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2010.03.31

四月馬鹿が二日前倒しだったらよかったのに

 今年は四月馬鹿が二日前倒しに来たのだったらよかったのにと思った。亀井静香金融・郵政担当相(国民新党代表)の改革案が3月30日に民主党閣僚懇談会で決まったからだ。
 ネットでよく言う、「日本終了」というギャグが浮かんだ。ツイッターを覗いてみると多少憤慨している人もいるが、東京都の有害図書規制ほどの話題にもなっていないようで、それほどの危機感をもって受け取られてもいない。ああ、終わりの風景の始まりってこんな静かなものかなと落胆したが、憤慨してもどうとなるものでもないだろう。
 私がひどい話だなと思ったのは、菅直人副総理兼財務相や仙谷由人国家戦略担当相が鳩山首相一任したことのほうだ。鳩山首相についてはもう是非も問うまい。お母様に略奪婚の尻ぬぐいをしてしまう人を国の長につけてしまうのはまずかったなというくらいだろうか。しかし、菅氏や仙石氏はもう少し大人だろうと思っていた。あるいは大人過ぎて記憶力もなくなってしまったのかもしれない。政党というものの一貫性も考えられないものなのか。この二人が黙り込めば、騒げる小者もいないだろう。民主党は結果的に政策を議論する能力がゼロになった。
 改革案とやらの内容だが、ゆうちょ銀行の預け入れ限度額を現行の倍の2000万円に引き上げることが着目されている。これで地方銀行はだいぶ整理されるだろう。彼らにしてみれば「万策つきた」(参照)というところだ。
 1000万円以上の預金はペイオフ対象にならないとしても、事実上国家運営の銀行なのだから倒産はありえず、暗黙の保証が付く。地銀のかなう相手ではない。こういうのを英語で"It's unfair. "という。国家がunfairなら普通は国民の大半からの信頼は失うはずだ。そうして社会主義国家の多くは終了したが、アジアのほうでは残った。アジアにある日本も終了しないかもしれないが、終了できない隣国のような国家になるのだろう。
 改革には、かんぽ生命保険の加入限度額を1300万円から2500万円に引き上げることも決まった。2005年の民主党案では簡保は廃止とされていたことを思うと隔世の感があるが、それを言うなら今回の発表をした大塚耕平内閣府副大臣も当時はこう言っていたものだった(参照)。


「官から民へ」の郵政改革の目的を達成するためには、預け入れ限度額を引き下げ、そもそも国民から集めるお金の量を減らしてしまえば、政府にたくさん渡そうと思っても渡せません。


 公社であれ、国有株式会社であれ、そこに集まるお金が増えれば、政府に渡るお金の量も増えざるを得ません。言わば、「官から民へ」の逆、つまり「民から官へ」の万有引力の法則です。
 想像力をたくましくして考えて頂ければ幸いです。引力圏から離脱する時には、強力な力が必要です。強制的に規模を縮小することこそが、「民から官へ」の引力圏から離脱するパワーです。それが、預け入れ限度額の引き下げにほかなりません。
 国有株式会社をつくるという不思議な「民営化」で、あとは「政府出資の特殊会社」の自主性に任せるという万有引力任せの改革では、ますます多くの国民のお金(リンゴの実)が核(政府)に引き付けられます。

 その通りのことがこれから起きるようになるだろう。
 政府保証付きの国有の、ゆうちょ銀行とかんぽ生命に資金が集まれば、国債を買い増すことになる。結果、郵政が昔通りの国債買取の御用機関に戻る。政策投資銀行との融合も法螺話ではなくなる。
 国債金利は金融商品の中で最低利回りだから、利幅を取るには民主党のようにunfairな仕組みを作るしかないが、それでも利幅を取るにはさらに規模を拡大するしかない。規模を拡大すればさらに利幅を求めなくてはならない。
 民間の銀行や民間の投資がこの巨艦に刃向おうと思うなら、邪魔なものとして排除されるだろう。だがこの巨艦は、戦中日本の戦艦大和のようなものだ。いずれ海に沈むことになる。せめてその前に米国から世界貿易機関(WTO)提訴でもあればよいが、またぞろ国粋主義的な鬼畜米英論にもなるくらいなものだろう。
 なぜか今のところ注目されていないようだが、今回の法案では、郵政グループ内での取引にかかる消費税の免除も盛り込まれているままだ。菅副総理兼財務相が当初は懸念していたものだ。これもつまり、国家が率先して、国税のunfairを実行しようというのである。税をなんと心得ているのかと思うが、そういえば鳩山首相の税の意識を思えば、緩みきって当然なのだろう。
 とはいえ、当面はむしろこれで民主党も食いつなぐだろう。後の千金のことである。参院選も郵政関係の100万票は固めた。民主党はむしろ安定したのである。
 ウォールストリート・ジャーナルのジェイムズ・シムズ(James Simms)氏コラム「日本の郵政改革の後退」(参照邦訳参照英文)はこう言っていた。

Naturally, the changes will help ease Tokyo's financing concerns.

今回の変更で政府の金融面での不安は緩和される。


 しかし、これには戦艦大和の運命のように限定が付く。

That is until Japan's growing ranks of retirees begin to cash in those insurance policies and draw down their savings.

しかし、これも増大する定年世代が保険を現金化し、貯蓄を取り崩し始めるまでだ。


 亀井静香金融・郵政担当相はもとより鳩山首相もその日を見ることはないだろう。菅直人副総理兼財務相や仙谷由人国家戦略担当相も同じだろう。私ですら見ることがないかもしれない。なので私が心配することでもない。大塚耕平内閣府副大臣はその日を見ることがあるだろうが、そのときはまたころっと意見を変えていることだろう。心配はいらない。
 ジェイムズ・シムズ氏のコラムはこう締められている。

Make no mistake, Japan will eventually have its pound-of-flesh moment.

日本は間違いなく、最終的に致命的な代償を求められる瞬間を迎えることになる。


 邦訳は意訳である。"pound-of-flesh"というのは、「1ポンドの肉」ということである。なぜ、「1ポンドの肉」なのか、シェークスピアに馴染まない国では理解しづらい。理解しても、どうしようもないのかもしれないが(参照)。

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2010.03.30

中国毒入り餃子、ジクロルボスはどうなったか?

 中国毒入り餃子事件の容疑者が逮捕されたという話が27日、公式な外交ルートを通して日本の外務省に入った。北京の日本大使館の公使が中国政府に呼ばれ、容疑者拘束について説明を受けたとのことだ(参照)。翌日28日、中国公安省当局者は、共同通信など日本メディアと会見し、呂月庭容疑者(36)が2007年夏に、有機リン系殺虫剤「メタミドホス」を盗み、冷凍保存庫で三回注入したと供述していることを公表した(参照)。
 今後さらに事態の解明が進むのかもしれないが、現状では中国側の説明は辻褄が合わない。28日付け毎日新聞記事「中国毒ギョーザ:公安当局の説明になお疑問も」(参照)も疑問点を三点列挙していた。


毒入りギョーザ事件を巡り28日行われた中国公安当局の説明にはなお疑問も残っている。
▽犯行には極細注射針を使ったとの証言もあるが、これはどうなったのか
▽日本で検出されたメタミドホス以外の殺虫剤はどう混入したのか
▽複数犯行説がなぜ否定されたのか

--について明確な説明はなかった。

 極細注射針については奇っ怪で、現状の調査では、今回の注入に利用されたのは、0.2ミリ以下の特殊な極細注射針だが、中国の医療用注射針は直径0.25ミリ以上なので、どこからそのような器具が入手できたのだろうか。
 複数犯行説については、逆に呂容疑者単独犯かどうかに関わってくるが、これはようするに事件の真相にも関連してくる。現状では、後で述べるジクロルボスの関係からすると単独犯説は疑わしい。読売新聞記事「警察庁困惑「検証しようがない」…毒ギョーザ」(参照)。でも、「ところが、08年2月に、福島県内の店舗で同じ有機リン系殺虫剤ジクロルボスが検出された天洋食品製のギョーザは、前年の07年6月に製造されており、一連の薬物混入を、呂容疑者の「単独犯」とする中国公安省の見解では説明がつかない」としている。
 気になるのは、メタミドホス以外の殺虫剤、特にジクロルボスの問題である。今回の中国側の発表では現状ジクロルボスについての情報が含まれていない。呂容疑者の犯行だが、毎日新聞記事「中国製ギョーザ中毒:「殺虫剤を3回混入」「診療所廃棄の針で」 公安省が経緯説明」(参照)では以下のように三回の時期としている。

 杜局長によると、呂容疑者は93年から工場の食堂管理人として勤務。07年7~8月、工場衛生班からメタミドホスを盗み、工場診療所から廃棄された注射器数本を入手。同年10月1日と10月下旬、12月下旬の3回、冷凍庫内に忍び込み、注射器でメタミドホスを混入し、注射器を工場内の下水道に捨てた疑いがある。

 ジクロルボスの注入だが、2008年2月8日付け読売新聞記事「天洋製ギョーザ中毒 殺虫剤入りは土日・祝日製造 「単独行動、難しいが…」」では次のように報道されていた。メタミドホス注入の時期については呂容疑者の供述に対応するが、ジクロルボスについては時期が対応しない。

 今回の中毒事件では、昨年6月3日製造の「CO・OP手作り餃子(ギョーザ)」からジクロルボスが、10月20日製造の同商品と、10月1日製造の「中華deごちそう ひとくち餃子」からメタミドホスが検出されている。10月1日は中国の国慶節(建国記念日)で、10月20日と6月3日も土日にあたる。輸入仲介商社「双日食料」(東京)によると、工場は土日祝日でも受注量に応じて従業員が出勤しているという。

 呂容疑者が同年6月にジクロルボスも注入したという話にこれから中国側も慌てて展開していくのかもしれないが、ジクロルボスについては別件の毒入りインゲンにも関係している。同年10月18日読売新聞記事「殺虫剤検出のインゲン袋に1ミリの穴 梱包後から納入まで密封」より。

 ◆ジクロルボス検出 
 中国産冷凍インゲンから高濃度の有機リン系殺虫剤「ジクロルボス」が検出された問題で、問題の商品の包装袋に約1ミリの穴が開いていたことが17日、警視庁の調べで分かった。この商品は、中国・山東省で段ボール箱に梱包(こんぽう)された後、東京・八王子市のスーパーに納入されるまでは密封状態だったことから、同庁では中国での梱包前か、段ボールがスーパーで開封された後に、人為的に混入された疑いが強まったとみて捜査を進めている。
 ■捜査 
 同庁幹部によると、穴は肉眼では気づかない程度の大きさで、購入した主婦が調理のためはさみで切り離した袋の左下部分で見つかった。近くには、温度差で袋が膨張した場合に中の空気を逃がす数ミリの通気孔もあったが、この通気孔とは異なる形状だった。人為的に開けられたかどうかは不明という。
 同庁では検出されたジクロルボスが極めて高濃度だったことから、中国で洗浄・加熱処理する前の混入はあり得ないと判断。国内で混入された可能性も想定、スーパーの防犯カメラの解析を進めている。
 ■製造・流通 
 輸入元の冷凍食品大手「ニチレイフーズ」(中央区)によると、インゲンは昨年夏、中国・黒竜江省の農場で収穫された。同省の「北緑食品」が工場で洗浄し、大量の熱湯に湯通しした後に冷凍したという。
 インゲンは昨年10月、約2000キロ離れた山東省の煙台北海食品に運ばれ、倉庫に保管された。250グラムずつに手作業で袋詰めされたのは今年7月。20袋単位で段ボール箱に梱包、同19日に船便で日本に輸出された。
 段ボール箱は、八王子市のイトーヨーカドー南大沢店で主婦が購入した11日に初めて開封されたという。

 断定はされていないが、こちらも注射器によるジクロルボス注入である可能性は高いだろう。
 この毒入りインゲンと毒入り餃子に関係はないのだろうか。場所は異なるが時期的にも近い。
 現状では、こうした話から、中国側の説明とは異なるストーリーを想定するには情報が足りない。
 いずれにせよ、これらは、国際的な基準で制度的に対応すべき、いわゆる食品安全の問題というより、日本でもかつてあった青酸コーラ無差別殺人事件に近いタイプの犯罪だろう。つまり、中国製食品の安全性一般の問題とは切り分けて考えたほうがよいだろう。

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2010.03.29

トルコが脱世俗国家へと変貌しつつあるようだ

 国内報道がまったくないわけでもないが、多数の死者が出たり政変が起きたりということでもないため、それほど注目されないにも関わらず、現代世界を考える上で意外と重要な事件として、このブログで書き落としていたのが、2月のトルコの出来事だった。このブログでは折に触れてトルコ情勢に言及してきたが、やや予想外とも言える今回の帰結については言及しておこうと思いつつ失念していた。
 事件は2月22日、トルコ警察が、2003年のクーデター計画に関与したとして元司令官を含む軍幹部を50人以上突然拘束したことだ。背景には、イスラム政党「公正発展党(AKP)」と世俗派との対立激化がある。トルコは建国の父アタチュルクによって政教分離の世俗国家として成立し、軍は彼の伝統を引く世俗改革の筆頭となってきた。
 今回の拘束にまつわるクーデター計画だが、2003年のことでもあり、AKPが仕掛けた政争と見る向きもある。2月25日にはエルドアン首相と軍トップのバシュブ軍参謀総長が会談し、軍としてはクーデター計画を全面否定した。
 今回の事件で、従来穏健イスラム政党と見られていたAKPも、かなり強行な手段に出たという印象もある。が、2007年に政権についてからこれまですでに、別クーデター容疑で軍人や知識人を200人以上も拘束しているので、まったく突然の事態とも言い難い。私としては、むしろ軍が対抗的に暴発しなかったことのほうがやや意外でもあった。同時に、トルコは変わったのだという思いを深くした。
 AKPが変貌した内実には、長年にわたるイスラム国家志向の政治指導者フェトフッラー・ギュレン氏の活動の成果がある。検察はトルコにおいては従来は軍同様世俗派の牙城でもあったが、ギュレン氏の同調者も増えているようだ(参照)。
 この変化が意味することは、トルコが従来のような、西側諸国に親和的な世俗国家からよりイスラム色の強い民族国家に変貌する可能性が高まることだろう。もっとわかりやすく言えば、トルコの欧州連合(EU)加盟はもうなくなっただろう。つまり、死刑廃止などを含めEU加盟のための国内整備は頓挫するだろう。「アルメニア人虐殺から90年: 極東ブログ」(参照)で言及したアルメニア虐殺についても、従来のような融和の模索は変わっていくかもしれない。
 その兆候もある。最近の出来事としては、17日に予定されていたエルドアン首相のスウェーデン訪問も、スウェーデン議会がアルメニア人虐殺を決議したことの抗議としてキャンセルされた。その前の4日には、米下院外交委員会が同種の決議を採択し、反発したトルコは駐米大使を召還している。
 トルコの変化は米国に対しては、反米色を強めていくだろう。湾岸戦争でも米軍に結果的に友好であったトルコ軍の方針も変わっていくだろう。北大西洋条約機構(NATO)については、AKPは方針に変更はないと言明しているが、やはり変化は出てくるのではないか。米国としても、この事態に及んだことを理解し、米下院本会議ではアルメニア人虐殺の決議採決を放棄した。
 AKPの変化は、トルコ内政の大きな民族問題であるクルド人問題にも難しい影を落としている。AKPはクルド人については開放政策を採ってきたが、これが裏目に出たというべきか、トルコからの独立を目指すクルド労働者党(PKK)を活気付け、トルコ国民の多くから嫌悪を招きつつある。加えて、従来はEU加盟の御旗で少数民族への対応もしてきたが、その要請も消えてきている。
 現下トルコでは、AKPは司法の世俗派の勢力を削ぐために憲法改正を目指している。23日共同「トルコ政府、改憲案を発表 政権基盤の強化狙う」(参照)より。


2003年の政府転覆計画をめぐり政府と軍の緊張が高まっているトルコのエルドアン政権は22日、政党解党手続きの厳格化、国家に対する犯罪に関与した場合には軍士官も一般法廷で裁くことを可能にすることなど政権基盤の強化を狙ったとみられる22項目の見直しを含んだ憲法改正案を発表した。AP通信などが伝えた。

 現状のAKPは憲法改正に必要な国会定数の三分の二を確保していないので、国民投票に持ち込まれることになる。結果がどうなるかはわからないが、おそらく民主主義的な手続きで、非世俗的国家への道をさらに歩み出すのではないだろうか。

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2010.03.28

米国核態勢見直し(NPR)報告書にたいした変化はないだろう

 今朝の朝日新聞社説「米ロ核軍縮―「プラハ構想」を動かせ」(参照)と毎日新聞社説「社説:米露新条約 核兵器全廃への弾みに」(参照)を読んで少しだが変な感じがした。話題によってこの二紙が示し合わせたような論調を取ることは不思議でもない。変だなと思ったのは、この議論をするなら欠かせるはずもない米国核態勢見直し(NPR: Nuclear Posture Review)報告書に両社説がまったく言及していないことだった。
 両社説は米国オバマ大統領に核廃絶を期待しているという内容なのだから、その具体的な見通しとなるNPRにまったく言及しないのはなぜだろうか。例えば、New York Times記事「White House Is Rethinking Nuclear Policy」(参照)のような視点から書くことは難しくはないだろうし、「憂慮する科学者同盟」報告書の趣旨に沿ったような主張もできそうなものだ。24日付け時事「日本核武装論「根拠なし」=先制不使用の宣言を-米民間団体」(参照)より。


核廃絶や地球環境などの分野で政策提言を行う米国の民間非営利団体「憂慮する科学者同盟」は23日、オバマ政権が近く公表する核戦略指針「核体制の見直し(NPR)」に関し、核攻撃を受けた場合を除き核兵器を使わない「核の先制不使用」宣言を打ち出すよう求める報告書を発表した。先制不使用を宣言すれば日本が米国の核の傘を信頼しなくなり、核武装に走ると恐れる米側の懸念には「根拠がない」と主張、これを理由としている。

 朝日新聞と毎日新聞の両社説がNPRに言及を避けたのは、NPRについて言及するとまずいといった理由もないだろうから、当のNPRがまだ出ていないということではあるのだろう。19日付けしんぶん赤旗「NPR(核態勢見直し)1カ月内に発表」(参照)は、発表が遅れている現状をこう報道していた。

 【ワシントン=小林俊哉】策定が遅れているオバマ米政権の「核態勢見直し(NPR)」報告が、1カ月以内に発表される見通しとなりました。国防総省のミラー筆頭副次官(政策担当)が明らかにしました。NPRは、今後5~10年間の米核戦略の基本となるものです。今月1日が議会への報告期限でした。
 ミラー氏は16日に開かれた米下院軍事委員会の戦略軍小委員会で、NPRには、安全で効果的な核戦力を維持しながら、防衛政策の中で核兵器の役割を低下させる具体的な措置が盛りこまれると主張。提出が遅れている理由について、国防総省側で最終的な調整にもう少し時間がかかると判断したためだと説明しました。

 NPRはどうなるだろうか。
 大した変化はないだろう、とするのは、Slateに寄稿されたフレッド・カプラン(Fred Kaplan)氏のエッセイ「How Important Is Obama's Nuclear Posture Review?」(参照)である。同記事はNewsweek日本版3・24に邦訳もある。
 米国の核戦略に大した変化がないとする主張には、次の4つ理由がある。

First, there is no substantial constituency, in Congress or elsewhere, to build any new U.S. nuclear weapons, nor has there been for decades.

第一には、新核兵器を開発したとしても、実際上、議会でもその他でも、民主主義的な同意は得られない。この数十年間、賛意を得られたことはなかった。


 過去いろいろ懸念されてきた新種の核兵器も、顧みるとそのときおりの話題で終わって変化をもたらすことはなかった。例えば、ブッシュ政権下ではバンカーバスター開発も打ち出されたが、多数派だった共和党で否定されている。

Second, Obama has already said that he wants to slash the nuclear arsenal. There is no rational basis for not slashing it, but whether that happens will not be determined by the conclusions of an executive review.

第二には、オバマはいつも核兵器を削減すると言ってきたし、削減を妨げる合理的な基礎もないが、そのことを決めるは政府報告書ではない。


 オバマ政権の核兵器削減がNPRで表現されていても実効性とは関係ない。今回のNPRの焦点は、朝日新聞と毎日新聞が言及していなかったが、米露の削減数を踏襲するかさらに踏み込んだ形になるかでもある。

Third, whatever Obama says about the circumstances under which he'd use nuclear weapons (for instance, were he to say that he'd never use them first), there is no reason for other world leaders to believe him or to assume that some future president might view the matter differently.

第三に、オバマが核使用の環境について述べても(例えば先制使用はしないとしても)、他国の指導者にしてみれば、彼を信じる理由もないし、将来の米国大統領が意見を変えると想定する理由もない。


 他国がどのように米国の核戦略を評価するかは、NPRとは直接関係がない。今回のNPRで注目されているのは、「憂慮する科学者同盟」報告でもあるように、核の先制不使用の扱いであるが、米国外の視点からすればNPRで明記されても、おそらく核化を狙う国家への影響は少ないだろう。

Fourth, however deeply the United States and Russia cut their nuclear arsenals, the move won't dissuade other nuclear wannabes from pursuing arsenals of their own.

第四に、米露がどれほど核兵器削減をしても、核武装したい国家には説得力を持たないだろう。


 ここが重要で、今朝の朝日新聞と毎日新聞の社説が米露の動向を世界の核兵器削減の文脈に置いているが、冷戦世界の決算の意味合いはあっても、将来の視点で、やはり新興国への影響は少ないだろうと見られる。
 さらに、米国の核削減は核の傘を失った国の核化を促すかもしれない。やや意外というのもなんだが、実はこの議論の文脈で焦点が当てられているのは日本なのである。「憂慮する科学者同盟」報告書からもわかるが、米国の核削減によって日本が核化するのではないかという懸念は日本外では強い。もう少し踏み込んでいえば、中国としては日本の米軍の力が弱まることを望む反面、日本が独自の核化に進む懸念も抱えなくてはならなくなる。
 カプラン氏の結語は、日本のオバマ政権への反核期待とはずれるが、穏当なものだと言えるだろう。

The true value of this Nuclear Posture Review depends, in part, on how President Obama views—and presents—its purpose. If he sees it as a way to build institutional support for drastic arms cuts, it could be very valuable indeed. If he sees it as a first step toward his grander goal of wiping nuclear weapons off the face of the earth, he's going to be sorely disappointed.

NPRの真価は、部分的にであるが、オバマ大統領がそれをどう捉え提示するかにかかっている。大幅な軍縮の道具にするなら、実際上の価値はあるだろう。しかし、この地上から核兵器を廃絶するという彼一流の広大な目的の第一歩とするなら、痛ましいほどに失望することになるだろう。


 医療保険改革での政治手腕を見ていくなら、オバマ大統領は、口先だけで理想を述べ結果が失敗しても努力は評価していただきたいと懇願するようなタイプの政治家とは異なり、現実的に老獪な手腕を取る。浅薄な理想主義者ではないから、実利を得ていくという意味でまさに政治家らしい政治家であり、彼自身はNPRの影響に失望することはないだろう。失望があるとすれば、他の方面かもしれない。

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2010.03.27

郵政改革法案を聞いて、これが民主党なんだろうかと思った

 亀井郵政改革相の話を真に受けるとどうなるか。中小企業向け貸し出しや個人向け住宅ローンのモラトリアムの騒ぎで歴然としている。なので、どうもいいやこんな話という思いと、意外とこのあたりが本丸なんだろうなという薄気味悪い思いもないわけではない。国民がこんな政府を選択し、それでいいというのだから民主主義なんでしかたのないことだが、これが民主党なのかという疑念と、原口総務相も亀井氏に同調していることの不信感の二点が個人的には気になった。
 これが本当に民主党政権なのか? 君子豹変とはいうが、こういうものなんだろうか。24日、郵政改革法最終案を亀井郵政改革相と原口総務相は記者会見で発表した。同日付け読売新聞社記事「郵政改革法最終案、預入限度額は施行時に再検討」(参照)より。


 ゆうちょ銀行への預入限度額は現在の1人当たり1000万円を2000万円に、かんぽ生命保険への加入限度額は1300万円を2500万円にそれぞれ引き上げる。日本郵政と郵便局会社、郵便事業会社を統合した新たな親会社の傘下にゆうちょ銀行とかんぽ生命保険を置く体制となる。親会社に対する政府の出資比率と、金融2社への親会社の出資比率はいずれも3分の1超とする。

 なぜ2000万円なのか。大学卒者の定年退職金の平均金額は2000万円程度なので、団塊世代の退職金を吸い込む算段なのだろう。結果として地方銀行も整理できるメリットもあるかもしれない。
 小泉改革ですでに郵便業務に義務づけられている全国一律サービスは、新法案では貯金と保険の金融事業にも拡大するが、同時に出資比率から当然、金融二社の経営の独自性はなくなる。
 保険業務については、開いた口がふさがらない。かんぽ生命保険は事業を拡大し、がん保険などの第三分野の保険にも参入する。これらの実施には多大な費用が必要になる。預け入れ限度額を大幅に引き上げるのはこの費用捻出のためもある。
 関連して、両氏の19日の記者会見だが、20日付け毎日新聞記事「郵政正社員化:亀井担当相「上限10万人」」(参照)では、郵政の雇用拡大も述べていた。

 亀井静香金融・郵政担当相は19日の閣議後会見で、日本郵政グループに求めている非正規雇用約20万人の正社員化について「10万人が上限ではないか」との見通しを示した。
 10万人の正社員化による人件費増は年2000億~4000億円とされるが、原口一博総務相も同日、「しっかりまかなえる強い経営体質を目指すことを期待する」と支持する意向を示した。

 24日の発表前には、消費税免税の優遇も報道された。23日付け朝日新聞「ゆうちょ銀預け入れ限度、2千万円に 郵政法案概要判明」(参照)より。

 また、日本郵政グループの会社間の委託契約などで生じる年間500億円規模の消費税についても免除する方針。郵便局の金融検査の簡素化も法律に明記し、郵便局長らの負担を軽減する。

 新案の問題点は単純だ。26日付け産経新聞記事「郵政改革3つの問題点 運用難・資金流用・血税投入」(参照)が3点にまとめているとおりだ。

(1)集まった多額の資金をどう運用するのか
(2)無駄な事業に資金が流れ込むことにならないか
(3)消費税の免除で郵政だけをなぜ優遇するのか

 さらに一言でいえば、小泉改革以前というかこれは橋本改革以前と言うべきではないかと思うが、なつかしの昭和の時代に逆行ということで、劣化自民党の名に恥じない政策だが、あれ? これ? 民主党、ですよね。
 私が支持していた民主党はこういう政党ではなかった。どういう政党かというと、民主党のWebサイトに残っている以前の郵政改革法案がわかりやすい。「民主党「郵政改革法案」の提出について」(参照)より。

2.法案の概要
(1)郵便及び郵便貯金については、国の責任で全国的サービスを維持する。2007年10月1日以降の経営形態は、郵便は公社、郵便貯金は公社の100%子会社である郵便貯金会社とする。
(2)2006年度中に郵便貯金の預入限度額を700万円に引き下げる。2007年10月1日以降、郵便貯金については、定額貯金は廃止(新規預入を停止)し、預入限度額を500万円に引き下げる(※1)。旧貯金については郵便貯金会社に特別勘定を設け、公社の委託を受けて管理・運用を行う。
  ※1 預入限度額引き下げ前に預け入れた定額貯金等については、満期到来前まで当初預入額は有効。
(3)2007年10月1日以降、簡易生命保険は廃止する。旧契約については、公社の子会社として保険業法に基づき2つ以上の郵政保険会社を設立し、これらの会社に分割譲渡する(※2)。郵政保険会社は、窓口業務を公社に委託できるものとする。各郵政保険会社の株式は、2012年9月30日までにすべて売却し、完全民営化する
  ※2 実際には、公社と各郵政保険会社の間で再保険契約を締結。
(4)郵政改革とあわせ、特殊法人・独立行政法人等の抜本的改革を進める。公社及び郵便貯金会社、完全民営化までの郵政保険会社による財投債・政府保証債・格付けのない財投機関債の購入を禁止する(※3)。
  ※3 国債と財投債を明確に区別するための措置を講じる。
(5)2007年10月1日以降、公社の役職員は非公務員とする。公社の役職員には、守秘義務、忠実義務等を課す。
(6)天下りを禁止する

 これでいいのではないかと思う。
 小泉郵政改革との差だが、郵便事業と簡保の民営化においては差はなく、郵貯に関してもあまり差はない。民主党案のほうが郵貯を縮小させる効果があるかもしれないが、逆にそれだと郵便事業をどう支えるかという点で、小泉改革案と一長一短というくらいだった。
 民主党の支持者であった私は、なぜ民主党が小泉改革に反対するのか理解できないでいたし、郵政の解体に民主党が反対するなら、小泉改革のほうがはるかにマシだと思って、このときだけはと自民党を支持した。
 しかし今や民主党が、小泉改革の反対勢力の旗頭であった亀井氏のもとに、もっとも古い自民党に変質してしまった。天下りを禁止すると以前は言っていたのに、今では天下りの典型を長に就けている。
 とはいえ、民主党内にも数年前の民主党の政策を忘れてしまえる原口総務相のような人ばかりでもないようだ。忘却力に優れている鳩山首相も、なんだかこれは変だなと思っているふうでもある。
 暗黙の国家保証というのが何を引き起こすか、米国が壮大に実現してくれたのだが、それでも他山の石とならなければ、一つ一つ痛い目をして覚えるしか民主主義の進歩はない。

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2010.03.26

普天間飛行場撤廃失敗の背景にあるもの

 もう少し待って完全に誰の目から見ても、福島社民党党首ですらも明白にわかる事態になってから書いてもいいかとも思ったが、昨年7月のエントリ「民主党の沖縄問題の取り組みは自民党同様の失敗に終わるだろう: 極東ブログ」(参照)で推測したとおり、民主党の沖縄問題の取り組みはもう破綻したので、少し書いておこう。
 推測が若干外れたとすれば、民主党は、普天間飛行場を撤廃し沖縄に返還することを約束していた自民党よりひどいなということだ。もっとも、民主党の場合は辺野古に恒久基地は作らないとも言えるのだが、反面、民主党政権が続けば、現普天間飛行場が事実上恒久米軍基地となるである。なぜそうなるのか、たいした話でもないが触れておいたほうがよいだろう。
 これは簡単な問いなのだ。今日付の日経新聞社説「結局は普天間存続なら深刻な失政だ」(参照)がやや迂遠に述べているが、ようするに、危険極まりない普天間飛行場が撤去されるのか?ということだ。民主党政権の答えは、YESではないNOなのだ。


 米軍普天間基地の移設をめぐり、月末の政府案の決定に向け、様々な案が検討されている。いずれも米側や移設先の合意を得る見通しは立っていない。結局は普天間の継続使用となれば、鳩山由紀夫首相の失政となり、責任は重くのしかかる。
 政府は(1)キャンプ・シュワブ(名護市)陸上部に約600メートルのヘリ離着陸帯(ヘリパッド)を建設する(2)固定翼機などが離着陸可能な滑走路のある県外の島に機能を移転する――とする案を軸に検討中だ。北沢俊美防衛相が26日に沖縄県庁で仲井真弘多知事と会談し、伝える見通しという。
 普天間基地の機能の5割超を県外に移設するのがこの案の狙いのようだ。しかし固定翼機用の基地が県外に見つからない限り、普天間基地は存続するようにみえる

 別の言い方をすれば、「分散移転」(参照)というのが卑劣な詐術だ。米軍基地機能の分散は自民党時代だってやっていたのである。民主党で求められた違いというのは、大田元知事がなんども述べていたように目に見える違いを出すことだった。それは普天間飛行場を撤去することだ。なによりこの問題の原点は普天間飛行場を撤去することが目的だったのだ。
 それが、「普天間基地の機能の5割超を県外に移設する」というのは、五割残るということだ。機能が残るであって五割の面積に縮小されるというのではない。つまり、普天間飛行場は民主党政権下で撤廃されないということだ。民主党政権のおかげで危険な米軍基地が市街地に残るのである。
 そしてこれは恒久化するだろう。いや、五割の機能が減らせたらさらに削減してゼロにしていくこと努力の目的だというだろうか。嘘である。残りの五割の意味を考えればその嘘がわかる。
 理由は現普天間飛行場には有事やそれに近い事態にオスプレイを配備するためだ。この計画はおそらく今日、岡田外務省がルース米国大使と話した核心でもあっただろう。今日付の朝日新聞記事「普天間、県内段階移設案を検討・提示へ 合意困難な情勢」(参照)に若干曖昧だが書かれている。

 岡田克也外相は26日にルース駐日米大使と会談し、同様の検討状況を説明するとみられる。岡田氏は月末に米国を訪問し、ゲーツ国防長官らにも改めて説明する方針だ。
 移設案は、まずシュワブ陸上部に、500メートル四方のヘリポートを建設し、そこに普天間に常駐するヘリコプターを暫定的に移す。ただ、近く配備予定の垂直離着陸輸送機MV22「オスプレイ」の離着陸に支障をきたすため、この段階では、普天間の継続使用も必要になると見られる。
 そのうえで、米軍ホワイト・ビーチのある勝連半島の沖合に人工島を造成し、滑走路や港湾施設を建設する。これには環境影響評価を一からやり直す必要があり、実現には10~15年かかるとみられるため、完成した段階で基地機能を全面的に移す計画だ。
 また、普天間に常駐するヘリコプターの訓練の移転先としては徳之島や九州の自衛隊基地などが候補地に挙がる。

 問題の核心はオスプレイの配備なのである。朝日新聞は規定事項のようにさらりと書いているが、これは今月になってから防衛筋からだだ漏れしてきたことで、政府は明確な説明もしていない。このことは、毎日新聞「在日米軍再編:普天間移設 アセスのやり直しも 防衛相ら「オスプレイ配備」」(参照)でも指摘されていた。

 米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の移設問題で、政府内に浮上しているキャンプ・シュワブ(同県名護市)陸上部への移設案を巡り1日、米海兵隊ヘリの後継機となる垂直離着陸機MV22オスプレイの配備に言及する発言が防衛省幹部から相次いだ。同機配備は現行計画に明示されておらず、現在進められている環境影響評価(アセスメント)のやり直しにつながる可能性もあり、新たな難題を抱えたと言えそうだ。

 オスプレイ配備が在沖米軍どのような意味を持つかという計画が実は、普天間飛行場移転問題の背景にあり、それらが詳細をコントロールしていた。オフィシャルな議論がなくだだ漏れ先行なので北沢防衛相もぼけを演じているが、ただのぼけなら日本の安全保障上の危機だろう。

 陸上案の滑走路の長さを巡っては、首相官邸内では500メートル前後が、防衛省内では1500メートル前後が検討されている。北沢俊美防衛相は1日の衆院予算委員会分科会で「滑走路が500メートルや1500メートルという議論は将来的なオスプレイ配備が念頭にあっての議論かなと推測する」と述べた。

 長島防衛政務官や前原国土交通相にも自明のことであった。

 長島昭久防衛政務官は同日、東京都内の会合で「オスプレイは12年10月から24機、沖縄に随時導入されることになっている」と明言。その上で「現行案と決めてもオスプレイの話が一切入っていない」と指摘し、アセスをやり直す必要性があると言及した。
 官邸内で検討される500メートル案は県外への訓練移転などがセットだが、防衛省幹部は「オスプレイを使う場合500メートルでは短い」と指摘。前原誠司国土交通相も2月26日の記者会見で「滑走路は1300メートルから1500メートルくらいはいる」としており、オスプレイの配備に関して米側との調整が難航することも予想される。

 普天間飛行場機能移転という詐術をオスプレイ用1500メートル滑走路という観点から整理すれば、シュワブ陸上に設置する新滑走路は直接この問題には関連はない。普天間飛行場から平時のオスプレイを隠蔽するためと、民主党主席とも言えそうな小沢幹事長も言明した沖縄県外移転という御旗のために、とりあえず県外にオスプレイ用練習場を作る必要はある。そして朝日新聞記事にあるように、将来的にもし可能なら、じんわりとホワイトビーチ沖に持ってきたいという希望なのだろう。それが実現したとして、辺野古がホワイトビーチになるくらいの差しかない。その差にどれほどの意味があるというのだろう。

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2010.03.25

[書評]完全なる証明(マーシャ・ガッセン)

 ニュースを聞いて、奇異に思った人もいるのではないか。なぜ今になって? ようやく証明が認められたからか?

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完全なる証明
マーシャ・ガッセン
青木薫訳
 18日、米国のクレイ数学研究所(CMI: Clay Mathematics Institute)が、数学の難問中の難問とされてきた「ポアンカレ予想」を解決したロシアの数学者グレゴリー・ペレルマン(Grigory Yakovlevich Perelman)氏(43)に、その証明を認定し、難問証明に約束されていた100万ドルの賞金を贈ることを決めた、と報道された。
 ポアンカレ予想(Poincaré conjecture)は、フランスの数学者アンリ・ポアンカレ(Jules-Henri Poincaré:1854-1912)が1904年に提示した位相幾何学についての未証明の予想であった。こうまとめられている(参照)。

境界を持たないコンパクトな三次元多様体であるVを想定してみよう。このVは、三次元球体と位相幾何学的に同型ではないにもかかわらず、Vの基本群が自明となることがあるだろうか。

Consider a compact 3-dimensional manifold V without boundary. Is it possible that the fundamental group of V could be trivial, even though V is not homeomorphic to the 3-dimensional sphere?


 なかなか意味が取りづらい。理由は、数学的な用語によるというより、三次元多様体が四次元の立体を意味していて、人間はそれを想像しづらいからだ。想像するためには次元を落とし、三次元の立体で比喩してみたくなる。そこで球体やドーナツといった形を想定し、「位相幾何学的に同型」という概念を考える。これなら、その立体に一輪のひもを掛け、それを狭めたとき、するっと抜けるかどうかで判定できる。ボールだとするっと抜ける。ドーナツだと中の穴とドーナツ本体がくくられてしまって、ひもは抜けない。
 この比喩で宇宙に紐付きのロケットを飛ばすという比喩でよく説明される。NHK「100年の難問はなぜ解けたのか~天才数学者 失踪の謎~」(参照)でもこの説明が使われた。が、この比喩が次なる誤解をもたらす。本書ではこう言及されている。

 本書のこの部分を書くためのリサーチを手伝ってくれた若い数学者は、私がトポロジーの基礎概念を相手に悪戦苦闘している様子を見ていたわけだが、「ポアンカレ予想は、宇宙の形に関する予想である」という文章に出くわすたびに顔をしかめた。彼がしぶい顔をするのも無理はない。世間ではよく、ポアンカレ予想と宇宙の形を結びつけて語られるが、実のところ、この両者にはあまり関係がないからだ。実際、グリゴーリー・ペレルマンが取り組んだのは、宇宙の形はどうなっているか、などという問題ではなかった。

 ではどういう問題か。
 先に述べたとおり(だろう)だが、ようするに、幾何学というものは、本書でも触れているし、ブルバキの数学史でもそうだが、ユークリッド幾何学の第五公準から、ボヤイ親子、リーマンやロバチェフスキーなどを介して、人類知の自然的な展開として、位相幾何学に発展せざるを得ず、そしてそこで当然に重要となる同型の概念が導く、簡素な疑問はポアンカレ予想に結びつかざるを得なかったということだろう。私はそう理解している。
 それが位相幾何学においてあまりに簡素に提示されていながら、まったく歯が立たないということがこの問題の魅惑でもあっただろう。その意味では、代数的に提示された「フェルマーの最終定理」と似たようなものであったと言えるはずだ。
 本書は邦訳の帯に「世紀の難問「ポアンカレ予想」を証明したロシアの数学者ペレルマン 天才数学者はなぜ森へ消えたのか」と当然ながら「ポアンカレ予想」が強く打ち出されているし、実際9章ではその解説もなされているが、本書は「ポアンカレ予想」を解説したという趣向の書籍ではない。また、幾何学に魅せられたペレルマン氏がこの問題に取り組んだ過程についても明確には描かれていないが、「ポアンカレ予想」という難問が幾何学の必然的な問いかけであれば、数学に全身全霊を捧げた氏が解かざるをえなかったという物語としては、出色の仕上がりとも言える。勇み足な言い方をすれば、神の問いかけにロシアの聖者がどう答えるかという一つの暗喩ともなっている。「カラマーゾフの兄弟」に登場する群像とも重なるだろう。
 このこととは英書のタイトルと邦訳のタイトルの微妙な差にもなっている。邦訳では「完全なる証明」であるが、英書では「Perfect Rigor」(参照)である。私の英語の語感からすると、Rigorより、rigorous(厳密な)という語がなじみ深い。おそらく普通の欧米人でもそうではないだろうか。the rigorous methods of science(科学の厳正なる方法論)といった類の語用が普通だろう。当然、Rigorにはrigorousの語感が反映されるのだが、であれば、書名は、rigorous proofとなっても良さそうだし、これにperfectを混ぜてもよさそうに思う。だがそう連想して、Rigorの苦難の意味合いが初めて出てくる。ボナパルトもアドルフも屈したロシアのrigor of winterである。そしてこれにはRigor=苦難への嗜癖すら感じられるロシア性もある。さらに、dead rigor(死後硬直)を連想したとき、本書のタイトルの意味合いがすっきりと開示される。つまり、本書は「完全なる証明」の物語ではなく、「完全なる硬直」の物語なのだ。ペレルマン氏が世間に対して完全なる硬直を示したのはなぜかを問うているのである。
 本書の本質はロシア性なるものだけではない。端的に言えば、ロシアのユダヤ人という問題がある。ロシアのユダヤ人という静謐な存在が世界を揺るがす問題を苦もなく引き起こすという、ある種驚愕の史実に現代世界が向き合わされてしまうということだ。その意味では、グーグルを創業したセルゲイ・ブリン氏(Sergey Mikhailovich Brin)ともある種同型であるし、年代が古いがノーム・チョムスキー氏(Avram Noam Chomsky)やその師のゼリグ・ハリス氏(Zellig Sabbetai Harris)にも通じる問題でもある。その部分については、ペレルマン氏を育てた歴史の物語と照応するだろう。そして、その部分が本書でもっとも面白いところだ。が、英書と比較してはいないが、英書ではその部分がまさに省略されているとのことでやや不可解な印象も残す。
 本書は同環境で育ち、米露の言語を駆使でき、さらにユダヤ人であるガッセン氏でなければ書けなかった作品でもあり、そのことはペレルマン氏の本質に独自の肉薄を許している。それでも、ああ、これはわかっていてあえて書いてないのではないかと思われるのは、ユダヤ人における母子関係だ。あるいはかなり書き込まれているので、これだけでわかる人にはわかるでしょうということかもしれない。
 またペレルマン氏と同年でありほぼ同じ環境に育った著者ガッセン氏だからこそ、本書はソ連崩壊を巡る特有の歴史としても語られる。この部分は、西側にいた私たちにとってもある年代上には独自な感興をもたらす。私も大学で同じ講義を取っていたソ連の留学生のことを少し思い出していた。
 エントリ冒頭のニュースの話に戻る。なぜ今頃? 本書を読めば、問題の本質が証明の正当性でもなく、また賞金でもなく、おそらくペレルマン氏の特異な性向によるといったものではなく、単純にクレイ賞だからということがわかる。ペレルマン氏は自己の証明に完全な自信を持っていた。そしておそらくその教師的な経歴や、証明後の米国での活動でもそうだが、熱心に説明しつつ、その証明を人類が理解するのに数年かかるとも想定していただろう。インターネットにさらりと公開したのも、本書が説明しているように、そのほうが人類が証明をトレースしやすいだろういう配慮と考えたほうが納得がいく。
 だが、この間に、これも本書で詳しく述べられているあまりに世俗的な醜い出来事が起きた。フィールズ賞に至っては侮辱といってもよいものだった。いろいろ紆余曲折はあったが、ごく普通にようやくクレイ賞に結びついたし、それはペレルマン氏が当初から想定していた帰結でもあっただろう、というのが今回のニュースの重要性だろう。しいていうなら、賞金はニュース的に世俗的な話題に過ぎるものだろう。
 余談だが、本書で私は若い頃直になんどかお話を伺ったことがある懐かしい二人の名前を見つけた。

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2010.03.24

[書評]テルマエ・ロマエ Ⅰ(ヤマザキマリ)

 今さらなという感じもしないでもないし、今見たらアマゾンで品切れだった。すごい人気である。「テルマエ・ロマエ Ⅰ(ヤマザキマリ) 」(参照)。面白いんだものね。というわけで、面白いギャグ漫画について面白いという以上を語るとろくなことにはならないが、無粋なブログなんで無粋な話でも。
 私がこのマンガを知ったのは、日経新聞のコラム春秋だった。3月15日のコラムにこうあった。


 古代ローマの建築技師が時空のトンネルを抜け、現代の日本と行ったり来たり。昨年末に出版され漫画好きの注目を集めている作品の筋立てだ。画期的なのは主人公を浴場専門の設計家にした点。日本側の出入り口も風呂に限っている。

 面白そうな漫画だなと思った。しかし、まったく思い当たらない。周りに漫画を読む人も減ってきている。
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テルマエ・ロマエ I
ヤマザキマリ
 いつごろからか漫画をほとんど読まなくなった。10年くらい前だろうか。15年くらい前か。惰性で読んでいたスピリッツが読んでいて苦痛になってきたし、沖縄の僻地では週刊漫画の販売が遅いし、買いづらかった。奈緒子というランナーの漫画は終わったのだろうか、月下の棋士という石井隆タッチの漫画は終わったのだろうか。知らない。星里もちるは何書いているんだろうか。マック使ってるんだろうか。知らない。知ってもろくなことがないかもしれない。先日、美味しんぼが終わってないことを知って愕然とした。私が終わりを知らない漫画もどっかで連載しているのかもしれない。そういえば、巨人の星って本当に終わったのだろうか。そういえば真樹日佐夫のワルって終わったんだろうか。以前、これが最終巻だというのを買ってすごく後悔したことがある。話が逸れたな。
 春秋のコラムにはその漫画の書名がなかった。書名くらい書けばいいのにと思ったので、教えてネットじゃないが誰か教えてくれないかなと思っていたら、教えてもらった。本書である。その場でアマゾンでポチッとしたらその日に届いた。ので、読んだ。面白かった。春秋に書名がなかったのは、逆にそれを狙ったヴァイラル・マーケティングでもあったのだろう。まんまと引っかかったわけだが、面白かったからよいよ。


アマゾンの書籍ページより

 その直後、マンガ大賞2010の大賞受賞したと聞いた。そして関連のニュースで作者が女性で、旦那さんがイタリア人だとも知った。産経新聞記事「【マンガ大賞授賞式】「テルマエ・ロマエ」のヤマザキマリさん 「主人公は夫のイメージ大きい」 」(参照)より。


 イタリア人の夫は大の「ローマおたく」であることを明かすと、「主人はイタリア人にしては珍しく硬派で融通のきかない性格で、漫画のキャラにしたらおかしいだろうなあと常々思っていた。(主人公は)主人のイメージが大きく、若干私の理想を加えながら描いています」とはにかんだ。

 なるほどね。だろうな。
 私が本書で一連爆笑したあと、しんみりと考え込んだというか、ある種奇妙な感動をしたのは、第5話である。ハドリアヌス皇帝がエルサレムに赴き、バル・コクバの乱に向かうところを描いているところだ。物語には「紀元134年ローマ帝国属州ユダヤ」「バル・コクバ反乱対策司令本部」とある。まさに、乱の終結の時期であり、ユダヤ教最大のラビ・アキバの最期が私などには想起させられる悲痛な物語である、は・ず・な・の・だ・が、何、この漫画。
 ローマ兵が求めていたものは風呂?
 エルサレムのオンドルでみんな元気になってユダヤ滅亡。んな話描いちゃっていいのか。いや、それこそギャグ漫画というものだろう。ギャグ漫画のもつ本当の戦慄がここにある、ってか、英訳することがあれば多少は各方面に配慮したほうがよいと思うが。
 作者もそれがわかってないわけもない。ハドリアヌスに「貿易と文明の交差路であるこの土地がローマ帝国にとっていかに大切なものなのか。それを示す為に新たな街「アエリア・カピトリナ」を建設しようとしたのに」と語らせている。その壮大なギャグに気がつく人が平たい顔族の読者にどのくらいいるだろうかとも思った。そして、それがギャグなんだよ、みんな裸で風呂に入ろうぜ、となれば、今のその地に新しく、神のシャロームを迎えるかもしれないと、私は夢想した。とはいえ、イスラムでは男の裸体も「[書評]イスラムの怒り(内藤正典): 極東ブログ」(参照)のような話もあるが、それでもローマの風呂はハマムに継がれている。

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2010.03.22

フォーサイトの4月号からWeb版へ

 フォーサイトの4月号が届いた。昨年12月16日、同誌が休刊になるというアナウンスされ、ブログの世界でも多少話題になった(参照)。私はというと、奇妙な感じがしていた。嘘だとは到底思いもしないが、実際に休刊になる最後の号というのをこの手にしてみるまで、どこかしら信じられない気持ちがしていた。それがここにある。

 表紙には創刊20周年記念号「これからの20年」とあり、創刊号からの表紙がサムネールとして並べられている。いつだったか、月刊アスキーでもこうした表紙を見たことがある。私は同誌のほうは創刊以来の読者でもあった。
 20年という年月は、今20代の人にとってはぴんと来ないだろう。20年前は物心付く程度でおそらく他者から語られる「歴史」というものに違いない。30代の人ですらそうかもしれない。私は50代になっちまったので20年前はついこないだという感じもする。1990年、そうたいした昔でもないな(村上春樹風)。しかし、昔は昔だった。そこには今からだと歴史というラベルを付けないことには、うまく理解できない別の世界があった。
 フォーサイト創刊から事実上巻末エッセイ「クオ・ヴァデス」を書かれていた徳岡孝夫氏はこう語っている(余談だが氏は「諸君」巻頭コラム「紳士と淑女」の執筆者でもあった)。


 ラテン語で「きみはどこへいくのか」を指すクオ・ヴァデスを通しタイトルにして、私は「説く」より、もっぱら「問う」ことを心がけたつもりである。これは吾ながら賢明だったと思う。なぜなら本誌創刊のころ、米ソ対立の冷戦構造は永遠に続くと思われていた。北京の天安門広場は永久に静寂が支配するものと信じられていた。世界の時々の現象をあたかも不動のもののように受け入れて論を立てることがいかに無益か、この二例を見れば判る。

 私流の正確さを問うなら「Quo vadis, Domine」であろう。そして私はあの時代、ソ連の崩壊を確信していたし、中国の動乱も予感していた。しかし、若さゆえの特異な直感のようなもので、世の中がそういうふうであったわけではない。そういう時代が20年前だった。ロッカビー事件の余波も残りリビアは今のイランのように非難されていた。ブッシュ政権下になってようやくリビアも変化したが、あたかもあの時代のことはみんな忘れてしまったかのようだったし、それがブッシュ政権下の外交成果であることももう忘れてしまったかのようだった。
 同号では塩野七生氏にこれからの20年後を問うインタビューもある。

---これからの二十年を生きていく一人ひとりの日本人は、何に備え、何を大事にしていくべきとお考えでしょうか。ぜひお聞かせください。
塩野 私自身ならば二十年後は確実に死んでいるのに、二十年後はどうなるかなんて無責任なことは言えません。また、若くもないのに若い人に向かって、どう生きよ、なんて言えない。私が若かった頃に、大人たちのもっともらしい意見が大嫌いでした。

 そう語る塩野氏の若いころの思いを私は知っている。「Voice平成4年特別増刊号」で、氏が山本七平氏との思い出のなかでこう書かれていた。

 十年ほど前の話だったと思うが、ある出版社が先生と私に話させてそれで一冊作る、という計画を立てたことがある。テーマはもちろん、地中海世界の歴史。
 私はそれを、次のように言って断った。
「とてもじゃないけど、今の私は山本七平のテキではありません。学識でかなわない」
そうしたら、編集者はこう言った。
「じゃあ、いつならテキになれますかね」
「ルネサンスを全部終わって、その後でローマ史に入って、そのローマ史も終わりに近い頃まで書いた後なら、はじめてテキになれるかもしれません」
「それはいつ頃ですか」
「今から二十年後」

 その「今から二十年後」も過ぎた。ローマ史も完結させた。が、地中海のどこかで対談しましょう、いや、コンスタンチノープルで、と仮約束した山本七平氏は、もうこの世にはいなかった。二十年とはそういう年月でもある。死者と存分に語れるための時間でもある。
 最終となる同号は、こういう言い方も変だが、いつも号と同じようにきちんとしたテンションが維持されていた。藤田洋毅氏の中国内政分析は興味深かった。池内恵氏の中東世界と日本への指摘は思わず膝を叩いた。高橋洋一氏の寄稿は民主党政権下の宿痾を端的に描き出していた。他も読み応えのある記事に満ちていていた。これだけ張りのある雑誌が休刊してしまうことというのがありうるのだろうか。私は本号を手にするまで休刊が信じられないと書いたが、手にしたらなお信じがたく思った。
 幸い、フォーサイトはWeb版としてこの夏から再出発するとのことだ(参照)。いわば電子出版の先駆ともなるのだろう。詳細はまだわからない。個人的には雑誌は手に取ることのできる雑誌であってほしいと思うが、Web版から新しい書籍が生まれてそれを手にすることができるのも悪くはないように思う。

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2010.03.21

イラクはサウジアラビアに匹敵するフリーハンドの産油国になる

 どうまとめてよいか今ひとつ判然とはしない点もあるが、このあたりで言及しておいたほうがよさそうなのがイラクの石油問題である。いや「問題」とまで言えるかどうかも微妙だが、潜在的には大きな問題を抱えている。
 話の切り出しとしては今日付の毎日新聞記事「イラク戦争:開戦7年 「宗派和解」望む国民 穏健派アラウィ氏に期待」(参照)がわかりやすいかもしれない。イラクが抱えている問題をざっくりと2つに分けている。


 イラク戦争開戦から20日で7年。戦争は多くの課題をイラクに残した。一つはフセイン独裁で抑えられていた宗派の対立が戦後に噴出。これをどう和解に結びつけるかだ。また、イラク復興のカギになる原油増産をどう国際社会と調和させるかも大きな問題として浮上しそうだ。連邦議会選と石油輸出国機構(OPEC)との関係から課題の行方を探った。

 イラクが抱える問題の一つは政治的なものだ。国内の対立と民主主義の発展をどのようにすべきか。私はこの問題は基本的には自然に収束していくのではないかとどちらかと言えば楽観視している(そのことがもたらす未来がイラク戦争の意味を変える可能性もあるかもしれない)。しかし注目したいのはもう一つのほうだ。「原油増産をどう国際社会と調和させるか」である。なぜそれが問題なのか。

 イラクが油田開発を外資に開放し、サウジアラビアの生産量に匹敵する生産量を確保できる可能性が開けたことで、OPECは大きな火種を抱えた。OPECは全体の生産量を定め、加盟国ごとに生産量を割り当てているが、イラクが順調に増産すれば市況次第では他の加盟各国が減産を強いられる可能性があるためだ。エネルギー関係者からは「パンドラの箱が開いた」と今後の混乱を指摘する声が相次いでいる。

 毎日新聞記事からすると、当面の問題としてはOPECの生産コントロールが効かないことにより、加盟国が減産を強いられるとのことだが、注目すべきなのはむしろ、イラクが今後「サウジアラビアの生産量に匹敵する生産量を確保できる可能性が開けた」という点だ。
 ぎょっとしないだろうか。いや、そんなことはなく、イラク戦争の前からわかっていたことさと言う人もいるかもしれない。それはそうだ。そして故フセイン大統領の独裁下でしかも国連から仏露まで腐りきった体制のほうがその健全なる可能性の未来が開け、さらに同国がサウジを手中に収めるほうがよかったという議論もあるかもしれない。
 また、だからこそイラク戦争は米国がその石油の利権を得たかったがゆえの戦争だという議論もあるかもしれない。現実はというと、米国はそれほどいい思いをしているわけではない。この側面も今日付の毎日新聞記事「クローズアップ2010:イラク開戦7年 米、関与「終局」へ着々」(参照)が詳しい。

 イラク戦争は、「米国による石油のための戦争」とも言われた。だが昨年6月以後行われている油田の入札や交渉では、米国企業は、入札資格を得た7社のうち、エクソンモービルを含めた2社が権益を確保しただけと不振を極めた。一方で、中国、日本、マレーシアなど国営、準国営企業の落札が目立ち、随意契約を含め、国別では中国がイラク石油権益の18%を占めて首位となった。

 イラク戦争が「石油のための戦争」だというならそのメリットを一番得たのは中国である。そして一番しょっぱい思いをしたのが米国である。なぜこうなかったかだが、基本的に入札が自由主義経済の原理に依存していたからにすぎない。米国にとっても想定外のことでもなく、ブッシュ政権からの転換によるものでもない。
 米国の利益と優位を支えるのは、直接的・古典的な帝国主義的支配によるのではなく、自由貿易とその上でエネルギーの主軸である石油をコモディティー化する世界構造にある。イラク戦争はその自由主義経済への勇み足な希求と、世界を民主化するという奇妙な情念が根にあった。これまでのところ大半は裏目に出たが、ここからは歴史の転換となるかもしれない。
 現在の世界では、原油・天然ガスが輸出収入の大半を占める国家が23か国あるが、そこに1つも民主主義国家は存在しない。このような状況のなかで、近未来に民主主義国家イラクが出現することになり、中期的にはOPECの縛りもなくサウジアラビアに匹敵する産油国になる(さらにイラクには天然ガスも大量の埋蔵が想定されている)。
 イラクの豊富なエネルギーが自由主義経済に踊り出せば、米国の優位は自由主義経済興隆の結果として高まることになる。実際のところ、イラク戦争は米国による石油の戦争と言われたが、米国の中東石油への依存度はそれほど高くない。民主主義国家産油国イラクが世界経済を牽引するアジアに安定的なエネルギー供給源となり、間接的な結果として米国の国力につながってくる。
 そしてその前提はシーレーンである。懸念があるとすれば、シーレーン支配をぐいっと曲げることのできる強国の存在だろう。幸い日本は、鳩山政権のおかげで米国の自由主義経済圏からめでたく離脱するのでシーレーンの心配は無用になった。米国に代わった新しい強国の指示に諾々と従っていればいい。日本はウクライナから多くのことを学ぶようになるだろう。
 民主主義国家産油国イラクの登場には近未来に大きな懸念材料もある。イランの存在だ。民主主義国家イラクの台頭を一番恐れているのは隣国のイランである。イランは自由主義経済から石油生産技術を押さえ込まれているので、期待したほどの生産が難しく、石油価格が低下するとさらなる経済的な打撃を被ることになる。
 この構図をうまく描いているのがクリストファー・ディッキー氏(Christopher Dickey)によるニューズウィーク記事「The Oil Curse」(参照)だ。

The government in Tehran already is having serious economic problems, and because embargos and boycotts have cut it off from a lot of Western oil technology, it has a very hard time raising its production of about 3.7 million barrels a day to compensate when prices fall.

イラン政府はすでに深刻な経済問題を抱えている。禁輸やボイコットによってイランは欧米の石油製造技術の恩恵を得ることができず、石油価格が低下したとき、補償するにも生産量を日量370万バレル以上に引き上げることが困難だ。

It wants to make sure that Iraq, which has been exempted from all OPEC quotas, will not start outproducing it, driving down prices and further crippling the Iranian economy. Already, skirmishing has begun behind the scenes at the oil cartel as Tehran tries to make sure quotas are imposed on Iraq before it can surpass Iran and perhaps even start to rival Saudi Arabia (which produces a whopping 8.2 million barrels daily and could go higher).

イランとしては、OPECの生産枠制限を受けないイラクが増産に踏み切らないようにしたい。石油価格が低下すればイラン経済はさらに混迷するからだ。すでに、イラン政府としては、イラクがサウジアラビア(日量820万バレル以上)に伍す前に生産枠を課したいとして、石油カルテルの裏舞台で小競り合いを開始している。

The more the mullahs feel competitive pressure from Iraq, the more likely they are to meddle in its internal affairs, whether with violence or, more subtly, through a democratic process where they try to control key players from behind the scenes. Getting to Iran's level of oil production in the next three years "will not be a big issue for Iraq," says Husari. "Whether Iran will accept it—that's the big question."

イランのイスラム法学者(シーア派)がイラクから競争圧力を受けるにつれ、イランはイラクへの内政干渉を強めるようになる。内政干渉は暴力であったり、微妙なものであったり、舞台裏から画策しようと民主主義的であったりする。「イランにしてみれば3年後の石油産出水準はたいした問題ではないが、イランがそれに手をこまねいているかは大きな問題」とフサリは言う。


 イラクが石油生産力を増大化するのは国家復興からして当然のことだが、それが世界の今後の需要に見合うかどうかは判断が難しい。イラクが増産しても世界需要に見合わないかもしれない。だが当面の問題でいえば、イラクの石油増産はOPEC加盟国の石油価格を下げるし、その影響を直接的にイランに与えることになる。今後イラクの増産によって石油価格の高騰がないとすれば、この地域の不安程度は増大すると見てよいだろう(イラン友好国の影響を日本もさらに受けるかもしれない)。

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2010.03.20

本当は喜んではいられないクロマグロの話

 現在もカタールで開催中のワシントン条約締約国会議だが、大西洋クロマグロを絶滅危惧種と指定し、国際的な商業取引を禁止するモナコ提案については、日本時間で一昨日の夜、予想外の大差で否定された。
 否定の先頭に立っていたのが日本であることから、日本の主張が国際的に認められたという印象もある。当初の予想では、米国もEUも賛同しているモナコ案が優勢とも見られていたので、否決は意外という印象もあったし、私としても、やや意外感はあった。
 事前の国内ニュース報道などでは、これでもう日本人はマグロが食べられなくなるといった印象を撒いているものがあった。だが、この海域からの日本のクロマグロ輸入割合はマグロ全体の5%ほどにすぎず、また冷凍品も1年ほどのストックがあることから、モナコ案が通っても庶民の食生活にはそれほど大きな問題にはならないだろう。みなさん、そんなにクロマグロなんて食べてないでしょ。
 それでも絶滅が危惧されるというなら、規制もしかたないとはいえる。科学的に絶滅が推定されるかについては、私がざっくり読んだ範囲では、あらかたそう言えるようにも思えた。しかも、クロマグロの世界全体の消費の8割は日本であるなら国際的な責任は問われる。モナコ案が否決されても、クロマグロが絶滅すれば喜べる話でもないし、いわゆる捕鯨問題とも多少違う面があるだろう。違和感があるとすれば、ここでワシントン条約を持ち出すかというのもあるが、卵がキャビアにされるチョウザメ類はワシントン条約で保護されているので、考えようによってはそれほど違和感はないのかもしれない。
 欧米側の事前の受け止めはどうだったか。4日付けニューヨークタイムズ社説「A Chance for the Bluefin」(参照)が典型例に思えた。結論は予想通り明確である。


Now it has to persuade others — and fashion a winning vote in Doha.

今や他国を説得すし、ドーハでの勝利票に流れをつくらねばならない。


 結果からするとそれに功をなしたのは日本ということになった。が、同社説を読んでいて、実際には欧米側では事前に悲観論が根強いのではないかも思った。私も知らなかったのだが、モナコ案が通っても日本は無視することになっていたらしい。

Under the international rules governing endangered species, individual nations can opt out of any agreement. Japan has already said it would ignore a ban and leave its markets open to continued imports — even if the tuna are granted endangered species status. That means that for a ban to succeed, the big exporting countries will have to ensure that their fleets abide by the rules and don’t sell to Japan, which consumes four-fifths of Atlantic bluefin, and other countries that keep their markets open.

絶滅危惧種に対する国際規定(ワシントン条約)では、どのような協定であっても個々の国は抜け駆けができる。日本は、たとえクロマグロが絶滅危惧種に認定されても、すでに規制を無視する気でいるし、継続輸入に市場開放すると言明している。その意味で、規制を有効なものにするには、クロマグロ輸出国の船団に規則を遵守させ、大西洋クロマグロの五分の四を消費する日本や、市場開放している国々への販売禁止を確実にすべきだ。


 ワシントン条約はそれほどの拘束力はもたない。またここでは触れていないが、自国消費に規制力はない。そこで同社説は文脈上、あるいは政治的に日本を悪の根源のように描いていくことになるが、その文脈も追ってみると、問題の焦点は日本にクロマグロを売っている国にあるとも読める。実はこの段落の前に重要な一文がある。

The European Union, whose members account for much of the tuna harvest in those waters, has yet to take a formal position.

海域内でクロマグロ獲得の責任を持つ国々を抱えているEUは、いまだ正式には立場を明確にしていない。


 このあたりの報道が日本からは見えづらかったのだが、4日以降EUは確固たるモナコ支持に回ったのだろうか。またそれ以前に、なぜモナコという小国からの提案であったのだろうか。いすれにせよ、問題は実はEUの内部に根を持っていることは想像できた。
 この背景はグローバルポストに掲載されたMichael Moffett の昨年の記事「It's open season for bluefin tuna」(参照)がわかりやすい(同記事は日本版ニューズウィーク3・24にも翻訳されている)。

Watchdog groups point to Mediterranean countries — and particularly Spain— as major culprits in depleting the eastern Atlantic tuna. The global conservation group WWF said Italy, Algeria and Libya all had too many boats equipped for bluefin tuna fishing. It also said that catches have been seriously underreported in recent years, specifically pointing to Spain and Croatia.

監視団体は、東大西洋クロマグロを減少させている張本人を地中海諸国、特にスペインだと指摘している。国際会議団体世界自然保護基金は、クロマグロ漁に過剰な漁船を繰り出しているのは、イタリア、アルジェリア、リビアだと述べている。また、特にスペインとクロアチアの漁獲高は過小評価されているとも述べている。


 乱獲の根はヨーロッパおよび地中海諸国にある。
 日本はしかしその黒幕と見なされてもしかたがない背景もある。

Japanese businessmen revolutionized the Mediterranean industry a decade ago when they invested in a troubled Spanish fishing fleet and introduced the use of tuna fattening pens at sea.

10年前だが日本人商社マンが地中海産業に革命をもたらした。困窮していたスペイン漁船に投資し、マグロ養殖生け簀を紹介したのがきっかけだった。

The pens encourage fishermen to haul in many more and smaller bluefin during the limited fishing season. The technique allows them to fatten up the tuna to minimum catch size while in the pens and to sell the tuna fresh from the pens year-round for top dollar.

漁民たちは限られた漁業期間で生け簀により多くのクロマグロの稚魚を囲うようになった。この技術によって、生け簀内の稚魚を大きく育て、値のよいときに年間通じて新鮮なマグロが販売できる。


 日本人としても当時は乱獲してまでという思いではなかっただろうが、結果はこうなってしまった。
 こうした背景を知ると、今回の否決を礼賛するような今日付の読売新聞記事「極秘リビア説得工作が奏功…クロマグロ禁輸否決」(参照)は、微妙な陰影を持つだろう。

 実は今年2月末、水産庁の宮原正典審議官が極秘裏にリビアを訪問し、締約国会議でのクロマグロ禁輸反対に支持を求めていた。日本の説得工作で、当初関心が低かったリビアから、最終的には「日本支持」の言質を引き出すのに成功した。
 国際会議では途上国と先進国の対立がしばしば表面化する。いつもは途上国と利害を異にする日本が周到な準備を進め、今回はうまく途上国の欧米主導に対する不満をすくい上げ、“反欧米”と言えるうねりを引き出せたことが、大事な局面で奏功した。

 外交の勝利というなら、結果として日本の背後でうまく動いた中国のほうではなかったか。

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2010.03.17

[書評]世界一シンプルな経済入門 経済は損得で理解しろ! 日頃の疑問からデフレまで(飯田泰之)

 勝間和代さんの本は一冊も読んだことがないので、この機に読んでみようかと手に取ったのがこの一冊、と誤解をしそうな帯だし、めくってみると細野真宏氏の「カリスマ受験講師細野真宏の経済のニュースがよくわかる本」(参照)に似ているかなとも思うが、著者はブログ界で名著と評判のある「ダメな議論 論理思考で見抜く (ちくま新書)」(参照)の飯田泰之氏である。しかし、「世界一シンプルな経済入門」ってほんとかな。

cover
世界一シンプルな経済入門
経済は損得で理解しろ!
日頃の疑問からデフレまで
飯田泰之
 勝間和代さんも「こんな本を待っていました! 最高の経済入門本です。ぜひ読んで下さい」と一喝しているのだから、そうなんだろうと第1章「経済学ってなんですか?」をめくって、不覚にも、いきなり目から鱗が落ちた。まじかよ、俺は本書の上級編にあたる「経済学思考の技術 ― 論理・経済理論・データを使って考える(飯田泰之)」(参照)もきちんと読んでいるんだぜ。同書あとがきで「長崎県立大学経済学部の乙丸益伸君」の名前があることだって注意しているのに。
 なのに、しょっぱな目から鱗がポロリ。ここだ。

じゃあまずは「経済学とは何か?」について、はっきりと定義をしておくことにしよう。

経済学 = 希少な対象について考える学問

 これが経済学の出発点だ。そして、

・希少性
・インセンティブ
・ノーフリーランチ

の3つを使って問題を整理し、理解し、リアクションを考えるのが経済学だよ。


 あ、そのとおり。
 いや正確にいうと、「経済学思考の技術」にある「経済学思考の10ルール」も知っているので、インセンティブとノーフリーランチを重視するこの考えになじみがないわけではないが、最初に希少性を持ってきて、これとインセンティブとノーフリーランチの3点に絞るのは、すごくわかりやすいと思った。
 というか、誰かこういうふうに簡素に説明していたのだろうか。あるいはこういう説明はすでに一般的なのだろうか。有名なグレゴリー・マンキュー(Nicholas Gregory Mankiw)の経済学の10大原理(参照)も、この3つの視点を起点にまとまるように思える。さらに、「インセンティブ 自分と世界をうまく動かす(タイラー・コーエン)」(参照)を読んだとき、「足りないことへの対処」とインセンティブの関係が経済学の主導的な原理なんだろうなとなんとなく思っていたこともある。ちなみに、本書副題「経済は損得で理解しろ!」は費用・便益分析とトレードオフの重視によるものらしい。
 ただ、率直にいうと前著でも思ったのだが、「ノーフリーランチ」はこの名前を冠した数学的な定理に別の意味があるので、「ノーフリーランチの法則」と分けてはいるものの、ちょっと紛らわしいかなという印象はある。
 本書では、希少性とインセンティブからすぐに便益と費用が導かれ、費用・便益分析の基礎の話になる。そしてノーフリーランチを加えて「裁定」の話とトレードオフが出てくる。このあたり、いかにも初心者本を装っているけど、かなり鮮やかな手口なんで、びっくり。マンキュー氏の言う第一の原理「人々はトレードオフに直面している(People Face Tradeoffs.)」はむしろ、希少性・インセンティブ・ノーフリーランチを背景にしているので、やはりこちらの3点を基礎においたほうがよいだろう。
 本書はそのあと、機会費用からサンクコスト、比較優位と、毎度の経済学の基礎の話に流れていくし、それはそれで優しくていねいに書かれてはいるのだが、これらの個別の概念の説明は、「[書評]出社が楽しい経済学(吉本佳生, NHK「出社が楽しい経済学」制作班): 極東ブログ」(参照)で触れた同書のほうがわかりやすいようには思えた。いずれにせよ、この部分については類書でも優れた書籍はある。
 次に目から鱗が落ちたのは、経済学と経営学の対比だった。経済学的には、競争は好ましいが、経営学的には、いかにして競争を避けるかが重要だというのは、そう言われてみればまったくそのとおりで、なんでそうすっきり自分が理解していなかったのか恥じる。
 本書では触れていないが、国家が経営学的な方向を採れば、案外その国としては潤ってしまって、しかし世界は経済学的な原理に従うから合成の誤謬に陥る。これに地政学にも似たブロック経済を加えて、トレードオフとして鳥瞰すると現代世界の動向のかなりが説明できたりする(と私は思っている)。
 本書の展開は、基本的には以上のようなミクロ経済学的な視点から、マクロ経済学へ、そして日本経済の根幹的な問題であるデフレ対処へと絞り込まれていくのだが、各所に目から鱗が落ちるすっきりとした展望がありながら、物語的な求心力はやや弱いようにも思えた。
 それでも、デフレ対処の議論に、いわゆるバランスシート不況説もバランスよく配備されていて、そのためか中盤で簿記的な考え方にも触れているのは好ましい。いわゆるマクロ経済学一辺倒よりも、現代日本の企業が抱える問題がわかりやすい。
 こう言うと本書を読んでもらいたい新しい読者に不要な抵抗を招きかねないが、本書の最終的な基調はいわゆるリフレ派の議論であり、日銀アコードによるインタゲにもなっている。が、そのあたりも仔細に読むとなかなかバランスよく書かれている。
 特に、デフレ下で実質賃金が上昇して非自発的失業が起きるという説明は、それ自体はごく一般的なものだが、この話は、だから賃金を下げろという議論が起きる背景でもあるし、またインタゲが実施されれば、その結果の再配分的になるがインフレ税的な効果は当然出てくる。全体として見れば、日本にインタゲが求められるというベネフィットの反面のコストもある。だからこそ、経済学的な思考で全体が考慮されなければならないことになる。
 それにしても、本書は今の日本に求められているという状況も感じる。毎日新聞記事「首都高:事実上値上げ 年内にも距離別料金--政府検討」(参照)や日経新聞記事「子ども手当の家計への影響、年収多い層で恩恵大 大和総研試算」(参照)を見てもわかるが、日本の現政権はそういう経済学以前のレベルだ。
 ここはもう勝間和代さんの猛烈な鼻息で、民主党の議員に本書をぐいと押しつけるのもアリだろう。すでに締め切られているようだが、2010年3月19日(金)には本書のイベントもあるらしい(参照)。

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2010.03.16

採用試験の検査がダメな理由について少し考えてみる

 そういえばというのも変だが、心理学者村上宣寛氏には2005年の著作で「「心理テスト」はウソでした。 受けたみんなが馬鹿を見た」(参照)があり、各種心理テストを批判している。正確には、血液型人間学、ロールシャッハ・テスト、矢田部ギルフォード性格検査、内田クレペリン検査が批判対象になっていて、すべての心理テストがウソというものではない。そして、ではなにが正しいかという話の言及は本書にはあまりない。

cover
心理テストはウソでした
講談社+α文庫
 ネット的には、同書については、血液型人間学の批判に関心が集まったかのようだが、私個人としてはロールシャッハ・テスト批判にいたる村上氏と奥さんの物語が絶妙に面白かった。アマゾンを見ると、本書は文庫本にもなっているようだ(参照)。
 面白いといえば、本書のエピローグ「仕事の能力は測れるか」も面白い話だった。リクルートのSPIに触れた学生との対話で。

「リクルートのSPIの半分は学力検査問題で、高得点の人は、当然、中学校、高校の成績が良いだろうが、会社に入って何ができるかはわからないな。SPIの高得点者が会社に入るとスゴイ仕事ができるということがあればいいんだが、ほとんど証拠はないな」
「ええっ、そうなんですか」
「そうなんだよな。専門的には妥当性研究をしないといけない。さすが、リクルートは研究しているようだが、はっきりした証拠はないな。ものすごーく低い関連性ならあると思うが、そんなもの宣伝には使えないよな(後略)」

 そのあと、A8という適性検査にも触れて、話はこう続く。会社が必要な人材を得るための研究について。

「でも、研究は難しいんじゃないですか」
「いや、簡単だよ。SPIやA8の予測が本当に正しいかは、追跡調査すれば簡単にわかるよ。面接、SPI、A8などの点数を2、3年保存して勤務成績なり営業成績と突き合わせればいいだけの話だ。この程度のことがわからないなら人事部は馬鹿だろう。知っていてやらないのなら人事部は怠慢だろう。どっちみち、そんな人事部なら要らないな。また、逆に、会社内部で成績優秀者を選抜して、普通以下の成績の人と比較する方法もある。つまり、両方のグループに、SPIやA8を実施して、どの検査問題で差がでるかを調べればいいんだ。差の出た検査問題を集めて適性検査を作ると、妥当性の高い検査ができるんだ。しかし、SPIやA8はそんな作り方はしてないだろうな。だから予測力は期待できないよ」

 ではそうした問題を書籍で扱ったらという話の流れが期待されるが、ここで話は終わってしまい、これが「[書評]IQってホントは何なんだ? 知能をめぐる神話と真実(村上宣寛): 極東ブログ」(参照)で触れた2007年の同書につながっていく。

 SPIの性格検査分野では、都澤らによってメタ分析が行われている。基準は上司による職務遂行能力の評価である。33の個別研究、延べ被験者数5844名を対象としたのが分析1、12の個別研究、延べ被験者数1607名を対象としたのが分析2である。
 補正後の妥当係数は0.05程度高いが、それでも0.2を超えるのは、活動意欲の0.21(分析1)と0.27(分析2)だけである。その他の性格尺度はすべて0.20未満である。活動意欲がビッグファイブの良識性(勤勉性)の下位特性に該当したから相関があったのだと思う。SPIの性格検査は、ほとんど職務遂行能力を予測していないのではないか。

 見方によってはそれほど違和感のない結果紹介でもある。ではなぜ、効果のない検査が企業で放置され、あるいは新入社員の命運を分けるような場で利用されているのか。

 リクルートグループには職務遂行能力評価と各テスト問題の相関データがあるはずだから、そのデータを基にテスト問題の見直しを組み換えをすれば、ある程度の改良は可能なはずだ。いくら妥当性研究をしても、その結果を利用してテストを改良しなければ、予測力のあるテストにはならない。原理は単純だが、大きな労力が要求される。利益が上がっているので、放置されているのだと思う。

 その後の2年間にこの問題が改善されたかどうか私は知らない。改善されていないのではないか。なぜなのかについて、利益が上がっているから放置されているのではないかというが村上氏の見解だが、私は、もしかしたら別の理由かなと思った。その話題に入るには、もう一つ関連して次の村上氏のコメントを考えたい。先のエントリでも触れた一般知能gの関連である。

 リクルートグループのNMATやGATは、なぜ、こんなに予測力が小さいのか。筆者に言わせれば理由は簡単である。日本の職務遂行能力評価が特殊であるという仮説より、NMATやGATが一般知能gを十分に測定していないという仮説のほうが成り立つと思う。つまり、筆者は、知能テスト自体に問題があると思う。頭の良い人と悪い人を十分に分別していない可能性がある。

 一般知能gについてその存在をめぐる話は先のエントリで少し触れたが、村上氏のこのコメントは、意外というか、あるいは少し下品な言い方になるが、本音のようなものが見られる。頭の良い人と悪い人の差はgに依るもので、それが企業集団に生かされていない。つまり、日本企業はgを求めていない、ともなるだろう。
 おそらくそうなのではないか。そしてその理由だが、検査テスト業界の利潤の問題より、「日本の職務遂行能力評価が特殊」であることと合わせて、実は、日本企業はgをそもそも求めていないのではないか。逆にgを入社時に抑制することが企業の存続に適性であることの合理的な結果が日本企業の活動ではないのか。
 SPIについて、村上氏は、中学校・高校の成績が良い人が高得点になると見ていたが、つまり、これはセンター試験なりの結果と相似になることであり、日本の大学の系列を相対的に模倣するようになっているはずだ。別の言葉でいうと、企業は概ね、日本の大学の序列を受け入れることが結果的に人事上のメリットがあるとしているという結果の反映ではないのか。
 もちろん例外なり、臨界的な許容範囲も広いのではないかと思うし、日本の大学の序列がイコール大学の派閥ということでもないだろう。が、それでもそこに結果的に集約される傾向はあり、企業はそれを好んでいるのでないか。
 より強くそう言うためには、少し遡って、センター試験の結果がgとどのくらい相関があるかがわかればよいだろう。それがわかればかなり面白いことになる。個人的な印象でいうと、違いがあるように思える。
 いずれにせよ、入社試験の知能テストや適性検査が、直接的には職務遂行能力を反映していないとは言えそうで、そのことについての村上氏の結語はかなりきついものになっている。なぜこんなことになったのか。

 その理由として、企業の人事部が優秀でないことが挙げられる。知能テストや適性検査に通じている人はほとんどいないし、選抜システムの研究もしていない。勢い、テスト関係は外部委託が中心となる。その場合でも専門的知識がないので、予測的妥当性を検討して依頼している人事部は皆無だろう。
 もう一つの理由は、日本の心理学の水準が低く、科学として未成熟であるからである。人事部の人々が優秀で、勉強したくても、書籍や研究成果がなければどうにもならない。知能テスト関係は嫌われるし、研究もされていない。その結果、正しい知識も普及していない。
 学問が遅れていて、学会関係者がツケを払うのは自業自得である。しかし、基礎研究を軽視するツケは大きい。基礎がなければ応用もない。現在、日本社会はそのために膨大なツケを払っている。そのコストは年数百億円だろうか。数千億円だろうか。そろそろ気づいてもよいのではないか。

 gをむき出しにした黒船が東西からやって来れば、あかんぜよ、となるかもしれない。あるいは、黒船はすでに着ていても、上喜撰のカフェインは足りないのかもしれない。

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2010.03.15

[書評]心理学で何がわかるか(村上宣寛)

 「君の知りたいことはこの本に全部書いてあるよ」と言いたくなる本がたまにある。本書「心理学で何がわかるか(村上宣寛)」(参照)がそれだ。「ほんとか?」と思うなら、本書「はじめに」にある、次の11項目についての考えを聞かせてもらいたい。


・ 兄は兄らしい性格、妹は妹らしい性格になる。
・ 親の育児態度は性格や気質に永続的な影響を与える。
・ 乳幼児は他人の心が理解できない。
・ 自由意志は存在する。
・ 幽体離脱体験は本当だ。
・ 乳幼児は長期間、物事を記憶できない。
・ 記憶力は鍛えれば強くなる。
・ 女性の理想の相手は、自分をもっとも愛してくれる人である。
・ トラウマは抑圧される。
・ 暴力的映像は暴力を助長する。
・ うつ病の治療には薬物療法が効果的である。

 見るなり、それはないでしょと思う項目が多いかもしれないが、もしかして、一つでも、それはあるかもと思った項目があっただろうか。
 著者村上氏はこう続けている。

 まさかこんなことは信じてないでしょうね。

 つまり、これは全部、事実に反する。本書は、こうした話題を本書刊行2009年時点の研究からまとめている。

 心理学では、二〇~三〇年遅れの教科書は啓蒙書が主流なので、この種の事柄を真実だと思い込んでいる人が多いだろう。心理学ではよく「関係がある」、「影響がある」という仮説が立てられる。昔の研究を調べると、研究計画が不完全だし、統計分析もずさんである。綿密に精査すると、「関係がある」とか「影響がある」という仮説が否定されることがよくある。
 どんなことでも信じる自由はある。結果だけを信じるのは信仰で、科学は一種の試行的態度である。どのようにしてその、その知識が得られたのか、そのプロセスに注目し、確認する必要がある。だから、オリジナルの文献から見直さないといけない。

 ということで、村上氏は「腐っても国立である。電子ジャーナル関係のインフラは揃っている」として論文を検索し、幅1メートルにもなる文献を読みまくった。さらに単行本がある。本書の結果がそれである。

 全部、まじめに読むと身体を壊すので、なるべく読まないようにしたが、お陰で執筆に一年もかかった。

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心理学で何がわかるか
村上宣寛
 まいどのユーモアなコメントが続くが、本書は章ごとに村上氏の個人経験や雑談的な話が含まれていて、その部分も微妙に面白く、悪い意味ではなくちょっと変な本という印象も与える。内容は、私なんかが言うのもおこがましいが概ね正しく、また参考文献集もコンサイスにまとまっている。
 知能と遺伝については、昨日のエントリ「[書評]IQってホントは何なんだ? 知能をめぐる神話と真実(村上宣寛): 極東ブログ」(参照)で触れた2007年刊行の同書とほぼ同じ主張が繰り返されているのだが、どこか違うかなとこの機会に注意して読んだが、相違点ということではないのだが、デブリン(Bernie Devlin)の子宮内環境の影響について少し考えさせらるものがあった。
 本書でも一般知能gについて、それが遺伝子によって規定されているとするプロミン(Robert Plomin)の2002年の研究を引いているのだが、本書では子宮内環境についてこう言及されている。

 共分散構造分析で解析する際、どのようなモデルを立てるかによって数値が異なってくる。例えば、子宮内環境という変数を導入すると、一気に遺伝の影響力は小さくなる。プローミンらの数値は、狭い意味での遺伝の影響力である。

 本書ではそれがデブリンの1997年の文献であることの言及はないようだが、時系列からしてプロミンがデブリンのような視点を考慮していないのだろうかということと、いずれもこれらの見解は2002年止まりの研究によるもので、その後の研究の動向はどうなっているのか気になる。
 加えて子宮内環境の影響が実質的な遺伝的影響を形成しているというなら、卑近な考え方でいえば、母親の妊娠時の環境が出生後の子どもにかなりの影響力を及ぼすとも言えるだろう。この点について、どう評価されるべきなのだろうか。
 そのあたりの問題に関心が及ぶのは、似たような見解をまったく別の文脈から吉本隆明が、以前エントリで触れた「[書評]心とは何か(吉本隆明): 極東ブログ」(参照)の同書で触れているからだ。もっとも、吉本氏の場合は、出生後の1年のほうをより重視していた。
 広義に育児として、知能や人格という関係で見るなら、本書のまとめは非常に明快になっている。簡単に言えば、育児の及ぼす効果はかなり小さい。

 一般に期待されているほど、育児態度の影響力は大きくない。むしろ、育児態度の影響はかなり限定的である。育児態度が非常に否定的で、虐待的であれば、子供の自尊心や社会性にはある程度、影響は与える。しかし、気質や性格に永続的な影響を与えることはない。
 子育ての研究は多数に上るが、共分散構造分析等で、因果関係を分析した研究は少ない。養育態度の背景には、社会経済的地位や両親の性格、子供との共通の遺伝子要素などの変量が隠れている。この変量を統制すると、育児態度の影響力は消えてしまうだろう。
 『子育ての大誤解』は、育児態度の影響力をゼロであると、センセーショナルな話題作りをした。主張はやや極端にしても、基本的には肯定せざるを得ない。ほとんどの研究は、子育てが非常に小さな影響しかないことを示している。

 この問題も社会的な文脈で考えなおすといろいろとやっかいな問題でもある。

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2010.03.14

[書評]IQってホントは何なんだ? 知能をめぐる神話と真実(村上宣寛)

 知能とは何か。それは人種間で差があるのか。この問題について、米国ではチャールズ・マリー(Charles Murray)氏の1994年の共著「Bell Curve: Intelligence and Class Structure in American Life」(参照)および2008年の単著の「Real Education: Four Simple Truths for Bringing America's Schools Back to Reality」(参照)が社会的な話題になった。私はどちらも読んでいないが、その話題については米国の社会的話題として報道などから知識を得てずっと気になっている。関心事の焦点は、人種間の差異というより、知能を社会的に論じるというのはどういうことのなかという点だ。

cover
IQってホントは
何なんだ?
知能をめぐる
神話と真実
村上宣寛
 マリー氏のこれらの著作は日本では翻訳されそうにない。米国社会の問題だということもあるし、その根幹となる知能についての考えが日本社会ではそもそも受け入れがたいか、読まれる以前に妄説として反発を受けかねないというのもあるだろう。
 この点について、村上宣寛氏の「IQってホントは何なんだ? 知能をめぐる神話と真実」(参照)は示唆深いものだった。特にこの点については、イアン・ディアリ「1冊でわかる知能」(参照)の訳者・繁桝算男氏のあとがきを例として、間違いとは言えないが知能研究について否定的な言及したことに関連して、次のように日本の知能研究の状況について村上氏は述べている。

 実は、日本の心理学者は文科系に偏っていて、知能テストや心理テストに嫌悪感を抱く人が多い。知能指数(一般知能g)は差別であると発言しておけば、日本では居心地が良い。それで、繁桝のようなあとがきが生まれる。批判は結構だが、日本では知能を研究している心理学者がほとんどいない。新しい知能理論を研究している人もいない。結局、負け犬の遠吠えの印象しかない。

 そう言えるのか。同書を読めば、そう言っても概ねよいことがわかる。知能研究自体が日本に少ないように見えることもだが、知能研究として日本語で読める著作も少ない。
 村上氏は同書で、知能研究の背景史を簡素にまとめたあと、現代の知能研究の中心的な話題となる、スピアマン(Charles Spearman)氏による一般知能因子または一般知能g(General intelligence factor)の概念を紹介している。多元的に見える各種の知的能力の行使の基礎に、知能そのものを特徴付ける因子gがあるという考えかたである。つまり、「一般知能gは知的なすべての課題に影響する因子で、特殊知能sは課題ごとに異なる特殊な因子である」ということだ。これがいわゆる知能検査の知能を暗黙に指している。
 スピアマンはgとsが実在すると仮定し、知能をこの2つの因子でからなると主張した(実際には1因子で足りるようだが)。方法論としては、これらの因子を数学的モデルとして因子分析法に依った。
 この因子分析法を完成させたうえで、多因子を最初に採ったのがサーストン(Louis Leon Thurstone)氏で、彼は、知能を構成する7因子を提示した。言語理解力(V: verbal comprehensyon)、語の流暢性(W: word fluency)、数能力(N: number)、空間能力(S: space)、連想記憶力(M: memory)、知覚速度(P: perception)、機能的推理(R: reasoning)である。村上の書籍からははっきりとはわからないが、サーストンはgの存在については否定的であったようだ。
 日本では「矢田部ギルフォード性格検査」で比較的よく知られているギルフォード(Joy Paul Guilford)氏もサーストン氏とは異なる方法論から多因子説を採った。彼は知能を、領域(Contents)、所産(Products)、操作(Operations)の三次元で考え、それらを各下位の因子に分類し、その総計として120から150の知能因子を想定した。しかし、村上氏によれば、この説は他の学者からは十分に確認されていないらしい。また日本では心理学教科書としては知能の議論はこのギルフォード止まりになっているらしい。

 知能の章がある教科書でも、ギルファドまでの知能理論しか扱っていない。ギルファドまでなら、30年以上前の教科書のほうがずっと詳しい。執筆者が不勉強で、新しい知能理論を知らないからである。


 新しい知能理論について、日本語でのまとまった紹介は、この本が初めてだろう。では、誰も知らない世界を案内することにしよう。

 と、村上氏はユーモアをもってその後の主要説をまとめている。焦点が当てられているのは、「キャテル-ホーン-キャロルの知能理論(CHC)」、(Howard Gardner)による多重知能理論、スタンバーグ(Robert Sternberg)の三頭理論である。村上氏は、CHCを評価しつつ、スタンバーグの三頭理論に実践的な観点から関心を持っているようだが、書籍の説明として面白いのはガードナー説についてである。

 筆者が驚いたのは、その実証手続のずさんさである。例えば、プロジェクト・スペクトラムでは、1987~1988年に3~4歳児の七つの分野での活動を調べ、相関表を作成した。そして、恐竜ゲームとバスゲームだけが0.78の相関があったが、二つの音楽活動や二つの科学活動では、相関がゼロであった。このような結果から、多重知能理論が確認されたという。
 ところが、サンプルは比較的均一の白人の中・高所得層に限られている。このようにサンプルが均一の場合は、1世紀前のウィスラ博士論文が示したように、相関係数は小さくなる。しかも、ガードナーのサンプル数はたったの20名である。その他の研究でも最大で42名である。とても結果を一般化できない。

 そうなってしまったのはガードナー氏の主張が暗黙裡に研究に先行しているからかもしれない。

 ガードナーは一般知能gの存在を認めようとしない。マスコミや教育関係者には、知能が1次元的ではないという主張が心地よく響く。序列化の必要がなく、各自の個性が尊重できるからである。しかし、gは統計的に分離可能で、かなりの影響力がある。ガードナーの多重知能理論は「科学的な心理学から離れたところ」にあるというディアリの意見に賛成である。

 別の視点からうがった見方をすると、一般知能gの存在を否定したいがタメの理論として科学を装っているのかもしれない。そこまで中心的な話題でもあるgだが、存在するのだろうか。

 ガードナーの理論は、サーストンの、一般知能gだけでは人間の知能の複雑さを説明できないという初期の主張に、新しい装いを加えただけである。gの存在については、多くの証拠があるので、否定できない。

 gは存在するかのようにガードナー批判の文脈で語られているが、同書全体としてはgについて村上氏が明確な主張をしているわけではない。おそらく次のようなCHC理論についての説明にそれが垣間見られる。

また、一般知能gの取扱い方はホーンとキャロルで違う。ホーンはGfとGcの2因子を強調し、gを重視しなかった。一方、キャロルはgを最上位因子と位置付けた。gは統計的には抽出可能である。しかし、そのgが何を意味するのか、依然として論争中である。

 疫学などで疾病の要因がその統計学的な方法論上措定できることを考えると、因子分析の結果としてgが抽出できるなら、gは存在すると見てよい、とするのが妥当だろう。だが、村上氏は、その抽出の妥当性までは認めつつも、その実在に立ち入ることは微妙に避けているように思われる。
 おそらくgが実在するなら、それは脳構造であり、遺伝的構造に依拠することになるというやっかいな議論の意味合いに立ち入りたくないか、あるいはそこにある違和感があるのかもしれない。ちなみに、チョムスキーは統計的に分離もできないUG(普遍文法)を実在として脳構造・遺伝子構造に置くにまったくためらわない。
 このこと、つまりgの実在性は、エントリの冒頭で触れた「Bell Curve」の問題にも関連するように私には思われる。
 村上氏の同書は、後半で「Bell Curve」の方法論と結論を厳しく批判している。しかも、それがいわゆるありがちなイデオロギー的な批判に堕しておらず、統計学からきちんと指摘されている点で、非常に貴重なものにもなっている。
 その部分の結語は次のようになっている。

 要するに、バーンスタインとマリは、遺伝率からIQは遺伝的に決定されると考え、そのIQは社会的地位や貧困の原因であり、白人と黒人のIQの差も遺伝によると考えた。どれが原因でどれが結果であるかは、回帰分析ではわからない。わかるはずがないのに、わかったかのように書いたのは問題であろう。また、説明率が誤差の範囲でも、本文中では、非常に大きな影響力があるかのようにグラフを示している。回帰分析ではなく共分散構造分析を使えば、モデルが成立しない場合も明らかになっただろう。

 おそらく村上氏の指摘は正しく、特に遺伝率からIQが遺伝的に決定できるかの議論は間違いであろう。この点は次のように補足されている。

・遺伝率は特定集団内での遺伝の影響力を、環境の影響力などと比較した数値である。いわば、相対的な数値である。つまり、環境要因などが定常状態であれば、環境の分散が少ないので遺伝率が高くなる。
・特定個人について、遺伝と環境の大きさを表す数値は存在しない。個人内では遺伝率は計算不能である。計算可能なのは、個人と個人の違いを数値化したもので、この場合、初めて遺伝率が計算できる。つまり、遺伝率は特定の個人内部での遺伝子の影響力を表す数値ではない。遺伝率が90%であっても、ある特定の個人のIQが遺伝で90%決まるのではない。そのような数値は存在しない。

 それで間違いはない。
 だが、関連して私が昔、言語能力についてチョムスキー理論を学んだときの彼の比喩が思い出される。落下という現象において摩擦の存在しない状態はない。現実の落下では摩擦が考慮されなければならない。しかし、落下の本質は摩擦を除外して定式化される、というものだ。
 加えて、量子力学におけるリチャード・P・ファインマン(Richard Phillips Feynman)の経路積分(Path integral formulation)の考え方が気になる。個々の素粒子の行動は、シュレーディンガー方程式からはわからない。ただ確率としてのみ示される。それはいったいどいうことかといえば、無数の経路を積分したのち、一つの素粒子のあり方として、確率として反照されたということだ。
 ここから先が詭弁のように聞こえるかもしれないし、イデオロギー的な主張をしたいわけではないが、gが存在するなら、個人のIQについては特定の素粒子の所作のようにわからないせよ、その総合した振る舞いは経路積分的に捉えることは可能なのではないだろうか。私は個別には「Bell Curve」の議論の正否はわからないし、それを判断する能力もない。だが、gが存在するということは、やややっかいな問題を必然的に残すようには思われる。

追記
 Howard GardnerとMartin Gardnerを混乱していたのでその部分を訂正した。

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2010.03.13

[書評]“不機嫌な”太陽 気候変動のもうひとつのシナリオ(H・スベンスマルク、N・コールダー)

 本書「“不機嫌な”太陽 気候変動のもうひとつのシナリオ」(参照)は、いわゆる「スベンスマルク効果」として「地球温暖化懐疑論」の文脈で日本でも名前がしばしば取り上げられることもあった、ヘンリク・スヴェンスマルク(Henrik Svensmark)氏と、New Scientist誌の編集長やBBC科学番組の脚本なども担当したナイジェル・コールダー(Nigel Calder)氏の共著である。

cover
“不機嫌な”太陽
気候変動の
もうひとつのシナリオ
H・スベンスマルク,
N・コールター
 私の知る範囲では、スヴェンスマルク氏の著作の邦訳は今回が初めてあり、スヴェンスマルク氏自身が自説をどのように考えているのかについて知る上で、第一次資料となるべき著作である。これを日本人も平易に読めるになったのは好ましいことだと思う。出版社も天文学や海洋学など自然科学書籍を専門に扱っている恒星社厚生閣(参照)であり、翻訳も自然科学の背景を持つ翻訳者によってなされ、宇宙物理学者で著名な桜井邦朋氏の監修も入っていており、自然科学に関する一般的な翻訳書としてもよい仕上がりになっている。なお、オリジナルは「The Chilling Stars: A Cosmic View of Climate Change(Henrik Svensmark, Nigel Calder)(身も凍る星々:気候変動についての宇宙的な視点)」(参照)であり、今回の邦訳書は2008年の追記も含まれている。
 本書邦訳では、副題に「気候変動のもうひとつのシナリオ」とあり、またスヴェンスマルク氏も地球温暖化懐疑論者に扱われることもあることから、本書もいわゆる地球温暖化懐疑論の一種のようにのみ読まれる懸念はある。この問題はしかしそう簡単に割り切れるものではない。理由は、スヴェンスマルク氏の仮説は、それこそ本書を読めばわかるが、基礎部分は科学的な実験によって裏付けられつつあり、影響も多岐にわたり、かつ壮大なものであって、二酸化炭素による温暖化効果への異説はその部分に過ぎないからだ。本書は、地球温暖化懐疑論の文脈でも読まれうるだろうが、それだけには限定されない。気象科学としても興味深いし、関連する、エルサレム・ラカー物理学研究所所属の天体物理学者ニール・シャヴィヴ(Nir Shaviv)氏の仮説なども面白い。
 いち読者として本書の私の感想を一言で言えば、「感動した」。科学というものの持つ、興奮と恍惚のセンス・オブ・ワンダーをサイエンス・フィクション以上に味わうことができた。それこそが、本書の共著にN・コールダーが入った理由でもある。彼はこう述べている。

 できれば、政治のことは忘れて下さい。その代わり、次のことは忘れないでいただきたい。発見が行われるような最先端の領域では、そこで実際に起こっていることについては、科学者であっても、世間一般の人びとと同じように、正確には解らないということです。新しい発見が実際に予想外の驚きである時には、その発見は、既存の教育課程の範囲を超えているのです。したがって、教科書でも、また周囲にいる高度に教育を受けた人でも、それらの専門家の専門知識を超越してしまっている知識など、持ち合わせていないのです。このような場合には往々にして、発見者は、学術上の手続きを省略して、その発見を一般社会に、できるだけ迅速に、しかも、できるだけ直接的に、知らせるのです。ガリレオ、ダーウィン、あるいはアインシュタインは、全てこうしたのです。彼らは、読者の知性に取り入ろうとすると共に、彼らを啓発したのです。この長く続いた伝統に従って、ヘンリク・スベンスマルクと私は、私たちが毎日見ている雲が、太陽と星々から由来する秩序に従っているというヘンリクの驚くべき認識を、平易な言葉で紹介しているだけなのです。読者が、科学者であろうとなかろうと、この議論を比較検討して、我々に賛成でも反対でも、それが自分自身の意見を持ってもらえれば、それで充分満足なのです。

 冒頭私が「スベンスマルク効果」に「いわゆる」と限定を付けたのもこれに関連する。例えば、日本版ウィキペディアには同項目がありこう記されている(参照)。なお、この項目が日本語版だけにあって、英語など他言語版に存在しないことも注意されたい。

スベンスマルク効果(スベンスマルクこうか)とは、宇宙空間から飛来する銀河宇宙線(GCR)が地球の雲の形成を誘起しているとの説である[1][2]。原理的には霧箱の仕組みを地球大気に当てはめたものであり、大気に入射した高エネルギー宇宙線は空気シャワー現象によりミュー粒子などの多量の二次粒子を生じさせ、その二次粒子を核として雲の形成が促進される効果を指す。それが温暖化の要因になっている可能性を主張する意見がある一方、その影響量が特筆すべき規模かどうかについては疑義が指摘されており[3]、IPCC第4次評価報告書でも証拠不十分として採用されていない[4]。また宇宙線の量と温暖化との相関性は信頼性の低い仮説に留まる[3]一方、近年は複数の研究によって否定的な結果が報告されている[5][6][7]。

 複数の執筆者によるのか、話が錯綜しており、特に、「温暖化の要因」の説明には拙速感がある。
 まず、「スベンスマルク効果(スベンスマルクこうか)とは、宇宙空間から飛来する銀河宇宙線(GCR)が地球の雲の形成を誘起しているとの説である」は概ね正しい。また、「原理的には霧箱の仕組みを地球大気に当てはめたものであり、大気に入射した高エネルギー宇宙線は空気シャワー現象によりミュー粒子などの多量の二次粒子を生じさせ、その二次粒子を核として雲の形成が促進される効果を指す」については、見方によっては誤解されやすいだろう。霧箱(Cloud Chamber)のダジャレのように誤解されるかもしれない。
 霧箱はウィルソン霧箱(参照)のことだ。現在では、中学校や高校で教えているだろうか。密閉したガラス(またはプラスッチク)箱の中にアルコールを入れドライアイスなど冷却材で内部を過飽和の状態にする。そこに放射線が入射されると、その通過によるイオン化でアルコール水蒸気が集まり液体化し目に見える霧になる。つまり、放射線の通過が霧の飛跡になる。ユーチューブなどにもいくつか実験映像がある(参照参照)。
 本書を読むと解説があるが、ウイルソン氏自身が雲と宇宙線の関係についての直感を持っていたようだ。

 ウイルソンは、生まれ故郷のスコットランドで、山の頂上を流れる雲を眺めた時から、生涯にわたって雲の魅力に取り付かれていたので、ウイルソンの雲の実験が閃いたのである。彼がノーベル賞を受賞した素粒子の研究をしている間でさえも、気象学への最初の愛着を忘れていなかった。晩年に、ウイルソンは宇宙線が天気に関与しているに違いないと確信していたが、どうしてもそれを示すことはできなかったのである。彼のアイデアの1つに、宇宙線が稲妻に影響を及ぼしているというのがある。

 スベンスマルク氏はこうしたウイルソン氏の晩年を知っていたわけでもないし、それが直接雲の生成に結びつくわけでもないことは理解していた。

全ての宇宙線が後に残す飛跡は、過飽和度の非常に高い空気の場合でさえ、薄くて中途半端なものなので、1日中ずっと数億トンほどにも達する水蒸気が凝縮して形成された雲ともは、比べられるものではない。

 たまにスヴェンスマルク効果がバカバカしいとして否定する議論で、スヴェンスマルク自身が当初から否定していた話が含まれていることがあるが、邦訳書が出版された現在、稚拙な反論は無意味になるだろう。
 では、スベェンスマルク効果とはなにか?
 先に日本語ウィキペディアの「スベンスマルク効果」の項目に他言語の項目がないと指摘したが、これを英語でどういうのかはわからない。そのような用語は学術的には存在しないのではないだろうか。面白いことに日本語ウィキペディアにはスヴェンスマルク氏の項目がない。英語版ではHenrik Svensmark(参照)があり、これを読むと、「スベンスマルク効果」は、しいて言えば、"the effects of cosmic rays on cloud formation"だろうか。これだと明確に、「雲形成における宇宙線の影響」となり、雲の形成についてのスヴェンスマルク仮説ということになる。地球温暖化と雲の関与については、当面の話題の射程からは離しておきたい。
 雲はどのように形成されるのだろうか?
 なぜそこにスヴェンスマルク仮説が提出されたのか?
 この問題、本書4章の標題でもあるが、「雲の形成を呼び込む原因は何か」について、スヴェンスマルク仮説以前には、科学的な定説は存在していなかったと見てよさそうだ。そんなバカなと思うむきもあるかもしれないが、このことはスヴェンスマルク氏の文脈を離れ、独自にNASAが研究していたことからも明らかである。
 おそらく常識的には、雲は気体の水蒸気が飽和し、微細な液体の水に変化して形成されると理解されているのではないだろうか。あるいは、その変化に核となる雲核が必要だとすることも常識としている人もいるだろう。雲核を核として雲粒が形成され雨粒となる、と。雲核についてはウィキペディアではこう説明されている(参照)。

 雲核になる微粒子は主に、陸上で舞い上がった砂埃(風塵)の粒子、火災の際に出る煙の粒子、火山の噴火で出る噴煙の粒子、細かい海水のしぶきが蒸発した際に残る塩分の粒子(海塩粒子)、人為的に出される排気ガスに含まれる粒子などで構成される。これら大気中に浮遊する微粒子はまとめてエアロゾル(エーロゾル)と呼ばれている。大気循環などによって攪拌されるため、地球上に広く分布しているが、場所により濃度の差がある。また、地上に近い大気ほど濃度が高い。
 海洋などに生息するプランクトンが出すジメチルスルフィドも雲粒になりうるとされており、赤潮などのプランクトンの異常発生時には雲ができやすいとの研究もある。
 また、宇宙線や太陽放射などに含まれる荷電粒子や電磁波が大気の気体分子をイオン化させ、イオン化した微粒子が雲核となるという説もある(スベンスマルク効果)。

 ここでもスベンスマルク効果が登場しているが、どちらかという異説のように見える。
 ウィキペディアの解説では、雲核は多様なものがありうるということで、むしろ、スヴェンスマルク仮説を必要としないかのようである。
 本書でもそこはこう説明されている。

 陸上の大気の雲形成領域における1リットルの空気には、様々な補給により、数百万個の雲凝縮核が含まれている。外洋上においても、典型的な場合、1リットル当たり10万個が存在する。このため、気象学者は、極微細粒子は常に大量に存在していると考えがちであり、したがって、宇宙線が雲の形成量を変化させることができるとは決して考えないのである。

 しかし、科学を決めるのは実験であり観察である。この通説とされる説には暗黙の説明が含まれており、それが事実かどうかは、実験や観察で決定できる。ではどうだったのか。その研究は、スヴェンスマルク氏の仮説とは別にNASAで進行しており、その過程で、通説では説明不可能な現象を発見した。当然、科学者はこの現象を説明する仮説を提示した。その仮説の一つが、イオン・シーディング説であった。
 NASAを中心として研究とスヴェンスマルク氏の仮説の関わりは、率直なところ私は本書からは読み取りづらい。私の理解では、スヴェンスマルク仮説は、このイオン・シーディング説をより詳細に、かつ実験的なプロセスとして提出したことだろうと理解している。
 スヴェンスマルク氏は、宇宙線で生成されたイオン、つまり電子が雲形成における微細粒子のシード(種)となるかということを実験モデルで提出した。

 クラスターの生成過程では電子が中心的な存在である。1つの酸素分子に1つの電子がくっつくだけで、その酸素分子が、水分子を引き付けるのに充分な強さになる。そのために、その酸素分子の周りに数個の水分子が集まって、そこに亜硫酸ガスが供給されると、硫酸を作り出す出発点となると同時に、その硫酸を蓄積できる場所となる。

 これに対して、従来の説では、硫酸分子は紫外線の助けで成長し、それがゆっくりと集まるというものだった。
 スヴェンスマルク仮説は実験的に検証できる。十分な実験結果がすでに出たとまでは公平に見ると言い難いが、概ね、この仮説については検証されたと見てよいだろう。
 ただしこの実験検証は、いわばin vitro、あくまで実験室でそうしたプロセスが実証されたということであって、実際の雲がそのように形成されたかということの検証にはなっていない。また、媒介的な役割として硫酸が最適だとしても、他の雲核も存在する。地球全体の雲の形成を考えるなら、それらの多種の雲核がどの程度雲形成に関わっているか、また雲形成の最大因子が宇宙線であると特定できるのかについても、この時点では評価しようがない。
 そのため、ウィキペディアにあるように「それが温暖化の要因になっている可能性を主張する意見がある一方、その影響量が特筆すべき規模かどうかについては疑義が指摘されており[3]、IPCC第4次評価報告書でも証拠不十分として採用されていない[4]」とされるのは、概ね妥当なところだろう。IPCCとしては、スヴェンスマルク仮説が気候変動に影響するかについては、無視するのではなく、わからない、としていると私は理解している。
 しかし、ウィキペディアの同項目、および「地球温暖化に対する懐疑論」(参照)では、次のようにすでに否定されたかのような記述もある。

こうした宇宙線の変化が温暖化を引き起こしているのではないかとの仮説は、その後複数の研究結果によって否定されている。2008年4月にJ.E.Kristjanssonらにより、雲量の観測結果に宇宙線との関連性が見られないとの調査結果が発表され[19]、「これが重要だという証拠は何もない」としている[20]。A.Seppalaらは宇宙線の影響が極地方に限定され、全地球規模での影響も限られると指摘した[20]。さらに2009年2月にはCalogovicらにより、Forbush Decreaseと呼ばれる宇宙線の変化現象に対する雲量の応答を調べた結果「どのような緯度・高度においても、対応する雲量の変化は見られない」と報告されている[21]。

 スヴェンスマルク氏からの反論の履歴が省略されていて、いかにも、2009年2月のCalogovicによって否定されているかのようだが、該当の「Sudden cosmic ray decreases: No change of global cloud cove」(参照)の"Received 14 October 2009; accepted 4 January 2010; published 3 February 2010."の同時期に、同テーマでスヴェンスマルク氏は「Cosmic ray decreases affect atmospheric aerosols and clouds」(参照)を"Received 31 March 2009; accepted 17 June 2009; published 1 August 2009."を出しており、議論の趨勢を見るにはまだ日が浅く、「その後複数の研究結果によって否定されている」とまでは公平には言い難い。とはいえ現状では、スヴェンスマルク氏からの強い反駁はまだ見られない。
 温暖化懐疑論としてスヴェンスマルク説をどのように捉えるかは、N・コールダー氏が述べるように、「この議論を比較検討して、我々に賛成でも反対でも、それが自分自身の意見を持ってもらえれば」ということになるだろう。では私はどうかといえば、スヴェンスマルク説は、温暖化懐疑論としての評価はわからないが、とても興味深く、温暖化懐疑論だから全面的に否定するというのはあまり科学的な態度ではないかと考えている。また、温暖化問題に限定してなにが正しいかについては、監修者の桜井氏に共感している。

 現在の太陽活動の動向をみつめながら、スベンスマルクとコールダーがこの訳書の8、9の両章でふれている地球変動の今後について、本書の読書となられた方々には、実際に身をもって検証していただけるはずである。現在、喧伝されている地球寄稿の温暖化の原因が、大気中への炭酸ガス(CO2)の蓄積によるものかについても、自らの経験を通して明らかにしていただけるはずである。

 あと10年から20年すると、IPCCの主張の正否は現実的に確認できるはずなので、そこで大きな破綻があるなら、各種の懐疑論を再考してもよいだろうし、その時までスヴェンスマルク説が生き残っているかも興味深いところだ。

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2010.03.12

[書評]ツイッターノミクス TwitterNomics(タラ・ハント著、村井章子訳、津田大介解説)

 「ツイッターノミクス(タラ・ハント著、村井章子訳、津田大介解説)」(参照)は、日本の各種の分野でツイッター(Twitter)が話題になる現在、適時な刊行であったと思う。特に、企業が広告戦略においてどのようにツイッターをクチコミとして活用したらよいのかという点で、本書は著者の経験やこの分野の各種の世論を整理して提供していることから、実践的かつ具体的な指針になるだろう。

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ツイッターノミクス
 マーケティング部門はもとより、ツイッターが開きつつある新しいマーケットを理解するために、年配の経営者にも一読を勧めたい。本書を一読しておけば、ツイッターによるマーケティングのごく基本的な失敗事例など(参照)は防げる。
 とはいえ、本書はやさしい口調で理路整然と説かれ、日米間の商慣例の差はあるとしても、概ね正しい内容でありながら、実際にこのツイッターの世界に入って、ツイッターとはなにか実感するという体験の側から見ると、また異質なもの、ある種の違和感もあるだろう。その内在の感覚(ツイッターという空間のなかでの生息感覚)をどのように企業がマーケティングとして探り当てるかまで、本書から読み解くのは難しいかもしれない。
 その陰画のような象徴事例になっているのが「第8章 アップルはなぜ人をわくわくさせるのか」だろう。本書未読のかたは、邦訳の標題からは、アイフォーンやマッキントッシュで有名なアップルとツイッター的なクチコミの効果が想像されるだろうが、同章で書かれているのは、ごく基本的な現代的なマーケティングの一部である。オリジナルの章タイトルも「Be Notable: Eleven Ways To Create Amazing Customer Experiences(心がけよう:顧客満足を最大限に引き出す11の方法)」で、形式的にもブログにありがちなリスティクル(参照)を肉付けている。項目は、「ディテールで差をつける」「ワンランク上をめざす」「感情に訴える」「楽しさの要素を盛り込む」「フロー体験を設計する」といったものが並び、それぞれに十分な説明が与えられている。本書の英書オリジナルの感想などを見ると、この章がもっとも優れているという評価も多い。たしかに、この章だけ切り出し、そこから本書をよりマーケティング志向の強い書籍に編集しなおすことも可能だろう(実は邦訳書の章構成はオリジナルと違っていてこの志向が見られるものになっている)。
 が、ここで気がつくのは、そうしたマーケティング手法がツイッターノミクスなのかと問われれば、そうではない。ツイッターの台頭がこの新しいマーケティングをもたらしたというより、ツイッターを興隆させた社会と情報の変化の必然から導かれる新しいマーケティング手法だということだ。ツイッターの位置づけは、むしろその大きな変化の潮流の随伴的な現象である。その現象がツイッターの内部からどのように見えるかというと、微妙な感覚の問題がある。しいていえば、差異化と文化戦争のゲームなのかもしれないと私などは思う。
 このことは逆に新しいマーケティング戦略の成功例として賞賛されているアップルの実際のマーケティングとの齟齬を覆い隠すことにもなっている。ツイッター経済を暗示させる「ツイッターノミクス」のテーマは、一見すると、デジタル技術とソーシャル・メディアが発達から、従来のようなマネーベースの市場経済とは異なるギフト経済といったものが生まれつつあるかにように読めるし、実際著者はその視点で書いている。これらは「フリー〈無料〉からお金を生みだす新戦略」(参照)といった新しい経済感覚にも通じる。
 しかしこうしたギフト経済のように見える背後で、アップルが実際の収益を確保しているのは、端的なところではITMS(参照)が筆頭だが、市場の垂直的な囲い込みの結果にすぎない。グーグルなども実際には、広告モデルを別とすれば、国家が担う個人情報的な処理のニッチを囲い込むことで、国家税収でまかなわれるべき公的情報サービスの差分を収益化しているにすぎない。
 こうしたなかで、では、ツイッターのようなクチコミなどがどのように機能するかといえば、表面化しづらい収益モデルに対するある種の集団的な空気のような「善意の」イデオロギーによる誘い込みになりがちだ。アップルやグーグルの賞賛者や批判者が、あたかも正義の問題を論じているかのような様相を示すのはそのためだろう。
 現実に収益性の面での市場での勝利者の動向だけ見れば、アップルのような市場囲い込みか、あるいはグーグルのような擬似国家税的なモデルによって、本来脱イデオロギー的と設定されるはずの自由市場の自由性に対する異質性が現在世界に台頭しつつある。そこでは「ツイッターノミクス」は市場自体の固有の情報伝達機能を阻害するノイズとなりうるし、その効果がマーケティングだというに等しいことになりかねない。
 あるいは、アップルやグーグルといった覆われた新しい形態の利益独占モデルの企業と従来型の市場経済志向の企業の隙間にこそ、「ツイッターノミクス」なり、それを支えるソーシャル・キャピタル(社会資本)としてのマネーを補完する存在としてウッフィー(Whuffie)があるとも言える。
 ウッフィーとは、ごく簡単にいえば、ツイッターやミクシィなどのソーシャルネットワークを使って得られる名声・評判のことで、これを仮想の通貨み見立てている。元はコリィ・ドクトロウ氏のSF小説「マジック・キングダムで落ちぶれて」(参照)に描かれていた着想だ。
 本書のオリジナルタイトルが「The Whuffie Factor: Using the Power of Social Networks to Build Your Business(ウッフィー要因:ソーシャルネットワークの力を使って自分のビジネスを作り上げる)」(参照)となっているのもそのためで、本書は元来はツイッターをテーマにした書籍というより、ツイッターやミクシィなどのソーシャルネットワークを使って得られる名声・評判を活用して、マーケティングや個人企業に生かす手法を論じている。
 なお、"TwitterNomics"という用語はグーグルで検索してもWhuffieなどの用語に比べ格段にヒット数が少なく、欧米圏では実際的には存在していないか、あるいは、伝えたい思いを140文字という短いつぶやきにエコノミーに節約する技術といった含みがあるようだ。和製英語として定着するのではないだろうか。
 "TwitterNomics(ツイッターノミクス)"という邦訳書のタイトルはおそらく、「[書評]Wikinomics:ウィキノミクス(Don Tapscott:ドン・タプスコット): 極東ブログ」(参照)、「ウィキノミクス=ピアプロダクションについてのメモ: 極東ブログ」(参照)、「マスコラボレーションとピアプロダクションの間にあるブルックスの法則的なもの: 極東ブログ」(参照)でふれたウィキノミクスからの連想だろう。
 ウィキノミクスがどちらかといえば、共同作業による生産の側として見ているのに対して、本書ツイッターノミクスはマーケティング志向の消費の側として見ている。捉える側面の差があるとはいえ、同質の社会現象を扱っているとも言えるだろう。
 その意味で、本書はツイッター自体をテーマにしたものというより、ツイッターに代表されるソーシャルネットワークの名声を個人や企業がいかに高め、ビジネスに結びつけていくかという勝間和代氏的なテーマになっており、広義にはブログも含まれる。
 ブログによる名声からビジネスへの経路として見る場合、私もひとりのブロガーとしてその内在の側から見るなら、本書の提言は概ね当てはまるともいえるが、当てはまらない点も多く感じる。
 日米間のネット文化の差異もあるかもしれないが、ブログの閲覧者数やツイッターのフォロアー(特定の個人の発言を受信する人)の数は、現実にはウッフィー的な名声よりも、テレビ・タレントや知識人などすでに確立された著名人、ないし、特定の社会運動の指導者といった層のほうがはるかに大きい。人気の高い内容も、ウッフィー的な名声の基礎になる善意というより、株取引など金銭情報に関連するもののほうが人気がある。
 こうしたことは、ツイッターやブログなどのメディアの内在ではごく自明のことで、本書のウッフィーの原則には当てはまらないか、当てはまる上限はいわゆる知名人の人気の十分の一程度であろう。本書を丹念に読めば、そうした限界性のなかで個人の十分な名声を確立する手法として限定されているとも理解できる。
 私自身長くブログを運営していて共感できるのは、本書「第5章 ただ一人の顧客を想定する」の内容だ。旧来のマーケティング手法のように、読者ターゲットをグループセグメント化して運営するのではなく、ただ一人の理想的な(マックス・ウェーバーの言う理念型的な)読者を想定して情報を発信したほうがよいというのは納得できる。私のこの世界での内在的な感覚でいえば、数値化されうるようなウッフィーやあるいは既存メディアの名声の転写的な人気に対して、個というものがどのように確立された見解を持つか、その細い連帯のなかで、衆を頼むような傾向に本質的に対抗していくことにこそ、このメディアの本来的な意義があるように思う。

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2010.03.11

ギョベクリ・テぺ(Göbekli Tepe)遺跡のこと

 ネットで有名な文科系の知識リソースの一つに「世界史講義録」(参照)があり、はてなブックマークでは5000近いブックマークがされている。高校の先生が講義ノートをまとめたものらしい。久しぶりに訪問してみると、宗教史に関連する一部は「ものがたり宗教史 (ちくまプリマー新書:浅野典夫」(参照)となっているようだ。ちくま新書なのは、「[書評]中学生からの哲学「超」入門 ― 自分の意志を持つということ(竹田青嗣): 極東ブログ」(参照)で触れた同書の推薦があったからではないだろうか。
 さて、私はといえば、このサイトの冒頭の話をざっと読んだとき、高校生の授業としては妥当な内容ではないかなと思ったが、率直にいうと、私が高校生のころの学校の世界史とあまり変わってなくて(ちなみに私は高校生のころトインビーも読んでいた)、自分では興味がもてないでいた。私が現在の高校生にこの分野の本で勧めるとしたら、「世界史の誕生 (ちくま文庫:岡田英弘」(参照)か「これでいいのか世界史教科書 人類の転換期に問う (カッパ・サイエンス:謝世輝」(参照)かなと思った。これらの本もしかし、もうだいぶ古くなった。
 「世界史講義録」に触れたのは、批判という意味では全然ないが、普通文明の起源は現在の通説でもこう考えられているのかなと思ったからだ(参照)。新石器時代に続き、農耕の起源が語られる。


 次に農耕の起源です。メソポタミア地方で最初の農耕が始まったというのが従来の定説でしたが、最近いろいろな発掘調査で、中国の長江流域ではそれより遙か以前、1万3千年前くらいから稲作が始まっていたことがわかってきました。
 長江流域で定住生活が始まったのはさらにさかのぼって、1万6千年前といわれています。人は定住して土器を作成しはじめます。先日(4月17日)朝日新聞に載っていましたが、日本でも1万6000年前の土器が出土しています。
 これからも世界各地で、さらに古い遺跡が発見される可能性は充分あります。農耕の起源、発生地については、今のところ不明です。
 メソポタミア地方では、約7000年前には麦作と牧畜が始まります。イラクのジャルモ遺跡が有名です。

 間違いということではない。きちんと「農耕の起源、発生地については、今のところ不明です」と触れているのはよいことかもしれない。そして、農耕の余剰生産物から宗教・都市・文明として語られる。

 農耕牧畜によって、食糧の収穫が予想できるようになる。うまくすれば、食べる以上に生産できる。その日その日を狩猟・採集で生活していたのに比べれば、どれだけ生活に余裕ができたことか。これを、食糧生産革命といっています。革命というのは、世の中がひっくり返るような変化に対する呼びかた、と考えておいてください。
 ここから、ちょっと難しい話です。
 さっき、食べる以上に生産できた、と言いました。これ、難しい言い方で余剰生産物という。農業技術も改良されていきますから、余剰生産物は増加します。この余剰生産物が文明を生んだとってよい。
 余分な食糧ができると、働かなくてもよい人々がでてきます。
 以前ならみんなが同じ仕事をしていたのに、違う役割で生きていく人たちが出現する。これを、階級の発生といいます。
 どんな人たちかというと、まずは神に仕えるような人たち、神官です。たぶん、農耕がうまくいくように天候を神に祈る人々が最初にでてきた農業をしない人たちだ。
 邪馬台国の卑弥呼も一種の神官です。彼女は、奥にこもってみんなには顔も見せずに神に祈っている。特殊な能力があると信じられていたんだろう。
 神官は、一般の人たちからその能力を恐れられるでしょう。そして、権力を持つようになるんだね。
 権力を持つ者は、必然的に自分が生きていくのに必要以上の土地や家畜を持つようにもなります。私有財産という。
 神官以外に、戦士も生まれてくる。他の集団から自分たちの集団を守るためにかれらも農耕を免除されて、特権階級になっていく。職人も、農業以外の仕事だけをする人々だ。
 マジカルな能力、人並みはずれた体力や体格、技能、あるいは人格的統率力、そういう力を持つ人々がリーダー層になる。階級分化です。
 やがて、指導者が支配者となって国家が生まれます。
 国家といっても、村がそのまま国になる、小さなものです。吉野ヶ里遺跡なんかは、そんなものの一つでしょう。
 この小さな国家を歴史学では、都市国家といいます。自分たちの集落を守るため集落の周りには城壁をめぐらせます。都市国家はみな、城壁を持っています。
 国家の支配者は租税を集める。誰からどれだけ税を徴収したか記録する必要がでてくる。文字はそのために発明されたともいわれます。
 階級、私有財産、都市国家、そして文明が生まれてきます。

 いわゆるマルクス史観であり、正確にはエンゲルス史観というものだが、だから間違っているというのではないが、この考えは否定されつつある。また同サイトではこの先に、高校の授業らしく四大文明が上げられているが、四大文明説を取っているのは日本独自の文化ではないだろうか。余談だが、マルクスのいう「階級」というのは、上下階級という意味合いよりも、従事する生産の様式の差を言っている。
 さて、では、どう違っているのか。
 最初に宗教があり、聖地と神殿ができ、その維持のために人が集まり、集まるために農耕や定住が進み、都市ができ、文明となった。
 私は高校生のころからそう考えていたのでこの考えにまったく違和感がない。当時私は、生産様式とは人間の内面において宗教化されており、同一の構造であるとぶちあげていたものだった。まあ、少年にありがちな妄想でもある。
 この考え方、宗教が最初だ、というのはどこの話か。先日ニューズウィークの記事で見かけて、それ普通だろと思っていたのだった。記事は「History in the Remaking(作り直される歴史)」(参照)である。日本語版でも、ところどころ抜け落ちがあるが、翻訳された。見るとわかるが、トルコ南東部ギョベクリ・テぺ(Göbekli Tepe)遺跡の話である。先回りしていうと、(1)この遺跡が例外である、(2)現在の同遺跡の研究成果は定説ではない、という二点の留保は当然ある。長江の稲作については宗教が先行したとは言えないだろう。

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ギョベクリ・テぺ(Göbekli Tepe)


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ギョベクリ・テぺ(Göbekli Tepe)
スミソニアン・マガジン

 ニューズウィークの記事では、ギョベクリ・テぺ遺跡研究が通説を否定するとして、ジャーナリズムの記事らしくあえて興味をひくように書かれている。


This theory reverses a standard chronology of human origins, in which primitive man went through a "Neolithic revolution" 10,000 to 12,000 years ago. In the old model, shepherds and farmers appeared first, and then created pottery, villages, cities, specialized labor, kings, writing, art, and --- somewhere on the way to the airplane --- organized religion. As far back as Jean-Jacques Rousseau, thinkers have argued that the social compact of cities came first, and only then the "high" religions with their great temples, a paradigm still taught in American high schools.

この理論は人間起源の通説の年表を逆転させる。通説では、原始人は1万年から1万2千年前の新石器時代革命を経由したとされる。この古い通説では、羊飼いや農民が最初に出現し、それから陶工や村落民、都市、専業労働、王、文字、技芸、そしてその延長を一っ飛びして、組織宗教に至るとされる。ジャンジャック・ルソーを回顧するまでもなく、知識人は社会的集約都市が最初に形成されて、その後、巨大寺院を伴う高度な宗教ができるとした。米国の高校などでもこうした考え方がいまだに教えられている。


 その先が興味深い。というか、やや勇み足な話にまで踏み込んでいるように見える。

Religion now appears so early in civilized life --- earlier than civilized life, if Schmidt is correct --- that some think it may be less a product of culture than a cause of it, less a revelation than a genetic inheritance. The archeologist Jacques Cauvin once posited that "the beginning of the gods was the beginning of agriculture," and Göbekli may prove his case.

宗教はこうして見直してみると、研究者のシュミットが正しければ、都市生活以前の初期の段階で出現している。つまり、宗教というのは文化が生み出したものや啓示によるといより、人間の遺伝的形質によるもだと考える人もいるだろう。考古学者ジャック・コーヴァンは「神々の始まりが農耕の始まりである」とつぶやいたが、ギョベクリ・テぺ遺跡が当てはまるかもしれない。


 それでも、通説に反したというほどの話でもないようにも思えるし、NHKなどで時折放送されるギョベクリ・テぺ遺跡の話でも、そこに力点はさして置かれていないようにも思えたものだ。むしろこの遺跡の、ある種、異常さ、つまり異常な古さのほうが重要かもしれない。

The site isn't just old, it redefines old: the temple was built 11,500 years ago --- a staggering 7,000 years before the Great Pyramid, and more than 6,000 years before Stonehenge first took shape. The ruins are so early that they predate villages, pottery, domesticated animals, and even agriculture --- the first embers of civilization. In fact, Schmidt thinks the temple itself, built after the end of the last Ice Age by hunter-gatherers, became that ember --- the spark that launched mankind toward farming, urban life, and all that followed.

この遺跡は古いだけではない。古さということの考えを再考させる。寺院は1万1500年前に建築された。ギザの大ピラミッドより7千年も古く、ストーンヘンジが最初に組まれたときより6千年以上も先行している。この遺跡は、村落、陶器、家畜、農耕、これら文明の曙光よりも古いのだ。実際、研究者のシュミットは、この寺院自体、狩猟採集民による氷河期最後の時代に続いて形成され、この遺跡こそが、人類が農耕や都市生活、そしてその後の発展に至る最初の曙光となったと考えている。


 シュミット氏の研究以外でも、小麦の栽培や動物の家畜化が始まったのもこの地域であると見なされつつある。
 シュミット氏は15年前この地を訪れ、この研究に取り憑くかれ、定着し、トルコ人女性と結婚し、近在に暮らしている。壮大な夢に取りつかれた幸福というものだろうし、おそらく、彼の夢が人類の歴史を書き換えるだろう。

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2010.03.10

ワシントン・ポスト社説に取り上げられた民主党藤田幸久氏の持論

 米国時間で8日付のワシントン・ポスト社説が日本の民主党の参議院議員であり同院国際局長の藤田幸久氏の持論を取り上げていた。いちおう日本の大手紙もそれなりに紹介したが、国内でそれほど話題にはなりそうな気配はない。同社説は、米国側の一部の勢力の怒りを表現しているのだろうと聞き流してもよさそうなエピソードにも思えるが、気になる点もあり、もしかすると今後に大きな影響もあるかもしれないので、関連の事柄をまとめておきたい。
 朝日新聞ではワシントン・ポスト紙社説を「Wポスト紙、民主・藤田議員を酷評 同時多発テロ発言で」(参照)で次のように報道していた。


【ワシントン=伊藤宏】米紙ワシントン・ポストは8日付の社説で、民主党の藤田幸久国際局長(参院議員)が同紙に対し、2001年9月11日の米同時多発テロの犯人像に疑問を挟む発言などをしたとして「突拍子もなく、いい加減で、偽りがあり、まじめな議論に値しない」と酷評した。鳩山由紀夫首相が容認すれば、日米関係に影響するとも警告した。
 同紙は、藤田氏が最近の同紙による取材に対し、▽テロリストの犯行かどうかに疑問を挟んだ▽世界貿易センタービルの倒壊が(飛行機の衝突による)火災ではなく、起爆装置で起きた可能性があると示唆した、と紹介。そのうえで、こうした「幻想」は鳩山政権の「反米傾向」を反映していると指摘した。
 さらに「藤田氏のような無謀で事実に反した考え方を鳩山氏が容認するなら、日米関係が厳しく問われることになるだろう」と断じた。
 藤田氏は、野党時代の08年4月の参院外交防衛委員会で、国際テロ組織アルカイダのオサマ・ビンラディン容疑者の関与に疑問を挟む内容の質問をした。今年1月発売の週刊朝日でも、米国は犯人を特定しておらず、ビル倒壊の原因も再調査すべきだとの持論を展開。こうした発言はこれまでも米国の対日専門家らに批判されており、日米間の新たな問題に発展する可能性もある。
     ◇
 藤田氏は9日、朝日新聞の取材に「インタビュー後の懇談で、一議員としての考えを話したもので、社説は私の肩書を含めて間違った記述もある」と、党や鳩山政権の考えではないことを強調した。

 「同紙に対し……発言などをしたとして」および「最近の同紙による取材に対し」の部分だが、事実はワシントン・ポスト紙の記者のインタビューである。朝日新聞の記事では、このインタビューで藤田幸久氏が意見を開陳したかのように読めるし、また朝日新聞の取材では藤田氏は「間違った記述もある」としているが、この意見は藤田氏の持論でもあり、2008年1月10日国会でも繰り広げらており、周知のことである。ワシントン・ポスト紙も藤田氏がこうした見解の持ち主であることはすでに知ってのうえでインタビューしたものと思われる。
 9.11事件をめぐる藤田氏の国会発言の様子は海外でも話題になり、ユーチューブには英訳付きの映像が出回っている(参照参照参照参照)。オーストラリアのグループも藤田氏の持論に関心を持ち、氏を招致したことは、藤田氏自身のブログでも明らかにしている(参照参照)。この持論は書籍「9.11テロ疑惑国会追及 オバマ米国は変われるか(藤田幸久, デヴィッド・レイ・グリフィン, きくちゆみ, 童子丸開, 千早)」(参照)の共著にもまとめられている。同書は、鳩山首相の外交ブレーンと目される寺島実郎(日本総研会長)も次のように推薦の辞を寄せている(参照)。

安手の陰謀史観ではなく、粘り強く事実を追い詰めることは、現代史を謎に終わらせないために不可欠である。世界には、主体的に時代を解析・考察しようとする様々な試みがある。それらに目を行き届かせながら自分の頭で考えることが、複雑な情報操作の時代を生きる要件である。

 また同書の出版会は藤田氏のブログによると次のようなものであったらしい(参照)。

 冒頭、ジャーナリストのベンジャミン・フルフォードさんが挨拶し、9.11同時多発テロの政治的な背景が歴史的な戦略に基づいているという持論を展開し、会場を沸かせました。
 続いて、著者の一人である、きくちゆみさんが、同じ著者で、スペイン在住の童子丸開(どうじまるあきら)さんが作成して下さったスライドを使って今回の本を説明して下さいました。


 第二部の懇親パーティーは、「9.11の真実を求める政治指導者」の一人である、犬塚直史参議院議員が務めて下さいました。開会挨拶は藤田幸久政経フォーラム代表で、駿台学園理事長の瀬尾秀彰先生が行って下さいました。
 民主党を代表しての挨拶は鳩山由紀夫幹事長が行いました。鳩山さんは、このテロとの戦いの原点の追求の意義を述べると共に、入り口で「身辺をくれぐれも注意して下さい」と私に訴えた青年に応えるように、「命をかけても取り組む覚悟はありますよね!」と私の決意を確認して下さいました。

 現鳩山首相も藤田幸久氏の決意を支援しているとのことである。
 読売新聞の報道「米紙、9・11陰謀説の民主・藤田議員を酷評」(参照)も朝日新聞報道とあまり違いはなく、「酷評」と見ている。

 【ワシントン=小川聡】米ワシントン・ポスト紙は8日付の社説で、民主党の藤田幸久国際局長が同紙のインタビューに応じ、2001年9月11日の米同時テロがテロリストの仕業ではなかったという「陰謀説」を示唆したとして、「民主党と鳩山政権に広まる反米的思考の気質が反映されたものとみられる」と批判した。
 社説は、藤田氏が米同時テロについて「株取引のもうけを狙った陰謀」の可能性を提起したと紹介。「こうした正気を失った過激派の空想に影響されやすい人物が、世界第2位の経済力を誇りにしている国の統治機関の中で重要な地位を占めている」として、民主党政権の反米気質と関連づけて解説した。
 そのうえで鳩山首相について、「日米同盟が安全保障の礎石だと再確認しているが、首相と民主党政権の行動は、そうした約束について疑問を提起している」と分析し、「首相が藤田氏のような向こう見ずで、事実を無視する党分子を大目に見るかどうかで、日米同盟が厳しく試されるだろう」と指摘した。
     ◇
 藤田氏は9日昼、「ワシントン・ポストの記者に雑談で話したことだ。内容がきちんと伝わっておらず、誤解がある。党の見解を述べたものではない」と述べた。
 藤田氏は、民間活動団体(NGO)をへて1996年衆院選で初当選した。2005年に落選後、07年参院選で茨城選挙区から立候補して当選した。

 読売新聞報道が朝日新聞報道と違う点があるとすると、ワシントン・ポスト紙の論点が藤田氏の持論を「酷評」しているというより、「民主党と鳩山政権に広まる反米的思考の気質が反映されたものとみられる」として、民主党政権全体の反米的思想を読み取っている点だ。
 毎日新聞報道「藤田・民主国際局長:「9・11、テロリストの仕業か疑問」 米紙が非難」(参照)では、藤田氏および鳩山氏側の反応を織り込んでいた。読売新聞報道と同様、民主党政権の問題を浮かび上がらせるようにしている。

 ◇「奇怪すぎる」
 【ワシントン古本陽荘】米ワシントン・ポスト紙は8日付の社説で、民主党の藤田幸久国際局長(参院議員)が、2001年の米同時多発テロ(9・11)を「壮大なでっち上げと考えている」と名指しで批判した。米政府内では藤田氏は外交分野で一定の影響力を持つ議員とみられており、鳩山政権にとって対米関係上の打撃になるのは必至だ。
 社説は藤田氏へのインタビューを基にしたもの。この中で藤田氏は「(9・11は)本当にテロリストの仕業か疑問だ」と主張。さらに、「影の勢力が計画を事前に知り株式市場で利益を得た」との考えを示唆したという。
 ポスト紙は藤田氏の考えを「奇怪すぎる」と非難。そのうえで、「鳩山政権と民主党内にいる反米主義者の見方に根付いたもの」として、藤田氏の個人的な考えとは言い切れないと分析している。
 ◇「事実歪曲」と反論
 藤田氏は9日、「(今月3日に取材を受けた後の雑談で)不明なままになっている事件(9・11)の諸点を指摘した」にすぎないと反論するコメントを発表。社説は、藤田氏を参院外交防衛委員長であるかのように書くなど事実関係に誤りがあるとして、「事実を歪曲(わいきょく)した扇動的報道」と主張した。
 ◇首相「個人の見解」
 鳩山由紀夫首相は9日、「藤田議員の個人的見解だ。党の見解でもないし、ましてや政府の見解でもない」と述べた。

 産経新聞報道「「見解はインチキ」米紙が民主・藤田参院議員の「9・11発言」を批判」(参照)は古森記者の定番のスタイルでまとまっている。

 【ワシントン=古森義久】米紙ワシントン・ポストは8日付の社説で「日本での有毒な思考」と題し、参議院議員で民主党国際局長の藤田幸久氏が、米中枢同時テロ(9・11)は公表されたテロリストの犯行ではない、と主張しているとして「インチキだ」と非難した。
 社説は藤田議員による同紙記者らとの最近のインタビューでの発言として、「彼は米国のアジアでの最重要な同盟国の外交政策エリートであるはずなのに、9・11テロは巨大なでっちあげだと思っているようで、その見解はあまりに奇怪、かつ知的にインチキだ」と酷評した。
 社説はさらに藤田議員が9・11について「本当に公表されたテロリストの犯行かどうか疑わしく、別の陰の勢力が株の利益を得るために実行したとして、19人の『実行犯』のうち8人はまだ健在だとする妄想的な話を広めている」とも指摘。9・11に関しては全世界で多数の陰謀説が出てはいるが、「藤田氏の場合、珍奇なのは常軌を逸した想像を信じ込む人物が世界第二の経済大国の政権与党の重要な地位についているという点だ」と指摘した。
 社説はさらに「藤田議員の見解は激しい嫌米傾向に根ざし、その傾向は民主党や鳩山政権全体にも流れているようだ。鳩山由紀夫首相が藤田議員のような無謀で事実に反する要員を自党内に許容するとなると、日米関係は深刻な試練を受ける」とも述べた。
 なお藤田議員は昨年3月、9・11の犯人特定に疑問をぶつける本を編著者として出版し、その推薦人には日本総研の寺島実郎氏らがなっている。同書の出版記念会には鳩山氏も出席したという。

 産経新聞ではさらに藤田氏側の見解を別記事「民主・藤田参院議員 米紙の批判に「発言を歪曲され心外」」(参照)にまとめている。

 民主党国際局長の藤田幸久参院議員は9日、産経新聞の取材に対し、米ワシントン・ポスト紙が2001年9月11日の米中枢同時テロがテロリストによるものではないとの「陰謀説」を藤田氏が示唆したと批判したことに対し、「発言を歪曲されたのは残念だ。陰謀論とは一言もいってないと度々伝えた。陰謀論をとっているかのような書き方をされたのは心外だ」と反論した。藤田氏は「9・11についてのインタビューではなかったし、党国際局長としての取材は受けていない。肩書きも間違っている」と指摘した。
 これに関連し、鳩山由紀夫首相は9日夕、首相官邸で記者団に対し「藤田議員の個人的な見解であって、党の見解でもないし、ましてや政府の見解でもない。これに尽きる話だ」と述べ、問題視しない考えを示した。

 藤田氏は「陰謀論とは一言もいってない」とのことだが、朝日新聞記事の補足で触れた内容からすると、藤田氏はそれが陰謀論だという認識を持っておらず、陰謀論と受け取られることが心外だとみなしているということだろう。また、鳩山首相のコメントからは、このような持論を持つ人を外交問題関連に据えていることが問われていることを理解していないことがわかる。
 問題の起点となるワシントン・ポスト紙社説「A leading Japanese politician espouses a 9/11 fantasy」(参照)だが、国内報道の確認と今後の問題を考える上で、試訳を添えて引用しておきたい。

YUKIHISA FUJITA is an influential member of the ruling Democratic Party of Japan. As chief of the DPJ's international department and head of the Research Committee on Foreign Affairs in the upper house of Japan's parliament, to which he was elected in 2007, he is a Brahmin in the foreign policy establishment of Washington's most important East Asian ally. He also seems to think that America's rendering of the events of Sept. 11, 2001, is a gigantic hoax.
 
藤田幸久は日本の与党民主党の有力議員である。同党の国際局長かつ2007年以降参議院の外交調査会長として、彼は米政府の極東同盟国において外交政策決定上の重要人物である。反面、彼は米国が9.11事件とみなすものを、壮大な陰謀と考えているようだ。
 
Mr. Fujita's ideas about the attack on the World Trade Center, which he shared with us in a recent interview, are too bizarre, half-baked and intellectually bogus to merit serious discussion. He questions whether it was really the work of terrorists; suggests that shadowy forces with advance knowledge of the plot played the stock market to profit from it; peddles the fantastic idea that eight of the 19 hijackers are alive and well; and hints that controlled demolition rather than fire or debris may be a more likely explanation for at least the collapse of the building at 7 World Trade Center, which was adjacent to the twin towers.
 
国際貿易センター攻撃についての藤田氏の考え方は、最近の我々のインタビューからすると、まともに取り扱うには奇っ怪すぎ、不完全で、知的装いをこらしたインチキである。彼はあの事件がテロリストの仕業だろうかと問い、株式市場から利益を得るために陰謀を事前に知っていた闇の勢力を示唆し、19人のハイジャック犯のうち8人は健全に生存しているという幻想的な考えをまきちらし、少なくとも火事や瓦礫はツインタワーに隣接していた7つの国際貿易センタービルの倒壊を説明するというより、制御された爆破であったとほのめかしている。
 
As with almost any calamity whose scale and scope assume historic proportions, the events of Sept. 11 have spawned a thriving subculture of conspiracy theorists at home and abroad. The only thing novel about Mr. Fujita is that a man so susceptible to the imaginings of the lunatic fringe happens to occupy a notable position in the governing apparatus of a nation that boasts the world's second-largest economy.
 
歴史的な事件としてその規模と影響範囲を見れば他の災害と同様、9.11はあれやこれやの陰謀論を国内外に巻き起こしてきた。藤田氏について唯一斬新な点は、少数過激派の幻想に影響されやすいこの人物が、偶然とはいえ、世界第二位の経済大国を自認する国家の政権内で重視されるべき地位を持っていることだ。
 
We have no reason to believe that Mr. Fujita's views are widely shared in Japan; we suspect that they are not and that many Japanese would be embarrassed by them. His proposal two years ago that Tokyo undertake an independent investigation into the Sept. 11 attacks, in which 24 Japanese citizens died, went nowhere. Nonetheless, his views, rooted as they are in profound distrust of the United States, seem to reflect a strain of anti-American thought that runs through the DPJ and the government of Prime Minister Yukio Hatoyama.
 
藤田氏の視点が日本で広く共感されていると信じるにたる理由はなく、我々はそのような視点は共感されないと思うし、日本人の多くはこの陰謀論に困惑しているだろう。藤田氏は二年前日本政府が9.11攻撃について、日本人24名が死亡したとして、独立調査を行うことを提案したが、立ち消えになった。それでもなお、彼の考えは、深い米国不信にあり、鳩山由紀夫首相の日本民主党に行き渡る反米思想の圧力を反映している。
 
Mr. Hatoyama, elected last summer, has called for a more "mature" relationship with Washington and closer ties between Japan and China. Although he has reaffirmed longstanding doctrine that Japan's alliance with the United States remains the cornerstone of its security, his actions and those of the DPJ-led government, raise questions about that commitment. It's a cliche but nonetheless true that the U.S.-Japan alliance has been a critical force for stability in East Asia for decades. That relationship, and its benefits for the region, will be severely tested if Mr. Hatoyama tolerates elements of his own party as reckless and fact-averse as Mr. Fujita.
 
昨年夏選出された鳩山氏は、米国政府とより成熟した関係と、日中の緊密な結びつきを求めた。日米同盟は日本の安全保障の礎石であるとその長期展望を鳩山氏が再確認したとしても、彼の行動と民主党の行動は日米同盟への関与に疑念を抱かせるものだ。日米同盟が東アジアの安定のために何十年にもわたり決定的な力となってきたことは、決まり文句だとはいえ真実である。日米関係とそれによるこの地域への恩恵は、もし鳩山氏自身が率いる党内で藤田氏のような無鉄砲で事実に反する要素を容認しているなら、厳しい試練に会うだろう。

 鳩山政権に対して、"will be severely tested"(厳しい試練に会う)という結語をどう理解するかが、ワシントン・ポスト紙社説理解の鍵になるだろう。
 オリジナルを読むとわかるが、藤田氏の持論自体にワシントン・ポスト紙が関心を寄せているのではなく、民主党政権に反米思想が蔓延していることの懸念の一例としてあげられているにすぎない。
 民主党政権に反米思想を読み取るかどうかは、現状、米国の主流の考えになっているとは言い難いので、"will be severely tested"(厳しい試練に会う)は、米国政府側が今後日本の民主党政権をテストするというよりも、民主党政権の外交政策条がもたらす必然的な帰結、具体的には安全保障上の事態が必然的に日本に試練をもたらすことになると、ある程度距離をおいて見ていると理解したほうがよいのではないか。

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2010.03.09

夢破れしアイスランド、そしてゲノム創薬

 アイスランドの国家経済は実質破綻し、同国第2位の銀行であるランズバンキ銀行も国有化された。同銀行の子会社で経営破綻したオンライン銀行アイスセーブの預金者について、アイスランド国民については一部補償されるものの、英国とオランダからの預金(債務)約50億ドル(約4500億円)はどうするか。議会は15年の返済を保証するとしたが大統領は承認を拒否し、6日国民投票が行われた。結果は予想通り否決された。預金の保護は英国とオランダが肩代わりすることになる。アイスランドの国際的な信用は低下するだろうし、現政権の維持も難しくなるだろう。EUとしても問題にはなる。が、アイスランドの人口は32万人ほどで、人口の規模だけでいうなら中野区くらいなものである。規模的には世界経済に深刻な影響を与えようもない。アイスランドの問題で、私が気になっていたのは、ゲノム創薬の先端を走っていた同国のデコード・ジェネティックス(deCODE genetics)社のことだった。
 関連の記事が2月12日付けニューズウィーク「The World’s Most Successful Failure」(参照)に記事があり、日本語版でも翻訳があった。改めて言うまでもなく、同社は2009年11月17日米国破産裁判所にチャプター11の適用を申請し、事実上破綻した。その後、今年に入って、サーガ・インヴェスツルメント(Saga Investments)から出資を受け、1月21日、未上場企業として存続していくことになった。
 なぜデコード社が破綻したかというと、べたにリーマン危機の影響だった。同社は運転資金をリーマン・ブラザーズに依存していた。アイスランド政府も支援していたが、それも事実上破綻した。
 その前から同社の経営は危ういものだった。単純にこう言っていいのかわからないが、待望されていたゲノム創薬ができず、期待されていた売上の見通しが立たなくなっていた。私の関心はそこにある。
 奇妙なものだなと思う。ほんのつい数年前、例えば2007年の時点で、ネイチャーやサイエンスもゲノム創薬を謳い上げていたものだった。アルツハイマー、パーキンソン病、心疾患、癌など各種の疾病を引き起こす遺伝子が突き止められれば、その治療技術にも革命が訪れるといった雰囲気だった。同社は、2007年時点28種類ものSNPs(スニプス:個人差が現れる塩基配列部位)を発見していた。
 そもそも、アイスランドでなければデコード・ジェネティックス社の研究は成立せず、ある種アイスランドならではの奇跡にも思えた。バイキングの歴史をもつアイスランドでは、1000年近くも国民の家系図の記録が残っており、政府が管理している。
 創業者のカリ・ステファンソン(Kári Stefánsson)氏はそこに目をつけ、アイスランド政府と国民を説得して、その個人データ(家系図と疾病の記録)を使う約束を取り付け、ハーバード大医学部でのステータスを捨て、1996年、同社を創業したものだった。
 話題が沸騰していた2007年以降、どうなったか。それが概ねどういうことはない。まるで数年前まで大騒ぎしていた地球温暖化問題を今ではみんなすっかり忘れているようなものだ、というのは冗談だが、どうしたことか。
 ニューズウィークの記事ではそのあたりについて、実際に発見された遺伝子は、例外的なものであったり、また個人のレベルでは発症リスクが低かったりするらしく、直接創薬には結びつかないということらしい。
 現状でも同社は、ゲノム創薬に関わる各種の情報を維持しているらしいし、そこから驚くような創薬がないとも限らないが、望みは薄い。当面の経営は、ゲノム情報整理のコンサルタント業のようなものになる。数年前までゲノム研究を推進していた研究者は現在収集したデータに溺れているから、それの救出にあたるというわけだ。
 話が散漫になるが、技術やデータといえばGoogleが一枚噛みそうなものだが、と思い出せば、2007年にGoogleはゲノム解析企業23andMeに出資していた。というか、創業者の1人アン・ウォイッキ(Anne Wojcicki)氏は、Googleの創業者の1人サルゲイ・ブリン(Sergey Brin)氏の奥さんだ。同社のゲノム解析のサービスを試したブリン氏は自身の遺伝子突然変異からパーキンソン病にかかる確率が平均よりかなりと告白していた(参照)。Googleも潜在的には、ゲノム創薬と関わりは続けていくようにも思えるが、それでも2007年頃のゲノム創薬の話題の復活は、アイスランドの沈没とともにもう消えたような気がする。

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2010.03.07

朝鮮国連軍と普天間飛行場

 5日の参院予算委員会の質疑で、鳩山首相は普天間飛行場が国連軍の指定基地であるのを知らないと告白した。シビリアン・コントロールにおいて有事には自衛隊の長に立つ人がこんな認識でいいんだろうかというのと、やっぱりあれかなと思うことがあった。
 報道としては鳩山政権に批判的な産経新聞の5日記事「普天間に国連軍 首相、官房長官知らず 質問の「ひげの隊長」あきれ顔」(参照)が取り上げている。詳細は「参議院インターネット審議中継」(参照)で確認できる。


 鳩山由紀夫首相と平野博文官房長官は5日の参院予算委員会で、米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾(ぎのわん)市)が、休戦状態にある朝鮮戦争の再発に備え日本にいる国連軍の指定基地であるのを知らないという失態を演じた。普天間移設には国連軍の扱いも必要だが、国連重視を唱える政権にもかかわらず、首相と平野氏の念頭にはなかったことになる。
 質問したのは、陸上自衛隊のイラク先遣隊長だった「ひげの佐藤」こと佐藤正久参院議員(自民)で「そこも分からずに移設をうんぬんするのはおかしい」とあきれ顔だった。

 質問を受けた鳩山首相は「教えていただいたことに感謝する」と白っと述べて頭を下げたが、その重要性を理解しているふうではなかった。産経新聞記事の「失態を演じた」という表現は適切であろう。
 平野官房長官はまた、「国連軍の形でいるか分からないが、座間に国連軍の旗を掲揚している」「正規の国連軍は日本に駐留したことはない」とも答えた。産経新聞はこれを「迷答弁」としているが、ここは少し違う。
 先程「やっぱりあれかな」と書いたのはこのことで、平野官房長官が返答したように、座間の基地でも普天間の基地でも行けば国連旗があるのはわかるものだし、要人の訪問ならきちんと説明を受ける。このあと、佐藤氏の質問は社民党党首の福島瑞穂少子化・消費者担当相に向かうのだが、その応答でも福島氏はこれらの基地を訪問して国連旗を確認していると述べている。
 つまり、鳩山首相は在日米軍基地というものを見たことがないということなのだ。あるいは説明を受けてきちんと見たことがないと限定してもよいのだが、少なくとも普天間飛行場移設問題が課題になる政権でありながら、この首相は一度も普天間飛行場の視察をしてはいないということだ。沖縄の人の思いを大切にと口では言いながら、沖縄を訪問し沖縄の人と対話もしたこともなければ現状も視察していない。そういうことなのだ。
 FNN「普天間基地移設問題 日本政府、あくまでも「ゼロベース」を強調も地元からは怒りの声」(参照)も補足しておこう。

 参院予算委員会で、自民党の佐藤正久議員は鳩山首相に、「勉強してください! 朝鮮戦争は終わっていないんです。まだ休戦状態なんです。日本の7カ所に、後方支援なり国連の基地がある。その1つが普天間基地なんです!」と述べた。
 これに、鳩山首相は「今、教えていただきましたことに感謝いたします」と答えたが、佐藤議員は「そこもわかんなくて、普天間の移設、ちょっとおかしいと思います」と批判した。

 普天間飛行場は、国連軍の基地でもあるのだが、これは朝鮮戦争の国連軍であって、正規の国連軍ではない。正規というのは、国連憲章第7章第43条が規定する特別協定により、加盟国から募られた軍隊を意味する。だが、この特別協定が過去結ばれたことはない。
 それゆえ、この国連軍は「朝鮮国連軍」とも言われる特殊な形態のものである。「[書評]ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争(ディヴィッド・ハルバースタム): 極東ブログ」(参照)でも扱ったが、1950年に朝鮮戦争の勃発した。このおり安全保障理事会に提出された武力制裁決議が当時の理事国ソ連の合意を欠いたまま議決され安保理勧告となった。この勧告に基づき、米国、英国、フランスなど10か国が「日本国における国際連合の軍隊の地位に関する協定」(通称、国連軍地位協定)(参照)を結び、16か国が参加して朝鮮国連軍が結成された。
 同協定に基づき、日本国内では、キャンプ座間(現在は横田飛行場)に国連軍後方司令部が設置され、 7つの在日米軍基地、座間、横田、横須賀、佐世保、嘉手納、普天間、ホワイト・ビーチ(現うるま市)が国連軍基地に指定された。このため、これらの基地は国連軍基地として朝鮮国連軍(現在8か国)の軍機が現在も利用している。
 この国連軍地位協定だが、利用について次のような規定がある。

第五条
1 国際連合の軍隊は,日本国における施設(当該施設の運営のため必要な現存の設備,備品及び定着物を含む。)で,合同会議を通じて合意されるものを使用することができる。
2 国際連合の軍隊は,合同会議を通じ日本国政府の同意を得て,日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約に基いてアメリカ合衆国の使用に供せられている施設及び区域を使用することができる。
3 国際連合の軍隊は,施設内において,この協定の適用上必要な且つ適当な権利を有する。国際連合の軍隊が使用する電波放射の装置が用いる周波数,電力及び類似の事項に関するすべての問題は,合同会議を通じて相互間の合意により解決しなければならない。
4 国際連合の軍隊が1の規定に基いて使用する施設は,必要でなくなつたときはいつでも,当該施設を原状に回復する義務及びいずれかの当事者に対する又はその者による補償を伴うことなく,すみやかに日本国に返還しなければならない。この協定の当事者は,建設又は大きな変更に関しては,合同会議を通じ別段の取極を合意することができる。

 この条項をどう解釈するかが難しい問題で、過去参院で「質問第四一号 普天間飛行場における国連軍地位協定の位置付けと在日米軍基地再編に関する質問主意書」(参照)が提出され、答弁書第四一号(参照)が存在する。
 これらの経緯について、鳩山首相と平野官房長官もまったくレクチャーを受けていなかったとしか思えない。佐藤氏が質疑後次のようにつぶやいているのも同情できる(参照)。

昨日の委員会、首相や防衛大臣「普天間基地が国連軍施設であること、海兵隊が沖縄でジャングル戦訓練を行っていること」を知らなかった事が判明。即ち政府が海外移転や九州移転を真剣に検討していないことの裏返し、始めから沖縄ありき故に事務方も説明していない模様。他方知識もゼロベースとのヤジも

6:23 AM Mar 6th via web
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SatoMasahisa
佐藤正久


 この問題はどう扱ったらよいのか。佐藤氏の質疑はこのあと、執拗に福島少子化・消費者担当相に朝鮮戦争の認識を問う形になり、福島氏は応答を拒絶する展開となったが、ことは朝鮮戦争というものの性質に関わっている。
 よく知られていることだが(鳩山首相は知らないかもしれないが)、朝鮮戦争は現状休戦状態にあり、朝鮮国連軍も、それに準じて存在している。地位協定の第24条・第25条に明記されているとおりだ。

第二十四条
 すべての国際連合の軍隊は,すべての国際連合の軍隊が朝鮮から撤退していなければならない日の後九十日以内に日本国から撤退しなければならない。この協定の当事者は,すべての国際連合の軍隊の日本国からの撤退期限として前記の期日前のいずれかの日を合意することができる。

第二十五条
 この協定及びその合意された改正は,すべての国際連合の軍隊が第二十四条の規定に従つて日本国から撤退しなければならない期日に終了する。すべての国際連合の軍隊がその期日前に日本国から撤退した場合には,この規定及びその合意された改正は,撤退が完了した日に終了する。


 では、この朝鮮国連軍の規定を理由に普天間飛行場の移設ができないのかというと、そうではない。実際上、地位協定の同項は基本的には国連軍は安全保障条約に従属することになるので、普天間飛行場の取り扱いについても、日米間の合意が優先されるとは言えるだろう。その意味では、普天間飛行場が国連軍利用に置かれているとはいえ、米国が承認する代替機能が提供されれば、本質的な問題とはなりえない。
 ただしこの問題に関連して、さらに難問が控えている。朝鮮半島有事の際、在日米軍はどのように行動するのだろうか。日米安全保障条約に基づくと思われているが、おそらく過去の関連経緯を見るに米軍は朝鮮国連軍下に入るだろう。この際、かつての朝鮮戦争がソ連不在で動いたように、ロシアや中国の合意なしに動くことがありえるだろうか? 私はないのではないかと思う。では、朝鮮有事に巻き込まれたとき、在日米軍はそれ以外にどう機能するのだろうか?

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2010.03.06

[書評]内定取消!  終わりがない就職活動日記(間宮理沙)

 昨年のこと、内定をもらっていたはずのある大学生(女性)が卒業式を一か月後に控えたある日、突然その会社から「スーツを着て来てください」と呼び出される。なんだろうと思いつつ向かうと、応接室に通され、若い役員と二人きりのいわば密室で「君はウチの会社に向いていない。どうせ鬱になって辞めるよ」「君は同期で一番レベルが低い。電話番も任せられるかどうか」「自覚がないようだから教えてあげるよ。君はクズの中のクズだ」と数時間にもわたり怒鳴りつけられる。

cover
内定取消!
終わりがない
就職活動日記
 理不尽というしかない状態に若い女性が突然に置かれた。そしてこの理不尽は三日で指定した資格を取れなど、その後も続いた。なぜこんな事態になったのか。彼女、つまり筆者の間宮氏は、自身に問題点があるのかと内省したが、納得できない。この状態を受け入れて内定を辞退することはできず、困惑し心身の不調にも陥った。それが本書「「内定取消!  終わりがない就職活動日記(間宮理沙)」(参照)の前半の話。
 後半は、この事態に立ち向かい、同じ境遇の仲間をインターネットで募り連携しあい、ブログにまとめ、さらに、書籍としてまとめた。同じような理不尽な境遇にある人にとっては、心理的な支えにもなるし、後半にまとめられている対応策は実際的な指針にもなるだろう。なにより、こうした社会の暗部が暴露されることで、企業側も同種のエゲツない態度を採りづらくなるという点で、社会的に意義深い書籍ともなるだろう。
 こう評してはいけないのかもしれないが、社会問題という文脈でなく、ひとりの若い女性のビルドゥングスロマンとして読んでも面白いと思った。同タイプの理不尽と限らず、社会のなかで大人になっていくときには、少なからぬ人が同じような理不尽に遭遇する。私も今思うと若い頃、似たような経験をしている。ある最終の面接で、どうも雰囲気が違い、奇妙な罵倒に合う。私は人からよく非難されて生きてきたが、私はそれをはねつけるほど強い人間ではなく、むしろ、相手の非難のなかにどれだけ客観的な合理性があるだろうか、合理的な非難であればできるだけ受け入れたほうがよいだろうという態度でいたので、その時も、相手の非難の合理性を考え込んでいた。
 本書の著者間宮氏も冷静にそういう視点をもっているので共感もしたが、幸い若い私のほうは違う展開になった。私がその問題を深刻に考えていることに対して、面接者が早々に手の打ちを明かした。これは一種のストレステストなんだ、面接のマニュアルで決まっていることなんだよ、そう深刻に考えなくていいんだ、というのである。安堵もしたが、落胆もした。つまり、私はその程度のストレステストに不合格であったということだ。そして、世の中というのは、このストレステストを経過した鉄面皮のエリートによって成り立っているのかと若い日の私は思った。が、その後の経験からするとそうでもない。厳しい娑婆で生きている人にはそれなりの独自の優しさというものはある。本書後半で若い著者を支えていく人たちもそうした人々であろう。
 自分語りのようになってしまったが、そうした経験も経た自分からすると、このブラックな話を、むしろブラックな担当者の側の視点でも読んだ。すでに著者も一連の騒動の後に理解しているが、なぜこんな事態になったかと言えば、大枠としてはリーマンショック以降企業の業績が低迷し、当初予定した新人採用が難しくなり、しかも内定取り消しとなれば企業側の責任になるので、それを回避するために、内定者から辞退を引き出そうということである。ブラック担当者はそれがお仕事ということであり、それなりに坦々とこなしていたのだろう。
 私の推測だが、この担当者はそれほど能力はないのではないか。一連の過程を見ているなら、著者間宮氏はクズどころではない宝石の原石である。それに気がつかず自身の保身に回った時点で、この担当者の無能が結果的に暴露されている。ただし、この企業はもしかすると、そういう有能な人材は必要としないのかもしれない。それどころか、日本の企業全体が、優秀な人材を必要としない状態になっているのかもしれない。

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2010.03.05

抗鬱剤は中度から軽度の鬱病には効かないという話

 ホメオパシー(homeopathy)という代替医療がある。健康な人間に投与すると特定の病気と類似の症状をひき起こす物質を、その病気の症状を示す人にごく少量投与することで治療になるというのだ。そんなのは偽科学だろうという非難はネットに多いし、私もホメオパシーは偽科学ではないかなと思っている(とはいえ実際にバリ島でファイアーアントにやられ腕が火膨れのようになったとき、知人の米人が処方してくれたホメオパシー薬で快癒した経験があるのだが)。先日のエントリ「[書評]代替医療のトリック(サイモン・シン、エツァート・エルンスト): 極東ブログ」(参照)の該当書も、ホメオパシーを闇雲に偽科学と断罪するのではないものの、無効であるがゆえに社会的に有害な治療だと論じていた。
 欧米の文脈ではそういう議論もあるだろうと思うし、そうした議論の興隆から英国では先日、英国民保険サービス (NHS: National Health Service) によるホメオパシーへの財政支援が廃止された(参照)。妥当な判断であると思うが、改めてその理由を問うと、ホメオパシー薬による治療はプラセボと変わらない効果しかないということだった。その話はサイモン・シン氏らの同書にもあった。なお、プラセボというのは比較対照用に効果がないようにできた偽薬である。
 が、同書にはもうちょっと面白い経緯も書かれていた。過去の臨床試験の分析を包括的に再分析するメタアナリシスをしたところ、ホメオパシーについてプラセボを上回る効果が見いだせたことがあった。1997年、権威ある医学誌「ランセット」に掲載された論文である。そんなバカな。轟々たる非難が沸き上がり、批判点を考慮して再度メタアナリシスをしたところ、今度は、ホメオパシーの効果は不明となった。無効ではなかったのである。そんなバカな、アゲインである。かくして別の学派がさらに徹底してメタアナリシスを行ったが、また似たような結論が出てしまった(「平均してみると、ホメオパシーには、プラセボに比べてごくわずかながら効果が認められたのだ」)。しかも、プラセボよりごくわずか効果がありそうだ。とはいえ、概ねホメオパシーの効果はプラセボと変わらないといえる。それで許してやろうじゃないか。この研究もランセット誌に掲載され、一連の話は、終わったことになった。結論、「ホメオパシー・レメディのアルニカに、プラセボを超える効果があるとの主張は、厳密な臨床試験からは支持されない」。
 シン氏は先の書で、この結果にやや不満だったのか、鍼治療に効果がないとしたコクラン共同計画を引き合いにして、「コクラン共同計画は、本当に効果のある薬の場合、有効性はきわめて安定しているため、さまざまな方法で検証できるという点をあらためて次のように述べている」とした。効果のある治療なら科学的に明白な結論になるはずだというわけだ。そうではない結果しか出てこないホメオパシーは、だから、問題があるのだという筆法である。
 ほんとかな。
 どうもそうでもなさそうなのだ。話はホメオパシーではない。抗鬱剤だ。抗鬱剤として認定されている薬剤に本当に効果があるんだろうか。つまり、プラセボを超える効果があるのだろうか。1998年コネティカット大学の心理学者アービング・カーシュ(Irving Kirsch)氏がメタアナリシスをしてみた。すると、偽薬との差はあまり出てこなかったのである。まったくないというほどのことはないが、抗鬱剤の効果の75%はプラセボであるという結論になった。そんなバカな。
 さらに研究が進んだ。2002年にはプラセボの効果は82%まで上がった。あー、つまり、抗鬱剤として処方されている効果の8割がたはプラセボなのである。しかも効果アリのアリの部分もそれほどたいしたことがなかった。シン氏がコクラン共同計画を引いて大見得を切ったような結果は出てこなかったのである。
 この話のネタ元は、ニューズウィーク「The Depressing News About Antidepressants」(参照)である。気になる人は読んでみるとよいだろう。日本語版ニューズウィークの3・10号にも翻訳記事がある。このネタがジャーナリズムに吹き出したのは、同記事にも紹介があるが、権威ある医学誌のJAMA(Journal of the American Medical Association)誌の今年の一月に掲載された「Antidepressant Drug Effects and Depression Severity」(参照)が背景になっている。
 同論文によると、ハミルトン鬱病評価尺度(HAM-D)による重度のうつ病患者には、抗鬱剤は有効といえるものの、中度から軽度の場合(HAM-Dで18以下)では、プラセボに対する優位性は無視できるほどに小さく、ないといってもよいものだった。鬱病患者に占める重度の割合は13%ほどなので、つまり、大半の鬱病患者には抗鬱剤を処方する必要がないという結論になる。これは、私の素人判断ではなく、共同研究者のホロン(Steven D. Hollon)氏によるものだ("Most people don't need an active drug")。
 どうしてこんなことになってしまったのだろうか? そもそも、なんでそんな薬が米食品医薬品局(FDA)に科学的な手順で認可されてしまったのか。何か間違いがあったのだろうか。ない。FDAの認可では鬱病の重症患者を対象していたためだ。ではなぜ、ここに来て抗鬱剤は効かないという話題が吹き出したかに見えるのか。私の個人的な見解をどさくさに紛れて言うとジェネリックになったからじゃねというものだが、それはちょっと科学的にはどうよという見解でもあるのでなんとも言えないことにしておきたい。それにしても不思議なことになってしまった。重症の鬱病でなければ抗鬱剤の効果の議論は医学的にはホメオパシーと同型であったとは。

cover
いやな気分よ、さようなら
自分で学ぶ「抑うつ」克服法
 いやそう不思議でもない。この話は、ニューズウィーク紙の記事でも言及されているが、実際にはすでに広く知られていることでもあった。BMJのクリニカル・エビデンス(参照)でもすでに概ねそのように示唆されているし、認知療法も同程度の効果であることを明記している。もっとも、それをもって鬱病に医学的な対応ができないというわけでは全然ない。先のカーシュ氏の見解は示唆深い。

As for Kirsch, he insists that it is important to know that much of the benefit of antidepressants is a placebo effect. If placebos can make people better, then depression can be treated without drugs that come with serious side effects, not to mention costs. Wider recognition that antidepressants are a pharmaceutical version of the emperor's new clothes, he says, might spur patients to try other treatments. "Isn't it more important to know the truth?" he asks.

カーシュ氏について言えば、彼は抗鬱剤の効果の大半がプラセボだと知るのは重要だと主張している。もしプラセボで改善するなら、鬱病は、価格については問わないとして、深刻な副作用のある薬剤なしで治療できることになる。抗鬱剤というものが、薬学上の「裸の王様」だという認識が広まれば、患者が他の治療をする励みにもなると彼は述べ、こう問いかけもする、「真実を知ることは重要じゃないかね」。


 他の療法の代表としては認知療法があるだろうが、薬物療法の双方をどのようにバランスよく見ていくかというなら、多少高価な書籍の部類になるが、デビット・D・バーンズ著「いやな気分よ、さようなら」(参照)は懇切に書かれているので参考になるかと思う。

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2010.03.04

トヨタ自動車と知識の本

 昨日、トヨタ車大規模リコール問題の米上院商業科学運輸委員会の公聴会が終わり、豊田章男社長の招致を含めた3回の米議会の公聴会が終わった。これは、結局なんだったのか? 現時点ではよくわからないことが多い。
 レクサスES350セダンの運転中にブレーキが効かなくなり、死の恐怖を覚えたというロンダ・スミス氏は2月23日の公聴会で「恥を知れ、トヨタ!」と発言し話題になった。ブレーキ・システムに問題があることが懸念される証言ではあった。だが、この証言に限定すれば、ウォール・ストリート・ジャーナル紙が報道したように(参照)、そのまま転売されその後の問題はない。国内でZakzakが識者コメントをまとめていたが(参照)、スミス氏証言自体にも疑問点が多い。象徴的な発言ではあったが、問題の本質とはあまり関係がないようだ。
 では何が問題だったのか。なぜ騒ぎになったのかという背景はわかりやすい。 米国自動車会社ビッグ3とその部品会社を中心にデトロイトを拠点とした全米自動車労働組合(UAW: United Auto Workers)は米国民主党議員の中間選挙献金送っており、それに見合った対応は迫られる。ワシントン・エキザミナー紙「UAW's invisible hand behind the Toyota hearing going on right now」(参照)より。


There are 25 Democrats on the House Committee on Oversight and Government Reform, 12 of whom have received campaign contributions of as much as $10,000 towards their 2010 re-election campaigns from the United Auto Workers union, which is a co-owner of General Motors, Toyota's main rival for U.S. sales.

米国政府改革小委員会の民主党議員は25名だが、うち12名は2010年中間選挙費用として全米自動車労働組合から1万ドルを受け取っている。この団体は、GMの関係者でありトヨタの販売上のライバルである。


 トヨタと敵対する企業から献金をもらう議員がトヨタの社長を招致して公聴会を開くことが悪いわけではない。それをいうなら、GMはすでに米国政府企業であるから米国政府自体がトヨタとの利害関係に置かれ、公平とはいえないということにもなりかねない。また、トヨタとしても、米国議会にロビイストを持っている(参照)。
 今回の公聴会での騒ぎは、単純にカネと政治の図柄で見る問題でもないが一つの背景にはなっている。ニューズウィーク誌「Congressional Kabuki」(参照)のマシュー・フィリップス(Matthew Philips )氏による記事ではこう描写されている。

It was obvious which committee members have Toyota plants in their district, and which ones do not. California Rep. Diane Watson, whose district is just north of Toyota Motor Sales headquarters in Torrance, beamed and greeted Toyoda by speaking Japanese, while the most blistering questions of the hearings came from Ohio Rep. Marcy Kaptur, whose district is in the heart of the rust belt and home to Ford and GM plants.

選挙区にトヨタ工場がある公聴会委員とそうではない委員の差は明白だった。カリフォルニア州ダイアン・ワトソンの選挙区はトーランスのトヨタ自動車販売本社の北に近く、豊田氏に微笑ながら日本語で挨拶した。他方、厳しい質問を投げたオハイオ州マーシー・カプター氏の選挙区はフォードやGM工場の拠点的な地域でである。


 トヨタの問題が明白ではないか、あるいは疑われているブレーキ・システムに本質的な問題がないなら、この公聴会はただ利害のディスプレイにしかならない。実際はどうであったかというと、この記事を書いたフィリップス氏はそう見ている。だから、これを大げさで実のない演技のたとえとして「歌舞伎」と評した。
 なぜ「歌舞伎」になってしまい、真相が追求されなかったのか。そもそも追求されるべき真相なるものがあるのか? 現状のところブレーキ・システムに疑いがあるなら、技術的な問題であり、公聴会での議論にはなじまない。実際、そのように収束していくかにも見える。
 だが、フィリップス氏の記事の論点は、トヨタが事故に関わる重要な技術情報をこれまでも組織的に隠蔽していたのだということにある。この隠蔽疑惑の中心にあるのが、この技術情報をまとめたとされる、知識の本(Books of Knowledge)の存在だ。日本語で読める報道では、1日付ロイター「米下院監視委員長「トヨタの内部資料隠匿の証拠を発見」」(参照)がある。

 米下院監視・政府改革委員会のタウンズ委員長は26日、裁判所に提出を求められていた内部資料をトヨタ自動車が繰り返し隠匿していたことを示す文書を入手したことを明らかにした。
 トヨタの元社内弁護士が委員会に提出した文書で、同社が人身障害に関わる裁判で「Books of Knowledge」と呼ばれる重要なエンジニアリング情報の開示を回避するため、原告側と和解していたことが明らかになったとしている。
 同委員長は北米トヨタの稲葉社長にあてた書簡で、この文書は「訴訟における組織的な法律違反、恒常的な裁判所命令の無視があったことを示している」とし、トヨタに対し説明を求めた。
 さらに、この文書は「トヨタが(米安全当局に対し)相当量の関連情報を提出しなかったのではないかとの非常に深刻な疑問を呈している」とした。

 また2月27日朝日新聞「トヨタが重要資料隠し? 米下院が追及」(参照)では、2003年から2007年にトヨタの企業内弁護士だったディミトリオス・ビラー(Dimitrios Biller)の関連に触れている。

 委員長の声明や稲葉社長への書簡によると、2003~07年にトヨタの顧問弁護士を務めたビラー氏が同委に出した書類は「(同社が)米国法を組織的に無視していたことを示唆している」という。
 同委はビラー氏の書類の検証結果として、トヨタは、裁判で求められた重要な電子書類を意図的に出さず、ビラー氏はその問題をトヨタの上司に警告していたと指摘。またビラー氏の話として、トヨタ内部では、車の設計上の問題やその対策を蓄積したデータベースをもとに、「知識の本」という秘密の電子文書を作成していたが、裁判には提出しなかった、とした。

 知識の本(Books of Knowledge)だが、フィリップス氏の主張ではトヨタ車の屋根の強度の問題なども記されているとのことで、これが明らになれば、トヨタは安全に関わる技術問題の知識をもっていながら、各種事故の裁判ではその知識を隠蔽してきた、ということになる。
 そうなのだろうか? 知識の本(Books of Knowledge)には、素人推測でも、安全面以外にトヨタの経営に関わる企業技術が含まれているだろうから、トヨタ側としては公開しづらいだろうと思う。
 この問題がどういう推移を辿るかだが、意外と先の政治的なフレームワークが事を決めてしまうのかもしれない。

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2010.03.03

[書評]その科学が成功を決める(リチャード・ワイズマン)

 世間にあふれる自己啓発本で書かれている内容、例えば、マイナス思考はやめてポジティブ・シンキングにしようとか、成功するためには成功したイメージを思い描こうとか、そういう話は本当なんだろうか? 本当ってどういうこと?

cover
その科学が成功を決める
 そういう自己啓発の要点について科学的に実験してみたら妥当性がわかるんじゃないか? ということで、その観点から既存の各種心理学的・社会学な実験論文をまとめたところ、自己啓発本のエッセンスの大半が、ハズレです、というのがわかる痛快な本だ。つまり、ポジティブ・シンキングしても事態は改善しないし、成功した自分をイメージしても成功しない。それどころか、逆効果のようだ。
 本書の目次を見ても自己啓発本の要点がスパスパと切られていくのがわかる。自己啓発はあなたを不幸にする、面接マニュアルは役立たず、イメージトレーニングは逆効果、創造力向上ノウハウはまちがいだらけ、婚活サイトに騙されるな、ストレス解消法にはウソが多い、離婚の危機に瀕している人への忠告はあてにならない、決断力には罠がある、ほめる教育をすると臆病な子供になるなどなど。うへぇ。
 私も自己啓発本は好きなほうだが、根っからの天邪鬼なんでそう真に受けてもいない。なので、それがバシバシと否定されていく展開は小気味良くも感じられる。あはは、こんな自己啓発を真に受けてやつは常識ないなあアハハといったものだ。ところが。
 実は、こっそりここだけの話だが、これは大切だと思っていた自分の人生の金科玉条もあっさり否定されていた。これにはうなったな。そ、そうなのかぁ? 実験の仕方に問題があるんじゃないかと動揺したのである。この本読んで、私みたいに動揺しちゃう人もいるだろうから、ご注意を。ところで、その金科玉条は何かって? 恥ずかしくて言えませんよ。
 かくして本書は破邪の本、魔王退散、アンチカツマーナムナム……といった話ばっかしというと、そんなことはない。奥義は白紙なのじゃ、みたいにカンフーパンダ(参照)のノリはなく、実験的に効果のある金科玉条がきちんと巻末にまとまっている。打ちのめされた私は、ええい、フリーの時代じゃ、奥義を全部引用しちゃうぞとも思ったが、それもなんなんで書店などで立ち読みしてくださいませ。たぶん、買ったほうがよいと思うが。
 で、奥義が簡単に読めるというのが、実は本書の一番のコンセプトだ。それがオリジナルタイトル「59 Seconds: Think a Little, Change a Lot (Richard Wiseman)」(参照)からわかる。つまり、役立つ自己啓発の要点を知るには、59秒もあればいい。ちょっと考えるだけで、人生に大きな違いが出るというわけだ。要点は、1分以内にわかるようになっているし、それを知ると知らないとでは人生に大きな差になるよというのだ。そうかな? まあ、そうだな。
 本書は、書籍としては、以前「[書評]脳は意外とおバカである(コーデリア・ファイン ): 極東ブログ」(参照)で紹介した同書と似たタイプだ。実際かぶっているところも多い。また、まだ書評を書いてないけど、「経済は感情で動く  はじめての行動経済学」(参照)など人間のありがちな間違い行動を研究した行動経済学ともかぶっている。その他、「絶対使える! 悪魔の心理テクニック」(参照)とか内藤誼人氏の著作や「心の操縦術」(参照)の苫米地英人氏の著作なんかともかぶるところがある。ああ、読んでいるのがバレて恥ずかしい。
 というわけで、この手の本自体が、地球温暖化懐疑論鑑賞と同じく酔狂の一環としてまったり好んでいる私からすると、四章の「実験結果3 暗示の効果で創造力を高める」で、「先に受けた刺激が後の行動に影響を及ぼすこの”暗示効果(プライミング)”が、さまざまな状況で起きることがわかっている」とある、プライミングを暗示効果と訳してしまうのは、痛いところだ。
 訳者もわかって割り切って訳したのだろうと思うが、プライミングは暗示効果とは違うし、違うところに要点がある。本書ではイメージ・トレーニングは効かないとしながら、反面暗示効果は創造力を高めるというのは、普通に読んでしまうと矛盾しかねない。プライミングについては、先の「脳は意外とおバカである」に詳しい解説もあるし、「[書評]サブリミナル・インパクト 情動と潜在認知の現代(下條信輔): 極東ブログ」(参照)で扱った同書にも関係するが、潜在意識のコントロールの問題だ。
 実は本書も、いわゆる奇手の自己啓発書として読まなければ、意識の矛盾に対してどのように潜在意識を制御するかというテーマが背景に潜んでおり、そもそも本書が参照する各種の奇異な実験は、行動経済学のように人間の誤謬行動のパターンの解析ということもだが、人の意識活動にどれだけ潜在意識が関与しているかという点に主眼があり、これはたいていは進化心理学として流布されてしまうが、ヒトという生物の種固有の行動パターンの研究の一環になっている。 本書が竹内久美子氏の「遺伝子が解く! 男の指のひみつ」(参照)の話題とかぶってくるのもそのあたりに接点がある。
 そうした点から見て、本書で私が一番興味深かったのは、行動経済学的でもあるが、集合知が機能しない各種の事例であった。中でも「集団は暴走する」は経験的にわかっていても、しんみりと納得する。

 人種偏見をもつ人々が集まると、個人でいるとき以上に人種問題について極端な決定を下すようになる。見込みのない事業に投資したがる実業家が顔をあわせると、破綻が目に見える事業にさらに金をつぎ込んでしまう。暴力的な若者が徒党を組むと、ますます凶暴になる。強い宗教的、政治的理念をもつ者同士が集団を作ると、考え方が極端になり暴力的になりがちだ。この現象はインターネットにも出現する。

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2010.03.01

[書評]「環境主義」は本当に正しいか? チェコ大統領が温暖化論争に警告する(ヴァーツラフ・クラウス、監修・若田部昌澄、訳者・住友進)

 本書「「環境主義」は本当に正しいか?」のタイトルには「環境主義」とあり、実際に読んでみるとそこに重点が置かれていることは理解できるはずだが、現在世界の課題として見れば、地球温暖化を扱っており、それゆえの白黒を問われるなら、どちらかと言えば、地球温暖化議論に否定的な立場にある。地球温暖化懐疑論として読まれてしまうかもしれない。

cover
「環境主義」は
本当に正しいか?
 しかしそう読むのなら、本書になんども言及があるように、ビョルン・ロンボルグ氏の「環境危機をあおってはいけない」(参照)以上の知見は含まれていないといってよいだろう。それでも著者ヴァーツラフ・クラウス氏は、ロンボルグ氏の比較的古い同書の他に、2007年時点でのロンボルグ氏の見解も当たり、できるだけ最新の情報に接しようとしている。さらに、ロンボルグ氏の師匠筋にあたるジュリアン・サイモン(Julian Lincoln Simon)氏やインドゥル・ゴクラニ(Indur M. Goklany)氏など、欧米では著名な学者への言及もあり、単純に温暖化懐疑論をロンボルグ氏から借りたというものではない。
 今私は「最新の情報」と書いたが、その「最新」は本書が刊行された2007年を指している。今回の日本語訳は2009年の第2版をベースにしたもので、国際的には日本語版は15番目の翻訳になる。この間すでに世界各国で本書は広く読まれており、むしろ日本語訳は遅きに失した感があるほど重要な書籍である。
 なぜ重要なのか。理由は、邦訳の副題にもあるように著者ヴァーツラフ・クラウスが現職チェコ大統領という国家元首であることだ。しかも経済学博士号を持ち、さらにハイエクやフリードマンらと同じくモンペルラン・ソサイエティーに所属する国際的な知識人でもあることだ。
 まさに本書の主張は、1947年、スイスのレマン湖畔ペルラン山で大戦後の自由主義経済の推進を目標とした経済学者らの思想の延長にある。端的に言えば、当時のモンペルラン・ソサイエティーはハイエクが代表的であるように、社会主義経済が人間の自由を奪うことに立ち向かったものが、現在世界において人間の自由を奪っているのは、「環境主義」ではないかという基調を持っている。

今日の環境主義主義者のやり方と、それから生まれた経済的、政治的な動きは、特に開発途上国において、自由と繁栄の両方を攻撃している。そこでは何千万という人々の存続が危機にあるのだ。


 誤解を避けるためにはっきりさせておくが、私には自然科学や化学的エコロジーを批判する意図はさらさらない。環境主義は、実際には、自然科学とはまったく無関係なものだ。

 こうした主張の背景には、すでにロンボルグ氏の見解などでも知られているが、現状の地球温暖化対策を実行しても、温暖化の十数年ほどの遅延にしかならないという経済学的な配慮がある。そうであれば、「環境主義」より、経済学的な思考によってトレードオフを検討したほうがよいだろうということだ。人類が直面している課題には、絶対的貧困、公衆衛生、民族間・イデオロギー間の紛争など山積みの状態であり、有限なリソースをもっと合理的に差異配分しなくてはならない。別の言い方をすれば、本書はその点で地球温暖化懐疑論ではない。
 自由と繁栄を思考する人類のために最善のトレードオフは、地球温暖化問題では、何か? その探求ために、クラウス氏は自身が得意とする経済学的な視点から、第4章で「割引率と時間選好」を論じ、未来の価値を考察する。第5章「費用便益分析か、予防原則の絶対主義か?」はクラウス氏自身が本書の最重要点としている。
 ここが本書の難しいところだ。議論が難しいのではない。議論はある意味で単純極まりない。例えば、農薬規制が例にあげられているが、農薬を規制遵守で使用しても穀物に残留し、その影響を換算すると米国で毎年20人が癌で死ぬことになる。そこで絶対的な予防原則を適用し無農薬にすれば、この生命を救うことができる。だが、その対価として穀物の価格は上がり消費量は10%から15%下落し、その影響による疾病で年間2万6000人が死ぬ。残酷だが、20人の生命と2万6000人の生命の選択が問われる。
 しかし、予防原則が絶対なものにされてしまえば、費用便益分析は不可能なり、経済学的な思考はそこで途絶える。ごく当たり前のことであり、それは必ずや愚かなトレードオフの別側面が帰結する。
 難しいのは、少なくとも読者の私にとって難しいのは、予防原則が絶対とされれば議論はただのナンセンスなることは理解できるものの、予測しづらい人類の危機に対する予防原則では、どのように妥当な費用便益分析にかけるべきなのだろうか。その手法がわからないことだ。
 おそらく本書の議論には含まれていなにせよ、人類の存亡が問われるかのような予防原則でも、経済学的な研究は伸展しているだろう。本書はその問いかけの第一歩であり、著者が一国の大統領でもあるように、国家の為政者にその課題が問われている。よりよき人類のあり方への政治プロセスを問ううえで、本書が世界各国で広く読まれているのは理解できる。

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