[書評]日中戦争はドイツが仕組んだ 上海戦とドイツ軍事顧問団のナゾ(阿羅健一)
先日、日中双方10名ほどの有識者による歴史共同研究の報告書が公開されニュースになった。大手紙の社説などでも言及されていた。共同研究は2006年10月安倍晋三首相(当時)が訪中に際し、胡錦濤国家主席との会談で合意されたものだ。近代史については中国側の都合で非公開となったとのことだが、読める部分はどんなものだっただろうかと思っていたら、外務省で電子文書で公開されていた(参照)。
中国側の見解もまとめられていたが私は中国語が読めないのでわからない。この部分も翻訳・合本し、政府補助で安価に販売されたらよいのではないかと思った。新聞などの報道では、暴発ということでほぼ定説化しつつある盧溝橋事件について中国側でも「発生は偶然性をもっているかもしれない」との理解が示されたといった点に着目していたが、他も全体にバランス良く書かれていて、存外にというのもなんだが、よいできだったことに驚いた。なお、盧溝橋事件経過についての日本側の認識は秦郁彦「盧溝橋事件の研究」(参照)によっている。
報告書を少し追ってみよう。盧溝橋事件だが、日本政府側また石原莞爾も戦闘拡大は望んでいなかった。
現地で断続的な交戦が続く中、7 月8 日、参謀本部作戦部長の石原莞爾が療養中の今井清次長にかわって参謀総長に説明し、参謀総長名で事件の拡大を防止するため、「更ニ進ンテ兵力ヲ行使スルコトヲ避クヘシ」と支那駐屯軍司令官に命令した。翌9 日、参謀次長名で、中国軍の永定河左岸駐屯の禁止、謝罪と責任者の処分、抗日系団体の取締り等の停戦条件が指示された。停戦交渉は、北平特務機関と第29 軍代表との間で実施され、7 月11 日、29 軍は①陳謝と責任者の処分、②宛平県城、龍王廟に軍を配置しない、③抗日団体の取締り等の要求を受け入れ、11 日午後8 時に現地協定が成立した。
一方、近衛文麿内閣は8日の臨時閣議で事件の「不拡大」を決定したが、不拡大は華北への動員派兵の抑制を意味しなかった。
満州事変全体を見れば、それ以前の柳条湖事件は日本の謀略であり、日本側に「中国」侵略の意図はあったと言える。中国側がそうした大局観を取るのも理解できるところだ。
1931 年9 月18 日夜、奉天郊外の柳条湖で満鉄の線路が爆破された。関東軍の作戦参謀・石原莞爾と高級参謀・板垣征四郎を首謀者とする謀略によるものであった。鉄道守備を任務とする関東軍はこれを中国軍の仕業とし、自衛のためと称して一気に奉天を制圧した。
柳条湖事件発生の数ヵ月前、陸軍では省部(陸軍省と参謀本部)の課長レベルで、在満権益に重大な侵害が加えられた場合には武力を発動する、というコンセンサスが成立していた。彼らの構想では、武力発動の前に内外の理解と支持を得るために1 年ほどの世論工作が必要とされ、したがって柳条湖事件の発生は早すぎたが、関東軍が武力行使に踏み切った以上、それをバック・アップするのは当然と見なされた。
すでに言われているように石原としては満州までは維持し、それ以上の戦闘拡大は当面望んでいなかった。対ソ戦、さらには長期的には対米戦への布石として満州を固めたかったのだろう。
報告書の西安事件以降の蒋介石の話もそれなりによくまとまっている。蒋介石は対日戦争の準備を盧溝橋事件とは別に、この間着々と進めていた。しかも、ドイツの援助のもとでだった。
そもそも蔣介石は、満洲事変以後、安内攘外の方針に基づき日本との妥協を図ってきたが、究極の場合の対日戦の準備を疎かにしていたわけではない。国民政府は剿共戦を戦うためドイツから軍事顧問を招聘し、軍事組織・戦略・戦術の近代化を図るとともに、その助言に基づき、対日戦に備えた軍事的措置を講じつつあった。
対日戦争の準備はドイツの支援によるものだった。報告書もそこが明記されている。最近の高校の教科書とかはどうなんだろうか。
ドイツの支援については報告書では当然とも言えるが簡単にしか触れられていない。
1936 年4 月には、ドイツとの間に1 億マルクの貿易協定を結んだ。ドイツからの武器の輸入とタングステン等の輸出によるバーター協定であった。中国はこのようなドイツとの密接な経済的・軍事的関係によって日本を牽制しようとしたが、同年11 月の日独防共協定の成立により、親独政策による対日牽制は頓挫した。
タングステンはドイツにとって重要だったようだ。報告書の、この記述は概要としてはよいのだが、「軍事的関係」というには実際にはかなり念のいったもので、盧溝橋事件以前からドイツ側が起案した上海戦を想定した準備が進められていた。いわゆるゼークトラインである。
ハンス・フォン・ゼークトは1933年から1935年まで中国で蒋介石の軍事顧問を勤め、後任はアレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼンがあたり、上海での日本軍壊滅させるために入念な作戦を練り、さらに最新の兵器を中国に渡し、訓練にもあたっていた。
この時点で、中国軍は実質ファルケンハウゼンの指揮下にあり、第二次上海事変も彼の戦略に従った。その意味で、日中戦争というより、傀儡化した中国を使っての日独戦争ともいえる側面があった。が、他方、この共同宣言にもあるように、1936年には日独防共協定が成立しており、結果的には「親独政策による対日牽制は頓挫」ということになる。だが、この変化の過程は漸進的なものであり、簡単に言えば、この間ずっとドイツは日本を欺き続けていた。中国にかかわるドイツ人が実質的にはこの時代反日的であったことは関連資料を読む際の前提になる。
報告書では日本側はおおむね中国との戦争を避ける方針であったことも記している。
日本の国防方針において、中国は仮想敵国のひとつであった。したがって、陸軍は毎年、中国と開戦した場合の作戦計画を作成した。中国の軍備強化に伴い、1937 年度(1936 年9 月から1 年間)の対中作戦計画での使用兵力は、前年度の9 個師団から14 個師団に増加した68。ただし、対ソ戦に備えての軍備拡充を焦眉の急としていた参謀本部では、中国との戦争は極力回避すべきであると考えられていた。
異論はあるだろうが、中国軍を指導していたファルケンハウゼンは国際世論の向かない満州ではなく、日本が中国を侵略するという図柄が見えやすい上海戦に日本を引き込み、国際世論とともに日本の侵略を壊滅させようとしていた。
歴史を見ていて、悲劇に思えるのは、ここでファルケンハウゼンの策略が成功しているほうが日本にとっても良かったかもしれないことだ。上海戦に多大な被害をもたらして勝利した後の日本は、日本国民を含めてまさに暴発してしまったかに見える。
大局的な対中侵略という視点でなければ、盧溝橋事件から第二次上海事変への流れはそう連続しては見えない。報告書もそこは記している。
海軍の動向に眼を向けると、事変勃発後、軍令部や中国警備を担当する第3艦隊には強硬な空爆論も存在したが、米内光政海相は外交的解決に期待し、水面下で進んでいた船津工作に望みを託していた。しかし、上海での8月9日の海軍将兵の殺害事件(大山事件)は海軍部内の強硬論を刺戟した13。佐世保に待機中の陸戦隊が急遽派遣され、上海は一触即発の危機に陥った。
8月12日、国民党中央執行委員会常務委員会は、戦時状態に突入する旨秘密裏に決定した。14日払暁、中国軍は先制攻撃を開始し、空軍も第3艦隊旗艦「出雲」及び陸戦隊本部を爆撃した。蒋介石が上海を固守するために総反撃を発動したのは、ソ連の介入や列国の対日制裁に期待し、さらに日本の兵力を分散し、華北占領の計画を挫折させるためでもあった。上海防衛戦には国民政府軍の精鋭部隊が投入され、その兵力は70万人を越え、戦死者も膨大な数にのぼった。
8月13日の閣議は、派兵に消極的であった石原作戦部長らの意見を抑えて、陸軍部隊の上海派兵を承認した15。米内海相も陸軍の上海派兵には積極的ではなかった。
米内光政海相も石原作戦部長もこの上海での戦闘には消極的だった。
日本では当時はファルケンハウゼンの万全の戦略は知らされてはいなかったようだが、70万人のドイツ式先鋭部隊に未対応の日本の現地治安部隊、さらにその後の対外軍も勝てるはずはなかった。全面戦争は日本側では想定されていなかった。というか、具体的な軍事行動として想定されていなかった。
15日に下令された上海派遣軍は、純粋の作戦軍としての「戦闘序列」としてではなく、一時的な派遣の「編組」の形を取っていた。その任務も、上海在留邦人の保護という限定されたものであった。しかし、上海戦は中国軍の激しい抵抗のなかで、事件を局地紛争から実質的な全面戦争に転化させる。
奇跡的にと言ってよいかと思うが、上海戦に勝利した日本軍は、南京攻略まで暴走していく。この暴走の不合理さは以前、小説風に「時代小説 黄宝全: 極東ブログ」(参照)に書いた。「黄宝全」はファルケンハウゼンの駄洒落だが、彼を模したものではない。また、現実には蒋介石はこんな弱気ではなかった。
国民政府は11月中旬の国防最高会議において重慶への遷都を決定したが、首都南京からの撤退には蒋介石が難色を示し、一定期間は固守する方針を定めた。
現実のファルケンハウゼンは、予期せざるゼークトライン突破後は、対応として蒋介石が南京を捨てることを提言していた。この話は報告書にはない。
日中戦争は ドイツが仕組んだ 上海戦と ドイツ軍事顧問団のナゾ |
同書の評価だが、こうした歴史の側面に関心をもつ人には興味深いものだろう。だが、とりわけ驚愕の真実といった話もなく、大半は上海戦の日本軍の戦闘に頁がさかれている。また巻末資料を見ても、日本で発刊された書籍や翻訳書などばかりで、ドイツ側の資料を当たった形跡はない。史学的な価値はないに等しい。
驚愕すべき真実はないとは言ったものの、迂闊にも、えっと絶句した話はあった。言われてみればごくあたりまえなのだが、想像もしてないことであった。盧溝橋事件が1937年(昭和12年)7月7日であったことを念頭に読まれるとよいだろう。
しかし、ファルケンハウゼンの対日戦の進言は執拗に続けられた。昭和十一(一九三六)年四月一日になると、今こそ対日戦に踏み切るべきだと、蒋介石に進言する。
「ヨーロッパに第二次大戦の火の手が上がって英米の手がふさがらないうちに、対日戦争に含みきるべきだ」
ひと月前、二・二六事件が起こって日本軍部が政治の主導権を握り、軍部の意向が疎外される可能性は少なくなり、その一方、ドイツがラインラントに進駐してイギリスの関心はヨーロッパに向き、中国の争いに介入する余裕がなくなった、そのため、英米の関心が少しでも中国にあるうちに中国からの日本との戦争に踏み切るべきである、というのである。
このとき、日本の航空戦力の飛躍的増強で黄河での抗戦はむずかしくなったとも判断し、日本軍が支配している地域でゲリラ戦を展開し、中国内のみならず満州、日本本土にも、情報収集と破壊工作を展開するスパイ網をもうけるべきだという新たな戦術も示した。
これら献策は蒋介石の取るところとならなかったが、九月三日、広東省北海市で日本人が殺害される事件が起こり、日本軍から攻撃が予想されるようになった九月一二日、ファルケンハウゼンは改めて河北省の日本軍を攻撃するように進言した。
皮肉なことに、これらの蒋介石とファルケンハウゼンのやりとりは、なんと日本語で行われていた。日本語こそ、二人に共通の言語であったのだ。
堪能とは言えるかわからないが、両者とも日本語が使えるし、それしか共通の言語はないというのは、考えてみればわかるが、言われてみるまで想像もしていなかった。もっとも、この話も歴史学的に確定したわけでもないが、毛沢東の共産党も初期では内部では日本語が話されていたらしいこともあり、中国の近代化の共通語は存外に日本語であったかもしれない。
本書の終章には帰国後のファルケンハウゼンの逸話もある。有名なヒトラー暗殺計画に参加した話もある。彼は幸運にも処刑を免れ、連合国側の裁判でも寛大な処遇を受けたが、その背景には蒋介石の友情もあったようだ。あらためて二人の年齢を見ると、ファルケンハウゼンは蒋介石より10歳ほど年上で兄弟のような関係でもあったのかもしれない。両者ともに長生きであったが、生涯にわたり友情が続いたことも本書で知った。
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コメント
山本七平さんは、「日本人と中国人」(イザヤ・ベンダサン著)の中で、ドイツは、対スターリン戦略のために日本と蒋介石の「事変」を終了させようとしたとしております。
ナチス・ドイツにとって、日中間の戦争は何が得なのかよくわかりかねます。アメリカの目をアジアに向けさせること?
日米開戦がスターリンの陰謀であることは、ハル・ノート成立の経緯の研究などから最近は知られるようになっていますが。
ドイツの反日感情というのは、日本が悪名高いでまかせそのものの反ユダヤ文書「シオンの議定書」をまじめに相手にしなかったことが原因でしょうか?
投稿: enneagram | 2010.02.06 10:07
>国際世論ともに日本の日本侵略を壊滅させようとしていた。
訂正よろ
投稿: | 2010.02.08 15:49
誤記指摘ありがとうございます。訂正しました。
投稿: finalvent | 2010.02.08 17:01
enneagramさんへ
第一次大戦後ドイツが日本に敵対的であったのは当然ですね。またドイツはヴェルサイユ条約で軍事援助を禁止されたために、その秘密の貿易相手国として中国を選びました。そこでドイツの軍事顧問団は蒋介石に対日強硬策を勧めたのです。
一方、ヒトラーは反共産主義で、ソ連が宿敵フランスと相互条約を結んだのを機に、日本に接近し日独防共協定を結びました。日中戦争が始まると、ドイツのこうした矛盾を調停する必要が生まれ、その結果トラウトマン和平工作が取り組まれたのです。
結局、この工作は失敗しましたが、その原因についてベンダサンは、日本が自ら示した和平条件を、蒋介石が無条件降伏に等しい形で受諾した(満州国の実質的承認という意味)のに、戦況の変化を理由に日本がこの条件を加重したためだ、といっています。
おそらく、これは欧米にはそのように見えた、ということだと思いますが、実際は、蒋介石は交渉相手としての日本を全く信用しておらず、周到に善後策を講じていました。また寛大と言われる参謀本部案に対しても同様で、蒋介石がこれを受け入れる余地は全くなかったと思います。
このことについて、あたかも政府文官が参謀本部の和平意志を妨害したかのような議論がなされていますが、参謀本部の案は、対ソ戦に備えると共に、究極的には対米戦をも想定し、そのために日満支一体経営の必要を唱えるもので、それは、中国にとってははた迷惑以外の何者でもなかったと思います。
こうした善意の思い込み(そのため上海周辺の要塞化にも気づかなかった)による「日満支一体化」が、結局、相手国の存在を無視することにつながっていたわけで、確かに日本から見れば善意だが、中国から見れば侵略であるという食い違いは、実は、ここから生じているのかもしれません。
投稿: tikurin | 2010.02.11 06:22
(前に続く)
そもそも日中戦争を本格化させた第二次上海事件は、蒋介石のイニシアチブにより始められたものでした。そのための準備を支援したのはもちろんドイツで、蒋介石としてはもう少し準備に時間が欲しかったようですが、そうした情況を読めなかった日本軍は上海の戦闘で想定外の大損害を強いられました。
そこで戦闘が終われば良かったのですが、軍の統制が効かず停戦して和平交渉を進めることができないまま南京を占領してしまいました。こうなれば、国民の側に支那の降伏を求める声が高まるのは必然であり、一方蒋介石は持久戦を覚悟していたのですから、参謀本部案での和平交渉もほとんど絶望的だったと思います。
参謀本部はこの時、昭和天皇に交渉継続を求めて上奏していますが、天皇はこれに対して”それなら、まず最初に支那なんかと事を構えることをしなければ良かったぢやないか”といっています。華北分離工作など政府の方針を無視し、やりたい放題やってきて、今さら「寛大」を粧っても手遅れだ、という意味だと思います。
では、満州事変以降、日中和平が最も現実的となったのはどの時点でしょうか。私は、昭和10年に、蒋介石が駐日支那公使の蔣作賓を通して、満州問題は当分の間不問に付する、を中心とする四項目の和平提案を日本側に示した時だったと思います。この時陸軍はこれを「承認に改めよ」と主張し譲りませんでした。
それどころか、冀東政府を樹立するなど華北五省の分離工作を押し進め、政府の日中和平交渉を妨害しました。この間日中間の感情的対立は爆発寸前となり、ついに廬溝橋事件の勃発となったのです。この時近衛は蔣作賓に連絡を求めて宮崎竜介と秋山定輔を送りましたが、両名ともスパイ容疑で憲兵に捕らえられました。
政府はさらに石射猪太郎の努力で、後のトラウトマン和平工作の元になった船津案をまとめますが、これも先に述べたような事情で実を結ぶことはありませんでした。これらの度重なる日本外交の躓きの原因は、陸軍が政府の外交権を無視して、独りよがりのアジア主義思想に基づき勝手に中国政策を押し進めたことにあります。
この思想から脱却できなかったことから、対中戦争のみならず、ついに対米英、対ソ戦争を余儀なくさせられたのですから、こうした安易なアジア主義思想からいかに脱却するこということが、日中戦争を考える上での最重要ポイントになると思います。それにしても上海事変の膨大な犠牲がドイツによるものとはがっくりですね。
投稿: tikurin | 2010.02.11 16:46
初めて書き込みいたします。
ドイツは結局信頼できるパートナーとは言えませんでした。
ヒトラーはわが闘争の中で日本人を人種的に侮蔑するようなことを言ってます。
独ソ戦を始めるにあたって、ドイツは同盟国である日本に一言も言わずに戦争を初めています。
日本は結局はドイツにとってはソ連を牽制する道具として使われたにすぎないと思います。
投稿: | 2010.02.14 11:23
今頃になって、この本をはじめて読みました。第二次上海事変は私が小学校に入学した昭和12年にはじまりました。当時神戸に住んでいたので、我が家にも数名の出征兵士が宿泊ししばらく滞在して神戸港から出陣してゆきました。夏休みが終わるころ東京に転居して、成長すると当然のように軍校に進み敗戦、復員を迎えました。当時は経済は戦費で逼迫し農家は働き手を戦地にとられて食料も無いという世相でした。一方ドイツは東西に分割されて統一国家さえ失いました。かろうじて中央政府がか残った日本は占領軍を出来るだけ引き止めて米国から外貨と食料を得る道を選択しました。
この本に描かれているように、戦後の中国やロシヤは日本よりひどく戦火に傷ついているので、やむをえない選択でした。
その後愛知、岐阜で過ごす事になりましたから、呉淞戦に出征された方とお話しする機会もありました。この書は戦闘経過を良くまとめてあり、またこの戦に果たしたドイツ軍事顧問団の役割も明快に紹介されています。
参考までにご紹介しますと、愛知偕行会事務局長川合尚氏は同会の会誌「信友」に寄稿され愛知県護国神社に洋画家 鬼頭鍋三郎画伯が愛知県軍事援護課の依頼を受けて中支に渡り制作した画伯の数少ない戦争記録画 第三師団第六聯隊 呉淞鉄道桟橋付近戦闘図(1937)が展示されていること、「中の院」の兵士像の原点である「月が丘軍人墓地」にまつわる、「現代画廊」主で「気まぐれ美術館」シリーズの著者 洲之内 徹(1913-1987)のエピソードが紹介されている。洲之内本『人魚を見た人』(1985)によると月が丘軍人墓地は三輪寅次郎という人がここに地所を買い、遺族に呼びかけてめいめいに戦没者一時金を造像費に充てて墓を作らせたといわれる。
終わりに、間違いを恐れずに愚見を述べさせてもらえば本書の近代史書として画竜点晴を欠くところは、昨今の昭和史ブームと軌を一にする時代区分を採用している点であろう。若し明治建軍から日清戦争までの間に日独関係がどのように変遷したかが追求されていれば日本近代史における狂言回しとしてのドイツの果たした役割が明らかになるだろう。日露戦争は黄禍論との戦いでもあったことが知られている。本書に述べられているように黄禍論はドイツ人が主唱したことが証明されれば日露戦争では伊藤首相が金子堅太郎を米国に派遣してルーズベルト大統領に日露開戦の場合の講和周旋を工作させ、一方岡倉天心ら在米の文化人は反黄禍論の論陣を張って米国の世論に日本支持を訴えたことは反独工作の意味を持ってくる。他方開戦後には駐露武官明石大佐らをしてドイツを経由し革命派に資金を提供させるなど、外交・軍事を一体として勝利をつかみとった。
これに対して伊藤博文・児玉源太郎なきあと日本の政・軍はあまりにもドイツの動向に無警戒で敗戦に滑り落ちたと考えることもできる。以上
投稿: 小竹 一三 | 2010.04.27 19:38
こんにちは。記事をありがとうございます。
ドイツは、第一次大戦時の恨みを持った人達が居ましたので、その人達が日本に一発くらわしてやろうとしていたのも在った様ですね。
でも、律儀な国民性ゆえ、三国同盟以降は、日本との同盟の立場を守ろうとしています。但し、所処でも居ますが、裏取引の連中も内在しています。特に、どちらもコミンテルンスパイが内在した事が敗因の一つとなったようです。
満州権益でドイツも満州との交流をしていますので、庶民地支配でもするつもりで無ければ、それ程は力を入れていなかったかもしれません。
蒋介石との共同作戦で、南京事件の裏に居た様ですが、物凄い尽力して他よりも貢献していたのに、宋美齢が見下して相手にせず、派手なアメリカソ連ばかり優遇してペタペタ媚びてドイツを軽視していた居た為、ドイツから顰蹙を買ったようです。
投稿: Naoatjp | 2012.12.22 15:24