[書評]完全なる証明(マーシャ・ガッセン)
ニュースを聞いて、奇異に思った人もいるのではないか。なぜ今になって? ようやく証明が認められたからか?
完全なる証明 マーシャ・ガッセン 青木薫訳 |
ポアンカレ予想(Poincaré conjecture)は、フランスの数学者アンリ・ポアンカレ(Jules-Henri Poincaré:1854-1912)が1904年に提示した位相幾何学についての未証明の予想であった。こうまとめられている(参照)。
境界を持たないコンパクトな三次元多様体であるVを想定してみよう。このVは、三次元球体と位相幾何学的に同型ではないにもかかわらず、Vの基本群が自明となることがあるだろうか。Consider a compact 3-dimensional manifold V without boundary. Is it possible that the fundamental group of V could be trivial, even though V is not homeomorphic to the 3-dimensional sphere?
なかなか意味が取りづらい。理由は、数学的な用語によるというより、三次元多様体が四次元の立体を意味していて、人間はそれを想像しづらいからだ。想像するためには次元を落とし、三次元の立体で比喩してみたくなる。そこで球体やドーナツといった形を想定し、「位相幾何学的に同型」という概念を考える。これなら、その立体に一輪のひもを掛け、それを狭めたとき、するっと抜けるかどうかで判定できる。ボールだとするっと抜ける。ドーナツだと中の穴とドーナツ本体がくくられてしまって、ひもは抜けない。
この比喩で宇宙に紐付きのロケットを飛ばすという比喩でよく説明される。NHK「100年の難問はなぜ解けたのか~天才数学者 失踪の謎~」(参照)でもこの説明が使われた。が、この比喩が次なる誤解をもたらす。本書ではこう言及されている。
本書のこの部分を書くためのリサーチを手伝ってくれた若い数学者は、私がトポロジーの基礎概念を相手に悪戦苦闘している様子を見ていたわけだが、「ポアンカレ予想は、宇宙の形に関する予想である」という文章に出くわすたびに顔をしかめた。彼がしぶい顔をするのも無理はない。世間ではよく、ポアンカレ予想と宇宙の形を結びつけて語られるが、実のところ、この両者にはあまり関係がないからだ。実際、グリゴーリー・ペレルマンが取り組んだのは、宇宙の形はどうなっているか、などという問題ではなかった。
ではどういう問題か。
先に述べたとおり(だろう)だが、ようするに、幾何学というものは、本書でも触れているし、ブルバキの数学史でもそうだが、ユークリッド幾何学の第五公準から、ボヤイ親子、リーマンやロバチェフスキーなどを介して、人類知の自然的な展開として、位相幾何学に発展せざるを得ず、そしてそこで当然に重要となる同型の概念が導く、簡素な疑問はポアンカレ予想に結びつかざるを得なかったということだろう。私はそう理解している。
それが位相幾何学においてあまりに簡素に提示されていながら、まったく歯が立たないということがこの問題の魅惑でもあっただろう。その意味では、代数的に提示された「フェルマーの最終定理」と似たようなものであったと言えるはずだ。
本書は邦訳の帯に「世紀の難問「ポアンカレ予想」を証明したロシアの数学者ペレルマン 天才数学者はなぜ森へ消えたのか」と当然ながら「ポアンカレ予想」が強く打ち出されているし、実際9章ではその解説もなされているが、本書は「ポアンカレ予想」を解説したという趣向の書籍ではない。また、幾何学に魅せられたペレルマン氏がこの問題に取り組んだ過程についても明確には描かれていないが、「ポアンカレ予想」という難問が幾何学の必然的な問いかけであれば、数学に全身全霊を捧げた氏が解かざるをえなかったという物語としては、出色の仕上がりとも言える。勇み足な言い方をすれば、神の問いかけにロシアの聖者がどう答えるかという一つの暗喩ともなっている。「カラマーゾフの兄弟」に登場する群像とも重なるだろう。
このこととは英書のタイトルと邦訳のタイトルの微妙な差にもなっている。邦訳では「完全なる証明」であるが、英書では「Perfect Rigor」(参照)である。私の英語の語感からすると、Rigorより、rigorous(厳密な)という語がなじみ深い。おそらく普通の欧米人でもそうではないだろうか。the rigorous methods of science(科学の厳正なる方法論)といった類の語用が普通だろう。当然、Rigorにはrigorousの語感が反映されるのだが、であれば、書名は、rigorous proofとなっても良さそうだし、これにperfectを混ぜてもよさそうに思う。だがそう連想して、Rigorの苦難の意味合いが初めて出てくる。ボナパルトもアドルフも屈したロシアのrigor of winterである。そしてこれにはRigor=苦難への嗜癖すら感じられるロシア性もある。さらに、dead rigor(死後硬直)を連想したとき、本書のタイトルの意味合いがすっきりと開示される。つまり、本書は「完全なる証明」の物語ではなく、「完全なる硬直」の物語なのだ。ペレルマン氏が世間に対して完全なる硬直を示したのはなぜかを問うているのである。
本書の本質はロシア性なるものだけではない。端的に言えば、ロシアのユダヤ人という問題がある。ロシアのユダヤ人という静謐な存在が世界を揺るがす問題を苦もなく引き起こすという、ある種驚愕の史実に現代世界が向き合わされてしまうということだ。その意味では、グーグルを創業したセルゲイ・ブリン氏(Sergey Mikhailovich Brin)ともある種同型であるし、年代が古いがノーム・チョムスキー氏(Avram Noam Chomsky)やその師のゼリグ・ハリス氏(Zellig Sabbetai Harris)にも通じる問題でもある。その部分については、ペレルマン氏を育てた歴史の物語と照応するだろう。そして、その部分が本書でもっとも面白いところだ。が、英書と比較してはいないが、英書ではその部分がまさに省略されているとのことでやや不可解な印象も残す。
本書は同環境で育ち、米露の言語を駆使でき、さらにユダヤ人であるガッセン氏でなければ書けなかった作品でもあり、そのことはペレルマン氏の本質に独自の肉薄を許している。それでも、ああ、これはわかっていてあえて書いてないのではないかと思われるのは、ユダヤ人における母子関係だ。あるいはかなり書き込まれているので、これだけでわかる人にはわかるでしょうということかもしれない。
またペレルマン氏と同年でありほぼ同じ環境に育った著者ガッセン氏だからこそ、本書はソ連崩壊を巡る特有の歴史としても語られる。この部分は、西側にいた私たちにとってもある年代上には独自な感興をもたらす。私も大学で同じ講義を取っていたソ連の留学生のことを少し思い出していた。
エントリ冒頭のニュースの話に戻る。なぜ今頃? 本書を読めば、問題の本質が証明の正当性でもなく、また賞金でもなく、おそらくペレルマン氏の特異な性向によるといったものではなく、単純にクレイ賞だからということがわかる。ペレルマン氏は自己の証明に完全な自信を持っていた。そしておそらくその教師的な経歴や、証明後の米国での活動でもそうだが、熱心に説明しつつ、その証明を人類が理解するのに数年かかるとも想定していただろう。インターネットにさらりと公開したのも、本書が説明しているように、そのほうが人類が証明をトレースしやすいだろういう配慮と考えたほうが納得がいく。
だが、この間に、これも本書で詳しく述べられているあまりに世俗的な醜い出来事が起きた。フィールズ賞に至っては侮辱といってもよいものだった。いろいろ紆余曲折はあったが、ごく普通にようやくクレイ賞に結びついたし、それはペレルマン氏が当初から想定していた帰結でもあっただろう、というのが今回のニュースの重要性だろう。しいていうなら、賞金はニュース的に世俗的な話題に過ぎるものだろう。
余談だが、本書で私は若い頃直になんどかお話を伺ったことがある懐かしい二人の名前を見つけた。
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コメント
compactはそのままコンパクトと訳すのが普通に思います。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%91%E3%82%AF%E3%83%88%E7%A9%BA%E9%96%93
直訳すると
「境界のないコンパクト3次元多様体Vを考えよ。Vが3次元球面に同相でないにもかかわらず、Vの基本群が自明であるような事は有り得るだろうか?」
というかんじ。
投稿: odakin | 2010.03.25 15:29
Consider a compact 3-dimensional manifold V 〜 部分の和訳は、
境界を持たないコンパクトな三次元多様体Vを考える。このVが三次元球体と位相同型ではない場合でも、(三次元球体のように)基本群が自明なものになることがあるだろうか。
のようになるのが普通だと思います。
投稿: | 2010.03.25 16:47
odakinさん、匿名さん、ご指摘ありがとうございます。位相幾何学では「compact集合」と熟語になっていることと、trivialも数学用語として「自明」としたほうがよいかと思いました。訳文を訂正しました。
投稿: finalvent | 2010.03.25 16:50
「ユダヤ人における母子関係」の一言で
http://astro.uchicago.edu/%7Erocky/latke_2.pdf
の文章を思い出しました。
latke(とhamentashen)をユダヤ人の教育ママの言葉の力によって加速する加速器(名づけてDelitron)、というネタw
『The latkes and hamentashen will be
accelerated to high velocities driven by a force far more powerful than the
electromagnetic force or the strong nuclear force. I speak of course of the
single strongest force known, the force of guilt. Stationed every few miles
around the circumference of the Delitron will be Jewish mothers, who will
coax the latkes and hamentashen to go faster. “What's the matter, look at
yourself. You call yourself a latke?” “Why the other latkes are going much faster.” “If you don't keep up I'll die of shame.” 』
物理の巨人の殆どがユダヤ人なのはこういう熾烈な教育ママゴンに尻を叩かれて生き残った人々だからなのか!と可笑しかったです。
投稿: odakin | 2010.03.26 13:21