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2010.07.09

クレア・ブース・ルース(Clare Booth Luce)

 編集者、劇作家、米下院議員、米駐イタリア大使でもあったクレア・ブース・ルース(Clare Booth Luce)は、1903年4月10日、ニューヨークに生まれた。父親ウィリアム・フランクリン・ブース( William Franklin Boothe)は特許医薬品販売人かつバイオリン奏者、母親アンナ・クレア・シュナイダー(Anna Clara Schneider)は踊り子だった。

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Clare Boothe Luce
 クレアは嫡出子ではなかったらしいが、生まれたときの名前はアン・ブース(Ann Boothe)であったので父名を継いでいる。育ったのはシカゴ(メンフィス)だった。1912年に両親は別れ、母親の元に置かれた。母親は富裕層向けの"call girl"もしていたらしい。そのあたりの時代感覚はよくわからない。
 クレアの少女期は、送られていたニューヨークの学校だった。10歳のときブロードウェイで10歳年上のメアリー・ピックフォード(Mary Pickford)の代役をしたことがあるというから、当時すでに相当な美少女だったのだろう。ニューヨークで劇場役者の学習もしつつ、女優を目指した。1919年に卒業。同年、母は欧州旅行で再婚し、その両親の影響で、クレアは女性参政権に関心を持つようになったとのこと。なお、米国で女性参政権が確立したのは1920年である。
 クレアの初婚は1923年ということなので20歳だった。相手は43歳の資産家で弁護士でもありスポーツマンでもあったジョージ・タトル・ブロコー(George Tuttle Brokaw)である。クレアは翌年、娘のアン・クレア・ブロコー(Ann Clare Brokaw)を産むが、1929年に離婚。理由はブロコーがアル中だったからとのこと。その後ブロコーのほうはといえば、1931年にフランシス・フォード・シーモア(Frances Ford Seymour)と再婚した。ブロコーが死んだのは1935年。その翌年残された妻フランシスは、ヘンリー・フォンダ(Henry Fonda)と再婚し、生まれたのが、ジェーン・フォンダ(Jane Fonda)とピーター・フォンダ(Peter Fonda)である。
 クレアは離婚後、1930年、ファッション誌ヴォーグの編集に加わり、翌1931年雑誌ヴァニティーフェアの副編となる。風刺的文才で世間の注文を浴び、"No good deed goes unpunished(正直者が馬鹿を見る)"などの句が彼女の引用で有名になる。1933年同誌主幹となるも劇作家を目指して翌1934年退職した。
 1935年にヘンリー・ロビン・ルース(Henry Robinson Luce)と再婚した。つまり、夫はタイム、フォーチュン、ライフ創刊したメディアの覇者にして、中国宣教師の息子にして親中国イデオローグ、ヘンリー・ルースである。というわけで、クレアの名前は、クレア・ブース・ルースとなる。ヘンリー・ルースはこのとき37歳。再婚であった。クレアは32歳。それほど歳差もない。まあ、お似合いというところなんだろうか、双方。出会って、1か月後の結婚で、ヘンリーのほうは12年連れ添った妻と別れてすぐのことだった。その後、二人の間に子供はなかった。
 1935年、クレアは、気の重くなる劇作「日暮れて四方は暗し(Abide with Me)」を発表し酷評されたが、翌1936年有名喜劇「女たち(The Women)」(参照YouTube)を発表し大ヒットする。その後の作品でも劇作家としての名声を高めていく。
 その頃、経営学者ピーター・ドラッカー(Peter Ferdinand Drucker)が、夫妻とニューヨークのレストランで会食している。そのころドラッカーが書いた「経済人の終わり」(参照)にヘンリー・ルースが関心を持ったのである。「傍観者の時代」(参照)より。

 ルースは、本について突っ込んだ質問をしてきた。かなり丁寧に読んだことは明らかだった。クレアのほうは、これまた明らかに退屈していた。本を読んでもいなければ、読む気もなさそうだった。彼女は退屈な話を止めさせようとして、ほほえみながらこう言った。「ドラッカーさん、経済人が終わった後は、肉体人の番になるんじゃありませんこと?」

 1940年第2次世界大戦が勃発すると、クレアは文才を生かし、夫ヘンリ・ルースの雑誌ライフの欧州戦記記者ともなる。翌1941年、日本と戦時下にあるヘンリ・ルースと中国に視察旅行し、中国視点の記事を発表した。この時の夫妻のエピソードはディヴィッド・ハルバースタムの「ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争」(参照)にも登場する。
 1942年に、クレアは政治家に転身。コネティカット州から共和党下院議員となった。1944年、日本の敗戦が色濃くなり、ソ連および中国共産党の勢力が増してくるなか、クレアは共和党政治家として反共主義の視点を強く打ち出すようになる。この頃、英国作家ロアルド・ダール(Roald Dahl)はスパイをしていてクレアに接近し、恋仲にもなったらしい。ワシントン・ポスト「Jonathan Yardley on 'The Irregulars'」(参照)にそんな話がある。
 1944年、クレアに思いがけぬ不幸が襲う。ルースの元で育てられていた、初婚相手との一人娘、アンが交通事故で死亡した。19歳だった。この苦痛からクレアはカトリックに改宗し、後その苦悩から精神的な作品も発表するようになる。
 1952年、大統領選挙でドワイト・アイゼンハワーを支持した恩賞としてイタリア大使となった。このイタリア滞在期間、クレアの寝室天井から漏れるヒ素の中毒で重病となり、1956年イタリア大使を退任した。
 その後も、ブラジル大使を務めたり、ニクソン大統領にキッシンジャーを紹介したり、反共政治家として活躍したりとしたが、1964年、ヘンリ・ルースがタイム誌を引退するのに併せて、クレアも公的生活を引いた。
 1967年2月28日、ヘンリー・ルースは突然の心臓発作で死亡。68歳だった。クレアは、それから20年一人で生き、1987年10月9日、脳腫瘍で亡くなった。84歳だった。

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 極東ブログで、クレア・ブース・ルースについて非常に興味深いエントリーが挙がった。ネットなどでは調べてもでてこない内容じゃないかと思い少し調べたが、納得した。 私が知ってる彼女については、ライフを創刊... [続きを読む]

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