ素材はグーグルだったが、同社は協力を渋った。共同創業者をはじめ、同社幹部は本の電子化には熱心だが、本を読むことには大して興味がないのだ。執筆に協力するのは、”時間の無駄”ではないかと懸念していた。そこで私は、本書の使命はグーグルがしていることや、メディア業界をどのように変えようとしているのかを理解し、説明することであり、グーグルは私のプロジェクトを検索と同じ発想で考えるべきだと訴えた。
Googleが、"Don't be evil" (悪をなすな)を体現しているなら、このジャーナリストの挑戦を拒むことはできない。Googleは受け入れた。本書の出版前にGoogleの査察は入っていない。
本書は4部構成で、第1部は序章だが、大半を占める2部と3部はクロニクル(年代記)の構成になっている。人びとの証言を元にしたGoogleの歴史が順序立てて細かく描かれている。邦訳タイトルが「Google秘録」となっているのもその点を重視したのだろう。
描かれている人物はみな非常に魅力的だ。創業の二人とCEOのシュミット氏が主役になるのは当然だが、懐かしのアーンドリーセン氏も一貫したナレーターのように登場する。
人物像のなかで、私が特に着目したのは二人。一人は、ビル・キャンベルである。シリコンバレーを支える最長老と言ってもよいだろう。彼がいなければ今日のGoogleが存在しえなかったことを本書は明確に描き出した。キャンベルはまたスティーブ・ジョブズのメンター(師匠)でもある。その意味も本書の最終に描かれていく。
もう一人は、シェリル・サンドバーグである。彼女がGoogleのもっとも上質な文化を創り上げたと言えることが本書でわかる。そして、彼女がGoogleを辞めてフェースブックに移っていくようすは本書の圧巻である。
IT企業コンサルタントの梅田望夫氏は、「人の流動こそ新成長の鍵」(参照)と語ったが、そのドラマのすべてが本書にあると言ってもよいだろう。
なぜニューヨーク・タイムズやCBSは、CNNを作れなかったのだろう? なぜスポーツ・イラストレイテッドがESPANを始めなかったのだろう? インスタント・メッセンジャーを世に送り出したAOLが、なぜフェースブックを生み出せなかったのだろう? なぜIBMはソフトウエアをマイクロソフトに譲ったのだろう?
変化の波がどこに向かうのか、誰も確信できない。
本書もその解答を示さない。ただ、人びとのドラマが歴史を作り、動かしていく事実だけを人間の肉声を通して描いていく。とても人間臭く。シリコンバレー版十八史略のように。
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