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2010.04.18

[書評] 1Q84感想、補足

 補足的雑感を。
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 book 1の冒頭が4月なので、もう四半期のbook 4までありえないことないかなとも思ったが、(1) 1Q84という年は12月をもって終わるので、book 3の終わりがそれに相当するだろう、(2) 次の物語の展開は、ドウタの出現だがそれは4月を超える、ということで、ここで完結だろう。
 しいていえば、(3) book3の構成はbook 1およびbook 2ほどには計算されていないので(時間もなかったのだろうが)、文章の息がややまばらになっていて、これ以上は継続できない。
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1Q84 BOOK 1
 book3で完結感はあるかといえば、十分にあると言ってもよいだろう。その最大の理由は、book 1とbook 2の謎を、従来の村上春樹長編のクセのように放置しなかったこともだが、やり過ぎた暗喩(特にリーダーの予言)がいくつかbook 3で変更されていることから、それなりの落とし前の意識が明瞭にあったと見ていいだろう。
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 book1とbook2でも思ったが、春樹文体に微妙な、ある意味で大きな変化があり、見解によっては、悪文としてもよいと思うのだが、全体の美文のトーンに調和していてなかなか指摘しづらい。批評家が誰も指摘してなさげなのはなぜだろうか。

 青豆はこのマンションの一室に身を隠してから、意識を頭から閉め出せるようになっていた。とりわけこうしたベランダに出て公園を眺めているとき、彼女は自在に頭の中をからっぽにできる。目は公園を怠りなく監視している。とくに滑り台の上を。しかし何も考えていない。いや、おそらく意識は何かを思っているのだろう。しかしそれはおおむねいつも水面下に収められている。その水面下で自分の意識が何をしているのか。彼女はわからない。しかし意識は定期的に浮かび上がってくる。

 「しかし」がいくつあったか読みながら気がつかないのはなぜだろうか。
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1Q84 BOOK 2
 千倉の病院の若い看護婦、安逹クミとそのエピソードが解きづらい。book 1およびbook 2の謎のバグフィックス的に導入されたのか、当初からの伏線的な構想にあったのか。
 安逹クミが複数のドウタの一つであることは明らかである。難しいのは、転生の時点だ。端的な話、誰の転生なのか。前世は「冷たい雨が降る夜に」終わった。転生は安逹クミの生誕であったか、ハシシのこの体験の中か。と、読み返すと、ハシシ体験以前にドウタであることが知覚されているので、その体験のさなかではないのだろう。ただ、生誕が転生であったとも言い難いのは、「空気さなぎ」の読後の影響と見られる。ということは、「空気さなぎ」が世に読まれることは、ドウタの分散を意味しているはずだ。(このことは、この1Q84という書籍が流布される暗喩でもある。)
 もう一つの謎は、安逹クミの陰毛と性交の不在だ。これは明白に、白パンと性交を伴った深田絵里子との記号的な対比になっている。対比の意味は作者に意識されているようだ。
 私の印象では、安逹クミは天吾の母の転生ではないかと思う。
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 「天吾」は「天は吾」の意味だろうし、その生誕の由来は敢えて隠されている。彼は誰の子かわからないし、なぜ存在させられたのかは表層的には問われていない。印象でいえば、母の処女懐妊ではないかと思う。つまり、天吾こそ物語の最大の動因なのだが、そこはうまく描けていない。
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 物語では、特にbook 3で特徴的なのだが、深田保と深田絵里子は、人の存在から何かを抜き取る。それは人の存在の魂に深く関与している。すでにユングが語られているが、ユング的な四位一体と恐らく関係している。
 1Q84がデーモニッシュな魅惑を持つのは、この魂と、何かを奪われることの意識が自明にわかる人が存在するからだ。この造形は牛河に深く関わっている。牛河は彼が育った理想的な家族の無意味さを告知されたものとしてこの世の立たされている。

しかし牛河の目から見れば、その人間生は救いがたく浅薄だった。考え方は平板で、視野が狭く想像力を欠き、世間の目ばかり気にしていた。何よりも、豊かな智恵を育むのに必要とされる健全な疑念というものを持ち合わせていなかった。
 父親は地方の開業内科医としてはまずまず優秀な部類だったが、胸が悪くなるくらい退屈な人間だった。手にするものすべてが黄金に変わってしまう伝説の王のように、彼の口にする言葉はすべて味気ない砂粒になった。しかし口数を少なくすることによって、おそらく意図的ではないのだろうが、彼はその退屈さと愚昧さを世間の目から巧妙に隠していた。母親は逆に口数が多く、手のつけようがない俗物だった。

 ある種の子供はそのような環境に生まれる。
 牛河は深田絵里子に喪失させられることで魂を自覚する。

 これはおそらく魂の問題なのだ。考え抜いた末に牛河はそのような結論に達した。ふかえりと彼とのあいだに生まれたのは、言うなれば魂の交流だった。ほとんど信じがたいことだが、その美しい少女と牛河は、カモフラージュされた望遠レンズの両側からそれぞれを凝視し合うことによって、互いの存在を深く暗いところで理解しあった。ほんの僅かな時間だが、彼とその少女とのあいだに魂の相互開示というものがおこなわれたのだ。そして少女はどこかに立ち去り、牛河はがらんとした洞窟に一人残された。

 余談だが、ネットの世界は牛河の家族のように愚劣な人々と、牛河の魂を持ち合わせてしまった不幸な人と、牛河の物語を愛するキチガイの三者がほどよく目立つ。
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1Q84 BOOK 3
 私のシンプルな読み落としかもしれないが、青豆が密室生活で二度抜け出したとタマルに語るシーンには違和感を覚えた。三軒茶屋のれいの個所にタクシーで行ったという。そういうシーンはあっただろうか。リライトのミスではないか。
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 作者村上春樹はbook 3で一度だけ登場する。

 ここでいくつかの「もし」が我々の頭に浮かぶ。

 book 3で村上春樹は読者の位置に降りたことは、昨日のエントリ「[書評] 1Q84 book3 (村上春樹) : 極東ブログ」(参照)で述べたが、それがもっとも顕著にここで告白される。また、これは物語の呪縛と創作意識の微妙な迂回路も示している。私はここで吉行淳之介「砂の上の植物群」(参照)を思い出す。作品全体の印象だが、構成や叙述が欧米的なスタイルでありながら、そここに第三の新人的な日本語の小説の技法がちりばめられているように思う。「若い読者のための短編小説案内」(参照)で示された考察が、内在化、血肉化されている。
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 マザとドウタの物語、つまり、リトル・ピープルの物語、あるいは深田保と深田絵里子の物語は、村上春樹が解読できる可能な限り、book 3でスキーマティックにまとめられている。が、十分ではない。深田保は、天吾を介して転生し、その通路を深田絵里子が用意した。それだけではなく、彼らは同時に魂の回収を行った。そこにおそらくオウム事件が暗示する深淵への示唆があるのだが、十分には描かれていない。
 そして、おそらく深田絵里子は深田保の子供ではく、タマルの子供であろう。牛河を理不尽に、あるいは予定されたように死に至らしめる動因としての。

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コメント

・・・正直言って、book3はどうにも不満でした。まず、青豆の「処女懐妊(?)」と言う設定が、どうしても受け入れられなかったです。・・・女性として、ですが(苦笑)。第2に、book3では、天吾だけでなく、青豆も全く行動していない。つまり、2人は部屋で機を待っているだけで、(天吾は、一応猫の街へゆきますが)彼らを結びつけるのは、他の人々の役割です。つまり、主人公である筈の2人が、小説の中で全くアクションを起こさないまま、幸せに結ばれてしまう。・・・これは、一読者として非常に不満でした。どうやって、お互いがお互いを行動によって知り、そして交接して子どもを作る(作らなくてもいいけど)か、が知りたかったのに・・・。book3で、もっぱら行動してるのは牛河だけだし、他の謎は(天吾の真の父親は?タマルの娘の行方は?そして安達クミの正体は?)全て閉ざされたままです。・・・個人的には、book4がないと、どうにも収まりがつかないんですけど・・・。

投稿: ジュリア | 2010.04.18 23:08

>私の印象では、安逹クミは天吾の母の転生ではないかと思う。

これは私も同じ印象を覚えました。同じ小説内「絞殺された女性」が二人出てきているのは、何かしらのつながりがあるように思います。

あと、2度抜けだしの件ですがbook2の21章で天吾の姿を見つけ出して飛び出した時が一度目で、23章でその翌朝部屋を出てタクシーを拾うシーンが提示されています。多分その2回の事かと。

投稿: Rashita | 2010.04.21 15:26

ブック3の最後のほうに、「あなたや私とおなじように」という文脈で作者はもう1度出てきますよ!

投稿: とおりすがり | 2010.04.21 22:22

長年の村上ファンですが、読み方が浅く、ブック3は途中でおなか一杯になってしまいました・・・。

ただ、3に入る前に、1,2を再度読み
「天吾」=「青豆」なのだと実感しました。

「自分自身を愛すること」
・・・

そして、3では
天吾は「自分自身を愛することを知り、父の呪縛から逃れられ、父を愛することができるようになり。。。そして自分自身が完全に一致した」のではないでしょうか。

投稿: ゆかこ | 2010.04.24 03:12

すいません、、
深田絵理子=タマルの子??
というのがどういう読み方か分からないのですが
少し考察加えて頂けませんか??

投稿: とおりすがり2 | 2010.04.24 12:33

タマルの子は17歳になると記されえている事から、私も深田絵理子がタマルの子ではないかと思いました。また安逹クミは中野あゆみの再生した人物だと感じたのです。2人とも冷たい雨の日に首を絞められて死んじゃったから・・つまり、クミもあゆみも天吾の母の生まれ変わり?
「さきがけ」のトップは誰になるのかなぁ?
もしかして、戎野先生?
考えるだけでも楽しくなってくる、自分の考えが正しかったのか、確かめる為にもBOOK4を書いてもらいたい。
でも、作者は読者に考る事を課す人だから・・このままかなぁ

投稿: ミーコ | 2010.05.04 19:56

天吾の年上の彼女の行方が気になる。
誰にどうされたの?

投稿: pp | 2010.05.05 20:08

1Q84は何故、4月から始まったのでしょうか?

Book4はないでしょうが、プロローグのような物語は在りえるのでは?(承前いやいや章前、そんな日本語はないか)

1Q84の世界にも、きっと1~3月はあったはずですから。

もしそのような作品が書かれるとしたなら、はてさて誰の語り口で書かれるのでしょうか?

そして年度でみると、1Q84から1985はループになる、彼らは1Q84の12月に1984に帰ってきたのだから。

そんな物語があれば素敵ですね。

投稿: val | 2010.05.19 00:36

夢中で読んだけど納得できない。ごめん、私にはただの三流恋愛小説にしかとれない。
                       

投稿: | 2010.05.24 13:59

たいへん興味深く読ませて戴きました。

Book3の「我々」「あなたや私」は、作者である村上春樹と読者である私(たち)である以前に、Book3の共同執筆者である【物語の外の青豆と天吾】だと私は受け止めました。

Book1,2の「青豆の章」は天吾の作品であり、「天吾の章」も天吾の書いてきた自分の物語だとするならば、Book3が青豆の作である、というのもアリではないかと。・・・・もちろんすべて村上春樹なんですが。

それと、青豆が抜け出した1回目は、Book2のラスト(階段を見つけられずに死ぬ決意をした時)ですよね。

投稿: nobi | 2010.06.09 19:17

『1Q84 book 0 1月-3月』という
続編を綴るだけの余地や可能性を
「book3 10月-12月」は大いに含んでいる、と
おもいます。

投稿: 千林豆ゴハン。 | 2010.07.01 14:34

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