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2010.05.08

[書評]思考する豚(ライアル・ワトソン著・福岡伸一訳)

 ライアル・ワトソン(Lyall Watson)氏が亡くなったのは2008年6月25日。一週間後、追悼記事がテレグラフに載っていた(参照)。69歳だった。私は一時期彼の著作をよく読んだ。集大成と言えるのは「生命潮流―来たるべきものの予感」(参照)だろうが、今アマゾン読者評でも偽科学といった糾弾が目に付く。今となってはそう見られてもしかたがないものだが、当時は最先端の科学とイマジネーションで書かれた話題の書でもあった。今では珍妙な主張のように見えないこともない。転居を繰り返した私の書架には、ワトソン氏の本はこの一冊しか残っていない。彼がその書籍で主張したcontingent systemについてときおり考えることがあるからだ。テレグラフの記事ではワトソン氏について、ニューエージ運動と併せて冒険家の側面を語っていたが、加えるなら、詩人とも呼べるだろう。生命潮流をテーマにNHKの連続番組があったが、その相貌や語りには詩を感じさせるものがあった。

cover
思考する豚
 ワトソン氏の死は私の心にあるぽっかりとした穴のようなものを残した。なんと言ってよいのかわからない。科学者として見ればうさんくさい、詩人として見れば美しいイマジネーション。しかし、それだけではない奇妙なもどかしさがある。彼が本当に伝えたかったことはなんだろうか。最期の著作は何か。
 豚の話だった。「思考する豚(ライアル・ワトソン著・福岡伸一訳)」(参照)。豚の話か、なるほど、と私は得心した。どう得心したのかと問われると、これも語りづらい。私たち人間は豚であり、豚は人間である、強く共生関係を持ちながら我々は融合している、と、ふと語りたいように思う。そうワトソン氏も語っているようにも見える。
 だが必ずしもそうではない。オリジナルのタイトルが「The Whole Hog(豚のすべて)」(参照)であるように、本書では豚について各種の側面がバランスよく語られている。必ずしも邦訳のように「思考する豚」だけが語られているわけではない。もっとも、"The Whole Hog"は洒落でもある。"Why not go whole hog?"(徹底してやらないのか)というように"go whole hog"という慣用句をもじっている。
 作品は2004年出版。ワトソン氏の60代半ばの作品と言ってよいのだが、読みながら、壮年の颯爽した相貌と語りを知っている私には、なつかしい口調だと思いつつ、老いたのだとも思った。欠点というほどでもないが、書籍としてそれほどうまく構成されていない。テーマが十分にフォーカスされていない。抄訳ということはないかとも疑問にも思った。
 なぜ豚なのか。表面的に読み取れるのは、彼がアフリカで過ごした子供時代や青年時代の豚との友情を語りたいということがあるだろう。豚を愛した人間の思いというものが、まず根底にあり、それから各種の知識や最新の研究が取り寄せられる。いつもながら体験を通して生き生きとしたワトソン氏の感性が語られる。
 フォーカスがぼけるのは、豚について家畜化を単純に嘆くわけでもなく、野生の豚との友愛だけを語りたわけではないためだろう。豚(つまり猪)についてある全体性を描きたいのだろうが、それほどにはうまくいっているわけでもない。読者によって本書の価値を見いだす点は異なるだろうとしても。
 私が面白かったのは、近代史と豚の関係だった。特に米国史とは家畜豚の歴史でもあったのかと得心した。ある程度わかっていても、その側面をきちんと取り上げられてみると驚くものがある。米国の開拓時代というと、大草原の小さな家の映像ではないが、農家が穀物や家禽・牛を飼育するというイメージがあるが、現実の中心に来るのは豚であった。塩漬け豚肉は戦争などのための重要な食料でもあった。ウォールストリートの壁が豚の囲いであったというのも正解かもしれない。
 フリードリヒ・エンゲルスの暮らしたイギリスでも豚に満ちていたようだ。考えてみれば、西洋史もまた豚の歴史である。遡って、スペインが活躍する大航海時代でも、船に載せていたのは豚だった。そうした興味深いエピソードの合間に、コロンブス以前、新大陸に西洋人が持ち込んだものではないらしいユーラシア種の豚がいたという奇妙な話もある。
 豚がどのように家畜化されたか。人類との関わりはなんであるか。当然考察が及んでいるのだが、そのあたりは往年のワトソン愛好家としては少し物足りなさを感じる。科学的にはまだ未踏の領域なのだろう。豚は人間と同様、甘いものと酒を好む社交性豊かな動物、という注目点にさらなる考察があればと思う。
 人間と豚が他の種とくらべて雑食であるという視点は本書では重視されている。雑食というと、「雑」という言葉からしておおざっぱな印象を受けがちだが、実際には逆だ。雑食の動物というのは、何が食えるのか、またどう食うのかということに、感覚を研ぎ澄ませ、知性・知識を働かせなくてはならない。豚の嗅覚の発達もそうした一環だ。関連の話で、なぜ豚でトリュフ探しをするのかというエピソードもあり、私は知らなかったのだが、トリュフは豚にとってフェロモンのような臭いを出すらしい。トリュフのほうも豚がそう誤解するように進化したらしい。人間も豚と同じくここでもそうかもしれない。
 ワトソン氏を継ぐサイエンスライターがこうした問題を掘り下げてくれたらいいなと思いつつ、それができたのがワトソン氏だけだったのかもしれないとも思った。最終部に、さらりとhsp90(参照)が突然変異を緩和するメカニズムに触れている。本書にはいわゆる「シャペロン」としては出てこない。この話題の行方なども、スティーヴン・ジェイ・グールド氏とは違った方向で、ワトソン氏の話で詩情豊かに読みたいものだとも思う。それはもうかなわない。彼自身はその大枠は示したものとして去っていったのかもしれないが。

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コメント

豚は、西洋文明の中の最重要家畜であるばかりでなく、インドでも、朝鮮半島でも、おそらくインドシナ半島でも、農民にとって最重要の財産だったはずです。ドイツには、「グリュック・シュヴァイン」という豚の形をしたお菓子があるし、韓国でも「豚の夢を見る」というのは、何か幸運なことに出っくわす慣用句です。

ライアル・ワトソン氏が科学者、より厳密には正統な科学者かといえば、たぶんオカルティストだろうと思います。でも彼の正当性は、生物を核酸、ペプチド、糖鎖、脂肪酸合成分解カスケードに分解分別することが、生命のコードを解読する作業であると、ある種根本的なところで「勘違い」していた一般的な凡庸な生理生物学者、分子遺伝学者の認識の非をさまざまな形で明らかにしたところです。でも、ライアル・ワトソン氏の本質は、生態学者でも、動物行動学者でもなく、古代中国のシャーマニックな占い師「貞人」というところだと思います。ワトソン氏は、サイエンス・ライターというより、卜占家に近いと思います。

哲学者としては、ライアル・ワトソン氏より、私のメンター教授の椿啓介先生(故人)のほうが、たぶん優れています。椿先生は、真菌類の系統や類縁性についての判断に、真菌類の無性生殖器官の発生様式の観察を取り入れました。今となっては、椿先生の分類体系のコンセプトもいろいろな点で軋みが出ているみたいですが、生命の「生成」の観点、特に、無性生殖での「生成」の観点で、形態上の主たる進化から取り残された下等な生物の系統や類縁性を論じた「ヒューズ・椿」の試みは、意図せずして、シェリングの自然哲学を菌類学に投影した成果となっていたのです。

投稿: enneagram | 2010.05.09 08:48

ムスリムのタブーもバリアーであったわけで。エキノコックスも恐ろしいですが。

投稿: スパイシー | 2010.05.10 14:54

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