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2010.02.11

[書評]ニホン語、話せますか?(マーク・ピーターセン)

 昨日のエントリ「「ローマの休日」でアン王女のベッドシーンが想定されている箇所について: 極東ブログ」(参照)で、「ローマの休日」の話に触れ、それの解釈のある「ニホン語、話せますか?(マーク・ピーターセン)」(参照)を引用したが、同書は非常に面白い本なので、もう少し触れてみたい。

cover
ニホン語、話せますか?
マーク・ピーターセン
 余談だが、昨日田町駅の前の虎ノ門書房に寄ったら、「日本人の英語 (岩波新書)」(参照)が、現代人の必読書のように陳列されていた。「続・日本人の英語 (岩波新書)」(参照)と併せてそうかなとも思うが、本書、「ニホン語、話せますか?」のほうは、ピーターセン氏の文学的な資質が浮かびあがってきて興味深い。ネタバレ的な話になるが、はっとさせられた話の印象を書いてみたい。
 以前、「国民による国民のための国民の政府: 極東ブログ」(参照)というエントリを書いたことがある。the peopleは「人民」じゃなくて「国民」でしょ、という話だった。毎度のことながらブログの話は争論になる。ちなみに、今、手元のロングマンを見ると、ちゃんとpeopleの項目に、the peopleが項目として分けられ、次のように説明されている。

4 the people
all the ordinary people in a country or a state, not the goverment or ruling class

国または国家における一般民のこと。政府または支配階級を意味しない(含まない)


 ということで、明確に国家が意識され、政府(the goverment)の対比なので、やはり、「国民による国民のための国民の政府」でよいのではないかな、つまり、「人民による人民のための人民の政府」は誤訳なんじゃないか。
 このとき、その話題以外に、of the peopleについて、ちょっと変わった訳があったので、こう触れたことがある。

で、ほぉと思ったのは、この注釈、of the peopleを、「統治される対象が人民であることを指しているのだ」としている点だ。そういう考えがあるのかいなとちょっと考えたけど、日本国憲法とかのべた性を見ても、西洋国家論のスキームを見ても、これは国民の所有ということでしょ。

 として、私としては、of the peopleが、「統治される対象が人民であることを指しているのだ」という説はありえないでしょと思っていた。しかし、そういう説の信奉者さんのコメントなども戴いた。
 その後、ピーターセン氏の本書「ニホン語、話せますか」を読んだのだが、彼もこの、of the peopleが、「統治される対象が人民であることを指しているのだ」という説に出くわしてびっくりしていたことを知った。彼はこの説を「丸谷才一の日本語相談」(参照)で知ってこう本書で述べている。

英語圏で141年以上も続いてきた常識的受け止め方がひっくり返される、リンカーンも驚くにちがいない、突拍子もない文法解釈だが、(後略)

 後略は、日本語の「の」の話である。また、こうも述べている。彼は「the people」を特に考察なく「人民」としているが。

リンカーンの言葉について簡単に言えば、"government (which is) of the people, (which is) by the people, (which is) for the people"(ちなみに、中国ではこれは「民有、民治、民享受的政府」と訳されているようだが)の of the peopleは、いわば、「人民の合意の上で出来た」や、「人民の間から生まれた」などのような意味を表している。

 本書を読んでから、of the peopleが「統治される対象が人民であることを指しているのだ」説はたぶん、ただの間違いとしてよさそうに思った。
 国に関連して、「神の国」話も興味深かった。ピーターセン氏は森喜朗元首相の「神の国発言」で、それが英語報道で"divine nation"と英訳されるのに奇異な感じをもった。

(前略)"divine nation"と言ってしまうと、おそらく一般の日本人が「神の国」から連想するものとはかけ離れた印象を英語圏の人々に植えつけるだろう。つまり、その場合は、「神々がいる国」や、「神々が創った国」、「神々が守る国」のように「国土」のことを想起させる要素はまったくなく、「神なる国民」といったニュアンスが強い。

 なぜそうなるのか。"nation"の意味合いによるらしい。

"nation"は、「国」や「国家」という意味として使われることもあるのだが、基本的には、慣習や起源、歴史、言語などを共有する「人間の集まり」という意味なので、たとえば、the French nationといえば、ヨーロッパの一区画を占める国、フランスという意味ではなく、フランス民族である。「チェロキー族」という一部族でも、the Cherokee nationという。

 なので、"divine nation"というと、日本民族は神聖なり、という含みになるそうだ。
 ピーターセン氏は触れていないが、アウグスティヌスの「神の国」(参照)は、英語だと「Augustine's City of God: A Reader's Guide」(参照)のように「City of God」である。ちなみに、2002年に製作されたブラジルの映画「シティ・オブ・ゴッド(Cidade de Deus)」(参照)と似ている。が、アウグスティヌスの「神の国」のラテン語は"De Civitate Dei"。
 脱線になるが、日本語の「神の国」だが、「神国日本 (ちくま新書:佐藤弘夫)」(参照)のように、歴史的には本地垂迹説、つまり、仏が神として現れる国という意味だろう。
 話を戻して、"nation"それ自体に「族」、民族の含みがあるというのは、重要で、日本国憲法なども、"nation"と"state"の使い分けを、きちんと訳し直したほうがよいのかもしれない。よく話題になる9条もこれが分けられている。

article 9.
Aspiring sincerely to an international peace based on justice and order, the japanese people forever renounce war as a sovereign right of the nation and the threat or use of force as means of settling international disputes.
 In order to accomplish the aim of the preceding paragraph, land, sea, and air forces, as well as other war potential, will never be maintained. the right of belligerency of the state will not be recognized.

 訳文では分けられていない。

第9条
 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 "a sovereign right of the nation"とthe right of belligerency of the stateでは、「国」の意味合いが違うが、訳文からはわかりづらい。
 「ニホン語、話せますか?」からもう一例紹介してこのエントリは終わりにしよう。話は、「失われた世代」だ。これが、誤訳だというのだ。
 この言葉は、ヘミングウェイの「日はまた昇る」で、ガートルード・スタインの次の名句に拠っている。

"You are all a lost generation."

 これを従来は、「君たちはみな、失われた世代なのだ」というように訳していた。が、これは誤訳。

 これは、別段難しい英語ではなく、The police finally found the lost child.(警察は、やっと迷子を見つけた)や、Without a compass, they soon were lost.(彼らは磁石がないので、すぐに道がわからなくなってしまった)などに表されている方角を見失う状態を比喩にして、たとえば、
 He was lost after his wife died.(彼は、妻に死なれて、どうしようもない状態になってしまった)
 のように、"人生の方角"を見失い、駄目になったことを表現しているだけである。


 「失われたお金」なら、誰かがそのお金を失ったはずだ。では、ある世代が失われた場合、いったいなにものがその世代を失ったというのか。

 まあ、それはそうだ。言葉が一人歩きすると、なかなか再考することは難しいものだ。

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コメント

はじめまして。
極東ブログ愛読者です。

the peopleという言葉について。

ある種の階級の欧米人と話したときの個人的印象に過ぎませんが、
the peopleという言葉は、
ロングマンのall the ordinary people in a country or a state, not the goverment or ruling class の中でも
not the ruling class
の意味合いが強いように感じます。

支配階級の人が、自分の階級に属さない庶民を
見下して言うときに使われるイメージといいますか…
支配階級の人たちが、自分たちだけで物事を決めていた時代に、
「一人前の人間」として認められていなかった下々の者たち、を指す言葉として使われていたイメージです。
the people=被支配階級、という感じです。

その訳語として「国民」という言葉を使うと、
まず「国民」の定義ありきとなってしまい、
その国の制度いかんによって「国民」の範囲が変動してしまう不都合が生じるので
「人民」という訳語が適切なのではないかと思います。
(例えば支配階級の人間だけが「国民」とみなされる国家がありうると考えると、おかしなことになってしまうので)


投稿: 青人草 | 2010.02.11 16:00

> "You are all a lost generation." これを従来は、「君たちはみな、失われた世代なのだ」というように訳していた。が、これは誤訳。

う~ん、果たしてそうだろうか?この訳が、

>"人生の方角"を見失い、駄目になったことを表現

することに失敗しているだろうか?私は、いい訳だと思うんだけどなぁ・・・。

投稿: Metro | 2010.02.12 18:38

ああそうか。日本語の「失われた10年」と英語の「lost decade」では、日本語の方が先に使われてた印象がありますが、英語ではそういうニュアンスで理解されているわけですね。日本の政府当局者が英語で「lost decade」なんて使うと変に聞こえるわけだ。

投稿: richmond | 2010.02.13 20:45

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