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2010.07.23

インフルエンザ菌を巡る話

 昨日のエントリ(参照)で一個所だけ「インフルエンザ菌」という言葉をそのままの形で入れておいた。「それは倫理性を単純に相対化するということではない。著者のインフルエンザ菌の予防接種の見解にも表れている」という部分だ。「インフルエンザは菌ではなくウイルスですよ」というご指摘が入るかもしれないとは多少思った。
 細菌とウイルスを混同する人は少なくない(参照参照)。私もよく事実認識の間違いや誤字脱字をする。幸い、この点ご指摘をいただいたが、この部分は、該当書「感染症は実在しない―構造構成的感染症学(岩田健太郎)」(参照)をそのまま受けたものだった。


 子どもの命は貴重ですが、リスクを無くすことはできません。しかし、明らかなリスク減少効果をもたらす医療行為もあります。

 明らかなリスク減少効果をもたらす医療行為には、乳児ビタミンK欠乏性出血症の予防の目的で処方されるK2シロップなどもあるが、同書では予防接種を挙げ、この文脈にインフルエンザ菌を置いている。

それが予防接種です。特にインフルエンザ菌、麻疹、水痘の予防接種などは小児の死亡を減らす効果が示されています。


 私はインフルエンザ菌の予防接種を推奨しており、日本でもっときちんと接種されるべきだと思っています。

 この「インフルエンザ菌」がインフルエンザのウイルスを指していないことは後続の文脈でわかる。

それは、物言わぬ小さな子どもが細菌性髄膜炎や急性喉頭蓋という死に至る病気で死んでしまう理不尽が、私の価値観では容認できないからです。

 同書では、インフルエンザ菌がもたらすものに細菌性髄膜炎が明記されていることから、明白にインフルエンザ・ウイルスの誤記ではない。
 インフルエンザ菌は、Hib(ヒブ)とも呼ばれるHaemophilus influenzae type bを指している。インフルエンザ菌には、インフルエンザという名前が付いているものの流行性感冒をもたらすインフルエンザとは直接関係はない。1892年にリチャード・ファイファー(Richard Friedrich Johannes Pfeiffer)が当時のインフルエンザの原因として分離し、発見したとされている。異論もあり、ファイファーと同年に北里柴三郎も分離している(参照)。その後、インフルエンザ菌はインフルエンザの病原体ではないことが明らかになったが、当時のままインフルエンザの名前が残った。誤解しやすいため、最近ではメディアでも「ヒブ」または「ヒブ(Hib)」の名称を取ることが多くなりつつある。
 インフルエンザ菌による細菌性髄膜炎の患者数は、2009年時点で日本国内で年間約600人ほどいて、乳幼児、特に1歳未満の乳児の発症が多い。罹患者の5%が死亡し、25%に発達遅滞や聴覚障害などの後遺症を残す。概算すると日本国内で毎年30人ほどがインフルエンザ菌のもたらす細菌性髄膜炎で亡くなってきたことになる。この大半はインフルエンザ菌のワクチンを制度化することで防げると見られる。なお、細菌性髄膜炎の3割は肺炎球菌によるものである。
 米国では、ほとんどの子どもがインフルエンザ菌b型ワクチンの接種を受けているため、この菌がもたらす被害は最小限に抑えられ、髄膜炎の患者数が100分の1にまで減少した。1998年に世界保健機関(WHO)が定期予防接種を推奨したこともあり、世界的には133か国で定期接種化されている。
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細菌性髄膜炎から子どもたちを守る会
 日本では、1998年のWHOの推奨から遅れ、2003年3月にインフルエンザ菌のワクチンの新薬承認を国に申請した。その後も手間取り、承認されたのは2007年1月である。2008年12月からは任意接種可能となっている。現状、約60ほどの自治体が公費助成を行っている。
 ワクチン接種は、標準的には、生後2か月から7か月未満までに始める、4週間から週間隔で3回接種を受け、さらに1年後にもう1回の計4回の接種を受ける。接種した部分に24時間以内に赤い腫れができることがあるが、発熱など全身の副作用は少ない。詳細な情報は「細菌性髄膜炎から子どもたちを守る会」(参照)が参考になるだろう。
 雑談的な話に戻る。
 現代医学からすれば明白なことだが、インフルエンザは、インフルエンザ菌によってもたらされるものではなかった。確かにインフルエンザ菌なる菌は分離・発見されたが、それはインフルエンザの病原体ではなかった。では、ファイファーや北里によるインフルエンザ菌の発見の意味は何なのだろうか?
 細菌性髄膜炎をもたらす病原菌が発見されたのだから、医学的な意味は大きいと言えないことはないが、インフルエンザという文脈では、ファイファーや北里は間違っていたことになる。医学史によくある間違いでもある。私はこの歴史で重要なことは、病原体なら細菌に違いないと認識されていた時代があったことだと考えている。細菌医学の時代と呼んでもよいかもしれない。
 端緒となるのは、1850年以降、英雄的治療が終息した時代に置かれる、1876年のコッホによる炭疽菌の発見である。ここから細菌医学のパラダイムが起こり、大きく進展した。病気の原因とされる病原体を同定するには、コッホの原則が重視された。インフルエンザ菌にもコッホの原則が適用されたが、その解明は容易ではなかった。
 1918年にインフルエンザのスペイン風邪が大流行したときでも、医師たちはインフルエンザ菌がインフルエンザをもたらすと考えていた。だが、動物実験で細菌を遮断しても空気感染が起きることがわかり、インフルエンザ菌が病原体であることへの疑問が生じた。インフルエンザの病原体がウイルスであることが特定されたのは、1933年になってのことだった。
 感染症には細菌の病原体があるに違いないとする細菌医学の時代がもたらした同時期の象徴的な間違いには「脚気菌」もある。ベルリン大学でコッホの弟子フリードリヒ・レフラーに細菌学を学んだ緒方正規は、1885年(明治18年)に脚気病原菌説を発表した。緒方は、死亡した脚気患者から分離・発見した細菌を動物に接種し、下肢の知覚麻痺を得たとした。緒方とは別にオランダのペーケルハーリング(Cornelis Adrianus Pekelharing)も細菌感染として「脚気菌」を想定していた。なお、彼の助手がエイクマン(Christian Eijkman)である。
 ペーケルハーリングが「脚気菌」と想定した球菌は、後に北里によって、脚気とは関連のないブドウ球菌であることが確認され、また緒方も晩年は「脚気菌」が誤りであることを認めたが、1907年に陸軍の医務局長に就任し、脚気細菌説を採った森林太郎は終生、脚気を細菌性の伝染病だと想定していた。
 病因に関与しない医学史上の誤りという点だけ見れば、インフルエンザ菌と実在しなかった「脚気菌」とは似ている面がある。前者の場合、それがインフルエンザとは異なる深刻な疾病をもたらすことと、インフルエンザの病原体がウイルスに特定されたことで、インフルエンザという疾病の問題は解決された。後者の脚気の場合は、それをもたらすウイルスも存在せず、この問題は、医学のパラダイムを変え、そもそも病原体は存在せず、ビタミンB1という特定の栄養素の不足がもたらしたものして理解されるようになった。
 このような感染症の病原体を特定には、次のようなコッホの原則(Koch's Postulates)を現代から顧みると興味深い。

  1. ある一定の病気には一定の微生物が見出されること
  2. その微生物を分離できること
  3. 分離した微生物を感受性のある動物に感染させて同じ病気を起こせること
  4. そしてその病巣部から同じ微生物が分離されること

 インフルエンザ菌も幻の「脚気菌」も当初はこの原則を満たしていると思われたが、後の研究で原則を満たさないものとして排除された。しかし、現代の微生物学では、コッホの原則は疑問視されている。「感染症は実在しない」(参照)ではそのようすをこう説明している。

 先に紹介したコッホの原則は、感染症の原因微生物を特定するのに十分な条件ですが、必ずしもいつも使える条件とは限りません。コッホは炭疽菌という細菌でこれを実験的に証明したのですが、実は炭疽菌はこの条件を満たせる便利な(そしてまれな)微生物だったからOKだったのです。実際には、コッホの原則を満たさない感染性微生物もたくさんあるのです(後でそういうことがわかってきました)。コッホが自分の原則の確立に炭疽菌を使ったのは、ラッキーだったのですね。

 感染症ではないが、Aspergillus(アスペルギルス)属菌の真菌は毒性の強いアフラトキシン (aflatoxin) を生み出す。食物に有毒物質を生成する真菌が発生すると、集団的な中毒が発生する。真菌が特定されないとその集団内では伝染病のような様相を示すこともある。しかし、コッホの原則に合わない感染症や真菌のもたらす疾病は、細菌医学が興隆していた時代には十分に解明されていなかったようだ。
 医学史の流れで見ていくと、1780年から主流の医学であった英雄的治療が1850年代に終わりを迎え、麻酔による外科治療と、細菌医学が興隆した。その後は、細菌によって特定されない病理を追求するかたちで、病原としての遺伝が注目され、そこから優生学が生まれてくる。

参考
「予防接種は安全か―両親が知っておきたいワクチンの話」(参照
「感染症は実在しない―構造構成的感染症学(岩田健太郎)」(参照
「優生学と人間社会 ― 生命科学の世紀はどこへ向かうのか(米本昌平、橳島次郎、松原洋子、市野川容孝)」(参照

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コメント

微生物と医学の関係を取り上げれば、ここで取り上げた以外にも、たとえば、麦角菌のアルカロイドみたいに、真菌毒素の研究から向精神薬が誕生したような話もあります。ペニシリウム・ロックフォールティ(ロックフォールチーズを作るためにアオカビ)が産生するアルカロイドはごく微量なので、ロックフォールチーズをいくら食べてもアルカロイドが原因の食中毒や神経疾患はありえないという話を、大桃定洋先生から直接聞いたことがあります。麦角アルカロイドも不妊や遺伝疾患に関係があるので、優生学に結びつくはずです。

投稿: enneagram | 2010.07.23 12:44

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 凄く読みでのあるエントリーであり、大変興味深く感じた。とにかく内容に厚みがあるのでこのようなテーマが面白くて仕方がない(参照)。 今日のテーマは、昨日の書評「感染症は実在しない―構造構成的感染症学(... [続きを読む]

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