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2009.10.08

福田元首相辞任の真相がいまさら語られる理由

 思いがまとまらない話題でもあり、なんとなく書くのを避け、ネットに費やす時間はツイッターにかまけていたが、これがもし本当なら平成秘史というのを越えて、後にこの時代の政治史を振り返るときに重要なことになるかもしれない。福田元首相辞任の真相といった話だ。けっこう流布されているので知っている人は多いだろうが、真偽不明でもあり陰謀論的な陰影もあるので、私としては避けていた話題だった。でも、なんか奇妙な空気になってきたので少し触れておきたい。
 話を少しばかり寄り道する。中川昭一元財務・金融相が、3日11時頃、世田谷の自宅で亡くなった。報道は翌日だった。彼の父の経緯もあり、私は、すわ、自殺か、という思いがよぎった。続報で自殺でも他殺でもないことがわかった。死因は未だわからない。そんなことがあるのかというのも疑問に思わないでもないが、それでも、死に至った背景には過度のアルコール摂取と心労があったことは確かだろう。心労は、自身の失態とそれが招いた落選、そして自民党の行方にあっただろう。男の末路として哀れと思う。いやそういう表現は現代では別の含みに読まれるかもしれない。志ある者ほどそれがかなわず倒れていくものなのだ。哀悼したい。
 彼は今年2月14日、ローマ開催のG7財務大臣・中央銀行総裁会議終了後の記者会見で全世界に醜態を晒し、辞任となった。あの映像を見れば、このような人物に大国の財務を任せるわけにはいかないのは明白。辞任はしかたがないが、私はあの時、なぜ同席した人が機転を利かせなかったのかというのは多少疑問に思っていた。同席した日本銀行白川方明総裁や篠原尚之財務官にそれを求めるというものではないが、他にも中川氏の異常な事態を知っていた人はいただろうに。
 この話には陰謀論的なうわさ話があった。佯狂だというのである。リーマンショック以降の世界金融危機に際して日本に求められる無理難題(日本が巨額資金を提供する基金設立)をはねのける大芝居だというのだ。甲斐は死んでも、樅は残った。これでお家はご安泰。懐かしい昭和のテレビドラマを思い出した。が、与太話であろう。
 話を福田元総理辞任の噂に戻すと、関連の与太話はあった。リーマンショックの前、まさにリーマンが倒れないように、米国から日本に1兆ドルの資金援助をしてくれという話があり、それをあえてブチ壊すために突然辞任したというのだ(参照)。資金援助していたら今頃それが焦げ付いて大変なことになっていた、福田さんは偉かったと続く。真偽はわからない。たぶん、これも与太話だろうと思う。
 まったく根も葉もない話ではなかった。昨年7月7日産経新聞、田村秀男署名記事「米住宅公社救済協力へ外貨準備活用案浮上」 (参照)あたりが関連する。


 「米住宅抵当金融公社の経営不安を憂慮しています。まず、日本は政府の保有分はもとより、民間に対しても住宅公社関連の債券を売らないように言います」
 うなずく米要人に対し、渡辺氏は続けた。「米政府が必要とすれば日本の外貨準備の一部を公社救済のために米国に提供するべきだと考えている」
 昨年8月の低所得者向け高金利型住宅ローン(サブプライム・ローン)危機勃発(ぼっぱつ)後の金融不安は、最近表面化した連邦住宅抵当公社(ファニーメイ)、連邦住宅貸付抵当公社(フレディマック)の2公社の経営危機でさらに深刻化している。米政府や連邦準備制度理事会(FRB)は公的資金注入など公社救済策を検討中だ。しかし、公的資金必要額は住宅価格下落に比例して膨張する。両公社の住宅ローン関連債権は米住宅ローン総額の半分近い5兆2000億ドル(約550兆円)で、日本の国内総生産(GDP)に相当する。
 両公社が発行している住宅関連証券が投げ売りされるようだと、米国のみならず欧州、日本、中国など国際的な信用不安になる。そればかりではない。米国債への信用は損なわれ、ドルは暴落しかねない。


 渡辺金融担当相は「まだ私案の段階だが、中国にも協力を呼びかけるつもり」と言う。米金融危機が今後さらに悪化すれば、有力案として浮上しよう。

 新聞掲載記事ではあるが、事実については曖昧だ。FF兄妹が倒れる懸念は議論を待たない大問題であったが、これも与太話の一つと言えないわけでもない、と思っていた。ついでに、渡辺喜美元金融担当相の立ち回りとその後の転身も、気になってはいた。
 福田元総理辞任まわりの与太話の文脈でいえば、しいて問題を問うなら、リーマン・ブラザーズのために米国が日本に資金援助を求めたのかということだ。当然わからないとしか言えない。韓国がリーマン買収提案をしていたのは事実だろうが、その破綻後に米政府の日本への要請があったのだろうか。この話は、憶測以上のことはなく、そして国際金融危機がとりあえず一過した後、その色合いも変わってくるものだ。
 というところで、6日毎日新聞のスクープなのか、突然奇妙な記事が出てきた。奇妙というのは、他紙のフォローがない点でもある。斉藤望署名記事「外貨準備:政府が米金融2社救済案 08年8月に支援検討」(参照)がそれだ。

 米政府系住宅金融機関2社が経営危機を迎えていた08年8月下旬、日本政府が外貨準備を使って両社の支援を検討していたことが5日、関係者への取材で分かった。入札不調に終わる懸念があった2社の社債数兆円を、日本政府が買い支える計画だった。世界的な金融危機に陥る瀬戸際とはいえ、公的資金で外国の金融機関を救おうとしたことは極めて異例で、経済的に密接不可分な日米関係の特殊性を明らかにする事実といえる。
 金融機関2社は、社債で調達した資金で金融機関から住宅ローンを買い取り、証券化商品に組み替えて投資家に販売しているフレディマックとファニーメイ。両社が発行した住宅ローン担保証券の残高は約6兆ドル(約540兆円)と米国の住宅ローン残高の半分を占め、世界の金融機関も広く保有していた。両社が経営破綻(はたん)すれば、日本を含めた世界の金融システムに深刻な影響を与えることは確実だった。

 毎日新聞は「関係者への取材で分かった」としているが、昨年時点の産経田村記者の話とさして違いはない。なんで今頃出てくるのかが考えさせられる。もう少し先もある。

日本政府では、限られた財務省幹部が米財務省と緊密な連携をとりながら、外貨準備から数兆円を拠出して両社の社債を購入する救済策「レスキュー・オペレーション(救済作戦)」という名の計画を立案。通常は非公表の外貨準備の運用内容をあえて公表し、日本の支援姿勢を打ち出して両社の経営に対する不安をぬぐい去ることも検討した。
 しかし当時の伊吹文明財務相が慎重論を主張し、9月1日の福田康夫内閣の退陣表明で政府が機能不全に陥ったため、実現しなかったという。米政府は9月7日、公的資金を投入して両社を国有化し救済したが、同月15日には米リーマン・ブラザーズが破綻し、結局、金融危機の深刻化は防げなかった。


 伊吹元財務相は毎日新聞の取材に「大臣決裁の段階にはなかった。しかし、米国の経済危機が目前に迫る中、日本の外貨準備で損失が出かねない資産を購入すべきでないという当たり前の判断だ」と述べた。

 伊吹元財務相の言質を取っている点で、どうやらFF兄妹救済の資金援助を米国側が求めていたのは確かだと言ってよいようだ。そしてこれが頓挫したのは、福田元総理のスラップスティックであったことも確かだ。
 与太話として流布されている話との正誤でいえば、福田元総理の大芝居なのか、また、リーマン・ブラザーズ救済も類似のスキームがあったのか、という2点が問われる。依然わからないものの、時系列的には、与太話に信憑性を感じさせるものはある。
 ところでなぜこの話を毎日新聞が、今更蒸し返したのだろうか。もう一つ類似の記事がある。「外貨準備:政府が米金融機関救済検討 究極の貿易黒字還元/「危機回避」見据え」(参照)だ。

 「米国債の入札前には、どの種類の米国債をいくら購入するか、米財務省と綿密に打ち合わせてきた」。1兆ドル(90兆円)の外貨準備の運用を取り仕切る財務省の関係者はこう証言する。外貨準備の運用内容は非公表だが、大半が米国債に投資され、米国の貿易赤字の穴埋めに使われてきたのは、周知の事実だ。今回の米金融機関の救済計画は、いわばその究極の姿と言える。これまで外貨準備で米国の赤字を穴埋めするのは、日本の国益にもなってきた。米国の消費者が借金を気にせずに日本製の自動車や電気製品を買い、日本経済は輸出主導の経済成長を遂げた。近年は中国が日本を上回る規模で米国債を購入しつつ、対米輸出を増やし、日本と同じ成長モデルで高度成長を続けている。

 その「成長モデル」がもはや通じないということで、財務省さんたちはそう主張したいということのようだ。民主党の天下ではね、と。
 ははん、円高GOGOGOといった趣向かな。

 このまま対米中心の経済を続けるか、輸出先の多様化や内需の拡大などで経済構造を変えていくか。日本はどのような成長モデルを採るのか、長期的戦略の議論と選択が突きつけられる。

 背景は財務省の思惑だろう。
 政治家主導とうたってきた民主党の政権だが、予想通り財務省べったりになってきた。読売新聞記事「「脱・官僚依存」内閣中枢、進む財務省頼み」(参照)より。

 首相官邸ではこれまでも首相、官房長官、3人いる官房副長官のうち、衆院議員の事務担当秘書官には財務官僚が名を連ねるのが通例で、鳩山内閣も踏襲した。
 加えて、菅国家戦略相、菅氏と仙谷行政刷新相を補佐する古川元久内閣府副大臣、参院議員の松井官房副長官がそれぞれ独自に財務省職員を事務秘書官にした。いずれも財務省主流と言われる主計局経験者だ。
 また、菅氏と仙谷氏は秘書官と別に財務省の若手・中堅を1人ずつスタッフに起用。行政刷新会議は事務局次長も財務省の宮内豊氏が就き、事務局長で旧大蔵省OBの加藤秀樹氏、旧大蔵省出身の古川副大臣と合わせ、「石を投げれば財務省に当たる」と揶揄(やゆ)する声もある。

 政権は交代した。しかし、日本のヘッドクォーターに異状なし。親米政権であった自民党勢力を排して、天気晴朗なれど、波も高し。税収は減るだろうから、その分、重税がんばらないと。

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2009.10.05

科学と信仰は脳のなかでは同じ、あるいは極めて同じ

 科学と信仰は脳のなかでは同じらしいという研究の話が一日のニューズウィークに載っていた。「Fact Impact」(参照)である。リードは「New study of the brain shows that facts and beliefs are processed in exactly the same way(最新研究によれば、脳は事実と信仰をまったく同様に処理している)」というものだ。トマス・クーンの科学論以降の知識人にしてみれば、科学と非科学の差というものはなく、どちらも信仰の差であり、ようするにその知識集団の政治的差異に過ぎないというのはごく当たり前ことのようだが、かといって、現実社会にあって非科学と科学を一緒にするわけにもいかないので、社会的な便宜で線引きはしている。それでも、「極東ブログ:[書評]正しく知る地球温暖化(赤祖父俊一)」(参照)で扱った、微妙だけど決定的な問題というのは発生する。
 ニューズウィークのコラムのネタ元は、Plos Oneに掲載された脳機能研究「The Neural Correlates of Religious and Nonreligious Belief」(参照)である。全文が読めるので関心がある人は詳しく追ってみてもよいだろう。要は、カチコチの米国キリスト教徒に宗教的信念の命題を与えて判断させたときの脳の状況をfMRI(functional magnetic resonance imaging)を使って観察したものだ。この手の研究は盛んで、近年五万と出てくる印象がある。ああ、またかよという感じもある。
 該当研究の結論はシンプルといえばシンプルだが、口はばったいものがある。


Conclusions/Significance
While religious and nonreligious thinking differentially engage broad regions of the frontal, parietal, and medial temporal lobes, the difference between belief and disbelief appears to be content-independent. Our study compares religious thinking with ordinary cognition and, as such, constitutes a step toward developing a neuropsychology of religion. However, these findings may also further our understanding of how the brain accepts statements of all kinds to be valid descriptions of the world.

結論/重要性
信仰的思考と非信仰的思考は、前頭葉・頭頂葉・側頭葉中部の広域に異なる仕方で関連づけられているものの、信仰命題と非信仰命題は命題内容に依存していない。私たちは、宗教の神経心理学を形成すべく、信仰的思考と通常認識を比較している。しかしながら、世界についての各種確実記述を脳がどのように受容するかについてさらなる研究を要しているようだ。


 つまり、脳を見ても、「あー、こいついかれた宗教信者だろ」みたいなことはわからないというわけだ。
 ニューズウィークのコラムだとこう表現していた。

Our believing brains make no qualitative distinctions between the kinds of things you learn in a math textbook and the kinds of things you learn in Sunday school.

何かを信じ込む私たちの脳には、数学の教科書で学ぶことと、教会の日曜学校で学ぶ信仰との間に質的な違いはない。


 もっとも今回の研究も仔細に見ていくと、想起に関する部分が違っているともいえるが、これもまた解釈によるのではないか。いずれにせよ、現段階では、人間の脳の機能は、宗教と数学において、差はないだろうとはいえそうだし、科学哲学的にも似たような結論になっている。ある命題が非科学であるか科学であるかは、脳の機能として違いがあるかもしれないという研究は、たいした結論にはなりそうにもない。
 まあ、この話はその程度で、考えようによっては、くだらねー研究しているよな、で終わりでもよいのだが、ちょっと変なヒネリがある。ニューズウィークのコラムのほうで強調されているのだが、この研究の筆頭がサム・ハリス(Sam Harris)というところだ。
cover
The End of Faith:
Religion, Terror,
and the Future
of Reason
Sam Harris
 サム・ハリスは米国では話題になった「The End of Faith: Religion, Terror, and the Future of Reason」(参照)の著者で、攻撃的な無神論者としても知られている。同書の内容については、アマゾンの読者評が微妙に参考になるかもしれない。

宗教紛争の先にあるもの, 2006/8/13
By risei "Risei Goto" - レビューをすべて見る
このレビューの引用元: End of Faith: Religion, Terror, And the Future of Reason (ペーパーバック)

おもにキリスト教、イスラム教、ユダヤ教について、信仰(宗教的信念)と紛争等の社会問題との関わりを斬新な切り口で分析。多くの宗教(特にイスラム教)が排他的で本質的に危険であり、妄信的信仰が人々を残虐な行為に導く力と大量殺人兵器の存在により文明は存亡の危機に瀕している、と指摘。信仰について非合理性が黙認され、宗教について合理的な批判、議論を行うことさえタブーとされる現状打破の必要性を訴える。更に既存の宗教を超えた、理性、精神、倫理の探求による世界観確立の可能性を仮説として提示、その必要性を主張する。具体策はないものの、自由な議論を基礎とした全世界規模での文明社会構築の理想を提示、脳や精神に関する科学の進歩がそれを後押しすることを示唆し、人の幸せ、苦悩を基点とした普遍的倫理観の確立、東洋の無我の概念の普及による排他的価値観からの独立の可能性を議論。著者が様々な領域の考え方をうまく纏めた枠組みは斬新で明快。各論(捕虜にたいする拷問の正当化、Gandhiら平和主義者への倫理批判など)については賛否両論あるかと思われる。また残念なのは文章は難解で構成も纏まりがなく完成度が低いこと。ベストセラーになったので結果オーライなのであろうが編集者は何をしていたのか。。。中東での宗教紛争の理解の足しになればと思い読んだ本だが、米国人の28%しか進化論を信じておらず、72%もが天使の存在を信じている現状、宗教による社会断絶の深刻さに危機感を抱かずにはいられない。米国の一部知識人の先進的視点として参考になった一冊である。2004年初版のベストセラーであるが、まだ(2006年8月)日本語に翻訳されていないのは内容の過激さゆえか。。。


 その後も同書が翻訳されたかどうか私も知らないが、サム・ハリスについては、日本では、リチャード・ドーキンスの「神は妄想である―宗教との決別」(参照)に称賛の言及があり、その文脈で若干知られてる。
 ただこのヒネリが微妙でもあるは、サム・ハリスは無神論者というよりは、仏教徒に近いからだ。ウィキペディアを鵜呑みにするのは危険だが、同項目(参照)は概ね端的に参考になるだろう。

Spirituality
Harris wishes to recapture spirituality for the domain of human reason. He draws inspiration from the practices of Eastern religion, in particular that of meditation, as described principally by Hindu and Buddhist practitioners. By paying close attention to moment-to-moment conscious experience, Harris suggests, it is possible to make our sense of "self" vanish and thereby uncover a new state of personal well-being. Moreover, Harris argues that such states of mind should be subjected to formal scientific investigation, without incorporating the myth and superstition that often accompanies meditation in the religious context. "There is clearly no greater obstacle to a truly empirical approach to spiritual experience than our current beliefs about God," he writes.[7]p. 214

霊性
ハリスは、霊性を人間理性の領域に回復したいと願っている。彼は東洋宗教の実践、特に瞑想の修行から啓発され、ヒンズー教・仏教の実践者と自認している。刻々たる意識経験への注視により、ハリスは、無我の境地に至り、新たに健全な個我が現れると言う。さらに、ハリスは、意識状態は厳格な科学調査の対象となるものであり、しばしば特定宗教の瞑想に付きまとう神話や迷信なしで達成できると主張している。彼によれば「現在の人類の神への信仰が、霊性研究を真に科学的なものする最大の障害になっている」とのこと。


 仏教は科学だ、幸福は科学になるといった香ばしい香りが、サム・ハリスから漂っているようでもあるが、どうだろうか。そういえば先のアマゾン評も、この文脈に接近しているようにも読める。
 どうやら、今回のハリスの研究もこの確信の一端のようだ。ニューズウィークのコラムのほうが理性的にヒネリすぎた。科学から非科学をバッシングする人の霊性っていうのは、なんだか普通に常識を逸脱しているようにも思える。そもそも非科学への過激な非寛容さ自体、あまり常識的ではないのかもしれない。

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