« 2009年1月25日 - 2009年1月31日 | トップページ | 2009年2月8日 - 2009年2月14日 »

2009.02.07

ロシア関連の報道がどうも変だ

 ロシア関連の報道がどうも変だ。陰謀論を取りたいとは思わないし、ある程度は可視になっているのだから、それなりのスジが見えそうに思うのだがよくわからない。ただ、このまま過ごしていいとも思えないので、多少想像で補うかたちでメモ書きしておきたい。
 自分の個人的な感覚の問題かもしれないが、率直に言って「ビザなし交流」の大手紙社説がそろいもそろって薄気味の悪いものになっていた。なぜなのか。反露感情というだけのことか。
 先月30日朝日新聞社説「ビザなし交流―長年の努力を無にするな」(参照)より。まず、話の背景についての説明だが。


 人道支援物資を積んだ船で北方領土の国後島に向かった日本の訪問団が、上陸を断念して帰港した。ロシア側に出入国カードの提出を求められ、それに応じれば「四島をロシア領と認めることに等しい」と判断してのことだ。
 この人道支援事業は、北方領土の主権を主張するロシアとの間で「双方の法的立場を損なわない」との了解のもとで94年から始まった。旅券や査証(ビザ)なしで日本側が四島を訪問できる仕組みだ。

 朝日新聞の考えはこうだ。

 今回、ロシア側は「国内法が改正された」として、出入国カードという新たな手続きを要求した。これは両国が合意した実施手続きの一方的な変更であり、受け入れるわけにはいかない。
 ロシア側は墓参を含めて全面的にビザなし交流をストップさせるつもりなのか、その意図ははっきりしない。だが、四島周辺に安定した隣国関係を築こうというこれまでの取り組みに冷や水を浴びせるものだ。

 朝日新聞はなぜか「意図ははっきりとしない」として「冷や水を浴びせる」と流しているが、わずかにロシア側の考察を次のようにしている。

 ロシア側では、領土交渉を担当する外務省と、出入国管理を担当する連邦移民局とのあつれきといった事情も絡んでいる。

 翌日の読売新聞社説「ビザなし交流 ロシアは国際信義を守れ」(参照)はこう。

 ロシアの出入国手続きに従うことは、ロシアの管轄権を認めることにつながる。河村官房長官が「理解できない」と反発し、日本政府として撤回を求めたのは、当然のことだ。


 ところが、ロシアは今回、2006年の国内法改正を理由に出入国カードの提出を要求した。今後、ビザなし交流などで訪れる場合も例外は認めないという。

 読売新聞も多少ロシア側の意図への推測があり、朝日新聞と同じだ。

 背景には、出入国管理の厳格化を主張する連邦移民庁を、外務省が抑えきれなくなったという事情もあるようだ。

 ここはかなり重要なのだがそれ以上の補足はない。
 つまり、朝日新聞と読売新聞の社説では、なぜロシア連邦移民庁が出入国管理の厳格化を主張しはじめているのかという考察は避けられている。
 今月2日と出遅れた毎日新聞社説「ビザなし交流 継続へ日露は知恵を出し合え」(参照)は率直に言って社説の品質が悪い。

 ところが日本の外務省によると、今回ロシア側は訪問団出発の直前に「06年の国内法改正で出入国カードの提出が必要になった」と外交ルートで連絡してきたという。これでは一方的な約束違反と言うしかない。

 毎日新聞は後出しであるにも関わらず、あるいはしかたなくせっつかれて出したかのような印象もあるが、外務省発表の垂れ流しでかつロシア側への考察は微塵もない。
 この点、朝日新聞社説と同日の産経新聞社説「人道支援中止 ロシアは約束守るべきだ」(参照)は、朝日、読売、毎日と同じくロシアを非難したのち、多少奇妙にも思えるが、ロシア内政の権力構造を考察している。

 今回、出入国カードの提出を求めた移民局は、プーチン首相の出身母体の旧ソ連国家保安委員会(KGB)の後継機関である連邦保安局(FSB)が管轄する。ロシアでは、プーチン氏の登場以来、旧KGB出身者らで構成する「シロビキ(武闘派)」たちが急速に台頭し、事実上、同国の政治と経済を牛耳ってきたが、今回の事件は、そのシロビキ主導をより鮮明にした形だ。

 今回のロシア側の動きがシロビキ主導ではないかとするのは、恐らく正しいだろうと私も思う。さらに産経はこうも指摘する。

 さらに、時を同じくしてやはりFSBの管轄下にあるロシア国境警備局が鳥取県境港市のカニかご漁船第38吉丸を拿捕(だほ)する事件が発生した。

 この産経の読みでいうなら、ロシア内により広範囲にシロビキを巡る抗争があるというわけだ。これもおそらくそうだろうと思われるので、むしろ朝日新聞社説の結びの言葉が滑稽味を持っている。

 ロシアのメドベージェフ大統領は最近、麻生首相と電話で話し、極東のサハリンで2月中旬に会談することを提案した。「二国間のすべての問題を話し合いたい」と日ロ関係を前進させる意欲を伝えてきたばかりだ。プーチン首相も今春にも日本を訪問する方向で準備が進んでいる。
 資源価格の急落や世界経済の混迷もあって、ロシアは対日関係により積極的になろうとしているのだろう。ロシア側が力を入れている極東・シベリアの開発には日本の資金や技術が必要だし、中国が台頭する中でアジア太平洋地域に存在感を強めたいという思惑もある。
 だが、いくら関係改善に意欲を示しても、長年の交流の積み重ねを突き崩すような行動をとっては、日本側のロシアへの不信は深まる。そのことを、ロシアの指導者たちははっきりと認識する必要がある。

 今回の強硬措置がシロビキ主導なら、「ロシアの指導者たちははっきりと認識」した結果のことでもあろう。が、同時にプーチン首相もメドベージェフ大統領も日ロ関係の改善を望んでいる。彼らはシロビキと対立しているとでもいうことだろうか? まさか。
 この奇妙な事態の構図の基本線をまずすっぱりを描いているのが5日の予算委員会質疑だった(参照・参院TV参照)。

○鈴木(宗)委員
 とにかく、総理、私は、日本側からカードを切って動かす、これが大事だと思っていますね。また、向こうも総理ならば話ができるという認識を持って電話が来たというふうに思っておりますので、その点は頑張っていただきたいと思いますね。
 そこで、最近不幸なことが起きました、日ロ間で。それは、例の人道支援の品物が行かなかったことですね。
 私は、ロシアが一方的に出入国カードを出せと言ってきたと外務省は説明していますけれども、これは外務省は正しく国民に説明していないと思っているんです。なぜか。
 昨年の十月二十一日に、既にもうロシア外務省のソロスというサハリン代表は、来年からはビザなし支援でもカードが必要ですよということは記者会見で言っているんですよ、根室における記者会見で。それを、私は質問主意書を外務省に出しました。そういう要請はないから答える立場にないという、全くけんもほろろ。十二月にも私は出しました。私は、今回の事件は外務省の不作為だと思うんですよ。
 中曽根大臣、この点、質問主意書で私は既に言っている。全く動かなかったのは外務省なんですけれども、なぜ動かなかったのか。事前にユジノサハリンスクの総領事館なりモスクワ大使館なりに動く時間はあったんですから。なぜそれをしなかったのかをはっきりさせていただきたいと思います。
○中曽根国務大臣
 お話しのように、昨年の十月でございましたか、ユジノサハリンスク外交代表が、根室で開かれた記者会見において、来年度以降、四島交流で日本側訪問団が訪問する際には出入国カードが必要となる旨の発言をされたという報道がありました。ただ、我が国には何ら通知はございませんでした。


○鈴木(宗)委員
 中曽根大臣、経緯は知っておるからいいんですけれども、ただ、私が言いたいのは、去年の十月の二十一日に、サハリンの外務省代表はロシア外務省の方なんですから、その方が記者会見したということはやはり重いんですね、このノソフさんが言ったのは。そのときに、ユジノサハリンスクの総領事館やモスクワ大使館が去年のうちにきちっとやっておけば、こういう無駄なことはなかったわけですよ。
 そこで、ビザなし渡航というのは、もう大臣知っているとおり、平成三年にゴルバチョフ・海部会談で決まった話です。そこで、十月に、当時の中山大臣が行って調印した話。お互いの立場を害さないということになっているんですよ。
 私は、出入国カードを出す出さないの議論も大した話じゃないと思っているんです。なぜかというと、皆さん税関申告書は出すんですよ。ビザとパスポートは持っていかないけれども、それにかわる身分証明書はちゃんと出しているんですから。
 これはお互い知恵を出したんです。お互いの立場を害さぬということでスタートしているんですから、この出入国カードを出したからロシアの主権だと、北方四島を認める話にもならないんですよ。
 私は弾力的に、流氷も来る、もう船も行けなくなる、そんなことよりももっと、では今回限りの措置だとか、いろいろやり方はあったんじゃないか、こう思うんですね。

 つまり、今回の「ビザなし交流」問題は突然のことでもなく、予定されていたことで、しかも、日本の外務省がそれを知らないとうものでもなかった。
 つまり、これって何の出来レース?
 日本外務省がロシアとの軋轢を望んでいた? そこまでは言えないにせよ、そして、毎日新聞はさておき、朝日、読売、産経はこの経緯を知っていた臭い(突然の事態という認識はないようだ)。
 日本の対露報道で何が起きているのだろうか?
 そこがよくわからないのだが、この間のロシア情勢には、日本が深く関わっているとしか見えない。ちょうどこの間ロシアでは首相辞任を求める大規模デモが起きている。1日中日新聞「ロシアで1500人デモ行進 「首相辞任」要求、与党は対抗デモ」(参照)より。

輸入自動車関税引き上げへの反発が強まるロシア極東のウラジオストクで31日、政府への抗議行動があり、市民は生活向上を訴え、プーチン首相の辞任も求めた。


 ウラジオストクでは共産党員やインターネットでの呼び掛けで集まった市民ら約1500人が主要道路をデモ行進した。1月12日に発効した輸入車関税引き上げが、日本からの中古車輸入に携わる多くの市民を苦境に追い込んでいるとして撤回を要求。公共料金下げなども求め「プーチン首相は辞めるべきだ」「統一ロシアは退け」などと訴えたが、大きな混乱はなかった。

 共産党員と市民が反「統一ロシア」、つまり、反プーチンデモを極東ウラジオストクで行ったのだが、その原因がようするに日本車である。
 統一ロシア側にも多少の動きはあった。

 一方、統一ロシアはほぼ同時刻に市中心部で約2000人規模の集会を開催。党現地支部幹部らがメドベージェフ大統領やプーチン首相の政策を支持する演説を行った。ただ、参加者の多くは公務員や政府系企業関係者らで、集会もわずか30分足らずで終了。ただ地元テレビでは統一ロシア側の集会だけを報じた局が多く、政権の影響力が露骨に表れた形となった。

 これが先のシロビキの構図とどう重なるのかよくわからない。全然違うのかもしれない。
 しかし、日本車がウラジオストク市民の死活問題であることは確実だ。4日北海道新聞「中古車輸入規制 大統領らに撤廃要請へ ロシア極東 不満強まる」(参照)より。

ロシア政府が日本製などの中古車の輸入規制を強めている問題で、サハリン州議会は沿海地方議会と協力し、メドベージェフ大統領とプーチン首相に規制撤廃を近く求める方針を決めた。国内産業保護の必要性を訴える政府に対し、日本車排除の打撃を受ける極東では地域への影響が深刻化し、中央への不満はさらに強まっている。

 これが深刻なのは反政府勢力ではなく、地方政治の民主主義的な決定だという点だ。

 インタファクス通信によると、ウラジオストク港を抱え、中古車の輸入が多い沿海地方議会が呼び掛け、サハリン州議会経済発展委員会が一月末に賛同した。両議会は一月十二日から実施された中古車の輸入関税の大幅引き上げ撤廃を求める。
 さらに政府の措置は極東経済に被害を与え、人口流出に拍車をかけると指摘。日本車を標的にした右ハンドル車の輸入禁止法案が提出されたロシア下院には同案に賛同しないよう要請する。

 この動向が、ウラジオストクを含む極東地域の問題なのか、ロシアの他の地域でも反統一ロシアとして起きているのかよくわからない。テレグラフ「Vladimir Putin faces signs of mutiny in own government as protests break out in east 」(参照
は極東域に限定されるものではないだろうという含みはあるにはある。
 この地域の確執が先の胡散臭い「ビザなし交流」問題とどう関わるのかわからないが、ここで、日本側からなんらかの形でサハリン州議会支援のような動向があれば、プーチン首相・メドベージェフ大統領に決定的な打撃を与えることは確実だし、これを外交カードとして使われたらロシアはたまったものではない。なので日本外務省がプーチン首相・メドベージェフ大統領に助け船を出したか……というと、大手紙の反ロシア的なトーンからしてもそれはないだろう。
 NHKも今回ばかりは胡散臭いメッセージを出している。「 おはようコラム 「北方四島人道援助中止の波紋」」(参照)より。

Q3:ロシア側は、なぜそのような行動に出たのでしょうか。
A3:まさに、そこなのですが、近々、サハリンで行われる予定の日ロの首脳会談に関係していると思われます。
この会談は、メドベージェフ大統領がサハリンの日ロの合弁事業の完成式典に麻生総理大臣を招き、そこで領土問題を念頭に「2国間の全ての問題について話し合いたい」と持ちかけたものです。

Q4:漁船拿捕や人道支援事業に対する強硬な姿勢と会談の呼びかけは、矛盾していませんか。
A4:いや、したたかなロシアの外交戦術だと思います。
といいますのも、ロシアは、これまで好調だった経済が一気に落ち込み、打開策として日本を含めたアジアに目を向けようとしているのです。
だからこそ経済的弱みを見せないで強硬な姿勢で強いロシアを印象づけたいのでしょう。
麻生総理大臣は、こうしたロシア側の戦術に惑わされることなく、戦後64年、元島民が訴え続けてきた北方領土問題の解決に一歩でも近づけてほしいと思います。


 「強硬な姿勢で強いロシアを印象づけたい」は違うだろ。
 この構図なかでプーチン首相・メドベージェフ大統領がロシア極東地域の経済改善に必死であることがわかるし、親日的な傾向が現時点ではむしろ頂点に達している、というか、ここをうまく使えば北方領土問題の進展すらありうるだろうと思うのだが。
 そしてその経済改善の切り札はサハリン2だろう。6日共同「「日本へガス安定供給」 3月に輸出開始とロ企業幹部」(参照)より。なお、当たり前のことだがメドベージェフ副社長は大統領とは別人。

ロシア政府系天然ガス企業ガスプロムのメドベージェフ副社長は6日、共同通信など一部日本メディアと会見し、サハリンから日本への液化天然ガス(LNG)輸出開始は3月になるとの見通しを示し、長期にわたり安定的にLNGを供給する意向を明らかにした。


 サハリンからのLNG輸出開始は、これまで欧州に集中していたロシアのガス輸出をアジアにも振り向ける重要な転換点となる。

 ロシア側にしてみると、天然ガス資源を安定的に購入してくれるお客こそ上客で、これまで日本と中国を天秤に掛けてきた。
 しかし、ガスプロムというと欧州側からは恐怖をもって見られているが、これもロシア側にしてみると中抜きの脅威でもある。なので、次の説明はロシア側からすれば笑い話ではない。

 1月にはウクライナ経由のロシア産ガスの欧州向け供給が約2週間にわたって停止したばかり。副社長は、ロシア初となるLNG輸出はパイプライン輸送と違って第三国が輸送を妨げるリスクがないと強調。日本企業とは長期契約を結んでおり、供給に懸念はないと説明した。

 ここで疑問点が二つ浮かぶ。
 ガスプロムはまだ日中を天秤に掛けているのか。その場合、中国への保険がどのくらいか。
 もうひとつは、LNGを苦々しく思う勢力があって政治的な攻勢を掛けているのだろうか。

| | コメント (8) | トラックバック (1)

2009.02.04

[書評]精神分析を受けに来た神の話―幸福のための10のセッション(マイケル・アダムス)

 書店で見かけ、標題「精神分析を受けに来た神の話―幸福のための10のセッション(マイケル・アダムス)」(参照)が気になって手にした。ぱらっとめくったものの、未読の「神との対話」(参照)とか、ありがちなスピリチュアル系の話かなと思って書架に戻した。が、その後、巻末の問い掛けが心に残り、なんとなく気になってアマゾンでポチっと買った。昨晩、寝るかなと思って退屈げな本のつもりで読み出したら止まらず、睡眠時間を削ることになった。

cover
精神分析を受けに来た
神の話
 面白いといえば面白かった。二時間か三時間くらいで読める本だが、たぶん、この業界というのもなんだが精神分析というかカウンセリングの内側を知っている人にはいろいろ業界的な発想が伺える面白さもある。
 書店の紹介にはこうあるが。

「私」 と 「世界」 をつなぐ幸福のヒント。ある日、「神」 を名のる男が精神科医のもとを訪れた。対峙する両者。思いがけぬ事態の展開に導かれ、徐々に変貌する心の風景。善と悪、信念と寛容、真の救いとは、生きることの意味、そして究極の幸福とは・・・・・・気鋭の精神病理学者が描くスリルと機知に富むサイコドラマ。ベテラン精神科医と 「神」 を名のる患者が辿り着いた結末とは?

 いやそれほどという話でもない。「神」を名乗るというのはそのぉ、つまりありがちなリアル気違いなので主人公の医師も普通にそう対応しているが、この話「 [書評]あなたがあたえる 大富豪ピンダーの夢をかなえる5つの秘密(ボブ・バーグ、ジョン・デイビッド・マン」(参照)と同じように、ファンタジー仕立てになっているので、ありがちな超自然的な能力を「神」と称する男に付与している。まあ、そのあたりは笑って読め、なのだが、ちょっと深入りすると、精神科医を長くやっている人はウンザリするようなテンプレの狂気のなかに、まれに超自然的な現象に出くわしているのではないかと思う。というか、そういうこともあるさくらいで過ごしているのではないか。
 副題には「幸福のための10のセッション」とあり、オリジナルも「Gods Shrink: 10 Sessions and Life's Greatest Lessons from an Unexpected Patient」(参照)となっているのだが、「あなたがあたえる」のようなありがちな自己啓発系の本とは違って、10個のリストがあるわけではない。むしろ多少サイコドラマ的な展開になっている。が、スポイラーにする意図はないが、本書を読み終えても大きな感動というのはないし、別段、神がどうたらという感慨を持つこともないと思う。つまり、この本は、よく抑制して書かれている。
 それほど神学的には書かれていない。バルトやティリヒといった神学者が洩らすぞっとするような深淵はない。また「極東ブログ: [書評]カラマーゾフの兄弟(亀山郁夫訳)」(参照)のような文学性もない。その意味では、内容的にも薄っぺらな書籍とも言えるのだが、本書の価値はそこではない。
 たぶん、この本は、主人公に模せられているように50歳近い人が読むと、かなり味わいが違うと思う。神が存在するのか、神が存在するならこの世界はなんなのかみたいな熱いというか暑苦しい問い掛けで挫折した40代から50代の人が読むと、後半の思い出の旅などに、静かにじんとくるものがあるだろう。人は生きていると、その心のなかに死者を抱えていくようになる。死者をどうなつかしく思うのか。死者の意味をどう考えるのか、自分もまたその参列にどう加わるのか、そういうことを自然に考えるものだ。
 話を戻して私の心にひっかかったのは巻末の次の問いかけだった。読後用に「討議のための問いかけ」が十二個ある。

一、あなた「神が存在するか、しないか」の確たる証拠が将来明らかにされると思いますか?

 私はこの問いに最初失笑した。ナンセンスだと思ったからだ。

四、セッション2でゲープとリチャードは完全無欠な存在としての神を議論しています。あなたは、神が完全無欠でなければならないと思いますか。

 神が完全無欠かについては、ある意味神学的には稚拙な問い掛けとも思うが、いわゆる無神論者の神概念はここに稚拙に集結しがちだし、普通の人も、いや聖書学者ですら「極東ブログ: [書評]破綻した神キリスト(バート・D・アーマン)」(参照)のように悩むし、私も含めて、心のどこかでこの問題は考えている。そしてアーマンが暫定的に評価したように、ユダヤ教のラビであるクシュナーによる「なぜ私だけが苦しむのか―現代のヨブ記 (岩波現代文庫)」(参照)のように、神の万能性については留保することになる。というか、神というものをより人間的な倫理的なものに捉え直す。
 というか、欧米風の無神論の課題は伝統的な倫理性なくどのように人が倫理を打ち立てられるかという倫理の問題であって、神は存在しないのだとバカ騒ぎする問題ではない。本書でも、その意味で、神とはつまり倫理の根拠性として妥当な受け入れをしようということで、どうやらそのことで、結果的に神に苦しむ人に対するカウンセリング的な意味合いを持っている。ざっくり言えば、本書は宗教を薄めて実用的にしたいという目的もあるだろう。
 問いを進める。

八、あなたは、我々はある程度の「自由意志」を持っていると考えますか?

 これもまた稚拙な問いようだし、自由意志の有無というのはモデル的に思考されがちだが、本書ではもっとプラクティカルに問うている。つまり、社会や世界を変えるという文脈で自由意志とはなにか?
 ガザ空爆では、報道カメラが入ってから日本のメディアも騒ぎ出したが、この間、ずっとダルフールではスーダン政府による空爆が続いていた。そのことは日本ではあまり報道されない。どちらも政府による戦争犯罪でありながら、重視されかたは異なる。なぜか。いろいろな理由はあるだろうが、報道には背景があり、陰謀論というほどではないが、権力の力学が存在する。
 この社会や世界にとって、実際的な意味での自由意志とは権力の度合いを示している。であれば、ジンバブエでコレラによって自我を確立する年齢に至らぬ内に死ぬ人間存在にどのような自由意志の意味があるだろうか。つまり、そういう問題だ。
 本書ではそれを正面から取り上げている。そこで、能力のある人間、力のある人間は、善を実行して世界を変える責務を負うというテーマになってくる。ただ、そこはそう強くは主張されてはいない。
 私はこの問題は、本書でしばしば考え込んだところだ。たとえば、この私にはなにか社会に役立つ能力があるのか。それを使っているのか。ブロガー? いや自分でも失笑していますよ。
 そして一番心に引っかかったのは、次の荒唐無稽な問いだ。

十二、あなたが神と対話する機会に恵まれた場合訊きたい質問は何ですか? 三つあげてください。

 たぶん、普通の日本人の常識人なら「神と対話」するというのは意味をもたないだろうと思う。日本人はたぶん神は、天皇のように、形だけ敬っておけ終了、みたいな存在で、天皇はそうでもないが神については御利益あるべしと、賽銭箱に五円玉くらい投げ入れ、五円相当のラッキネスを期待する。
 私は自分を特殊だとは思わないが、正直にいえば、私は神に対話したいと思っている。私の人生の意味はなんですか、世界はなぜこんな悲惨なのですか、すべての存在はどうせ消滅するものではないですか、おっと、あっという間に三つあがってしまう。
 このあたりで率直にいって、自分のそういう稚拙な正直さを恥ずかしいとも思うし、しかしそれがまた自分の愚かな正直さでしかないことに困惑する。そしてそれはいくばくか狂気を孕んでいる。本書の主人公もそうした狂気に似たものに揺れ動いている。
 まあ、結論はない。ただ、本書を読んでそう空しいものでもない。
 神学的に見るなら、本書の考えは、神もまた進化論的な創造のプロセスに組み込まれているという意味で、テイヤール・ド・シャルダン(参照)に近い。著者に宗教的な背景でもあるかと英語の情報を探ってみたが、特にない。おそらく普通にカトリック的な信仰をもつ医師というだけだろう。
 類似の神学観には、私が好むベルクソンのそれもある。ベルクソンはテイヤールほど暢気ではない。神を宇宙全体の創造のプロセスとしてものっぴきならぬ危機を含んだものだと見ていたのだろう。

| | コメント (13) | トラックバック (0)

2009.02.03

節分の謎

 節分である。私は節分行事にはほとんど関心がない。豆をまくのにはなんか由来があるのでしょ、くらいな認識。恵方巻に至っては、そんなもんほんとにあるんかいな知らんなくらい。しかしなぜ関心がないかというと、うまく直感に結びついてこないからだ。背景がわからないというのもある。背景というのは中華圏とのつながりのことだ。そこがわからない。そこがわからないとバレンタイン・デーのチョコレートのような偽物感がある。
 中国とのつながりは道教とのつながりといってもいい。私は日本の文化風土はざっくり言えば道教だと思っている。なにより葬式そのものが道教(儒教)だ。しかもこれは近世になって入りこんだ。靖国神社も道教でしょと思う。だから韓国や中国は気にするのだろうけど。
 日本の古代も道教の世界だし中世でもそう。そして近世でも、と、時代時代に道教が入り込んで日本の民俗が形成されている。つまり日本というのはやや特殊ではあるけど中国からすれば辺境の少数民族の世界なのだろう。で、どこが特殊かというと少数じゃないということだ。中国は13億人と言われているが、実態は地域で民俗や言語はかなりばらけているし、基本的に軍閥と商社元締め的皇帝制度でしかない。歴史的にもいわゆる中国4000年とかはなく、ようするに遊牧民による被支配の累積と言っていいだろう。清朝を打ち立てた満人ヌルハチは扶桑ヒデヨシの後継者とも言える。東海にはろくでもないでかい異民族がいるということではないか。
 で、節分。なぜ豆をまくのか。ぐぐると、暮らしの歳時記 All About「節分3:押さえておきたい「豆まき」のツボ」(参照)ではこう書いてある。


どうして豆まきをするの?
本来、節分とは季節の変わり目である「立春、立夏、立秋、立冬の前日」のことをいいますが、春を迎えるということは新年を迎えるにも等しいぐらい大切な節目だったため、室町時代あたりから節分といえば立春の前日だけをさすようになりました。

また、季節の変わり目には邪気が入りやすいと考えられており、新しい年を迎える前に邪気を払って福を呼び込むために、宮中行事として追儺(ついな)という行事が行われるようになり(俗に鬼やらいや厄払いとも呼ばれます)、その行事のひとつ 豆打ちの名残りが 豆まきというわけです。


 ツッコミどころ満載というか野暮な話はするなよなのか。後者だろう。いずれにせよ追儺だろうというのはよく言われる。が、追儺というのは、旧暦の大晦日であって陰暦の行事だが、それが立春・二十四節気という太陽暦に移動するのは農暦的なシフト、つまり農村行事だからと言えないこともないが、が、というのは農村でも正月といえば日本でも旧暦・陰暦で行ってきた。うまく説明がつかない。とはいえ鬼が出てくるのは追儺が由来だろうとは思う。問題はマントだ。違う、豆だ。
 節分の行事は立春・二十四節気という太陽暦に基づくと考えると、どうもそれに相当する中華圏の行事はない。というか私は知らない。なさそう。問題はマントだ。違う、豆だ。

どうして大豆なの?
大豆には霊的な力が宿ると信じられており、昔から神様への供え物として使われていますが、昔々、京都鞍馬山に鬼が出たとき、毘沙門天のお告げによって大豆を鬼の目に投げつけて退治したという話があり、魔の目(魔目=まめ)に豆を投げつけて魔を滅する(魔滅=まめ)にも通じるそうです。

ただし、豆まきに用いられる豆は炒り豆でなくてはいけません。これは、生の豆を使って拾い忘れたものから芽が出てしまうと縁起が悪いとされているから。「炒る」が「射る」にも通じます。大概、節分用に市販されている大豆は炒ってありますが、一応ご注意ください。


cover
カミナリさまは
なぜヘソをねらうのか
吉野裕子
 そんな話も聞いたことがあるがこれも典拠というか、伝承の経緯がわからない。古事記ではないがどうせぶつけるなら桃だろうし、たしか追儺では桃の弓を使う。桃と言えばようするにアレだからいっそアレとかとかも思うが、アレの話は割愛。
 こんなときは吉野裕子先生に頼るしかないのだが、「カミナリさまはなぜヘソをねらうのか」(参照)ではこう。

豆は丸くて堅いというところから、先人たちはこれを「金気」の象徴だと考えたのです。
 ですから、ニワトリの羽根を突くように、この豆を痛めつけることで「金気払い」をしようとしたのが、豆まきのいわれです。言葉をかえていえば、「豆まき」は、「豆いじめ」でもあるわけです。

 ほぉ、「豆いじめ」か。お下劣な連想なしとしてにわかには信じがたい。

 「鬼」の話はまた後にするとして、とにかく、節分の豆まきは、邪気祓いだけが目的のように伝えられていますが、実は「金気」の代表としての豆を退治するための行事でもあるわけです。
 つまり、陰気の鬼を退散させると同時に、「木気」の春に敵対する「金気」の豆も、鬼もろともに屋外に投げ出すという、二重構造の迎春呪術なのです。

 ほかにも「陰陽五行と日本の民俗」(参照)では、柊と鰯については、「柊」は冬を追い出す、鰯は弱い冬を追い出すとしている(魚の水気も論じているが)。
 吉野裕子先生のご説はこれだけ聞くと、All Aboutにあるような流布説より信頼性がないかのようだが、が、というのは先生はこれで民俗を統一的に明かしているのでその総体を見ていくと、そ、そ、そうかもしれへん、みたいな気になってくる。というか民俗学というのはそもそも近代の擬制による派生なのだろう。きっちり道教で考えてよさそうに思うが。
 いずれにしても、これは陰陽五行という点では道教的だが日本で発生した民俗のようだし、発生時期は近世のようでもある。
cover
太陽と稲の神殿
 さて、問題はマントだ。違う、豆だ、とおちゃらして来たが、問題は実は豆ではない。問題は太陽暦にある。節分は太陽暦だからだ。単純に考えれば農歴だからと言えるのだが、どうも血なまぐさい問題がある。十分に調べてないので直感的な話になるが、祈年祭との関連だ。
 祈年祭は節分というより正月(春節)としてよいのだろうが、どうもそうも確定してないのではないか。太陽暦からの連想だが、太陽神について考察した小島瓔礼「太陽と稲の神殿―伊勢神宮の稲作儀礼」(参照)を読むと、祈年祭にこう触れている。

 田作り祭りのような種まきに先立つ初種儀礼に、獲ったばかりの獣を供えるというと、いかにも特殊な神事に聞こえるが、朝廷の初種儀礼であった二月の祈年の祭りでも、すでに『延喜式』巻八「祝詞」でみたように、もともとは、やはり動物を供えていた。祈年の祭りの祝詞では、御年の皇神に白い馬、白い猪、白い鶏を供えるという。

 ここなのだが、供えるということは要するに食うわけで、それには殺すことで、血がドバーなスプラッタなお祭りである。『古語拾遺』に触れてこう続く。

 ここまでが前段で、『令集解』に引く『古記』が伝える、葛木の鴨の御年の神の祭りの起源談にあたるが、猪と馬と鶏を供えるほかに、他の記録にはない牛の肉が見えているのが特異である。大地主の神は、御歳の神をまつるために田に牛の肉を供えたが、自分の田で働いている農夫にも、牛の肉を食べさせた。


 神饌だけにしろ一般に食べる習慣があったにしろ、牛の肉を祭りの日に食物にしていたことは重要である。

 というわけで、日本人も二月の節日には牛の肉を食っていたのである。近代以前にもうもう牛の肉。もしかすると鬼というのは牛の変形だろうか。まあそれはないか。
 節分の話はそれだけなのだが、この話を書こうかと思っていたのは昨日のエントリ「極東ブログ: あまがしの謎」(参照)を書き、さらに追記したあと、どうもさらに心にひっかかることがあり書架の本を捲っていてあっと気が付くことがあった。「あまがし」が「飴粕」であるのところだが、これは昨日のエントリの考察では粕なわけないだろうとしていたが、どうも粕でよさそうなのだ。重要なのは、あまがしを捧げるのは竈の神という点だ。

「琉球国由来記」では「飴粕と菖蒲酒を祖先竈神に供え食する」として、「あまがし」に「飴粕」を充てている。

 竈神といえば当然竈の神だし、祖先竈神とあると祖神ともとれるが、これは普通に竈神であろう。であればこれだな。「中国人は富家になるために食べ続ける(槇浩史)」(参照)より。

 中国では元旦を「大過年」といい、「カマド祭り」の日を「小過年」と称しているが、これは小さなお正月という意味である。
 カマドの神様の名前は「灶君」といい、その家の一番えらい神様として、一家の「吉凶禍福」をにぎっているとされている。常にその家の人たちの善行と悪行の行動を監視し、毎年旧暦十二月二十三日の夜中に、その家の一年にわたるできごとをメモしたブラックリストをもって天に昇り、もろもろの神様の大ボスである「玉皇上帝」に報告するのである。

 灶君はつまり竈君である。
 この祭りで酒粕と飴を供える。

 この祭りの祭壇に供え酒粕と飴は「灶君」を酒で酔っぱらわせ、飴で口を粘らして上帝に悪い報告ができないようにするためのものである。

 ということで、竈神に捧げるもっとも象徴的な品目が酒粕と飴なら、まさに飴粕というわけだ。つまり飴粕が「あまがし」の名称の起源なのだろう。
 ところで小過年の後はどうか。

 こうして祈りが済むと、古い神像や供えものなどを庭にもち出して焼き払ってしまう。
 カマドの神様はその煙とともに昇天されるわけで、この瞬間、待っていましたとばかりに用意の爆竹に火をつけて、ドラを叩き、ドンチャカ、パチパチの大騒音の伴奏で「灶君」の壮行を祝し、悪鬼を払うのである。

 ということで、ここにも悪鬼払いの発想が出てくる。
 やまとでは竈神は荒神様になっていくようだ。ウィキペディアを借りる(参照)。

屋内の神は、中世の神仏習合に際して修験者や陰陽師などの関与により、火の神や竈の神の荒神信仰に、仏教、修験道の三宝荒神信仰が結びついたものである。

cover
中国人は富家になるために
食べ続ける
 ただ中国の民俗と日本の民俗とはここでも乖離していくようだ。
 なんとなくだが、節分の豆は灶君壮行の爆音の代用なのではないか。

| | コメント (12) | トラックバック (0)

2009.02.02

あまがしの謎

 昨日「極東ブログ: [書評]大琉球料理帖 (高木凛)」(参照)のエントリを書いたあと、なにか心にひっかかるものがあって、しばし手元の沖縄料理の本などを読んでいた。が、よくわからず、さて翌朝の粥でもスロークッカーで仕込むかなと思って、ああそうかと思った。その話は後でするとして。
 「大琉球料理帖 (高木凛)」(参照)では食材ごとに『御膳本草』の項目の読み下しがあるだが、その「ムギノコ」の項目に「薄くハウハウを作り」とあり、また「寒具」に「寒具とは『ケンビン』『ハウハウ』『ハンビン』」とある。同書を読む限りは、ハウハウとケンビンに漢字を充てていない。これがポーポー、チンビンを指すことは解説にある。


ここでいう「ハウハウ」とは、旧暦五月四日に行われるハーリー(爬竜舟競漕)の時などに作られるおやつ「ポーポー」のことで、


「ケンビン」とはチンビンと呼ばれている黒糖入りの沖縄風クレープ。

 改めて読み返すと漢字は充てていないが、ポーポーは「餑々」であろうし、チンビンのビンが「餅」であることは間違いないだろう。
 古波蔵保好「料理沖縄物語」(参照)ではこう推測している。

 ところで、いったい「ぽうぽう」というあいきょうのある名はどうして現れたのだろう。
 ある時、中国料理について書かれた記事を雑誌で見つけ、読んでいくと、「ポポ」という言葉に出合ったのである。
 中国の東北、すなわち旧満州の昔むかし、肉をコロモに包んでたべるということがはじまり、これを「餑々」(ポポ)と名づけたそうで、清朝になったころから、満州地方ではじまった「餑々」が中国全土に広がり、正月の食べものになったらしい。
 古くから中国と縁の深かった沖縄にも伝わり、沖縄の人たちが手もとにある料理道具や材料を使って作りやすいようにした結果、沖縄風の「ぽうぽう」ができたのではないか、とわたしは考えた。
 いずれにしても、中国東北で始まった「ポポ」が「餃子」の元祖だとすれば、「ぽうぽう」は、今の私たちが好んで食べるその「餃子」の親戚だといえるのではないか。

 餃子は日本と中国では実際には異なる食べ物なので、これは実際の食べ方から考えると、空心餅、つまり西太后が好んだ肉末焼餅ではないかと思うが、ぐぐってみるとブログ日々是チナヲチ「国野菜の輸入量4割減!ところで胡錦涛って誰?」(参照)に次の興味深い話がある。

 しかも拙宅の場合、手作り餃子といえば本場の中の本場仕込みである恩師がおりますので、ニラの浸し方に始まって何から何まで電話で伝授してもらうことができます。ちなみに恩師によると旗人言葉では「煮餑餑」と呼ぶのが正しいのだそうです。小さいころ「餃子」とか「水餃」なんてうっかり口にすると、親から「お行儀が悪い!」と叱られてゴツンとやられたとか。

 旗人の呼び方かどうかはわからないし、水餃子を「煮餑餑」と実際に呼ぶのかはわからないが、古波蔵の考察に近い。他、餃子の起源でも「餑々」説は多いようだ。
 チンビンについてだが、古波蔵は「この名にも中国語の匂いをわたしは感じるが」としながらも漢字は充てていない。
 孫引きだが「琉球国由来記」では「五月五日箕餅、唐の粽子になぞらえて作りける。箕の形に似たるよし」とあり、ここでは、チンビンは「箕餅」とされている。
 しかし、これも実際の食べ方や形状から考えると「春餅」と考えたほうがよいように思われる。ただ、「春餅」は元来は「荷叶餅」であり、「春餅」の名称は立春の食べ物の由来がある。餃子も始終食されているものの立春の思いの深い食べ物でもあり、これらになにか関係があるのかもしれない。
 「琉球国由来記」に戻ると箕餅説は、粽子の連想からというのは説得力があるといえばある。が、御膳本草の「寒具」ことケンビンの関係はわからない。
 以上は前振りで、五月五日といえばあまがしである。そして五月四日といえばゆっかぬひーである。古波蔵もこう浮き立つ思いを書いている。

 コドモたちが、たいへんシアワセな気分になるのは、旧暦五月四日だった。何の節句といった呼び名はなく、単に「四日の日」---沖縄風に発音して「ゆっかぬふぃ」という。
 コドモたちが、好きなオモチャを買ってもらえる日だったのである。

 私は沖縄暮らしでこの「四日の日」の賑わいになんども遭遇した。かつての子どもだった大人や老人までも古波蔵のように浮き立つ心でいることを知ったものだった。玩具はハーリーの裏の屋台のような玩具市で買うのであった。

 こうして沖縄が真夏のカンカン照りとなってつぎの日---五月五日、家々では「あまがし」をつくる。

 作り方だが、大琉球料理帖とは異なる。

 首里の旧家で育った人の話によると、「あまがし」とは大麦を臼でついて割り、水タップリの粥に炊いてから青こうじを入れて、一晩醗酵させたもののことだったそうである。
 いわば大麦の粥で、酸味のある飲みものだ。椀にとって、すする前に、少しの砂糖を加えて、味をととのえたらしい。

 私はこの話でバリ島で飲んだライスワインを連想するが、どぶろくの前段のものではないようだ。古波蔵はこうも語る。

 いつのころからか、そういう「あまがし」は忘れられて、わたしの家でつくったのは、モヤシの材料にも使われる青い豆---「ささげ」といわれる豆と大豆を煮て、黒砂糖の甘さを加えたものだった。
 現在、「あまがし」といわれているのは、すべてこの大麦と青豆による甘い汁である。

 古波蔵の話からすると、酸味飲料があまがしの原形のようでもある。が、大琉球料理帖に掲載されている青豆善哉であるあまがしが古波蔵の家のあまがしでもあった。
 この関係はどうなっているのだろうか。
cover
北京のやさしいおかゆ
やさしく作れて体に
優しいおかゆレシピ
ウー・ウェン
 単純なところ、材料としての緑豆と大麦の関係、またその製造方法から祖型が理解しづらい。緑豆善哉が祖型でそれに大麦を補ったのか、大麦がベースで緑豆を加えたのか。後者はやまとの赤飯や沖縄のふちゃぎのように豆を風味として使う応用だ。(余談だが、古波蔵は緑豆をささげとしているが、緑豆はVigna radiataであり、ささげはVigna unguiculataであり、広義にはササゲ属になる。が、それをいうなら小豆もササゲ属である。緑豆がささげと呼ばれていた経緯も気になるところだ。)
 と、疑問に思っているときに、ふと、「水タップリの粥に炊いて」ということから、これは粥ではないかと気が付き、そういえばとウー・ウェン先生の「北京のやさしいおかゆ」(参照)の大麦粥を思い出した。北京風ではこれに黒糖を載せて食べる。

 黒砂糖をのせる食べ方は、昔からのもので、消化を助け、滋養もあると言われています。

 これはどう考えてもあまがしと同起源の食べ物だろうとしか思えない。だとすると、北京の大麦の食べ方が沖縄に入り、あまがしになったと推察してよさそうだ。でなければ、沖縄のあまがしが北京に広がったということもあるかもしれない。
 ただ、緑豆を甘くするのもそうだが、この味付けはおそらく陰陽五行のように漢方によっているので自然の発想と見ることもできるかと思うが、黒糖の利用といい、形状といい、やはり同起源の食べ物だろう。
 とすると、緑豆善哉系のあまがしと、大麦型のあまがしは別の系列なのだろう。
 が、調べていてもう一つ気になることがあった。これは古波蔵の説明にある「青こうじ」との関連だ。この手の話はウィキペディアでは歯が立たないだろうと思ったが、ためしに引いてみると奇妙な記載があった(参照)。

また、古くは麦の粥に米麹を入れて二、三日発酵させるやり方であった。

 この典拠がわからないが、米麹であるとするとこの製造法からすると、やまとの甘酒が連想される。つまり、甘酒が原点にあってそれが沖縄風に大麦と青麹で変化したものだろうか。また、なぜ青麹なのだろうか。
 そうしているうちにさらに奇妙なことに気が付いた。「あまがし」、というと、つい「甘菓子」を連想していたが、うちなーぐちから考えれば、そのほうが不自然だ。「琉球国由来記」では「飴粕と菖蒲酒を祖先竈神に供え食する」として、「あまがし」に「飴粕」を充てている。
 飴粕とは何かなのだが、字引では「飴の材料から飴をしぼったあとのかす。牛・豚などの飼料とする」とあるが、これが間違いではないが、琉球国由来記の意味とは異なるだろう。カスを神に捧げるとも思えないからだ。飴といい大麦といえば麦芽糖の連想が働くが、麦芽糖なら麹菌は使わない。
 沖縄のことを調べていくと、逆にやまとの民俗の古型が見えてくることがあるが、あまがしを麹を使った甘酒ふうの初夏の飲み物であるとすると、ここにも符丁がある。甘酒というと現代では初詣に振る舞われるなど冬の飲料のように思われているが、元来は夏の飲料であることは季語として夏に分類されていることでもわかる。日本名門酒会のサイト(参照)にはこうある。

甘酒の季語は夏。「甘いっ、甘いっ」と天秤棒をかついで甘酒を売り歩く声は、江戸時代の夏場の風物誌でした。クーラーも冷蔵庫もなかった江戸時代、夏の猛暑をのりきる知恵として飲まれたのが、麹でつくる「甘酒」なのです。

 おそらく「冷やし飴」も同系統の飲料であろう、ということで、どうも飴というと現代の我々は固体の飴を連想するが、飴湯を飴と略せるとすると、先の飴粕とは呼応する。
 話が散漫になり混乱してきたが、おそらくあまがしの原形は、甘酒の同系統のものではなかったか。
 それが北京風の大麦粥に入れ替わったのだろう。
 残る、緑豆善哉の系統だが、これは別の系統だろう。たぶん、緑豆爽や緑豆沙の類するものではないか。おそらくやまとの汁粉や善哉もこの起源だろう。なお、沖縄で善哉といえば、やまととはまったく異なるものが供されるがその話はまた別の機会に。
 緑豆煮については甘味ではないだろうが、吉田よし子先生の「マメな豆の話―世界の豆食文化をたずねて (平凡社新書)」(参照)にこういうエピソードがある。

cover
マメな豆の話
世界の豆食文化をたずねて
吉田よし子
 日本で勉強しているスリランカの学生は、日本人が午後の授業でよく寝ているのを見て、お昼にお米のご飯を食べるのを止めて、リョクトウを煮て食べれば眠くならないのよと教えてくれた。リョクトウにそんな効果があるなら、ぜひ試してみたいものだ。

 案外あるかもしれない。

追記
 エントリを書いたあと、「あまがし」はおそらくないちの「あまざけ」と同起源であろう。そして、これもまた室町時代の文化に関係するのだろうとぼんやり思っていて、ふと、日本書紀にある天甜酒のことを思いついた。
 天甜酒は「あまのたむさけ」と訓じられ、酒の起源とされている。


時に神吾田鹿葦津姫、もって田を卜定へ、號けて狹名田と申す。その田の稻をもって、天甜酒を釀みこれを嘗す。(時神吾田鹿葦津姫、以卜定田。號曰狹名田。以其田稻、釀天甜酒嘗之。)

 この天甜酒は、意味で訓じると「あまのあまさけ」で、アルコールの含有はあるかもしれないが甘酒であろう。
 「釀み」は「噛み」と解することもあり、唾液によるとの説もあるが、普通に醸造の釀みであろう。
 ここから「あまかみさけ」のように訓じることが可能なら、あるいはそれに類した名称がやまと側にあったなら、そこからうちなーぐちふうに「あまがし」が出てくるかもしれない。

追記
 「飴粕」については次エントリ「極東ブログ: 節分の謎」(参照)で再考した。

| | コメント (5) | トラックバック (0)

2009.02.01

[書評]大琉球料理帖 (高木凛)

 沖縄には八年近く暮らしたし、その食文化にも随分関心をもったし、今でもときおり琉球料理も作るということもあって、広告を見てそのままポチッと「大琉球料理帖 (高木凛)」(参照)を買った。写真がきれいだし内容も面白いのだけど、当初思っていた期待とは違った本だった。

cover
大琉球料理帖
 私は何を期待していたのか?
 王朝料理が知りたかった。いちおう東道盆(トゥンダーボン)とかについては、他の書物などで知っているのだが、もっと体系的に知りたいという思いがあった。アマゾンの紹介にはこうもあったし。

「食はクスイムン(薬物)」の心をいただきます。これぞ、沖縄の伝統料理! 琉球王朝時代の食医学書『御膳本草』を基に、60の食材、70の料理を再現。これまでの琉球料理への認識を新たにする、料理本の誕生。

 まったくその趣向がないわけではないのだが、これは私は違うと思った。「60の食材」は本草書の項目解説ということで挙げられているのだけど、「70の料理を再現」と言われると、これは違うでしょ。もちろん、掲載されている料理はすばらしい出来だとは思うのだけど、歴史的な再現ではないように思えたということだ。
 例えば、緑豆だが、これで水羊羹と「あまがし」が出てくるのだが、王府時代に羊羹はあるかもしれないが水羊羹はないでしょというかこれはずんだの水羊羹の変形のようだし、なによりあまがしのほうは困惑した。現在の沖縄のあまがしというと、押し麦に金時豆というものが多いが元来は緑豆であった。そこまではよいのだが、古波蔵保好「料理沖縄物語」(参照)を読むに原形は酸味の飲料でもあったようだ。
 塩の項目にはマース煮が掲載されていて、それはいいのだが魚はグルクンである。グルクンでマース煮ができないことはないし、写真もきれいなのだが、率直にいって、ある年代以上のうちなーんちゅが見たらずんと引くのではないだろうか。私もないちゃーだからそのあたりの感覚は違うのかもしれないし、沖縄といっても地域で文化がいろいろ違うのだが、グルクンのマース煮というのは初めて見た。が、ぐぐってみるとあるにはある。私は海辺を転々と暮らしたこともありうみんちゅをよく見てきたのだが、彼らはグルクンを魚とは見ていかなかった。いやもちろん魚ではあるのだけど、セリでそれ相応の根のつく売り物になるような魚ではなかった。おじさん(という魚)などもその部類だし、イラブチャなどもあまり好まれていなかった。同書にはアバサも掲載されているがその部類だった。
 どうも否定的な話が先にきて申し訳ないし、著者の意図ではないのかもしれないが、「大琉球」というのもいただけない感じはした。いちおう現在の台湾を小琉球として区別するための呼称というのがないわけではないが、本書でその意図はないだろうし、であれば、大日本や大セルビア主義など、大のつく国家にろくなものがない。歴史評価としては微妙な部分があるが、王府はヤエマに対しては圧政の主体でもあっただろうし。
 これもありがちなないちゃーの本かなというふうにちょっと醒めた感じでめくっていくと、チンビンやポーポーも出てきて、これが王府の料理なわけないだろと苦笑したものの、いや逆に御膳本草にはこれが掲載されていることがわかった。こうした点はちょっとはっとさせられるものがあった。ただ、チンビンも御膳本草を読むとわかるがこれの一種は韓国の貧者餅の類のようでもある。
 どうもそのあたりの、どこまで琉球的なのか、ないちゃーによる擬古再現なのか、どこまでがうちなーんちゅの感覚なのか、ないちゃーの幻想なのか、島ラッキョウの天ぷらの写真を見ると、おおこれはうまいんだよなと思いつつ、その天ぷらはないち風の揚げ方になっている。
 こうした幻惑的な思いで対照的なのは、山本彩香の「ていーあんだ」(参照)でこちらは、明確に現代沖縄料理としての自覚があるのだが、感性の根はまさにうちなーんちゅとしかいえないし、なにより彼女の母がちーじの料理を担っていたことからも料理の感性は、ちーじから王府に繋がるむしろ正統性がある。
 というあたりで、大琉球料理帖のこの記述は、高良先生の話でもあり正しいのだろうが、困惑する。

『御膳本草』が著された当時、琉球では士族以外の者は文字を解しませんでした。それがなぜ島々の民衆の暮らしの中に根づいたのでしょうか。その「何故」はずっとわたしの心に残っていたので、本書を著すにあたって、琉球大学の高良倉吉さんにお訊きしてみました。高良さんによると、それは王府と琉球各地との間を行き来する医師たちよって、伝えられていったことは想像に難くないというのです。

 そういうこともあるだろうが、私は沖縄の食文化はちーじとまちぐゎによるのだろうと思う。その女の世界が生み出したものだろう。そしてのそのちーじとまちぐゎの世界とは、やまとの室町時代のものの延長だろうとも思う。ぶくぶく茶もその時代のやまとのまちぐゎにあったもののようだ。
 ネガティブな話が多くなってしまったが、自分の期待とはすれ違ったせいもある。が、期待そのものの部分もあった。特に、尚泰即位の冊封使料理の初段大椀四の再現は心ときめくものがあった。これがすべて再現され、解説されたらどんなによいだろうと夢想した。
 赤玉子に鳥心豆が美しい。この赤は紅麹だろう、現代の苺ヨーグルトと同じ色素だ。鳥心豆は陰陽五行から緑ゆえに緑豆とばかり思っていたが別の、大豆のような豆だ。ひたし豆であろうか。松の実は琉球の産であろうか。金華ハムはこの時代に琉球で作られていただろうか。限りなく夢想が沸く。
 そういえば、本書では、るくじゅう(ロクジウ)が出てくるが、その料理は出てこない。素材が入手できないせいもあるだろうが、豆腐からこれを作る人が出てくると食中毒などの危険があるかもしれない。「イタミ六十」の名前のとおり、これは豆腐を塩して干したものだがただ干すのではなく、イタミがかる。腐りかけの肉が旨いの部類だ。私は沖縄で自作したことがある。クリーミーな仕上がりになる。どうイタミにするかで微妙な味わいが出る。ああ、食いたい。(ちなみにるくじゅうがあってこそ紅型ができる。)
 ああ、食いたいといえば、私は借りた家の庭で、んじゃなばを育ていた。いや、主だった老婆が育てていたものだった。近隣の人がよく貰いにきていた。本書のような上品なチムシンジではなく、実用性のあるチムシンジを作るには丸大の専用セットを買って、そして、んじゃなばを入れる。チデークニも入れる。チデークニがなかったらキャロットを入れる。んじゃばなを入れない地域もあるようだけど。
 ンジャナバは薬草としてではなく、さしみと和えてもうまい。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

« 2009年1月25日 - 2009年1月31日 | トップページ | 2009年2月8日 - 2009年2月14日 »