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2010.04.12

リシャルト・カチョロフスキ(Ryszard Kaczorowski)元ポーランド大統領

 10日、ポーランド空軍のTu-154がロシア連邦西方スモレンスク北飛行場への着陸進入中に墜落し、ポーランド政府要人96名が死亡した。死者には、ポーランド大統領レフ・カチンスキ夫妻やリシャルト・カチョロフスキ(Ryszard Kaczorowski)元ポーランド大統領が含まれる。

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リシャルト・カチョロフスキ
(Ryszard Kaczorowski)
 リシャルト・カチョロフスキ氏は1919年の生まれ。90歳であった。小説家ジェローム・デイヴィッド・サリンジャーと同じ年の生まれである。
 1989年7月19日から1990年12月22日、ポーランド亡命政府の最後の大統領(第六代)を務めた。最後というのは、1990年にポーランドの共産主義政権が崩壊後、初の自由選挙で大統領に選出されたレフ・ワレサ(ヴァウェンサ)大統領の就任式に国璽(presidential insignia)を渡し、亡命政府大統領を退いたからだ。
 ワレサ大統領は第三共和制の第二代大統領であったが、初代ヴォイチェフ・ヤルゼルスキ大統領はいわば自由選挙までのつなぎであった。なお、ヤルゼルスキ氏は、2006年4月31日、1981年から83年の戒厳令下の民主化弾圧が憲法違反に問われ起訴された。
 カチョロフスキ氏の人生は、20世紀のポーランドの歴史の一面を物語る。1939年、19歳のときソビエト軍によるポーランド侵攻で従軍した。その後は、愛国的なボーイスカウト運動を推進したが、その活動がソ連の疑惑の対象となり、後のKGBとなる内務人民委員部(NKVD)に連行され、死刑判決を受けた。後、10年間の強制労働に減刑され、ナチスのアウシュヴィッツと並ぶ史上最悪の強制収容所コルィマ(Kolyma)に送らることになった。幸いこれも1941年、亡命政府のヴワディスワフ・シコルスキ首相がソ連と外交関係修復条約を締結したことで特赦となった。
 その後、カチョロフスキ氏は軍人ヴワディスワフ・アンデルス氏の指揮下に入り、連合軍兵士としてモンテ・カッシーノで戦った(Battle of Monte Cassino)。アンデルス氏はすでに、カチンの森事件についてソ連に疑いを持っていたことから、ソ連との共同を避けていた。
 戦後のカチョロフスキ氏は、英国に政治亡命者として亡命した。ポーランド亡命政府の軍人はポーランド市民権を剥奪されたからである。27歳であった。やり直しの人生として、英国の大学で国際貿易を学び、ビジネスマンとして働くかたわら、当地のボーイスカウト活動にも注力した。英国の名士の仲間入りもした。ロンドンでの亡命政府の大統領職もどちらかというと、著名人の名誉職と言ったものだったのだろう。2004年には英国女王からナイトの称号も授与された。
 運命に翻弄された人生であったともいえるし、30代以降は平穏な人生であったといえるかもしれない。思いがけぬ事故ではあったが、長寿でもあった。

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