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2010.02.01

[書評]おもひでぽろぽろ(岡本螢・刀根夕子)

 映画「おもひでぽろぽろ」(参照)を見たあと、原作はどうなんだろと、なんとく気になっていて、ようやく先日読んだ。私が読んだのは1996年版の集英社文庫コミック版(参照参照)だが、後で知ったのだが、2005年に青林堂版(参照参照)があった。支持されての復刻という意味合いがあるのだろう。
 集英社版もまた復刻のようでもある。1991年徳間の「タエ子ちゃんといっしょ おもひでぽろぽろ読本」(参照)の巻末を見ると、徳間版の三巻本の「おもひでぽろぽろ」がある。書籍としてはこれが最初のようだ。映画「おもひでぽろぽろ」は1991年の作品で、原作は当然それ以前にあるのだが、徳間版から構想されたのか1987年初出の週刊明星連載によるものかはわからない。

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おもひでぽろぽろ (上)
 不確かな私の記憶だが、映画化は宮崎駿が高畑勲に頼んだものらしい。だとすると着目したのは宮崎駿ということになる。集英社版にはその経緯を高畑勲が綴った「透明さという喚起力」という文章が収録されていて興味深い。また、集英社版の2巻を見ると、初出について1987年から飛んで1991年の明星の8月1日号と28・29日号が記載されているがこれは「おもひでぽろぽろスペシャル」に対応するものだろうか。
 高畑の先の文章では映画化にあたり「原作に忠実」としている。さらに高畑は映画化にあたり岡本螢へのインタビューなどもしていてその成果も映画には取り込まれている。私が映画と原作を見た印象では、たしかに「原作に忠実」はそう受け取ってよいと思ったが、微妙に違う作品に思えた。
 原作「おもひでぽろぽろ」だが、作者岡本螢の子供時代と想定される小学校4年生の岡本タエ子の一年間の思い出エピソードが中心になっている。その点では、集英社「りぼん」に1986年から掲載された、さくらももこの「ちびまる子ちゃん」に似ているともいえる。余談だが、私は「ちびまる子ちゃん」の初版本が出たときに購入している。
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おもひでぽろぽろ (下)
 さくらももこは1965年生まれだが、岡本螢は1956年生まれで世代差がだいたい10年ある。私は1957年生まれなので岡本より一歳年下で、ほぼ同年代に近い。ただし、岡本は2月の生まれらしく、学年的には私より2年年上で、タエ子ちゃんが4年生のとき私は2年生であり、微妙に文化的な嗜好は違う。とはいっても大半は同じなので、原作を読むと、胸がきゅんとなるような思い出でありながら、その時代を子供として生きた人にしかわからない何かが描かれていて貴重な体験になった。
 「ちびまる子ちゃん」もその世代にとっては貴重な思い出なのだろうが、そこにはローカルなおかしさや日常の愉快さというものがある種、演出的に描かれているのに対して、「おもひでぽろぽろ」には戦後という時代の最後の暗さのようなものと、思い出話として演出的に還元されない何かが残っている。その特異な時代性とある種のアキュートネスの感覚の点で、映画の「おもひでぽろぽろ」は原作と絶妙な違いがあると思った。しいていうと、高畑勲の戦後世界的なそして団塊世代を理解したいタイプのヒューマニズムによって、曲解ではないが解釈に無理を感じる部分がある。それは映画で、大人になったタエ子が農村的な自然性に回帰するところで最大の差異となるのだが、つまりは「原作に忠実」でありながら、まったく別の作品になっていることを意味している、と私には思えた。それが悪いわけではない。ただ、同世代の人間としては「おもひでぽろぽろ」に描かれている、戦後の暗さ・残酷さのような部分、おそらくそれが結果としてタエ子の子供心に恐怖として反映されている部分の希有な表出を損なっているかもしれないと思えた。
 映画とのズレでもう一つ、「ああ、これは違うな」と思ったことは「性」の問題だ。映画のほうで描かれていないというわけでもないのだろうが、原作では読み方によっては、子供にとっての性の問題が強く露出してくる。そしてそれは、ヒューマニズム的な家族愛から微妙にはみ出すものとして描かれている。
 うまく言いづらいのだが、現代ですら、愛だの思いやりだの家族愛だのはフィクションだと子供は感じているものだ。しかし、豊かさや戦後の知性の累積がそれを上手に覆っている。それでも覆えない部分はあり、そこは社会に奇っ怪な違和として浮かびあがってくる。もっと単純にいえば、誰からも愛されない自分を抱えた子供はいつの時代もかならずいる。その部分を時代のなかで映し出し、戦後の暗さが終わる部分での、ある偽悪的な露出は、むしろ人の心の欺瞞を解く点で一種の救済でもあるだろう。
 原作にただよう奇っ怪な異質性を高畑が感受しなかったわけではない。彼の文章の締めにはこの言及がある。

なお、映像的な「雛熱」など、好きだったエピソードが盛り込めなかったことを大変残念に思っている。

 雛熱は、岡本の命名による造語だが、ひな祭りのころの、おそらくインフルエンザがもたらす高熱による幻想を描いたものだ。身体が離脱したような感覚で雛人形が列を作って歩きだしたり、巨大化するように感じられる。この作品は、特にその幻想シーンの表現だけ見ると「おもひでぽろぽろ」の他のエピソードとは異質な印象を与えるのだが、高畑がどうしてもひっかかるように、ここに「おもひでぽろぽろ」という不思議な思い出がなぜ大人の女性に残ったのかという秘密に通じる本質がある。むしろ、「雛熱」の意識こそが、この特殊な思い出というものを存在させている基軸なのではないかと思えてくる。
 私にとってはと限定すべきだろうが、原作「おもひでぽろぽろ」が同世代人には貴重な思い出の物語であることよりも、「おもひでぽろぽろスペシャル」の4つの連続した話のほうに、作品として衝撃を受けた。
 スペシャルの四話では、タエ子は幼稚園生から中学生まで年齢変化をするのだが、ひとつひとつの作品に、奇妙なカタツムリが登場する。最初の作品では、墓の前でおばあちゃんに「カタツムリかけるかたつむりってなに?」とタエ子が問い掛け、それにおばあちゃんが不思議な答えをしているシーンにそっと登場する。この作品だけならカタツムリの意味は問われないかのようだが、サリンジャーの「ナイン・ストーリーズ」(参照)の「バナナフィッシュにうってつけの日 ( A Perfect Day for Bananafish )」のバナナフィッシュを巡る会話のような奇っ怪さを持つ。
 それが二話では一人暮らしの老人が巨大カタツムリとなり、まったくの幻想的な奇譚の世界に入る。しかし、これが奇怪であるがゆえに怖いのではなく、おなかがよじれるほどおかしいのだ。なんど読んでも笑える。なぜおかしいのか知的に理解できず、脳の一部が恐怖でしびれてしまって自分は笑っているのではないかとすら思える。その後の二話も、カタツムリの幻想の物語だが、なにかを比喩していると読んでもよいのだが、必ずしもそうした比喩の中心性はない。日常のなかに、あるいは思い出という幻想のなかに奇っ怪なカタツムリが違和として出現する。そして、消える。比喩というなら、思い出というものの存在論的な意味の奇っ怪さであろう。
 このスペシャルの漫画がどのようなプロセスで岡本螢と刀根夕子で作成されたのかわからない。おそらく、こんなんでいいんじゃない、面白いんじゃない、ゲラゲラという雰囲気で無意識に作成されたのではないかと思うが、その偶然のような過程でとんでもない名作に仕上がった。私は漫画に詳しくないのだが、この幻想性を有した類似の漫画や文学を知らない。この「おもひでぽろぽろスペシャル」が映画化されたら、どれほどか面白いだろうと、あるいは、その幻想のなかから、「雛熱」を通して、本編の「おもひでぽろぽろ」が描かれたらどうだろうか。そういう作品も見てみたいと切望してやまない。

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コメント

先に、書いたコメントの追記になります。・・・批評家・佐藤健志氏が、「映画版は、ラストの音楽で整合性を得ているだけの、欺瞞的な作品」と、非常に腹を立てておられた理由が、やっと分かりました。佐藤氏は、そもそもジブリ作品に対して、怨念めいたものを持っていらっしゃるのだけれども。・・・原作は、面白いんですね。今度、是非読んでみます。

投稿: ジュリア | 2010.02.03 22:15

>そしてその本質が、未来に開示されたものであるからこそ、大人の結実(種から花となる)を描き出したと言える。そこには、本質看取による個別性が捨象されてしまうか、個別性は本質的なものの一つの例示的な顕現として了解される。

哲学書から借りてきたような言葉や文が並べられていますが(大学生のレポートなどにありがちだったのですが)、もう少し自分の言葉で「論理的」に文章を構築してほしいものです。

投稿: おせっかいおじさん | 2010.03.19 00:29

刀根夕子先生の出身校の後輩です。ある時から、年賀状を絶やしてしまい、連絡先が解らなくなってしまいました。ずっと、探していたのですが、個人情報は教えてくれないので、学校の名簿からも探せませんでした。ご連絡頂けたらうれしいです。

投稿: 近藤 恵美子 | 2011.05.13 14:54

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