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2010.07.19

オステオパシー(Osteopathy)

 米国の医者の学位にM.D.つまり、Doctor of Medicineがある。欧米の場合は、学位も名前の一部になっていると言ってもよい。そこでM.D.の学位が付く名前の人だけがお医者さんか。というと、もう一つ、D.O.という医者の学位がある。こちらは、Doctor of Osteopathic Medicineの略で、直訳すれば、「オステオパシー医療の医師」となる。オステオパシーと聞くと、「なーんだ、代替療法か」と思う人もいるかもしれないが、現実の米国社会では、D.O.はM.D.と遜色ない正規の医師である。
 では、オステオパシーというのは正統医学なのかというと、このあたりからは話が難しくなる。そしてこの難しさは、代替療法批判者を困惑させる。代替療法のいかがわしさを批判した「代替医療のトリック(サイモン・シン、エツァート・エルンスト)」(参照)では、英国書籍らしく、オステオパシーを代替療法の便覧に押し込んでいるが、米国と英国の状況の違いも手短に伝えている。正当な医療は科学に依るというより国によって違うことなのである。


 アメリカでは、オステオパシー医(DO)は完全に主流医療に組み込まれており、手技は稀にしか行わない。イギリスのオステオパスは法令で規制されているが、補完代替療法の施術者として見なされている。

 同書は米国のオステオパシー医の実態がよくわかっていないか、あえてなのか、あまり記述していない。現実には、D.O.とM.D.の治療にはほとんど差がない。また、同書では、伝統的な手技としてのオステオパシーについて、腰痛に限って科学的根拠があると述べているが、今日、正統医学の側では腰痛の大半は機能性ではないかと見なされつつある。
 いずれにせよ米国ではオステオパシーはすでに代替療法とは言えない現状がある。米国医師会(AMA)が編纂した代替療法ガイド「アメリカ医師会がガイドする代替療法の医学的証拠―民間療法を正しく判断する手引き(米国医師会)」(参照)にはオステオパシーへの言及すらない。M.D.の団体でもあるAMAとしては、D.O.の団体を代替療法なり異端医学とは認めていないからであろう。
 ところが、オステオパシーの歴史を振り返るとなかなか味わい深い。この歴史は逆に、M.D.というものが何であるかを逆に照射する側面もある。
 オステオパシーは、ギリシア語のOsteon(骨)とPathos(病理)からなる造語で、名前から連想されるように、骨格、軟骨、関節といった組織の動きを改善することで各種の疾患を治療する医療である。日本ではいわば整骨院の治療といった印象で受け止められることが多い。
 しかし、オステオパシーとは手技の技法や療法を指す言葉ではなく、対象とする疾患も捻挫や腰痛に限定されない。西洋医学とは異なる医療体系としての医学であり、原則としては、正統医学にその手技だけを都合良く組み込むということはできない。また歴史経緯からも、M.D.とD.O.は併存している。とはいえ、米国医療の実態はというと、病院経営やD.O.育成のカリキュラムなどを見ると、すでに融合していると言ってもよい。
 オステオパシーとは元来どのような医療だったのか。歴史がそれを物語る。
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アンドリュー・テーラー・スティル
 オステオパシーを創始したのはアンドリュー・テーラー・スティル(Andrew Taylor Still)である。アンドリューは、1828年8月6日にバージニア州の丸太小屋で生まれた。西部開拓時代、大草原の小さな家の風景である。父はメソジスト派の巡回牧師であり、彼らの多くがそうであったように医師も兼ねていた。少年時代は、テネシー州・ミズーリ州で過ごした。遊ぶ物がなかったのか生まれつきそうした傾向があったのか、人骨に強い興味を持った。幸い、近所のアメリカン・ネイティブの墓にはリアル人骨も豊富にあった。
 父にならったのであろうが、アンドリューは医師を志し、カンザス・シティの大学で医学を学び、M.D.の学位を得た。南北戦争(1861-1865年)にも北軍側で兵士として、また軍医として参加した。時代は、英雄的医療(Heroic medicine)(参照)が終わりを告げるころでもあった、同時にそれは英雄的医療に批判の目も生まれる時代でもあり、歴史を傍観すればオステオパシーもその批判的な潮流にあった。
 陰惨な戦争から医師の生活に戻った30代後半のアンドリューにはさらなる人生の試練が待ち受けていた。自らが医師でありながら、3人の息子(実子2人・養子1人)を脊髄膜炎で失った。自分が学んできた医学は本当に正しいのだろうか。有害なのではないか。彼は苦悶した。英雄的医療にも各種の薬物療法にも疑問を持った。瀉血・瀉下も使わず薬物も使わずに、骨格を整え、血液の循環を改善すれば、それで治療になるのではないか。そう考えた。子供のころから人骨に詳しいアンドリューは各種の骨の位置をポキポキと動かすこともできた。骨格調整を治療としてみた。感染症を含め、各種疾患の治療にも応用した。効果が確信できた。
 アンドリューはこの新治療の成果を多くの人に知らせようと、1870年代から1890年代に単身で全米に説いて回った。知見をカンザス州の大学に報告にした。が、無視された。アンドリューは憤慨し、ミズーリ州カークスヴィルに移り、オステオパシー治療院を開業した。そこでオステオパシーも教えた。学ぼうとする黒人や女性にも門戸を開いた。
 彼は説いた。英雄的医療が瀉下に使う甘汞、つまり塩化第一水銀(Hg2Cl2)など使わない。この薬は内臓をぼろぼろにする。正統医療が代用品として使い出したベラドンナも使わない。モルヒネの利用も拒絶する。それらは毒物である。人体には健康になる力がある。骨格を矯正すれば新鮮な血液が循環して治療できる。アンドリューは、熱心に説き、実際に治療を実践した。手応えはあった。
 治療院は、1892年、「米国オステオパシー学校(the American School of Osteopathy)」となる。オステオパシーに対して多くの人の理解と支援を受けるようになった。1910年には単科大学となり、独自にD.O.の学位を出せるまでになった。なお、同大学は現在、A.T. Still University (ATSU) (参照)として存続している。
 1917年、アンドリュー・テーラー・スティルは、多くの人から慕われ、尊敬され、惜しまれ、亡くなった。89歳であった。
 さて、米国医師会がこんな「異端医学」「偽医学」を見逃すだろうか。そんなわけはない。アンドリューの晩年には、オステオパシーへの総攻撃が始まった。それでも、オステオパシーは生き延びた。効果のある医療だったからという理由ではない。時代がもたらす偶然だった。
 アンドリューが亡くなった年号に注目してみよう。1917年。第一次世界大戦のさなかである。米国医師会は、オステオパシー医を軍医として認めるわけにはいかないと政府に圧力をかけた。もしオステオパシー医を軍医とするなら、米国医師会の医師を軍医にするわけにはいかないと脅した。どうなったか。オステオパシー医は国内に残った。そして、国内で多くの患者を集めて、さらに名声を高めることになった。
 米国医師会はまた、当時、オステオパシーとカイロプラクティック (Chiropractic) の違いがよくわかっておらず、攻撃は実際にはカイロプラクティックに向かうようになった。おかげでオステオパシーへの風当たりは弱くなった。カイロプラクティックは、1895年に、ダニエル・デビッド・パーマー(Daniel David Palmer)が創始した治療で、脊椎・椎骨(運動分節)の歪みが疾病原因となり、その矯正を行った。オステオパシーに比べると強制的に脊椎を動かすため治療の失敗から障害者も出ていた。
 オステオパシーもアンドリューが亡くなると変化しつつあった。正統医学と融合していったのである。結果、正統医学と組んで共通の敵としてホメオパシーを攻撃することもあった。共通の攻撃対象があると、違和のあるグループがそれなりにまとまるのは世の常である。代替療法というのはそうした点からも攻撃する価値が多いものだ。
 その後、米国ではD.O.のオステオパシー医師とM.D.の医師学会の医師との治療面での差はほとんどなくなる。別の言い方をすれば、アンドリューの手技の技法は、D.O.の現実ではそれほど活用されていない。
 現実的に見ればオステオパシーは消滅したと言ってよいかといえば、まあ、よいのではないだろうか。ところが完全に消滅したわけでもなく、いかにも代替療法のように残る側面もわずかにある。そのあたりが「代替医療のトリック(サイモン・シン、エツァート・エルンスト)」などにも残るところだ。
 アンドリューの理論をさらにそちらの方向で独自に進化させた人びともいる。注目されるのは、ウィリアム・サザーランド(William Garner Sutherland:1873–1954)だ。彼はプライマリ呼吸機構という新理論と頭蓋仙骨療法を考案し、実践した。通常の人間が行っている呼吸は二次的な呼吸であり、プライマリーな生命エネルギーの呼吸は頭蓋仙骨で行われているというのである。一度解説書が翻訳されたことがある(参照)。このほか、内臓オステオパシー(Visceral osteopathy)というのもある。
 こうした動向は、まあ、代替療法の王道に立ち返るということかもしれないが、これらの不思議な療法は、おそらくメソッド化したときに格好の批判対象になるのではないかという印象がある。
 オステオパシーが正統医学と融合を開始するころ、M.D.育成のカリキュラムよりもD.O.育成のカリキュラムのほうが多く、厳しかったという。治療というのは、証拠に基づいたメソッドが重視されるとともに、メソッドを超えたところでよい医師に付随する不思議な現象という側面もありそうだ。

参考
「代替医療のトリック(サイモン・シン、エツァート・エルンスト)」(参照
「人はなぜ治るのか(アンドルー・ワイル)」(参照
「いのちの輝き―フルフォード博士が語る自然治癒力」(参照

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コメント

下手な研究書よりよっぽど、ムルガン文化の混沌の依りものと成っておりました

Society of Friends文化は、統するものなのか オルタナティヴなのか

統しそう 勢いに依る バベルかな

レメディだと思いたい

投稿: 熊 | 2010.07.19 15:47

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