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2010.07.31

[書評]多面体折り紙の本、3冊

 折り紙が趣味と言えるほどのことはないが、好きでたまに折る。三つ子の魂百までの部類かもしれない。三歳くらいから折っていた。実家の書棚に昭和30年代の折り紙の本が一冊あるはずだ。
 折り紙にはいくつか思い出がある。一つは、20代のころ知的障害児と遊ぶということをしていたときのことだ。何だったら遊んでくれるかなと、いろいろ単純なおもちゃを揃えたなかに、折り紙も入れてみた。そしてやってみた。うまくいかなかった。折り紙というのは、けっこう難しいものだと思った。
 30代のころ、インドに行って地元のNPOと子どもを交えたちょっとした交流会があって、そうだな何をするかなと、折り紙を持って行ったことがある。とりあえずパフォーマンスはできたものの、率直に言って、現地の子どもは関心を持ってなかった。外国人なら、折り紙関心あるだろうなとそれなりに思っていたのだったが、そういう関心があるのは、むしろ工業製品にあふれた先進国の子どもや大人のようだ。
 そのおりのことだが、現地で予定がキャンセルされたりしてぽかんと暇になり、暇つぶしをかねて余った紙でユニット折り紙をした。いくつかのピースを組み立てて立体を作るのである。これも面白いかなとは思った。

cover
すごいぞ折り紙
折り紙の発想で
幾何を楽しむ
阿部 恒
 ひょんなことでまたあれが作ってみたくなった。どういう仕組みなのか、なにか数学的な背景でもあるのではないか。それと、任意の角の三等分が折り紙ならできるという話をもういちど読んでみたい気がした。その話のオリジンである該当書は「すごいぞ折り紙―折り紙の発想で幾何を楽しむ(阿部恒)」(参照)である。
 この本は白黒二色で地味な感じというか、もろに幾何学である。レベルは中学生の幾何学程度。上手に説明すれば中学生の教材にもなるだろう。ぱらぱらと見ているだけで、ああ、そうだこの長さは3のルートだととか思う。その点はわかりやすい。実際に立体を作ってみると、やや地味かなという感じもするのと、素材の紙は正方形の以外の作品が多い。きちんと切り出して多少厚みのある紙で作れば面白いのだが、普通の折り紙を切り出すとやや弱々しいものになる。

Chapter1 作図問題
Chapter2 一定比率の用紙を使って
Chapter3 正三角形ユニットで作る正多面体
Chapter4 正八面体から立方体へ
Chapter5 正二十面体から正十二面体へ
Chapter6 ユークリッド幾何学で作図不可能な問題を”おりがみ”で解く

 同書には、「ハミルトンの世界一周パズル」の話もある。ハミルトン路(Hamiltonian path)である。これ、平面でアルゴリズムを考えるというより、実際に正12面体で考えると、なかなか味わい深い。
 同書を購入した際のお薦めに「はじめての多面体おりがみ―考える頭をつくろう!(川村みゆき)」(参照)があり、こちらはどうかなと買ってみた。
cover
はじめての多面体おりがみ
考える頭をつくろう
川村みゆき
 これはまた多面体好きにはたまらない本である。著者はこう書いている、「多面体は好きですか? 多面体をつくったことがありますか? わたしはこどものころから多面体が好きでした」。その思いが作品を通してじんわりと伝わってくる。実際に作ってみると、解説のディテールがしっかりして驚く。これはべたに理系の頭だと思ってもう一度著者見ると「多面体の折紙―正多面体・準正多面体およびその双対(川村みゆき)」(参照)の著作があり、この原型は作者が素粒子物理学の大学院生時代に自費出版したものらしい。なるほど。
 作品はまさに多面体が意識されているせいか、立方体なども簡素な一例のみであり、クラフト的な意味合いは薄い。できあがった構造もやや弱いのでノリで補強したほうがよい点もある。
cover
ユニット折り紙
エッセンス
布施 知子
 もうすこしクラフト的な本も欲しいなというか、以前やったユニット折り紙的なものもよいかと探すといろいろある。そのなかでやはり多面体志向がよいなと思って、「ユニット折り紙エッセンス―布施知子のユニット集成 立方体、12面体、20面体から星組みまで(布施知子)」(参照)を選んでみた。まあ、正解。千代紙などで作ってみるときれいな柄が浮かび上がる作例がたくさん収録されている。説明もわかりやすい。ユニットの発展もわかりやすい。
 ユニット折り紙は手間がかかる。その間、ぼんやりとしているわけでもなく、きちんと折り目を作るなどそれなりに集中する。多数のユニットを作成していくうちに、折りの手順も暗記する。もしかしてこれってボケ防止にもよいのではないかと思ったら、その手も本もありそうだし、子どもの早期教育なんかへの応用もありそうだ。しかし、そういう二次的なアプリケーションというより、純粋に多面体の面白さやできあがった達成感みたいなものだけでも十分いいんじゃないか。

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2010.07.29

ウィキリークスによるアフガン戦争暴露文書はしょぼそう

 25日、政府や企業の内部告発を公開することで有名な「ウィキリークス」(参照)が、アフガニスタン戦争に関する米軍および米政府機密文書約9万200点中7万5000点を暴露した。これが一部ではあるが、1971年の「ペンタゴン・ペーパーズ」になぞらえて報道されている。「ペンタゴン・ペーパーズ」は、ベトナム戦争に関する米政府の機密文書で、当時ニューヨーク・タイムズに持ち込まれ暴露された。その18か月後、米政府はベトナム撤退を余儀なくされた。
 今回の暴露もおそらく「ペンタゴン・ペーパーズ」のような反戦的イデオロギーの関連があるだろう。時期的に見ると、アフガン戦争の補正予算議会審議と11月の中間選挙への影響を狙ったものだろう。
 今回の暴露に当たっては、ウィキリークスも兵士や関係者への危険性も配慮し、ネット公開以前にリベラルなメディアと見られるニューヨーク・タイムズ、ガーディアン、シュピーゲルの3メディアに同内容を渡しており、この間彼らは独立して可能なかぎりの検証作業も加えている。暴露時期もこれらのメディアと歩調を揃えていた。なお、1万5000点の暴露が控えられたのはたれ込み元の要請らしい。暴露の経路としては、機密情報漏洩容疑でクウェート軍事刑務所に拘束されている米情報分析員ブラッドレー・マニング(Bradley Manning)特技兵が疑われている(参照)。
 暴露された内容だが、現状メディアが検証した範囲では、新事実がないわけでもないが、重要な情報が含まれているわけでもなく、概ね既知のことばかりで、「ペンタゴン・ペーパーズ」に比ぶべくもない。扱っている期間も米国ブッシュ政権下での2004年1月から2008年12月までに限定されており、オバマ政権下での同戦争の問題には直接関わらない。オバマ政権としても未知の情報はないとしている(参照)。
 フィナンシャル・タイムズ「Afghanistan leaks」(参照)は内容を次のようにまとめている。


They throw more light on how the Nato military effort has killed innocent civilians.

これらは、NATO軍よる無辜の民間人殺害により注視している。

They show how the Taliban has enhanced its insurgent capability.

これらは、タリバンが反対勢力を強化するようすを示している。

Above all, they indicate how the Pakistani intelligence services are playing a double game, backing the Nato effort while colluding with the Taliban.

結局のところ、これらは、パキスタン諜報機関が、NATOを支援しつつタリバンと共謀するという二枚舌を示している。

But there is little here that we did not know before.

とはいえ、我々がこうしたことを従来知らなかったわけでもない。


 当のニューヨーク・タイムズも「Pakistan’s Double Game」(参照)でパキスタンの二枚舌に焦点を当てている。読んでいくと、このあたりの論調は、アフガニスタン戦に対する反戦というより、むしろパキスタンに対する強行論のように見えないこともない。

If Mr. Obama cannot persuade Islamabad to cut its ties to, and then aggressively fight, the extremists in Pakistan, there is no hope of defeating the Taliban in Afghanistan.

もしオバマ氏がパキスタン政府にパキスタン内の過激派との連繋を断ち切り、強く戦うように説得できなければ、アフガニスタン戦争でタリバンを打ち負かす希望はない。


 率直に言えばこの論調は、パキスタンを無政府状態に陥れかねない、かなり危険なものであり、インドや中国も巻き込んで難しい問題を引き起こす。
 暴露内容がどの程度信頼性のあるものかについては、ガーディアン「Afghanistan war logs: Massive leak of secret files exposes truth of occupation」(参照)が論じているように、注意が必要になるだろう。
 蚊帳の外に置かれたワシントンポスト「Wikileaks' release of classified field reports on Afghan war reveals not much」(参照)がこうした情報がもたらしかねない危険性への留意を促していることや、テレグラフ「Wikileaks' Afghan war log should not damage the war effort」(参照)も同種の懸念を表明している。
 薄目で見るかぎり、今回の騒動は、ベトナム戦争神話というべきもののリバイバルが各種の類例の物語を紡ぎ出す一例のようだ。

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2010.07.28

Yahoo! Japanと米Googleの提携、雑感

 日本のインターネット検索最大手Yahoo! Japanが米Googleと提携し、検索のサービスに米Googleの検索エンジン(検索処理部位)を使うことになった。最初の報道は米ダウジョーンズ・ニュースワイヤーズだったようだ(参照)。
 2004年以前だが、Yahoo! JapanがGoogleの検索エンジンを採用したこともあったので、その点からすれば、さほど不思議でもない。だが、Yahoo! Japanというからには米国Yahoo!との関連があり、米Googleと対立的な関係にある米マイクロソフトによって買収が取り沙汰される米国Yahoo!という現状構図からすれば、日米のYahoo!は、対Googleの経営で逆向きの戦略を取ることになる。
 また、米マイクロソフトはBingと呼ばれる検索エンジンを持っており、米Yahoo!はBingの採用を見込んでいることを考慮すると、日米のYahoo!が協調するなら、Yahoo! JapanもマイクロソフトのBingを採用するほうが自然だった。では、なぜYahoo! Japanが米Googleと提携することになったのか。いろいろ取り沙汰されている。なお、Googleの場合、日本の日本法人のグーグル株式会社は米Googleの経営指針の下にあるので、日米Googleの経営上の差はほとんどない。
 今回の提携話の基本は日米Yahoo!の資本関係だ。名前の関連からYahoo! Japanは米Yahoo!の子会社のように思う人もいるかもしれないが、米Yahoo!がもつYahoo! Japanの株式は34.78%で二位であり、筆頭はソフトバンクの38.6%である。つまり、Yahoo! Japanは米Yahoo!の意向を押さえ込める。米Yahoo!を買収しようとするマイクロソフトも押さえ込めるということでもある。こうした資本関係から見るなら、今回のYahoo! Japanが米Googleと提携は何ら不思議でもないし、Yahoo! Japanの独自の経営判断ということだが、ソフトバンクの意向を酌んだ面もあるだろう。
 するとここでもう一つの図式が浮かぶ。Appleと組みiPhoneを展開しているソフトバンクにとって、親Googleの戦略は何だろうか?
 この構図がややこしいのは、スマートフォンの世界において、近未来、ソフトバンクが扱っているiPhoneが、Googleが提供するスマートフォン基本ソフト機アンドロイドと対立することだ。今回の提携は、ソフトバンクが敵対関係になりうる米Googleを飲み込む方向に向かっていることになる。率直に考えれば、AppleのiPhoneに依存するリスクを減らすということがあるだろう。
 しかし、近未来のスマートフォン対決の布石という理由が今回の話題の主軸ではない。今回の提携はよりWebの世界に直接的な影響をもたらす。主要な理由はなにか?
 私が思うのは、米Googleの検索分野での圧倒的な力への屈服だろう。一部ではマイクロソフトのBingも強力な検索機能を持っていると言われるが、実際に個別例で比べてみればわかるが、現状ではお話ならないほどBingは弱い。「グーグル秘話」をキーワードにしてGoogleとBingで検索してもその性能差は歴然とする。特に、ツイッターが盛んになってから、数分を争う最新情報の検索評価の点でGoogleにかなう存在はなくなってしまったと言える。
 もう一点、具体例を挙げると、現時点の中国とGoogleの関係はどうなっているかということで「Google 中国」のキーワードで検索すると、Bingではストーリー的な意味は読み取れないが、Googleでは、その即時性と解析から、ぼんやりとしてではあるが検索結果からストーリーが結果的に浮かび上ってくる。期間を限定するとストーリーを構成する意味のクラスターも見えてくる。Googleの圧倒的な強さというか、結果的なセマンティックWebとしての強みまである。
 私は、このGoogleの圧倒的な強さこそが中国に屈しなかった理由もであると考えている。中国政府による検索結果の操作を是としがたいGoogleは、今年3月に検閲を停止し、中国向けに展開しているGoogle.cnを検閲のない香港サイトGoogle.com.hkに誘導した。これに怒った中国が、中国向けの検索認可権でもあるインターネット・コンテンツ・プロバイダー(ICP)事業ライセンスを更新するかが注目されていた。Googleとしては中国が認可しないなら撤退する本気を示していた。
 結果だが、ICPライセンスは更新されたので、中国がGoogleに当面折れた形になっている。ただし、Google.cnで閲覧が撤廃されたというのではなく、Googleらしいメンツも潰さないでおく程度の処置だとも言える。
 それにしてもICPライセンスで揉めている間、中国向けの検索サービスは、Googleがなくても中国資本の百度があればやっていけるという観測や、米Yahoo!やマイクロソフトは中国の検閲に折れている現状もあり、中国はこれらの企業を使ってGoogleをはね飛ばすという観測もあった。
 そうならなかったのは、中国の知識人がGoogleの底力を知っていたからだろう。Googleについて包括的に議論したかに見える「グーグル秘録(ケン・オーレッタ)」(参照)だが、Googleの膨大なデータセンター投資や、主要事業分野が検索であるという点までは的確に描写しているものの、このデータセンターでどのような処理をしているかという技術面のフォローはできていない。
 実は、検索のための基本技術の面で、Googleはすでに圧倒的なシステムを構築している。世界の情報をいかに高速に検索するかというために、ハードウェアのレベルから独創的で徹底的な技術と資本が投入されていて、他の検索エンジンがこれに追いつくことは、ほぼ不可能な次元にまで到達している。
 これだけの技術とそれがもたらすものを拒絶したら、中国といえども、世界の情報の速度と豊富さからただ排除されるだけのことになる。中国政府は冷静に技術の世界を理解したと見てよいだろう。
 今回のYahoo! Japanと米Googleと提携の話に戻れば、日本国内の検索市場を単純計算すれば、従来Yahoo! Japanが担っていた58%とGoogleが担っていた38%が統合される。日本の検索市場の96%をGoogleが握ることになる。独占禁止法の問題はないか心配になるが、検索結果のビジネス利用の点で、Yahoo! JapanとGoogleが分離されるため日本の公正取引委員会は問題ないと判断している(参照)。
 現状だけからすれば、検索市場においてYahoo! Japanが20ポイントもGoogleより有利なのだから、Googleに折れたような提携をしなくてもよさそうなものだが、検索技術、とくに検索精度において、Googleにすでに負けていると言ってよいし、Yahoo! Japanの収益源に関わる部分はしだいに検索以外の総合ポータルやオークションに移ってきており、これらの活用にもGoogleが便利だ。さらに、検索エンジン技術分野における対Google戦で消耗するのも避けたかったのだろう。
 加えて、Googleは検索サービスをメインにしているとはいえ、「グーグル秘録」が明らかにしたようにビジネスで見れば、中抜きの広告屋であり、Googleが買収済みのダブルクリックなどから継承した広告技術も強化されているため、Yahoo! Japanとしても検索周りのWeb広告の取り次ぎをGoogleに集約したいという意味合いもあるだろう。

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2010.07.27

[書評]グーグル秘録(ケン・オーレッタ)

 「グーグル秘録(ケン・オーレッタ)」(参照)、オリジナルタイトル「Googled: The End of the World As We Know It 」(参照)は、すごい本だった。すごい内容が描かれていた。どのくらいすごいのか?

cover
グーグル秘録
ケン・オーレッタ
 それは、大地の揺らぎと鳥と蛇の群れ、そして一機の飛行機で始まる。レニー・ブルースなら驚かないけど、台風の目の中にいる自分はどんだけ動揺してるんだ。君の都合なんか気にもかけずに、世界は自分勝手に動き出している。世界は終わりだってことを僕らは知っている。でも、いい感じ。
 そのとおり。1987年、R.E.M.の曲、"It's The End Of The World As We Know It"(参照・YouTube)である。




It's the end of the world as we know it.
It's the end of the world as we know it.
It's the end of the world as we know it and I feel fine.


 世の中がダメだとわかれば、こんな世界はもうおしまいさ。それで、いいんじゃね、"and I feel fine."というわけだ。それが、Googled(グーグルされた)ということ。本書のタイトルはそう語る。
 "Google"という固有名詞を一般動詞化して、"Google it."といえば、「ググれ(Googleで検索しろよ)」という意味だが、本書タイトルの"Googled"はそうではない。「Google化される」ということだ。
 何がGoogle化されるのか? その顕著な対象は新聞など伝統メディアである。こう使われている。


グーグルと関係が良好であるかどうかにかかわらず、伝統メディアのほとんどが「グーグル化される」という不安を抱いていた。

 新聞などのメディアが発する情報は、その収入源である広告を混ぜてから読者・視聴者に提供されたものだった。Googleが台頭してからは、必要な情報だけGoogleで検索して読まれるようになった。さらにGoogle化は進む。テレビ番組は広告がカットされ、Googleが保有するYouTubeに無断掲載される。しかもそれにGoogleは別の広告を付ける。Googleの検索連動広告であるアドセンスの興隆でも広告業界の利益は奪われる。
 各種の業界がその収益源を失っていく。それがGoogle化されるということだ。本書は、くどいほどにその姿を描き出す。
 各種業界の利潤を産むプロセスをGoogleは中抜きする。その儲けでGoogleは太り出す。だが、手間のかかるコンテンツ(提供される内容)作成には手を出さない。かくして、コンテンツ産業への費用が削減されていく。本書はこれでよいのかと問いかける、執拗に。
 各産業の中抜きだけが「Google化される」という意味ではない。労働環境も「Google化される」。有名なのは、20%ルールだ。Googleは開発に携わる社員の勤務時間の20%を勝手な研究に使ってよいとしている。会社にいながら好きな仕事ができる。しかもそうした勝手な研究がきちんとGoogleの成果に結びつく。他の企業はこれをどう見るだろうか。開発に関わる人材にGoogleの20%ルールのような待遇を与えないと人材は逃げていく。Googleに習うしかない。かくして、シリコンバレーや同種の産業が「Google化」され、開発者が優遇される。
 まだある。Google化された世界のコンテンツは無料だ。この点は日本も同じ。例えば、新潮社の雑誌「考える人」2010年8月号(参照)に村上春樹ロングインタビューが掲載された。私は村上春樹のファンなのでこれを買って読んだが、一段落分感想を添えて「ちょっとだけ抜粋」したブログのエントリーに、はてなブックーマークが500以上も集まる(参照)。雑誌記事の備忘のためのブックマークであれば、雑誌購入に関連するWebページをブックマークすべきだろうがそうはならない。無料で読める部分で済んでしまう。コンテンツのパーツ化も、Google化された世界のありふれた風景である。邦訳書のサブタイトルに「完全なる破壊」とあるのも、その意図を酌んでことだろう。
 そんなことは、みんな知っている、"As We Know It"である。
 しかし、本書を読み終えた私は、そのことはそれほどすごいだとは思わない。すごいと思ったのは、本書の存在だ。著者オーレッタ氏がこの本のためにした地味なそして膨大な取材だ。この本の大半は、人間に直に合って話を聞くという人間臭い作業の地味で膨大な繰り返しから成り立っている。原注には裏付けとなる発言の日時がいちいち記されている。
 この本は、一人のジャーナリストが、"Google it"を横目に、ただ人間的な知性によって成し遂げた作業の集積であり、Google的な知識に立ち向かうジャーナリストの挑戦でもある。Googleによってジャーナリズムの息の根が止まるといわれても、ジャーナリストはそれに立ち向かうことができるという挑戦の証でもある。
 ここまでやるものかと私は思ったし、そこにこそ感動した。この労作の意義を理解したローレンス・レッシング氏も「法律文書を読むときと同じ慎重さで草稿にに目を通し」たという。
 もう一つ感動したことは、Googleが、"Don't be evil" (悪をなすな)というとき、私たちの市民社会がそれをどのように信じるのかという水準を、本書によってジャーナリズムが明確に示したことだ。著者オーレッタ氏がGoogleに突きつけたのは市民社会の公正な視線であった。本書は当初、Googleをターゲットにしていたわけではなかった。メディアの行く末を模索することだった。

 選んだ素材はグーグルだったが、同社は協力を渋った。共同創業者をはじめ、同社幹部は本の電子化には熱心だが、本を読むことには大して興味がないのだ。執筆に協力するのは、”時間の無駄”ではないかと懸念していた。そこで私は、本書の使命はグーグルがしていることや、メディア業界をどのように変えようとしているのかを理解し、説明することであり、グーグルは私のプロジェクトを検索と同じ発想で考えるべきだと訴えた。

 Googleが、"Don't be evil" (悪をなすな)を体現しているなら、このジャーナリストの挑戦を拒むことはできない。Googleは受け入れた。本書の出版前にGoogleの査察は入っていない。
 本書は4部構成で、第1部は序章だが、大半を占める2部と3部はクロニクル(年代記)の構成になっている。人びとの証言を元にしたGoogleの歴史が順序立てて細かく描かれている。邦訳タイトルが「Google秘録」となっているのもその点を重視したのだろう。
 描かれている人物はみな非常に魅力的だ。創業の二人とCEOのシュミット氏が主役になるのは当然だが、懐かしのアーンドリーセン氏も一貫したナレーターのように登場する。
 人物像のなかで、私が特に着目したのは二人。一人は、ビル・キャンベルである。シリコンバレーを支える最長老と言ってもよいだろう。彼がいなければ今日のGoogleが存在しえなかったことを本書は明確に描き出した。キャンベルはまたスティーブ・ジョブズのメンター(師匠)でもある。その意味も本書の最終に描かれていく。
 もう一人は、シェリル・サンドバーグである。彼女がGoogleのもっとも上質な文化を創り上げたと言えることが本書でわかる。そして、彼女がGoogleを辞めてフェースブックに移っていくようすは本書の圧巻である。
 IT企業コンサルタントの梅田望夫氏は、「人の流動こそ新成長の鍵」(参照)と語ったが、そのドラマのすべてが本書にあると言ってもよいだろう。

なぜニューヨーク・タイムズやCBSは、CNNを作れなかったのだろう? なぜスポーツ・イラストレイテッドがESPANを始めなかったのだろう? インスタント・メッセンジャーを世に送り出したAOLが、なぜフェースブックを生み出せなかったのだろう? なぜIBMはソフトウエアをマイクロソフトに譲ったのだろう?
 変化の波がどこに向かうのか、誰も確信できない。

 本書もその解答を示さない。ただ、人びとのドラマが歴史を作り、動かしていく事実だけを人間の肉声を通して描いていく。とても人間臭く。シリコンバレー版十八史略のように。

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2010.07.26

「後期高齢者医療制度」廃止よりも長妻大臣大丈夫かなと心配になった

 23日、厚生労働省・高齢者医療制度改革会議が現行の後期高齢者医療制度に代わる新制度の原案を発表した。「新高齢者医療制度」とか呼ばれるのだろうか。予定では、年内に最終案をまとめ、来年の通常国会で法案として提出するらしい。
 今回の原案について、財源の見通しがない拙速さの点ですでに大手紙社説がこぞって批判しているが、ねじれ国会の中、法案として通るかといえば、案外、通らないとも言い難い。この問題、難問過ぎて野党側としても代案はない。現行の「後期高齢者医療制度」のように75歳の線引きでやっていきましょうとオモテ立って言える政党ももうない。
 今回の新案は、実際のところ、裏でさすが厚労省官僚さんたち仕事しているなと感得したのは、「後期高齢者医療制度」とさして変わっていない点だった。全体の負担の五割を税、四割を現役世代からの支援(健保・協会けんぽ)、一割を高齢者の保険料という枠組みにはなんら変化がない。また高齢者の線引きも軒下できちんと生きている。まあ、変わりようもない。絵に描いたような朝三暮四だけど、これが政治っていうものかな。
 上手に看板を付け替えて玉虫色に見せてくれたのは、おそらく「子ども手当担当局長を降格=幹部人事を内定-長妻厚労相」(参照)のような左遷人事を長妻大臣させるほど問題をこじらせちゃうのもなんだし、他に名案もないしということなのだろう。
 NHKニュースで映し出されていた長妻大臣を見ながら、「後期高齢者医療制度」廃止よりもこの人、大丈夫かなと心配した。厚労省大臣、向いてないんじゃないか。マニフェストで廃止すると決めているからやるのだというだけの理屈なのではないか。
 そういえば参院選の際のマニフェストでは達成事項の二番目に国家戦略室があったが、選挙後に菅首相はさっさとこれを潰した。それもなんだかなとは思うが、そのくらいの臨機応変・君子豹変はあってもいいのではないか。というか、日々存在感が薄れていく菅首相も心配だが。
 今回の新制度では、「後期高齢者医療制度」が75歳で一律区分けしたのを止め、福田政権以前の自民党時代の制度に戻すことになる。ようこそ昭和時代へ。現行制度の加入者約1400万人のうち、約1200万人が国保に、約200万人が被用者保険に戻る。
 露骨に言うと、被用者保険のあるサラリーマンとその配偶者を無職の老人と一緒にすんなよ、と。サラリーマンの息子の扶養に入れる高齢者は保険料負担を免れる。持つべきものは高給取りの息子というか婿。国保だけの一人暮らしの高齢者は世帯主なんだから保険料負担しろよ、と。もしかしてそれじゃ、高齢者間の格差が復活するんじゃないのとかごく若干疑問に思う人もいるかもしれないけど、そう言える世間の空気ではない。
 「後期高齢者医療制度」でめちゃくちゃ批判された75歳の区切りだが、これ、実は新制度でも生きている。新制度でも、国保の財政区分を65歳か75歳かいずれにせよ高齢者の線引きで別勘定にすることになっている。区分後は、なぜか都道府県単位で運営する。大きな差が出ないように標準保険料が設定されるとのことだが、補正のカネはどこから出るのだろう。また現役世代のほうの国保は、市区町村単位でやるそうだから、すごく複雑なシステムになる。
 結局、この問題も、郵政問題と同様に、なんのための政権交代だったのか非常に悔やまれる一例で終わってしまいそうな感じがしてならない。

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2010.07.24

インフルエンザと結核の昔話

インフルエンザは宇宙からの影響力?
 インフルエンザにもう少しこだわる。インフルエンザ(Influenza)という言葉は、18世紀にイタリア語から英語に入ってきた外来語だが、意味は英語の"influence"(影響)と同じ。現代人からすると、インフルエンザはウイルスの影響と考えたいところだが、当時はなぜか宇宙にある天体の影響と考えられていた。
 インフルエンザ(Influenza)という言葉が英語に入ったのは1743年のこと。全欧を覆った流行性感冒が"influenza di catarro(咽喉・鼻粘膜炎症のインフルエンザ)"と呼ばれた。人間の病気が、天体によって起こるという考え方は現代からすると奇妙だが、当時は広く受け入れられていたようだ。
 典型例には、1493年にスイスのアインジーデルンで生まれたパラケルスス(Paracelsus)の医学論がある。彼は各種の病気は、天体がもたらす毒が原因だとし、また身体は天体や金属と調和していると考えた。呪術的な医学観に過ぎないが、病気の原因について外在的な要因と内在的な要因の両面を総合して考えていた。
 18世紀になってもインフルエンザの理由は、季節的な流行から天体の影響と見なされていたようだ。しかし18世紀末からの英雄的治療では、瀉血や瀉下によって身体内の毒を排出することが治療になるという考えで行われたものだが、内在的な病因への重視である。パラケルスス的な医学観の一面でもある、身体内の毒という内在的な要因が重視され、天体といった外部の要因は切り離された。

ベルナールに始まる近代医学と時代精神
 英雄的治療時代が終わり近代的な医学が始まるのは、1865年にクロード・ベルナール(Claude Bernard)が「実験医学の原理(ntroduction a L'etude De la Medecine Experimentale)」(参照)を著したころからである。フランス、ローヌ地方で1813年に生まれた彼は。人間を実験可能な対象とすることで近代医学を切り開いた。
 背景には、彼がデカルトを重視ししたように、人間を一種の機械と見る身体観があった。反面彼は、生体の独自性について内部環境(Milieu intérieur)という概念も考慮していた。その着想にはヒポクラテス以来の四体液説があり、パラケルスス的な考え方の残滓もあったかもしれない。
 ベルナールの内部環境という考え方は、後の時代にホメオスタシスとしてまとめられていくが、彼自身はそれとはやや違った考え方をしていたようだ。実験的な方法論を重視することで、生体が機械論として捉え切れない現実に直面し、困惑していたのではないだろうか。現実的には、病因と疾病の関係は、原因と結果の関係として直接的にはつながらない。確率的なつながりをしている。彼はこれを医学実験の平均値という考えでまとめられていく。現代医学のEBM(evidence-based medicine:証拠に基づいた医療)の考え方に近い。
 ベルナールが切り開いた実験医学の歴史は、ベルナールの密かな困惑とは別に、病因の外在論に傾いていく。1862年、彼はルイ・パスツール(Louis Pasteur)とともに低温殺菌法(パストリゼーション:pasteurization)の実験を行い、腐敗・発酵という現象が細菌といった外在因子によることを証明した。これらの現象を病気と見なせば、やはり病気は細菌など外部の要因によると考えられた。
 パスツールはこの業績を元にやがてコッホと並び現代細菌学の父と呼ばれるようになるが、彼の思惑は、1861年の「自然発生説の検討」(参照)に見られるように、生気論の撲滅であった。アリストテレス以来、西洋では生命の自然発生説が唱えられていたものだった。関連して興味深いのは、ほぼ同時代この時期、1859年に、チャールズ・ダーウィン(Charles Robert Darwin)の「種の起源(On the Origin of Species)」が出版されたことだ。キリスト教的な創造論に対しても近代世界は反論を提出しはじめていた。
 現代世界から見ると、パスツールにもダーウィンにも「遺伝」という共通の概念がありそうだが、1865年に発表されたメンデル(Gregor Johann Mendel)の遺伝研究が実際的に知られるようになったのは20世紀に入ってからである。パスツールやダーウィン時代では、遺伝の因子は、現代とは異なり、パラケルススのホムンクルス(Homunculus)や、あるいは病気をもたらす細菌のようなものとして理解されていたのではないだろうか。

細菌学を切り開いたコッホ
 生命は無からは発生しない。病気は外在的な病原体から発生する。こうした自然観が19世紀半ばに確立し、医学もこれに基づいてコッホ(Heinrich Hermann Robert Koch:1843 - 1910)が推進した。
 コッホは、1876年、後にコッホの原則を満たすものとして炭疽菌を発見し、各種の病因に細菌が存在することを証明した。と同時に、各種の病気の原因は細菌ではないかと見なされる時代が続き、インフルエンザをもたらす「インフルエンザ菌」や脚気をもたらす「脚気菌」といった医学の間違いも発生した。「脚気菌」はまったくの幻想であったが、インフルエンザ菌はインフルエンザの病原体ではないものの、髄膜炎を起こす病原体として注視されるようになり、日本の社会では今なお現在の問題でもある。
 細菌学が19世紀末の医学を変容させていくなか、当時の世界がもっとも重視したのが、多数の死者を出す、死病ともいえる結核であった。結核菌もまたコッホが発見したものである。1882年3月24日の「結核の病因論(he Aetiology of Tuberculosis)」によって証明された。これを記念して3月24日は世界結核デーともされている。しかし、結核菌の存在が確定されても、結核の有効な治療はなかなか可能にはならなかった。
 かくして19世紀後半になり、コッホを擁したドイツでは優生学が興隆し始める。これは細菌学の逆説でもあった。細菌学が進展するなか、「インフルエンザ菌」や「脚気菌」といった医学の間違いもだが、細菌学の考え方の枠組みが疑問視されるようになってきた。特に結核菌に顕著だが、感染者が診断されるほどには結核を発症しない人が増えていった。

グロートヤーンの優生学
 病因としての細菌に間違いはないのだが、なぜ感染者には発症する人と発症しない人がいるのだろうか? ベルナールの疑問と相似的な疑問でありながら、優生学誕生に寄与したグロートヤーン(Alfred Grotjahn:1869 - 1931)は、これに社会的要因と遺伝的要因を組み込んだ。社会的な限界に加え、彼は「その限界は、肺結核が発症しやすい体質において見い出すことができ、この体質はここでもまた多くの場合、遺伝による身体の低価値にもとづいている」とした。社会的な要因はある意味で可視だが、それ以外の病因は遺伝という概念に帰着されていった。
 グロートヤーンの考えは1930年代には衰退していく。彼の死が衰退の原因ではない。「優生学と人間社会」(参照)は経緯をこう述べている。


 肺結核の発症を遺伝に結びつける、グロートヤーンの先のような主張が、特効薬ペニシリンによって肺結核が十分治療可能なものとなる三〇年代以降、影をひそめるようになるという事実は、かつて遺伝概念が担っていたそうした機能をよく物語っている。
 そして、優生学の課題は、遺伝として説明された不治の病や障害をもつ人びとがその生命を再生産する回路を、何らかの方法で遮断することによって、彼らの病や障害そのものを将来社会から根絶することに、求められたのである。

 ここに錯綜した問題が潜んでいる。

ペニシリンとストレプトマイシン
 単純なところでは結核を治療可能にしたのはペニシリンではなくストレプトマイシンであり、年代も混乱している。フレミング(Sir Alexander Fleming)が、1928年、ペニシリンを発見したのは偶然であった。彼は黄色ブドウ球菌を培養したペトリ皿の滅菌に失敗しカビを生やしてしまったが、たまたまそれを観察すると、カビが黄色ブドウ球菌の繁殖を阻止していることに気がついた。翌年これをまとめて発表した。抗生物質の発見と言われる。が、異論もある(参照
 発見されたペニシリンだが彼はこれを治療用に精製する手法を見つけることはできなかった。精製が可能になったのは、発表から11年後の1940年、英国オックスフォード大学の化学者ハワード・フローリーとエルンスト・ボリス・チェーンの研究による。1940年代以降、ペニシリンが臨床で利用されるようになった。
 肺炎にはペニシリンが有効だったが、結核には効かなかった。1943年、結核に効く抗生剤としてストレプトマイシンを発見したのは、ラトガース大学のセルマン・ワクスマン (Selman Waksman)であった。実際には彼の指導にあったアルバート・シャッツ(Albert Schatz)であり、もめた(参照)。
 ペニシリンが臨床で利用され肺炎治療に利用されるようになったのは1942年以降、ストレプトマイシンで結核が治療されるようになったのは第二世界大戦後と見てよい。また、抗生物質の登場によって長時間にわたる外科手術が可能になり、これらが戦争時の負傷者にも適用された。

健康と栄養の登場
 グロートヤーンの優生学の主張が1930年代以降影を潜めるとしても、ストレプトマイシンによる結核治療がきっかけではない。では、結核と優生学の関係はどのようなものだったのだろうか。二点ありそうだ。
 まず、1930年代以降の優生学的主張が障害者などの断種として実現してきたことは確かである。これは遺伝の因子が人間種に対する病因のように設定されたことを意味する。これは病因としての細菌の延長としての遺伝因子はないだろうか(もちろん遺伝子はまだ発見されていない)。
 もう一点は、グロートヤーンの優生学主張が、優生学という文脈をしだいに離れて「健康」という概念を生み出していくことだ。あるいは「健康」という概念に優生学の一部が統合されていったのではないだろうか。有名なことだがナチスは非常な健康国家であり、今日の先進国の先駆として国家規模での禁煙を実施していた。
 さて、第二次世界大戦後のストレプトマイシンの登場によって結核は撲滅したのだろうか。たしかに、結核は治療可能な病気になった。しかし全体的に見たとき、結核を現代社会から追い出したのは、抗生剤ではなかった。
 ストレプトマイシンを発見したワクスマンの高弟でもあるルネ・デュボス(René Jules Dubos:1901-1982)が1960年に来日公演をした際、聴衆にこう問いかけた、「この数年で日本人の結核死亡率が激減している理由は何だかと思いますか?」 聴衆はストレプトマイシンやツベルクリンとBCGの体制を想起した。彼はこう答えた、「栄養の改善です」。

統計的に結核死亡率を見ていくと
 まさか。しかし、ストレプトマイシンに確かに効果があるとしても、くじ引きで安静にのみしていた群でも回復しているとする研究(BMJ 1998;317:1248)もあった。ストレプトマイシンに焦点を当てても、それが決定的な要因だったとも言い切れない。ツベルクリンとBCGの体制はもっと疑わしい。もっとも効果があると見られる乳児で25%ほど発生率を抑える。1996年から1999年と近年になるが、乳児の結核発生は220人ほどで死者は1人ほど。BCGを100万人体制で接種してもおそらく死者が1人増える程度だろう。
 統計的に結核による死亡率を見ていくと、英・独・仏では19世紀初頭からただ単調にだらだらと減少しているだけで、コッホによる結核菌の発見も、ストレプトマイシンも、BCG導入の影響も見られない。逆に国民の身長は伸び始めている。要因として考えられるのは、やはり栄養しかない。(詳細に見ると、15歳から44歳までの英国女子の死亡率には抗生剤の影響がある。)
 デュボスによれば、歴史を見ていくと、人類は一度は結核をそれなりに抑え込んでいたが、これが再発するのは産業革命に沿って工場労働者が増えたからだったという。密室での集団行動が結核を蔓延させていた。デュボスは述べていないが、これに学校を加えてもよいだろう。
 近代国家が人びとを労働者として国民として徴集(ゲシュテル)したとき、自然(ピュシス)の力である結核も徴集された。そして徴集された近代の技術が結核という自然を打ち破ったかに見えたが、実は近代医学と細菌学の進展は、実はその徴集の随伴的な事象であった。
 抗生物質の登場で細菌性の病気は克服可能になったが、これもまた大きな流れで見れば、自然の力に勝利したわけではない。抗生物質を使うほどにその効き目は落ち、自然界に抗生物質をまき散らし、耐性菌を増やした。肺炎によく利用されたマクロライドという抗生剤は世界的に耐性菌が多く出現した。米国ではその耐性菌は20パーセント、ドイツでは10パーセント、南米では15パーセント。日本では、80パーセント。

参考
「優生学と人間社会(米本 昌平、ぬで島 次郎、松原 洋子、 市野川 容孝)」(参照
「クスリ社会を生きる(水野肇)」(参照
「医原病(近藤誠)」(参照
「麻疹が流行する国で新型インフルエンザは防げるのか(岩田健太郎)」(参照

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2010.07.23

インフルエンザ菌を巡る話

 昨日のエントリ(参照)で一個所だけ「インフルエンザ菌」という言葉をそのままの形で入れておいた。「それは倫理性を単純に相対化するということではない。著者のインフルエンザ菌の予防接種の見解にも表れている」という部分だ。「インフルエンザは菌ではなくウイルスですよ」というご指摘が入るかもしれないとは多少思った。
 細菌とウイルスを混同する人は少なくない(参照参照)。私もよく事実認識の間違いや誤字脱字をする。幸い、この点ご指摘をいただいたが、この部分は、該当書「感染症は実在しない―構造構成的感染症学(岩田健太郎)」(参照)をそのまま受けたものだった。


 子どもの命は貴重ですが、リスクを無くすことはできません。しかし、明らかなリスク減少効果をもたらす医療行為もあります。

 明らかなリスク減少効果をもたらす医療行為には、乳児ビタミンK欠乏性出血症の予防の目的で処方されるK2シロップなどもあるが、同書では予防接種を挙げ、この文脈にインフルエンザ菌を置いている。

それが予防接種です。特にインフルエンザ菌、麻疹、水痘の予防接種などは小児の死亡を減らす効果が示されています。


 私はインフルエンザ菌の予防接種を推奨しており、日本でもっときちんと接種されるべきだと思っています。

 この「インフルエンザ菌」がインフルエンザのウイルスを指していないことは後続の文脈でわかる。

それは、物言わぬ小さな子どもが細菌性髄膜炎や急性喉頭蓋という死に至る病気で死んでしまう理不尽が、私の価値観では容認できないからです。

 同書では、インフルエンザ菌がもたらすものに細菌性髄膜炎が明記されていることから、明白にインフルエンザ・ウイルスの誤記ではない。
 インフルエンザ菌は、Hib(ヒブ)とも呼ばれるHaemophilus influenzae type bを指している。インフルエンザ菌には、インフルエンザという名前が付いているものの流行性感冒をもたらすインフルエンザとは直接関係はない。1892年にリチャード・ファイファー(Richard Friedrich Johannes Pfeiffer)が当時のインフルエンザの原因として分離し、発見したとされている。異論もあり、ファイファーと同年に北里柴三郎も分離している(参照)。その後、インフルエンザ菌はインフルエンザの病原体ではないことが明らかになったが、当時のままインフルエンザの名前が残った。誤解しやすいため、最近ではメディアでも「ヒブ」または「ヒブ(Hib)」の名称を取ることが多くなりつつある。
 インフルエンザ菌による細菌性髄膜炎の患者数は、2009年時点で日本国内で年間約600人ほどいて、乳幼児、特に1歳未満の乳児の発症が多い。罹患者の5%が死亡し、25%に発達遅滞や聴覚障害などの後遺症を残す。概算すると日本国内で毎年30人ほどがインフルエンザ菌のもたらす細菌性髄膜炎で亡くなってきたことになる。この大半はインフルエンザ菌のワクチンを制度化することで防げると見られる。なお、細菌性髄膜炎の3割は肺炎球菌によるものである。
 米国では、ほとんどの子どもがインフルエンザ菌b型ワクチンの接種を受けているため、この菌がもたらす被害は最小限に抑えられ、髄膜炎の患者数が100分の1にまで減少した。1998年に世界保健機関(WHO)が定期予防接種を推奨したこともあり、世界的には133か国で定期接種化されている。
cover
細菌性髄膜炎から子どもたちを守る会
 日本では、1998年のWHOの推奨から遅れ、2003年3月にインフルエンザ菌のワクチンの新薬承認を国に申請した。その後も手間取り、承認されたのは2007年1月である。2008年12月からは任意接種可能となっている。現状、約60ほどの自治体が公費助成を行っている。
 ワクチン接種は、標準的には、生後2か月から7か月未満までに始める、4週間から週間隔で3回接種を受け、さらに1年後にもう1回の計4回の接種を受ける。接種した部分に24時間以内に赤い腫れができることがあるが、発熱など全身の副作用は少ない。詳細な情報は「細菌性髄膜炎から子どもたちを守る会」(参照)が参考になるだろう。
 雑談的な話に戻る。
 現代医学からすれば明白なことだが、インフルエンザは、インフルエンザ菌によってもたらされるものではなかった。確かにインフルエンザ菌なる菌は分離・発見されたが、それはインフルエンザの病原体ではなかった。では、ファイファーや北里によるインフルエンザ菌の発見の意味は何なのだろうか?
 細菌性髄膜炎をもたらす病原菌が発見されたのだから、医学的な意味は大きいと言えないことはないが、インフルエンザという文脈では、ファイファーや北里は間違っていたことになる。医学史によくある間違いでもある。私はこの歴史で重要なことは、病原体なら細菌に違いないと認識されていた時代があったことだと考えている。細菌医学の時代と呼んでもよいかもしれない。
 端緒となるのは、1850年以降、英雄的治療が終息した時代に置かれる、1876年のコッホによる炭疽菌の発見である。ここから細菌医学のパラダイムが起こり、大きく進展した。病気の原因とされる病原体を同定するには、コッホの原則が重視された。インフルエンザ菌にもコッホの原則が適用されたが、その解明は容易ではなかった。
 1918年にインフルエンザのスペイン風邪が大流行したときでも、医師たちはインフルエンザ菌がインフルエンザをもたらすと考えていた。だが、動物実験で細菌を遮断しても空気感染が起きることがわかり、インフルエンザ菌が病原体であることへの疑問が生じた。インフルエンザの病原体がウイルスであることが特定されたのは、1933年になってのことだった。
 感染症には細菌の病原体があるに違いないとする細菌医学の時代がもたらした同時期の象徴的な間違いには「脚気菌」もある。ベルリン大学でコッホの弟子フリードリヒ・レフラーに細菌学を学んだ緒方正規は、1885年(明治18年)に脚気病原菌説を発表した。緒方は、死亡した脚気患者から分離・発見した細菌を動物に接種し、下肢の知覚麻痺を得たとした。緒方とは別にオランダのペーケルハーリング(Cornelis Adrianus Pekelharing)も細菌感染として「脚気菌」を想定していた。なお、彼の助手がエイクマン(Christian Eijkman)である。
 ペーケルハーリングが「脚気菌」と想定した球菌は、後に北里によって、脚気とは関連のないブドウ球菌であることが確認され、また緒方も晩年は「脚気菌」が誤りであることを認めたが、1907年に陸軍の医務局長に就任し、脚気細菌説を採った森林太郎は終生、脚気を細菌性の伝染病だと想定していた。
 病因に関与しない医学史上の誤りという点だけ見れば、インフルエンザ菌と実在しなかった「脚気菌」とは似ている面がある。前者の場合、それがインフルエンザとは異なる深刻な疾病をもたらすことと、インフルエンザの病原体がウイルスに特定されたことで、インフルエンザという疾病の問題は解決された。後者の脚気の場合は、それをもたらすウイルスも存在せず、この問題は、医学のパラダイムを変え、そもそも病原体は存在せず、ビタミンB1という特定の栄養素の不足がもたらしたものして理解されるようになった。
 このような感染症の病原体を特定には、次のようなコッホの原則(Koch's Postulates)を現代から顧みると興味深い。

  1. ある一定の病気には一定の微生物が見出されること
  2. その微生物を分離できること
  3. 分離した微生物を感受性のある動物に感染させて同じ病気を起こせること
  4. そしてその病巣部から同じ微生物が分離されること

 インフルエンザ菌も幻の「脚気菌」も当初はこの原則を満たしていると思われたが、後の研究で原則を満たさないものとして排除された。しかし、現代の微生物学では、コッホの原則は疑問視されている。「感染症は実在しない」(参照)ではそのようすをこう説明している。

 先に紹介したコッホの原則は、感染症の原因微生物を特定するのに十分な条件ですが、必ずしもいつも使える条件とは限りません。コッホは炭疽菌という細菌でこれを実験的に証明したのですが、実は炭疽菌はこの条件を満たせる便利な(そしてまれな)微生物だったからOKだったのです。実際には、コッホの原則を満たさない感染性微生物もたくさんあるのです(後でそういうことがわかってきました)。コッホが自分の原則の確立に炭疽菌を使ったのは、ラッキーだったのですね。

 感染症ではないが、Aspergillus(アスペルギルス)属菌の真菌は毒性の強いアフラトキシン (aflatoxin) を生み出す。食物に有毒物質を生成する真菌が発生すると、集団的な中毒が発生する。真菌が特定されないとその集団内では伝染病のような様相を示すこともある。しかし、コッホの原則に合わない感染症や真菌のもたらす疾病は、細菌医学が興隆していた時代には十分に解明されていなかったようだ。
 医学史の流れで見ていくと、1780年から主流の医学であった英雄的治療が1850年代に終わりを迎え、麻酔による外科治療と、細菌医学が興隆した。その後は、細菌によって特定されない病理を追求するかたちで、病原としての遺伝が注目され、そこから優生学が生まれてくる。

参考
「予防接種は安全か―両親が知っておきたいワクチンの話」(参照
「感染症は実在しない―構造構成的感染症学(岩田健太郎)」(参照
「優生学と人間社会 ― 生命科学の世紀はどこへ向かうのか(米本昌平、橳島次郎、松原洋子、市野川容孝)」(参照

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2010.07.22

[書評]感染症は実在しない―構造構成的感染症学(岩田健太郎)

 「感染症は実在しない」(参照)とは刺激的なタイトルであり、また前半は修辞的な議論が饒舌に展開するきらいはあるが、内容はいたって正統的な医学的な立場で描かれ、著者の履歴からもわかるように米国標準の臨床も批判的に踏まえている点で、今後の日本の臨床のありかたを展望する内容となっている。日本の医療がどうあるべきかに関心をもつ人には、必読とまでは言えないものの、多くの示唆を得ることができるだろう。また、一般向けに書かれている本ではあるが、実は医療関係者にこっそりウケのよい書籍ではないかとも思えた。

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感染症は実在しない
構造構成的感染症学
岩田健太郎
 本書での、感染症は実在しないということは、端的に言えば、感染症というのは現象であるということで、細菌やウイルスが実体的に存在しないという話ではない。
 興味深い例が書かれている。2009年、日本の社会で新型インフルエンザが流行したとき、通常なら季節型のインフルエンザは終わる時期なのに、報道などではこの年は異例にインフルエンザが流行していると語られたものだった。ところが、著者のグループは片っ端から患者さんの喉や鼻をRT-PCRという手法で調べてみた。

 2009年5月のことです。もうインフルエンザは流行していない、と考えられている季節です。初夏ですから。ところが、出るわ出るわ、探してみたら、たくさんの患者さんから、新型インフルエンザではなく、従来型の季節性インフルエンザが検出されたのでした。しかも、その多くは迅速検査で陰性だったのでした。2009年だけ特別、季節性インフルエンザが初夏に流行ったのではありません。いままで、初夏にインフルエンザ検査をした医者がいなかったのです。

 こうした事例が象徴的だが、感染症は実在しないということは、感染症という症状、つまり現象を起こすには、その背景としての関係性や基準・視点が重要になるということでもある。
 実在と現象の扱いは、本書では、哲学の現象学のごく基本的な枠組みが修辞的に展開されているのであって、病理医や臨床医にとっても、個別例における最新の知見を除けば、言い方によっては「そうも言えるかな」というくらいものもあった。
 むしろ、こうした臨床における現象面から見た医学というものの基本的な構図は、一般社会における、病気や健康という日常生活的な理解・受容や、さらには日本のマスコミにおける感染症を含め、各種疾患に対する報道といったものとの対比のなかで、違和感をもって浮き立ってくる。そこが本書の結果的な面白さでもあり、現代医学がより臨床面において市民社会に語りかける必要があることも示している。
 本書では、構成がやや散漫になり、興味深いが雑学的な挿話が続く後半部に、その側面、つまり、臨床医は率直に医療の事実を語り、市民に選択を委ねましょうという表明に、医療と市民関係への新しいあり方がよく示されている。本書の真価は、池田清彦的な構造主義生物学的な医学の見直しというより、臨床医の新しい市民社会への語りかけの態度にある。
 その象徴的な挿話がある。著者がニューヨークで臨床医をしていたおり、レズビアンでエイズ患者、さらにPMLという脳の病気、リンパ腫というがんの一種、肺炎など合併症の患者を診ながら、その喫煙を黙認していた話だ。

 この方が、「こんなつらいことばかりの人生だけど、タバコだけがあたしの楽しみ」と一日一箱吸っていたのでした。私には「からだに悪いから、タバコはやめなさい」とはとても言えませんでした。通俗的には人間の幸せの根拠となる事物をほとんどすべて失ってしまった彼女にとって、タバコはただひとつ残された幸福の源泉のように見えたからです(もちろん、非通俗的には彼女は大切なものを他にもたくさんもっていましたが。例えば、エイズという病気を持ってそれとまっとうに対峙していることなど)。医療を患者さんの目的・関心から逆算した価値との交換作業であると解釈すれば、この方にとっての喫煙指導は意味の小さいものであると感じたのでした。

 おそらく、日本の臨床の現場でも同じようなことはあるだろうし、そうしたなかに臨床というものの本質があるのだろう。こうした許容性の社会的な意義については、長寿化していく日本社会では、対話を通して意味を変えていかなければならない点も多いだろう。著者が言うように、「医療は総じてリスクとの価値交換」ということだ。
 それは倫理性を単純に相対化するということではない。著者のインフルエンザ菌の予防接種の見解にも表れている。

 ほとんどの親は、自分の子どもが「予防できるはずの病気」で死んでしまうことを容認しないでしょうし、子どもだってそんなにぽっくり死にたくはないでしょう。だから私は予防接種を薦めるのです。

 同じことが生死に関わる標準医療について言える。重要なのは、こうした医療のもつ意味を市民社会に情報公開を通して伝えることにある。
 民間医療についても、ただ否定するのではなく、二つの条件として提示している。

条件その1 「何にでも効く」「絶対に効く」と主張している療法は信用しないほうがよい。


条件その2 成功例しか示していない療法は信用しないほうがよい。

 そうであろうし、著者も「これらの条件を満たすことを義務化したら、世にある民間医療の大多数は消滅する可能性が高いと思います」と見ているが、そこでも市民社会への委託の原理性のようなものは維持されている。非正統医療である漢方についてこう述べている部分に反映されている。

 とはいえ、漢方薬がダメだと私は主張する気はありません。現段階で漢方薬が医療においてどのくらい貢献してくれるものなのか、私にはわかりません。この「わからない」という謙虚な認識こそが大事なのだと思います。

 そのあたりの「わからない」は、医学の科学的側面の謙虚な限界であるというより、市民社会の許容部分でもあるだろう。
 と同時に、栄養維持が可能になり高度な医療が可能になった豊かで長寿の日本社会では、医療は、前近代的な致死性の疾病に対する国民厚生よりも、個人がよりよく生きる限界を補助するようなビジョンが求められる対象になってきている。
 そうした未来の医療の感覚を内面化していく著者のような新しい医師も増えてくるのだろうし、臨床を通して市民社会側から対話していく必要性の場も増えてくる。本書はその先駆けのようにも見える。

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2010.07.21

カイロプラクティックと米国社会

 余談のような話になるが、カイロプラクティックと米国社会について、ごく一面ではあるものの、補足的に述べておきたい。
 カイロプラクティックは (Chiropractic) は、各種の疾病が椎骨の構造的・機能的な歪みにあるとし、その調整によって治癒を試みる治療法である。1895年に、ダニエル・デビッド・パーマー(Daniel David Palmer)が創始した。彼は、カナダ、トロント近況に生まれ、後、米国に居住した雑貨商で、医学的な背景はない。
 さて、先日のエントリー「オステオパシー(Osteopathy): 極東ブログ」(参照)に、こんなはてなブックマークのコメントが付いていた(参照)。


rhatter せいぜい善意の詐欺師にすぎない「偽医学」者を、正統医学からの「攻撃」の被害者みたいに語る翁の心情にはとても深遠なものがありそうだ。 2010/07/20 ★(naya2chan)

 「翁」というのは若い人から見て年食った私への愛称みたいなもので、私の心情に「とても深遠なものがありそうだ」と察してくださっている。
 コメントはご勝手にどうぞではあるが、当の本人としては、さしたる深遠もない。ネガコメと言われる一種の中傷・罵倒に近いものかもしれないが、もしかすると、アンドリュー・テーラー・スティルを「せいぜい善意の詐欺師にすぎない「偽医学」者」とみなさないことは、よろしくない、ということなのかもしれない。
 そうだとするとエントリーが言葉足らずだったかもしれない。D.O.(Doctor of Osteopathic Medicine)が米国で正規の医師の学位となっている現状、その創始者を「詐欺師」「偽医学」と見る人は米国では少ないのではないかと思う。歴史にはその進展の段階が存在し、現在から振り返り過去が稚拙であったとのみ断罪しがたいことは、正統医学における英雄的治療への評価なども含めた総合性からも理解しやすい。
 連想して思うことがあった。「代替医療のトリック(サイモン・シン、エツァート・エルンスト)」(参照)で、カイロプラクティックの創始者、D.D.パーマーの死について、こう述べていることだ。

 D.D.パーマーが活動できなかったとき、カイロプラクティックを広めたのは息子のバートレット・ジョシュア・パーマーだった。このB.J.パーマー自身、ダヴェンポートではじめて自動車を購入するほどの成功を収めたが、不運にも、一九一三年にパーマー・スクール・オブ・カイロプラクティックで父親の出所祝い行われた際に、祝賀パレードで父親を轢いてしまった。D.D.パーマーはその数週間後に死亡した――公式には、死因は腸チフスとされているが、息子の車に轢かれたケガが直接的な原因で死んだ可能性が高い。実は、これは事故ではなく、父親殺しだったとの見方もある。父と息子とは、カイロプラクティック運動の主導権をめぐって激しく敵対するようになっており、またB.J.パーマーは、父親の家族に対する仕打ちに怒り、つねづね父親と対立していた。

 カイロプラクティックの創始者D.D.パーマーが息子と対立していたというのはそのとおりであり、この文脈の後には息子が子供のとき父からニグレクトされた手記も続く。だが、事実はどうなのだろうか。また父親殺しという見方はどの程度公正だろうか。
 サイモン・シンとエツァート・エルンストの同書の文章からは、自動車で轢いたは意図的で、その背景に「父親殺しだったとの見方もある」としているが、どうなのだろうか。そういう見方もあるのは私も知っているが、この文脈は誘導的な印象を持った。
 この記述に違和感を持ったのは私だけではなかった。ウィキペディアのD.D.パーマーの死についての項目に、同書の見解への言及がある(参照)。
 「との見方もある」というのであれば、D.D.パーマーが息子に轢かれたとする見方を、神話の類ではないかとする見方もある。カイロプラクティック支持者側の意見ではあるのだが参考にはなる(参照)。チャイロは、父D.D.パーマーのことである。

Myth 4. Old Dad Chiro died of auto injuries sustained when B.J. Palmer attempted patricide: This contention is absurd in several respects.

神話4:老父チャイロが自動車事故で死んだのは、B.J.パーマーが父親殺しを試みたからだ。この主張はいくつかの視点でバカげています。

Firstly, we know that Dad Chiro's death certificate indicates typhoid fever as the cause of death (Gielow, 1981); I am unaware that trauma is considered an etiology for this disorder.

第一に、老父チャイロの死亡診断書には死因は腸チフスと示されています (Gielow, 1981)。精神的外傷がこの疾患原因となるという話は聞いたことがありません。

We also know that Joy Loban, DC, executor of DD's estate, voluntarily withdrew a civil suit claiming damages against B.J. Palmer, and that several grand juries repeatedly refused to bring criminal charges against the son.

また、D.D.パーマーの遺言状執行人であるジョイ・ロビンDCが意図的にB.J.パーマーに対する損害賠償の民事訴訟を引っ込めたことや、息子に対する刑事訴訟に持ち込むことを繰り返し拒んだ陪審員がいたことも私たちは知っています。

More importantly, the claim of patricide is absurd on its face. If BJ had desired to murder his father, why do it at the front of a parade with many witnesses?

より重要なのは、父親殺しという主張がばかげているのは当たり前だということです。もし、BJが父を殺したいなら、なぜそれを多くの目撃者のいるパレード前面で実行するのでしょう。

Lastly, Dr. Carl Cleveland Jr.'s grandmother, Sylva L. Ashworth, DC, a 1910 graduate of the PSC, related to Carl that she had been there on that fateful day in August 1913, had witnessed the events, and recalls that DD was not struck by BJ's car, rather, that the founder had stumbled and that she had helped him to his feet.

最後に、カール・クレブランドJr医師の祖母であり、1910年PSC卒業生シルビア・L・アシュワースは、カールに対して、彼女はあの運命の日に立ち会い事件を目撃したと述べています。その記憶では、DDは車にぶつかったのではなく、この創始者は転んだとのことです。彼女は彼の足を補助しました。

So why has this myth persisted so durably? Perhaps because BJ gave the profession so many other reasons to dislike him, and some of us cannot resist finding homicide credible? Yet logic and the available facts really do not support the perpetuation of this myth.

ですから、なぜこの神話がしつこく主張されるのでしょう? たぶん、BJがしてきたことが理由で嫌われ、こいつなら殺人だってありえると思う人もいたのでしょう。しかし、その話の筋立てと、入手できる事実は、この神話が存続することを支持しません。


 この理屈でサイモン・シンとエツァート・エルンストが引いた「父親殺しだったとの見方もある」という見方が完全に覆せるわけでもない。
 だが、同書の描写と「との見方もある」の文脈はあまり公平とは言い難いように思う。特に、代替療法の批判者が公平でないと見なされるなら、その批判も割引きされて読まれてしまう懸念もある。カイロプラクティックには、首への施術など危険と見られる施術もあり、この危険を的確に指摘した同書には、より全体的に公平な記述が求められるだろう。
 もう一点、先のコメントには、「正統医学からの「攻撃」の被害者みたいに語る翁の心情」とあり、オステオパシーが正統医学からの攻撃の被害者とするのが不服のような印象も受ける。
 もしかすると、正統医学は他の医学を攻撃しないし、他の医学が被害者のように扱われるのはよくないという主張かもしれない。
 この点については、オステオパシーよりカイロプラクティックのほうが興味深い歴史がある。話は「代替医療のトリック(サイモン・シン、エツァート・エルンスト)」もあるが、正統医学からカイロプラクティックへの攻撃は、示唆深い裁判結果に終わっている。

 米国医師会は一致協力して、カイロプラクティックという職業を撲滅しようと反撃を続けた。ところが一九七六年に、医師会の運動は突如として裏目に出た。

 米国医師会が、患者の治療という市場を独占したがっていると独禁法で訴えられたのだった。現代日本人からすると非常識な訴訟のようだが、裁判は十年以上続き、一九八七年に結審した。同書はこう伝えている。

 裁判の証拠によれば、被告側はカイロプラクティック教育機関の評判を落とそうと、しばしば秘密裏に積極的行動をとり、カイロプラクティックの有効性に関する科学的根拠を隠蔽し、カイロプラクターの患者に対する保険プログラムを低く設定し、カイロプラクティックの有効性に関する政府の審判をくつがえし、カイロプラクティックという職業の信用を落とし、弱体化させるために膨大な偽情報を流すという行為に手を染め、この国の保健医療における医師の独占を保持するために、それ以外の無数の行動をとった。

 かくして米国医師会はカイロプラクティックに裁判で負けた。米国医師会は最高裁に上告したが、一九九〇年に棄却された。
 司法に従い、米国医師会は路線の変更を迫られた。米国医師会は会員に対して、カイロプラクターと共同作業しないようにという規定ができなくなった。
 現状、米国全州でカイロプラクティックが認可されている。保険についてもこの裁判の文脈からもわかるように、米国ではカイロプラクティックに保険が適用できる。なお、日本では、カイロプラクティックについては厚労省から「医業類似行為に対する取り扱いについて」として危険な手技の禁止が通知されているものの、法的な整備はされていない。保険もきかない。
 米国のカイロプラクティックはこうした経緯でその後、どう変化したか? 善意の詐欺師や「偽医学」の蔓延となっただろうか。
 現実には、概ね、創始者親子時代の珍妙とも思える主張は減り、正統医学にも配慮しつつ、市民社会に適合していく道を辿っていると見てよさそうだ。米国だと医療の規制緩和・市場原理が医療そのものを、より市民社会に適合させてしまう傾向がある。

参考
「代替医療のトリック(サイモン・シン、エツァート・エルンスト)」(参照
「人はなぜ治るのか(アンドルー・ワイル)」(参照
「アメリカ医師会がガイドする代替療法の医学的証拠―民間療法を正しく判断する手引き(米国医師会)」(参照

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2010.07.20

靈氣とレイキ

 ヒーリング系ミュージシャンのルエリン(Llewellyn)にReiki Gold(参照)というアルバムがある。聞いただけで、ああルエリンという癒し系のしろもので、アエオリア(Aeoliah)より線が淡い感じがするが、このアルバムのなかにちょっと変わったタイトルの5曲がある。


  • Just for Today I Will Not Anger
  • Just for Today I Will Not Worry
  • Just for Today I Will Be Grateful
  • Just for Today I Will Honour
  • Just for Today I Will Respect

 今日一日だけでよいから、怒らず、心配せず、謝念を持ち、といったことだ。オリジナルは慶応元年(1865年)に生まれた臼井甕男(うすいみかお)の五戒である。

今日丈けは
怒るな
心配すな
感謝して
業をはけめ
人に親切に

 甕男は、これを朝夕合掌して心に念じ口に唱えることが、招福の秘法・萬病の霊薬であるとした。
 それって宗教ではないのかと思うだろう。正確には、これは臼井靈氣療法と呼ばれる明治時代に誕生した民間医療の一環である。後に略して靈氣と呼ばれ、欧米に伝わってレイキ(Reiki)と呼ばれるようになった。主要な療法は患部などに手を当てることであるために、世界各国にあるタッチセラーピー系の伝統療法のように理解されている。
cover
Reiki Gold:Llewellyn
 臼井甕男は、岐阜県山県郡谷合村に生まれた。臼井家は平安時代の武家千葉常胤の後胤と伝わっている。甕男は、ご維新の動乱の後、様々な職を点々としつつ、人生とは何かと求道し続けた。渡米・中国遊学もしたとも言われ、キリスト教宣教師であったという伝承もある。そのほかにも、その手のけっこうめちゃくちゃな伝承もある。実際のところ、臼井甕男の人生の大半はわかっていない。
 甕男は、禅の道に求道しつつも、50歳過ぎまで悶々とした。おそらく碧巌録・大死一番からの決心であろうと思うが、大正11年(1922年)、56歳のとき京都の鞍馬山にこもり、悟りを得ずば決死とまでの断食を始めた。ちなみに、藤村操が「萬有の眞相は唯だ一言にして悉す、曰く、不可解」として華厳の滝に飛び込んだのが1903年、漱石の「門」が連載されたのが1901年。甕男もそうした青春を送りつつ、悟り至らぬ人生の末を思ったのではないだろうか。
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臼井甕男
 断食に入り3週間経った深夜、脳内に落雷のような衝撃を受け、意識を失った。翌朝気がつくと気分爽快にして霊力を得た実感を持った。たまたま転んで足指の爪を剥がしたが、手を当てるだけで治癒した。この手当てによって他の人も癒すことができるのではないか。試すと、できた。秘伝を体得した甕男は、これを世ため人のために使おうと、青山で臼井霊気療法学会を始めた。靈氣の開闢である。
 靈氣の起源はこの神秘体験によるのだが、私は自分なりにこの逸話を追ってみた印象では、一種の道教と修験道の混合のようなものが背景にあったのではなかったかと考えている。語られるところの神秘体験の描写は空海の虚空菩薩求問持聡明法の描写にも似ている。ただし鞍馬山は天台宗なので真言系ではないだろうが一時期真言宗であった時期もある。なお、鞍馬山は、戦後になってからだが、神智学を学んだ鞍馬寺貫主信楽香雲によって天台宗を離れ、鞍馬弘教という新興宗教になって現在に至る。
 臼井霊気療法学会を開いた翌年が関東大震災である。甕男は東奔西走し、人びとを靈氣で救ったという。2年後の大正14年、手狭になった会場を中野に移し、本格的な全国活動を展開した。が、その翌年、旅先の広島県福山市の旅館で死んだ。60歳であった。自分自身は癒せなかったのだろうか。
 臼井甕男は20人の師範を残した。教義は、初伝、奥伝、神秘伝の三階梯に分かれていると言われ、また最終段階に残ったのは数名ほどだと言われている。その一人に林忠次郎がいる。海軍軍人でもあった。退役後、独立して大正14年に東京信濃町に靈氣の診療所を開き、昭和5年(1930年)に「林靈氣研究会」とした。林は日本各地で靈氣の普及を行うほか、昭和13年(1938年)、ハワイで研修会も開いた。これには興味深い前段がある。高田ハワヨの物語である。
 1900年(明治33年)12月24日、ハワイ、ホノルルで日系二世の高田ハワヨが生まれた。名の「ハワヨ」は生まれた島、ハワイを意味している。サトウキビ農園で育った。姓の「高田」は、1917年に結婚した夫、高田サイチによる。夫は、1930年、東京で治療するも、34歳のときに肺癌で亡くなり、ハワヨには2人の娘が残された。
 ハワヨは困窮し病がちとなり、盲腸の手術を受けることになったが、この時、手術の必要はないぞよとの天啓が下る。彼女は健康への道を探し求め、各種の情報から東京に向い、林のもとで靈氣を学ぶことになった。
 ハワイに戻ってからは靈氣の診療所を開き、恩師の林をハワイに招いたのだった。林のその後については、ハワヨの伝承では、軍人でありながら平和主義者であり、対米開戦に反対して切腹したとのこと。これがそのまま欧米で伝えられている。史実ではないだろうに。
 ハワヨは、ハワイに招いた林から神秘伝を伝承されたと主張している。その後、生涯に渡って治療家を続け、1980年12月11日、80歳で亡くなった。最晩年の数年に神秘伝を伝える伝承者をマスターとして20人ほど育成した。1980年代になって彼らが世界各国にハワヨのレイキを伝えることになった。
 マスターのマスターであるグランドマスターは、ハワヨの孫娘フィリス・レイ・フルモト(Phyllis Lei Furumoto)が継承し、1981年、レイキ・アライアンス協会を設立した。マスターたちは彼女に忠誠を誓ったが、それとは別に1982年、文化人類学者バーバラ・レイ(Barbara Ray)が、レイキの団体としてラディエンス・テクニーク協会を作った。彼女の「The 'Reiki' Factor in The Radiance Technique」(参照)はこちらの系統の基本になっている。日本でも1987年に「レイキ療法―宇宙エネルギーの活用(バーバラ・レイ)」(参照)として翻訳されたことがあった。
 以上の2系が国際的なレイキの源流となったのだが、よくわからないのだが、英国系のレイキはラジニーシ(Rajneesh)の影響を受けているようだ。チャクラなどの教義を持っているものがある。ネオ・レイキとも呼ばれているようだ。
 靈氣からレイキになるにつれ、伝授の儀式はアチューンメント(Attunement)と呼ばれるようになった。この伝授によって、臼井甕男の門外不出の秘伝が伝えられるとの建前になっている。が、それとおぼしき秘伝のシンボルは事実上暴露されている。それぞれ分けて使うらしい。


レイキ・シンボル

 左のシンボルは、"Choku rei"とある。私はこれは「勅令」ではないかと思う。道教の神を呼ぶ呪符によく見られ、道教儀礼の香浄でも唱えられる。つまり、道教が起源であろう。ただし、これには呼び出す道教的な神が前提となっているはずだが、その部分はレイキの伝承で欠落したのかもしれない。暗黙裏に千手観世音菩薩であろうか。
 中のシンボルは、"Sei He Ki"とある。呪の意味はわからない。が、シンボルの意味はすぐにわかる。キリークである。阿弥陀如来または千手観世音菩薩を示す梵字である。鞍馬弘教の尊天から推測すると、千手観世音菩薩であろう。これがなぜ"Sei He Ki"なのだろうか。
 右は"Hon Sha Za Sho Nen"の漢字であることは明らかだ。「本者是正念」である。意味はそのままで、本質は正しい念ということだ。問題はこの呪符の由来がわからないことだ。
 この3つのシンボルに加え、「大光明」という秘伝もあるらしい。
 これで秘技が暴露されてしまったと考える人もいるが、私はそうではないだろうと思う。さらなる秘密があるというのではない。新興宗教といえどもそれなりの師匠たる者は伝授者のレベルを見極めているので、その無言のなかに伝わるものがあるだろうということだ。
 しかし暴露された一端を見ると、これらは鞍馬寺関連の道教的な呪術であろうと思われるが、勅令される神や千手観世音菩薩の呪の関連など、主要な秘伝はすでに損失しているのではないかとも思われる。
 さて、ハワヨを基点に1980年代以降レイキが世界に羽ばたき、さらに日本に形を変えて逆輸入されるようになったわけだが、日本国内での臼井甕男の教え、または林忠次郎の伝承はどのようになったのだろうか。1980年代以降、西洋から逆輸入されるくらいだから日本国内では途絶したのだろうか。
 2つの展開があった。1つは、臼井霊気療法学会がそのまま現在でも継続していることだ。ただしその活動は外部からはほとんどわからない。臼井甕男の高弟は林忠次郎を含め海軍関係者が多く、戦時にも、私的であろうが、医療の代替として利用されていたようで、そうしたことから戦後のGHQ統治下で弾圧されるのを恐れたのかもしれない。1996年の時点で90歳を超える小山君子五代目会長が会員を連れて鞍馬参りをしていたとの話も聞く。
 林忠次郎による林靈氣研究会のその後の活動だが、林の死後、智恵夫人が継いだものの、夫人の死をもって終了した。その教えも途絶えたかに思われたが、伝承者が残っていた。山口千代子である。
 旧姓岩本千代子は大正10年12月18日、京都三条古川町で、7人兄弟の次女として生まれた。小学校2年生のときに、叔父の菅野和三郎に預けられたが、この和三郎が林忠次郎から靈氣を学んでおり、千代子も自然に菅野家の家庭の医学のように靈氣を使って育った。和三郎の妻も靈氣に傾倒し、林忠次郎が亡くなった後は智恵夫人を支援した。
 こうした環境から自然に千代子も靈氣に馴染み、林忠次郎から学び、師範となった。しかし千代子自身はその後家庭人として子供を靈氣で育てながらも、他に広めるということもなかった。後年、神経痛に悩んでいたところ、手かざしの宗教で改善したことからその宗教にも入信したらしい。年代から推測するに真光であろうか。しかし、千代子はその宗教からも離れるようになった。
 1980年代以降、逆輸入されるレイキによって千代子への伝承が注目されるようになり、当時の林忠次郎の「療法指針」をもとに、千代子の息子の山口忠夫が直傳靈氣として現在普及にあたっている。
 林の「療法指針」と現在の臼井霊気療法学会から漏れ聞くところをもとに古形の靈氣を推定すると、修行としては明治天皇御製と五戒の唱和を基本に呼吸法を含めた精神統一があり、療法の面では病腺が重視されていたようだ。手当の手順は病腺に関連している。また脊椎何番という脊椎への配慮もある。
 野口整体でもそうだが、脊椎何番という発想は戦前のカイロプラクティックの影響がありそうだ。また、こうして靈氣の治療面を再構成的に見つめていくと、全体像としては、これは明治時代に日本に入ったオステオパシーではないかとも思えてくる。

参考
「癒しの現代霊気法―伝統技法と西洋式レイキの神髄(土居裕)」(参照
「レイキ完全本―あなたを他人を世界すべてを癒すために(ブリギッテ ミュラー、ホルスト・H・ギュンター)」(参照
「直傳靈氣REIKI Japan―レイキの真実と歩み(山口忠夫)」(参照

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2010.07.19

オステオパシー(Osteopathy)

 米国の医者の学位にM.D.つまり、Doctor of Medicineがある。欧米の場合は、学位も名前の一部になっていると言ってもよい。そこでM.D.の学位が付く名前の人だけがお医者さんか。というと、もう一つ、D.O.という医者の学位がある。こちらは、Doctor of Osteopathic Medicineの略で、直訳すれば、「オステオパシー医療の医師」となる。オステオパシーと聞くと、「なーんだ、代替療法か」と思う人もいるかもしれないが、現実の米国社会では、D.O.はM.D.と遜色ない正規の医師である。
 では、オステオパシーというのは正統医学なのかというと、このあたりからは話が難しくなる。そしてこの難しさは、代替療法批判者を困惑させる。代替療法のいかがわしさを批判した「代替医療のトリック(サイモン・シン、エツァート・エルンスト)」(参照)では、英国書籍らしく、オステオパシーを代替療法の便覧に押し込んでいるが、米国と英国の状況の違いも手短に伝えている。正当な医療は科学に依るというより国によって違うことなのである。


 アメリカでは、オステオパシー医(DO)は完全に主流医療に組み込まれており、手技は稀にしか行わない。イギリスのオステオパスは法令で規制されているが、補完代替療法の施術者として見なされている。

 同書は米国のオステオパシー医の実態がよくわかっていないか、あえてなのか、あまり記述していない。現実には、D.O.とM.D.の治療にはほとんど差がない。また、同書では、伝統的な手技としてのオステオパシーについて、腰痛に限って科学的根拠があると述べているが、今日、正統医学の側では腰痛の大半は機能性ではないかと見なされつつある。
 いずれにせよ米国ではオステオパシーはすでに代替療法とは言えない現状がある。米国医師会(AMA)が編纂した代替療法ガイド「アメリカ医師会がガイドする代替療法の医学的証拠―民間療法を正しく判断する手引き(米国医師会)」(参照)にはオステオパシーへの言及すらない。M.D.の団体でもあるAMAとしては、D.O.の団体を代替療法なり異端医学とは認めていないからであろう。
 ところが、オステオパシーの歴史を振り返るとなかなか味わい深い。この歴史は逆に、M.D.というものが何であるかを逆に照射する側面もある。
 オステオパシーは、ギリシア語のOsteon(骨)とPathos(病理)からなる造語で、名前から連想されるように、骨格、軟骨、関節といった組織の動きを改善することで各種の疾患を治療する医療である。日本ではいわば整骨院の治療といった印象で受け止められることが多い。
 しかし、オステオパシーとは手技の技法や療法を指す言葉ではなく、対象とする疾患も捻挫や腰痛に限定されない。西洋医学とは異なる医療体系としての医学であり、原則としては、正統医学にその手技だけを都合良く組み込むということはできない。また歴史経緯からも、M.D.とD.O.は併存している。とはいえ、米国医療の実態はというと、病院経営やD.O.育成のカリキュラムなどを見ると、すでに融合していると言ってもよい。
 オステオパシーとは元来どのような医療だったのか。歴史がそれを物語る。
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アンドリュー・テーラー・スティル
 オステオパシーを創始したのはアンドリュー・テーラー・スティル(Andrew Taylor Still)である。アンドリューは、1828年8月6日にバージニア州の丸太小屋で生まれた。西部開拓時代、大草原の小さな家の風景である。父はメソジスト派の巡回牧師であり、彼らの多くがそうであったように医師も兼ねていた。少年時代は、テネシー州・ミズーリ州で過ごした。遊ぶ物がなかったのか生まれつきそうした傾向があったのか、人骨に強い興味を持った。幸い、近所のアメリカン・ネイティブの墓にはリアル人骨も豊富にあった。
 父にならったのであろうが、アンドリューは医師を志し、カンザス・シティの大学で医学を学び、M.D.の学位を得た。南北戦争(1861-1865年)にも北軍側で兵士として、また軍医として参加した。時代は、英雄的医療(Heroic medicine)(参照)が終わりを告げるころでもあった、同時にそれは英雄的医療に批判の目も生まれる時代でもあり、歴史を傍観すればオステオパシーもその批判的な潮流にあった。
 陰惨な戦争から医師の生活に戻った30代後半のアンドリューにはさらなる人生の試練が待ち受けていた。自らが医師でありながら、3人の息子(実子2人・養子1人)を脊髄膜炎で失った。自分が学んできた医学は本当に正しいのだろうか。有害なのではないか。彼は苦悶した。英雄的医療にも各種の薬物療法にも疑問を持った。瀉血・瀉下も使わず薬物も使わずに、骨格を整え、血液の循環を改善すれば、それで治療になるのではないか。そう考えた。子供のころから人骨に詳しいアンドリューは各種の骨の位置をポキポキと動かすこともできた。骨格調整を治療としてみた。感染症を含め、各種疾患の治療にも応用した。効果が確信できた。
 アンドリューはこの新治療の成果を多くの人に知らせようと、1870年代から1890年代に単身で全米に説いて回った。知見をカンザス州の大学に報告にした。が、無視された。アンドリューは憤慨し、ミズーリ州カークスヴィルに移り、オステオパシー治療院を開業した。そこでオステオパシーも教えた。学ぼうとする黒人や女性にも門戸を開いた。
 彼は説いた。英雄的医療が瀉下に使う甘汞、つまり塩化第一水銀(Hg2Cl2)など使わない。この薬は内臓をぼろぼろにする。正統医療が代用品として使い出したベラドンナも使わない。モルヒネの利用も拒絶する。それらは毒物である。人体には健康になる力がある。骨格を矯正すれば新鮮な血液が循環して治療できる。アンドリューは、熱心に説き、実際に治療を実践した。手応えはあった。
 治療院は、1892年、「米国オステオパシー学校(the American School of Osteopathy)」となる。オステオパシーに対して多くの人の理解と支援を受けるようになった。1910年には単科大学となり、独自にD.O.の学位を出せるまでになった。なお、同大学は現在、A.T. Still University (ATSU) (参照)として存続している。
 1917年、アンドリュー・テーラー・スティルは、多くの人から慕われ、尊敬され、惜しまれ、亡くなった。89歳であった。
 さて、米国医師会がこんな「異端医学」「偽医学」を見逃すだろうか。そんなわけはない。アンドリューの晩年には、オステオパシーへの総攻撃が始まった。それでも、オステオパシーは生き延びた。効果のある医療だったからという理由ではない。時代がもたらす偶然だった。
 アンドリューが亡くなった年号に注目してみよう。1917年。第一次世界大戦のさなかである。米国医師会は、オステオパシー医を軍医として認めるわけにはいかないと政府に圧力をかけた。もしオステオパシー医を軍医とするなら、米国医師会の医師を軍医にするわけにはいかないと脅した。どうなったか。オステオパシー医は国内に残った。そして、国内で多くの患者を集めて、さらに名声を高めることになった。
 米国医師会はまた、当時、オステオパシーとカイロプラクティック (Chiropractic) の違いがよくわかっておらず、攻撃は実際にはカイロプラクティックに向かうようになった。おかげでオステオパシーへの風当たりは弱くなった。カイロプラクティックは、1895年に、ダニエル・デビッド・パーマー(Daniel David Palmer)が創始した治療で、脊椎・椎骨(運動分節)の歪みが疾病原因となり、その矯正を行った。オステオパシーに比べると強制的に脊椎を動かすため治療の失敗から障害者も出ていた。
 オステオパシーもアンドリューが亡くなると変化しつつあった。正統医学と融合していったのである。結果、正統医学と組んで共通の敵としてホメオパシーを攻撃することもあった。共通の攻撃対象があると、違和のあるグループがそれなりにまとまるのは世の常である。代替療法というのはそうした点からも攻撃する価値が多いものだ。
 その後、米国ではD.O.のオステオパシー医師とM.D.の医師学会の医師との治療面での差はほとんどなくなる。別の言い方をすれば、アンドリューの手技の技法は、D.O.の現実ではそれほど活用されていない。
 現実的に見ればオステオパシーは消滅したと言ってよいかといえば、まあ、よいのではないだろうか。ところが完全に消滅したわけでもなく、いかにも代替療法のように残る側面もわずかにある。そのあたりが「代替医療のトリック(サイモン・シン、エツァート・エルンスト)」などにも残るところだ。
 アンドリューの理論をさらにそちらの方向で独自に進化させた人びともいる。注目されるのは、ウィリアム・サザーランド(William Garner Sutherland:1873–1954)だ。彼はプライマリ呼吸機構という新理論と頭蓋仙骨療法を考案し、実践した。通常の人間が行っている呼吸は二次的な呼吸であり、プライマリーな生命エネルギーの呼吸は頭蓋仙骨で行われているというのである。一度解説書が翻訳されたことがある(参照)。このほか、内臓オステオパシー(Visceral osteopathy)というのもある。
 こうした動向は、まあ、代替療法の王道に立ち返るということかもしれないが、これらの不思議な療法は、おそらくメソッド化したときに格好の批判対象になるのではないかという印象がある。
 オステオパシーが正統医学と融合を開始するころ、M.D.育成のカリキュラムよりもD.O.育成のカリキュラムのほうが多く、厳しかったという。治療というのは、証拠に基づいたメソッドが重視されるとともに、メソッドを超えたところでよい医師に付随する不思議な現象という側面もありそうだ。

参考
「代替医療のトリック(サイモン・シン、エツァート・エルンスト)」(参照
「人はなぜ治るのか(アンドルー・ワイル)」(参照
「いのちの輝き―フルフォード博士が語る自然治癒力」(参照

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2010.07.17

サミュエル・ハーネマン(Samuel Hahnemann)

 医師サミュエル・ハーネマン(Christian Friedrich Samuel Hahnemann)は 、1755年4月10日、現在のドイツ、ザクセン州マイセン郡に生まれた。11日だったという異説もある。なお、ドイツ語読みではザムエルだが、英米圏での話題が多いことから英語読みとしておく。

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サミュエル・ハーネマン
 同年に生まれた有名人にマリー・アントワネットがいる。つまりルイ16世は一つ年上である。同年はルソーが『人間不平等起源論』を書いた年でもあった。同時代に近い日本では、医師でもあった平賀源内が1728年の生まれ、同じく医者でもあった本居宣長が1730年の生まれである。
 サミュエルの父は画家でもあり、また親族にはマイセン磁器の絵付け師も多かった。だが彼は芸術の道には進まなかった。子供の頃から語学の才能があり、英語、フランス語、イタリア語に習熟した。ギリシア語やラテン語は当然できた。さらにアラビア語、 シリア語 、ヘブライ語、カルデア語までにも通じていた。
 医学に志し、ライプチヒやウィーンで学び、最終的にエアランゲンのフリードリヒ・アレクサンダー大学で優秀な成績を修め、1799年、医学博士(MD)の称号を得た。
 1781年、ザクセン州の銅鉱山地区マンスフェルトの村巡回医師となり、翌年薬屋の娘ジョアンナ・ヘンリエッテ・キュヒラーと結婚した。新郎は27歳。後9人の娘と2人の息子を持つようになる。
 彼は夢をかなえて医者になったのだが、しばらくして医者を辞めたいと思うようになった。医療に押さえがたい疑問を持つようになったからだった。良心的な彼は医療が、治療の効果より危険のほうが多いことを知っていた。これでよいのだろうか。
 では、当時の医学とはどのようなものであったか?
 当時、1780年から1850年の主流の医学では、英雄的医療(Heroic medicine)と呼ばれる医療が実施されていた。主要な治療法は瀉血である。もっとも効果的なのは、静脈を切り取る方法だ。一回に1パイント(0.47リットル)の血を捨てる。これに使われたのが、両刀のメス「ランセット(lancet)」である。権威ある医学誌はここに名前の由来を持つ。
 英雄的医療の提唱者の一人は、合衆国建国の父でもあり、米国医学の父でもあるベンジャミン・ラッシュ(Dr. Benjamin Rush:1745-1813)である。おかげをもって、ジョージ・ワシントンは当時最高の医療を受けることになった。こんな感じ。
 大統領の職を辞していたワシントンは、1799年12月14日、激しい喉の痛みを訴えた。それで、1パイント瀉血。状態は好転せず。さらに、1パイント瀉血。なお好転せず。3人の医師が討議して今度は一気に、1クオート(1.14リットル)瀉血。ワシントンは脱水症状を起したが、ドロドロの血液を絞り出したと医師たちは満足した。治療は成功したが、そのままワシントンは死亡した。
 なぜそんな恐ろしい医療をしていたのか。当時の正統医学ではあらゆる病状は悪い血液から起こるとされていたためだ。ラッシュはすぐれた医師でもあり、医師の倫理感も強かった。「息があり、手が動くかぎり治療を尽くしたい。瀉血をやめるくらいならランセットを握ったまま死を選ぶ」と語った。瀉血療法が死亡率を上げていることに感づき医療過誤ではないかとした者も裁判で打ち負かした。まさに英雄であった。米国の医師の四分の三を育てた。みんなせっせと瀉血した。
 身体の毒を出すために、瀉下も広く行われた。下剤である。甘汞つまり塩化第一水銀(Hg2Cl2)が広く用いられた。流涎。つまりよだれがだらだらとなるまで塩化第一水銀を飲ませるのが指針であった。現代医学からすれば、それは水銀中毒の初期段階なのだが、当時は科学的に正しい治療であった。
 その他、嘔吐剤や発汗、皮膚火傷で水疱を作るといった治療もあった(参照)。耐えるほうも英雄である。ワシントンは瀉血以外にそうした治療も受けていた。
 こんな医療でよいのだろうかと、正統医学に疑問をもった人もいた。科学的な医療に疑問を持つことなど、近代理性の時代、許されるわけもない。当然、薬草を使った治療などは魔術や呪術の類に扱われた。
 サミュエル・ハーネマンも、こうした医療に疑問を持ったのだった。悩んだ。そして医者を辞めて、得意な語学を活かして翻訳家で食いつなぐことにした。それと、サミュエルには、当時流行の思想の影響もあった。日本では鈴木大拙訳で紹介されたスエーデンボルイの思想である。そこでは、癒しとは神と自然の技とされていたのだった。
 翻訳者としてサミュエルが最初に着手したのは、スコットランドの化学者ウィリアム・カレン(William Cullen)が記した「A Treatise on the Materia Medica(薬物論)」のドイツ語訳であった。翻訳をしながら、サミュエルには疑問が浮かぶ。これらの薬物は臨床で利用されたのだろうか? 少なくとも健常者にどのような薬理作用をもたらすかという知見があってしかるべきではないのか? それでは、とサミュエルは思うのだ、まず、手始めに自分の身体で人体実験。冗談ではない。
 マラリア対処に利用されるキニーネ(参照)のもとになるキナの木の皮を飲んでみた。苦み成分で健胃剤であろうと医学を極めたサミュエルは思っていた。が、実際には、熱が出た。な、なにゆえ?
 それからいろいろ試してみた。薬物のよからぬ作用はその薬物が適用される病状に似ていると思うようになった。もしかして、逆に特定の病気については、類似の症状をもたらす薬物を施せばよいのではなかろうか? 古代から伝わる秘密、引き寄せの法則みたいなものである。
 そういえばとサミュエルは思うことがあった。薬物投与をすると、一定の効果の後に逆の症状が出る。例えば、アヘンを投与すると多幸感になるがしばらくすると逆に抑鬱状態になる。これは、もしかして、人間の身体が薬物の影響を均衡させようとする仕組みを持っているからではないか。
 であるなら、サミュエルは考え続けた、病気に抵抗する自然治癒的な力を引き出すように類似症状をもたらす薬物を投与すれば治療になるのではないか? 1796年、ドイツの医学誌にこの知見を発表し、1810年、「Organon der rationellen Heilkunde(医療技法の原理)」を著し、新しい医療を提唱した。
 サミュエルの新医療は、英雄的医療の時代のただ中に静かに医師たちの間に広まっていった。サミュエルも静かに名声を高め、そして人生の成功者として多くの富を得て、さらに医者の不養生ともならず、88歳まで生きた。亡くなったのは1843年7月2日である。晩年は1835年から住み着いたパリであった。その前年治療を通して知り合うことになった34歳のフランス貴族家系の女性メラニーと80歳で再婚した。
 サミュエルの医療が米国に伝承されたのは1828年のことである。1836年、フィラデルフィアに専門の医科大学、ハーネマン医科大学が設立され、1840年代には主要著作が英語で読めるようになった。この時代、米国で広まったコレラについて、彼の医療で救われたという評判も高まった。
 米国での指導者はコンスタンチン・ハリング(Constantine Hering:1800-1880)であった。彼もドイツ、ザクセン州に生まれ、医学を志すなか、サミュエルの新医療に出会い、サミュエル自身とも個人的なつながりも得るようになった。1833年にペンシルベニア州に移住した。ハリングは、それから現代人に恩恵を残すことになる。
 それは不思議な物質だった。イタリアの化学者、アスカニオ・ソブレロ (Ascanio Sobrero)は爆発力の強い液体を合成した。一滴でドッカン。ニトログリセリン。後にアルフレッド・ノーベルが爆薬として実用化することになるが、ソブレロ自身はこれは危険すぎて爆薬にも使えないだろうと残念に思った。しかしまあ、作ってみたんだから、ちょっと試食、というわけではないが嘗めてみた。グリセリンなので甘いとでも思ったのだろうか。するとこめかみがズキズキとした。ほぉ。
 後にハリングも嘗めてみた。1849年のことだ。ずきずきする。これは使えると、ハリングは思った。仲間とも試してのち、1851年ドイツでこの知見を発表した。ハリング自身は狭心症状緩和の薬を意図していたわけではないが、他の研究者の成果もあり、やがてこれが狭心症状緩和として広く利用されることになった。機序が解明されたのは2002年のことである。
 サミュエルの新医療は、しかしながら、米国に根付くことはなかった。英雄的治療の医師たちは、米国医師会(AMA)を結成し、1887年次のような医師の倫理条項を定めた。

But no one can be considered as a regular practitioner, or a fit associate in consultation, whose practice is based on an exclusive dogma, to the rejection of the accumulated experience of the profession, and of the aids actually furnished by anatomy, physiology, pathology, and organic chemistry.

医療で蓄積してきた経験を拒絶し、排他的なドグマに基づく治療を行う者は、正規の医師、または診察助手にふさわしいものとは認められない。正しい医師は、正しく解剖学、生理学、病理学と有機化学に依っている。


 「排他的なドグマに基づく治療(practice is based on an exclusive dogma)」とは、米国に根付こうとしていたサミュエルの新医療であった。1855年には、サミュエルの新医療を併用する者は米国医師会から除名されることになった。規定違反者へは告訴も行われるようになった。違反病院のボイコットも推進された。正しい医療のためには、なんだってやるというラッシュの英雄的精神は生きている。
 しかし、幸いというべきか、英雄的医療も終わりの時代を迎えていた。瀉血と塩化第一水銀による瀉下から、アヘンによる麻酔治療に移ってきていた。サミュエルの医療の時代も実は自然に終わりを迎えていたのかもしれない。
 サミュエルの医療は地球上から完全に消えたわけではない。英国を経由してインドやスリランカに残った。私がコルカタに旅行したときだが、現地の人がその筋の医者に行くのだけど君もいらっしゃいといって、ついでに診てもらった。医師は僅かに瞑想して、私の不具合を言い当てたのには驚いた。お薬を出してもらいましょうかと誘われたけど、私は、正統医療しか信じないのでお断りした。
 他の地域でも、サミュエルの医療が生き延びているという主張もある。しかし、サミュエルの医療では、懇切で長時間にわたる問診が不可欠なのである。そうした重要な部分が割愛されたり、問診が可能とは思えない対象者へと拡大しているなら、それはもはやサミュエルの医療とは言い難いだろう。

参考
「代替医療のトリック(サイモン・シン、エツァート・エルンスト)」(参照
「人はなぜ治るのか(アンドルー・ワイル)」(参照

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2010.07.16

日本病化する米国、日銀化する米連銀、白川さん化するバーナンキさん

 オバマ政権の内政が微妙なところに来ている。人気についてはすでにいろいろ報道されているが芳しくない。13日付けロイター「米国民の約6割、オバマ大統領を信頼せず=世論調査」(参照)では、タイトルからもわかるように、米国民の6割がオバマ大統領を信頼していないとのこと。不支持の理由は同報道にもあるように、住宅問題や雇用低迷があるが、後者がとりわけ重要になる。
 フィナンシャル・タイムズ記事「Obama faces growing credibility crisis(オバマ大統領を襲う指導力の危機)」(参照邦訳参照)はさらにきびしい。オバマ大統領の支持率は40%台の維持さえ危ぶまれるような水準にあるとしている。メキシコ湾の原油流出問題も悪い印象を与えているのだろう。が、これはどうやら封鎖したようだし、また、オバマ大統領がリベラル過ぎる・社会主義者だ、といったイデオロギーに還元してしまう短絡的な解釈も一部ではあるが、それはたいした話ではない。オバマ大統領の命運は、経済・雇用にあることを同フィナンシャル・タイムズ記事は示している。


 オバマ大統領の私的なアドバイザーを務める人々も、内々には同じくらい否定的な見方をしている。ある人物曰く、オバマ大統領の指導力に対する米国民の不信感は、実体経済の状況に対する不満よりずっと大きな要素だという。米国経済は総額7870億ドルに上る昨年の景気刺激策が途絶え始めるに従い、回復ペースが鈍りつつある。
 匿名を希望するこのアドバイザーは、米国民にはオバマ氏の考えが分からないのだと言う。その好例が、昨年、医療制度改革法案にパブリックオプション(公的保険制度)を盛り込むことに熱意を欠いた支持しか示さなかったことや、現在、失業保険の給付を延長し、州政府が教職員の雇用を守れるようにする上院の法案にも同様に熱意を欠く支持しか示していないことだ。

 そうしたなか、オバマ大統領にはグッドニュースに見える動向もある。15日、米国で金融規制改革法案が成立した。産経新聞記事「米金融規制改革法案が成立へ 上院が可決」(参照)では、「オバマ大統領にとっては内政上の大きな勝利となった」と伝えている。日本から見るとオバマ大統領人気が上向きそうでもある。
 だが、これはすでに下院では可決していたし、今回の上院でも賛成60票、反対39票ということで、それほどオバマ大統領の政治指導力による勝利というほどでもない。
 対して、問題の雇用低迷に関連するが、長期失業者に対する失業保険給付延長法案のほうはどうか。こちらもすでに下院では、賛成270票、反対153票で可決していて、上院でも同じような道を辿りそうにも見える。が、そこがよくわからない状態だ。
 同法は、6月初旬に給付が止まった100万人以上失業者への支給を再開するというもの(再開されれば中断期間も支払われる)で、急がれているとも言える。1日付けロイター「米下院、長期失業者への失業保険給付延長法案を可決」(参照)では不透明な状況を伝えている。

 ただ上院では、過去最大まで膨らんだ財政赤字への懸念から、たびたび延長法案が阻止されており、上院での同法案の行方は不透明な情勢。次回も7月中旬まで同法案が取り上げられることはない見通し。

 議論は7日付けウォールストリート・ジャーナル「失業保険の延長、求職意欲の阻害要因となり得るか」(参照)がわかりやすい。

 現在米議会は、期限の終了した失業保険の期間延長をめぐって紛糾しており、先の議論は依然重要な問題となっている。上院では、オバマ大統領が支持する失業保険の期間延長法案を盛り込んだ広範な法案が否決されているが、下院では、赤字拡大の危惧(きぐ)をめぐって多少議論はあったものの、期間延長法案は可決されている。下院は先週、さらに内容を絞り込んだ法案を承認したが、上院での審議は独立記念日に伴う1週間の休会後まで持ち越されている。

 議会の動向に加え、エコノミストや経済学者の意見が割れている。

 失業保険制度が失業の長期化や全体的な失業率の上昇にどの程度関係しているかについては、エコノミストの間で長年議論されてきた。給付期間の延長は、一部失業者の求職意欲や手に入る仕事に対する就業意欲を阻害しているとの意見が大半だ。だが、その影響の大きさについては、とりわけ職が枯渇している現状では、見方が分かれている。

 15日付けロイターではこの問題に関連し、米経済諮問委員会のローマー委員長の見解を伝えている。「米雇用創出へ一段の経済支援策が必要=ローマーCEA委員長」(参照)より。

米経済諮問委員会(CEA)のローマー委員長は14日、雇用を創出し、高止まりしている失業率を引き下げるために、米経済に対するさらなる支援策が必要との考えを示した。
 同委員長は議会上下両院の合同経済委員会の公聴会向けの証言原稿で「追加支援がなくても経済成長は続くが、回復ペースは失業率を急低下させるために必要な水準を下回る状態が続く公算が大きい」との見方を示した。
 2008年終盤から2009年初旬にかけてリセッション(景気後退)が最も深刻だった時期と比べて、米労働市場は「劇的に改善した」としながらも、9.5%と高止まりしている失業率を引き下げるために、まだすべきことは多いと指摘した。
 その上で、失業保険の期間を延長することは、回復のペースを加速させるために議会ができる「最も基本的な」措置だとし、議会に関連法案を可決するよう求めた。

 この問題のもう一つの焦点は、米国連邦準備制度理事会(FRB)にある。つまり、バーナンキ議長への期待と批判である。端的に言えば、米国は日本病に罹りつつあるのだから、リフレ政策をせよということになる。
 これを鮮明にしたのがスウェーデン国立銀行賞を受賞した経済学者クルーグマン氏でニューヨークタイムズのコラム「The Feckless Fed」(参照)の主張が鮮明だ。かなり辛辣にバーナンキ議長を批判している。この問題は日本にも関連していることから、有志訳「クルーグマン「無能な連銀」 - left over junk」(参照)などもある。

Back in 2002, a professor turned Federal Reserve official by the name of Ben Bernanke gave a widely quoted speech titled “Deflation: Making Sure ‘It’ Doesn’t Happen Here.”

2002年のことになるが、教授から転じて連邦準備制度理事となったベン・バーナンキなるものが、「デフレ:それを米国で起こさないようにする」と題した講演を行い、この講演は広く引用されることにもなったものだった。

Like other economists, myself included, Mr. Bernanke was deeply disturbed by Japan’s stubborn, seemingly incurable deflation, which in turn was “associated with years of painfully slow growth, rising joblessness, and apparently intractable financial problems.”

他のエコノミスト同様、私もバーナンキ氏同様、日本でおきた、強固で救いようもなさそうなデフレに深い懸念を抱いていた。日本型デフレの帰結は、痛みを伴う低成長、失業率増加、難治性を示す経済問題となるものだ。

This sort of thing wasn’t supposed to happen to an advanced nation with sophisticated policy makers. Could something similar happen to the United States?

賢い政策立案者のいる先進国なら、この手の状況には陥らないと見られていた。米国で同じようなことが起こりうるだろうか?


 この問題は日本の問題といった側面もある。「日本みたいなばかなまねはしないでくれバーナンキ議長」とクルーグマン氏は訴えている。

Whatever is going on, the Fed needs to rethink its priorities, fast. Mr. Bernanke’s “it” isn’t a hypothetical possibility, it’s on the verge of happening. And the Fed should be doing all it can to stop it.

現状がなんであれ、連銀は至急、優先順位を再考する必要がある。バーナンキ氏の「それ(デフレ)」は、仮定上の可能性ではなく、勃発寸前にある。そして、連銀はその阻止になんでもすべきである。


 クルーグマン氏の舌鋒は「Trending Toward Deflation」(参照)ではさらに厳しく、"Domo arigato, Bernanke-san."とまで述べている。これは、日本の2ちゃんねるなどにある、「本当にありがとうございました」(参照)と似た意味合いである。おかげさまで、米国も日本型デフレになりそうです、と。
 問題は、なぜあれほど優れたバーナンキ氏がリフレ政策の手を打たないのかということでもある。バーナンキ氏は、日銀のようにデフレになることが理解できないのだろうか。あるいはあらまほしき先達、白川先生になってしまったのだろうか。
 政治的な背景によるものだという見方がニューズウィーク所属ダニエル・グロフ氏「Does Anyone Care About Unemployment Anymore?」(参照)にあり興味深い。

But so far? Nothing. And the question is why.

これまでの経緯はというとなにもない。疑問はなぜということだ。

First, there’s the matter of the uncertain trumpet at the Fed. When I wrote last week that Federal Reserve Chairman Ben Bernanke didn’t seem particularly bummed about high unemployment, a reader asked what I expected him to do. At the very least, he could have lent moral support to the need for further stimulus—if only out of self-interest.

第一に、連銀の声がよくわからない。先週私がバーナンキ連銀議長は高い失業率に気を沈ませているふうではないと書いたおり、では私が彼に何を望むのかと問うた読者がいた。最低限でも、自分の都合でないなら、道義的にも、さらなる経済刺激支援をすべきだろう。



But the two branches of government responsible for initiating and implementing fiscal policy haven’t acted with a sense of urgency, either. And politics clearly has a lot to do with it.

しかし、経済政策を開始し実施する責任を負った政府両派は、緊急事態の認識もなくなにもしてない。明らかに政治が多く関連している。


 グロフ氏はバーナンキ氏の背景に二大政党の政治の問題を見ている。共和党にも民主党にも都合のよい政策ではないということなのだろう。
 政治だけではないのかもしれない。そうグロフ氏は見ている部分もある。バーナンキ氏の考えというよりオバマ政権側の対応としてだが、現時点では失業に手を打たないとしているのかもしれない。

And perhaps high unemployment is something we’ll have to live with, given the way the economy has recovered from recent recessions.

もしかすると、高い失業率というのは、近年の景気後退から経済が回復するまで、我慢すべきものかもしれない。


 もしそれが正しいなら、雇用の衰退を起こす日本病は、回復不可能な沈みゆく道だったということになる。
 日銀というのは、平家物語の平知盛が没落していく平家を看取るように、日本の終わりをじっと見つめる悲劇のヒーローなのかもしれない。本当にありがとうございました。

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2010.07.14

フィナンシャル・タイムズ曰く、それでも頑張れ、ミスター・カン

 参院戦民主党敗北についてフィナンシャル・タイムズが言及していた。「Kan carries the can for DPJ failures」(参照)である。今回もだじゃれが冴えている。
 直訳すると、「菅は、民主党のカンを運ぶ」ということだが、"carry the can"は、「(俗)責任を負う、非難をかぶる」(参照)ということ。あるいは"If you carry the can, you take the blame for something, even though you didn't do it or are only partly at fault."(参照)、つまり、「カンを運ぶというのは、失点の有無・多寡にかかわらず非難を受けるということ」。
 もう少し含みがある。World Wide Wordsというサイト(参照)より。


This is another of those odd expressions that’s best known in British English. If you carry the can for something you’re bearing the responsibility for its having gone wrong, often with the implication that you’re taking the blame for someone else.

これも英国英語の奇妙な言い回しだ。ある人が何かの理由でカンを運ぶというのは、失点の責を負うことだが、これには他の人の失点の責を負うという含みがある。


 この後に由来の考察もあるが、はっきりとはしない。運び屋が罰を受けるというようなことらしい。
 いずれにせよ、他の人のヘマで叱責されるということでフィナンシャル・タイムズとしては、鳩山さんの失態で菅さんが叱責されたと言いたいのでしょうと読み進める。あたり。

Naoto Kan, the new prime minister, cannot take all the blame for the defeat. He reaped the consequences of his predecessor’s bungling. Mr Hatoyama dithered and thought out loud. His indecisiveness was symbolised by the humiliating climbdown over the relocation of the Futenma base.

菅直人新首相に敗北の全責任があるわけではない。前任者のドジの帰結を受け取ったのである。前任の鳩山氏は、ぶれまくり、かつ脳内だだ漏れの人だった。彼の優柔不断は、普天間基地移転問題を巡る、お恥ずかしいまでの人気低迷に表れている。


 でも、それだけではかばいきれないでしょうというのも、フィナンシャル・タイムズもわかっている。

But Mr Kan did not fight a brilliant campaign. He himself was guilty of thinking out loud over the consumption tax. Having called for a cross-party debate about the tax and suggesting that its rate could be doubled to 10 per cent as a way to reduce Japan’s deficit, he later made comments that suggested he had not thought through the implications for lower-income groups.

しかし菅氏も芳しい選挙運動をしたわけではない。彼自身も消費税について脳内だだ漏れという有罪だった。財政赤字削減のため、超党派議論を呼びかけ、10%引き上げを示唆したものの、その後、低所得者層への影響は十分考えてなかったと述べていた。


 そう言う以外にはないでしょう。
 で、日本はどうなるの?

The DPJ’s electoral victory last year raised hopes for a more open, less bureaucratic style of politics. With this defeat, the risk is that those hopes will now be dashed, returning Japan to the well-worn path of political inertia.

昨年の民主党選挙勝利は、官僚指向政治を弱め開かれたものにするという希望を点じた。が、この敗北で、希望も消える懸念がある。日本は毎度お馴染みの政治手法に戻ってしまうかもしれない。


 もっとも、フィナンシャル・タイムズとしても民主党の政治でいいとしているわけではない。前段では、それはひどいしろものだった("It has been a dreadful disappointment")とはしている。
 菅内閣に希望はあるのだろうか。
 あると、フィナンシャル・タイムズは言う。毎度ながら、この不屈の精神というのがジョンブルというものなんだろうかと私は驚嘆するが。

Mr Kan can still retrieve the situation. He has the potential to rally both his party and the country. But this requires him to take the battle beyond the doors of the Japanese Diet. He must reach out to the public, explaining his policies, how they add up to a coherent plan and how he intends to stick to this plan.

菅氏はまだ政局を挽回できる。彼には民主党と日本国民を再結集する潜在能力がある。だがその実現には、国会を超えた挑戦が必要になる。菅氏は、自身の政治理念を大衆に届くように主張しなければならない。一貫性のある政策をどのように進め、それに信念を持ちづけると主張しなければならない。

Such an approach would be a real revolution in Japanese politics. It would be the revolution his party’s supporters voted for last year. Mr Kan owes it to them to try.

そうすることが日本政治の真なる革命となるだろう。それこそが、有権者が昨年支援した革命なのである。菅氏は挑戦する責務がある。


 そうかなあという感じがする。あまり焚きつけるとまたあらぬ方向に驀進してしまいそうな人なんだが、菅さん。民主党内のごたごただけですでに人の話なんか耳に入ってないほど混乱している。「首相、支持率下落「大変うれしい」? 勘違い…釈明」(参照)より。

 菅直人首相は13日、報道各社の世論調査で内閣支持率が30%台に下落したことを記者団に問われ「大変うれしいです」と答えた。質問は「首相続投の声が5割を超えているが、支持率は30%台に落ち込んでいる。どのように受け止めるか」との内容。首相は前半部分を念頭に、勘違いした可能性が高い。
 首相は答えるとすぐに立ち去ったため、記者団は確認の質問ができなかった。首相秘書官は約2時間後、「質問が正確に聞き取れず、続投支持率という概念が通常使われないことから質問の意図と異なる返答を行った」と文書で説明した。

 「続投」と聞いた時点で脊髄反射しちゃって、大脳が働いてないような感じ。記者の話をまるで聞いてない。
 ここは、数日でいいから、炎天下かもしれないが、四国を巡ってみるとよいのではないかな。

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2010.07.13

民主党参院選挙大敗、責任論のゆくえ

 しかたがないとは思うのだが、民主党内で参院選挙大敗の責任論がわいてきた。朝日新聞のように社説(参照)で「菅政権がまず直面するのは、今月から本格化する来年度予算編成だ」と、現実にまず直面する選挙大敗責任問題から目をそらそうとする援軍もいないわけではないが、形の上だけであれ、選挙体制で幹事長に就いた枝野幸男氏の責任が問われないわけにもいかないだろう。当面はそこが上手に落としどころになるのかということだ。現状ではこじらせているように見える。
 昨日NHKの7時のニュースを漫然と見ていたら、討論スペシャル「有権者の声にどうこたえる」(参照)という番組が始まり、主要政党党首が雁首を揃えるなか、まるで針のむしろの罰ゲームのように民主党からは猫背の枝野氏が登場していた。枝野氏はアップで見ると福耳の縁起のいいお顔である。これでいつのもの、幸運を呼びそうなにへら笑いが見られるのかと期待したが、さすがに小さい目をさらに点のように緊張させていた。
 番組は幸い各党首の意見が錯綜したうえ、民主党内議論でもないことから罰ゲームといったふうにはならなかったが、枝野氏は「個人的な思いは別として」といった発言をされているのは印象的だった。他所でもそう述べているようだ(参照)。菅氏の顔を立ててはいるものの、責任論は看過できないと思っているのだろう。
 菅氏は、民主党党首として幹事長を動かさないという党内事情の手前から、内閣のほうも当面、改造・党役員人事に手が付けられなくなった。このままでは9月の民主党党代表選までフリーズした状態になり、マニフェストは大きく変えたものの、依然後期鳩山内閣継続ということになる。フリーズには今回落選した千葉法務大臣の続投も含まれるが、大臣は議員である必要はないのだから、その点について言えば、9月までのことでもあるし問題はないだろう。
 内閣がフリーズした状態で9月の民主党党代表選が迎えられるかというと、その前に大きな関門がふたつある。一つは普天間基地移転問題で8月末までに工法を決定しなければならないが、それには沖縄の同意が前提になる。そうでないと民意を踏みにじるということを意味するわけだが、今回の沖縄選挙区の動向(参照)を見るに無理だ。NHKの番組では枝野民主党幹事長は8月末の期限は専門家の意見をまとめるだけだとし、並行して沖縄県民に理解を求めていくというふうだったが、鳩山前内閣のような話のすり替えでうまくいくわけはない。沖縄県への具体的な民主党のアプローチも見当たらない。
 二点目は、臨時国会で可決すると全国郵便局長会(全特)に向けて枝野氏が念書(参照)まで書かされた実質郵政を国営化にするための郵政改革法案だが、以前の衆院のように6時間で強行採決という暴挙はできなくなった。
 このふたつの難関を菅内閣がするりと抜けるわけにもいかないし、じっくりと取り組むには9月は早すぎる。9月前に菅首相が辞任ということはないだろうが、反発の圧力を高めてしまうのではないか。
 朝日新聞が民主党大敗責任論を煙に巻くために、ねじれ国会を避けよと論じてるように、ねじれ国会が問題だという話も諸処でふかされている。いわく、野党が反対すれば法案が通らなくなるというのだが、実質郵政を国営化にするための郵政改革法案みたいのを6時間で強行採決でよいわけもない。国会は議論の場なのだから、きちんと個々に議論を積み重ねていけばよいだけのことではないか。民主党としては衆院選挙時のマニフェストは実質なかったことにして済まそうとしているようでもあるが、あれを信じて当選させた衆院議員の意味はきちんと議論されたほうがよいだろう。
 ねじれ国会から連立・政界再編といった心躍る話もある。だが、9月の民主党党代表選前に動きが出るとも思えない。民主党は、いわゆる都市民型の政党であるとともに、連合や自治労などの労組の政党でもあり、後者の部分だけを分離すれば、公明党くらいの中政党に縮退してしまう。それがみんなの党より小さくなってきたところに、大きな政治潮流がある。
 本来なら労組が市民社会を包括する理念を打ち出せるとよいのだが、また中枢の理論家たちはわかっているのだが、具体的な展望はない。末端は「新自由主義反対」とか極楽浄土を目指して念仏を唱えている。
 そこで民主党の残りの都市民型の政党という性格が強く出てくると、公明党やみんなの党などとも連繋しそうでもあるが、その前に自民党内の都市民型の政治志向の勢力が割れてくる必要がある。政界再編というなら、問われているのはむしろ自民党ではないか。
 その他、今回の参院選大敗をもって、総選挙で信を問えという意見もあり、産経新聞は社説(参照)でぶちあげていた。野党時代の民主党の意見からするとそうであるべきなのだろうが、参院選で国民としてはそれなりに民意を出した形にはなっているので、広く支持される意見にはならないだろう。

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2010.07.12

2010年参院選、民主党大敗

 参院選挙で民主党が大敗した。言うまでもな敗因の責任者は菅直人首相である。民主党のマニフェスト崩壊、政治とカネの問題、普天間基地問題失態、さらには保守勢力が懸念する外国人地方参政権、夫婦別姓、人権救済機関設立といった諸問題を、「日本は財政破綻国家になるぞ、すわっ一大事」という国家主義的な嘘演技で覆い隠そうとし、あまつさえ自民党にもヒンヤリと抱きつくという奇策は、壮烈なまでの失策だった。当の論点であるべき財政問題も消費税もまったく理解していない経済音痴がせっせと墓穴を掘り続けていた。急な坂を転げるような民主党の失墜では、鳩山前首相のように人間離れした言明を通すのとは違い、菅首相は人間らしい弱さで右往左往し選挙直前にはごめんなさいと首をすくめたが、民主党内ですら、ああこの選挙はやる前からダメだなという嘆息が漏れていた。鳩山さんが憎めない人であるように菅さんも憎めない人だなとは思うが党首にも首相にも向いていない。
 民主党が50議席を割ればいいなと私は思いつつ、しかしそこまで大敗はしないだろうと思っていたが、蓋を開けてみると44議席だった。反面、自民とは51議席とこれも大方の予想を超えて前進した。存外のことだと言えばそうだが、内実を仔細に見ると、誤差の拡大と見えないこともない。民主党は選挙区で28議席と比例で16議席の44議席、自民党は選挙区39議席と比例で12議席の51議席。単純に政党への人気がどうかと比例で見るなら、民主16対自民12ということで、依然民主党が上回っている。菅首相の消費税奇策は失敗だったが、消費税増税がいずれ避けがたいことは国民にある程度は織り込まれていると見てよさそうだし、民主党への国民の支持が完全に揺らいでいるわけではない。
 選挙技術として見れば、民主28に対して自民39なので、選挙区での民主党の失敗は大きい。2人区を独占しようとした小沢前幹事長の読みが完全に外れたが、一昨年の衆院の勢いからすればその戦略はしかたがないと言えないこともない。戦略変更が必要になる時期はすでに鳩山前首相の辞任の遅れで逸していたから、枝野幹事長も方向性修正はできなかった。民主党は日本軍みたいなものだ。
 民主党のタレント路線も失敗した。目玉の柔道家・谷亮子が通るのは当然としても、民主のタレント候補は総崩れした。個人的には岡崎友紀さんと庄野真代さんが並んだら楽しいような感じもしないでもなかったが、私ですら投票しない。この戦略も状況の急変に対応できない民主党の失策だった。
 反面一人区では自民党が手堅く拾った。民主党が二人区でリソースを消費していることの敵失と言っていいだろう。小泉政権以降の地方自民党の選挙組織が立ち直ったというより、残存勢力を梃子入れする範囲で思わぬ利が取れたくらいものなので、この幸運が続くわけもない。自民党もまた低迷の道にはある。二大政党化が積極的に進んでいるわけでもない。
 こういうとなんだが、民主党の失墜は暴走の歯止めとして好ましいものの、自民党の躍進で自公が民主党を上回ってしまえば、またかよの懐メロ政治になりかねない危険性があった。今回の参院選の結果、参院では民主党が106議席で、自民党84議席プラス公明党19議席を若干上回った。自公が参院でグリップを取るというほどは伸びていない。おかげで民主党としては、地味に他党と政策を摺り合わせていく必要がある。ねじれを懸念する声もあるが、これでよかったと思う。参院というのはそういう議会でもある。
 みんなの党のここまでの躍進は私には想定外だった。かく言う私自身、「棄権・白票も大人げないし、舛添さんも政局を読み違えるということ自体失策だし、しかたないな、みんなの党か」と思って入れたものの、公明党に匹敵する躍進は想定しなかった。東京都の選挙区では、かなりためらったが、「共産党の票が減るといいな」と松田公太氏に入れた。私の一票など大勢に影響はないと高を括っていたら、開票終盤で面白い風景を見ることになった。共産党が負けて、松田氏が勝った。まさかと思ったが、その前に共産党のようすがNHKに映し出され、そのお通夜のような暗さに、よもやとは思った。55万票も組織票があり、共産党が東京都で負けるということがあるんだろうか。時代がなにか終わったなという感じはした。
 終わったといえば、風味は違うようにも思えるものの、国民新党も立ちあがれ日本も新党改革も、終わっていた。社民党も終わりに入れてよいのではないか。概ね、政治の老化現象みたいなものだ。もっとも、老害諸悪の根源みたいな人が当選したので、歴史の動きは鈍いところは鈍い。現下日本の本当の問題は、高齢者世代内格差にあるのだが、そこもまだ顕在化しない。
 想定外と言えば、みんなの党の躍進によって、これまで却下されてきた日銀法改正法案が出せると渡辺党首が喜んでいたが、そういう光景も見ることになろうとは思っていなかった。
 ただし、これでみんなの党がさらに躍進するかというとわからない。日銀法改正法案もすんなり行くとは思えない。それでも、民主・自民の重苦しく退屈な政治に少し変化があるかもしれないし、民主・自民が大連立を起こす危険性へのリスクヘッジにはなるとよいなとは思う。

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2010.07.11

[書評]地域再生の罠 なぜ市民と地方は豊かになれないのか?(久繁哲之介)

 地方都市が衰退している。象徴的なのはシャッター街だろう。かつては栄えていた中規模都市の駅前商店街はさびれてしまった。かつてそこで購入されていた商品は、郊外型の大規模ショッピングセンターに移った。かくして、地方の暮らしでは自動車が生活の必需品となり、自動車や公共交通などの移動手段がない人びとは、食料品・日常品を購入することも困難となる。歳を取って十分な生鮮食品も購入しがたく、買い物難民とも呼ばれるようになる。地域衰退の帰結のひとつだ。

cover
地域再生の罠
なぜ市民と地方は
豊かになれないのか?
久繁哲之介
 衰滅していく地域をどう再生し、活性したらよいのか? 多くの人が知恵を絞り、そしていくつかは成功したと語られている。本当だろうか。本書、「地域再生の罠 なぜ市民と地方は豊かになれないのか?(久繁哲之介)」(参照)は、まず地域再生の成功例と言われているものが、本当に成功例なのか疑っていく。
 もし、喧伝された成功例が本当に他の都市でも模倣可能な成功例であれば、それは地域再生への指針となる。だが隠蔽された失敗例であるなら、失敗例を拡散していくことになる。あるいは成功例があっても特例と言うべきものであれば、模倣は多くの失敗への道となるだろう。どうなのだろうか。
 本書は、地域再生の成功例として語られる六つの都市について、それぞれが内包する問題を主題化して、こつこつと足で稼いだ体験から検証していく。人口30万人から50万人の県庁所在地でもある、宇都宮市、松江市、長野市、福島市、岐阜市、富山市が俎上に載せられる。他にも、地域再生の視点から日本の各都市が問われ、これらは巻頭の日本地図にもまとめられている。読者は、自分が住んでいる地域の話からまず読まれてもよいかもしれない。そこで描かれてる風景は、地域の人間ならわかる独自の正確さを持っていることが理解できるはずだ。それは地元の生活者ならあたりまえのことではないかと思えることだが、しかし、その当たり前のことが書かれているだけで、独自の衝撃性を持っていることを本書は系統立てて説明している。
 地域再生に多少なりとも関わった人間であれば、この問題の難所を本書がきちんと射貫いていることも理解するだろう。本書は、そこを「土建工学者などが提案する”机上の空論”」と断じる。表舞台に出てくる役者は3者だ。地域再生関係者というプレゼンテーション業者、美しい夢を科学の装いで語る土建工学者、お役所体質の地方自治体、である。
 私の経験から粗暴に言ってしまえば、根幹は、土建そのものである。つまり、箱物であり、道路化であり、農地の転売であり、交通整理の日当である。目先の利権のネットワークが地域の権力構造と一体化していて、地域再生という振り付けを変えることなどできない現実がある。それを化粧直しをするように、地域再生の美しいプレゼンテーションで包み直し脇に補助金を添える。失敗するべくして失敗するとしか思えないとも言えるのだが、それなりにおカネが回れば地域は数年息をつくことができる。息が切れたらもう一度同じことを繰り返す。諦観と荒廃に至る。
 本書の事例は、見方によっては成功と言える中都市の事例だから、そこまでひどいことはない。それでも地元生活者から感じられる問題点はほぼ出尽くしている。若者を呼び込もうとした宇都宮市の活性化では現実の若者の感性は生かされていなかった。松江市の再生はイベント頼みで本当に地域に潜む宝(Rubyとか)を生かし切れない。長野市は観光客指向のあまり地元民の生活との接点を失った。福島市はオヤジ視点のあまり地元の若者や女性の視点を持つことができなかった。岐阜市・富山市はお役所体質からコンパクトシティを目指し、市民の居住空間の常識を壊した。どれもディテールの挿話は表層的に見れば笑話でもあるが、実態を多少なり知る人間にとっては悲劇でしかない。
 どうしたらよいのか? 本書は後半三分の一で、筆者の経験則からではあるが、市民と地域が豊かになる「7つのビジョン」をまとめ、そこからさらに具体的な提言を3点導き出し、1章ずつ充てている。言い方は悪いが、「使える」提言だ。(1)食のB級グルメ・ブランド化をスローフードに進化させる、(2)街中の低未利用地に交流を促すスポーツクラブを創る、(3)公的支援は交流を促す公益空間に集中する。
 そして本書は閉じられる。これで地域再生は可能になるだろうか。読後、私が思ったのは、この「使える」提言を「使う」ためには、地域コミュニティーが生き返ることが前提になるだろうということだ。それは鶏と卵のような循環になっている。提言が目指すものこそ、地域コミュニティーの再生だからだ。もう一点思ったのは、本書が言及していないわけではないのだが、この難問には地域における若者と高齢者の再結合が問われていることだ。地域の若者の現実的なニーズと高齢者のニーズをどう調和させるか。そしてその二者の背景にある巨大な失業の構造はどうするのか。問題の根は深い。
 それでも、地域再生という名の幻影を本書で吹き消すことは、本当の地域再生への第一歩となることは間違いない。

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2010.07.10

明日に迫った参院選

 参院選が明日に迫った。関心がないと言えば嘘になるし、関心があるかというとそれほどでもない。民主党には投票しないと決めているが、ではどこに入れるかというのが依然決まらない。自民でもなく民主党でもなく、現下の政治的な状況から効果的な票となれば、みんなの党ということなのだろうが、個人的には気乗りしない。
 個人的にと言うなら、舛添さんが一番首相としての見識を持ち合わせているように思うが、新党改革という小党が政治的に機能するほどの票を得ることはないだろう。ついでに不思議なのだが、新党改革は、みんなの党より明確にインフレターゲット政策を掲げているが、いわゆるリフレ派的な支持を得ているふうにも見えない。
 状況的にはどうか。民主党はそれほど大敗しないのではないかと思うが、まあ上限から見ると、民主党単独過半数の60議席なら、政権交代をぐちゃぐちゃにした国民新党を放り出せるはずだが、その線はまるでない。内心では郵政国有化に反対であろう枝野さんまで郵政国有化の血判を押したようなことをしている(参照)。要するに、民主党的にも単党の路線は無理だと諦めている。
 国民新党を抱え込んだまま現状の民主党の混迷路線を良しとしても、連立与党で過半数の56議席が必要になる。そこで民主党としては54議席を勝敗ラインとし、国民新党から3議席ほど加えるという線で進めようとしているのだろうが、可能だろうか。そこがわからないが、意外とその線に行くかもしれない。そうなると、政治の風景はまるでなんにも変わらない。民主党はそれほど大敗しないのではないかと冒頭書いたのは、そのあたりだ。
 もう少し民主党が低迷するというのが現実的な見方かもしれない。菅首相の面白ろパフォーマンスの成果で民主党の人気は面白いように落ち込んできていることもある。それがどのくらい選挙に反映するか。民主党があと4議席減らし、概ね50議席くらいになるだろうか。それだと、国民新党と連立しても過半数には届かず、3議席ほどの社民党と個別提携で乗り切るということだろうか。それでも政治の風景は変わらない。なんかうんざりするような疲労感を覚える。
 政治の風景に変化が生まれるのは民主党が50議席を割ったあたりからになる。露骨にいえば、国民新党と社民党を切って、みんな党と公明党と個別に提携する可能性も見えるあたりからだ。そのほうが本来の民主党らしさが出てきてよいと思うのだが、同時にその状況はあっけなく菅さん終了でもあり、小沢さん再登場という別の面白劇場を伴うだろう。そこまで行くだろうか。
 自民党側から見ると別の風景が見える。自民党が意外と善戦しそうで45議席くらい行くかもしれない。そもそも自民党にお灸を据えるとしたはずが自身で火傷を負ったあたりの層が自民党に返ってくるだろうし、外国人参政権・夫婦別姓制・人権侵害救済制度といった民主党がマニフェストから隠している部分への忌避の票も流れるだろう。
 仮に自民党が46議席、みんなの党が10議席とれば、可能性としては、これで参院の過半数が取れる。その可能性が見えるだけでがらっと政治の風景は変わるだろう。そのことを懸念してみんなの党は自民党の別部隊だとか一生懸命ツイッターとかでふかしている勢力もあるが、まあ、それはない。自民党は一枚板ではない。
 仮にというなら、もう一つ面白いシナリオはある。たぶん、菅さんの内心にくすぶる思いというか、財務省のプランBでもあろうが、増税へ向けての自民党との大連立という線だ。このまま日本の政治をさらに混乱させて、大手紙あたりを誘導していけばそれも不可能ではないだろう。
 そもそも民主党が名目成長率3%として、増税回避の名目成長率4%を切っているのは、財務省へ秋波を送るための糊代みたいなもので、このあたりは自民党の合意とも近い。ついでだが、7日時事「消費増税不要は無責任=みんなの党を批判-民主政調会長」(参照)を見ると、玄葉さん、内心ではみんなの党に負けたとうっすら思っているのだろう。


 民主党の玄葉光一郎政調会長は7日、福島市内の会合で、みんなの党が年率4%以上の名目経済成長を達成できれば消費税率引き上げは不要と主張していることについて「誰が考えても税の抜本改革は避けられない。それが必要ないというのは真っ赤なうそであり、国民に対して無責任だ」と厳しく批判した。 
 玄葉氏は「(経済が)成長すると確かに税収は上がるが、金利も上がる。国には世界一の借金があり、利払いが雪だるま式に増える」と指摘。「名目成長率が4%になれば財源ができるというのは百パーセントうそだ」と強調した。

 ただ、そのあたりの合意はまるで民主党内で整合しているわけでもない。大連立なら多少党内整理してもよいとするのかもしれないが。
 まとめると、少し国民の気分が変われば、それなりに面白い風景の見えそうな選挙だが、それほどの変化はなく、民主党のうんざりした政権が続くのではないかと思う。そのあたりが財務省の実質的な思惑でもあるのだろう。
 余談だが、いわゆるリベラルといった人たちが、結果的に財務省に取り込まれていく姿は、ゆうパックのドタバタでも思った。元大蔵省官僚斎藤次郎・日本郵政社長も元郵政省官僚鍋倉真一・郵便事業会社社長もなんら責任は取らないし、原口一博総務相も業務改善命令は出さず、郵政民営化委員会を葬った。いわゆるリベラルといった人たちからその批判の声は聞かなかった。国家を批判しているかに見える人びとが、国家主義に転換していく歴史の公式通りの展開は醜いものだなと思うが、国民がそれをどう見ているか、この選挙の結果に出てくるだろう。

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2010.07.09

クレア・ブース・ルース(Clare Booth Luce)

 編集者、劇作家、米下院議員、米駐イタリア大使でもあったクレア・ブース・ルース(Clare Booth Luce)は、1903年4月10日、ニューヨークに生まれた。父親ウィリアム・フランクリン・ブース( William Franklin Boothe)は特許医薬品販売人かつバイオリン奏者、母親アンナ・クレア・シュナイダー(Anna Clara Schneider)は踊り子だった。

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Clare Boothe Luce
 クレアは嫡出子ではなかったらしいが、生まれたときの名前はアン・ブース(Ann Boothe)であったので父名を継いでいる。育ったのはシカゴ(メンフィス)だった。1912年に両親は別れ、母親の元に置かれた。母親は富裕層向けの"call girl"もしていたらしい。そのあたりの時代感覚はよくわからない。
 クレアの少女期は、送られていたニューヨークの学校だった。10歳のときブロードウェイで10歳年上のメアリー・ピックフォード(Mary Pickford)の代役をしたことがあるというから、当時すでに相当な美少女だったのだろう。ニューヨークで劇場役者の学習もしつつ、女優を目指した。1919年に卒業。同年、母は欧州旅行で再婚し、その両親の影響で、クレアは女性参政権に関心を持つようになったとのこと。なお、米国で女性参政権が確立したのは1920年である。
 クレアの初婚は1923年ということなので20歳だった。相手は43歳の資産家で弁護士でもありスポーツマンでもあったジョージ・タトル・ブロコー(George Tuttle Brokaw)である。クレアは翌年、娘のアン・クレア・ブロコー(Ann Clare Brokaw)を産むが、1929年に離婚。理由はブロコーがアル中だったからとのこと。その後ブロコーのほうはといえば、1931年にフランシス・フォード・シーモア(Frances Ford Seymour)と再婚した。ブロコーが死んだのは1935年。その翌年残された妻フランシスは、ヘンリー・フォンダ(Henry Fonda)と再婚し、生まれたのが、ジェーン・フォンダ(Jane Fonda)とピーター・フォンダ(Peter Fonda)である。
 クレアは離婚後、1930年、ファッション誌ヴォーグの編集に加わり、翌1931年雑誌ヴァニティーフェアの副編となる。風刺的文才で世間の注文を浴び、"No good deed goes unpunished(正直者が馬鹿を見る)"などの句が彼女の引用で有名になる。1933年同誌主幹となるも劇作家を目指して翌1934年退職した。
 1935年にヘンリー・ロビン・ルース(Henry Robinson Luce)と再婚した。つまり、夫はタイム、フォーチュン、ライフ創刊したメディアの覇者にして、中国宣教師の息子にして親中国イデオローグ、ヘンリー・ルースである。というわけで、クレアの名前は、クレア・ブース・ルースとなる。ヘンリー・ルースはこのとき37歳。再婚であった。クレアは32歳。それほど歳差もない。まあ、お似合いというところなんだろうか、双方。出会って、1か月後の結婚で、ヘンリーのほうは12年連れ添った妻と別れてすぐのことだった。その後、二人の間に子供はなかった。
 1935年、クレアは、気の重くなる劇作「日暮れて四方は暗し(Abide with Me)」を発表し酷評されたが、翌1936年有名喜劇「女たち(The Women)」(参照YouTube)を発表し大ヒットする。その後の作品でも劇作家としての名声を高めていく。
 その頃、経営学者ピーター・ドラッカー(Peter Ferdinand Drucker)が、夫妻とニューヨークのレストランで会食している。そのころドラッカーが書いた「経済人の終わり」(参照)にヘンリー・ルースが関心を持ったのである。「傍観者の時代」(参照)より。

 ルースは、本について突っ込んだ質問をしてきた。かなり丁寧に読んだことは明らかだった。クレアのほうは、これまた明らかに退屈していた。本を読んでもいなければ、読む気もなさそうだった。彼女は退屈な話を止めさせようとして、ほほえみながらこう言った。「ドラッカーさん、経済人が終わった後は、肉体人の番になるんじゃありませんこと?」

 1940年第2次世界大戦が勃発すると、クレアは文才を生かし、夫ヘンリ・ルースの雑誌ライフの欧州戦記記者ともなる。翌1941年、日本と戦時下にあるヘンリ・ルースと中国に視察旅行し、中国視点の記事を発表した。この時の夫妻のエピソードはディヴィッド・ハルバースタムの「ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争」(参照)にも登場する。
 1942年に、クレアは政治家に転身。コネティカット州から共和党下院議員となった。1944年、日本の敗戦が色濃くなり、ソ連および中国共産党の勢力が増してくるなか、クレアは共和党政治家として反共主義の視点を強く打ち出すようになる。この頃、英国作家ロアルド・ダール(Roald Dahl)はスパイをしていてクレアに接近し、恋仲にもなったらしい。ワシントン・ポスト「Jonathan Yardley on 'The Irregulars'」(参照)にそんな話がある。
 1944年、クレアに思いがけぬ不幸が襲う。ルースの元で育てられていた、初婚相手との一人娘、アンが交通事故で死亡した。19歳だった。この苦痛からクレアはカトリックに改宗し、後その苦悩から精神的な作品も発表するようになる。
 1952年、大統領選挙でドワイト・アイゼンハワーを支持した恩賞としてイタリア大使となった。このイタリア滞在期間、クレアの寝室天井から漏れるヒ素の中毒で重病となり、1956年イタリア大使を退任した。
 その後も、ブラジル大使を務めたり、ニクソン大統領にキッシンジャーを紹介したり、反共政治家として活躍したりとしたが、1964年、ヘンリ・ルースがタイム誌を引退するのに併せて、クレアも公的生活を引いた。
 1967年2月28日、ヘンリー・ルースは突然の心臓発作で死亡。68歳だった。クレアは、それから20年一人で生き、1987年10月9日、脳腫瘍で亡くなった。84歳だった。

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2010.07.08

韓国産パプリカ・沖縄産クレソン・トンガ産カボチャ

 暑くなってきたのでカポナータをよく作る。ラタトゥイユとの違いはよくわからない。以前ラタトゥイユのエントリを書いたことがあるが(参照)、最近はちょっと作り方を変えている。カットを小さくして、トマトソースを減らして野菜の味を生かすようにしている。まあ、素人料理。ズッキーニがなければキュウリを入れることもある。オクラと同じように余熱が通るくらいにする。ナスは欠かせない。パプリカも欠かせない、ということでこの季節、八百屋に行けばパプリカを見て回るのだが、韓国産が多い。なんで韓国産のパプリカなのだろうか。検索してみるとオーシャン貿易というサイトに話があった(参照)。


 今でこそ電子部品を世界に供給するまでになった韓国ですが、10年程前までは農業が中心で輸出する製品はあまりありませんでした。
 農作物を海外に輸出したい、と考えてはいましたが一番近い消費大国日本にはなんでもあります。そんな中、日本に視察にきた韓国の生産者の方がデパ地下に並んでいるオランダ産のパプリカが1個600円で売られていることに目をつけたのです。
 味もおいしく、韓国で栽培がさかんなトウガラシ(もちろんキムチ用ですね!)と同じ果菜類なら販売できるのではないかと考えた生産者は、パプリカの輸出を思いつきます。

 そういう背景があるらしい。しかし、今では200円を割っている状態なんで、どうなんだろう。円とウォンの関係でそれなりの儲けになっているのだろうか。よくわからないが、韓国産パプリカの品質はよい。ちなみに、きっちり肉厚のあるパプリカだったら、全体に黒焦げが付くまで焼いてから皮をむいてカットしてオリーブにつけて半日くらい冷蔵庫でひんやりと寝かせてから食うと、すごくうまいよ。
 韓国の農園のパプリカをなんとなく想像してみるうちに、沖縄暮らしのことを思い出した。いや、ようするに地場産業というか、地元ならでは農産物というのが各地域にはあるのだが、沖縄にもある。
 沖縄の地元野菜ということでよく食べたのはクレソンだった。どういう仕組みなのかわからないが、クレソンがどっと束で安価で売っているのだった。最初見たときに、そのやけくそな売り方が気に入った。生でももちろん食べられるが、おひたしとかにしてやたらと食べた。うまい。空心菜もこれでもかという量が安価で売っていた。よく食べた。炒めても湯がいてもうまい。野菜といえば、ハンダマ(水前寺菜)がなつかしい。いちおう探すと東京でも売っているのだが、なんかこー、やけくそ感が足りない。味噌汁に入れると紫色になってグー。
 オクラも山ほど売っていた。サイズもでかい。率直にいうとあまり美味しくないが、あのどさっとオクラの山盛りというのは幸せなものである。オクラは花も美しい。和名で秋葵というのか葵の一種と見てよいのか、あれが畑いっぱいに咲いているのは見事なものだった。サトウキビの穂と同じでなんか独自な美しい自然風景である。
 パッションフルーツもやけくそのように売られていた。両手に抱えて300円という感じだったか。ジュースにしたりした。パッションフルーツはあちこちの家の庭先にもあった。花が時計草に似ていてきれいなものだった。
 花といえば電照菊をあちこちで作っていた。那覇で酔っ払ってタクシーで山間部を過ぎるとあちこちに電照菊の電照がきらめいて不思議な光景だった。内地向けの仏花である。沖縄では菊の消費はあまりないらしい。内地向けといえばポインセチアも作っていた。内地にいるとクリスマスの寒い季節のイメージだが、沖縄なんぞで作っているのだった。庭先に植えている人も多い。それが巨木化する。見上げるようなポインセチアとなってこそ南国であるな。
 南国といえば、これも最近知ったのだが、カボチャはけっこうな量がトンガから来るらしい。検索するといろいろ情報はあるが、ガーディアンの記事「From squash to space tourism」(参照)にもあった。

Squashes are as unpopular with Tongans as the country's native vegetables are with outsiders. Such dietary niceties matter less when the squash's role in Tonga's economy is worked out. At times, more than half of the island kingdom's export earnings come from the crop, and the figure rarely falls below a third.

トンガ産の野菜が他の国の人に馴染みがないのと同じようなものだが、カボチャはトンガの人には馴染みがない。そうした食習慣の細部はトンガ経済におけるカボチャの意味を考えるなら些細なことだ。この王国の貿易上収益の半分以上をカボチャだったりすることがある。三分の一以下にはまず落ちない。

Almost the entire crop goes to Japan, where it makes up 96% of Tonga's exports. The other 4% comes mostly from tuna and mozuku seaweed, a delicacy grown in Japan's southern Okinawa islands until May and in Tonga until November.

カボチャの大半は日本向けで、トンガの輸出の96%になる。残り4%の大半はマグロ、それとモズク。五月までは沖縄産で、11月まではトンガ産の珍味である。


 記事の日付をみると2002年とあるので、最近はどうだろうかと思うが、それほどの変化もないのではないか。トンガではその後政変があり、今年の11月には総選挙もあるらしい。安定するとよいのだが。
cover
トンガ・ベビーホルダー
 トンガと言えばどういう理由なのか知らないが、子供を抱えるフランス産のスリングにこの名前が付いている(参照)。夏場は赤ん坊を腰につるしていてむれない。というか、ああ、夏場だから南国のトンガなのか。今、気がついた。

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2010.07.07

[書評]小倉昌男 経営学(小倉昌男)

 「小倉昌男 経営学(小倉昌男)」(参照)は、宅配便という分野を創始したヤマト運輸の元社長小倉昌男氏が初めて書いたいわば自伝で、手元の初版を見ると1999年とある。もう10年も経つのかと感慨深い。絶版か文庫本になっているかもしれないとアマゾンを覗いたら普通に単行本として販売されていた。普通にロングセラーなのだろう。もしまだ読まれたことのない人がいたら、読めばロングセラーの理由がわかる。名著だからだ。

cover
小倉昌男 経営学
 小倉昌男名の書籍は他に数点あるが、この本が最初だった。ヤマト運輸の宅配ビジネスについては、私も20代の終わりでひょんなことで参加した経営セミナーでケーススタディとして学び、ビジネスの基本・新しいビジネスの考え方・独創的な展開などの点からも驚いたことがある。小倉さん本人の本を読みたいものだとその頃から思ったが、その後もずっとなかった。理由は本書に書いてある。ヤマト便のCMがテレビに流れるころのことだ。

 ヤマト運輸の社長だった私のもとに、本を書かないか、という依頼が次々に舞い込んできたはちょうどその頃である。
 けれども、私は一切お断りした。
 成功した経営者が自らの経営談義を出版すると、やがてその企業自体は不振に陥り、一転、失意に陥る―そんな例をいくつも見てきたからである。経営者が本を出すと不幸な軌跡を辿るというジンクスを私は信じ、守ってきた。

 それでもヤマト運輸の役員を退任して四年が経ったので、ということで、「サクセスストーリーを書く気はない。乏しい頭で私はどう考えたか、それだけを正直に書くつもりである」と書き出した。正直というのがまさに的確である。
 本書を読むと、小倉昌男さんという人はすごい経営者だということがわかるが、より正直に言えば、変な人である。いわゆる見た目の変人・奇人の類ではなく、なんというか、世界とビジネスをきっちり見つめながら、なにか根本に不思議な浮世離れのようなものがある。世間や権力に戦うという気負いはそれほどなくて、世の中をきちんと見つめつつ、世の中の力に飲み込まれない。誰もが宅配ビジネスなんかダメだと言っても、いやこれは理詰めに考えればできるはずだと計算して考え続ける。政府と官僚がいじめに入ると腹は立てても、それで負ける気は平然とない。

 ヤマト運輸は、監督官庁に楯突いてよく平気でしたね、と言う人がいる。別に楯突いた気持ちはない。正しいと思うことをしただけである。あえて言うならば、運輸省がヤマト運輸のやることに楯突いたのである。不当な処置を受けたら裁判所に申し出て是正を求めるのは当然で、変わったことをした意識はまったくない。
 幸いにしてヤマト運輸はつぶれずにすんだ。しかし、役人のせいで、宅急便の全国展開が少なくとも五年は遅れている。規制行政がすでに時代遅れになっていることすら認識できない運輸省の役人の頭の悪さにはあきれるばかりであったが、何より申請事案を五年も六年も放っておいて心の痛まないことのほうが許せなかった。与えられた仕事に最善を尽くすのが職業倫理でないか。倫理観のひとかけらもない運輸省などない方がいいのである。

 さらりと「与えられた仕事に最善を尽くすのが職業倫理でないか」と言う。「倫理観のひとかけらもない運輸省などない方がいい」と国家の向こうを端然と見ている。その中心に「心」というものがある。心というものを持てば、国家なんぞ怖いものでもなんでもないよと見切っている。

 私は、役人とは国民の利便を増進するために仕事をするものだと思っている。だから宅急便のネットワークを広げるために免許申請をしたとき、既存業者の利権を守るために拒否されたのは、芯から腹が立った。需給を調整するため免許を与えるどうかを決めるのは、役人の裁量権だという。では需給はどうかと聞いても資料も何も持っていない。行政指導をするための手段にすぎない許認可の権限を持つことが目的と化し、それを手放さないことに汲々としている役人の存在は、矮小としか言いようがないのである。
 すべての役人がそうだというわけではないが、権力を行使することに魅力を感じて公務員になる人もいると聞く。何とも品性の落ちる話ではないか。

 さらりと「品性」が語られる。さらりと語られるなかにマックス・ヴェーバーの社会哲学の神髄は語り尽くされている。
 ヤマト便のビジネスを広げるあたり、小倉さんは淡々と過疎地に営業を広げることを考えていく。

ヤマト運輸は民間企業である。無理して郡部の集配をやらなくてもいいのではないか。郡部は郵便局に任せるべきではないか。赤字のところをやるのは官の責任である、という意見にはもっともなところがあった。
 宅急便を初めてやろうと決心したとき、清水の舞台から飛び降りる気持ちであった。幸い狙いは当たり、五年で成功のめどがついた。だが次のステップとして郡部にサービスを拡大しようとしたとき、再び清水の舞台から飛び降りる気持ちになった。

 ところが小倉さんは、「しかしよく考えてみると、郡部イコール過疎地、過疎地イコール赤字、という図式があるとは限らない」とまた理詰めで考えていく。

 日本は山が多いから、地方には山奥の過疎地が多いことは否定できない。でも、過疎地から過疎地に行く荷物はほとんどないと思う。過疎地から出てくる荷物は都会に行き、過疎地に着く荷物は都会から来るのがほとんどである。過疎地の集荷や配達はコスト高からもしれないが、一方で、都会の集配車の集積率が高くなりコストが下がることを考えると、過疎地に営業を伸ばしたことによって収益が悪くなるとは考えられないのである。

 そして再び清水の舞台から飛び降りてみせた。成功した。1997年、ヤマト便は全国ネットワークも完成した。つまり、ヤマト運輸はすでにユニバーサルサービス実現しているのである。余談だが、日本郵政はヤマト便を追いかけてその利益を削り取ろうとしていた。2004年「民間がすでに提供しているサービスを日本郵政公社が真似をしてまで提供する必要があるのでしょうか?」と疑問を出した(参照)。
 ヤマト運輸を創業したのは小倉昌男氏の父小倉康臣氏であって、彼は二世社長であるが、トラック運輸の業態からヤマト便に変えたのは彼である。その歴史の話も本書の面白いところだ。
 二世であり社長が約束されていた小倉昌男氏だが、実際に昭和23年に入社すると結核になった。戦前は死病であった。二年にわたり病院で闘病生活を送ることとなった。半年の余命と言われ、救世軍から差し入れられた聖書を読みクリスチャンとなった。
 幸い退院できたが、さらに二年半自宅でリハビリをした。働き盛りに四年半の空白はつらかったと書かれている。仕事に復帰後も社長ではなく、関連会社の静岡運輸の出向だった。ヤマト運輸に戻って百貨店部長になったときは三十一歳だったという。遅いスタートであり、そしてその後、百貨店の配送を止める決意をした。
 亡くなったのは2005年。80歳だった。若い頃大病したが長生きの部類だろうし、晩年に至るまでも聡明な人だった。ブログではR30さんの「[R30]: 経営者は何によって記憶されるか――追悼・小倉昌男」(参照)に心情がこもっていたが、そういう人だった。

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2010.07.06

さらばペリカン便クロニクル

 2008年4月25日、福田康夫内閣時代、日本郵政グループの郵便事業会社と日本通運(日通)は、両者の宅配便事業を新会社に移管し統合することに合意した。日本郵政の「ゆうパック」と日通の「ペリカン便」が新会社の下、一つのサービスとなるはずであった。この時点で統合が予定されていたのは、2009年4月である。新会社は後のJPエクスプレス(JPEX)である。
 JPエクスプレスという名称はそれ以前からあった。旧日本郵政公社が全日空が2006年2月に設立した空輸貨物会社「ANA&JPエクスプレス」である。この会社は、2009年8月8日に全日空へ譲渡することで解消の方針が打ち出され、2010年7月1日、ANAの子会社であるAir Japanに統合され、JPエクスプレスを冠した名称も消えた。

 2008年6月2日、郵便事業会社と日通が共同出資し「JPエクスプレス」が設立された。

 2008年9月24日、麻生内閣成立。鳩山邦夫氏が総務相となる。鳩山総務相は、JPエクスプレスによる宅配便事業の統合で、過疎地への宅配サービス切り捨てが懸念されるとして、郵便事業会社に2009年度事業計画の再考を求めた。これにより事実上、日本通運のペリカン便がJPエクスプレスとなり、ゆうパックと併存することとなった。

 2009年6月12日、日本郵政の西川善文社長の続投人事をめぐって、退任を要求する鳩山邦夫氏が総務相辞任(事実上の更迭)し、佐藤勉氏が後任となった。

 2009年7月29日、JPエクスプレスは、過疎地の集配業務を郵便事業会社委託する際の手数料を見直しを含め、事業計画変更認可を総務省に申請。この時点でJPエクスプレスによる統合は、衆院選挙後の10月1日に予定されていた。
 当時の統合議論では、統合時の混乱・配達遅延は何があっても避けよと号令され、繁忙期であるお中元、お歳暮のある7月と12月時点の統合を避けるが議論の前提だったとのこと(参照)。

 2009年7月30日、ひと月またふた月置きに開催されていた郵政民営化委員会の第58回が開催され、以降翌年2010年7月6日に至るまで開催されない状態が続く(参照)。
 なお、2009年9月成立の民主党政権下では、郵政民営化委員会担当の郵政民営化推進室の職員がすべて異動させられ、事務局は空っぽ状態とのこと(参照)。

 2009年8月11日、佐藤総務相はJPエクスプレスによる統合延期を日本郵政の西川善文社長に要請。10月実施の予定を延期する理由について佐藤総務相は「準備が間に合うのか危惧している。業務に混乱や支障があれば、郵便事業会社は利用者の信頼を著しく失墜させる」と述べた。

 2009年9月8日、佐藤総務相は「日程に無理がある。現段階で認可の判断を下せない」として統合を認めない方針を表明。

 2009年9月16日、政権交代で鳩山内閣出現。

 2009年9月30日、郵便事業会社は日通の持ち株を引き取り、JPエクスプレスの完全子会社化を検討開始。

 2009年10月23日、日通はJPエクスプレスの発行済み株式の20%を郵便事業会社に売却。出資比率は日通が14%、郵便事業会社が86%。これに合わせたかのように、ペリカン便マークが消え、JPエクスプレス宅配便という名前も聞かれるようになった。統合が進まず、JPエクスプレスの赤字が続いた。

 2009年11月27日、亀井静香郵政改革担当相が任命した日本郵政の斎藤次郎社長(もと大蔵省官僚)は、JPエクスプレス完全子会社化や会社の清算を含め事業を年内をめどに再検討するとした。

 2009年12月1日、ゆうちょ銀行の井沢吉幸社長、郵便事業会社の鍋倉真一社長、郵便局会社の永富晶社長の3人が就任記者会見を行い、JPエクスプレスについては2009年内に存続を決めるとした。

 2009年12月4日、郵便事業会社によるJPエクスプレスの完全子会社化で「ゆうパック」と「ペリカン便」の両ブランドを消し、新ブランドに統合する予定と、一度は、なった。

 2009年12月25日、郵便事業会社はJPエクスプレス精算を決定。結局、宅配ブランドは統合されないことになる。
 この時点で、2010年7月1日には、ゆうパックのみが存続し、ペリカン便は消えて、日通の宅配便事業を吸収することとなった。さらばペリカン便、黙って消えていくのか。そうはいかない。
 郵便事業会社は、日本通運からJPエクスプレスに出向している1200人を含め、5300人の従業員を引き受け、肥大した。
 7月1日という期日については、郵政関係者から、参院選後の郵政改革法案の行方が不透明なため、選挙前に前倒ししたとの声もある(参照)。また、7月を節目と考えるのは人事異動で新事務年度を迎える公務員ぐらいのものとの声も(参照)。

 2010年6月中旬、ゆうパックと旧ペリカン便の統合に伴う業務マニュアルがようやく現場に届く。現場からは「訓練も1回だけ。わずか2週間で習得するのは無理。押し切った経営陣が現場に責任を転嫁するのはおかしい」との声(参照)。

 2010年7月1日、郵便事業会社は、ゆうパックJPエクスプレスのペリカン便を吸収し、取り扱い店舗を現在の約5万店から約11万店に倍増し、集荷の翌日午前中に配達する地域を広げ、新たな顧客の取り込みを目指すと発表(参照)。
 他方現場では、「荷物の受領書などを発行する支店内の新システムは、7月1日の新サービス開始まで動かず、触れることもなかった」との声(参照)。
 大混乱の火ぶたが切られる(参照)。

 2010年7月2日、鍋倉真一社長(もと郵政省官僚)は「土日の対応で正常化できる」と判断(参照)。過去のこの時期のゆうパックとペリカン便の量を加算した想定の上の判断だったのだろうか。

 2010年7月3日、郵便事業会社は、遅配の全容が把握できていないことを理由に遅れの事実やその規模を公表しいない状態が続く。
 世間沸騰をよそに、日本郵便幹部の談、「1日2日の遅れはよくある。今回は数が多いが、1日ぐらい遅れても大丈夫と思った。甘いのかもしれないが、土日できれいにすればほとんど影響ない、と思っていた」(参照)。

 2010年7月5日、chihhi1105さんに黴びた佐藤錦が届く(参照)。ただし、これは遅滞によるものではなかったとのこと。土日に届けるはずが不在で持ち帰り、郵便事業会社保冷指定(0~5℃)で保存したら黴びた模様(参照)。

 2010年7月6日、原口一博総務相は、郵便事業会社の鍋倉真一社長に対し報告を今月末までに求める書面を手渡し、郵便業務への影響などについて説明を聞いたうえで、業務改善命令などの行政処分が必要かどうかを判断するとのこと(参照)。
 業務改善命令を出せば、原口一博総務相は、郵政民営化法78条2項によりほぼ一年間停止していた郵政民営化委員会の開催を迫られることになり、その会議内容も公開される。

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2010.07.05

マニフェストからは政党が何をしようとしているかわからない

 雑談みたいな話から。相変わらず菅首相が面白い。鳩山前首相と芸風は違うが笑いを取る勘所がよい。2日付け朝日新聞「「財政破綻したとき、誰が困るかご存じですか」―菅首相」(参照)が伝える金沢市内での街頭演説は名調子だ。


 財政が破綻(はたん)したとき、誰が困るかご存じですか。あの大金持ちのカルロス・ゴーンさん(日産自動車社長)は、(日本から)いなくなりゃいいんですよ、簡単なんですよ。ギリシャの例を見ても、財政破綻したとき、年金をさあもらえると思ったら、「67歳からしか払えませんよ」と言われたら困るでしょう。仕事が続けられると思ったら、「あなたはクビですよ」と言われたら困るでしょう。財政破綻で一番困るのは、そうした年金を受給している人や、比較的所得が少ない人。その方々がダメージが大きいんですから。

 ちなみに財政破綻を示唆する指標で見ると、ギリシャのCDSスプレッドは1125pb(参照)であるのに対して日本は136bp(参照)。日本はギリシャにはるかに及ばない。菅さんみたいな心配している人は国際的には皆無。これ、お笑いでしょ。ただ、カルロス・ゴーンさんに「いなくなりゃいいんですよ」云々の話は、西洋現代史を知る常識人にしてみると、大国の総理の冗談と言われても鼻白む。
 これも爆笑。3日付け時事通信「金利低下は日本への信頼=菅首相」(参照)はこう伝える。

 菅直人首相は3日、甲府市内で街頭演説し、東京債券市場で長期金利の指標となる10年物国債の流通利回りが連日低下していることについて「日本は自分の力で、ちゃんと責任ある行動を取るだろうと世界が思っているから、国債の金利も下がっている」と述べ、財政健全化を目指す政権の姿勢が一定の評価を得ているとの見方を示した。

 それデフレ期待ですから。というか、同じ理屈は同歩調の米国債に言えますよね。
 それにしても、財務省に「菅落ち」したと言われる菅さんが、本当に財務省に完落ちしたらこんな面白い話をするわけない。どうなってんだろうと疑問に思っていたら、わかった。
 産経新聞の報道のみで他ソースの確認はできないのだが、「テレビ討論 首相が練った「責任転嫁」戦術、あえなく返り討ち」(参照)によると、2日のテレビ討論会でみんなの党・渡辺喜美代表に追い詰められた後、4日の名古屋市内街頭演説で、こうぶち上げたらしい。

「渡辺喜美さんは民主党がいつの間にか官僚に取り込まれたと言ってますが、違うんですよ。私が財務省を洗脳しているんだ。ぜひ渡辺さんの口車に乗らないでください!」

 そ、そうだったのか! なるほど、それで得心した。
 菅さんは官僚に取り込まれてもいないし、財務省に洗脳されているんでもいないんだ。菅さんが財務省を洗脳しているんだ! だよね、でなきゃ、財務省のほうがお笑い者。
 菅話休題。
 迫る参院戦。いち選挙民としてどうするかな。考えあぐねて、まず、条件に合わない政党を外すかなと思った。条件は単純。デフレで増税は止めてくれ、そんだけ。
 他に、環境問題や、外国人地方参政権、選択性夫婦別姓といった問題に関心がある人も多いようだけど、私としみれば、それは日本人の多数が決めればよいので、決まったことを自分は受けれようというくらいしか関心はない。郵政国営化も止めとけと思うけど、いずれ国民に手ひどいツケを回して元に戻るのだから、痛い目に遭わないとわからない国民の愚行権。
 そこでマニフェストを見る。皆目、わからん。一覧表はないのかと探すと、ヤフーに「マニフェスト早見表」(参照)というのがあって、こりゃ便利と思って見た。でも、わからない。
 単純な話、民主党はデフレで増税やる気なんだろうか。マニフェストに書いてないんだよ。「消費税を含む税制抜本改革の協議を超党派で開始」というだけなのか。確かに菅さんの話は二転三転していて、結局、最近はどうなんだろう? わかんないんだよな。この人の言っていることも、あまり信じられない。
 なので、増税はしないと明記している政党はどれかと考えると、共産党と社民党。でも、両党、財政再建についてなんもデフレ克服についてもまるで考えていない無責任政党みたいに見えるので、パス。増税すると明記している自民もパス。すると幸福実現党? というのはヤフーの表には載ってない。まあ、それもパス。あれ、残りなし?
 私としても何が何でも増税はするなではなく、デフレ下でするなということなので、デフレ克服をどう考えているかという視点で見直してみる。名目成長率4%としている政党には、デフレ克服の考えがあるということなのだろう。
 すると、自民、公明、国民、新党改革、みんなの党が生き返る。民主は3%だけど、それもありか。
 と見ていて新党改革だけがインフレ・ターゲットに言及しているのを見つけた。これもデフレ克服と同じと言っていいだろうし、舛添さんはかねてそういう持論だったな。
 というわけで、こんなに選択肢が増えると、選べない。
 民主党のおかげでマニフェストで政党で選べなくなった。これはちょっと痛い歴史的教訓になった。さて、困ったな。

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2010.07.04

清少納言智恵の板

 「清少納言智恵の板」という日本版のタングラムがある。タングラム好きには必携の一品で、タングラムを世界的にリバイバルさせたサム・ロイドも感嘆していた。タングラムは、正方形を三角形・四角形の7片に切りわけ、2次元の形を作る遊びだが、あらかじめ形作られたシルエットにどう組み合わせるかとする、シルエット・パズルとして有名だ。
 タングラムと清少納言智恵の板の違いは、似ていると言えば似ている、違うと言えば違うようにも思える。相違についてはシルエット形成の利得から幾何学的な計算が可能なようにも思う。左がタングラム、右が清少納言智恵の板である。

 タングラムのほうが大きな三角形が2つあり、シルエット形成に強いボディを与える反面、面積を取ることからパズル的な解法戦略として着眼されそうでパズルの興を弱めるかもしれない。清少納言智恵の板のほうは、細いピースでまとまっていることから、線画的な表現がしやすい。中抜きなども作りやすい。ひらがなのいろはも表現できるらしい。


cover
大人の健脳パズル3
清少納言智恵の板
 清少納言智恵の板の原理はこれだけなので、木片などを切り出し、シルエット集があれば楽しめる。市販品はあるにはある。学研が出している「大人の健脳パズル参 清少納言智恵の板」(参照)がそれだ。これが非常に変った企画だ。微妙に通向けを狙った開発元クロノス(参照)の思いは伝わってくるのだが、単純にパズルとして楽しむ企画、あるいはもう少し現代日本人にもわかりやすい解説冊子を別途添付して教養をくすぐる企画であったらよかったのかもしれない(もちろん、クロノスの購入者向けに特別ウェブページは評価したい)。
 製品は一時代前のパッケージソフトのような箱に、手のひらに載るサイズの黒檀の「清少納言智恵の板」に、江戸時代の「清少納言智恵の板」「江戸ちゑかるた」合本のミニチュア復刻本が付いている。黒檀ピースの出来は悪くない。どうせならもっと上質の黒檀がいいとは思わないでもないが。復刻本も手のひらサイズでしかもステープラー中閉じで、紙質も残念というのがつらい。黒檀上質+リアル復刻+解説新書で6000円でいけなかっただろうか。ちょっと悔やまれる。
 それでも、この「清少納言智恵の板」復刻本は面白い。出版されたのは「寛保二年 戌八月」とあるので1742年である。同年代の人物を連想すると、平賀源内が1728年生まれなので、源内は遊んでいたかもしれない。関孝和は1708年に没しているので、江戸時代の数学的な知性はすでに絶頂期にあったと見てよいだろう。
 「清少納言智恵の板」が出版された1742年の夏は江戸では寛保二年江戸洪水があったが、同書は京都で出版されている。
 著作者だが「含霊軒述」とあるので、「含霊軒」という人なのでろうが、見ればわかるように戯れ言である。「霊軒」は号で、貝原益軒(1630-1714)を連想させる。なお、益軒号は最晩年のもののようでその名で生前知られていたわけではないだろう。ちなみに、伊藤仁斎は益軒とほぼ同年代なので儒学の風土も連想される。荻生徂徠(1666-1728)は少し遅れるが、荻生徂徠なども当時のインテリらしく中国かぶれしていて、物徂徠と称していた。「含霊軒」も、含・霊軒ということで何かの洒落なのではないか。ただ、「含霊」も言葉としてはあるのでよくわからない。が、概ね、中国人由来を擬していると見てよさそうで、そのあたりが、タングラムの起源史を曖昧にしている要因かもしれない。
 時代の感覚を知るには内容にも立ち入ってみるとよい。「清少納言智恵の板」を読んでみよう。原文は崩し字で書かれている。

清少納言の記せる古き書を
見侍るに智ふかふして人の
心目をよろこばしむこと多し
其中に智恵の板と名づけ
図をあらわせるひとつの巻
あり是を閲するに幼稚の児女
智の浅深によって万物の形
を自然にこしらへもろもろの器
の図はからずも作り出すこと
誠に微妙のはたらき有しかれ
ども其図は往昔の器物の形
又は雲上の御もてあつかひの品
ゆへ今の児女その心を得がた
し故にあらたに図を作り
当用の器物まぢかき形を
記せり人々智の至るところ
にしたがひ板のはこびによっ
て品かわりたる形あらはれ
ずといふことなしこゝに手
引のために百分の壱つを示
すものなり初に諸物の図を
出し奥に板のならべ様の図
を載すされども奥のならべ様を
見ずして初めの図のごとく
人々の作意にて七つ板のならべ
はこびを考へ給はゞ不測の
はたらきありて一座の興を
催すべきものならし

寛保二年 戌八月 含霊軒述

秘伝の巻に残らず顕はすといへども
爰に壱つを出し板のならべ様を見す

八角かがみ
七つ板
ならべ様


 清少納言が書いたとされる書籍を読むと智恵が付き心豊かになることが多いが、その書のなかで「智恵の板と名づけ図をあらわせるひとつの巻」を見つけたというのだ。もちろん、大嘘である。
 当時というかこの時代より前になるが、仮名草子で「清少納言犬枕」などが有名になっていた。犬というのはまねごとという含みで、枕は枕草子。ようは、枕草子のパロディー文化であり、「物は尽くし」の趣向である。すぐにわかるように、落語の起源とも関わりがあるだろう。
 枕草子がパロディー化される前後関係はわからないが、「清少納言犬枕」でもわかるように、清少納言がどうもネタキャラになっていたようだ。他にも類書はある、とちょっと調べていたら、こんなの発見。「暴れん坊少納言1 (ガムコミックスプラス:かかし朝浩)」(参照)。日本人って変わらないなあ。いずれにせよ、江戸時代の清少納言はネタキャラ化していて、その類推から「清少納言智恵の板」が出てくる。
 「清少納言智恵の板」のターゲット読者だが、「是を閲するに幼稚の児女智の浅深によって万物の形を自然にこしらへもろもろの器の図はからずも作り出すこと」というくだりから、どうも女子供向けということが窺われる。
 これを裏付けるのが、ボストン美術館蔵、喜多川歌麿(1753-1806)の「角玉屋内 誰袖 きくの しめの」(参照)に描かれている智恵の板だ。

 画中のピースを見ると7つ以上あり、また、長方形も含まれているので「清少納言智恵の板」ではないかもしれない。時代的には、1780年代であろうか。「清少納言智恵の板」の1742年以降も智恵の板は楽しまれていたようだ。
 「大人の健脳パズル3 清少納言智恵の板」に含まれているシルエット集「江戸ちゑかた」は天保八年(1837年)の刊行なので、その後、明治時代が近くなるまで「清少納言智恵の板」は楽しまれていたようだが、さらに明治時代にも続く。樋口一葉「たけくらべ」(参照)に登場するからである。明治28年(1895年)の小説である。


あゝ面白くない、おもしろくない、彼の人が來なければ幻燈をはじめるのも嫌、伯母さん此處の家に智惠の板は賣りませぬか、十六武藏でも何でもよい、手が暇で困ると美登利の淋しがれば、

 主人公の女の子が暇つぶしに智惠の板を所望している。それらが玩具として普通に販売されていたこともわかる。さらに、主人公の美登利は遊女になる身の上なので、智惠の板は遊女の文化という背景も多少あるのかもしれない。
 天保八年ですでに「江戸ちゑかた」とあり、樋口一葉の時代に「智惠の板」とあることから、すでに明治時代以前に犬枕・清少納言という文脈は抜けていたのだろう。
 ところで、タングラムと清少納言智恵の板の起源の関係だがわからない。タングラムの歴史は、サム・ロイドが古代中国とかいう冗談を言ったため欧米では俗説が蔓延しているようでもあるが、「[書評]タングラム・パズルの本 Tangram Puzzles: 500 Tricky Shapes to Confound & Astound(Chris Crawford): 極東ブログ」(参照)にも否定の言及があった。
 起源については、1800年代の中国とする説が有力のようだが、実際の文献として遡及できる最古のものは日本の「清少納言智恵の板」であり、冷ややかに考えればタングラムの起源は日本だとしてよさそうに思う。
 その場合、「清少納言智恵の板」のカットからタングラムのカットに変化したことになる。自分が学んだ言語学や聖書学の類推すからすると、その派生を合理的に示唆する数学的な指標みたいなものがあればよいのだが、よくわからない。直感的にはタングラムのほうが単純なカットのようにも思えるが、シルエット形成のディテール部は「清少納言智恵の板」と同様であり、そもそもシルエット・パズルを想定してカットされたなら、「清少納言智恵の板」が原型にあると見てよいようにも思える。あと、この発想は、折り紙から来ているのではないかという思いからも、タングラムの起源は日本ではないかと私は思う。

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2010.07.03

[書評]タングラム・パズルの本 Tangram Puzzles: 500 Tricky Shapes to Confound & Astound(Chris Crawford)

 10歳くらいの子供にちょっと気の利いたプレゼントをするかなという機会があり、アート的な写真集や絵本がよいだろうか、知的なパズルなんかもよいかなと、いろいろ考えて、タングラム・パズル本「Tangram Puzzles: 500 Tricky Shapes to Confound & Astound(Chris Crawford)」(参照)を選んだ。日本のアマゾンから購入できたのだが、現在でも「通常2~3週間以内に発送します」とあり、米国に発注するのではないだろうか。私の場合も、2週間ほどで届いた。
 タングラムとはなにかだが、この本の表紙を見ると、皆さん、ああ、あれかとピンとくるだろう。そうあれです。正方形を7つのピースに分割して、それでいろんな形を作るというものだ。

cover
Tangram Puzzles: 500 Tricky Shapes to Confound & Astound
Includes Deluxe Wood Tangrams
Chris Crawford

 自由に形を作ってもよいのだが、パズルとしての遊び方は、最初にできあがったシルエット(影絵)が提示されて、それに7つのピースをどのように収めるかということだ。
 お子様向けと思われているし、その程度の影絵だとたしかに、1分もしないで完成するのだが、簡単ではない影絵もある。大人がやっても、苦戦するというか、その面白みにはまる。西洋では1800年代に流行して、ナポレオンも隔離されたセントヘレナ島で暇つぶしにやっていたという話もある。不思議の国のアリスの作家ルイス・キャロルもこれが好きだったらしく「不思議の国の論理学 (ちくま学芸文庫): ルイス・キャロル」(参照)にもタングラムのパズルが載っている。私(1957年生)の世代だとサム・ロイドの本が有名で、ちょっと懐かしいなと古本をあさったがなかった。復刻してもいいんじゃないかな。

 このプレゼント用の英書だが、英語の部分は序文くらいなもの。あとは淡々とタングラムのシルエットがタイトルどおり500も掲載されている。実際に捲ってみると、鳥、犬、横顔、ランプ、人びと、幾何学図形と分類されていて、パズルというよりアートのインスピレーションがわきそうな感じが楽しい。こういう、アートセンスというのはこの手の洋書ならではのものだ。
 タングラム・パズルには類書が多いなか、これがよいと思った理由は2つある。1つは、表紙の木片だが、現物が付録になっているのだ。シュタイナー教育ではないが、木という自然の物に触れるのはよいなと思った。実際に手にしてみると、思ったより厚みがあり手触りもよい。なかなかよい木片だった。
 もう1つの理由は、リング閉じである。学生時代英語の教科書をよく使ったものだが、ハードカバー、ペーパーバックスの他に演習問題集によくリング閉じがあった。日本ではリング閉じ製本というのをあまり見かけないように思うが、何かをプラクティスするときは、開きが楽で便利なものである。余談だが、ノートもリング閉じがよいと思う。先日中学生にノートを薦めるとき、リング閉じがよいとアドバイスした。

cover
ビッグタングラム
 プレゼントとしてどうだったか。それなりに好評みたいだったが、それを見た他の子供も関心を持ったらしい。もう少しお子様向けのものはないかと、アマゾンを見回したら、「ビッグタングラム―知のパズルをときあかせ! 7つの図形がうみだす難問奇問(パナソニックセンター東京リスーピア)」(参照)がよさそうなので、買ってみた。パズルのシルエットは等身大で、これに添付されている磁石付きのピースをはめていく。ページの裏には添付されている鉄を含んだ厚紙をひく。いかにも知育玩具という感じだ。このしかけなら4、5歳くらいから楽しめそうだ。
 気になったのは、大半のピースはひっくり返しても同型なのだが、平行四辺形だけはそうではない。英書のほうは、木片を自然に使っているので、ひっくりかえすという操作は自然に内包されているが、「ビッグタングラム」のほうは、そこが自然に禁止されている(裏面が磁石面)。企画者もわかっていたのだろうが、こういうディテールに大きな感性の違いが出てくる。
 そういえばと、iPhoneアプリにもこの手のものはありそうだなと探ってみると、けっこうあった。無料のものもある。いくつか試してみると、ひっくり返しに対応していないのが多い。対応していてよさそうなのは、TanZenというのだった。iPad用もある。
 しかし、こういうのは、デジタルな世界から離れて静かにするのが楽しみではないかな。テーブルにリング閉じの本を置いて、木材の感触を手で確かめながら。

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2010.07.01

さすがの菅首相、消費税額分に4.5%の金利を付けて全額還付ですよね

 菅首相の経済音痴には困ったものだな。デフレに増税とか、増税で強い経済とか、それってトンデモでしょ。消費税発言もブレブレだし、まともに話を聞いていても鳩山元首相同じことになりそうだな。それに9月には小沢さんが頑張りそうだな。次は原口首相? という感じで、菅首相の発言にあまり耳を傾けなかった。だが、おや、なかなかすごいことを言っている。消費税額分を全額還付することを検討するらしい。そりゃいい。
 昨年の還付加算金は4.5%だから、1年間で200万円消費したら20万円に9千円追加になって返ってくる。いいんじゃないか。なかなか菅首相、斬新なアイデアだ。麻雀点棒計算機につづくヒットアイデアだ。
 どの銀行に預けるより消費税として国に預けておくのが高金利というのが魅力的。これにセブンイレブンのナナコカードのポイントとか1%だから、こういう制度を上手に使って消費すると、6%くらいお得になりそうだ。
 消費税還付の話は今日のNHKで伝えていた。「参院選 消費税めぐる議論活発に」(参照)より。


菅総理大臣は、カナダで開かれたサミットから帰国後、先月30日から参議院選挙の全国遊説を再開しました。そして、山形市で行った街頭演説で、菅総理大臣は、消費税率の引き上げをめぐって、超党派の協議をあらためて呼びかけるともに、「所得の低い人に負担はかけない。例えば年収300万円、400万円以下の人には、かかる税金分だけ全部還付するという方式、あるいは食料品などの税率を低い形にすることで、普通に生活している人には過大にかからないようにする」と述べ、低所得者への負担軽減策として、年収400万円以下の世帯については、かかった消費税額分を全額還付することも検討したいという考えを示しました。

 野党は批判している。

自民党の谷垣総裁は札幌市で「高齢化が進むなか、介護、年金、医療をどうしていくのか、正面から目を向けなければ社会の安心をつくれない。菅総理大臣は、消費税を何に使うのか、発言するたびに中身がぶれている。また『10%消費税を公約だと思って差し支えない』と言っていたのに『野党と話し合いをするのが公約だ』と言ってみたり、総理大臣のことばがこんなにグラグラしていいのか」と批判しました。

消費税率の引き上げをめぐって、公明党は、社会保障のあるべき姿を議論するのが先だとして、財政再建のための増税は反対だとしています。

また、共産党は、低所得者への負担が増え、景気をさらに悪化させるだけだとしているほか、社民党は、社会的弱者を取り巻く環境をさらに悪化させるとして、消費税率の引き上げに反対しています。

一方、国民新党は、まずは大胆な景気対策が必要だとしているほか、みんなの党は、徹底的な税金のむだづかいの解消が最優先だとして、現状での税率の引き上げに反対しています。

また、たちあがれ日本と、新党改革は、社会保障費の増大に対応するため消費税率の引き上げは避けられないとして、時期や税率に言及しており、参議院選挙は、11日の投票に向け、消費税をめぐる各党の議論が、より活発になっています。


 各党の批判は、どうも、還付加算金のメリットを理解していないようだ。
 国や地方が課税で取りすぎた分を返還するときには、還付加算金として市中金利とは比べものにならない高金利が付く。日本銀行が定める基準割引率+4%だ。1999年末までは7.3%だが、2000-2001年は4.5%、2002年以降は4.1%(参照)。昨年は4.5%なので、そのあたりが今後も目安になるだろう。
 従来でも徴税に際して、必ず還付されるとわかってる税金は納めておくのが常識だった。国に高金利で貸し付けているようなものだから。これが消費税に適用されるとは、菅首相、なかなかのアイデアマンである。
 もちろん、NHKの報道にあるように、この恩典が受けられるのは、「年収300万円、400万円以下の人」という限定があるが、消費税の逆進性や消費の活性からすれば、納得できる限定だろう。
 またNHK報道では、還付金ではなく「食料品などの税率を低い形」という考えもあるようだが、今日付け読売新聞「消費税上げで首相「年収2百~4百万以下還付」」(参照)では、還付金の制度が有力なようだ。

 税金の還付対象について、首相は同日、青森市での街頭演説では「年収200万円とか300万円」、秋田市内での演説では「年収300万円とか350万円以下」と述べた。これに関連して、政府高官は同日、「(食料品などに)軽減税率(を適用する)より税金還付方式の方がスムーズではないか。所得税と住民税の非課税世帯の人が(低所得者ほど税負担が重くなる)逆進性で苦しまないようにしないといけない」と語った。

 税金還付方式の方がスムーズだし、高金利が付くし、そのほうが断然よい。
 
 ……というエントリはどうかな。
 今日は7月1日だよ。4月1日じゃないのにどうなの?
 嘘もフカシも入れとらんけど。
 あのさ、あの菅さんだよ、経済音痴の菅さん。そもそも還付加算金のこと、知らないんじゃないの?
 税金収めてんでしょ。知らないわけないんじゃない。
 年金も納めてなかったんだよ、菅さん。
 でも、これ、えいってやっちゃったらいいんじゃないの?
 あのさあ、消費税の話、民主党のマニフェストにも書いてないんだよ。食品の例外とか還付にかかる費用や制度なんかも、菅さんが考えていると思う?
 ……

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