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2010.02.02

[書評]タエ子ちゃんといっしょ おもひでぽろぽろ読本(岡本螢)

 「タエ子ちゃんといっしょ おもひでぽろぽろ読本(岡本螢)」(参照)は1991年の作品で、何か雑誌に連載されたエッセイをまとめたものではなく、徳間書店からの書き下ろしのようだ。手元のものは7月31日付けの初版だが版を重ねたふうもくなく、現在では絶版に至っているのかもしれない。おそらく、1991年の映画「おもひでぽろぽろ」に合わせた企画として出版された本だろう。帯にも「7月20日、全国東宝洋画系公開映画『おもひでぼろぽろ』の原作者がつづる、永遠のコドモ時代」とあり、それを意図したものであることをうかがわせる。

cover
タエ子ちゃんといっしょ
おもひでぽろぽろ読本
岡本蛍
 内容もさらっと読むと、昨日のエントリ「[書評]おもひでぽろぽろ(岡本螢・刀根夕子): 極東ブログ」(参照)で触れた原作、ないしジブリ映画の、著者からの補足と受け取れないこともない。あるいは原作で書き忘れていた、もう少しの裏話といった風に読まれもするだろう。
 だが本書は、筆者も出版社も想定してない不思議な絵を結果として描いている。結論から言えば、映画「おもひでぽろぽろ」が描いた大人の岡島タエ子とは異なる、もう一人の大人の岡島タエ子をきちんと描き出している。そのことで、映画との関係で、不協和音ということではないが、ある種の精神的な緊張を作り出している。
 映画に描かれた大人のタエ子像は多様に解釈されるだろうが、その設定は映画「おもひでぽろぽろ」の監督高畑勲氏の創意によるものだ。その創意もまた映画作品から多様に読み解かれてよいものだが、「おもひでぽろぽろ」集英社版(参照)には高畑自身氏による、一種の解説とも言える「透明さという喚起力」という文章が収録されており、ここで氏は非常に興味深い、ある意味で、多少言い過ぎかなと思える主張をしている。どのように原作から映画作品を作り出すかという苦闘の過程で、原作のエピソードをコラージュ化するか、あるいは、原作の本質から新しいストーリーを生み出すかを彼は考慮するのだが、前者のプロセスにこう触れている。

せつないエピソードを並べれば、タエ子は可哀想な「暗い子」にしか見えない。現に、わたしが後に二十七歳の成人したタエ子を設定したとき、原作を読んだスタッフのひとりが、「あんな暗いタエ子があんな大人になるはずがない」と言ったのである。わたしはおどろいた。十一歳の女の子ならば、誰に起こってもおかしくない心の残る「おもひで」だけを原作マンガは実にうまくすくい取っているのに、それこそがこのマンガの見事さなのに、それを一般の「物語」として受け取り、主人公に固着した「性格の表現」としか読み取れない人もいるのだ。

 高畑氏の視点は、「この年頃の女の子の何たるか」つまり、女の子というもののある本質を描き出した作品として原作を読解し、そしてその本質が、未来に開示されたものであるからこそ、大人の結実(種から花となる)を描き出したと言える。そこには、本質看取による個別性が捨象されてしまうか、個別性は本質的なものの一つの例示的な顕現として了解される。
 しかし私は、率直にいえば、このスタッフの女性の視点も、高畑氏の視点も微妙にずれていると思う。もう少し高畑氏寄りに、しかし、対比的に言うなら、読み出された普遍性は、それゆえに暗いものだった。その結実は、映画に描かれたタエ子とはまったく異なるものだったと思う。
 そのことを、本書「タエ子ちゃんといっしょ おもひでぽろぽろ読本」は、原作のマンガとは異なる肉声で、しかもその結実の側から語り出すことで、逆に原作に込められている暗さの別の意味を切り出している。例えばこういう箇所だ。フウセンガムに借りた話題のなかで。

 思い起こすと、チビのころの私はずいぶんひがんでいた。そりゃもう、ひガム、ひガム。
 私は三姉妹の末っ子だったので、だれにも喜ばれずに、この世に誕生したのだった。ご同類の方もいらっしゃると思うが、あなたもきっと期待はずれで生まれたんでしょ?
 もし、そんなことはないわ、と言うならば、それはたぶんあなたの親が大嘘つきか、あなたが鈍い子だったのいずれかである。

 諧謔の文体にヤイバのような鋭い問いが、そしてそれこそ「この年頃の女の子の何たるか」を示す問いが提出されている。それは「私は誰からも期待されずにこの世に生まれた」という意識であり、それが悲しみと恐怖に、さらに女性特有の性の衝動に色づけられる。
 もちろん世の中には、望まれて生まれた子どもこの世にはいるだろうし、親もその子を本当に愛していると子が確信できる子どもいるだろう。だから、こうした岡本氏の指摘は修辞でしかないとも言えるし、氏もそれは織り込んでいるだろう。
 だが、本質はといえば、何も変わらない。「私は誰からも期待されずにこの世に生まれた」という本質的な問い掛けは、ある時、事故のように気がつくか気がつかないかでしかない。気がついてしまったとき、親とはなんだろうか?と問うことにもなる。
 原作「おもひでぽろぽろ」が卓説しているのは、この本質的な問いに、昨今の風潮のような甘ちょろいヒューマニズムを描いていないところだ。特に、父親がタエ子を殴るシーンにそれは鮮明に描かれている。それは親が愛していたゆえに子に暴力を振るったのではない。親が「オキテ」であるから殴った。そしてこの大人のオキテこそが、子供を、大人に、親に、するものであり、タエ子もまた、そのオキテのなかで大人になることで、このぞっとする問題を生き抜くことで、解決しようとしている。そして本書は、そうした過程を経た大人の冗談に満ちている。
 そこに描かれた大人たる結実は、高畑が描いた自然的な伝統性でもなく、また、おそらく、そうした親和としての「愛」でも、「友愛」でもない。
 昨今、鳩山政権の奇妙な影響で「友愛」という言葉が、100年近い眠りから覚めた亡霊のように日本でまた一人歩きするようになったが、この「友愛(fraternity)」というのは、市民の連携の原理であり、市民とは、話を端折っていえば、親子の情や伝統社会の情を断ち切った孤独を抱える個人の上になりたつものだ。ドラッカーの父が子のピーターにフリーメーソンの会員であることを明しはしないような断絶でもある。だから、私は冗談めかしてであるが、「市民とは鬼畜」と言うことがある。親子の情や自然の情を、自身の孤独で突き破ってから連帯を求める人々は、伝統社会からは鬼畜のようにしか見えない。それが市民というものであり、そうした市民に、大人が成熟するには、幼い子供の心の傷に真正面から向き合って、ごまかさずに生きることしかないと思う。そうした「友愛」というもの生成を本書の次のような指摘で思う。

 子供のころの傷つき方というのは、今思えば、まったくあどけなかったのかもしれなくて、”思い出”という言葉で風化してしまっていることも多い
 でも、本当にそうなんだろうか、と思う。子供時代は、ただのどかで、懐かしいだけのものでは決してなかったように、私には思えてならないのだ。


大人は、いつまでも傷ついていることが嫌いだし、そんな暇もないって、たぶん思っている。
 けれど、でもでも、やっぱり擦り傷は擦り傷なのだ。擦りむいたのだ。かさぶたっちゃったのだ。痛かったのだ。せめて、それだけは覚えていたいと私は思う。
 それは、もしかすると、なーんの役にもたたなくて、思い返せば、うっとおしいだけのもんかもしれない。
 でも、そういうをポイちゃうのはキッタネーぞと、私はつっかりたい。

 情けない話だが、私もそうして生きてきたし、それ以外に生きることができない。自分の心の傷をごまかして、美しい画餅を描き、「いのちを守りたいのです」とかいうやつには、キッタネーぞとつっかかる。いのちに国籍なんかない。いのちを守りたいというなら、国境無き医師団のように国を越えていくしかない。なのに国のなかで「いのちを守りたいのです」と言えば、国の鉄壁の外に別のいのちを放り出すくらいしにかならない。キッタネーぞ。大金持ちならビル・ゲーツ夫妻みたいに国際的な慈善団体を運営すればよいのだ。おっと話がそれまくり。
 人は偽善からは逃れられない。逃がしてくれないのは、子供のときの深刻な痛みだし、痛みを捨てて幸せなシュラムッフェンなることを押し止めてくれるのは、幼い痛みを引き受けてくれた何者かだろう。人はおそらくその「はてしない物語」(参照)を生きなくてはならない、子供であることを捨てずに。
 ただし…。
 岡本の、そしてすっかり同化しちゃった私の、こうした思いは、この世代特有のものかもしれないとも思う。

 ヤエ子ねえちゃんは、昭和二十四年生まれである。世にいうベビーブームというやつで、赤ん坊がどんちゃかどんちゃか生まれた。一方、私は昭和三十一年生まれである。翌年の昭和三十二年をどん底に出生率はぐんぐん減っている。つまり、私が生まれたときのほうがヤエ子ねえちゃんのときよりも子供がぐうんと少ないのである。
 この事実をどう見るか。私としては、どんちゃか生まれたときのほうが雑な子が生まれると思うのだが、事実はそれに反して、二十四年生まれのほうが精巧にできている。
 生まれたご時世はどうか。二十四年というのは戦争の傷痕がまだ残っている。三十一年は「もはや戦後ではない」といわれた時代である。
 うまり、先に言った、ごちゃまぜ時代が始まりつつあった季節である。

 本書が書かれた1991年、筆者が35歳の年である。すでにその下の世代は台頭していた。

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コメント

・・・すみません、「おもひでぽろぽろ」の、映画も原作も未読なのに、ここにコメントするのは躊躇われるのですが・・・。実は、先に佐藤健志氏の「ゴジラとヤマトと僕らの民主主義」で、この映画に対する先鋭的な批判を読んでしまったため、「食わず嫌い」だったのですが、この評を読んで、何故佐藤氏が、大上段にこの映画作品を斬り捨てたのか、その内心が解けるような気がしました。  
氏は、言うまでもなく佐藤誠三郎・欣子夫妻の息子さんである訳ですが、彼が執拗に、宮崎及び高畑作品を嫌うのには、ある種のルサンチマンがあるように(下世話ですが・・・)思いました。実は、この佐藤夫妻が自分の両親と同窓である縁もあって、何度か氏とファンレターとその返信という形で、通信させて頂いた事がありますが、やはり何か、ある年齢のインテリ層に対する、非常な怨念のようなものを、(今思うと)感じました。
話を、もとに戻しますと、こういう子供の怨念というものは、時代とか階級に関係なく、常にあるのだと。・・・そういう、「幼い痛み」を引きくけてくれる何者かがいないと、人は、どんなに立派な学者であろうと、その本質は怒りを抱えたニートと、全く同じなのだと感じます。

投稿: ジュリア | 2010.02.03 21:17

個人的な意見なのですが、もう少し論理的展開をはっきりさせて前後のつながりをわかりやすくすればきちんとした文章として扱われると思います。

投稿: | 2010.03.18 08:07

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