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2010.05.25

[書評]集中講義!アメリカ現代思想 リベラリズムの冒険(仲正昌樹)

 「集中講義!アメリカ現代思想 リベラリズムの冒険(仲正昌樹)」(参照)はけっこう前に読んだ本だが、この本、失礼な言い方になるのをおそれるが、著者の考えが明示的に書かれた本というより、学習参考書というか事典といったタイプに見える書籍なので、便利ですね、お得ですね、という以外なかなか書評しにくいところがある。

cover
集中講義!アメリカ現代思想
リベラリズムの冒険
仲正昌樹
 もちろん、現代アメリカのリベラリズム思想の系譜をこれだけきちんとまとめるには、独自の視点が必要だということは当然なのだが、その視点とは何かと考えると、仲正氏の資質でしょうというのも拙いし、日本人的な微妙な立ち位置でしょうと言うのも自分が馬鹿みたいに思えるものだ。加えて、本書に紹介されている各種書籍を私が網羅的に読んでいるわけでもないので、所詮アマチュアが何を言うか、吉本隆明主義でもぶち上げますか、みたいなさらにお馬鹿みたいな話になりかねない。
 とはいえ、ざっと読み直したのは、昨日のエントリ「[書評]これからの「正義」の話をしよう いまを生き延びるための哲学(マイケル・サンデル): 極東ブログ」(参照)の関連である。サンデル教授の講義はたしかに白熱といったものなのだろうし、つまり、教育的な立場や実践的な思想という立場からするとすばらしいとしか言いようがないが、思想史的に見ると、こう言うと悪いが、ごく凡庸な代物である。教育なのだから凡庸でかまわないのだが、凡庸さの流れが、本書「集中講義!アメリカ現代思想 リベラリズムの冒険(仲正昌樹)」からよくわかる。

 ロールズ、ノージック、ローティの三人が亡くなり、「九・一一」以降のアメリカ内外の混迷状況に対応した壮大で体系的な理論を展開できそうな新世代の理論家が今のところ登場していないこともあって、「リベラリズム」は現在停滞期に入っているように思われる。コミュニテリアンのウォルツァーやサンデルも、相変わらず文化的共同体への帰属の重要性を強調し続けているだけで、「九・一一」に象徴されるような、破壊的な暴力にまで至る文化的な対立を解決できそうな画期的な提案をしているわけではない。

 あっけなく言うとそういうことにもなる。
 ただ、そういうあっけない部分を、学参的に暗記してもしかたないし、サンデル教授が地味にアリストテレスやカントを解き明かしたような思索の経緯は、まさに教育として重要な価値を持つことは確かだ。
 本書の場合、ロールズの議論を中心に、リバタリアニズムとコミュニタリアニズムの三者というおきまりの対立を、アメリカの戦後史のなかで俯瞰し、さらに画期的な提案はないとしても「九・一一」がもたらした各種の模索も、この三者の後継として、ネグリの思想やセンの思想なども紹介されている。他にも興味深い指摘もある。私はロールズの思想はナショナリズムに同型ではないかと見ているが、その克服の模索もあることは本書でわかる。

 ロールズの正義論をグローバルに展開する試みとしては、国際政治学者のチャールズ・ベイツ(一九四九-)が、国際関係論の視点から「正義」を論じた『国際秩序と正義』を一九七九年に出している。また九〇年代の半ばからロールズの正義論を現実的な構想として読み直すことを試みているホッゲは、その一環としてグローバルな正義論を導きだそうとしている。二人とも、ロールズの正義論が事実上、既成の「(国民)国家」を前提にしていることに関して批判的で、格差原理をグローバルに展開して貧困問題を解決しようとしている点は共通している。

 その詳細までは本書からはわからないが、私の印象では、率直に言えば、ロールズを使った知的なパズルのようにも思える。
 むしろ、「正義」概念を現実の国際政治の文脈から抽象してもて遊んだり、古くさいレーニン流左翼のペンキ塗り直しのような日本の思想状況では、知それ自体がパズルの様相を帯びるのは仕方ない。
 日本の知の状況はローティの言う文化的左翼そのものであり、「[書評]〈現代の全体〉をとらえる一番大きくて簡単な枠組(須原一秀): 極東ブログ」(参照)、「[書評]高学歴男性におくる弱腰矯正読本(須原一秀): 極東ブログ」(参照)、「[書評]自死という生き方 覚悟して逝った哲学者(須原一秀)」(参照)で触れた須原一秀は、この状況に怒った、独自なローティ哲学の過激な実践であった。余談だが、三島由紀夫でもそうだが日本の文脈で哲学が実践化するとき、どうしていつも自死が問われてしまうのか。これはイザヤ・ベンダサンがすでに解き明かしている。
 ローティの文化的左翼はまさに日本の知的な状況を描写している(強調部分は本書ママ)。

 そうした、「経済」の仕組みをあまり考えず「文化」にばかり力を入れる左翼のことを、ローティは「文化的左翼(Cultural Left)」と呼ぶ。ポストモダンの影響を受けた「文化左翼」は「差違の政治学」とか「カルチャラル・スタディーズ」などを専門とし、差別の背後にある深層心理を暴き出すことに懸命になる。彼らはフーコーの権力批判やデリダの「正義」論など、ポストモダンの言説に依拠しながら、現在の体制下でいかなる”改善”にも意味がないことを暗示する。ローティに言わせれば、「文化左翼」は、半ば意識的にアメリカ主義にはまっている。彼らが「アメリカを改良することはできない」という前提に立って、”差別を構造的に生み出すアメリカ社会”を告発し続けている限り、いかなる現実の改良も生み出すことができない。彼らは口先だけはラディカルであるが、現実の(経済的)改革には関心を持たないので、実はただの傍観者に留まっている。

 文化的左翼とレーニン流の古くさい老人左翼を薄ら左翼出版社と労働団体で結合すれば、日本の左翼的光景が一望できる。そしてそれが現実の改革に何ももたらさないことは、まさに日本の現況が示しているという意味で、アメリカ思想の問題はきちんと日本の状況を射ている。

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コメント

ネグリがアメリカ現代思想なんですか?単に、マイケル・ハートが英語で執筆しただけですよ。マイケル・ハートにしてからがフランス思想の研究者です。

仲正昌樹氏は、アーレントの「カントの政治哲学」も解説しているのだけれど、アーレントがどう解釈しようと、はたして、「判断力批判」が「政治哲学」なのだろうか。どう考えても、美学の認識論的基礎付けのように思うのだけれど。

ネグリの基礎はスピノザなんで(「野生のアノマリー」)、アメリカにもスピノザを出発点とする学派があれば、その人たちとネグリの間には何か類縁関係があるだろうと思います。

投稿: enneagram | 2010.05.26 06:56

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