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2010.04.17

[書評] 1Q84 book3 (村上春樹)

 私たちの世界では、夏目漱石の「明暗」(参照)の結末を知ることはできない。ドストエフスキーが本当に書きたかった「カラマーゾフの兄弟」(参照参照)の第二部を読むこともできない。命と引き替えに文学を超えようとした存在の出現は許されない。あるいは川端康成(参照)の「千羽鶴」(参照)の続編「波千鳥」のように、作者の生の有様が存在を限界付けることもある。村上春樹の「1Q84 book1, book2」(参照)は、文学を超えようとする手前で放置されかけた。が、不思議な形で完結した。

cover
1Q84 BOOK 3
 不思議な形というのは、後続するbook3は、book1と book2とはあたかも異なる作者による批評の作品として読めるからだ。1Q84のbook1と book2が投げかける巨大な謎を、村上春樹自身が批評家としてbook3でおそらく渾身を込めて解き明かして見せた。彼が文学の批評に立ったのはこの作品が初めてだし、そのことでおそらくこのbook3は、村上文学総体の批評ともなっている。もちろん、批評という言い方は拙い。
 1Q84のbook1と book2を書き上げた作家としてその連続の物語を書くことは、苦難を伴うとはいえ格段に難しいことではないだろう。存在の持つ、あるいは神の持つ恐ろしい深淵に耳を澄まして、言葉を紡ぎ上げていけばよい。燃えさかる炭を口に受けていけばよい。しかし彼はその方向に進まなかった。
 book1とbook2という作品に沿って言うなら、あるいはポストモダン文学のお作法で言うなら、それは現実自体が天吾による作品世界であるという構造を示していた。作中人物による作品が現実と循環するという、文学学者にウケのいい意匠である。ヤナーチェックの「シンフォニエッタ」というシンボルもいかにもそれらしく巻頭に配置されていた。現実と文学的想像には臨界がないことをいかにも批評的に技巧的に示すメタ文学である。つまり、ゴミだ。
 book1とbook2の主人公である天吾と青豆は、連続した物語が創作されてもドラマツルギーが自動的に産み出す幻影になりかねない。お涙頂戴の古典的心理描写の果てに、「ノルウェイの森」(参照)や「ダンス・ダンス・ダンス」(参照)といった作品同様途上国向けセックスシーンが配置されることすら避けがたい。だが、青豆は具体的な人間への欲望から、ツァラトゥストラが永遠回帰を自己の意志として選び取るように、物語を自分の意志として選び出す。生きることは、倫理的でなくてはならない。

 そして私がここにいる理由ははっきりしている。理由はたったひとつしかない。天吾と巡り合い、結びつくこと。それが私がこの世界に存在する理由だ。いや、逆の見方をすれば、それがこの世界が私の中に存在している唯一の理由だ。あるいは合わせ鏡のようにどこまでも反復されていくパラドックスなのかもしれない。この世界の中に私が含まれ、私自身の中にこの世界が含まれている。

 青豆は最後にそこで覚醒する。

 天吾が現在書いている物語が、どのような筋書きを持った物語なのか、青豆にはもちろん知りようがない。おそらくその世界には月が二つ浮かんでいるのだろう。そこにはリトル・ピープルが出没するのだろう。彼女に推測できるのはせいぜいそこまでだ。にもかかわらず、それは天吾の物語であると同時に、私の物語でもあるのだ。それが青豆にはわかる。

 覚醒をもたらしたのは青豆が子供を産むと決めたからだ。自分の子供を産むことは、それがいかなる物語となるとしても、自らの生として受け入れるしかない。生とはそのようなものだ。メタ文学の戯れであってはいけない。book1とbook2という戯れから、人が生きるための文学を救い出さなくてはならない。作者が文学の臨界を超えずして、そしてなおかつ現実的な世界に奮い立つ原生的な力に復帰しなければ、book1とbook2が文学的な偽物となるのは必然であり、それを避けるには物語が投げかける本質的な謎を真正面からきちんと解いて見せることだ。
 そのために村上春樹は、1Q84のbook1とbook2の読者の位置に降りてみた。この物語を再び読み返し、読むという批評の立場に立って見せた。そのことが牛河の再造形となり、book3の主人公とさせた。牛河を投げ込むことで、book1とbook2という物語を読者の視点から緻密に、他者として読み直すことを可能にした。ポストモダン文学の愚劣な罠から逃れた。
 book3にはさらにもう一つ原生的な生の仕組みが導入された。露骨に言えば、著者の父の死だ。人がこの世に生まれるためには父と母を必要とする。ヤブユム。だが、この父と母の死は子孫を通して、民族の幻影、つまり国家の幻想を生み出す。国家とは墓所のことである。なぜ人は一人死ぬことができないのか。なぜ親子の連繋を共同の幻想に仕立て上げてしまうのか。その問題が、book3のなかで天吾の父の生の倫理を通して濃密に語られる。そのことで、book1とbook2における母の喪失、あるいは「海辺のカフカ」(参照)で放り出したオイデプスの問題にファルスが対立する。NHKは国家の暗喩である。集金とは税の比喩である。国家の幻想は公正を装いながら、国民をゲシュテル(徴収)する。逃れようにも逃れられないものとして、父の原理として戸の陰にうずくまるものを暴き立てる。
 book3の巧妙だがやや曖昧な暗喩は、追い立てる幻影の先に、ジャックと豆の木の洒落のような、天吾、青豆、牛河という滑稽な名の主人公たちを置いてみせることで、彼らの聖化を明らかにする。何かが彼らを絶対的な孤独なものとして聖別している。その何かとは、青豆のいう王国であり神を指し示している。天吾はまさに、「天は吾れ」として青豆の鞘なかにドウタとして再臨が予定される。牛河の悲惨な最後は神の恩寵として捧げられている。その構図からすれば、1Q84という物語には、おそらく20年後の神の出現の物語が隠されているし、book3のなかで敢えて解かれなかった謎がそこにまとまることも予想できる。しかし、それはbook4なりの物語を暗示しないだろう。別の物語となるだろう。
 book3は、予想外の成功をもって一つの完結を迎えた。作者が批評の立場に立ってみせることで、かつての長編のように謎を放置するだけのことはなく、謎の回収を行った。生の強い意志が、作品の文学的な合わせ鏡を許しはしなかった。
 そのことは同時にこの作品の想定された期待の限界も意味している。日本が、そして世界が、1984年以降抱えてきた暴虐の謎を逆にこの作品はうまく解き明かすことができなかった。露骨にいえば、オウム事件を産み出した日本社会の狂気の無意識を1Q84はうまく射貫いてはいない。リトル・ピープルを1Q84に置き去りにすることは解決ではない。現実は物語に文学にその解決を求めている。ひりひりと求めている。
 私はもう一つ蛇足を言う。作品の作者は、ちょうどこの作品のフラクタル的な構造の原型がそうであるような意味で言えば、つまり天吾が原型の物語の作者ではなく深田絵里子がそうだという意味で言うなら、おそらく村上春樹ではないと私は思う。

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コメント

補足的感想を。・・・もし、春樹氏が「国家」をこの程度にしか捉えていないのなら、オウムの謎がとけないのも当然と言う気がします。国家とは「税を徴収するもの」ではない。国家とは「裁き罰を与えるもの」です。・・・(普通の生活者の実感としては、おそらくこれでいいのだろうけれど・笑)。

投稿: ジュリア | 2010.04.19 08:21

読みました。1,2もそうでしたけど、読後感はあまり良くない小説ですよね。僕はむしろ大江の『水死』の続きを読みたい、と心底思いました。

投稿: tom-kuri | 2010.04.21 09:27

Book1,2では執拗で大がかりなメタフィクションの仕掛け(現実世界でも1Q84をベストセラーとさせる“メタフィクションの謀略”にはヤラレました!)にワクワクしながらストーリーを読み進めましたので、Book3でも予想外の展開を期待していました。

で、読んだら本当に予想外でしたね。なんといっても、1年もの間を置いて好きなだけ評論家どもに語らせておいて自ら謎解きするとは意地が悪すぎる。ポストモダン小説の発展形の一つとしてその技巧には十分に楽しませていただきました。

それと、ストーリーの回収方法。宗教などのヘビーな問題群を置き去りにしているようで、そうではなく、なんであれ信じることが困難な現代日本に生きる私たちへの答えの一つを与えてくれていると思いました、私の勝手な解釈ですが。

投稿: 匿名 | 2010.05.14 00:51

村上春樹さんとクラシック音楽両方に興味のある方はYouTubeで佐村河内守を検索することをお勧めします。

『佐村河内守をもってして真の天才と呼ぶ』と五木寛之さんに言わしめた“孤高の全聾作曲家”です。

自伝『交響曲第一番』(講談社)を読めば、その凄絶を極めた半生に鳥肌が立たない人はいないはずです。

投稿: 風葉書 | 2011.02.19 17:11

冷静と情熱の間に化学反応を起こすことを愛と呼ぶならば、レシヴァとパシヴァの関係もまた同様であると思う。
パシヴァが、もし時空を超えてもなを、レシヴァから愛を受け取ったとしたら、それに応えるべく、パシヴァはより一層自らが知覚したありったけを、この世のあらゆる"入口と出口"を使い、レシヴァへと送り続けようとするだろう。徒労とも呼ぶべき魂の交感の先に、何かを生み出せると強く信じることができるから。唯一のよすがは、Qの中にこそあると確信しているから。

と、いうことを妄想してみた。

投稿: | 2012.01.07 15:16

↑ 再び投稿。

これ村上さんも御覧になっているんでしょうかね??

物語の続きを読んでみたいです。リトルピープルの事ももっと知りたいし。ダビンチのインタビュー読んだら、「翻訳は性欲で、小説は愛欲」との事。だとしたら、まだまだこれからでしょう!!
私がもっともエロスとロマンを感じたのは、1Q84という題名。この宇宙途轍もなく広いけど、Qの輪っかの中に捕まって引き寄せられたい感があるのよ。もっとグイグイ引っ張ってほしいいんだけど。
あなたには会った事すらないんだけどね。わたしもね。いろいろあって、心を病み、今はおかげさまで元気になったけど、入院していた時に、鍵のついた病室で、「ノルウェーの森」を読んだわよ。これ嫌みじゃなくて、そうすることが、作家さんが喜んでくれるんじゃないかなって‥気持ち半分と、元々、物凄く、小説の主人公の心情とシンクロしたいという欲望があったからね。忘れられない体験になったわ。
それと1Q84は、大いに私の欲望を満たしてくれた。この本を読んだ時、私の精神は最高潮に破綻していたの。でも、再び現実に戻れる勇気を貰い、青豆に自分を重ねて頑張ったのよ。
私もいつかはあなたみたいな偉大な作家を目指しているの。遅咲きの遅咲きだと思うから。でも一度芽が出たら、凄いわよ、多分。ジャックと豆の木ね。一夜にして有名人よ。…なんてことは冗談ね。そんな甘いもんじゃないのよね。
それから忘れないで、コーヒーを立てる時は、いつもあなたの事を考えて、良い作品が生まれますようにと祈っている事を…
ファンレターは出さないから、ごめんなさい。私、人を怒らせる事の天才なのよ。だから、敢えて出しません。
主人公の天吾には、もっと暴れて欲しいし、田丸にも活躍の場を与えて欲しい。この物語、だれもが主役を張れるくらいの濃いキャラクター揃いだから、とても楽しみにしています。
つづき、必ず書いて下さいね!!

〜あなたの熱烈なフアンより〜

投稿: | 2012.09.30 17:53

管理人さん、ごめんなさい。もう一言。

わたし、あなたの描く「青豆」と一緒に成長したいのよ。だから、待ってますからね…いつまでも…

投稿: | 2012.10.01 20:32

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受信: 2010.04.25 21:25

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