[書評]夫の悪夢(藤原美子)
10代の子どもに問われて、「大人になればわかるよ」としか言いづらいことがある。他の世代でも、例えば20代の人には「30過ぎるとわかるよ」としか言えないことがある。本書は、たぶん、40歳過ぎないとわかりづらい機微に満ちている。あるいは40歳過ぎたら読んでみるとよいですよ、と男女問わず勧めたくなる。大人のためのエッセーである。文章も美しい。
![]() 夫の悪夢 藤原美子 |
私はうかつだったのだが、藤原先生の本を何冊も読み、だからして奥様はたいそうな美人に違いないとわかっていながら、お写真を見たことはなかった。本書で初めて見た。ため息をつくほど美人だということは予想通りではあったが、本当に美人すぎて、しかも学者家系の娘さんらしく知性も豊かで、ピアノも弾きこなす。才色兼備を絵に描いたような女性がちゃんとこの世にはいるものだ。なんだか呆然とした。
誰もがうらやむ才色兼備な女性の人生というのは、なんだろうか。人間、多少は暗いものを引きずっていないとバランスはとれない、とか思いつつ、読む。もちろん、不遜な期待に応える話はない。でも、誰もが半世紀生きてみると向き合う繊細なリアリティのようなものが、庶民らしい煩悩の雑音のなさからか、すっと描き出されていた。
こんな話がある。著者の父が70歳過ぎて学問上の賞を授かる祝いに同席したおり、父と同年の紳士に会う。
父は「御無沙汰しています。これは娘です」と隣にいた私を紹介し、私にその方の名前を告げた。私はハッとした。ドラムを打つように激しく心臓が鳴り出した。
その名前は、著者の20代に亡くなった母から聞いていた。恋仲という言葉は書かれていないが、その紳士と著者の母が結婚しても不思議ではなかったらしい。
その方は父が私を見て眩しそうに目を細められ、「ああ、お母様にそっくりだ」とつぶやくようにおっしゃられた。
父の耳にはその言葉が届かなかったようだ。
著者は、その紳士の心の中にも母が生きていると思い、胸が熱くなったという。この感情は40過ぎないとわかりづらい。
それから話は、別の人と結婚していたらどうだったかという想像を軽く描く。
もちろん、そんなものは存在しない。人が生きられるのは、たった一つの人生だけ。惨めだけど自分だけの幸福に満ちた、たった一つの人生しかない。私ならそう言いたいところ。だが、才色兼備の女性なら、おそらく他の人より広い選択のなかで恋愛も人生を生きることができる。このエッセーには、普通の人には選べそうにもない人生の情景も描かれている。
だが著者は、娘として妻として母として、おそらく傍からはそれ以上望むべくもない生き方を選び取っているかのように見えながら、生きられなかった人生というものに直面し、今存在することの蓋然性のような部分を歴史につなげていく。
若い頃は、人は生きてきた時間を歴史に織り込むように思うものだが、実際には生きられなかった人生としての他者に織り込まれて歴史を形成していくものだ。そうした他者と歴史のなかで、一人の老女も描かれる。
若い人の言葉が目立つインターネットなどでは、藤原先生は右翼扱いされてしまうこともあるが、その母である藤原ていを知れば、まあ坊が右翼なんぞなろうはずのないことは知っている。著者も姑としての藤原ていの気迫を物語る。新婚生活のころ、洗濯物を干していると、ていが突然、戦争が起きたらどうしますかと問いかける。答えに詰まっていると、ていはこう続けた。
「美子さん、正彦をどんなことがあっても戦地に送ってはいけないですよ。そのときには私が正彦の左腕をばっさり切り落としますからね。手が不自由になれば、招集されることはありませんよ。右手さえあればなんとか生きていけますから」
本当の戦争というものを体験した反戦の心というのはこういうものである。それをストレートにぶつけられた著者は、もちろんストレートに受け止めることはできない。そこは簡単な言葉にはならない。このテーマは本書全体に薄く、人が年を取ればわかるように書かれている。
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コメント
私も藤原先生のファンでありまして、過去にいくつも拙ブログで取り上げさせてもらってます。ちょっと迷いましたが、ひとつだけトラックバックさせて頂きました。
下のエントリでは、さかもと未明さんの著書は読めないと書きましたが、『夫の悪夢(藤原美子)』は是非読んでみたいです(笑)。奥様はそんなに美貌の方でしたか。火星人みたいな藤原先生にはもったいないですなあ(笑)。
投稿: ピンちゃん | 2010.06.21 23:32