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2010.05.24

[書評]これからの「正義」の話をしよう いまを生き延びるための哲学(マイケル・サンデル)

 「これからの「正義」の話をしよう いまを生き延びるための哲学(マイケル・サンデル)」(参照)をアマゾンで注文したとき、発送は随分遅れるとのことだった。発売日には来なかった。が、翌日来た。昨日である。読みやすく面白い。昨晩熱中して半分読み、今日後半を読み終えた。政治哲学をこれだけわかりやすく説明する書籍は希有ではないか。高校生や大学生には社会を考えていく上で是非お勧めしたい。

cover
これからの「正義」の話をしよう
マイケル・サンデル
 本書巻末謝辞を見ると、「本書は講義として誕生した」とある。講義は「ハーバード白熱教室」というタイトルで現在、NHK教育放送中らしい。私は見たことがない。英語のままであれば「Justice with Michael Sandel」(参照)で見ることができる。もっと小さなクラスの講義かと思ったら、大講堂での講義である。
 政治哲学というと厳めしいイメージがあるが、サンデル教授は卑近な例、日常的な問題、社会ニュースの話題など馴染みやすい切り口からそれらの問題の持つ本質的なことを解き明かしていく。
 例えば、あなたは時速100kmのスピードで路面電車の運転しているとする。その走行中に、ブレーキ故障に気が付く。直進すると前方の工事作業員5人をひき殺すことになるが、横の待避線入れば1人の作業員を巻き添えにするだけで済む。どうすべきか? やむを得ないのであれば1人の方へハンドルを切るという答えもあるだろう。では、第2問。前方5人は変わらずだが待避線はない。あなたは運転手ではなく線路を見下ろす橋にいる。そしてデブ男の後ろいる。デブ男を待避線上に突き落とせば、デブ男1人の死体で電車は止まり、5人が救える。どうすべきか? サンデル教授はおそらく「塩狩峠」(参照)を読んだことはないし、デブ男でないと自動車は止まらないらしい。
 この話は有名であり、いろいろバリエーションもあるが、本質は同じだ。5人が救えるからといってデブ男を突き落とす人はいないだろう。だがこの二問は、功利主義の考えからすると、最初の問いの1人の選択と同じになる。
 そしてサンデル教授は、功利主義批判を易しく展開する。功利主義とは、幸福の最大化ということだが、最大化には計量化が含まれ、人命も数値で換算され合理性が問われることになる。この奇妙な例はあくまで説明上のものだが、現実社会でも人命が功利主義的に考えられることがあることも、サンデル教授は解き明かしていく。
 人命を数値にして合理性を求める。それでよいのか? なにが正しいか。正義とは何か。本書のオリジナルタイトルが「Justice: What's the Right Thing to Do?(正義:何が正しい行為か?)」(参照)にはそうした含みがある。余談だが、英語では"Do the Right Thing(正しいことをなせ)"という言い回しもあり、スパイク・リー監督の同タイトルのアイロニカルな映画(参照)もある。映画は正義の持つ危険性をよく批判していて興味深い。
 本書は、政治的な課題や社会正義を考える立場として、功利主義の他に、自由の尊重と美徳の2つが提示される。2番目の自由の尊重は、ロックやカントに由来する古典的な自由主義と、現代のリベラリズムの基礎となるロールズの自由主義、さらにリバタリアニズムが問われる。特にカントとロールズの解説がわかりやすい。カントというと難しい哲学のようだが、サンデル教授は見事なほどわかりやすく実践的に解き明かしていく。リバタリアニズムについては、それらに比較してやや薄い解説に留まっている。
 3番目の美徳によって基礎づけられる正義の概念が、まさにサンデル教授の訴えたいところだ。思想の分類からすると、コミュニタリアニズムと呼ばれているものだ。日本では共同体主義とも訳されることから、伝統的かつ制約的な共同体や全体主義と誤解されがちだが、基本的にはリベラリズムのもつ問題点を克服するために提起された考え方だ。このため、リベラリズム、特にロールズの自由主義の考え方の対比が実践的に語られるのが本書の特徴である。その意味では、本書はわかりやすいロールズ批判とも呼べるものになっている。
 読んでいて興味深いのは、ロールズ批判でありながら、ロールズにのみ焦点を置くのではなく、正義を美徳で基礎づける考え方としてアリストテレスの哲学に深く踏み込んでいく点だ。サンデル教授の議論はどれもきちんと限界付けらていて他分野には及ばない。だが、経済範疇まで広げることは可能だろう。アリストテレス再考は経済学者田中秀臣氏の「需要(クレイア)の経済学」(参照)とも重なる点があり、知的な興味を誘う。
 本書の思想的な意義は、「ロールズかサンデルか」という問いを突きつけている点にある。だが、そのように定式化される以上に、現代日本人にも現実的な課題を投げている。その一例が、本書でも触れられている戦時慰安婦問題である。歴史的不正をどのように考えたらよいのか。先祖の罪を償うべきか? もちろん、これは難問である。公式謝罪について、その利点を挙げた後、サンデル教授はそれでも、状況しだいだと語る。

 これらのことが謝罪の根拠として十分かどうかは、状況しだいである。ときには、公式謝罪や補償の試みが有害無益となることもある。昔の敵意を呼びさまし、歴史的な憎しみを増大させ、被害者意識を深く植え付け、反感を呼び起こすからだ。公的謝罪に反対する人びとはそうした懸念を表明する。結局、謝罪や弁償という行為が政治共同体を修復するか傷つけるかは、政治判断を要する複雑な問題なのだ。答えは場合によって異なる。

 常識的な受け止め方でもあるだろう。だが、原理的に考えるとき、歴史的不正とはどのように問われるのだろうか?
 サンデル教授は、古典的な自由主義であれリバタリアニズムであれロールズのリベラリズム思想であれ、人間を自由で独立した自己と見るかぎり、こうした責は問えないとしていく。そしてそれでよいのだろうか、ということで、コミュニタリアニズムとして連帯の責務の議論を第三の責務として展開していく。
 この議論は本書の白眉として、第9章と最終章である第10章で展開され、とてもスリリングではあるものの、それまでの章のような明晰さは欠落していると私には感じられた。
 なぜか。連帯の責務は、サンデル教授の議論の展開からしてそうなのだが、兄弟愛や国家愛と接合していくからだ。愛国心には普遍性があるとしてこう彼は語る。

 したがって、愛国主義に道徳的根拠があると考え、同胞の権利に特別の責任があると考えるなら、第三のカテゴリーの責務を受け入れなければならない。すなわち、合意という行為に帰することができない連帯あるいは成員の責務である。


 歴史的不正への集団的謝罪と補償は、自分が属さないコミュニティに対する道徳的責任がどのようにして連帯をからつくりだされるかを示す例だ。自分の国が過去に犯した過ちを償うのは、国への忠誠を表明する一つの方法だ。

 つまり、ある国家が別の国家に歴史的な罪を謝罪すること自体がナショナリズムに基礎を置いていることになる。ナショナリズムがその罪責を生み出したのだから、それを償わせるのもナショナリズムなのである。
 私はサンデル教授の思想に違和感を覚える。私は、ナショナリズムが生み出した罪責はナショナリズムの解体を志向する方向で償わなければ、それ自身がナショナリズムを強化するし、また被害の側に転倒されたナショナリズムを強化することになると考える。歴史的不正がないとは言わない。だが、サンデル教授の理路は、違うのではないか。
 この違和感は、私のロールズのリベラリズムに対する違和感にも通じる。社会的な公平さを基礎づけるロールズの議論は、つまるところ、国家の内側に閉じている。ロールズは社会契約の暗黙的な合意を丁寧に議論するが、契約の内容が国家になることにおいて限界を持っている。人を差別することないようにする正義の女神の目隠しのような「無知のヴェール」も、すでにその国家の内側の構成員であり、その公平性は国家構成員内の限界を持つ。やはり、ロールズの公平もナショナリズムである。
 私はどちらかといえばリバタリアニズムを信奉するリバタリアンである。人は世界のどこに生まれても人権が保証されなければならず、そのために正義が行使されなければならないと考える(この考えはオバマ大統領と同じ)。
 そしてそのために、日本国憲法が明記するように、国家をその正義のための道具としなければならない、国家を正義の側に開いていく運動なくしてナショナリズムを克服することはできない、と考える。
 サンデル教授の議論では、国際化する現代に問われている正義の問題は解決できないのではないだろうか。
 余談だが、本書帯にある宮台真司氏の解説にやや不可解な違和感を覚えたので、記しておきたい。こう書かれている。

 1人殺すか5人殺すかを選ぶしかない状況に置かれた際、1人殺すのを選ぶことを正当化する立場が功利主義だ。これで話が済めば万事合理性(計算可能性)の内にあると見える。ところがどっこい、多くの人はそんな選択は許されないと現に感じる。なぜか。人が社会に埋め込まれた存在だからだ――サンデルの論理である。
 彼によれば米国政治思想は「ジェファソニズム=共同体的自己決定主義=共和主義」と「ハミルトニズム=自己決定主義=自由主義」を振幅する。誤解されやすいが、米国リバタリアニズムは自由主義でなく共和主義の伝統に属する。分かりにくい理由は、共同体の空洞化ゆえに、共同体的自己決定を選ぶか否かが、自己決定に委ねられざるを得なくなっているからだ。
 正義は自由主義の文脈で理解されがちだが、共和主義の文脈で理解し直さねばならない。理解のし直しには、たとえパターナル(上から目線)であれ、共同体回復に向かう方策が必要になる――それがコミュニタリアンたるサンデルの立場である。

 違和感はリバタリアンの理解についてである。
 「リバタリアニズムは自由主義でなく共和主義の伝統に属する」というのは、サンデル教授が本書で説くところとはかなり異なるのも奇っ怪だが、それでも宮台氏のような理解ができないわけではない。おそらく民主党=リベラル、共和党=リバタリアニズム、といったことなのだろう。だが、リバタリアニズムを共同体的自己決定主義としているところはいただけない。そのいただけない前提の上で、これをコミュニタリアンの共同体と接合しているのも困惑する。
 そうではない。共和主義とはローマのような帝国と市民の関係を指している。市民はコミュニティに所属しながらも、ローマ市民としての自由を持つ。パウロがエルサレムで逮捕されたとき、彼はそのコミュニティの法に従うことはなかった。彼はローマ市民だからだ。リバタリアンとは、むしろ帝国の平和のなかで国家が解体された自由の個人を指すものだ。「共同体回復に向かう方策」とはまったくの逆である。

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コメント

マンガ「沈黙の艦隊」で、番組司会者が政治家にそういった問いを出したシーンがありました。

投稿: てんてけ | 2010.05.25 22:41

拝読したところ、finalventさんは「共同体」を国家に限定しているように思えます。宮台氏に限らず、社会学者が共同体と言うとき、それは地域コミュニティなどの中間集団を指しています。

>>リバタリンとは、むしろ帝国の平和のなかで国家が解体された自由の個人を指す

と仰られた通り、リバタリアンは国家の介入を最小限にしようとする思想です。で、国家という暴力装置なくして如何に個人の自由を守るのかというと、お互い顔の見える共同体しかないのです。クリント・イーストウッド的なリバですね。
社会学的な中間集団についてはデュルケムを一読ください。

投稿: | 2010.05.26 15:46

匿名さんへ。いえ、「お互い顔の見える共同体」もまさにサンデル教授が責務を問うように原理的にはリバタリアニズムにとって無用な存在です。パウロの例からご理解いただけたらと思うのですが、「国家という暴力装置なくして如何に個人の自由を守るのか」に必要なのは、帝国の市民権なのです。

投稿: finalvent | 2010.05.26 17:07

回答遅れて申し訳ありません。まさか返事を頂けるとは。今後は毎日拝読します。

さて件の「国家という暴力装置なくして如何に個人の自由を守るのか」に対して帝国の市民権、というご回答ですが、その市民権は国家なくして如何に保障されうるのですか?そもそも市民権自体が国家や教会などの権威にオーソライズされない限り意味を成さない概念のように思うのですが。

「俺には市民権があるんだから、勝手なまねはさせないぞ」という牽制は、そのバックに何らかの暴力装置(国家とか帝国とか地域とか世間とか)が無いと私人の暴力に対して無力ですよね。あるいは帝国は国家とは異なる
機能を持ち得ていたのでしょうか。

投稿: 26の匿名 | 2010.05.29 00:07

>リバタリンとは、むしろ帝国の平和のなかで国家が解体された自由の個人を指すものだ。

×:リバタリン
○:リバタリアン

投稿: | 2010.06.03 07:08

失礼致します。この場所では見当違いのようですが、ご容赦下さい。


質問させて下さい。

会衆制における決定の権威、この具体像 現実例を想像できません。

会衆制における決定の権威は、現場にどのように現れるのでしょうか。

日本の郷村での寄合 会合 に照らし合わせて想像してみましたが、
日本の郷村での寄合 会合ではより大きな枠組み 年貢であれば領主 農事のことであれば自然環境など それら、より大きな枠組みの要請のもとに具現 現場決定される。すなわち、おらが村という権威と少なくとも+1の別の権威により現場で具現される。

そこで、会衆制における決定の権威に戻ってみると、少なくとも+1の別の権威というのが想像できなくなるのです。

会衆制は、おそらく切実な脅威にさらされる決定でない限り、非常に有用なものに見えます。しかし、切実な脅威にさらされた場合、上記のような別の権威の想像という問題を抱えてしまう。

これは会衆制が、
切実な脅威などないという下に成立しているということでしょうか?

長くなってしまいました。
突然の不躾な質問である思われ、貴重なお時間を割いていただくこと大変恐縮に存じますが、御返答のほど、何卒、よろしくお願い申し上げます。

投稿: 神奈川県在住 | 2010.07.10 22:35

読ませていただきました。参考になりました。ありがとうございます。
ところで、次のような考え方は成り立つでしょうか。
アリストテレスにしろカント、ベンサムあらゆる思想家は個人、人間をベースに議論をすすめています。ですが、このベースが間違いなら議論はおおきく変わるのではないかと。私は、共生、それも対人間関係でのみ論じられるのではなく地球的視野からの共生ではないかと考えています。このように考えますと、第一ステージで論じられるべきは、生き物共通の共生であり、そこからみいだされる倫理観、そして第二ステージで個人尊重をベースにした人間社会ではないのか。
もしそうなら、倫理に裏打ちされた正義は、第一ステージの正義なら如何なる制限も許されず、しかし第二ステージの倫理観に裏打ちされた正義なら、手続的正当性の認められる合意での制限は許される。
だから、例えば、徴兵と代理母を同じテーブルで論じることはできない。
この様に考えるのですが、
如何でしょう。

投稿: 新妻秀一 | 2010.07.24 11:23

私も読みました。

私なら5人を助けますね。

でも、判断基準としては、利益だけでなく、道徳といった価値観も大切にしたい。

すっぱり割り切れないような気がします。

投稿: 本のソムリエ | 2010.11.16 20:44

突然の御連絡、失礼いたします。
(株)ブログウォッチャー編集部の馬場と申します。

急な御案内で恐縮ですが、
「これからの「正義」の話をしよう-いまを生き延びるための哲学」の書評ブログ記事を株式会社リクルートエージェントの公式コミュニティサイト「BizRavel」http://bizravel.r-agent.co.jp/
に掲載させて頂きたく、御連絡差し上げています。
弊社は株式会社リクルートのグループ会社でして、ブロガー様とのご連絡を代行させて頂いております。また、ブログなどの口コミを活用したwebサイト制作を行っています。

ブログ更新、投稿義務などブロガー様への御負担は一切ございません。
この掲載が貴方殿のブログへの集客口として貢献できれば幸いだと考えております。

詳細について、ご連絡させていただきたいので、bizravel@blogwatcher.co.jp に
2010年12月1日(水)までに
お返事をいただけませんでしょうか。
急なご依頼で本当に申し訳ございませんが、何卒、ご検討の程宜しくお願い致します。

株式会社 ブログウォッチャー
編集部 馬場  bizravel@blogwatcher.co.jp

投稿: (株)ブログウォッチャー編集部馬場 | 2010.11.29 15:20

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