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2009.12.19

暴露されたイラン核兵器開発疑惑に関連して

 鳩山政権のスラップスティックにマスメディアの関心が向いているせいか、外信が相対的に少なくなったように見える。国内報道がないわけではないが、イラン情勢に変化があるので簡単にメモしておきたい。
 イラン情勢について昨今の大手紙の社説としては今朝の読売新聞「イラン核増設 なぜ国際的な孤立を選ぶのか」(参照)が、それなりに触れていた。イランの新設ウラン濃縮施設に対して米国オバマ政権が年明け早々に強い制裁に乗り出すという話が軸になっている。


 イラン政府は、新たに国内10か所にウラン濃縮施設を建設するという。うち5施設について、サレヒ副大統領兼原子力庁長官は、「2~3か月以内に着工する」と語った。
 国際社会が濃縮停止を求めているにもかかわらず、である。
 それだけではない。低濃縮ウランを国外で燃料化する計画を、拒否する姿勢も示している。
 計画が履行されれば、イラン国内のウラン備蓄量が減り、軍事転用に歯止めがかかる。オバマ米大統領は「信頼醸成の一歩」になると期待していた。
 イランが挑戦的な態度に出たのは、建設中の国内2番目の濃縮施設に対して、国際原子力機関(IAEA)が即時建設中止を求める決議を採択した直後だった。
 専門家によれば、イランには10施設も増設する技術も部品もないという。増設を公言したのは単なる意趣返しの性格が強い。
 オバマ政権はすでに、「イランは孤立の道を選んだ」として、来年1月上旬にも、ガソリンの禁輸など対イラン追加制裁を実現するため、国連安全保障理事会のメンバーに働きかけている。追加制裁は当然の選択だろう。

 日本の大手紙社説にありがちな論旨不明ではないものの、ウラン濃縮施設がIAEA決議に違反するから制裁につながるようにしか読めない。間違いでもないし、読売新聞社でも別途報道しているが、この間に重要な展開があった。イランの核兵器開発が暴露されたことだ。14日付け読売新聞「イラン、核起爆装置開発着手…英紙が機密文書入手」(参照)より。タイムス紙の孫引きなのであえて全文引用する。

【ロンドン=鶴原徹也】英紙ザ・タイムズ(14日付)は、イランが2007年から4か年計画で核爆弾の起爆装置の開発にあたっていることを示唆する機密文書を入手した、と報じた。
 入手先は明らかにされていないが、ペルシャ語の機密文書には、欧米が「イランの核兵器開発責任者」と見なすモフゼン・ファフリザデ氏の署名がある。英国を含む複数の欧米諸国の情報機関や、国際原子力機関(IAEA)もこの文書を入手しているという。
 文書は中性子起爆装置開発の4か年計画に関するもので、07年初頭に作成された模様だという。同紙は、中性子起爆装置には核爆弾以外の使途はなく、イランが秘密裏に進める核兵器開発の「有力な証拠」だとしている。
(2009年12月14日22時34分 読売新聞)

 時事通信のほうが詳しい。同日の時事「イランが核兵器用の機材開発=西側・IAEAも資料入手-英紙」(参照)より。

 専門家によれば、同装置を用いるウラン重水素化物は、1998年のパキスタンの核実験で使われ、核兵器以外での用途はあり得ないとされる。
 タイムズ紙によると、既に英国を含む複数の西側情報当局のほか、国際原子力機関(IAEA)高官もこの資料を入手している。これに関連して、英デーリー・テレグラフ紙(電子版)は10日、イランが台湾の企業を経由して、核開発に必要な精密機器を輸入していると報じた。(2009/12/14-17:56)

 参照されたタイムズ紙の記事には、「Secret document exposes Iran’s nuclear trigger」(参照)、「Discovery of UD3 raises fears over Iran’s nuclear intentions」(参照)および「Leaked memo identifies man at head of Iran’s nuclear programme」(参照)がある。資料自体も「Iran's secret nuclear trigger: translation of full document」(参照)として公開されている。他の報道機関の動向からも察して、ガセネタではなさそうだ。もっとも、なぜこの時期にタイムズ紙でという疑問は残る。また、テレグラフ紙の報道は「Iran seeks nuclear parts through Taiwan」(参照)で台湾企業の関与を報じている。中国の関与については現時点ではなんともいえないという状態のようだ。
 14日のタイムズ紙の暴露によって、IAEAを最終的には通すことになるが、事実上、ウラン濃縮の平和利用といったイラン側の話が嘘であったということなるだろう。ではそこで米国主導の制裁なのかだが、微妙なところだ。
 というのは、日本国内では報じられていないようだが、タイムズ「Secret document exposes Iran’s nuclear trigger」(参照)にあるマーク・フィツパトリック(Mark Fitzpatrick)氏のコメントが微妙な響きを持っているからだ。

Mark Fitzpatrick, senior fellow for non-proliferation at the International Institute for Strategic Studies in London, said: “The most shattering conclusion is that, if this was an effort that began in 2007, it could be a casus belli. If Iran is working on weapons, it means there is no diplomatic solution.”

ロンドンの国際戦略問題研究所(IISS:the International Institute for Strategic Studies)の核拡散防止分野マーク・フィツパトリック(Mark Fitzpatrick)上級研究員は、「今回の暴露のもっとも驚愕すべき結論は、イランの核兵器開発の努力が2007年に開始されたものなら、それは、開戦理由(casus belli)になりうることだ。もし、イランが核兵器を開発してるなら、その意味は、もはや外交的解決はないということだ」と述べている。


 ここが現状のイラン問題の最大の焦点で、今回のイラン核兵器開発計画の暴露は、戦争、つまりイランへの攻撃を正当化しうるということだ。つまり、イスラエルによるイラン攻撃の正当化の前段を意味しているという点だ。この点はAP「Israeli says some time left for diplomacy on Iran」(参照)が呼応している。
 すぐに思い浮かぶ裏スジは、イランを空爆したいイスラエルに戦争への正当化理由を与えるためにこのような暴露を誘導したということだろう。だが、私は、逆ではないかと見ている。イスラエルの暴発を事前に阻止すべく、イランへの制裁を空転さぜずに米国主導下で国際連携を図ろうとしているのではないだろうか。つまり、ここでようやく、読売新聞社説のような国際連携のスジにつながってくる。
 この間、イラン側でも挑発がエスカレートしている。イランは16日、イスラエルを射程に収める最新型の中距離弾道ミサイルの発射した。ミサイルの詳細が非常に興味深い。産経新聞「イランのミサイル発射で高まる緊張 米政府が非難、年内に追加制裁も」(参照)より。

 ロイター通信によると、イランが発射したのは2段式の中距離弾道ミサイル「セジル2」の改良型。イラン側は設定した目標に命中させたと発表している。同ミサイルの射程は2千キロ以上とみられ、イスラエルやアラブ各国、欧州の一部を射程に収める。
 北朝鮮の中距離ミサイル「ノドン」をモデルに開発したとみられる「シャハブ3」が液体燃料を使用しているのに対して、「セジル2」は固体燃料を使っている。固体燃料の場合、液体燃料のように発射前に注入する必要がなく、攻撃を受ける可能性が低くなる利点がある。イスラエルによるイラン国内の核施設への先制攻撃を防ぐための示威行為ともみられている。

 イランの核搭載ミサイルは北朝鮮が関与しているが、その関連の暴露も同じ文脈で出て来ている。産経新聞「テポドン2の部品か 押収武器はイラン向けの可能性」(参照)より。

タイの首都バンコクのドンムアン空港で、北朝鮮から到着したグルジア国籍の貨物機、イリューシンIL76から大量の兵器が見つかった事件で、タイ政府高官は17日、積み荷の一部が北朝鮮の長距離弾道ミサイル「テポドン2」の部品で、イランに運ばれる途中だったとの見方を明らかにした。ロイター通信が伝えた。

 この暴露もとりわけ陰謀論ということでもなく、英米側のこの文脈でのリークによるものだろう。
 イラン危機は高まったのかということが気になるが、まだまだ年末年始にかけて騒ぎは続くだろうが、私は逆にとりえず鎮火の方向に向かっていると見ている。イスラエルさえ抑えこめば大きな問題にはならないし、ロシアや中国もここに至ってイランを強く援護しづらいのではないか。
 この点で良識的なのはフィナンシャルタイムズ17日社説「Dealing with Iran(イランを扱う)」(参照)だ。

The guiding principles in dealing with Iran are: first, forge a phalanx of unity at international level; and second, make sure your policy discriminates between the regime and Iranian citizens – whose tolerance of the Islamic Republic has reached breaking point after last summer’s imposed election result and its bloody aftermath. Do the new sanctions pass either test?

イランを扱う際にガイドラインとなる原理はこうだ。第一に、国際協調の上に機動部隊を創設すること。第二に、イランの政体と市民を政策上区別すること。イラン共和国の市民は、昨年夏には強制された選挙結果と流血の余波に忍耐強く対応している。さて、新規の制裁はこの2点を満たすほどのもだろうか。


 フィナンシャルタイムズ社説はこの先強い制裁に疑問を呈している。確かにフィナンシャルタイムズの言うように、あまり強行な制裁より、国際協調のもと、イラン市民のありかたを見守ることが重要になるだろうし、日本としては、北朝鮮の問題と関連しながら、中国とともにイランの軟化、つまり、IAEA管理下に置く方向に進めるべきだろう。現民主党政権にそれだけの力量と見識があるかは、なんとも言い難いが。

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2009.12.16

習近平副主席訪日の天皇特例会見のこと

 この話題は微妙であることと裏がよく読めないこともあって、ブログでの言及は控えていたが、その後世間の話題は膨らみ、時代の記憶に残る事件にもなったので、少し記しておこう。
 前提となる「1か月ルール」だが、1995年頃、現鳩山首相が村山政権の連立与党代表時に、天皇陛下と外国要人との会見は1か月前までに文書で正式申請する慣例として成立した。経緯から考えても当然だが、現鳩山首相はこのルールの策定側におり、その意義も熟知していた。そのうえで踏みにじったわけである。いつもの鳩山ブーメランよりたちが悪い。
 今回、習近平副主席訪日の会見申請が出されたのは11月26日で、外務省は「1か月ルール」に従い、中国側に会見はできない旨回答した。しかし中国側は納得せず、別ルートでの天皇特例会見を求めた。そのルートの一つとして、民主党小沢一郎幹事長が鳩山首相に特別会見実現を働きかけた。鳩山首相は「1か月ルール」を知りながらこれを曲げ、平野博文官房長官に実現検討を指示し、12月7日、宮内庁羽毛田信吾長官に特別の要請をした。
 羽毛田長官は天皇陛下のご体調を含め「1か月ルール」の観点から会見を断ったが、12月10日、再度同ルートから鳩山首相の指示ということで話が蒸し返され、異例ではあるが曲げて羽毛田長官は天皇陛下に会見をお願いし、特例会見の実現となった。
 羽毛田長官がことの経緯を秘していれば、国民が鳩山首相による「1か月ルール」無視のごり押しを知ることはなかっただろう。しかし羽毛田長官は、二度とこのような異例の対処がないよう事態を公言し、社会的な波紋を投げかけた。
 さらに民主党の不手際の傷を広げたのが14日の小沢民主党幹事長の記者会見である。小沢氏は「1か月ルール」無視は憲法上問題はないと無茶な議論を繰り出し、異論を述べるなら羽毛田長官は辞任せよと恫喝した。ここに至り、多くの国民から小沢氏と民主党への反感が高まった。加えて、永田メール事件でガセネタの怖さに懲りたのではないかと思われていた前原誠司国交相がこりゃまたお調子者を買って出て、天皇会見要請したのは自民党の元首相だと吹いてみた。かくして話がブログ論壇のようなグダグダになってしまった。
 その後の報道による、特例会見の1週前7日に中曽根康弘元首相が首相官邸を訪れていることから、中曽根氏が習近平副主席訪日の天皇特例会見を要請した自民党の元首相はではないかと見られている。しかし、話の流れからすると、中曽根氏による要請があったとしても、その結果は「1か月ルール」で引き下がったと見てよさそうなのは、10日に鳩山・平野ルートのごり押しがあるからだ。前原氏はこの手の馬鹿騒ぎが懲りないのだろうかと問うてみて、そうえばJAL問題もお調子者発言でぐだぐだにしてしまったなと思い返す。
 今回の天皇特例会見の是非は、天皇の政治的な意味合いを理解している人なら、なにも杓子定規に「1か月ルール」と言い出さずとも理解できるだろう。小沢氏は「天皇陛下の国事行為は内閣の助言と承認で行われる」から天皇の政治利用にはあたらないとしたが、天皇の外国要人会見は国事行為そのものではなく、それに準じた「公的行為」である。また、公的行為であっても内閣が責任持てばよいのだという屁理屈もあるが、そんな話を進めていけば、天皇と政権の関係は危うくなる。むしろ「1か月ルール」はその常識から出た妥当な線引きであった。また、小沢氏は「天皇陛下ご自身に聞いてみたら、会いましょうと必ずおっしゃると思う」とも語ったが、2.26事件の亡霊にでも取り憑かれたのであろう。桑原桑原。
 以上が報道から見える部分であり、現下の民主党に昭和史から学ぶ知恵も常識も期待するのは酷というものかなという感想で終わりそうだが、背景はこれで十分わかったわけではない。ネタに飢えているブロガーやブログ読みならずとも疑問は沸く。
 なぜ羽毛田長官は黙っていなかったのだろうか。彼の公言が小沢氏の理性を吹っ飛ばせることは想定できたはずだし、結果的に中国に泥とまではいえないが習近平副主席にクリームパイくらいは投げつけたことになった。中国としても形は得たものの不愉快だろう。羽毛田長官が想定していなかったと考えるのはナイーブすぎる。
 中国側を考えると、そもそもなぜそこまでして、習近平副主席の天皇特例会見を求めたのだろうか。これにはいちおうマスメディア的な解答は与えられている。1998年に胡錦濤現国家主席が副主席として来日した際も天皇陛下と会見していることから、習近平副主席の国家主席就任の段取りとして見られていたということだ。しかし、そうだとすると、ゴリ押ししてまでもその段取りを習氏に踏ませる中国側のお家の事情というものがあったことになる。
 もう一つの疑問は、山口一臣の「ダメだめ編集長日記」「天皇の「政治利用」は霞が関のトリックだ」(参照)の話だ。山口氏の話では、習副主席の来日を打診されたのは前政権下の2009年の初めであり、最終的に中国側から習副主席の来日を伝えてきたのは10月としている。その時期なら十分「1か月ルール」に間に合うはずである。そこで山口氏は、外務省の怠慢で失敗したのを「政治利用問題」にすり替えて責任回避したと推理している。つまり、羽毛田長官の公言理由もそこに見ている。
 私自身は、山口氏の言われる報道を習近平副主席訪日スケジュールとして確認していないのだが、スケジュールはそれに近いかもしれないと思う。だが、読みは山口氏とは全く異なる。という以前に、山口氏は習近平副主席の中国でのご事情を読みに加えていないので、正確な推測ができていないと私は思う。
 今回の習近平副主席を巡る問題で最大の前提となるのは、9月15日から18日に開催された中国共産党の中央委員会総会(第17期4中総会)である。
 この共産党総会での最大の注目点は、2012年に国家主席を引退する現胡錦涛国家主席の後継者問題であり、2007年に小沢一郎氏と懇意の李克強より一段階上位に上がった習近平国家副主席(参照)が中央軍事委員会の副主席に選ばれるかどうかだった。ここで習氏が選出されれば、10年前の胡錦涛氏と同じ経路を取ることが確実視される。逆にここで選出されなければどうか。加藤青延解説委員は、「もし今回万一、習近平さんが、ポスト胡錦涛の地位固めをしない場合、3年後の党大会で、複数の候補をたてて後継者を選ぶということへの含みも残されるわけです」(参照)と指摘していたが、3年後の党大会に中国の権力後継者問題が延期されることになる。これはまた単なる後継者問題というより、権力の委譲がどのようになるのかを中国国内および世界に問う改革そのものでもあった。
 結果はどうだったか。習近平国家副主席は選出されなかった。
 その意味で、習近平国家副主席は現現胡錦涛国家主席の国内での順当な後継の階梯を上っていないどころか、より厳しい選択の視線に晒されていることは明らかで、当然、今回の訪日天皇特例会見もその文脈から読み解かなくてはならない。
 なぜ習近平国家副主席は中央委員会総会で選出されなかったのか。
 そもそも2007年に習近平氏が李克強より一段階上位に回ったのは、中国共産主義青年団(共青団)の背景を共有することで李克強氏を推す胡錦濤国家主席のグループと、習氏を推す江沢民前国家主席を含む上海グループとの確執で胡錦濤側が雪辱した結果であった。この対立は、共青団と太子党(二世政治家)の対立でもある。いずれにせよ、習近平氏を国家主席に立てるための最大の条件は、共青団に対して弾圧するか宥和するかにかかっている。
 単純に考えれば今回の習近平国家副主席の非選出の理由はなんらかの逆境であったと見ることができる。そしてその逆境を許した理由はなにか。ウイグル暴動だった。
 7月イタリアのラクイラで開催された主要国首脳会議に胡錦濤国家主席が出席し中国を不在にした。内政を習近平国家副主席に任せていたこの時期にウイグル暴動(参照)が発生した。担当の権力者に責任が問われるのは万国共通だが、こうした場合、中国の政治論理では権力取得の階梯で重要な汚点になる。中国人の人生はいかに減点を避けるかにかかっている。
 習近平氏の躓きがウイグル暴動の始末にあったことは明白だ。この時期、国際的な面子を潰してまで胡錦濤国家主席がイタリアから中国に慌てて帰国していることからすると、習近平氏の下手打ちは相当に深刻で、さらに何らかの国内事情があったとも推測される。いずれにせよ、この汚点を濯がずしてのうのうと中央委員会総会で選出はありえないだろう。
 さてパズルを解く基本は時系列だ。
 9月下旬の時点で、中国国内的には習近平国家副主席が胡錦濤国家主席の後継者とは目されなくなっていた。では、10月に習近平国家副主席が日本訪問をした場合、天皇と会見したとして、後継者の文脈が生きてくるだろうか。時間的に相当に無理があるだろう。日本の外務省側でも、地位の定まらない状態に相当に警戒するだろう。
 むしろ習近平国家副主席の訪日打診の遅滞は、習氏の微妙な地位に対する日中間の躊躇があったと想定してよいだろうし、この間、日本では不毛な政権交代もあり、この政権の安定について中国側も確信が持てないでいた。
 しかもそこに李克強と懇意な関係を築いてきた小沢氏の、事実上朝貢が中国にやってくる。
 元来、中国において朝貢とは化外の国が皇帝の徳を慕ってやってくるという演出をもって中国国内への権威のディスプレイを行う行儀である。しかもこの小沢朝貢団は共青団・胡錦濤の背景で李克強氏の華麗な演出となり、習近平側の面子を潰すことになる。それでいいじゃないかという状況と、それではまずいという状況があり、今回は後者だった。
 現状の中国の最高権力者の後継問題が複雑なのは、おそらく後継者と目される習近平氏と李克強氏が単純な対立関係にあることではないことにある。むしろこの二人が、中国国家内の大きな対立を統合するように、現在の胡錦濤・温家宝路線のようなペアを組むことが求められているし、二人も理解している。習氏と李氏も賢い人だから、時の状況に従って上下を割り振るだろう。
 さて、私の読みはこうだ。
 胡錦濤・李克強側が、太子党や上海閥に恩を売るかたちで、習近平国家副主席の訪日と、事実上の後継者問題への暫定的な道筋を付けたのだろう。小沢氏も恩を売る側に回った。それでペイされるものは何か。中国国内的には、胡錦濤の院政もあるだろうが、共産党政権樹立60周年でまたぞろ頭をもたげてきた江沢民氏の本格的なご引退であろう。小沢氏の分け前は何になるのかよくわからない。あまり考えたくない感じだが、今回の日本国内のどたばたからうっすら見えてくるものがないわけでもなさそうだ。

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2009.12.15

日本国憲法の平和主義とオバマ米大統領の平和思想

 オバマ米大統領のノーベル平和賞授賞式演説について、日本のマスコミでもブログの世界でもそれほど話題になっていない印象がある。私はダルフールのジェノサイドを「ジェノサイド」と明確に言明し、その犯罪責任を曖昧にしないこの演説に感銘を受けた。同時に、彼の平和思想の起源と、日本国憲法の平和主義の類似性について関心を持った。思いが拡散してしまう前にメモ書きをしておきたい。
 オバマ米大統領のノーベル平和賞授賞式演説だが、その主要テーマは何であろうか? この演説をオバマ米大統領の平和主義と呼んでよいだろうか? その前提となる平和主義とは何か? いろいろと曖昧な問題が複数立ち上がる。そもそも平和主義という概念が成立するのか? 成立すると見てよい。その場合、コアとなる概念は、暴力・武力放棄による紛争・対立の解決となるように思われる。
 この時点でまた疑問が二点浮かぶ。武力の放棄は平和主義の本質のなすものだろうか? 同等の本質を持つ平和学との対比はどうなるのか? 
 平和学者高柳先男氏が「戦争を知るための平和入門」(参照)で一般向けに解説した「平和学」で強調されているのは、いわゆる平和主義とは異なったものだった。あえて単純にいえば、国家間の戦争または地域紛争などの暴力を発現させないための仕組みや計画(戦略)として妥当なあり方を模索する知的な営みだった。ゲーム理論なども応用される。その意味では、目的が同じであっても、平和を求める平和学は平和主義とは異なる。
 明白なことだが、オバマ米大統領は軍事力行使を否定していない。その時点ですでに平和主義ではないとも言えるかもしれない。また、彼の演説の実質を占めているのは、平和を可能にする三つの要件であり、それは平和を実現する手立てとして位置づけられていて、平和学にやや似ている。だが、平和学と異なるのは倫理的な課題が問われていることだ。
 平和主義でも、平和学でもないなら、では、オバマ米大統領演説の主題はなんだったのだろうか?
 回りくどい言い方になるのだが、あの演説の最も重要な概念は、"Just war"であった。
 共同通信はこれを「大義のある戦争」、朝日新聞は「正しい戦争」とそれぞれ訳していた。字引を見ると「正義の戦い」ともある。この3つの訳語の日本語の意味合いはそれぞれ異なる。「大義ある戦争」は戦争を起こす理由としての正義が問われている。「正しい戦争」は、どちらかといえばルール概念だろう。「正義の戦い」というのは、その戦いよって正義を決するという響きがある。どれが間違いというものでもない。もちろん訳語としては朝日新聞は「正しい戦争」が定訳語だろう。
 "Just war"とは何か? これはラテン語の"Bellum justum"または"Jus ad bellum"の英語の定訳語である。ラテン語に起源があることは、この議論(正戦論とも呼ばれる)が、西欧の共通語としてのラテン語で議論されたということもあるが、ラテン語古典を背景に持つことは明白だろう。すぐに連想されるのはローマ法など、ローマ由来の哲学だが、これらと、ラテン語文化のおよび哲学を実質支えているカトリックの思想も関係してくる。この点は、ウィキペディアの解説が示唆的だ(参照)。


【ウィキペディア】
Just War theory is a doctrine of military ethics of Roman philosophical and Catholic origin[1][2] studied by moral theologians, ethicists and international policy makers which holds that a conflict can and ought to meet the criteria of philosophical, religious or political justice, provided it follows certain conditions.

"Just war"理論は、道徳神学者、倫理学者および国際政治家によって研究された、ローマ哲学およびカトリック教義に根を持つ軍事倫理の基本原則である。彼らは、紛争は、哲学的、宗教的および政治的な公正の基準にかなうものであるべきだとしている。その基準は以下の通りである。


 ローマ法からカトリックに引き継いだ倫理・神学的な背景が"Just war"の概念にある。具体的にはキケロとトマス・アクィナスを背景に持っているが、それらの議論の整合がオバマ演説の理解の直接的な補助線となるわけではないので詳細には立ち入らない。基本は、"Just war"理論では、倫理的な基準から戦争に「公正」が問われることだ。別の言い方をすれば、"Just war"の"Just"は、正義や大義というより、「公正」の概念であり、"Just war"とは、「公正なる戦争」ということだろう。
 また、"just"が"jury"とラテン語で同起源にあり、"Jus ad bellum (Justice to War)"の語感からも、「法の公正」や審判的な含みがある。個人的な印象だが、正戦論の議論の全体的な骨格は神義論(Theodicy)と同型なのではないか。神義論(Theodicy)のコアは「悪(evil)」の存在論であり、オバマ米大統領も今回の演説で「悪(evil)」の実在をドグマとしていることも連想した。
 「公正なる戦争」という視点で見ていくと、オバマ米大統領演説の主題はわかりやすくなる。まさに、「戦争の公正性はいかにあるべきか」がこの演説で問われていたからだ。
 ここで話を込み入らせることなるのだが、「戦争の公正性」と平和とはどのような関係があるのだろうか?
 この時点で言うのは拙速だが、私の印象では、「戦争の公正性が平和主義である」というのがオバマ米大統領の主張のように思える。だから平和学とも違う。「戦争の公正性が平和主義である」というのは、従来の平和主義とは異なる哲学でもある。
 そして、この哲学は、おそらく日本国憲法の平和主義と密接な関係を持つ哲学のようだ。
 話が不用意に複雑になるのを恐れるのだが、現代の米国において"Just war"の議論が強く意識されたのは冷戦であり、冷戦を色づけたのは核戦争であったことも興味深い。

【ウィキペディア】
The Just War theory is an authoritative Catholic Church teaching confirmed by the United States Catholic Bishops in their pastoral letter, The Challenge of Peace: God's Promise and Our Response, issued in 1983. More recently, the Catechism of the Catholic Church, in paragraph 2309, lists four strict conditions for "legitimate defense by military force":

「公正なる戦争」の理論は、米国カトリック司教区の司教書簡、1983年の「The Challenge of Peace: God's Promise and Our Response(平和の挑戦:神の約束と我々の使命)」によって成立した正統カトリック教会の教えである。近年では、公教要理2309にて4つの条件が「軍事力による正当防衛」として厳格に定められている。


 「The Challenge of Peace: God's Promise and Our Response」(参照PDF)は原文がネットで公開されているので、核問題の視点から読み直すと面白いだろう。
 その4条件だが、オバマ米大統領の議論とは直接は噛み合っていない。だが、オバマ米大統領の思想全体から見れば符帳もある。"Evil(悪)"として実際にこの文脈で議論されている核兵器の不使用であるからだ。
 "Just war"には、ラテン語文化、およびカトリック神学の色合いがあるが、"Just war"がすべてカトリック的な神学によるわけではなく、より一般化されてもいる。と同時に、冷戦のみがその現代的な背景でもない。そして、その一般化の過程では、"Just war"の西欧的な思索の系譜は、どこかの時点で、「神」からその代理店のような「人権」に置き換わり、また「悪」は「人権への罪責」に置き換わったようだ(このあたりの変遷は私にはよくわからない)。
 私が以上の文脈、つまり戦争への公正なる審判ということで想定しているのは、言うまでもなく、ニュルンベルク裁判と極東国際軍事裁判である。これらは国際軍事裁判であると同時に、「平和に対する罪」と「人道に対する罪」を掲げており、そこからバックトラックするように「公正」の議論の追求によって、連合軍の戦争が「公正なる戦争」となった。
 同時に、この公正性を受け入れたかたちで日本国憲法が成立した。日本国憲法は一見、平和主義と見られている。しかし、こうした背景を背負っていていることから、それは本当に平和主義なのだろうかと問い直せる部分がある。
 話をオバマ演説の骨格に戻してみたい。
 彼は、実際上「戦争の公正性が平和主義である」という命題を持ち出した。そしてこれはナチスと大日本帝国を壊滅させた戦争の公正を保持している米国の歴史的連続性でもあった。
 この命題を裏打ちするのは裁かれるべき「悪」の存在である。悪を規定しているのは、人道への違反としての平和の侵害ではあるが、歴史という文脈でこの論理を見れば、必然的に米国の公正に対抗する者は「悪」であることになる。そこには直感的な疑念を持つ人も少ないだろうし、であるからこそ、正戦論、つまり「戦争の公正性」が声高に議論される背景がある。
 オバマ演説では、戦争を無くすこと、あるいは戦闘を回避するするのが平和ではなく、あくまで「戦争の公正性が平和主義である」としている。逆に言えば、平和とは「戦争の公正性」として問われる。
 彼は演説の本論として、平和実現の3つの方策を提唱する。これが実質的な「公正性」の要件をなすと見ていいだろう。
 第一は、軍事力に匹敵する効果を持つ代替の強調である。その代替は、諸国家の協力なしにはありえないともしている。だが、その代替とは何かは明示的には問われないかに見える。
 議論の表向きでは、軍事力の代替によって軍事力を極力回避することによって平和を見いだすということで、その点では「平和主義」にも「平和学」にも近い。だが、ここで問われているのは、やはり「公正」である。
 結論を先に言うと、この代替とは、日本国憲法の「high ideals」であるだろうし、ここでオバマ大統領が述べているのは、日本国憲法の次の箇所と同質だろう。

【日本国憲法】
We desire to occupy an honored place in an international society striving for the preservation of peace, and the banishment of tyranny and slavery, oppression and intolerance for all time from the earth.

私たちは、平和を維持し、独裁制度と奴隷制度、圧政と異説への不寛容に対して、この地上から払拭するための間断なき努力によって、国際社会で名誉ある位置にいたいと願う。


 それが日本国憲法の「high ideals」であり、これは、考えようには奇妙な論理なのだが、世界平和に貢献する制御機能を持つとされている。

【日本国憲法】
We, the Japanese people, desire peace for all time and are deeply conscious of the high ideals controlling human relationship,

私たち日本人は常時平和を望み人間関係を制御する高い理想というものを深く意識する。


 つまり、高い理想が諸国間の対立を統制しうるという考えかたがある。これは暗黙に、戦争の代替としての含みがある。これが日本国憲法の平和主義または平和学的な主張の機能的な側面である。
 オバマ米大統領が常に高い理想を提示していることからも、おそらく日本国憲法の倫理機能性がオバマ米大統領のいう代替と等しいだろう。演説の文脈でいうなら、諸国が協力しうるのは、高い理想=公正に賛同して集結するからだ。
 日本国憲法ではこの「公正」は、"laws of political morality(政治的な道徳の規則)"として、こう表現されている。

【日本国憲法】
We believe that no nation is responsible to itself alone, but that laws of political morality are universal; and that obedience to such laws is incumbent upon all nations and justify their sovereign relationship with other nations.

私たちはこう信じている。自国だけに責任を持てば済むとする国家は存在しない。政治的な道徳の規則というのは(国を問わない)普遍的なものである。だからこのような規則を守ることは、どの国家にも課せられた義務であり、その義務は自国の主権を維持しようとする国家に課せられている。


 むしろ日本国憲法が、オバマ演説の第一原則を解説している。
 これらは素晴らしい思想ではあるが、疑問もある。日本国憲法が半世紀以上晒されてきた疑問であるが、本当に「高い理想が諸国間の対立を統制する」のだろうか?
 オバマ米大統領の演説では、「Sanctions must exact a real price.(制裁には実効性が伴わなければならない)」とし、あたかも理想を越えた部分で実行力を想定しているようにも受け取れる。だとすると、問題はそれが再び暴力に回帰する経路を隠し持っていることになる。しかし、戦争の代替を担保するものが結局戦争では矛盾するようにも見える。
 オバマ米大統領の平和思想の基点が「公正な戦争」に置いている以上、もちろん最終の制裁としての軍事オプションは排除されていない。しかし、おそらく彼の平和思想には、日本国憲法と同様に「人間関係を制御する高い理想」の機能を優先しているはずだ。それはどのような仕組みで機能するのだろうか?
 「公正な戦争」が発動する前段階では、極東国際軍事裁判で出された公正性としての人道への罪への処罰も含まれている。演説では、"consequences"とやや曖昧に表現されている部分だ。

【オバマ演説】
When there is genocide in Darfur, systematic rape in Congo, repression in Burma -- there must be consequences.

ダルフール・ジェノサイドや、コンゴでの組織的なレイプ、ビルマでの弾圧にも、報復が必要だ。


 戯画的に言えば、「公正な戦争」を要請する状況においては、戦争の実現よりも、悪を抜き出して処罰することが優先されていると言える。
 オバマの第一原則をまとめよう。それは、高い理想によって統制された国際社会は、その国家間の協力により、特定国家や地域から悪を抜き出し公正の下に処罰することで、できるだけ戦争を回避することが可能だが、最終手段としては放棄されない、となる。
 第二原則はどうか。これは第一の原則のほぼ必然的な帰結であり、平和が「戦争の公正性」であるなら、公正の質となるのは人権であるということだ。

【オバマ演説】
This brings me to a second point -- the nature of the peace that we seek. For peace is not merely the absence of visible conflict. Only a just peace based on the inherent rights and dignity of every individual can truly be lasting.

第二の話は第一からつながる。平和といってもどのような平和を私たちは求めているかだ。平和を求めることは単に、見える紛争をなくすことではない。誰もが生まれながらにして持つ人権と尊厳に基づく正当な平和こそが、真に永続的になりうる。


 人権は普遍的なもので、諸国の独自文化・歴史によっては否定されないともしている。このあたりからは、「戦争の公正性」はいかる異文化も超越するし、異文化が公正でなければ最終的には戦争で押しつぶすと取れないでもない。

【オバマ演説】
For some countries, the failure to uphold human rights is excused by the false suggestion that these are somehow Western principles, foreign to local cultures or stages of a nation's development.

国によっては、人権を擁護できないことについて、それは西洋の原則に過ぎないとか、文化によっては違和感があるとか、国家の発展段階によるのだとか弁解している。

So even as we respect the unique culture and traditions of different countries, America will always be a voice for those aspirations that are universal.

私たち米国民は、さまざまな国々の独自の文化や伝統を尊重しつつも、常に普遍的な価値を希求する声を上げつづける。


 人権が文化を越えて普遍であるという主張は日本国憲法でも前提となっていて、先にも触れたがここに該当する。

【日本国憲法】
no nation is responsible to itself alone, but that laws of political morality are universal;

自国だけに責任を持てば済むとする国家は存在せず、政治的な道徳の規則というのは(国を問わない)普遍的なものである。


 第三の原則は第二の原則の補足のように見えるが、日本国憲法と字句まで対応しつつ、そこを補足しているのが興味深い。

【オバマ演説】
Third, a just peace includes not only civil and political rights -- it must encompass economic security and opportunity. For true peace is not just freedom from fear, but freedom from want.

第三に、正当な平和に含まれているのは、市民権と参政権だけではない。経済的な安定と機会が含まれていなくてはならない。真の平和は恐怖からの自由だけではなく、貧困からの自由でもあるからだ。


 日本国憲法前文では、恐怖や貧困からの自由を平和とするに留まっている。

【日本国憲法】
We recognize that all peoples of the world have the right to live in the peace, free from fear and want.

世界のどの国民も平和で恐怖や貧困のない生活を過ごす権利がある、と私たちは理解している。


 しかし日本国憲法の本文では、恐怖や貧困からの自由以上に、市民権と参政権が規定されているのだから、実質的にはオバマ原則の通りになり、ここでも同型性がある。
 以上のようにオバマ平和思想の実質要件の三点をみるとわかるが、彼のノーベル平和賞授賞式演説は日本国憲法の平和主義とまったく同根であり、ただ立場を変えただけの鏡像であることがわかる。もっと単純に言えば、今回のオバマ演説は日本国憲法前文の主語を置き換えてもそう違和感のない関連主張になっている。
 ただし、オバマ米大統領の演説では、「公正なる戦争」への不参加は、日本国憲法9条を持ち出すまでもなく想定されていない。戦争放棄と理解される日本国憲法と比較して、この点はどうなのだろうか。

【日本国憲法】
we have determined to preserve our security and existence, trusting in the justice and faith of the peace-loving peoples of the world.

私たちの安全と生存の保持は、平和を愛する世界の国民の正義と信頼に委託しようと、私たちは決めた。


 日本国憲法では、その成立時には、灰燼に帰した国土から二度と軍隊が持てるほど豊かな国家は生まれないと見られていたのではないだろうか。まだ逆コースも進んでいなかった頃だ。だから、日本国憲法前文は「公正なる戦争」によって守られることだけを述べており、それが9条につながっているとも読める。その解釈なら日本国憲法は平和主義というより、オバマ米大統領の「公正なる戦争」を支援する弱小国家の規定だとも言える。それが戦後日本では、平和主義として理解されてきたのかもしれない。しかしその意味での平和主義は、かつて米国の「公正なる戦争」において「悪」として見られてきたことへの、対置された正義(平和が正義だ)としての申し立てではなかったか。敗戦による反米意識に支えられたものではなかった。
 日本国憲法前文に振り返ると、公正の法に対する"obedience(服従)"としての自由国家の連帯の義務が語られていることにも気がつく。

【日本国憲法】
obedience to such laws is incumbent upon all nations who would sustain their own sovereignty and justify their sovereign relationship with other nations.

このような規則に服従することは、どの国家にも課せられた義務であり、その義務は自国の主権を維持しようとする国家に課せられている、また、その義務は他国との関係で公正を実現しようとする国に課せられている。


 日本国憲法におけるこの公正の法に対する"obedience(服従)"は、「戦争の公正性が平和主義である」とするオバマ演説の次の部分と同質ではないだろうか。

【オバマ演説】
Inaction tears at our conscience and can lead to more costly intervention later. That's why all responsible nations must embrace the role that militaries with a clear mandate can play to keep the peace.

軍事行動を取らずにいることは、私たちの良心を苛まし、後になって犠牲の多い軍事介入に至らせる。だから責任ある諸国は、シビリアンコントロールの下にある軍隊が平和維持に寄与することを承認しなければならない。


 試訳ではあえて、"militaries with a clear mandate can play to keep the peace"を「シビリアンコントロールの下にある軍隊が平和維持に寄与する」と訳した。直訳すれば、「平和維持のために明確な委任を受けた軍隊」となる。
 おそらく日本国憲法の平和主義は、人道主義の高い理想の実現で諸国間が強調して「悪」を排斥するとともに、その最終的な裏付けとしての軍事力に対して、"a clear mandate (明確な委任)"を持っているだろう。これは、9条との関係でいうなら、日本国国権の発動としての戦争は放棄されても、国家間の公正性に委託される軍事力の運用は否定されていないのではないか。
 だとすれば、ここにおいてオバマ米大統領のノーベル平和賞授賞式演説が日本国憲法と同型であることの証明は終わる。

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2009.12.13

オバマ米大統領ノーベル平和賞受賞演説抜粋

 オバマ米大統領ノーベル平和賞受賞演説(参照)はすばらしかった。自分のメモとして要点部分を抜粋したあと、そういえばとブログ用に試訳を添えてみた。ネットを覗くと、朝日新聞(参照)と共同(参照)の訳があり、それらの訳文を見ると、ほぉと思うこともあったので列記しておきたい。

*  *  *  *

I face the world as it is, and cannot stand idle in the face of threats to the American people. For make no mistake: Evil does exist in the world. A non-violent movement could not have halted Hitler's armies. Negotiations cannot convince al Qaeda's leaders to lay down their arms. To say that force may sometimes be necessary is not a call to cynicism -- it is a recognition of history; the imperfections of man and the limits of reason.

【朝日新聞訳】
私はあるがままの世界に立ち向かっている。米国民への脅威に対して、手をこまねいてることはできない。間違ってはいけない。世界に邪悪は存在する。非暴力の運動では、ヒトラーの軍隊をとめることはできなかっただろう。交渉では、アルカイダの指導者たちに武器を置かせることはできない。武力行使がときに必要だと言うことは、冷笑的な態度をとることではない。それは人間の不完全さと、理性の限界という歴史を認めることだ。

【共同訳】
私は現実の世界に対峙(たいじ)し、米国民に向けられた脅威の前で手をこまねくわけにはいかない。誤解のないようにいえば、世界に悪は存在する。非暴力運動はヒトラーの軍隊を止められなかった。交渉では、アルカイダの指導者たちに武器を放棄させられない。時に武力が必要であるということは、皮肉ではない。人間の欠陥や理性の限界という歴史を認識することだ。

【試訳】
私は現実の世界に向き合っているから、米国民に脅威が向けられたとき何もせずにいることはできない。間違いなく、この世には悪が存在するのだ。非暴力の活動ではヒトラーの軍隊を止めることはできなかった。話し合いでアルカイダ指導者に武器を捨てさせることはできない。軍事力が必要な時もあると言うのは、皮肉を弄しているのではなく、歴史を認識することなのだ。それは人間が不完全な存在であり、理性には限界があるということだ。

I believe that force can be justified on humanitarian grounds, as it was in the Balkans, or in other places that have been scarred by war. Inaction tears at our conscience and can lead to more costly intervention later. That's why all responsible nations must embrace the role that militaries with a clear mandate can play to keep the peace.

【朝日新聞訳】
私は、バルカンや、戦争で傷ついた他の場所でそうであったように、人道的な見地からの武力行使は正当化できると信じる。行動をしないことは我々の良心を引き裂き、後により高くつく介入へとつながりうる。だからすべての責任ある国は、明確な任務を与えられた軍隊が平和を維持するために果たすことができる役割を認める必要がある。

【共同訳】
私は、バルカン諸国や、戦争に傷ついた他の地域でそうであったように、武力は人道的見地から正当化できると考えている。何もせずに手をこまねくことは良心の呵責(かしゃく)を生み、後により大きな犠牲を伴う介入が必要になる可能性がある。だからこそ、すべての責任ある国家は、平和維持において、明確な指令を受けた軍隊が果たし得る役割というものを認めなければならない。

【試訳】
私は人道的な見地から軍事力を正当化できると確信している。それはバルカン諸国や戦争の傷痕を残す地域に当てはまるようにだ。軍事行動を取らずにいることは、私たちの良心を苛まし、後になって犠牲の多い軍事介入に至らせる。だから責任ある諸国は、シビリアンコントロールの下にある軍隊が平和維持に寄与することを承認しなければならない。

I understand why war is not popular, but I also know this: The belief that peace is desirable is rarely enough to achieve it. Peace requires responsibility. Peace entails sacrifice. That's why NATO continues to be indispensable. That's why we must strengthen U.N. and regional peacekeeping, and not leave the task to a few countries. That's why we honor those who return home from peacekeeping and training abroad to Oslo and Rome; to Ottawa and Sydney; to Dhaka and Kigali -- we honor them not as makers of war, but of wagers -- but as wagers of peace.

【朝日新聞訳】
戦争がなぜ不人気なのかは分かっている。だが私は同時に、平和が望ましいという信念だけで平和が達成できることはめったにないことを知っている。平和には責任が必要だ。平和は犠牲を伴う。だからこそ、NATOは不可欠なのだ。だからこそ、我々は国連と地域の平和維持活動を強化せねばならないし、その役割を限られた国に任せてはいけない。だからこそ、我々はオスロやローマ、オタワやシドニー、ダッカやキガリへと、国外での平和維持活動や訓練から帰還した者をたたえるのだ。戦争を起こす者としてではなく、平和を請け負う人たちとしてたたえるのだ。

【共同訳】
私は、なぜ戦争が好まれないのか理解している。だが、同時に、平和を求める信条だけでは、平和を築き上げることはできないということも分かっている。平和には責任が不可欠だ。平和には犠牲が伴う。そうだからこそ、NATOが不可欠であるのだ。そうだからこそ、われわれは国連と地域の平和維持を強化しなければならない。いくつかの国だけにこの役割を委ねたままにしてはいけないのだ。
 だからこそ、われわれは国外での平和維持活動と訓練から、オスロとローマ、オタワとシドニー、ダッカやキガリへ、故郷へと戻った者たちをたたえるのだ。戦争を引き起こす者としてではなく、平和を請け負う者たちとしてたたえるのだ。

【試訳】
私は戦争が多くの人に好まれない理由を理解しているが、同時に平和を祈念するだけでは平和にならないことも理解している。平和には責任が伴うのだ。平和には必然的に犠牲が伴う。だから、冷戦後も北大西洋条約機構(NATO)の継続が必要なのだ。国連と地域平和維持活動を強化しなければならないのも同じ理由だし、特定の国だけにこの任務を任せきってはいけない。オスロからローマへ、オタワからシドニーへ、ダッカからキガリへと、平和維持活動と軍事演習で海外に駆り出されて帰還した兵士に私たちが敬意を払うのも同じ理由だ。彼らは紛争を引き起こすのではない。平和を請け負っているからこそ私たちは名誉を称えるのだ。

I have spoken at some length to the question that must weigh on our minds and our hearts as we choose to wage war. But let me now turn to our effort to avoid such tragic choices, and speak of three ways that we can build a just and lasting peace.

【朝日新聞訳】
戦争の遂行を選ぶ際、我々の頭や心に重くのしかかる問題について、私は時間を割いて話してきた。しかし、そのような悲劇的な選択を避けるための我々の努力に話を移し、正義として持続する平和を築く三つの方法について話したい。

【共同訳】
われわれが戦争を行うことを選択するとき、心に重くのしかかる問題について私は言及してきた。しかし、そうした悲劇的な選択を避けるための努力についてもう一度立ち戻り、公正で永続的な平和を構築する上で必要な三つの方策を説明しよう。

【試訳】
私たちが戦争という選択をするときに私たちの理性と心情に必然的にのしかかる難問について少し長めに私は話してきた。ここで、そうしたつらい選択を避けるための努力の話題に移り、正当でかつ継続する平和を構築するための3つの方法について話をしたい。

First, in dealing with those nations that break rules and laws, I believe that we must develop alternatives to violence that are tough enough to actually change behavior -- for if we want a lasting peace, then the words of the international community must mean something. Those regimes that break the rules must be held accountable. Sanctions must exact a real price. Intransigence must be met with increased pressure -- and such pressure exists only when the world stands together as one.

【朝日新聞訳】
一つ目は、ルールや法を破る国々に対応する際、暴力ではない形で(その国の)ふるまいを変えさせねばならないということだ。もし持続的な平和を求めるなら、国際社会の言葉は、何らかの意味のあるものでなければならない。ルールを破る政権は責任をとらなければならない。制裁は、真の代償を払わせるものでなければならない。非妥協的な態度にはより強い圧力で対応せねばならない。そして、そのような圧力は、世界が一つにまとまった時にのみ、存在するのだ。

【共同訳】
まず最初に、規則や法を破る国と立ち向かう際に、態度を改めさせるのに十分なほどに強い、暴力に代わる選択肢を持たなければならないと私は信じている。なぜなら、永続的な平和を望むなら、国際社会の言葉は何らかの意味を持たなければならないからだ。規則を破るような政治体制には責任を負わせねばならない。制裁は実質的な効果がなければならない。非協力的な態度には圧力を強めなければならない。そうした圧力は世界が一つになって立ち上がったときにのみ、成り立つのだ。

【試訳】
第一に、規則や法を破る国家を扱うときは、暴力の代替として、それらの国の態度を実際に変更させるに足る選択肢を考案しなければならないと私は考えている。私たちが継続的な平和を望むのであれば、国際社会が発する声明には裏付けがなくてはならない。規則を破る国家に責任ある行動を取らせなくなくてはならない。制裁には実効性が伴わなければならない。硬直的な程度にはより強い圧力が伴わなければならないが、そうした圧力は、世界が結束して立ち上がったときにのみ成立する。

The same principle applies to those who violate international laws by brutalizing their own people. When there is genocide in Darfur, systematic rape in Congo, repression in Burma -- there must be consequences. Yes, there will be engagement; yes, there will be diplomacy -- but there must be consequences when those things fail. And the closer we stand together, the less likely we will be faced with the choice between armed intervention and complicity in oppression.

【朝日新聞訳】
同じ原則は、自国民を残虐に扱うことで国際法を犯している者にも当てはまる。(スーダンの)ダルフールでの集団殺害、コンゴ(旧ザイール)での組織的なレイプ、ビルマ(ミャンマー)での抑圧などは、必ず重大な結果が伴うべきだ。もちろん、対話や外交も行われるだろう。だが、そうした営みが失敗したときには重大な帰結を招くべきなのだ。我々が団結を強めればそれだけ、軍事介入と抑圧の共謀者となるという二者択一に直面しなくても済むだろう。

【共同訳】
同様の原則は国際法に違反し、自国の人々をむごたらしく扱う国々にも適用される。ダルフール(スーダン)の大虐殺やコンゴ(旧ザイール)での組織的強姦(ごうかん)、ミャンマーの弾圧、これらは責任が問われなければならない。そう(国際社会の)関与はあるだろう。そう、外交努力があるだろう。だが、これらが失敗した場合には、(こうした国々の)責任が問われなければならない。われわれが結束すればするほど、武力介入するか(何もせず)抑圧の共謀者となるか、われわれは選択を迫られなくなるであろう。

【試訳】
同一の原則は、国際法に違反し、自国民を虐待する者にも当てはまる。ダルフール・ジェノサイドや、コンゴでの組織的なレイプ、ビルマでの弾圧にも、報復が必要だ。国際協調も外交が必要だろう。だが、失敗するときには、報復が必要になるのだ。私たちが結束すれば、武力で介入したり、協調して圧力をかけたりしなくてすむ。

This brings me to a second point -- the nature of the peace that we seek. For peace is not merely the absence of visible conflict. Only a just peace based on the inherent rights and dignity of every individual can truly be lasting.

【朝日新聞訳】
そこで私は二つ目の点、我々が求める平和の本質について語りたい。なぜなら、平和は単に目に見える紛争がないということではない。すべての個人の持つ尊厳と生来の権利に基づく公正な平和だけが、本当に持続することができるのだ。

【共同訳】
これは第2の点につながる。われわれが求める平和の本質についてだ。平和は目に見える紛争状態がないということだけではない。すべての人々が生まれながらに持つ人権と尊厳に基づく平和だけが、真に永続することができる。

【試訳】
第二の話は第一からつながる。平和といってもどのような平和を私たちは求めているかだ。平和を求めることは単に、見える紛争をなくすことではない。誰もが生まれながらにして持つ人権と尊厳に基づく正当な平和こそが、真に永続的になりうる。

For some countries, the failure to uphold human rights is excused by the false suggestion that these are somehow Western principles, foreign to local cultures or stages of a nation's development.

【朝日新聞訳】
一部の国では、人権はいわば西洋の原則であって固有の文化や自国の発展段階の中では異質のものである、という間違った主張をもとに人権を維持しない口実にしている。

【共同訳】
人権は西洋の原理だとか、地域の文化に合わないとか、国家の発展の一段階にあるので守れないなどと間違った考えで言い訳する国もある。

【試訳】
国によっては、人権を擁護できないことについて、それは西洋の原則に過ぎないとか、文化によっては違和感があるとか、国家の発展段階によるのだとか弁解している。

So even as we respect the unique culture and traditions of different countries, America will always be a voice for those aspirations that are universal. We will bear witness to the quiet dignity of reformers like Aung Sang Suu Kyi; to the bravery of Zimbabweans who cast their ballots in the face of beatings; to the hundreds of thousands who have marched silently through the streets of Iran. It is telling that the leaders of these governments fear the aspirations of their own people more than the power of any other nation. And it is the responsibility of all free people and free nations to make clear that these movements -- these movements of hope and history -- they have us on their side.

【朝日新聞訳】
米国は、様々な国の独自の文化と伝統を尊重しながらも、普遍的な希望のためにいつでも声をあげる。我々は、静かに威厳を保っている(ミャンマーの)アウン・サン・スー・チーのような改革者の証人となる。暴力にさらされながらも票を投じるジンバブエ人の勇気や、イランの通りを静かに行進した何十万の人々についても証人になる。これら政府の指導者は他のいかなる国家の力よりも、自国民の希望を恐れるということがわかる。そして、希望と歴史に根ざしたこれらの運動に対して、我々が味方であることを明らかにするのは、すべての自由な国民と自由主義諸国の責任だ。

【共同訳】
米国はさまざまな国の独特の文化や伝統に敬意を払いながらも、常に人類共通の思いの代弁者になる。(ミャンマーの民主化運動指導者)アウン・サン・スー・チーさんのような改革者の静かなる威厳の証人となる。暴力にさらされながらも票を投じる勇敢なジンバブエ人や、イランの通りを静かに(デモ)行進した数十万の人々の証人となる。このことは、これらの政府の指導者は、ほかの国家の力よりも、国民の思いを恐れているということを物語っている。希望と歴史はこうした運動の味方になるとはっきりと示すことが、すべての自由な人々と自由な国家の責任だ。

【試訳】
私たち米国民は、さまざまな国々の独自の文化や伝統を尊重しつつも、常に普遍的な価値を希求する声を上げつづける。アウンサンスーチーのような改革者の寡黙な品位、弾圧のさなかでも投票するジンバブエ人の勇気、イランの街路を静かにデモ行進する数十万の人々、私たちはこれらが正しいのだと証言し続ける。彼らの状況は、その国の指導者が外国の武力よりも自国民の希求を恐れていることを示している。これらの希望と歴史の動向の側に付くと公言することは、自由な国民と自由な国家の責務である。

Let me also say this: The promotion of human rights cannot be about exhortation alone.

【朝日新聞訳】
もう一つ言わせてほしい。人権の促進は、言葉で熱心に説くだけでのことではない。

【共同訳】
これも言わせてほしい。人権は、言葉で熱心に説くだけでは促進できない。

【試訳】
これも言っておきたい。人権の促進は声高に叫べばいいだけことではない。

Third, a just peace includes not only civil and political rights -- it must encompass economic security and opportunity. For true peace is not just freedom from fear, but freedom from want.

【共同訳】
第3に、市民の権利や政治的な権利があるだけでは公正な平和とはいえない。経済的な安定と機会が保障されなければならない。なぜなら真の平和は恐怖からだけではなく、貧困からの解放でもあるからだ。

【朝日新聞訳】
三つ目に、正義としての平和とは、市民的・政治的権利だけではなく、経済的な安全と機会を含まなければならない。というのも、真の平和とは恐怖からの解放だけでなく、欠乏からの自由でもあるからだ。

【試訳】
第三に、正当な平和に含まれているのは、市民権と参政権だけではない。経済的な安定と機会が含まれていなくてはならない。真の平和は恐怖からの自由だけではなく、貧困からの自由でもあるからだ。

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