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2009.09.26

NHK朝ドラ つばさ

 今朝の156回でNHK連続テレビ小説「つばさ」が終わった。正確にいうと、総集編が12月に新カットを含めて計1時間ほどで放映されるらしい。その時間枠で統一感をもってまとめるのは難しいのではないかなと懸念するが、たぶんそれも私は見るだろう。

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つばさ
連続テレビ小説
ドラマ・ガイド
戸田山雅司
 テレビ嫌いの自分が2009年3月30日から同年9月26日まで毎日ドラマなんてよく見たものだと思う。朝ドラを見通したのは「ちゅらさん」以降のことではないか(ところどころ抜けもあったが)。総時間にすると39時間。全3ボックスのDVD(BOX IBOX II)も販売されるようだ。映像の作りとしても特徴的なので意外と売れ、後から再評価されるのではないか。
 「つばさ」は傑作だった。よくこれだけの作品を作り上げたものだなと呆れるほどだった。
 率直に言えば、諸手を挙げてまで絶賛ということはない。私は個人的にアンジェラ・アキが好きではないので主題歌は閉口したし(しかしそのメロディをギターで聴いたときは感動したし、歌詞もすばらしいものだった)、ストーリーのディテールに疑問を残した部分もある。テーマでも今一つ受け入れがたい部分もあった。演技にも部分的には多少の違和感もあった。しかし、そうしたことは一切作品の欠点とはいえない。
 当初この朝ドラを見ようと思ったのは川越が舞台だからだ。川越には個人的に青春の思い出がある。それと、予告編などに見える斬新な映像に心惹かれたからだ。
 物語の設定は、川越の蔵造り家屋の老舗和菓子屋「甘玉堂」である。NHKの朝ドラにありがちなご当地ものと言ってよい。店は家族と菓子職人で経営されているが、20歳の主人公玉木つばさの母(玉木加乃子:高畑淳子)は10年前に家出し、店は吉行和子が演じる祖母玉木千代が仕切り、和菓子作りは風采の上がらない婿(玉木竹雄:中村梅雀)が担っている。
 話は、実際上の主人公と言える高畑淳子演じる玉木加乃子が借金を抱えて帰宅した春から始まる(そして母の失われた青春の治癒を象徴する「二度目の春」で物語は終わる)。借金といえば店は店でも巨額を抱えていたので、蔵造り家屋を精算し、小さな家屋の「甘玉堂」に引っ越し、主人公つばさも職を求めて、コミュニティー・ラジオ放送局「ラジオぽてと」の立ち上げから運営に関わるようになる。
 登場人物は、「甘玉堂」にまつわる人々、「ラジオぽてと」の人々、また、つばさの個人的な交友の3つの圏がある。物語は、その一人一人が負った過去とそれにつながる今の苦しみを、あたかもクリスマス・カレンダーの扉を一つずつ開けるように展開していく。週ごとの挿話の背景には、全体の縦糸として、つばさの恋愛と、母と祖母の確執のストーリーが展開する。
 この物語が私の心を掴んだのは、「この物語こそ、私の世代の物語だ」という痛烈なメッセージを各所に読んだからだ。母、玉木加乃子は、設定では52歳くらいであろうか。父、玉木竹雄も同い年くらい。つまり、私の年である。ラジオを親身に聞くというカルチャーも実際には私の世代でほぼ最後であろう。私の時代の青春の不燃焼、それを引きずる30代から40代の精神的な嵐。社会の時代としてバブル前からバブルの終わり。そうした時代の暗黙の前提が、随所に自然に読み込めた。私の世代のアイドルであった手塚理美や斉藤由貴が、大人の女性として振る舞う姿は、それだけで胸にじんと来るものがあった。
 逆に言えば、私の上の世代、つまり団塊世代やさらにその上の戦後世代、また、私の下の新人類世代の人々には、この物語のもつ、特殊な時代的なメッセージは薄められるのかもしれない。作成側もそれを補うべく意図しているだろうが、むしろ、その時代的メッセージを最後まで曖昧にしていなかったことに、賛辞を送りたい。ありがとう、私の世代の物語を。
 演出は斬新であることから、お茶の間での反発も大きかったようだ。視聴率も今一つ伸びなかったとも聞く。たしかに、おっさん姿のラジオの精霊(イッセー尾形)が登場したり、ちゃぶ台でビキニ姿の女性がサンバを踊ったりという非日常性への表層的な違和感はやむを得ない。洒落や演劇がわからない人がいるなあとも思わない。これは演出的な効果ではなく、作品にとっての必然だったのだから。
 朝ドラという枠で作られていることから、特段に難しい話があるわけでもないので、小難しい評論めいた話をしたいわけではないが、私にはこの作品のテーマはかなり明瞭だった。「つばさ」が暗示するように、「天使」の物語だった。
 古代の人々にとって天には層をなす天界があり、地と天は、天使たちによってつなぎ止められていた。地の人々の関係も、アブラムに寄り添うように天使が導くものだった。「人と人とを結ぶ」天使の愛は、昨今のキーワードでもあるがfraternity(友愛)そのものであり、友愛が元来結社の連帯であるように、「ラジオぽてと」という友愛の結社が描かれた。ラジオの電波は、友愛の革命軍がまず占拠すべき対象だった。
 この物語には悪も悪人も存在しない。誰もが仮託できるような浅薄な正義もない。しかし、悲劇と、結果的には人を深淵に陥れる「悪の力」は、描かれていた。「悪の力」なくして人は個性化できず、個性化なくしては友愛もない。ユングが説いたとおりともいえるが、それが日本のお茶の間に、日本人の普通の生き方として描かれるのは感動的だった。
 「悪の力」はそれ自体では悪ではない。それは死者が我々と隔絶したにも関わらず生存者は死者を内包しながら、どうしようもなく失われたものとしてしか存在できないところに(また死者たちも生者から隔絶して存在せざるをえない懊悩に)、「悪の力」は働く。いや、「悪の力」というより、それ自体がただ「生の力」として歓喜を呼ばなくてはならないなにかだ。
 作者がそうした、小難しいスキームを想定したとは到底思えないが、その歓喜の直感は正鵠で、ところどころにサンバとして、また暴走するトロッコとして描かれた。映像的にもうまく川越という古都の風景の力と調和させていた。死者たちが天使の力によってこの世で踊る姿は、生というものの歓喜をうまく捉えていた(死者真瀬千波のダンスはその最たるものだった)。
 平成生まれの多部未華子はよく演じていたと思う。一回だけ「ラジオぽてと」のある川越キネマの屋上でバレエのように踊るシーンがあり、その動きは美しかった。半年たらずのドラマだったが、彼女は、最初のころと終わりのころで面立ちが変わった。ドラマを演じることで、少女の顔が女優の顔になった。それだけでも、すごいものを見ちゃったなと思った。

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2009.09.25

オバマ大統領の言う、核兵器なき世界の実現にともなう困難に幻想を抱かないということ

 米国時間の24日、国連安全保障理事会議長国である米国のオバマ大統領が提案した首脳級特別会合で、核兵器のない世界を目指す決議案が全会一致で採択された。演説冒頭、オバマ大統領は「核兵器なき世界の実現にともなう困難については、なんら幻想を抱いていない(We harbor no illusions about the difficulty of bringing about a world without nuclear weapons.)」と述べた(参照)。核兵器なき世界に幻想を持つべきでもないし、それは非常な困難を伴うらしい。さて、どんだけ?
 ニューズウィーク国際版副編集長ジョナサン・テッパーマン(Jonathan Tepperman)氏の記事「Why Obama Should Learn to Love the Bomb(オバマはなぜ爆弾を愛するべきなのか)」(参照)が参考になる。同記事は日本版9・30日「核兵器廃絶は世界の平和を崩壊させる」にも微妙に掲載された。微妙な話はあとで。
 今回の安保理会合の採択のように核兵器廃絶は世界の人々の願いであり、その廃絶までは無理であるとしてもせめて核の拡散防止は重要ではないか、と普通考えるものだ。しかし、同記事では、その前提は違うかもしれないとしている。突飛な疑念ではない。


 核兵器が世界を危険なものにしているとは限らない---今ではそう示唆する研究が増えている。むしろ核兵器は世界をより安全な場所にしている可能性がある。
 (中略)
 オバマの理想主義的な訴えが実現する可能性は低い。本気で世界をもっと安全にしたいのなら、米政府にはもっと重要で実行可能な(あるいは実行すべき)措置がある。「核なき世界」という理想論は非現実的であり、ことによると望ましい目標でもない。

 核兵器の存在が世界の平和に役立つという研究は、2つの経験則に基づいている。(1)1945年以降一度も使用されていない、(2)核兵器保有国間では通常の戦争すらなかった。
 この経験則、あるいは歴史はどのように説明付けられるのか。核兵器が世界和平和に貢献しているとみなす学者にそれほど難しい理屈があるわけではない。核兵器を持つ双方の国はそれによって勝利する見込みもないし、そのわりに被害や失うものが大きすぎる、という、よく言われてきた程度のお話にすぎない。しかしそうはいっても、インドとパキスタンが核を保有するようになってから両国がそれなりに平和的な関係になったという事実は、多分にそのお話に真実味を与えてしまう。
 狂気の独裁者に支配された核保有国はどうか。同記事では、それでも最終的に理性が働くだろうとしている。そこまでくるとホントかねとは思うし、オバマ大統領の理想論と同程度の非現実性が感じられなくもない。
 核拡散やテロリストに核兵器が渡る危険性はどうか。同記事はあっさりとそれも少ないとしている。保有国にしてみれば、核兵器は国の宝であり、しかも核兵器というものは扱いづらいからだというのだ。その話も、私などは疑問符が付くが、まったく不合理な説明というものでもないだろう。
 結局、核兵器と世界の現実というのはどうなのか。
 同記事の議論は楽観的に過ぎるとしても、「オバマは世界に核廃絶を訴えているが、この試みが挫折するのは目に見えている(Still, it's worth keeping in mind as Obama coaxes the world toward nuclear disarmament—especially because he's destined to fail.)」という同記事の指摘は、残念ながら、ただの現実だろう。というのも、米国の口舌はさておくとしても、ロシアも中国も核放棄の意思なんかない。むしろ非核兵器によって軍事的優位が保てるという米国の戦略上の演出者であるオバマ大統領に対して、「それなら旧兵器の核兵器でがんばるしかないよ」という態度だ。近く天安門広場でもその手の核兵器を全世界の人が品評することになる。それに加えて北朝鮮を初め、疑惑のミャンマーを含め、途上国も核兵器による武装を望んでいる。
 現実問題として途上国に核兵器保有の意思をもたせないようにしないなら、「核の傘」を提示するしかない。オバマ政権の外交を担うクリントン米国務長官は7月、タイ、プーケットで開催された東南アジア諸国連合(ASEAN)地域フォーラム(ARF)で、イランが核保有するなら、米国は中東地域に「核の傘」を提供し、湾岸域の軍事力を増強すると言明している(参照)。核兵器廃絶をうたいあげるオバマ大統領と、核の傘を提供してもよとするクリントン米国務長官に矛盾はないはずで、一体全体、どう矛盾がないのかを理解することが米国を理解するということだし、現実の世界を認識することだ。
 ところで。
 米国による「核の傘」の話は、ニューズウィークの記事でも言及されている。日本版の翻訳はこう。

しかし、急激な核拡散は考えにくい。ヒラリー・クリントン米国務長官は最近、イランが核保有国になれば、アメリカの「核の傘」を中東に広げると示唆したばかりだ。

 該当するオリジナル記事は、たぶん、ここなんだろう。

But the risks of a rapid spread are low, especially given Secretary of State Hillary Clinton's recent suggestion that the United States would extend a nuclear umbrella over the region, as Washington has over South Korea and Japan, if Iran does complete a bomb.

米国政府が韓国と日本を「核の傘」で覆っているように、米国がこの地域に「核の傘」を延長するとヒラリー・クリントン米国務長官が示唆していることを特段に考慮するなら、イランが核爆弾を完成させたとしても、急速な核拡散のリスクは低い。


 日本版ニューズウィークの記事では、日本と韓国を覆う米国による「核の傘」の部分の訳が抜けている。ちょっとした訳抜けをしてしまうという点で人を責められたものではないが、日本版で日本の話がうまい具合に微妙に抜けているのは、どうなんだろうか。Newsweek本誌編集部も日本版の記事については、もう少しモニターしたほうがいいかもと思えるような記事が増えた印象もあるし。

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2009.09.24

八ッ場ダム問題、雑感

 八ッ場ダムは必要か。都民としてそう問われるなら、私は不要だと思う。そう思う理由は、小河内ダム(参照)がほぼ不要になっていると言ってもよい現状を知っているからだ。
 もちろん水源の問題は都民に限定されない。とりあえず都民ということで言うにすぎないが、都民の水の八割以上は利根川水系に拠っている。ここに至るまで「東京サバク」時代などを挟みいろいろ難しい経緯があったが、現在はよい解決を得ている。
 小河内ダムは、水道専用として竣工時世界最大規模の貯水池をなす、東京市から東京都へ戦争を挟んで推進された国家プロジェクトだった。だが、よって、比較的に短期間に重要性を失った。さらに経済成長の低迷と少子化、農業の衰退が水需要の低下に追い打ちをかけた。
 小河内ダムの意味がそれでまったくなくなったわけではない。東京渇水時の水瓶としての意味はある。ただ、そうしたバックアップ体勢を更に必要とするかといえば、現状を見て、そうだとは言い難い。
 同水系の水需要の想定が低いことは、小泉政権下の国土交通省が2015年度までの長期的な水需給計画の見直し試算で明らかにし、2003年には戸倉ダムが中止された。ただし、この決定は、それに一か月先だつ、八ッ場ダムと湯西川ダムの総事業費見通し倍増とバーターになっていた。むしろ、八ッ場ダムのために戸倉ダムが中止されたと見ることもできる。が、その必要性はこの経緯から見ても水需要とは言い難い。
 治水としてはどうか。八ッ場ダムはもともと1947年キャサリン(カスリーン)台風による利根川決壊で多くの水害者を出したことに端を発している。しかし、2007年の台風9号は利根川治水計画が想定する100年に1度の雨量だったが、現体制で問題がなかった。おそらく利根川水系の治水面でも問題はないだろうし、それを越える想定が八ッ場ダムに含まれているというものでもないだろう。あるいはそうではないのなら、その想定がアピールされてもよいだろう。ブラックスワンこそ歴史を変えるものだ。
 八ッ場ダムはやはり不要なのだろうし、現在ならそうした策定をしても意味はないだろう。八ッ場ダムの問題は、それが必要か不要かという問題ではない。現状まで進んできた八ッ場ダム建設をどう扱うのかということだ。単純に考えれば、不要なものは無くせということになるだろう。そして不要なものに費やす税金は無駄だということになる。
 しかし、中止のために必要となるコストも発生する。コスト面でいうなら、「出社が楽しい経済学(吉本佳生, NHK「出社が楽しい経済学」制作班)」(参照)でも解説していたが、サンクコスト(参照)は無視して、今後のコストが問題になる。昨日の毎日新聞社説「鳩山政権の課題 八ッ場ダム中止 時代錯誤正す「象徴」に」(参照)では、関連コストについてこう述べていた。


すでに約3200億円を投じており、計画通りならあと約1400億円で完成する。中止の場合は、自治体の負担金約2000億円の返還を迫られ、770億円の生活再建関連事業も必要になるだろう。ダム完成後の維持費(年間10億円弱)を差し引いても数百億円高くつく。単純に考えれば、このまま工事を進めた方が得である。

 読み方は二通りある。一つは単純にコスト面で考えるなら中止しないという決断が経済的に合理的だということ。それでも中止するなら、経済面を越えた合理性を政府は提示する必要があるだろう。
 二つ目は、1400億円で完成という計画が疑わしく、経済面でも中止のほうが安上がりになるという主張だ。ネットなのでそうした主張も散見しないわけでもないのだが、その理由は過去の予算のでたらめを述べるだけのものが多く、サンクコストと同じく未来に向けての合理な説明にはなっていない。つまり、シーリングを設定しても1400億円では完成しないというなら、その合理的な試算をやはり明示する必要があるだろう。
 まとめると、経済面を越えた合理性も、またコスト面で妥当な再試算もない現状、コスト面のみから判断からすれば、八ッ場ダム中止の経済合理的な説明はないといえる。
 また実際の地域住民側からもまとまった中止の要望は現時点では出ていない。経済的にも得だし、関連地域住民の合意の歴史があるのに、ここであえて八ッ場ダム建設を覆す合理性は見いだしがたい。
 該当毎日新聞社説はしかし、この先にこういう反論を加えていた。

 だが、八ッ場だけの損得を論じても意味はない。全国で計画・建設中の約140のダムをはじめ、多くの公共事業を洗い直し、そこに組み込まれた利権構造の解体に不可欠な社会的コストと考えるべきなのだ。「ダム完成を前提にしてきた生活を脅かす」という住民の不安に最大限応えるべく多額の補償も必要になるが、それも時代錯誤のツケと言える。高くつけばつくほど、二度と過ちは犯さないものである。

 「八ッ場だけの損得を論じても意味はない」というなら、損得が明瞭な無駄なダムの中止から着手すべきだろう。また、「そこに組み込まれた利権構造の解体に不可欠な社会的コスト」が問題だというなら、利権構造を巧妙に迂回して献金を得ていた民主党代議士のお膝元から、身を切るかたちでダムを停止するほうがより、国民が納得しやすい象徴としての意味合いが強まるだろう。
 八ッ場ダムの問題が混迷しているかに見えるのは、その賛成・反対を、単純に、右派左派のイデオロギーに還元する短絡した枠組みもあるからだ。しかし、もともと八ッ場ダム闘争は成田闘争など安保反対闘争という懐かしの昭和時代の歴史の文脈にあったもので、イデオロギー的な枠組みこそ最古の枠組みかもしれない。とはいえ、その成田闘争では熱田派には柔軟な視点もあった。「「成田の将来」模索の動き 熱田派が地域振興にも視点」(読売新聞1992.9.27)より。

 激しい対立を繰り返してきた空港反対派農民と国との公開討論で生まれた話し合いの機運は「成田」を取り巻く状況を大きく変えた。特に、ここにきて、熱田派を含めた地域住民らに、「成田」の将来について主体的に考える動きが出始めたことが注目される。
 この夏、熱田派の主要メンバー十数人は群馬県長野原町の八ッ場ダムの建設予定地を訪ねた。予定地にある川原湯温泉はダム完成時に湖底に沈む運命で、住民による約四十年にわたる反対運動を乗り越え、今年ようやく用地補償調査協定にたどり着いた歴史を持つ。現在、地域の人たちが温泉街の移転再建計画作りに取り組んでいる。同メンバーらの訪問は、川原湯温泉の人たちの活動を学び、熱田派が練る地域再建構想に役立たせることができないものかと、行われた。
 メンバーたちは、リゾートタウンとして温泉街を再生させることを夢見る旅館経営者の話に熱心に聞き入り、現地を視察した。あるメンバーは、「空港とダムという違いはあるが、長期にわたる地域再建事業に取り組む点では共通している」と共感を示した。

 17年前のことである。現在ではその前提が変わっている。問題は、イデオロギー対立よりも、ダム建設の賛否の行方よりも、この間の歴史に犠牲された住民の視点が根幹に置くかだ。
 八ッ場ダムの問題が、経済合理性を越えての政治判断であるなら、住民視点が最初に考慮されるべきであり、住民側を敵視したり、中止反対派を揶揄・罵倒していく「闘争」はなんらよい解決を産まないだろう。幸い、前原誠司国交相は「地元住民や関係都県、利水者などの理解を得るまでは特定多目的ダム法の基本計画の廃止に関する法律上の手続きを始めることはしない」(参照)と強行姿勢回避を明示しており、慌てず住民との対話を深めていく過程を見守りたい。

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2009.09.22

フィナンシャルタイムズが政権ギャンブルの後で語ったこと

 日本に一か八かのギャンブルを勧めた英国高級紙フィナンシャルタイムズは予想通りの結果が出てどんな感想を洩らすか。民主党政権が成立しての同紙17日付け社説「A steady start for Tokyo’s new rulers(日本新政権の着実なスタート)」(参照)は、ねじくれて曖昧ながらも、考えさせられる意見を述べていた。
 冒頭、いわゆる米国的な鳩山政権イメージを覆し、米国要人を沸騰させた鳩山NYT論文も軽くいなした。


Yukio Hatoyama’s Democrats have barely been in office 24 hours. Yet already they have been painted by some as madcap socialists and by others as merely more of the same. Neither is true.

鳩山由紀夫の民主党は政権を掌握してまだ一日。政権は無鉄砲な社会主義者と見られたり、以前の自民党と変わらぬ勢力とによる見られている。どちらも、間違いだ。

Mr Hatoyama’s essay on “market fundamentalism” has caused consternation in some Washington circles, where it has been received as evidence of Japan’s sharp turn to the left. But that essay was primarily for a domestic audience. It articulated many of the concerns about globalisation’s side effects that helped sweep the DPJ into power. José Manuel Barroso, European Commission president, found nothing in it that did not tally with European views on properly regulated markets.

鳩山氏による市場原理主義とやらの論文は、米国政府要人を恐怖に陥れた。日本が左翼政権に急激に転換した証拠と受け止められたからだ。しかし、あれは国内ポーズにすぎない。グローバリズムの問題点に関心を向けさせ、民主党を政権に就けさせるためのものだ。ジョゼ・マヌエル・ドゥラン・バローゾ欧州委員会委員長ですら鳩山氏の見解から、適切な市場規制のEU見解に反するものを見いだすことはできなかった。


 懸案の沖縄問題もだが、そんなの日米間でなんとかしろよと突き放す。

Mr Hatoyama’s remarks on US-Japan ties have more potential to cause tension. His new foreign minister has declared that revising plans for relocating a US base in Okinawa is a high priority. Still, this is an issue that the two countries should be able to manage.

鳩山発言は日米関係により潜在的な緊張をもたらす。この内閣の外務大臣は普天間基地移設見直しを優先課題にうたいあげている。とはいえ、こうした問題は二国間で対処可能である。


 かくしてフィナンシャルタイムズは民主党政権成立を冷ややかに擁護していくのだが、ここは間違いだろう。

Nor is the DPJ merely the Liberal Democratic party in disguise. Many of the party’s heavyweights are LDP defectors, but behind them at least two-thirds of MPs are fresh-faced, some elected for the first time, with a more modern social agenda. True, the DPJ has not coalesced around a coherent ideology. Yet, as Mr Hatoyama says, taking over after half a century of one-party rule is bound to involve trial and error.

民主党は偽装された自民党ではない。たしかに同党の重鎮は自民党出身者だが、新顔は少なくとも党の三分の二はいるし、新人もいる。彼らは時代に適した社会政策を持っている。民主党に一貫したイデオロギーなど存在していない。鳩山氏が言うように、半世紀も自民党という一党支配が続いてきたのだから、なにかと試行錯誤はあるものだ。


 自民党出の重鎮たちには新顔の試行錯誤は困りものだ。この時点でフィナンシャルタイムズは予想できなかっただろうが、民主党新顔たちが勝手に国会議員活動をしないように、すでに小沢大明神名義の通達で、党内規制としてだが、議員立法すら原則禁止にしている。これ、当初、偽文書かと思ったがそうでもなさそうだ。

2009年9月18日
 民主党・会派所属国会議員各位 関係 各位
 政府・与党一元化における政策の決定について
 幹事長 小沢一郎

 日々の党務ご精励に敬意を表し、感謝申し上げます。
 鳩山政権発足にあたり、政府・与党一元化における政策の決定について、別紙の通りとすることといたしましたのでご報告申し上げます。
 議員各位におかれましては、必ずお目通しをいただきますようお願いいたします。
 (別紙)
 1.民主党「次の内閣」を中心とする政策調査会の機能は、全て政府(=内閣)に移行する。
  ①一般行政に関する議論と決定は、政府で行う。従って、それに係る法律案の提出は内閣の責任で政府提案として行う。
(後略)


 民主党議員は「たまに立ったり座ったりする簡単なお仕事です」。
 しかも内閣というか首相がさらなるヘマをしないように、民主党的には内閣より上位に「党首脳会議」(仮称)を設置する。9日付け読売新聞「民主「党首脳会議」新設へ、課題を一元判断」(参照)より。

 民主党は8日、新政権発足後の党の最高意思決定機関として、鳩山代表や小沢幹事長ら主要幹部で構成する「党首脳会議」(仮称)を設ける方針を固めた。
 党首脳会議では、国会対策や選挙対策など党運営に関するあらゆる課題について一元化して判断する。
 民主党では現在、鳩山代表、岡田幹事長、小沢、菅両代表代行、輿石東参院議員会長の5人による「三役懇談会」が事実上の最高意思決定機関となっている。これに対し、党首脳会議は代表、幹事長、政調会長(副総理兼国家戦略相)、参院議員会長、国会対策委員長の5人で発足する予定だ。鳩山代表が内定した人事に当てはめると、鳩山、小沢、菅、輿石の4氏に新たな国対委員長が加わる形となる。

 これで岡田グループを外して新人を一元化し、多数の支持を得た前衛党が国家を運営するという、東アジアに即した政治体制ができあがる。正式設置後の名称はこの分野の先進国にちなんで「常務委員会」だろう。
 フィナンシャルタイムズ社説は冒頭、民主党はベタな社会主義者でも自民党もどきでもないとした。では何だったか。ここが非常に示唆深い。

There is a third hypothesis about the new government: that it will sweep away the postwar consensus and unleash faster growth. That is probably the most deluded of all given Japan’s structural problems.

新政権についての第三の仮説:同政権は戦後合意(the postwar consensus)をぬぐい去り、迅速な経済成長(faster growth)を促進させること。
それは、現存の日本の社会問題全般からすると、ついそう思いたくなることの筆頭だ。

If the DPJ has a coherent philosophy it is to better reconcile market forces with social cohesiveness in the context of China’s rise and Japan’s gradual decline. If it pursues that agenda, many foreign commentators will consider it a failure. But many Japanese would count it a success.

もし民主党が一貫した政治哲学を持っているなら、成長する中国と徐々に衰退していく日本という国際環境を背景に、市場圧力(market forces)と社会的結束(social cohesiveness)を調停しようとするのが賢明だ。その政策を追求するなら、海外の評価としては失敗と見なすだろうが、日本人の多くはそれを成功と見なすだろう。


 単純な英語の読み違えもあるかもしれないが、原文そのもののロジックがわかりづらい。私が大きく読み外しているかもしれないが、自分なりに受け止めたところを書いておこう。
 フィナンシャルタイムズは、民主党について、「戦後合意(the postwar consensus)をぬぐい去り、迅速な経済成長(faster growth)を促進させる」べきだと見なしている。しかし、そうならないだろうという含みもある。
 「迅速な経済成長(faster growth)」はわかりやすいが、「戦後合意(the postwar consensus)」はわかりづらい。冷戦構造における日本の役割を指しているのだろう。第二次世界大戦後、共産主義国化を食い止める橋頭堡にして世界の工場であった日本に、もうその役割を終えたらどうかねと。自民党はもともとは冷戦構造で米国が作り上げた政党でもあった。
 民主党に一貫した政治思想があれば、とフィナンシャルタイムズはいうのだが、実際のところ民主党にはそれは存在していない。しかし、あるとするなら、「市場圧力(market forces)」と「社会的結束(social cohesiveness)」を調停しようとするだろうというのだが、これらは何か。
 前者はグローバル経済を志向した規制緩和だろうし、後者は、いわゆる日本らしさということだろう。日本らしさには、国旗だの国歌などで萌える右派バージョンと、友愛だの格差解消などで萌える左派バージョンがある。どちらも同じ復古的なナショナリズムにすぎない。少子化解消も国家を盛り立てる国家主義だが右派左派も諸手で賛同している。
 グローバリズムに対する右派左派のナショナリズムと成長路線という対立二項を、対中国という文脈でどう調停するのか。中国に日本の政治・経済を開きつつ、かつどうやって日本らしさを失わないようにするか。
 それがうまく行けばそれを日本人は成功と見なすだろうとフィナンシャルタイムズは指摘しているようだが、その時、対外的には批判を浴びるだろうとも予言している。
 対外的に非難を浴びても、日本が親中国政策を取ることが賢明だろうとフィナンシャルタイムズはいいたいのだろうか。それを本当に日本社会が成功とみなすかと問われるなら、ご冗談でしょという気もするのだが。

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2009.09.21

国家戦略局の迷走の先にあるもの

 事態の推移が激しいので、拙速感は否めないが現状でメモしておかないと後に出現する懸念のあるモンスターに戸惑うことにもなりそうだ。話は、民主党の国家戦略局を巡る、迷走とも言える現状とその背後の構図から、その先にあるものを少しだけだが想像してみたい。
 国家戦略局とは何か。それは何をするためのものなのか。表向きの、しかし曖昧な説明はいろいろとある。明確なのは、タメの議論をあげつらうわけではないが、ご当人達がよくわかっていないということだ。国家戦略局と財務省のどちらが、予算に対する決定権を持つか、まるでわからない。
 そのことを18日の産経記事「【新・民主党解剖】第1部(4) 海図なき船出 「すべてこれから」の戦略局」(参照)では、必ずしも正確な報道ではないだろうが、こうコミカルに伝えている。


 首相直属で予算の骨格を決める国家戦略局の前身「国家戦略室」と、行政の無駄遣いを洗い出す「行政刷新会議」。両組織が入居する内閣府本庁2階ではこの日午後、それぞれのトップの菅直人副総理・国家戦略担当相と仙谷由人行政刷新担当相が、鳩山由紀夫首相とともに感慨深げな表情で看板の除幕式に臨んだ。
 「国家戦略局は財務省より強いんだろ?」。今月上旬、担当相に内定していた菅氏に、与党幹部からこんな問い合わせがあった。菅氏はこう率直に答えた。
 「よく分からないんだ。あれもやりたいし、これもやりたい。手探りでやっていくしかない」
 鳩山首相が戦略局構想を打ち出したのは今年5月の党代表選時だった。だが、その後具体像をまとめないまま衆院選に突入し、組織づくりはこれからなのだ。

 管氏を批判したいという意図ではないが、どうもご当人である管氏自身が「国家戦略室」の「予算の骨格を決める」業務を理解していない。
 しかも、ただの夢想家である。20日のNHK日曜討論の発言からも見えてくる。20日産経記事「菅副総理 複数年度予算を表明 “政治主導”後退の可能性」(参照)より。

 「英国は3年ぐらいのめどをたてて、最終的には単年度に落としていく複数年度の予算をやっている。こういう基本的な枠組みをまず考えたい」
 菅氏は20日、英国方式の本格的な複数年度予算に意欲を示した。

 同席していた藤井財務相も苦笑を浮かべていたようだ。話としては面白いし、とある国家の予算論としてなら興味深いとも言える。だが、日本は憲法第86条で「内閣は、毎会計年度の予算を作成し、国会に提出して、その審議を受け議決を経なければならない。」とされているため、管氏の主張である複数年度予算編成には憲法改正が必要になる。単純に言えば、管氏が憲法改正論をぶち上げたとは思えないので、国家戦略局の長にあるまじき失言か、「国家戦略局」という自身の長としての職務を理解できていなかったかのどちらかだろう。失言のほうがましなのだが、後者ではないか。
 こんな状況でよいのだろうかというなら、まったく問題はない。現状、法改正による権能規定を待つ「国家戦略局」ではなく、政令で設置した「国家戦略室」という準備段階の組織ということもあるが、当面のところ、国家戦略局は、実質なんら機能しないことも明らかになっているからだ。財務相との関係が影響している。19日時事記事「予算編成、財務省ペースに=国家戦略局、準備整わず」(参照)より。

 予算編成の主導権をめぐり、財務省と国家戦略局との間で綱引きが始まっている。民主党は当初、首相直属の国家戦略局が予算の大枠や重要施策を決定、財務省は査定などの実務を担う姿を想定していた。しかし、2009年度補正予算の一部執行停止では、財務省が具体化を進め、準備の整わない国家戦略局はほとんど関与していない。藤井裕久財務相は、10年度予算の基本方針も財務省が策定する意向を示しており、「政治主導」は早くも看板倒れの懸念が出ている。

 スケジュール的に見ても、09年度補正予算の執行停止に、組織の片鱗もない国家戦略局が関与することは不可能だと言ってもよい。問題はその後である。エントリの初めに提起したが、次年度において、「国家戦略局と財務省のどちらが、予算に対する決定権を持つか」ということだ。どうも財務省が持ちそうだ。

「予算の編成権はあくまで財務省にある。その大原則は何ら変わらない」。補正執行停止を決めた18日の閣議後会見で、藤井財務相は戦略局をけん制。戦略局は長期的な視点から助言する機関と強調した。

 「国家戦略局」というのは勇ましい名前ながら、財務省が意見を聞く国営シンクタンクということになる。財務省側ではすでに自民党政権から変わることなき円滑な運営を想定している。

 補正執行停止では、民主党の政策調査会の意向も踏まえ、財務省が具体案を練った。戦略局は閣議決定直前の「閣僚委員会」に菅直人副総理・国家戦略相が出席しただけ。財務省首脳は「今回の決定過程は非常に良かった。今後のモデルケースにしたい」と話し、10月初旬にも決定する10年度予算の基本方針も財務省が策定、閣僚委員会を経て閣議決定する「財務省主導」のプロセスを描く。

 当然ながら想定上は、10年度予算については、財務相と国家戦略局がガチンコでぶつかる可能性もある。ぶつかり具合は、同局の法的な権限と組織人員の背景で決まる。実際には、しかし、ガチンコというシーンはないだろう。では、国家戦略局と管氏はどういう位置づけになるのだろうか? 彼らは何をする書き割りなのか?
 その疑問はひとまず中断。
 見通しの背景として財務省と民主党政府の関係を見ておきたい。
 民主党政権が発足してみると、亀井金融・郵政問題担当大臣の大立ち回りで「いきなりクライマックスだぜ」の印象もあるが、ここでも藤井財務相を巡る軋轢がある。面白く描いた20日スポニチ記事「亀井金融相「藤井財務相の意見は聞くが協議ではない」」(参照)より。

 亀井静香金融・郵政改革担当相は20日のNHK番組で、中小企業向け融資の返済猶予制度をめぐり、藤井裕久財務相から慎重論が出たことに対し、新政権で財政と金融の担当大臣が分離したことを指摘した上で「私が財務大臣の知恵を借りながら責任を持ってやっていく」と述べ、制度導入を主体的に実施していく方針を強調した。
 亀井金融相は番組終了後、記者団に「(財務相らの)意見は聞くが、協議ではない。協議をして決めていく話ではない」と述べた。
 一方で、藤井財務相は同日、記者団に「経済が本当に悪くなれば、考える場合もありうるが、日銀はそういう状況と言っていない」として、実施に疑問を投げかけた。

 藤井財務相は18日時点でも警笛を鳴らしてもいた。19日の日経記事「債務返済猶予、藤井財務相は慎重」(参照)より。

 藤井裕久財務相は18日、閣議後の記者会見で、亀井静香郵政・金融担当相が中小・零細企業などの債務返済を3年間猶予する制度の導入を打ち出したことについて「昭和の金融恐慌のときにやったことがあるが、(今が)そういう状況なのか」と述べ、慎重な見方を示した。
 亀井金融相は就任後の記者会見などで、資金繰りに困った中小・零細企業や個人が借金の返済を3年程度、先送りできる制度をつくり、秋の臨時国会へ法案を提出する考えを表明した。財務相は「正式に聞いていない。そんな話になったら政府全体の問題だ」と指摘。政府として検討する段階にまだ入っていないとの認識を示した。

 重要なのは、亀井大臣の大立ち回りを藤井財務相が政府の問題と見なしていない点にある。別の言い方をすれば、経済に関する政府のグリップは藤井財務相が握ってますよ、ということだ。この騒ぎがどういう結末を見せるのか、実は亀井大臣はリフレ政策のためのダース・ヴェイダーで、よって、日本経済はマイルドインフレによって成長軌道に乗っためでたしとなるのか(なるわけねーよね)。常識的に考えれば、亀井大臣を抑えることになるのだが、さてそれは誰? 一見すると鳩山総理のようにも思えるが、そうでもないのかもしれない。
 予算をどうグリップするかについて、財務省と民主党の関係にアングルを絞ると、気になるのは、平成22年度予算編成を巡る、政権樹立前、7日に行われた、直嶋正行氏(当時民主党政調会長)と財務省・丹呉泰健事務次官による国会内会談だ。19日産経新聞「【新・民主党解剖(5)】したたか財務省 さっそく小沢シフト」(参照)より。

 丹呉氏「できるだけ早く新政権としての考え方を示していただかないと(年内編成は)日程的に苦しくなります」
 直嶋氏「かなり考え方が違うよね」
 タイムスケジュールを掲げ、予算編成基準を早く出すように促す丹呉氏。牽制する直嶋氏。予算に関する主導権をめぐる心理戦はこの時点から始まっていた。
 「君は小泉純一郎元首相の秘書官だったね。職務命令で務めただけならいい。だが、小泉構造改革を支持してやったのならば次官を辞めてくれ」
 組閣前、藤井氏はあいさつに訪れた丹呉氏にこう迫った。丹呉氏は「職責を務めただけで(小泉構造改革の是非は)関係ありません」とかわした。

 一見すると、財務省と民主党間には、なあなあではない緊張感が演出されている。産経の記事としてもそこをどう描くかは微妙なところだ。記事は、ここで細川連立政権時代のエピソードを語りだす。

 政権与党の経験がない民主党にあって、小沢氏は財務省を熟知する数少ない議員の一人だ。自民党を飛び出して樹立した細川連立政権で、小沢氏は大蔵省の斎藤次郎事務次官(当時)と組み、武村正義官房長官(同)の頭越しに税率7%の「国民福祉税」構想を推進した。小沢氏は当時、連立8党派の一つにすぎない新生党の代表幹事だったが、大蔵省は「真の権力者」を的確に見抜いていたのだ。

 産経記事の読みはこう続く。

 こんなエピソードもある。7月初旬、民主党の幹部会合。「子ども手当」の実施時期をめぐり、当初案通り平成24年度実施を主張する岡田克也幹事長(当時)と、来夏の参院選を考慮し、一年前倒しを求める鳩山代表らの間で議論は平行線をたどった。
 だが、最後は小沢氏の一言でケリが付いた。「財源は、政権を取ったら出てくるもんだ」。この言葉の裏側には、財務省を手兵にできるという自信があるとみるべきだろう。

 小沢氏が現在でも財務省をグリップできるという読みだ。たぶん、そうなのだろう。
 記事自体のオチはそれほど面白くはない。

 鳩山政権は、新設する首相直属の「国家戦略局」で予算の骨格を決める方針だが、予算編成権を手放したくない財務省は「骨抜き」に動く公算が大きい。財務省をどう手なずけ、政治主導を実現するのか。間合いを間違えば、「脱官僚」が看板倒れに終わりかねない。

 オチがいまひとつさえないは、産経が脱官僚の御旗で、民主党がどう財務省を手なづけるかという枠組みにしているからだ。おそらく事態は逆なのだろう。
 ストーリーのヒントは直嶋氏があからさまにした財務省・丹呉泰健事務次官の位置づけという伏線にある。つまり、「財務省は小泉政権とも協調していたが、今度は民主党と協調してくれるはずだよね」、ということを直嶋氏が言質を取ったに等しい。つまり、直嶋氏の裏にいる小沢氏と財務省側で明文化はされていなくても、ある合意が存在しているということだ。
 合意は両者のメリットにおいて成立する。それは何か?
 民主党が財務省に求めているのは、至極単純。「カネ出せ」 それだけ。
 財務省が求めているものが、単純には見えない。
 財務省が握っているカネや、あるいはカネにつながる権限ならば財務省は拒むだろう。巧妙なトラップや珍妙なトラップを仕掛けてくるだろう。
 しかし、カネの出所が財務省でなければ、財務省の焼け太りメリットが存在することになる。
 なんだろうか、そのカネ? 「極東ブログ:民主党マニフェストの財源論は清和政策研究会提言に似ているのではないか」(参照)で指摘しておいたが、言うまでもない、「離れですき焼き」である。
 では、どうやって「すき焼き代」を巻き上げるか。取り立て人は誰か……。もう明白な構図しか浮かんでこない。
 ということなのではないかと思ったが、またぞろ陰謀論と言われてもな、とためらっていたら、フォーサイト10月号白石均氏「財務省と手を握った民主党『脱官僚』の行方」にあっさり書かれていた。大蔵省を見ていたら普通に考えることですよね。

 財務省は民主党政権に協力する代わりに、政権のお墨付きをもらい、国家戦略局を隠れ蓑に、特別会計に鉈を振るう権限を手に入れる。一方民主党は、財務省の助けを借りて、厚生労働省などの特別会計の無駄を暴きたて、国民にアピールするポイントを稼ぎながら、同時に子ども手当などに必要な財源を捻出できる。ここで両者の利益は一致したのだ。

 正確に言うと、私の読みは少し違う。「すき焼き代」の召し上げ立ち回りは、財務省はやらないだろう。国家戦略局がオモテに出てきて、テレビのゴールデンタイムを使って正義を裁く。あっぱれ、今風大岡越前こと管直人大臣っ、となるのだろう。財務省の焼け太りは、むしろ財務省の抵抗を演出しながら進むのではないか。
 そんなにうまく行くものか? うまく行って、国民にとって悪いストーリーでもない。「政治主導」は偽装表示のようになるが、結果が良ければ、いいんじゃないか、なんてなるんだろうか。

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2009.09.20

[書評]アメリカ人が作った『Shall we dance?』(周防正行)

 『Shall we dance?』を巡る3本目のエントリ。最初は日米の映画とノベライズを扱った「極東ブログ:[書評]Shall we ダンス?(周防正行)」(参照)、2本目は昨日の「極東ブログ:[書評]『Shall we ダンス?』アメリカを行く(周防正行)」(参照)。本書は、『Shall we dance?』の米国版を巡る話。2005年、大田出版からの出版。文庫版はないもよう。

cover
アメリカ人が作った
『Shall we dance?』
周防正行
 前作に比べると、とにかく読んでおいていいんじゃないのという迫力は乏しく、文庫化されないかもしれない。また、前作時点では米国版リメークってあるの?という話があったのでこの本が出てきた。本書では次はブロードウェイのミュージカルかなとあるが、その話はあったのだろうか。なかったんじゃないかな。
 だとすると、これで日本映画『Shall we dance?』に端を発した周防正行監督の物語はここで終わることになる。その間、10年。そしてその時間はこの映画をきっかけとした周防監督とヒロイン草刈民代の結婚生活の歴史でもある。本書からもそのあたりの陰影が伺える。米国版の試写会後、草刈さんが涙するところ。

 ウソ……。なんで? 愕然とした。オリジナル観たときだって泣かなかったじゃないか。そんなによくできていたのか、このリメイク版は。ちょっとショックだった。思わずとがめるように口走っていた。
「泣くかよ、これで」
「違うの。まさちゃん、凄いって」
すみません。家では「まさちゃん」と呼ばれています。

 リチャード・ギアに草刈さんが声をかけられて。

草刈が、落ち着いて答える。
「どうもありがとうございます」
こういうとき民ちゃんは、相手が誰であろうと決して動じることがない。
すみません。家では「たみちゃん」と呼んでいます。

 今の時点からするとさらに4年が経過し、その現在に近いお二人のようすは、NHK「ワンダー×ワンダー」という枠だったと思うが、「シャル・ウィ・“ラスト” ダンス?」という番組で見た。NHKのドキュメンタリーでは、しかし、結婚から二、三年後は草刈さんが本当にバレエを止めてしまうのではないかと周防さんが思っていたと語っていたのが印象深かった。
 本書の「あとがきにかえて」がそうした10年の、重さのようなものを語っている。

 ようやくこの本の原稿を書き終えた深夜、僕はねぎらいの言葉が欲しくて草刈の部屋のドアをノックした。
「やっと終わったよ」
 そう言ってドアを開けると、草刈もまたパソコンに向かって原稿を書いていた。
 キーボードに手を置いたまま、眼鏡をかけた顔をモニターから上げると、草刈は僕を見て言った。
「オリジナルの監督がリメイク版について何か言うのって、カッコ悪くない?」
 僕は、その場に崩れ落ちるしかなかった。
(中略)
 それにしても、この人は直感的に本質的なことを看破するから恐ろしい。


 それでも僕は書いたのだ。
 なぜだ?
 僕は、映画『Shall we dance?』の旅をもうそろそろ終わらせるためにこの本を書いたのだ、と思う。

 周防監督は、「世界デビュー」を果たし、次作の最初の作品を米国の配給会社に見せるというファースト・ルック契約を結んだもの、その契約を果たすことはなかった。なぜか?

 それは、一本の企画も思いつかなかったからだ。
 これは、本当のことである。思いついていたら、この一〇年映画を作らないということはなかった。

 普通に考えれば、30代半ばから40代半ばへの、もっとも仕事の充実の時期に、本質が映画監督の人が映画を作らないということがあるのだろうか。
 あるだと思う。それが必要なこともあるのだろうと思う。ということを、本書で私は私なりにずっしりと感じた。そこに本書の独自の価値もあると思った。
 本書は、米国版『Shall we dance?』作成までのどたばた的紀行文、実際の撮影現場の興味深いエピソード、日本で映画を作る側から実際に米国での映画作成の現場を見たときに感じた思いなど、映画好きにはたまらないテクニカルな話もある。
 また、ここまで書くかなというくらい日米作品の比較を行っている。そしてその比較、あるいは批評は詳細にわたって面白いのだが、どこかしら違和感を残す部分がある。私はどちらかというと米国版のほうが好きなせいもあるだろう。
 ごく小さな挿話だが、ジェニファー・ロペスのスタンドイン(撮影前の代役)の女性の話は、周防さんが注目しているように興味深かった。米国版『Shall we dance?』はシカゴを想定して作成されているが、実際のロケはカナダのウィニペグで行われた。ジェニファー・ロペスのスタンドインの女性は現地で募集された。周防さんの付き添い役のケネディさんは彼女がチリ出身と聞いてたずねた。

 チリから若いときに来たというので、ケネディは、もしかしたら一九七三年にアジェンデが殺されたクーデターの関係で来たのかと思い、そう訊ねたら、彼女は「チリのこと知っているんですか」と驚き、事情を話してくれたそうだ。
 実は彼女の父親はクーデターのときに誘拐され二ヶ月後に殺されたという。父親は、アジェンデの親友で政府の要職に就いていたらしい。

 「ブラック・スワン」のタレブも似たような過去を語っていた。そういえば私はサマンサ・スミスの友だちだという人と対話したことがある。
 米国版『Shall we dance?』はカナダで、そしてスタッフの大半はイギリス人で作成された。それをもってグローバル化というものでもないと思うが、世界というのは、一見スクリーンの向こうにあるように見えながら、人が背負った世界の歴史として、不思議なネットワークをつなげているのかもしれない。

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