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2010.03.01

[書評]「環境主義」は本当に正しいか? チェコ大統領が温暖化論争に警告する(ヴァーツラフ・クラウス、監修・若田部昌澄、訳者・住友進)

 本書「「環境主義」は本当に正しいか?」のタイトルには「環境主義」とあり、実際に読んでみるとそこに重点が置かれていることは理解できるはずだが、現在世界の課題として見れば、地球温暖化を扱っており、それゆえの白黒を問われるなら、どちらかと言えば、地球温暖化議論に否定的な立場にある。地球温暖化懐疑論として読まれてしまうかもしれない。

cover
「環境主義」は
本当に正しいか?
 しかしそう読むのなら、本書になんども言及があるように、ビョルン・ロンボルグ氏の「環境危機をあおってはいけない」(参照)以上の知見は含まれていないといってよいだろう。それでも著者ヴァーツラフ・クラウス氏は、ロンボルグ氏の比較的古い同書の他に、2007年時点でのロンボルグ氏の見解も当たり、できるだけ最新の情報に接しようとしている。さらに、ロンボルグ氏の師匠筋にあたるジュリアン・サイモン(Julian Lincoln Simon)氏やインドゥル・ゴクラニ(Indur M. Goklany)氏など、欧米では著名な学者への言及もあり、単純に温暖化懐疑論をロンボルグ氏から借りたというものではない。
 今私は「最新の情報」と書いたが、その「最新」は本書が刊行された2007年を指している。今回の日本語訳は2009年の第2版をベースにしたもので、国際的には日本語版は15番目の翻訳になる。この間すでに世界各国で本書は広く読まれており、むしろ日本語訳は遅きに失した感があるほど重要な書籍である。
 なぜ重要なのか。理由は、邦訳の副題にもあるように著者ヴァーツラフ・クラウスが現職チェコ大統領という国家元首であることだ。しかも経済学博士号を持ち、さらにハイエクやフリードマンらと同じくモンペルラン・ソサイエティーに所属する国際的な知識人でもあることだ。
 まさに本書の主張は、1947年、スイスのレマン湖畔ペルラン山で大戦後の自由主義経済の推進を目標とした経済学者らの思想の延長にある。端的に言えば、当時のモンペルラン・ソサイエティーはハイエクが代表的であるように、社会主義経済が人間の自由を奪うことに立ち向かったものが、現在世界において人間の自由を奪っているのは、「環境主義」ではないかという基調を持っている。

今日の環境主義主義者のやり方と、それから生まれた経済的、政治的な動きは、特に開発途上国において、自由と繁栄の両方を攻撃している。そこでは何千万という人々の存続が危機にあるのだ。


 誤解を避けるためにはっきりさせておくが、私には自然科学や化学的エコロジーを批判する意図はさらさらない。環境主義は、実際には、自然科学とはまったく無関係なものだ。

 こうした主張の背景には、すでにロンボルグ氏の見解などでも知られているが、現状の地球温暖化対策を実行しても、温暖化の十数年ほどの遅延にしかならないという経済学的な配慮がある。そうであれば、「環境主義」より、経済学的な思考によってトレードオフを検討したほうがよいだろうということだ。人類が直面している課題には、絶対的貧困、公衆衛生、民族間・イデオロギー間の紛争など山積みの状態であり、有限なリソースをもっと合理的に差異配分しなくてはならない。別の言い方をすれば、本書はその点で地球温暖化懐疑論ではない。
 自由と繁栄を思考する人類のために最善のトレードオフは、地球温暖化問題では、何か? その探求ために、クラウス氏は自身が得意とする経済学的な視点から、第4章で「割引率と時間選好」を論じ、未来の価値を考察する。第5章「費用便益分析か、予防原則の絶対主義か?」はクラウス氏自身が本書の最重要点としている。
 ここが本書の難しいところだ。議論が難しいのではない。議論はある意味で単純極まりない。例えば、農薬規制が例にあげられているが、農薬を規制遵守で使用しても穀物に残留し、その影響を換算すると米国で毎年20人が癌で死ぬことになる。そこで絶対的な予防原則を適用し無農薬にすれば、この生命を救うことができる。だが、その対価として穀物の価格は上がり消費量は10%から15%下落し、その影響による疾病で年間2万6000人が死ぬ。残酷だが、20人の生命と2万6000人の生命の選択が問われる。
 しかし、予防原則が絶対なものにされてしまえば、費用便益分析は不可能なり、経済学的な思考はそこで途絶える。ごく当たり前のことであり、それは必ずや愚かなトレードオフの別側面が帰結する。
 難しいのは、少なくとも読者の私にとって難しいのは、予防原則が絶対とされれば議論はただのナンセンスなることは理解できるものの、予測しづらい人類の危機に対する予防原則では、どのように妥当な費用便益分析にかけるべきなのだろうか。その手法がわからないことだ。
 おそらく本書の議論には含まれていなにせよ、人類の存亡が問われるかのような予防原則でも、経済学的な研究は伸展しているだろう。本書はその問いかけの第一歩であり、著者が一国の大統領でもあるように、国家の為政者にその課題が問われている。よりよき人類のあり方への政治プロセスを問ううえで、本書が世界各国で広く読まれているのは理解できる。

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コメント

チェコの公害のひどさというのは、たぶん、旧東ドイツ地域の公害のひどさと似たようなものだと思います。チェコの大統領の発言なら、ここは背景になっていると思います。

「環境主義」というのがどういう思想かわかりませんが、日本の本州の山林に関していえば、9割近くは江戸時代に(熊沢蕃山の思想の指揮下に)再生された人工林で、本当の原生林は、1割近くしかないはずです。「環境主義」をどう定義するかで「主義」も変容すると思います。そういえば、ドイツのシュバルツバルトも人工的に再生された山林のはずです。

理由は何であれ、農業の生産性を低下させるわけには行かないと思います。また、昔みたいに農民を貧しくしてしまったら、社会全体がまた昔みたいに貧困の中に叩き落されてしまうでしょう。

投稿: enneagram | 2010.03.02 08:38

お金と命を秤に懸ければ、どちらが重いのか?という下らない比較から一歩を踏み出す議論。世の人道家はお金を命に換算する数式自体を避けたがるが、それは厳然としてある。この議論をスルーしてはどんな高尚な説も偽善と化すであろうよ。プ

投稿: タマムシ | 2010.03.03 00:14

著者や評者の言う環境主義が科学でないということがどうもわからない。温暖化がCO2のせいだと言っているIPCCは1980年代に結成された新参者で本来の環境主義とは違うと思いますし、それ以前資源の枯渇とか石油がないとかエコロジーとか言っていた時代は環境は多く工学という言葉がついていたように人間居住についての快適性追求の科学的言葉であったはず。グリーンピースが言っているような鯨を殺すな、自然を壊すなという意味合いとは違う。ドイツのグリーンパーティだって近代国家がやたら河川をコンクリート化したから治しているぐらいで、本来の意味性は科学的ではないんでしょうか。確かにコンクリート屋さんには商売の邪魔ですし、銀行屋がやたら利子を取る拡大発展をスローガンにするのをやめろというようにも聞こえますが、もっと怜悧に今我々に何が起こっているか認識した上での論拠を下地に分析できないもんかと思います。

投稿: 反テロリスト | 2010.12.19 19:36

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「『環境主義』は本当に正しいか? チェコ大統領が温暖化論争に警告する」という本を紹介された。finalvent氏の極東ブログでもすでに紹介されているが、そこでは、「ビョルン・ロンボルグ氏の『環境危機をあおってはいけない』以上の知見は含まれていない」と切り捨てられている(^^; ロンボルグ氏はデータをベースに話を展開しているが、こちらはそうではない。どちらかといえば、イデオロギーの世界である。 例えば、「環境主義者の自然に対する態度は、マルクス主義者の経済に対する態度とそっくりだ。なぜなら... [続きを読む]

受信: 2010.03.03 08:39

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