[書評]神様は、いじわる [文春新書](さかもと未明)
どうしてこんな不幸が自分にだけやってくるのだろう。そう途方に暮れたことのない人は、うらやましいと私は思う。特に深刻な病気は耐え難い。有史以来、多くの人が不遇の人生を歩み、悩み、考え、記した。旧約聖書にもこのテーマがある。
神様は、いじわる (文春新書) さかもと未明 |
この話にはハッピーエンドが付いている。そこでユダヤ教徒もキリスト教徒も信仰に慰めを得ている。聖書学を学んだ私は、そのエンディングが、この悲惨な物語に耐えられなかった後代の加筆であることを知っている。本当の物語は、ヨブは苦しみ、神を呪って終わった。本当はなんの救いもなかった。ただ、それでもヨブは神への信仰を失わなかった。なぜか?
筋の通った答えはない。信仰はその結論であって答えではない。答えは、そうした境遇を生きた人の人生のなかにしかない。漫画家さかもと未明さんは、その答えを出した。いや、他人から見えるものは、答えというものではないだろう。それでも、現代日本のなかで、彼女はヨブの物語を顕現させた。この手記「神様は、いじわる」(参照)の五章を読み終えたとき私は突然、嗚咽した。体じゅう震えた。同情もある。それ以上のこともある。
さかもと未明さんが、難病の全身性エリテマトーデス(SLE)に罹患していたことはずっと知らなかった。
2007年11月、漫画家の命ともいえる指先が腫れて痛んだ。棘が刺さったような褐色点もある。皮膚科で検診し様子を見たが治らず、膝も痛むようになった。大学病院で検診してSLEの診断を得た。強皮症の抗体も出た。シェーグレン症候群もある。休む間もない売れっ子に突然入院が勧められた。「なおせないんですか」と医師にむなしく聞いた。この病気にも治るということがない。
わたしは悲しんだり絶望するより先にお金や仕事の事で頭をいっぱいにしながら病院を後にした。
「悲しい」という気持ちがわきあがってきたのは、それから何時間もたった帰り道の路上だった。
あれかと思う人もいるだろう。
物語はSLEに至る前史から始まる。診断の一年前から不調はあった。それは社会的な成功という意味での幸福の絶頂に重なるものだった。その明暗は痛々しいほどだが、さなか、北朝鮮拉致問題に取り組む横田滋・横田早紀夫妻と知り合うことになる。
この出会いは、本書のひとつの、不思議なテーマとなっていく。言うまでもなく、ご夫妻の娘さん、横田めぐみさんは、13歳のときに北朝鮮に拉致された。日本で暮らしていたらどのように育ったか。さかもと未明さんは、めぐみさんより1つ年下で、夫妻からすれば自身の娘のように見える。さかもとさんにしてみると、夫妻との出会いは、彼女自身の親の関係を修復していくきかっけになっていく。奇跡というものが、こっそりとこの世界に光を差し込む。
物語はさらに遡及し、子供時代、とくに悲惨な家庭生活に及ぶ。壮絶な青春も描かれるなかで、その壮絶さに拍車をかけているのが、彼女の表現者としての癒えることのない乾きだ。なんども人生をこんなものだと諦めようとして諦めることができず、それは傍から見れば無謀なものになっていく。私も彼女作品をいくつか読んだが、そうした無謀な人にしか思っていなかった。
この地獄図は、しかし、女性手記や通俗小説にある凡庸さにも覆われている。悪口のようだが、さかもとさんの語り口調も、香具師の口上といった滑らかさがある。疾病以前からなんども書き、繰り返された物語もあった。
が、この家族の悲惨さという凡庸な悲劇は、直球のような和解で変化していく。私は読みながら、和解に安堵するよりも、痛ましく思えてならなかった。幸せでも不幸でも、人生の半ばを過ぎたら人は親を捨てるほうがよいと私は思っている。親との心の葛藤など、生涯解決できっこないものだとも思う。さかもとさんの親との和解のは間違いではないとか不安な思いで読む。
ここにも不思議な奇跡の光が差し込む。暴力をふるっていた父は変わった。もっと心揺すぶられるのは、20年も離れていた彼女との弟の再会だった。憎んで離れていたわけではない、ただ離れていた。大人になって姉弟は普通に再会するのだが、このシーンには人生というものの独特の味わいがある。
物語の後半は難病生活になる。それは、表面的な社会的成功からの引退でもある。そのプロセスは芸能界やマスコミというものの裏側を結果的にうまく描き出していて興味深い。よく言われるような醜聞はない。こういう世界は本当に実力の世界なのだと思い知らせれるリアリズムがある。
漫画家として、これも結果論ではあったが、性をよく描いてた彼女にとって、性とはなんであったかについても、本書は伏線のように描き出していく。その部分は、難病と同じほどに重たい問いかけに満ちている。子供が欲しかったのだろうかと問い、幻想なのかで夏の蝉の声を聞く描写は、痛ましいというのとも違うし、悲しいというのでもない。なんとも言い難い。蜻蛉日記を読み終えたときのように胸に沈むある種の感動がある。人にとって幸せとはなんだろうか。不幸とはなんだろうか。そうしたありきたりの問いでは答えられないものが、なぜ人生には存在するのだろうか。
終盤、死病を抱えながらも新しい人生を見いだしていく過程は、きちんとした感動と希望に満ちている。そして最後は、神へ感謝で終わる。
いや、それはどこかしら終わりではないと私は思う。さかもとさんは、まだ物語を終えていない。待ちましょう。待つことは、あなたに物語に感謝する人たちもまだ生きづつけていることでもあるのだから。
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コメント
なぜ、ブタはブタに生まれ、ブロイラーはブロイラーに生まれるのかという話を繰り返させていただくと、ブタがブタでなく生まれるとしたら、シベリアかカナダの氷原の中でイノシシに生まれるほかなくて、そうだとしたら、いつも凍えて飢えていないといけないわけで、そんなわけで多くのブタはイノシシに生まれないでブタに生まれて屠殺されて昼飯か晩飯のおかずになるんだと思うんです。ブロイラーも、ブロイラーに生まれるのでなかったら、シベリアの白鳥に生まれてバイカル湖と猪苗代湖の間を飢えながら疲れ果てながら生死をかけて毎年行き来しないといけないから、多くのブロイラーはシベリアの白鳥になど生まれないで、ブロイラーに生まれて屠殺されて昼飯か晩飯のおかずになるほうを選ぶんだと思うんです。
だれもがお母さんを苦しめてこの世に生まれ出る前に、みんな、だいたい生まれてきたところでどの程度の生涯しか歩めないか、ほとんど承知の上で、この世に生まれてくるのだろうと思います。それでもこの世に生まれてくるのは、今後、もっとましなものになり変わろうと思ったら、やっぱり、このシャバにでてきて、シャバの波風をかいくぐらないともっとましなものには成り変れないからなのでしょう。
まあ、この生涯がつらいとしたら、別の生涯を選択したらもっとつらい生涯です。だれでも、短期的な目論見としては、短期的最善を選択しながら生きているのです。
人間に生まれれば、悲しいときしくしく泣けます。隠れて泣けます。歌を口ずさみながら泣けるかもしれません。でも、動物は、できたところで自分の鳴き声でしか泣けません。植物は、焼き殺されるのがわかっていても、恐怖を表現することさえできません。鉱物には、もう、自由の余地は、原子の段階での量子的な存在確率云々の次元でしか自由が許されていません。
残念ながら、「贅沢を言わないで、人間に生まれることができただけでもありがたいと思え。」たぶん、これが神様の側の言い分なのだろうと思います。
投稿: enneagram | 2010.06.20 14:07
治りませんように――べてるの家のいま
著者:斉藤 道雄
finalventさんによる書評を読んでみたいです。
投稿: 有休 | 2010.06.20 18:56
ずいぶんやさしい語り口調で驚きましたが、このエントリを読んでしまっては「神様は、いじわる」を購入することはできません。
ひとはいつか死ぬとわかっているけど、そんなことはわかりたくないと思うのです。
投稿: ピンちゃん | 2010.06.21 00:38
私は難病です。毎日恐くて恐くてたまりません。今の状態で止めててくれるのなら病気を受け入れてがんばりますといつも神に祈るような気持ちでいますが、ふと進行していることに直面するときは力が抜けて息もできなくなる…。昨日今日の新聞でさかもと未明さんの病気を初めてしりました。で、本を早速注文しました。読んだらまた感想書きます。
ヨブ記を読むと神様を恨みたくなります。それなのに神に毎日祈ってしまう、治してくださいって。二年前の私に戻してくださいって。
見る景色が変わってしまったこの悲しさ、これはしんどいです。
ではまた来ますね。
投稿: ハルヒ | 2010.08.14 00:04