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2010.02.10

「ローマの休日」でアン王女のベッドシーンが想定されている箇所について

 先日といっても、一昨日の夜だったか、ツイッターをしていたら、その時間帯でNHK BSで映画「ローマの休日」をやっていたらしい。いやそれならステラで前もって知っていたのだが、私はこれのデジタルリマスター版(参照)を持っているので、とりわけ放送を見ることはないなと思っていた。

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ローマの休日
製作50周年記念
デジタル・ニューマスター版
 が、与太話ついでに、アン王女のベッドシーンが想定されている箇所について言及したところ、ご関心をもつ人がいたので、じゃあ、エントリにでも書きますかとかつぶやいたものの、ベッドシーンより世界経済に関心が向いてしまったので、昨日は書きそびれた。その後、あれ、書かないんすかみたいな話があったので、ほいじゃ、書いてみますかね。
 映画「ローマの休日」だが、ウィキペディアなんかにも情報があると思うが、名作映画の一つ。話は、欧州のどっかの国の王女であるアン王女一行がローマを訪問したおり、その夜、睡眠薬のあおりとちょっとしたいたずら心で勝手なお忍びでローマ市街に抜けだし、そこでイケメンのちょいとやくざなアメリカ人新聞記者のジョー・ブラッドレーと出会い、朝からローマを駆け巡り、そして王女という素性を明かさず恋に落ちるものの、翌朝未明に王女は別れ、お忍びを終え、新聞記者もはかない恋は終わったというもの。
 ローマ観光案内といった趣向もあり、お子様でも見ることができる楽しい映画だし、まあ、主役のオードリー・ヘプバーンがあまりに美人で快活としてぐっと惹かれる。大人が見ても、けっこう、くる。「真実の口」のシーンは、監督はヘプバーンにも知らせずに、いわばその場のハプニングの一発撮りだったようだ。このシーンなんか、ヘプバーンの魅力炸裂でちょっと鳥肌もの。
 オリジナルは「Roman Holiday」で、1953年製作のアメリカ映画。同年に1953年度のアカデミー賞でオードリー・ヘプバーンがアカデミー最優秀主演女優賞得た。最優秀脚本賞を得た脚本はイアン・マクレラン・ハンターによるものだが、これが実際の脚本はドルトン・トランボが書いたもの。当時、ドルトン・トランボは、レッドパージ(社会主義・共産主義者の追放)のさなか、疑われてハリウッドから追放されていた。1993年になって、アカデミー賞選考委員会は、この事実を明らかにし、ドルトン・トランボへ最優秀脚本賞をトランボの代わりに未亡人に授けた。
 私のデジタルリマスター版では、現代のデジタル技術を使って、イアン・マクレラン・ハンターからドルトン・トランボに修正されている。これ、背景風景もデジタルに作成しちゃったらしい。実際やるきになれば本編もかなりデジタル修正できるらしいのだが、あえてそれはしないということになった。なお、NHKの放送はどっちだったんだろうか。

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アナログ版:イアン・マクレラン・ハンター

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デジタル版:ドルトン・トランボ

 ところで、アンの初夜、ベッドシーンだが、レッドパージの時代だからというわけもなく、普通に映画では事実上の禁止(参照)。なので、そんなシーンは存在するはずはない。
 が、話の流れでは存在している。そして、それは、ここだぜ、というシグナルも脚本にしっかり書き込まれている。そんなに難しい箇所ではない。だって、恋に落ちて一晩のことなんだから。
 アン王女とジョーが夜、水辺の酒場で王女の国の追ってに捕まりそうになり、川に飛び込み逃げるというシーンから。

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水辺から上がり、ふたりともしっぽりびしょ濡れ

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その場でびしょ濡れで、キッス

 そして、二人はジョーの住処へしけ込むのだが、その間、やっている。ので、しばらくやってます、映画はしばらくお待ち下さいのシーンで止まる。

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むこうの宿のお二人の初夜を遠くでまったりお待ち下さい

 ことが終わったので、二人のシーンに戻る。

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アン王女がジョーのものを羽織ってバスから出てくる

 重要なのはこの会話。

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ジョー:Everything ruined? / アン王女:No. They'll be dry in a minute.

 男曰く「みんな台無しになっちゃったかい?」 おお、深いその言い方。しかし、ここで表層的に言っているのは、水に濡れた服装のこと。
 女曰く「ちがうわ。服ならもう少しで乾くわ」 おお、深いその言い方。もうしばらくすると、服は乾くわ、つうのは、その間、服は着とらん。その時間が、じっくり、服が乾くまでの時間でした、と。いや、いくら乾燥したイタリアの空気だからって、長過ぎか。
 というわけで、先ほどのお待ち下さいシーンが、ベッドシーンでした。
 その後の男の台詞もぐっとくる。

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ジョー:Suits you. You should always wear my clothes.

 それが合っているなら、毎回ボクのそれを着てもいいんだよ、ということ。つ・ま・り、今後も、そうしてくれてもいいんだ、つうこと。
 いやはや、なかかか短い台詞のなかに、ドルトン・トランボは深い意味を込めているし、脚本、これはすごいなという代物。

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ニホン語、話せますか?
マーク・ピーターセン
 で、私がこれを少年時代見たときわかったか? わからん。その後もわかったかというと、それほど台詞を気にしてなかったので、関心がなかった。はっきりわかったのは、「日本人の英語 (岩波新書)」(参照)や「ロイヤル英文法」(参照)で有名なマーク・ピーターセン氏の「ニホン語、話せますか?」(参照)でじっくり解説してあったから。
 別れの車の中のシーンについてピーターセン氏はこう述べている。

 アンの歳は、台本では具体的に示されていないが、役柄から推すと、18から22くらいだろう。そして、2、3時間前までは処女だった。ここで、彼女は初めて男を知り、しかもその初めての男に、もう二度と会えないのだ。こういう彼女の置かれている立場を考えれば、その非常に切ない表示に初めて納得がいき、このワンシーンは、初めて泣ける場面になるのである。
 逆に言えば、初体験ではなく初キスで終わった、というつもりでこの映画を観てしまうと、『ローマの休日』は車の中のこの場面のせいで、まるでアイドルが出演するテレビドラマ程度の味気ないものになってしまう。ダルトン・トランボは、『いそしぎ』『ジョニーは戦場に行った』など、長いキャリアで数多くの傑作を書いたのだが、どれも洗練されたものばかりで、子供向けの作品は一つもないのである。

 同書は他にもいろいろと解説があって面白いし、その他、村上春樹の翻訳などいろいろな話題もある。
 「ローマの休日」の脚本対訳は「名作映画を英語で読む ローマの休日」(参照)が便利だけど、該当部分の訳はそっけなく、「全部台無し?」「いいえすぐに乾くわ」なので、ちと詳細がわかりづらい。


追記
 違うだろゴラぁコメントを多数戴いたが、各人の解釈はあるだろうと思う。ピーターセン氏はエントリ引用部以外にももう少しじっくり解説しているが、それ以外に私から2点サポートできるとすれば、(1)Hays Code(参照)はこの時代映画制作者のみならず鑑賞側にも前提となる文脈だったこと、(2)この物語の構造は2つの夜の差異を描いていること、がある。
 二度目の夜は最初の夜との対比としてコード化されている。では、その最初の夜はどう差異化されいるかがわかると、その差異の対応として次の夜の予告がわかる。
 最初の夜が明け、朝目覚めてジョーと会話しているとき、アン王女は着ているものが違っていると知って自身の身体をまさぐっている。手は明白に下半身に伸びている。なにかを確認したい。

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着せられたパジャマの下を手でさぐっているアン王女

 次のシーンの会話が大人は笑うところ。

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ジョー:Did you lose something? / アン王女:No

 ジョー曰く、「何か喪失した?」、もちろん、それは比喩的含みがある。アン王女は、「いいえ」と答える。下半身をさぐって何かを確認したから。
 その後の会話も示唆的。

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アン王女:So I've spent the night here with you?

 アン王女曰く、「あなたと一晩ここで過ごしてたわけね?」なのだが、それが、当時の英語でどういう意味を持っているかは、ジョーが解説する。

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ジョー:Well, I don't know that I'd use those words exactly.


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ジョー:but from a certain angle, yes.

 ジョー曰く、「そうだね、そういう言い方が正確かわからないが、しかし、見方によっては、そうだと言えるね」
 ということで、最初の夜でも、ある見方ではそうだった。それが、第二の夜でどうexactlyになるかというのが、この台詞の予告だし、この物語はそういう構造でできている。

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「書評」カテゴリの記事

コメント

当時の風呂は、湯沸かし器もないし、薬缶でお湯をわかして、追加していく、これ、そうとう時間がかかる。セックスどころでないぐらい、ドタバタする。

もし、科学的にいうと、脱水機を使わず、手でしぼった場合、どんなに乾燥していても、半日以上かかる、洗濯ものに陽があたっていたとして。だから、この件は、最初から無効で、邪推だろうね。

つまり、ドタバタをカットしたまで。

髪も乱れていないし、単純に、そういう状況の会話を楽しみつつ、脅しているんでしょ。もし、このことが世間に知れたら、二人には関係があったことになるわよね。と。

どちらかというと、カメラマンが相当嫉妬していたみたいだから、記者の恋人なんじゃないかしら。で、二人に関係がないことを知って、ラストシーンで写真を返した。記者は、いきたくなかったのだけど、仕事。カメラマンが前にでる都合上、先頭にいただけ。

この映画は、ライオンが檻から逃げて、暴れまくって、それをニュースに金儲けしようと思ったが、結局、記者はうまくやられてしまったという映画でしょ。これを、恋愛映画にしたてた。売れるように。

しっかり、自分の目で映画を見ていない、証拠だったりして。

投稿: | 2010.02.10 18:23

ちゃんと、自分の頭で考えた方がいいと思うぞ。

投稿: | 2010.02.10 18:24

ラブシーンはあからさまにできない時代で、妙な空気がある頃の日本では、とてもセンセーショナルな映画でしたね。それは、見てもいいのに見ちゃいけないもののような。映画にキスシーンがあるのは、当時としては公序良俗に反するというくらいの日本だったと思います。とても懐かしい。

この映画を最初に見たのはいつだったか忘れましたが、文中のシーンで、グレゴリー・ペックがセリフを言うときの目線は、流石と思いました。仄めかしの美学というか、男の照れとか、将来的な展望を密かにもつ男のインテンショナルな願望を演技している辺りに醍醐味を感じます。
 
醍醐味ってどんな味かって、チーズ味のような、、、でしたっけ。

投稿: godmother | 2010.02.10 18:34

「アイスコーヒーって日本にしかないんだよ」という説がありますが、ローマの休日でグレゴリーペックがアイスコーヒーを注文するシーンがあります。台詞はcold coffeですが字幕がアイスコーヒーでして。
で、実際にイタリア・ローマに旅行に行った人がアイスコーヒーを注文しても通じなかったということもありまして、海外文化は摩訶不思議なのであります。

投稿: てんてけ | 2010.02.10 20:31

この場面、大人になって観るとそうですよね。何年前の再放送で(年に一回はやってる気がします)そろそろ子供にでも見せっか、と思いながら見ていましたが、この場面で、やっぱりやめとこ、と思ったものです。自分が青年のころすら、そこまで頭は回りませんでしたから、どうってことないんでしょうが。

投稿: | 2010.02.10 22:10

えー?!?!
そう言うお約束の場面だったの???

あ"〜、エログロを極めた中年のつもりでしたが、ヘップバーンでエロがあるなんて考えもしませんでした。
なんかショックだなぁ・・・と言うわけでyoutubeでローマの休日を見てみました。

床屋のマリオはパーティーは9時からと言っていたので、いったい王女とジョーは何時間サンタンジェロにいたんでしょうか?
サンタンジェロからジョーのアパート(マルグッタ通り51の37)まで歩いて20分ほど。
そこを「アービングの車で」と言っているから半分の10分たたずで帰れるはず。(アービングは歩いて帰ったのか?)
すると帰宅中に服が乾くと言うことはなさそう。

で、ハンターのシナリオもチェックしました。
ハンターのシナリオには場面転換のテラスの映像について何も書かれていません。
ただJoe enters his apartmentとなってました。
するとシナリオでは丁度帰宅したところからアパートの場面が始まるはずだったんですね。
ところが、撮影された映像ではジョーはクローゼットから出て来る。
で、クローゼットのドアのノブに濡れたままのズボンが掛かって、これをジョーはクローゼットの奥に投げ入れる。
つまり橋の場面から余り時間は経過していないんだ。
更に、王女は「I'll dress up」っつってバスルームに戻ったので服はバスルームにあるってことなんでしょう。
そうすっとふたりは別々に濡れた服を脱いだわけですね。
ナニしちゃったんならバラバラに脱いでますかねぇ?
アメリカ人はナニのとき自分で女を脱がさんのでしょうか?
しかも、アービングの車で王女をおくりますよね。車中での王女のシャツの皺加減、あれ、生乾きってことじゃないの?

実は、ジョーがクローゼットから出て、ドアノブにひっかけていたズボンを奥に投げる場面はハンターのシナリオにはありませんでした。
撮影現場での変更なのかトランボによる本物のシナリオなのかはわかりません。
シナリオと撮影された映像の違いがナニの仄めかしになってるんだろうか?

そんな訳で、私にはナニを仄めかすのではなく、単なる場面転換なんじゃないかと思いますが・・・。

それにしても、極東ブログでこんなことが話題になるのかと妙なことで感心しました。

投稿: 田舎から | 2010.02.11 02:06

なるほど、と思わされました。
ローマの休日なんてもう20年は見ていない。
だが、こういう文章を読んでしまうと、
次に再放送があったら見てみようかという気になってしまう。
もしTSUTAYAの名画コーナーにこんな文章が書かれていたら、
間違いなく棚はレンタル中で空っぽになりますよ。

投稿:   | 2010.02.11 13:44

 「実事」のありなし、これはいろいろな見方が可能で、
複義的意味をもたせて多様な観客のニーズに応えるのが、
名監督・名ライターですから、
結局は、自分の好みとする解釈はこうだ、ということになります。

 で、私の好みとする解釈では、実事なし、ですね。

欧米人の男性の多くは、
自分が「純潔」を奪った相手にその直後、
"Everything ruined?"
「みんな台無しになっちゃったかい?」
等と平気で言うことが出来るものなのでしょうか?

私としては、「純潔」を奪った相手に、その直後にいう台詞としては、
かなり無神経な言葉におもえるのですが。

"Everything ruined?"
は、反語で、「(大騒ぎをしても)なにも失っていないでしょ?」
という意味、さらには、
「まだ失える物があるよね?」
という意味をにおわせた台詞だと思います。

そしてアン王女の答えは、
"No. They'll be dry in a minute."
これは、
「(貴方と私の間には、)すぐに乾いてしまう(修復可能な)もの・です(しかありませんね)」
という、もう一歩、一歩だが大きな深い意味をもつ一歩に踏み込むことへの否定とも、肯定ともとれる台詞であり、
だからこそ、ジョーは、
"Suits you. You should always wear my clothes."
なのではないでしょうか?

つまり、ご指摘のこのシーンは、
「もう一歩、一歩だが大きな深い意味をもつ一歩を、
踏み出そうか、踏み出すまいかののとまどい、相手の心の探り合い」
と言った場面でしょう。


 そして、追記であげていただいた目覚めのシーンですが、
これは映画の結末と「対比」するためのシーンではなく、
物語・名映画によくある、結末の「予言・予告」なのだとおもいます。

"certain angle"は「見方によっては」でなく、
「情緒を廃した事実性、物理的・無機的な見方をすれば」
という意味だと思います。

結局、
二人に深い肉体交渉はなかったけれど、
確かに二人は一夜をすごしました、
それだけのことでした、

という予告です。

 また、映画の主役男優がグレゴリー・ペックだという点が、
私の実事なしという見方の根拠です。

社会的なモラルを敢えて踏み越える
肉食獣的なクラーク・ゲーブルや、
超越感覚のケーリー・グラントではなく、
一定の「しがらみ、法律」といった枠内で、
それを越えずに苦悩する演技が絶妙な役者が
グレゴリーペックだと私は思っています。
私個人の感覚の話ですが。

投稿: MUTI | 2010.02.11 18:35

ローマの休日って映画は見た事ないのですが名作だと思っていました。
でも、これ読んだら「なんだ、そんな程度の話か」と拍子抜けしました。
だって、これでは「アメリカのだらしない中年男がラッキーにも欧州の処女の箱入りお姫様をただでやり逃げできましたとさ」というだけの話になるでしょ?
でも、それってどこにアメリカンが誇りとする男のマッチョさがあるの?
やったなら全世界を敵にしてでも奪い取るってのがアメリカンマッチョの男の意地と愛じゃないですか。記者会見の席で「俺の女だ文句は言わさん、お前はそんな不幸な生活は捨てて俺とこい」と命じてこそアメリカンですよ。それをしなかったのですから、こいつはチキン。
お姫様が知らない顔で別れたのは、一時の火遊びと悲しみごっこをすることで、欧州フォーマルの世界という偽善の海を押し渡って行かねばならない女傑の強かさがぎこちなくとも芽生えたという慶事の証ともとれます。やり逃げ君は、お付きの人々にとっても後腐れないのない都合のよい相手だったかも。

と、いう妄想が芽生えて、この話のどこに「洗練された」ラブロマンスがあるのかさっぱり分かりませんでした。

投稿: KU | 2010.02.11 23:37

ううううーん、どっちともとれる巧いところだなぁ。
シュレディンガーの猫ってやつは時に
とてもロマンチックな効果を生むんですね。

投稿: | 2010.02.12 02:08

1950年代に名画が多いというのは、この時代は、それだけ人々の生活にとって映画が欠かせないものだったということだと思います。

円生、志ん生、三亀松が同時代に現れたというのは、その当時の日本人の生活に、寄席演芸が欠かせないものだったことの証明だと思います。

私の生まれた1964年には、マンガ家の紡木たく先生と大文豪のよしもとばなな女史も誕生しています。東京オリンピックの年からは、こういうコンテンツライターたちが誕生しました。これも、そういう時代なのでしょう。

投稿: enneagram | 2010.02.12 09:25

長年の幻想を崩されたときに対する拒否反応みたいなコメントや、独自の考察を
もとに否定したりと、いずれにしてもこの映画に一家言あるひとは、ことごとく
否定(情事の存在を否定するのか、映画そのものを否定するかの違いはともかく)
的なコメントを残されてますね。

ググって見ると、これは結構古い話題のようでして、わたし自身には独自の論を
展開するだけの知識はありませんが、一通り見て判断するに、ハリウッドコード(とい
っていいのか、要は「暗黙の了解」)の存在と、あと少なくとも「当時映画を見た米国人
の感覚では、あそこで情事が存在したと感じるのが自然」というほうが説得力を持って
いるように感じてます。(あくまでわたし個人の所感ですが)

もし情事があったとして、それについてプリンセスの立場を、

・単に「やり逃げされた」

ととるか、それとも、彼女にとって新鮮で刺激にあふれた市井の、魅力ある大人のオトコ
によって

・「大人の階段を一つ登った」(笑)

ととるか、によっても解釈や評価が分かれているようにも思います。要は
「処女性に対する価値観」によって情事があることに不潔感を感じるか、大人への通過儀礼
ととるかという感覚の違い。

ある世代よりうえの日本人(30台?40代?境界がどのへんかよくわかりませんが)は
確実に前者を支持する層が多数派だと普段より実感していて、以前こちらで紹介された
「シャル・ウィー・ダンス」のような、主人公とヒロインとの、「恋愛・情事」を伴わない、
ダンスだけでの関係性のほうを粋に感じ、支持も多いと感じてますが、そのあたりの感覚が
大きく違ういまの20代、10代にはどのような評価がされるのか、興味深いところです。

投稿: | 2010.02.12 11:08

粋な話ですね。楽しませていただきました。

で、一点だけ無粋な話を。『ジョニーは線上に行った』は『ジョニーは戦場に行った』のTypoですよね。あの映画は当時予告編を何度も見ましたが、いまだに怖くて観たことがないです…。

投稿: | 2010.02.12 15:48

誤字、ご指摘ありがとうございます。修正しました。

投稿: finalvent | 2010.02.12 15:58

本当に起こったどうかなどさして重要ではないのですよ。「羅生門」を観なくてもわかることだと.....

投稿: スパイシー | 2010.02.12 17:03

アメリカ人に聞き込んで回れば、映画の見せ方・
そのコードの実在を確認できますよね? つまり、肉体関係は在った・一線を越えた、とするのが、制作者の「ほんとうにあった」原意ですよね。
歌舞伎を見る際のお約束ごとに似たものではないでしょうか。

王女の情事を、日本人の願望に合わせて、清純映画に変えたなら、それは誤訳または検閲だと思います。
日本人より日本語が上手い、日本文学研究者のマーク・ピーターセンが、日本人に向けて解説したことなので、こちらコメント欄に現れた反論や文化落差については、自身の授業などで事前に確認している、一種の監訳・脚注だったんじゃないかと。

その上で、「やり逃げ」か「大人になった」か「信じられない」かは、見る側の「自由な」価値判断でしょうね。

日本人が、いつから、この表現に気付いていたのか。あるいは、なぜ50年後に、やっと気付いたのか、興味深く思いました。

投稿: c | 2010.02.13 12:10

まぁ娯楽映画なんだし、観る側には「誤読の自由」があるから、清純映画だと思って観ちゃっててもどうか勘弁。

投稿: 田舎から@実は昔映写技師だったことあり | 2010.02.13 20:32

MUTIさんの知的で繊細な解釈に共感しました。

一方finalventさんの方は鼻の下の伸ばしたエロオジサンのようです。(笑)

偉大な作品は様々な解釈を許すものですし、

それは、自身の心を映し出すものだと思います。

大変おもしろい話題でした、ありがとうございます。

投稿: hto | 2010.02.14 15:05

・・・この話が本当ならば、欧州の皇室ってええなぁ、粋だなぁ、と思いました。日本の皇室で、こんな話あったら冗談ではすまないだろうし。
それにしても、ここの皆さんのコメントを読んで、日本で「処女」って特異な位置に置かれてるんだなと思った。・・・いくら相手が好きでも、立場があっても「処女」と一夜のアバンチュールを過ごせば「やり逃げ魔」とえげつない表現で呼ばれる。・・・逆に言うと、それだけ皆さん「アン王女とただでやりたい」んだなと単純に思いました。・・・そういう欲望なければ、このグレゴリー・ペックはここまで糞味噌に言われないだろうし。
(実際、アン王女だって、辺境のアメリカ如きの一新聞記者にいきなり「俺の妻になれ、気に入った!」と言われても、迷惑なだけだと思う。。。)まぁよく分かんないけど。もう一度見てみます、機会があったら。

投稿: ジュリア | 2010.02.16 19:04

2010.02.12 11:08 さんが、まとめてらっしゃるように、
純潔主義 vs 自由主義の、伝統的な論争ですよね。個人的解釈の並記を超えて、皇室女性=日本女性の生き方のモデル=恋愛イデオロギーが、こちらのコメント欄には、噴き出していると思います。

hto さんは、日本純潔主義の象徴に変わったアン王女を、アメリカ自由主義に戻したくない願望から、「偉大な作品は様々な解釈を許す」自身の心を映し出す」エロおじさん」とおっしゃったのだと思います。
「アメリカ人に聞き込んで回れば、映画の原意がアメリカの観客にも共通認識としてあったことを、確認できる」としても、聞きたくなかったのだろうと思います。

例えば、山本五十六が「天皇(姿は見せず玉座のみ)に拝謁する」場面(トラ・トラ・トラ)で、実は天皇に会ってもらえなかったとか、居留守を使われたとか、天皇がその席に居たか否かは、見る側の心に映るだけだとか、反論しても始まらない。もし「山本が天皇に拝謁したと信じたいのは、心の問題だ。偉大な作品は、多様な解釈を許す」と言う人がいたら、その人こそ、政治心理学的に問題でしょう。日本人なら概ね、山本が天皇に会ったことを、より「リアルに」見て取る。それが、日本映画のコードであり、天皇役の俳優が現れるラストサムライよりも、日本人にとってはリアルな表現です。

アン王女の情事も、そのような文化コードとして、一線を越えた場面を、婉曲かつ明白に、表しています。少なくとも、そのような映画の時代状況であったと、アメリカ人の多くが認識しています。
マーク・ピーターセンの大意(細かい矛盾を突けたとしても)は、この日米文化落差の中で、アン王女の純潔が、過剰に信じられて、原意を損なってきた、ということでしょう。

→小津安二郎「接吻を宣伝文句にヒットを取るほど、落ちぶれたのか」 佐々木監督「違う。(GHQ に)キスシーンを撮れと指示された」(1946)
ttp://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/mackychan/diary/d1358

GHQで22才だった女性ベアテ・シロタ・ゴードンは、日本で過ごした少女期に、親友が嫌な結婚を強要されたのが哀れで忘れられず、日本国憲法に婚姻の自由を入れたが、日本側が渋った、とされていますね。(1945)

投稿: c | 2010.02.19 18:39

初めて知った見方でした。
何度かこの映画は見ましたが、そういう見方があるのですね。
この思わせぶりさは個人的に「どちらでもよい」という演出なんだと考えます。
「観客のお好きに」。それも粋な脚本だと思いますよ。
私としてはこの映画に肉体的交わりまではいらないです。
男女だからといってもお互いに立場がある。それなのに恋したからセックスをするというのはこの二人では深みより逆に勢い任せの単純さに感じます。
あえてそれはせず、お互いへの気持ちだけで結ばれ、たった一日の恋を想い出にするという方がよりロマンチックですね。

投稿: sato | 2010.02.19 23:57

↑satoさんも「結婚前のセックスはいけません」「処女のまま見合い結婚しなさい」と、おっしゃりたいんでしょ。
satoさんも検閲してると思うんです「ローマの休日」を。肉体関係を「単純」と卑下し、肉体関係無しを「ロマンチック」と美化して、映画を規定することで、子や孫の性を抑え込みたい人たち。

私は、オードリーの魅力に、今まで全く気付きませんでした。それは日本の純潔主義者が、「ローマの休日」の見方を、検閲(非制度的・非組織的・文化と伝統による心の検閲)し、ヘイズ・コード(当時の米国映倫)に重なったから、だと思っています。

私は、こちらの記事を通して、女優オードリーへの印象が180度変わりました。この映画と女優を、ずっと深く楽しめるようになりました。この楽しさを50年も抑え込んできた検閲が、今なお「ここ」で続くのは、耐え難い。だから、はっきり指摘したくなって、人様のブログにムキになって書いています。

と言っても、私の取り越し苦労かな。なぜなら、純潔派のお子さんたちは、とっくに、できちゃった婚で、お孫さんもアン王女の年頃で。できちゃった婚の親なら、お孫さんにも好きにさせておく。そんな時代が、50年の封印を解いた。
残る気がかりは、ダイアナ妃が、王室の血を汚すという理由で、暗殺されたことです。

「老いて去る者には、言わせておく」べきだったかもしれませんが、
せめて、ローマの休日ではなく、冬ソナでヨン様を追っかけるとか、宝塚星組「ヘイズコード」DVD を見てらっしゃれば、良かったのに。

>田舎から | 2010.02.11 02:06 さん
ヘイズコードでは、脚本の段階からチェックが入るそうです。だから、脚本を探しても露骨な記述は出てこないと思います。

投稿: c | 2010.02.21 22:16

>脚本を探しても露骨な記述は出てこない

ああ、そうなんだ〜。

・・・って、極東ブログでこの話題がまだ続いていることにオードリー・ヘップバーンの凄さを改めて感じます。
実は、私、ほんの一時、映画館勤めをしていたこともありまして、この手の話題はとても好きなのです。
それで、しばらく政治経済からは遠ざかり、オードリー話に花をさかるべく、映画ネタの世界に引っ越そうと思います。

極東ブログさん。ここ数ヶ月楽しかった。
政治の争点がはやく小沢騒動から補正予算に移りますように。

さようなら〜

投稿: 田舎から映画館のある近くの町へ | 2010.02.24 16:18

cさん
>satoさんも「結婚前のセックスはいけません」「処女のまま見合い結婚しなさい」と、おっしゃりたいんでしょ。


あの、勝手に人のコメントを分かったように間違って解釈しないで欲しいのですが
そんなことは全く思ってませんし、そういう意図のコメントでもないです
肉体関係があったってロマンチックな物語はそこら中にありますよ
ただこの映画にはそれは不必要だと思ったまでです
cさんは少しムキになりすぎではないでしょうか?
ちなみに上の別の方のコメントで、10代20代では感じ方が違うのではとありましたが
私は20代でさすがに「やり逃げされた」なんて思いませんが
この映画に関しては前に投稿したように肉体関係が無い方がしっくりきます

投稿: sato | 2010.02.27 22:16

satoさん
家畜のように睡眠薬を注射されたり、諜報部員から強制的に引き戻されたりする「立場」を重んじるのは、決して「ロマンチック」ではない。1人の女性として認められたこと(愛を交わらせたこと)が、「生涯忘れられない」救いだった。
ここまで明け透けに言わない方が、「イキ」なのは解り切ってます。しかしピーターセンは、明け透けに言わない限り日本人には通じないと考えて、書いたのだと思います。

「肉体関係は無かった」と思い込んでいた人が、「実は有った」と見方を変えることは多くとも、その逆は無いんです。
「有った」と思っている人が、「無かった」と見方を変えることは、無いでしょう。
「どちらとも取れる」というよりは、人生のある段階に来れば解るように、本意を埋め込んだ映画だと思います。年齢別入場制限が無い時代の映画です。
つまり、「大人になったら、肉体関係が見えてくる」「子どもには見えない」映画であり、「子どもっぽい見方しかできない日本人に、アメリカ人日本文学研究者が親切にも、大人の見方を教えてやろう」という態度が、マーク・ピーターセンに見えます。ここで日本清純派が「大人じゃない」ように言われて、アメリカ自由派に反発するのは、黒船以来の伝統だと思います。

「どちらとも取れる」とおっしゃいますが、一線を越えたのと越えなかったのとでは、意味が違いすぎます。
王女であれば、女性の生き方一般への影響力があります。だから、「人それぞれ」とか「お好きに」とかにならず、公開の争点になってコメントが止まらなくなるし、Google”ローマの休日”ランクで、このページが上位に立つ。象徴という意味で、名画の中の王女も、現実の王室同様に、影響します。(例えば、なぜ日本の皇太子の結婚が遅れたか)

映倫対策で、ぼかして描いてあったとしても、本意はひとつです。
「どちらでもよい」「観客のお好きに」「イキな脚本」は、作者の状況に無い。時代の圧力として、肉体関係をほのめかすだけでも禁じられているほどだから、脚本にも書けない。赤狩りで映画界から追放されて、友人の名前を借りて書いたほどですから、検閲に対する決意のほどは、アン王女の諜報部員への反撃ぐらいに、強かったでしょう。
1953年当時の日本人(見合い結婚前に、キスも無経験だったのは、ザラだった)にとっては、皇女とキスしただけでも切腹ものですから、当然に、王女は処女を守り通したと信じ切っています。皇女と王女の違いが、映画の見方を分けるでしょう。それは、反骨のアメリカ人である作者の意図に、無いことです。

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ブロガーさんが挙げた二つの夜の対比に限らず、問題の空白シーンを境にして、映画全体が時間対称 before&after になっています。
ふたつのキスシーンは、意図的に演じ分けてあるようです。1回目は「殿方と二人だけになった経験が無かった」全く初めてのキスで、戸惑っています。2回目のキスシーンは、全身全霊で相手を求めています。男と女の愛の交わりになっています。シーンとしては二回目ですが、二つのキスシーンの間に、省略された(伏せられた)キス多数が在ったでしょう。画面に現れないキス多数を行う機会は、やはり問題の空白シーン、家に戻った後、着替える前でしょう。

ジョー:Everything ruined?
訳1) 服、みんなダメにしちゃった?
訳2) 大丈夫?
訳3)王室の足かせを、全部こわせたかい? やりたかったことは、全部やれた?

全ては、問題の空白シーンを境にして、子供から大人へ転じています。
・ジョーは、アニャから求められたワインを、出さない・出す。
・ジョーは、アニャが脱ぐのを手伝わない・(手伝う)
・ある意味で、一夜を共に過ごす。・(本来の意味で、一夜を共に過ごす。)
・大使館で就寝前に、ミルクとクッキーを受ける・断る。
・舞踏会・記者会見における王女の自覚の違い。

映画全体の対称性から見て、ジョーは、アニャを二晩目に脱がしています。
着替えてからの彼女は、彼と結婚したい意味のセリフを、ラストシーンまで繰り返します。
大使館へ送り返す車中は、スパイ映画のように重苦しく命がけで、ちょっとキスした一日の遊びにしては、大げさ過ぎます。

大使館に帰ると、王女に付き添ってきた三人とも、王女のただならぬ変化を認識し、大人として接するようになります。

将軍:この24時間、何も無かったなどと言うことが、有り得るのでしょうか。
(見違えるように大人・女らしくお成りで。殿下が民間の男と夜を共にしたと、私は陛下に報告しなければならないのです。困ります。)
王女:有りました。

王女:王女の義務に無頓着であったなら、私は今宵ここに戻らなかったでしょう。それどころか、二度と戻らなかったのです。
(彼とキッチンのあるアバートで、ずっと一緒に暮らしたかったのです。その思いを振り切って帰った私の、王女としての決意を解りなさい。)

モノクロ映画ながら顔が紅潮して見える、思い詰めて目を潤ませ、震えながら話す。この表情は、記者会見場でジョーと最後に目を交わすときにも、見えます。

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以上を踏まえても、キスだけの思い出を大切にしている? アメリカ人から見たヨーロッパの王女というものが、キスだけの関係でも、ここまで真剣になれる? ここまで真剣だったけれど、肉体関係は不要・その場限りの勢いだ? それも、ロマンチックで相手の立場を考えた振る舞いで、粋な作者の本意だ?
そのような主張でらっしゃるなら、私は、もう少し、他の21世紀20代の見方を聞いて回らなければ、お考えを解釈できません。残念ながら、「肉体関係の無い方が、しっくり来る」ような方が、「大人」かどうか、確かめようが無いので。

「間違ってコメントして欲しくない」のは、私も同じです。
どのような評価を下そうと各々自由ですが、その評価もまた評価対象になります。

投稿: c | 2010.03.08 20:29


俺も情事あった派だけど、
あなたは人の解釈に難癖つけ過ぎじゃない?

投稿:   | 2010.04.05 15:28


と言ってる方こそ、難癖つけ過ぎ

投稿: | 2010.05.01 20:32

調べごとをしていてここに辿り着きました。
面白いですね。色々な解釈があって。
私も昔子供(と言っても中学生くらい?)の頃に見た時はキスだけして別れたのだと思っていましたが、改めて見ると、そしてそう言われてみると、肉体関係はあったと方が自然だなと思いました。
それにしても、よく出来ているシナリオですね。
抜け出す前、侍女が明日のスケジュールの確認をしている場面で突如爆発したアンが、「(ミルクをベッドの上にこぼさなかったことに安堵する侍女に)水浸しになってもどうでもいい」と言っています。
この台詞がその後、二人でびしょ濡れでキスをし、二人が関係を持ったらしい後で「台無しになっちゃったかい?(服はびしょ濡れになった)」「服は乾くわ」につながるんだなぁ、と思いました。
また、抜け出す前に癇癪を起こしたアンは、「このまま安らかに死なせて」とも言っています。もちろん、本気で死ぬ気じゃないにしろ、そこまで抑圧されていた、ということですよね。そんな王女が、その後も王女として再び戻ってくるためには、やはりそれなりの「コト」がないと説得力がないなあ、と。
それが、自分の価値観と照らし合わせて「いいか悪いか」は、どちらでもお好きに、と思いますが、自分の価値観を押し付けるのはどうなんだろう、と思います。
このことに限らず、どんなことでも。

投稿: 最近知りました | 2010.05.11 14:51

「押し付け」って、何だろう。

投稿: | 2010.06.04 20:57

最近になって初めてじっくりこの映画を見て非常に感動した50代の男性です。(勿論、この映画のことは、知っていましたし、何度もリバイバル上映やテレビ放映していたのも知ってましたけど…。スルーしてました。)
この場面を見た時に、「これってもしや」と思いいろいろと調べている内にここにたどり着きました。小説も読みました。(小説にはベッドシーンの記述はありませんでした。)
でも、個人的には二人は結ばれたと解釈する方がその後の二人のやり取りをより感動的にするような気がしす。
常識は、時が経つと変わります。制作当時は、あの表現方法がベッドシーンを示唆する表現として常識だったものが、ストレートなベッドシーンの描写が当たり前の現代では、見えなくなったのかも知れません。
もはや監督始め出演者もな亡くなられていて確認のしようがないですが…。
それにしても、制作から60年近く経っても素晴らしい感動を与えてくれたこの映画は一言「すごい映画」です。

投稿: nobu | 2010.10.04 15:41

30年前に名画座で初めて観て感動し、その後もテレビやリバイバル、ビデオで繰り返し鑑賞しました。
もともと、セリフがおしゃれで意味深いところも好きな点でしたが、このブログを読んで、あらためて素晴らしい映画だったと再認識です。
問題のシーンは、何となく気になっていたのですが、目からうろことはこのことですね。あらためて二人の愛の深さを知ることができました。
それにしても、訳者泣かせの映画ですね。
昔買ったけど、訳がいまいちと思っていたビクター発売のVHSを見直してみたのですが、
王女が大使館に帰った時のセリフ「…or indeed,ever again」
(それどころか、二度と戻らなかったでしょう)が、
(忘れません)になってる!
こんな訳では感動もありませんね。

世の中には快楽だけの関係もありますが、深く愛すれば愛するほど求め合うのもまた人間です。

投稿: まあぼ | 2011.01.25 01:05

最近ふとこの名作に触れようと検索を掛けたら、ここと、他にも情事の下りを記したHPに辿り着きました。

思うに、無かった派の意見もよく判りますし、尊重すべきものです。僕もここを見るまでそう感じてきましたし、神話性を求めるのはお伽話としては当然の事だと思います。

しかし当人達の気持ちになって考えると、僕も結ばれていた方が良かったなと感じるのです。
特に2回のキスの解説もありますが、あの2回のキスだけで彼女を裏切らずに記事を書く事を断念出来たかどうかです。勿論好きになったからこそ大事にすべきだというのも判るんですが、
逆に考えれば事後になったからこそ裏切れなくなったのでは?と新たに考えるようになりました。
特にジョーは彼女が宮殿に戻ってしまった後に、あの向こうからやっぱり戻ってくるんじゃないか…と思っているようなカットがありますし、次の日の朝の部屋のノックにも、”彼女がもしかして戻ってきたのでは?”というような態度でドアを開けますが、実際は社長が訪れました…。
本当にプロの記者であれば、この社長が現れた時点で踏ん切りが付くような気もします。

アンの気持ちもそうです。冒頭から窮屈な靴を脱ぎたかったように、髪も全てを忘れたい程切ってしまったように…。特に問題のジョーの部屋のシーンを境に彼女の態度の変化が全然違うのが印象的で、一回のキスで「料理がしたい…」を一度ならず二度も発するでしょうか?。また同様にあの侍従達への態度の変化があれ程きちっと変わるのはおかしいようにも感じます。

それと僕の希望としても処女を守らせたまま好きになった男と別れ、好きでもない男と一緒になって王女の一生を全うするより、一夜でも契を交わした思い出を持って生きて行くほうが幸せだと思うのですが…。

情事を考えることで嫌らしいと感じるのは、本当は客観的にしか見ていないようにも思えます。

投稿: 黒胡麻 | 2011.02.06 19:31


大好きな映画で子供の頃から何度も見ています。
80になる母が、ヘプバーンの切り抜きから仕立ててもらったワンピースやスーツをとってあり、痩せすぎで既製服があわなかった私も10代の頃よく着ていました。

本題ですが、若い時は「二人は関係があった」と思っていましたが、年をとった今では、求め合っていたけど遂げられなかったからこそ忘れられないように思います。だからこそ、最後のキスも本当にせつない気持ちになります。

逆に肉体関係は気持ちがなくても、簡単にできてしいますし、あこがれや想像の部分がなくなってしまいますよね。

投稿: yuuri | 2011.02.10 00:06

二人の肉体関係が愛に他ならぬことは、映画の描写から明らかではないでしょうか。

愛の無い肉体関係を、この映画に想定してまで、プラトニックラブを美化したがる言動には、言っている当人の個人的事情が感じられます。

彼が気持ち無しに肉体関係を持つような男でないことは、映画中で繰り返し強調されています。

だから、あこがれや想像をかきたてられます。
有った肉体関係を直接描写しないことで、愛を伴う肉体関係への想像や憧れを豊かにしています。

朝の連続ドラマ「おひさま」のように、男子と手を握っただけで、興奮して眠れない昭和20年代の女子と、アン王女が全くの別人だと認めることは、一部の人には難しいことなのかもしれません。

投稿: | 2011.05.13 01:43

●「ローマの休日」ミステイク

「ローマの休日」映画を何度も観なおしているうちに、
オードリーの上着がカット後に変わっているのに気がついた。
スペイン広場で、オードリーがアイスクリームを食べる。
階段を駆け上がってくるグレゴリー・ペック 。
次のカットで、オードリーの上着が変わってる。

こんなシーンあってはならぬこと。
みな、気が付かなかったのかな?

ユーチューブで「ミステイク集」観れます。
「Movie mistakes: Roman Holiday 」で入力してみて下さい。

●「ローマの休日」の謎
・オードリーはいつ「ハンカチーフ」を首にまいたのか?劇中でオードリーは、ハンカチすら持っておらず、
グレゴリー・ペックからハンカチを、渡されるシーンがある。

・2人のローマ散策の1シーンである「祈りの壁」が、実際のローマ市内には存在しない。

・オードリーは手持ちの1,000リラとそれまで履いていた自分のハイヒールを差し出した。
靴屋のおばさんはそのハイヒールだけ受け取って、お金のほうは返してくれたのである。
つまりオードリーは1,000リラを持ったまま床屋にいけたことになる。

・アパートでオードリーと話すグレゴリー・ペックのネクタイの位置がカットごとに違う。

・しかし極めつけは、これは良く知られている話で、厳密には撮影ミスとは言えないが、オードリーの歯並びである。
グレゴリー・ペックのアパートで見せた笑顔には若干の不揃いが見られるが
(そしてそれは彼女をいくらか子供っぽく、チャーミングに見せているが)、
理髪店で見せる笑顔になるともう、その不揃いが消えてしまっている。

・グレゴリー・ペックのアパートで一夜を過ごしたオードリーが王宮に戻る前に、ふと思いついてグレゴリー・ペックから
お金を借りる。その金額はグレゴリー・ペックの持ち金2,000リラを折半した1,000リラ。オードリーは「1,000リラも!」とびっくりするが、
実はそれは1ドル半であるに過ぎない。しかし驚くべきことに、この1ドル半でオードリーはいろいろなことをするのだ。
○サンダルを買う。 ○髪を切る。 ○アイスクリームを食べる。一体、ドルというものはどれだけの価値があったのだろう。

・この映画の原題はなぜ「Roman Holiday(ローマ人の休日)」であって「Holiday in Rome(ローマでの休日)」ではないのでしょう?

投稿: kaoru | 2011.12.05 16:41

ドイツ在住の者です先日、ドイツ語吹き替えでテレビで見ました。
ドイツ語では、あなた You に対して Sie と Du があります。
文法も当然異なります。
最近は知り合えばすぐに Du で通しますが、20、30年以前前までは 子供同士でない場合、初対面の人、友人でもないような人とは DU と呼びかけたりはしませんでした。

例の一夜明けてから、Sie から Du に切り替わったので、
深く考えもせず、男と女の関係になったのだと見ていました。
ドイツ語に吹き替えた人の受け取り方が反映されていたのかもしれません。

同様な文法のある、フランス語での吹き替えも気になります、どうなっているのか。

投稿: 名無し | 2012.05.04 20:09

私はこの映画を鑑賞後、2人は関係を持ったのだなと考えた者です。しかし、mutiさんの考察を読んで、なかったかもしれないなと思いました。私も英語で見ましたが、彼/彼女の考えまでは思いつきませんでした。単純に、「ああ、実際のシーンはカットなのね。」としか思いませんでした。はじめ、自分では関係があると思ったが、後から無かった、と考える人もいますよ。
また、人によって考え方はそれぞれであり、多様な意見が存在します。それぞれ面白いので、他者の意見を尊重しつつ議論をし自分の思考を深めていけたら最高だと思います。

投稿: Sanya | 2012.05.09 11:39

ふふっ、私、女性ですがこの解説にはなるほどと思いました。

といいますのが、最初のキスシーン。
まだ恋も知らない少女のころには何とも思わなかったのですが、はじめて恋を知ってから見たときには、何だか見てはいけないものを見てしまった気がして、またそう感じたこと自体もいけないことのような気がして、思わず目を背けたくなったのを思い出しました。
今思うと、わからぬながらなんとはなしに感じていたのでしょうね。濡れたふたりの交わすくちづけ、しずくが伝う王女のうなじ、その背徳感に。

でも、気付いたからといってこの映画の価値が私の中で損なわれたかというと、全くそんなことはありませんでした。といって特別輝きを増したりもしません。ただ、深みを増しただけです。「それ」を自分が知ったときのように…。

真実の愛と切り離されたものでさえなければ「それ」はとても神聖なものですし、そもそもこの映画は正にそうした、恋に始まりそれを超えたところ…愛にたどり着くふたりを描いた物語です。
恋は奪うもの、愛は与えるもの。ふたりの出会いが恋だけであったなら、彼は写真をああはしなかったでしょうし、王女の愛が一方通行でなかったと知れたからこそ、観客もまた涙するのです。
一生ものの恋愛をしたことのある方にはおわかりいただけると思います。

ただし、「なかった」との解釈もありだと考えます。先にも述べたようにそのことでこの映画の価値が落ちるとは思いませんので。

最後に…失礼を十二分に承知の上で言わせていただきますと、もしもあったなら「なんだその程度の話だったのか」とお感じになる方は、ほんとうは何が「その程度」であるのかお気付きでないのでしょう。

投稿: 恋の向こうにあるもの | 2012.07.07 06:56

ああ、KUさん、失礼致しました。

>ローマの休日って映画は見た事ないのですが名作だと思っていました。
>でも、これ読んだら「なんだ、そんな程度の話か」と拍子抜けしました。

ご自身で観た事もない映画について「感想」を述べることが可能な上に、そんな程度とまで断じられる特殊な能力をお持ちの方だったのですね。
まさかそんな方がいらっしゃるとは露ほども思わず、これほどの衝撃的な文言を読み飛ばしたかたちになってしまいましたこと、心よりお詫び申し上げます。

未見の方に用はありませんので私のことは何卒ご放念下さいませ(^^)

投稿: 愛の向こうにあるもの | 2012.07.07 07:16

愕然とするほど、一夜を境に表情が異なって、かたや子供、かたや大人の女性。愛と性は日本では(特に若い日本女性)分けて考えやすい印象。
性的関係こそ愛とはなりにくい。結局、欧米女性の通過儀礼なんだろう。欧米や他のアジア女性の意見が聞きたいが、キスだけだと映画が成り立たないといいそう。

投稿: dentade | 2012.09.07 17:52

先日、約30年ぶりに「ローマの休日」を観てみました。10代と20代で観たときは、なんと爽やかな究極のプラトニックラブだと感動していました。
ところが、50代となった今、観てみると、王女様と新聞記者は明らかにセックスをしていたと思える場面、していないと説明できない場面があるのに気がついた次第です。
彼の部屋で、「服は?」「もうすぐ乾くわ」から始まる下り。これは明らかにセックスの終わった男女の会話です。抱擁も自然です。そして、別れ際、車内での2度目のキスシーン。これは水に濡れた状態で初めてのキスの時のぎこちなさと比較して、その間に何度もキスをしていたと受け取れる慣れた関係であるのが伝わってきます。その後、侍従達の前で王女として女として、一日にして急変したヘプバーンの演技が光ります。
この映画は崇高なラブストーリーというだけでなく、一人の王女が娘から大人の女に一日にして成長する過程を描いたヒューマンドラマだったのですね。
まさしく「ローマは一日にして成った」というところでしょうか。

投稿: のんちゃん | 2013.08.19 21:16

 「ローマの休日」の隠されたベッドシーンを考えている内に別の映画を思い出し、改めて観てみました。
「カサブランカ」です。ここにもありました。イルザ(イングリッドバージマン)がリック(ハンフリーボガート)の店の2階にやって来た場面で、「今でもあなたを愛してるわ」というセリフとキスシーンの後、サーチライトが写され、その後の二人の態度がそれまでと一変し映画のラストに向けた分岐点になっています。ここで見えないベッドシーンがあったのですね。ラストで男は、愛している、そして今でも自分を愛してくれている女性の為に、あえて身を引きます。
 何と、「ローマの休日」でも男心の類似点があるではありませんか。
夜のパーティーの時まで、新聞記者は5000ドルの報酬の為、王女を欺こうとしています。ところが、最初のキス、そして問題の隠れた場面の後、男心に大きな変化があり王女のスキャンダルを隠します。キスだけでこのような変化があるとは思えません。そうです。彼はお金に換えられないとても高価なものを与えられたのです。王女様の処女、そして愛を。ここまでされるとお金の報酬など馬鹿らしくなるでしょう。
 行為の後、男は女に対して責任を取る。彼は王女のひたむきな乙女心に、彼女の一日を思い出の中に封印するという自分のできる責任を取った事となります。
 名作とは、時を越えて愛されるもの。という言葉を改めて教えられた想いです。

投稿: のんちゃん | 2013.08.21 21:44

ローマの休日に二人のベッドシーンは想定されていたか。最近、このDVDをリスニングの為に何度か見て、アン王女が側近の元に戻ってからの態度から、そうなのかと思っていました。会話の『もうすぐ乾くわ』から、乾くまでの時間があった。だから……。
しかし、何度か見返すうち、二人には、キス以上はなかったと、僕自身は結論を出しました。
アン王女の『服はもうすぐ乾くわ』は、服は乾いていないが、私はもうすぐ帰らなければという気持ちを表していると思います。何故なら、記者の部屋のベッドは、アン王女が出て行く前に、イタリアのおばさんが部屋の掃除した時のまま、ベッドは全く使用された気配がありません。
会話の内容も大切ですが、映画は映像も大切だと思います。
あの映画は、王女と記者の甘く切ない爽やかなラブストーリーだと思います。


投稿: バルトロメオ | 2013.08.31 20:06

この映画の中のオードリーの輝きは何なのでしょうか。
彼女はどの映画でも綺麗ですが、アン王女を演じるオードリーは、人間離れした魅力を今でも感じます。そうですものね。彼女は妖精だったのですものね。
1日目、大使館において、パジャマは上だけでいいの。というセリフ。次の日、ジョーの部屋で目を覚ました時、見知らぬ男のパジャマを着ている事に気がつき、はっ、と下半身に手を伸ばし下も着ていることを確かめるしぐさ。有名な真実の口の場面。子供と大人の境目にいるオードリーの魅力に何度見ても圧倒されます。
終盤の大人の女を演じる彼女が発する強烈なオーラもまた何なのでしょう。20世紀最高の女優という評価は納得できるものがあります。

投稿: 昭和33年生まれ | 2013.09.10 16:07

映画の編集にはとても気を使うのでしょう。
数週間、数ヶ月に渡って撮影した映像を間違いのないように繋げなければならいのですから。
「ローマの休日」で云えば、既に指摘されておりますが、ジョーのベッドの目覚まし時計の位置が不可解に変わっている。スペイン広場のオードリーがワンカットの間にネクタイがなくなっている。等々。ジョーのベッドの上布団も、昼間出て行く時は、白っぽい模様のカバーがあり、深夜の二人の場面ではカバーがなく枕の膨らみも変わっています。しかしこれは長い期間のロケの間の盲点であり、さほど気にする事はないでしょう。
 名作と呼ばれる映画であればこそ、それぞれの捉え方があり、自己の認識でこれが最高という考え方でいいのでしょう。私は、ジョーとアンは性的関係があったと捉えている一人です。

投稿: デビットワイラー | 2013.09.15 14:38

初めまして!
今日、久しぶりにローマの休日をNHKで観ました。

私もマーク先生のエッセイを以前に読んでいたので、今回は意図的に(?)鑑賞していたのですが、マーク先生のエッセイも、かなり以前に読みましたので細かいところは忘れており、結局わからず…
どこだったのかなーと思って検索していて、偶然見つけました。
実は、服が乾くの早すぎない?!とは気付いたのですが…惜しかった!やはりあそこだったか〜。

大変わかりやすいシーン解説をありがとうございました。
それがわかった上だと、Everything ruined?のセリフ、ホントにうますぎる!
実は、こんな場面でなんでそんなセリフ??と思っていましたが、初めて納得しました…。
このセリフと、それまでのジョーの行動やモラルを考えたら、アンの方から、思い出にしかならないとわかっていて、あえて遠慮する彼を誘ったのかもしれないなぁ…とまで想像できてしまう。
バージンだったなら余計に、最後の最後で台無しになってないか彼としては気になったのかな…と。カッコよすぎです。

今までは、ただお姫様と出会ってネタにしようとしたら惚れちゃったもんで記事にするのはやめて、でもお姫様と記者だから別れるしかないよね、ハイ終わり、みたいにしか思っていなくて、こんな映画が好きだなんて乙女チックねー、なんてバカにしてたのに、乙女並みに深読みできなかったのは自分だったという…本当に大人のひたすら切ない悲恋だったのだ、とやっと気づきました。

おかげて、今回はラストシーンが本当に胸に迫って初めてボロ泣きしてしまいました〜。
どれだけ愛してても決して越えられないものが時にありますよね。ましてや自分の身勝手な行動のせいで、誰かが不幸になったりするならなおさら…お姫様なんて設定ですから、引退も辞職もできないし、どこぞの誰かと結婚して子供を産むのも義務のうち。でも彼は記者だから、そういうニュースから逃げることもできなくてただ傍観するだけ…
そんなことを考えるとホントに泣けてしまいました。
それにしても、ホントにこの時代の映画は気をつけて見ないといけないなぁーなんて改めて思いました。ありがとうございましたー!

投稿: Kelly | 2013.12.02 23:56

30歳を過ぎて初見したけど普通にプラトニック?と思って観てしまいました。
関係があった、と考えるとリアルだから興醒めだから、現実にはない完璧なものを求めているから、関係はないものと思い込んで観てしまったのでしょうね。
肉体関係があってこそ完璧で感動的なのだと、ここでみなさんの意見を読んでも、わかるようなわからないような。。。
一生ものの恋愛をしたことのない私にはどうせわからないのだし、まだ観る資格がないってことでしょうか。
仕方ないですよね。
全ての作品が、すべての人に完璧に理解され賛美されるなんてことはないわけですし。

でもまあ、、ね。

投稿: | 2015.04.30 20:53

二人の間には何もなかった。なぜなら、アン皇女がバスルームから出てくる直前まで、
記者のジョーは別室のドアのノブに濡れたズボンをかけて着替えをしていたから。
また、何かがあった後だというなら、ジョーがワイシャツにネクタイ姿というのは不自然だから。

投稿: 何もないよ | 2016.11.24 19:20

表現としてみれば実事はあったとみるのが素直だろうとは思います。
事の性質上、「結論」は出っこありませんが・・(監督や脚本の「意図」も決定打にはなりませんし)
結局、どちらの解釈が魅力的かを競うしかないのでしょう

全然関係ないのですが、光源氏と空蝉との実事(こちらは確実)も、相当わかりにくかったなぁと。

投稿: | 2017.06.28 00:42

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