« 2009年8月9日 - 2009年8月15日 | トップページ | 2009年8月23日 - 2009年8月29日 »

2009.08.21

[書評]自由はどこまで可能か―リバタリアニズム入門(森村進)

 副題に「リバタリアニズム入門」とあるが本書「自由はどこまで可能か(森村進)」(参照)は、学術レベルに対する入門という意味合いで、内容はかなり濃く、いわゆる新書にありがちな入門書ではない。

cover
自由はどこまで可能か
リバタリアニズム入門
森村進
 後半になると著者森村氏の見解がやや突出する違和感があるが、総じて現代のリバタリアニズムを俯瞰して理解するには最善の書籍と言える。その分、簡単には読めない。不必要に難解な書き方も悪しき学術的な書き方もされてなく読みやすい文体なのだが、一見簡素な思想に見えるリバタリアニズムが投げかける本質的な課題を考えつつ読むことが難しい。
 何度も繰り返し読むに耐える書籍でもある。出版は2001年と古く、やや現代の古典といった風格もあり、この間のリバタリアニズム思想の展開も気になるところだが、とにかく本書を出発点にしないことには話にもならないだろう。
 リバタリアンとは何か。本書は、類似または対比される思想的立場との違いを次のようにチャート的にまず示している。ごく基本的な事項なので著者森村氏の分類で、確認の意味でまとめておきたい。

リベラル
精神的自由や政治的自由のようないわゆる「個人的自由」の尊重を説く一方、経済的活動の自由を重視せず経済活動への介入や規制や財の再配分を擁護する。
保守派(コンサバティブ)
個人的自由への介入を認めるが経済的自由は尊重する
リバタリアン
個人的自由も経済的自由も尊重する
権威主義者(オーソリテリアン)・人民主義者(ポピュリスト)
個人的自由も経済的自由も尊重しない
全体主義者
権威主義者(オーソリテリアン)・人民主義者(ポピュリスト)の極端な形態。ファシズムや共産主義。

 著者森村氏は日本の保守主義者について、伝統尊重を唱えグローバリズムや規制緩和の動きに反対する傾向があるとし、思想的には保守主義ではなく、権威主義者に近いとしている。
 さらに日本では、いわゆる左派も同様にグローバリズムや規制緩和の動きに反対する傾向が強く、同質の権威主義に見える。特に日本における、いわゆる左派の表層的には反ナショナリズム的な言動は、実際にはナショナリズムと等価になっている点について森村氏は、次のように明確に指摘している。

 政治思想におけるリバタリアニズムの大きな特徴の一つは、国家への人々の心情的・規範的同一化に徹底して反対するという個人主義的要素にある。リバタリアニズムの観点からすれば、国家や政府は諸個人の基本的権利を保護するといった道具的役割しか持たない。それ以上の価値を認めることは個人の自由だが、それを他人にまで強いるのは不当な介入である。国民的あるいは民族的なアイデンティティなるものが各個人にとってどのくらい大切か、社会にとってどのくらい有益かは一つの問題だが、ともかくその確立は政府の任務ではない。
 ところが今の日本では、ナショナリズムに一見反対している論者たちが戦争世代が戦争責任の引き受けることを主張するというねじれが見られる。しかしそれは日本人すべてに、戦前戦中後を通じた「日本人」という国民集団への人格的帰属を強いることになる。これこそ否定されるべきナショナリズムの一類型である。国が何らかの責任を負うからといって、国民が人格的な責任を負うということにはならない。

 日本の思想状況では、右派左派ともに独自の価値を社会に強いる権威主義ないしパターナリズム(paternalism)しかないようにも見える。特に「リベラル」が左派を意味しつつ、ねじれた形でのナショナリズムに転化した、思想的な倒錯とも言える状況において、リバタリアニズムは明確な補助線を引くことになる。森村氏もこの状況に原理的に配慮している。

(前略)伝統的な(とはいえ、フランス革命以降の)「左翼-右翼」という政治思想の分類自体が不十分なものだということがわかる。リバタリアニズムは経済的なものも精神的なものも含めて個人の自由をすべて尊重するという点で、左翼とも右翼とも違って、首尾一貫した立場であり、「左翼-右翼」の線上のどこにも位置しないのである。

 さらに隣接した曖昧な思想がある。「自由放任主義(レッセ・フェール)」と「新自由主義(ネオリベラリズム)」だ。リバタリアンが「レッセフェール」と異なる点については次のように解説されている。

リバタリアンの中でこの言葉を嫌う人は「リバタリアニズム」という言葉を好まない人以上に多い。たとえばハイエクがそうである。彼らがそれを嫌うのは、自由市場は何らかのルールを前提にしているのに、「レッセ・フェール」は市場がルール無用の状態であるかのように誤解させる、という理由による。(中略)
自由市場は私的所有権や契約の自由、暴力や詐欺や脅迫の禁止といった一般的で中立的な私的自治のルールから構成されていて、リバタリアンはそのルールの規制には反対しない。むしろその規制こそが、政治のなすべき(数少ない)任務のなかで最も重要なものであると考える。

 さらに「新自由主義(ネオリベラリズム)」はほぼノイズであると見なしているようだ。

 二つ目の言葉「新自由主義」あるいは「ネオリベラリズム」である。この言葉は学問的文献よりもジャーナリズムでよく見かけるが、リバタリアニズムに近い立場を指すこともある一方、サッチャリズムのようにナショナリズムへの傾きを持つ保守主義や、さらに権威主義に近い立場を指すこともあって、大変多義的である。それゆえ私自身はこの言葉を使わない。この使う場合は、それが何を意味しているのかはっきりとさせた方がよいのではないか。

 森村氏から啓発された私見だが、おそらく、日本における右派左派の同質的なパターナリズムから陰になる部分を、言わばごみ箱用語として「新自由主義」・「ネオリベラリズム」が批判として出来たのではないだろうか。つまり、「新自由主義」・「ネオリベラリズム」が批判の文脈で出てきたときは、それはただ空疎な藁人形なのではないか。
 以上のような状況的な問題、さらに欧米での状況的な問題は「第1章 リバタリアニズムとは何か?」でクローズしていて、本書においてはごく露払い的な意味か与えられていない。リバタリアニズムが提起する、ある意味でグロテスクな問題は「第2章 リバタリアンな権利」以降に展開される。
 私は今、「ある意味でグロテスクな問題」としたが、例えば、こうした思想課題が提起される。リバタリアニズムという思想の文脈ではごく基本的なテーマなのだろうが、慣れない人にとっては気味の悪い思考実験である。

 ハリスは臓器移植の技術が大変発達したと仮定して、次のような強制的な臓器提供のくじの制度を提案する。---社会のメンバーのうち健康な人々はすべてくじを引く。彼らの中から無作為に選ばれた当選者から、健康な臓器を病人に移植する。そうすれば、一人の健康な人の犠牲によって二人以上の病人が助かるから、現在よりもはるかにたくさんの人々が長生きできるようになる。ただし不養生で病気になった人は自業自得だから、臓器移植の受益者にはなれない---。

 当然ながら、森村氏も「この提案は極めて反直感的であって、それを支持する論者はほとんどいない」と続き、しかし、この思考実験に含まれる問題や駁論の思想を点検していく。
 この他にも、裁判や警察の民営化といった問題も提起される。私たちがどこかしら自明と見なしている問題や価値を、リバタリアニズムは切り崩していく。それは思想的に多くの課題を与えることになるし、まさに教条主義的な日本の閉塞した思想状況に刺激を与えるものだ。
 2章以降、「第3章 権利の救済と裁判」「第4章 政府と社会と経済」と、奇異な問題を提起しつつ、ごく順当な思想解説が展開されるが、「第5章 家族と親子」「第6章 財政政策、あるいはその不存在」「第7章 自生的秩序と計画」は、順当なリバタリアニズムの解説では問題点が散逸することもあるのか、著者森村氏のリバタリアンとしての主張が色濃くなってくる。この傾向は2章から4章にも部分的に見られる。ただし、それがいわゆる「べきだ」という主張ではなく、各種のリバタリアニズム思想の整理という方法論的な意識は保持されており、「第8章 批判と疑問」ではまたごく公平なリバタリアニズム思想の解説に帰結する。
 本書を何度も読みつつ、私はいろいろ考えさせられた。閉塞した日本の政治思想の状況にあっては、リバタリアニズムそのものが存在することが意味を持つのではないかということと、私自身はリバタリアンなのかという点だ。
 私は、自身をリバタリアンだと考えたことがなかった。私は、自身をどちらかといえばリベラリストであると考えるし、市民主義者ないし公民的共和主義者(シヴィック・リパブリカニズム)の考えに近いと思っていた。反面、私は社会に蹉跌した20代後半以降、吉本隆明の思想に傾倒し、自嘲で吉本主義者としている。自分の思想において、欧米的共和主義と吉本主義は、その基層の欧米原理以外では矛盾している。が、吉本隆明の思想は結果的には、一つのリバタリアニズムと見てよいのではないか、自分の個別の思想の帰結はまさにそれを意味しているのではないかと思うようにもなった。
 吉本主義者の私は、民族国家は強力な共同幻想でありそれ自身が、民族の子孫を通して永世を偽装した宗教であると考える。むしろ、その強固さを認識するがゆえにそこから無前提に超越した立場を取ることを拒否する。私にしてみるとリバタリアニズムもまた、無根拠な自由信仰に根ざしているとしか思えない。だが、現実面において、私はかなりリバタリアンに接近しているし、現実的な課題に対する提起を多く受け止めている。

| | コメント (9) | トラックバック (3)

2009.08.20

[書評]リバタリアン宣言(蔵研也)

 「リバタリアン宣言(蔵研也)」(参照)は、アマゾンの読者評でも指摘されているが、リバタリアニズムの入門書という趣向で書かれている。思想にそれほど関心はない読者が、「リバタリアンって何?」「なぜリバタリアニズムが話題なの?」「リベラリズムとはどう違うの?」という疑問を持つなら、読後に十分に得るものがあるだろう。

cover
リバタリアン宣言
蔵研也
 現時点で同書を再読するなら、2007年2月に出版された新書ということもあり、世界金融危機の崩壊前、さらに自民党が迷走を始めた安倍内閣以前の空気を再考する意味合いが強くなる。帯にある「ウヨクでもサヨクでもない、ニッポンの勝ち組エリートとアメリカのセレブが考えていること」という釣り文句は現時点となっては苦笑を誘うが、「『国がきちんとやるべきだ』。あなたもなんとなくそう思っていませんか? 本書ではこの考え方を『クニガキチント』の誤りと呼びます。年金も医療も教育も、官僚まかせにしていると貴重な資源が浪費され、私たちの経済と精神の自由が束縛されてしまうのです。」とする指摘は、今回の選挙前こそ重要な意味を持つだろう。
 というのも民主党は官僚制打破を謳いながらも、年金については民間移譲から国家に戻すうえにモラルハザードの構造をもった職員構成の温存になる。これは小さな政府を志向するリバタリアンがもっとも嫌うところだ。医療面はよくわからないが、教育については民主党の政策は文科省主導から地域主導に変わるが、リバタリアンとしては地域に変わろうが地方政治の教育の介入は嫌う。FTA代償という意味合いを転じた純粋な農家へのバラマキもリバタリアンが嫌うところだ。これら民主党政策の大半に大きな政府を志向する「クニガキチント」の誤りが含まれているが、なぜか外交・軍事では「クニガキチント」の誤りもない反面無策になっている。リバタリアンはむしろ最小政府に外交と軍事を委託することはやむを得ないと考えるのに。
 しかし、こうした反リバタリアニズムとしての民主党が明瞭になるのは、近年のことであり、本書を再読することで、その変遷または本質が理解できる。

 前述の日本経済新聞の芹川編集委員は、二〇〇五年九月二一日の論説「大機小機」において、民主党は前原代表の下で自民党以上に小さな政府を目指すことによって、その将来が開けるという見解を示しました。これは前原氏以上に小さな政府を掲げる小沢代表に当てはまるものです。

 2007年時点では、小沢氏を小さな政府を掲げる政治家として理解する人々がいた。私もそのように理解してきたものだった。
 これに対して、自民党では小さな政府を志向する小泉政権後に、大きな政府への揺り戻しが起きた。

 そもそも自民党には、大きな政府を志向する利権政治にどっぷりつかった古参議員も多く、彼らは小泉前首相の目指した小さな政府に対して、内心では反感を持っているはずです。二〇〇六年九月に政権を引き継いだ安倍晋三首相は、郵政民営化反対を唱えて二〇〇五年の衆院選挙で自民党から追い出された議員たちの多くを復党させました。彼らは、古巣の自民党に戻って、反動政治はさらに強固なものになるでしょう。

 実際そのように展開した。
 郵政民営化反対で解任させられた鳩山邦夫元総務相も、内実は麻生首相と同じだった。自民党内部でリバタリアニズム的な政策への反動が起こり、自民党はリバタリアニズム政党としては残骸となってしまった。
 こうした自民党の反動に対して。

 これに対して、芹川編集委員の意見は、民主党がリバタリアンな政府、つまり小さな政府を目指すべきだということになります。民主党が自民党よりもさらに小さな政府を目指すことになれば、利権政治と大きな政府を目指す自民党との対立軸がはっきりして、民主党の将来が開けるというのです。

 逆になった。
 民主党の将来は開けたが、それは大きな政府を志向するものとなった。しかも、「前原氏以上に小さな政府を掲げる小沢代表」が、大きな政府志向の線路を敷いたように見える。どうしたことなだろうか。
 著者蔵氏は、芹川日経編集委員の意見に賛同しながらも、この時点で民主党がリバタリアン政党はならないことを的確に予言していた。

 しかし、そのようにことがうまく運ぶのかについては、二つの疑問があると思います。
 まず第一の疑問は、はたして今後の民主党が小沢代表のもとで、小さな政府を標榜して一致団結することができるのか、というものです。いいかえれば、前原代表が偽メール問題で退陣し、国民の党への信頼が危機的な状況にある中で、本当に民主党がリバタリアンな政策にコミットすることができるのかという疑問だと言えるでしょう。
 そもそも民主党は社会民主党や新党さきがけのメンバーでもあった鳩山由紀夫や管直人を中心として一九九六年に結成された政党です。議員の中には旧自由党であった小沢一郎から旧社会党であった横路孝弘まで、さまざまな考え方の人がいるのです。
 彼らに共通する政治理念は全く存在しないといえるでしょう。旧自由党はたしかに自民党よりも小さな政府を標榜していました。しかしその反対に、旧社会党は明らかに政府による所得配分など大きな政府を求めていたのです。

 蔵氏は2005年時点の民主党のマニフェストを見て、大きな政府志向であることを指摘する。結局のところ、小さな政府を志向した旧自由党の小沢氏が、党内政治のために旧社会党的な大きな政府に折れたと見てよいだろうし、今日の民主党はかつての小沢路線とぎくしゃくしている(FTA問題やISAF問題など)ことも関連するだろう。
 さらに状況を複雑にしているのは、自民党側の問題だ。蔵氏はこう指摘する。

 第二の疑問は、はたして二〇〇五年の選挙で自民党が勝ったのは小泉前首相がリバタリアンな政策を公約に揚げたからなのか、というものです。言い換えるなら、小泉前首相の個人的な人気が自民党の大勝を生んだのであって、国民は別にリバタリアンな小さな政府など求めていなかったのではないのか、という疑問が残っているのです。

 蔵氏は世論調査などから、前回の衆院選挙をリバタリアニズムの志向から分離する。
 以上の蔵氏の考察だが、2点のテーマにまとめられるだろう。(1)小沢一郎氏はかつてはリバタリアン的な政治家であったが民主党体制のために変質した、(2)小泉政権は結果的にリバタリアン的な政策を実施したが、その支持はリバタリアン的なものではなかった。
 2点から、国民には反リバタリアニズムとして、「クニガキチント」の志向が底流にあったとも言えるだろう。
 このテーマには前史がある。蔵氏は、小沢氏を軸に考察しているのではないが、極めて示唆的な指摘がある。小泉政権登場以前の自民党という問題だ。

 前述したように、自民党は、一九七〇年代の田中角栄首相の時代に、都市部から吸い上げた金を農村部に回すことによる、「列島大改造」をくわだてました。都市から集めた税金によって、地方にも発展の資金を均霑し、日本全国の「均衡の取れた」発展を目指していたということができるでしょう。


 ロッキード事件の後においても、この分配ばら撒き型の政治は続きました。田名角栄の後継者として田中派を継承した竹下登首相は、「ふるさと創生」運動として各地方自治体に対して一律に一億円をばら撒くという愚行に出ているのです。
 こういった農村政党としての流れが、自民党内の郵政民営化反対路線に続いていたのだといえるでしょう。民営化を憂えていたのは、いうまでもなく過疎地の人びとだからです。それを「ぶっ潰した」のが小泉純一郎です。

 蔵氏はリバタリアニズムの視点からのみ見て、この政治史にそれ以上の考察を加えない。以下、書評的な枠を越える。
 田中角栄氏の直系として竹下登氏を見るなら、田中-竹下に根を持つ経世会の流れに小沢一郎氏もいる。さらに農村バラマキの手法は、今日の民主党の政策に完全に一致する。
 田中-竹下に根を持つ経世会が小泉改革という名のもとに自民党で弱体化された後、民主党内で復活した経世会が現民主党なのではないか。この完成を象徴するのが田中角栄氏の娘田中真紀子の民主党合流だろう。加えて言うなら、津島雄二氏の引退も象徴的だった。
 さらに蔵氏は指摘していないが、田中角栄氏こそ、官僚主義を打破し、政治主導を確立しようとした最初の政治家もあり、小沢氏の理念はその師匠である田中氏を継いでいる。
 小沢一郎氏の今日の反リバタリアニズムは、政権交代のためならファウストにもならんとすることなのか、もともと小沢氏には小さい政府への志向がなかったのか。おそらく結論は、小沢氏をリバタリアニズムの視点から見ること自体が間違いだというつまらぬことになるだろう。そしてその間違いは、私自身が蔵氏ほどにリバタリアンたりえない矛盾と調和している。
 私は自身の矛盾を抱えながら、田中角栄氏の農本主義の亡霊が左派を飲み込む光景を見ている。その感じは「極東ブログ:[書評]「はだかの王様」の経済学(松尾匡)」(参照)での該当書著者松尾匡氏が最近述べられた印象に近い。「09年8月3日 初めてのデフレ問題講演」(参照)より。

だいたい、一番景気刺激効果がありそうなのが現政府・自民党の政策だし。いやそのとき言ったのですが、「構造改革」を「戦争」になぞらえれば、麻生さんの大型財政政策って、かつての戦争指導者が戦後急に平和の使徒面して親米民主主義者になったことに似ています。何の反省もなく「自分は本当は戦争に反対だったんだ」とか言って(実際、「本当は郵政民営化反対だった」って発言もありましたけど)。それで、それがけしからんから懲らしめてやろうと思って、野党に入れようとしたら、野党がみんな「皇国史観」を唱えていたっていうような、そんなたとえが通りそうな状態です。

| | コメント (8) | トラックバック (0)

2009.08.19

民主党公約、高速道路の無料化案について

 高速道路の無料化は民主党マニフェストの目玉商品とも言えるものらしいが、私は率直なところあまり関心がなかった。よくわからないというべきかもしれない。外国では公共道路は無料だし、日本だけできないわけもないだろうと言われればそう思わないでもない。が、とにかくやってみたらという声には、いや、それは違うんじゃないのという感じはする。
 私としては日本には地方によってはまだ新設道路が必要だろうし、その財源を補う課金はあってもよいのではないか、あるいは一般財源でもよいのではないかとも雑駁に思っていた。
 どうなのだろうか。問題を見ていくと、まず高速道路の無料化には日本特有の課題もある。14日の日経新聞社説「多くの疑問がある高速道路の無料化案」(参照)でも触れていたが、日本高速道路保有・債務返済機構が抱えた約34兆5000億円に上る債務の問題がある。これを返却するには有料でなければならないとするものだ。この話には別のからくりもあるのであとで触れたい。
 高速道路は有料でよいのではないかと私が思うとき、あと2点気になることがあった。「コモンズの悲劇」と「ピグー税」である。
 「コモンズの悲劇(共有地の悲劇、The Tragedy of Commons)」はギャレット・ハーディン(Garrett Hardin)が提唱した考えかたで、誰でも自由に利用できる共有資源は適切に管理されないために、過剰搾取や資源劣化が起きることだ。高速道路は造りっぱなしにしておくわけにもいかないことは、先日の東名の崩落でもわかる。有料にして管理したほうがよいだろう。
 温室効果ガスの低減を意図したピグー税として、高速道路は有料であったほうがよいかとも考えていた。ピグー税(Pigovian tax)はアーサー・セシル・ピグー(Arthur Cecil Pigou)が考案した税のありかたで、簡単に言えば、一種の罰則としての税金だ。使えば使うほど社会的に害になる側面のあるものに課税することで、その使用を抑制する。タバコにピグー税をかけ、高額にして喫煙者を減らすという政策もある。
 しかし温室効果ガス低減を目的としたピグー税なら高速道路料金にかけずにガソリンにかけてもよいはずだ。そのあたり民主党はどう考えているのだろうかと気になっていたが、マニフェストβには、「ガソリン等の燃料課税は、一般財源の「地球温暖化対策税(仮称)」として一本化します」とあるものの、高速道路の無料化とのバランスはわからなかった。
 具体的に民主党案でどの程度二酸化炭素の排出量が増えるのだろうか。シンクタンク「環境自治体会議・環境政策研究所」が試算していた。朝日新聞記事「民主公約の高速無料化→CO2急増 シンクタンク試算」(参照)より。


 民主党が衆院選のマニフェスト(政権公約)に掲げた高速道路の無料化と自動車関連の暫定税率の廃止が実施された場合、二酸化炭素(CO2)の排出量が年980万トン増えるとの試算をシンクタンクがまとめた。一般家庭の年間排出量に換算すると約180万世帯分に相当。


 国内の運輸部門のCO2排出量は2億4900万トン(07年度)で、これを約4%押し上げる計算になる。

 試算にもよるのだろうが、かなりの量になる。そのしわ寄せは排出権取引など別の形になるはずだが、私の見ている限り、民主党は言及してない。ヤミ専従などの問題のような、あまり突かれたくない領域というより、この領域の問題は単に想定してなかったんじゃないかという印象も受ける。
 ところで、そもそもなぜこんな政策が出てきたのだろうかと考え直してみた。高速道路無料化は民主党が今回突然出してきたものではない。以前からあったよなと思って、いつからあるのか調べ直すと、2003年であった。そのころはまだ環境問題は現在ほど切迫した問題ではなかったかもしれないとも思ったが、当時のことを少し調べていくと面白い話に出くわした。いや面白いなんて、どこかの混乱loverみたいな話で済むことではない。
 話の背景は2003年8月、当時2年後に道路関係4公団の民営化が予定されるころだ。日本道路公団の財務報告を虚偽とする内部告発がなされ、債務超過が問題になった。それまで民主党は、小泉内閣と同様に高速道路有料制で民営化を主張していたが、奇策も模索していた。そこに中央公論9月号で元ゴールドマン・サックス社パートナー山崎養世氏が高速道路無料化案を唱え、これに当時の民主党菅代表がパクついた。いや経緯からすると、中央公論寄稿の前に山崎氏から菅氏への提言があり、その公表としての寄稿であったようだ。菅氏は同年の6月時点でこの妙案を当時のマニフェストに盛り込むと息巻いていた。
 いずれにせよ、高速道路無料化は山崎氏の起案で以降菅氏の持ちネタになったのだが、当時はそのための財源は考慮されていた。「日本には現在約7000万台の車があり、1台に年5万円課税すれば3兆5000億円になる。料金所も廃止できる」(参照)とのことだった。自動車に年5万円の課税というと重税感があるが、このあたり、現在の民主党ではどうなっているのか、私は知らない。
 山崎氏のアイデアは同氏が運営するサイトで現在でも威勢のよく「山崎養世の日本列島快走論」(参照)として展開されている。気になるのは無料化のツケをどうするかだが、興味深い指摘がある。

現在四公団で約40兆円の借金を抱えていますが、仮に民営化したとしても、この借金と将来の金利を加えた120兆円(50年間にわたって4%の金利で借り続けることができるという楽観的仮定に基づいても金利は80兆円になり、借金40兆円と合わせて120兆円になる)は、結局国民のツケになってしまいます。これは、金融機関が実態の分かりにくい子会社(公団の場合は保有・債務返済機構へ)に不良債権をこっそりと移す「飛ばし」と同じ手法です。つまり、民営化は根本的な解決にはつながらないのです。

 小泉改革案の民営化は「飛ばし」であって「民営化は根本的な解決にはつながらない」というと、ドキっとする。ではどうするのかと読み進める。

親会社がオーナー(国民)の財産を守るために、超低金利のいま、30年国債を2%で発行(=これを“世直し国債”と呼ぼう!!)し、40兆円のいまの借金を返済してしまう。30年国債の金利コスト(2%固定)は24兆円になり、80-24=56兆円の金利コストが削減できる。これは、高速道路の基本法である道路整備特別措置法にかなったやり方である(下記図参照)。なお、国債の返済の財源には、いまの道路財源の一部を充てる。試算では、いまの一般道路向けの財源の36%を振り向ければ、借金の返済だけでなく新規高速道路の建設と保守もまかなえる。

 住宅ローンの借り換えと同じ理屈なわけだ。ブラボーと言いたくなるようなエレガントな解答のように見える。つまり、民主党のマニフェストのウラはこういう仕掛けになっているということなのだろうか。もうちょっと読んでみよう。

この“世直し国債”の返済総額は64兆円。年間約2兆円ずつを道路財源からまわし、30年間で完済は可能である。そもそも道路財源のほとんどが一般道路の建設に充てられていたことがイレギュラーだった。これを変えることがポイント。高速道路が無料になり出入口が増えれば、いまの高速道路と一般道路の輸送力は増大するから、新規の道路を作る必要性は低下するはず。一般道路への支出を削って、高速道路無料化の財源に充てることは理にかなっている。

 つまり、年間2兆円30年間が国民の借金になるということだ。道路財源を道路に充てるのではなく、高速道路無料化のための借金に充てなさいよということだ。なるほど。手品にはタネがある。
 この妙案、本当にブラボーなのだろうか。当時この案を聞いた道路関係四公団民営化推進委員会委員長代理だった田中一昭拓殖名誉大学教授はこうコメントしていた。読売新聞記事「高速道路の無料化 山崎養世氏VS田中一昭氏」(2003.8.26)より。

 ――道路四公団の債務を国債で借り換えて高速道路をタダにしろという議論が出ている。
 田中 国債の発行残高が四百二十兆円に膨れ上がり、税収確保が大変な時なのに、安易に国民負担を求める考え方には、反対する。高速道路のように、社会的施設を使って利益を得るのが特定の人々に限られるケースでは、費用は、可能な限り、利用者による受益者負担で賄うべきだ。実際、道路四公団の四十兆円の借金は、料金収入によって、四十―五十年で確実に返済することが可能だ。
 ――低金利の長期国債の借り換えで全額繰り上げ返済し、無料化する方法をどう思うか。
 田中 それでだれが損をするかを冷静に考える必要がある。国債という形でつけ回しをされる国民だけでなく、財投資金の原資となっている郵便貯金などの預金者も被害を受ける。財投資金は一定金利で運用しているため、借り換えはその約束を反故(ほご)にすることだ。簡単な話ではない。

 小泉改革の民営化だと年月はかかるが、国債に転換され国民への負担になることは避けられる。また、山崎氏が軽減しようとした金利負担は、単なる負担ではなく、間接的に郵貯などに投資をしていた国民の利益になるものだった。なにがなんでも悪い借金でもない。
 さて、どちらがよいか。
 のんびり直接国民の負担にならないようにやっていくか、それとも30年間2兆円ずつ直接国民の債務を増やすか。いや、事実上もう選択肢はないのかも。

追記
 このエントリをもう少し詳しくしたリライト・ヴァージョンをガジェット通信に寄稿しました(参照)。

| | コメント (25) | トラックバック (0)

2009.08.18

フィナンシャルタイムズ紙の民主党政権観

 海外では日本の衆院選をどう見ているだろうか。それほど広く見回したわけではないが、ワシントンポスト紙やニューヨークタイムズ紙の社説ではまとまった意見を見ないように思うなか、フィナンシャルタイムズ紙社説は昨日発表の日本の国内総生産(GDP)に関連付けて、少し意外な言及をしていた。
 フィナンシャルタイムズ紙社説は日本の政治経済に言及することが多く、春頃から「総選挙すべきだ」「低所得者のポケットに現金をつっこめ」など、どちらかといえば民主党のような発言があった。しかし今回の社説「Japan’s recovery: not all it seems(日本の回復:期待とは違う)」(参照)では、民主党政権への期待と取れないこともないが、やや不吉な印象を与える予言のようだった。


 The DPJ is partly doing what opposition parties are supposed to do - promising the earth in order to get elected. But if it really is headed for victory, it will need to work quickly to persuade Japan’s public - and the markets - that its sums add up.
(民主党は野党がしそうなことをしている。つまり選挙に勝つためなら出来もしない約束をするということだ。しかし、同党が真に勝利したいなら、急ぎ日本国民と市場に向けて、帳簿の辻褄は合うと説得すべきだ。)

 If not, it risks an electoral backlash in upper house elections next year. Almost as bad, bond markets could wobble.
(できないなら、来年参議院選挙で逆風に遭うだろう。悪いことには、債券市場も不安定になるだろう。)

 That could further complicate a recovery that already is not all that it seems.
(そうなれば、現状ですら期待はずれの経済回復がいっそう混迷するだろう。)


 フィナンシャルタイムズとしては、曖昧に書かれてはいるが、民主党のバラマキ公約に裏付けはないと見ているようだ。いわゆる財源の問題では、短期的に埋蔵金など当てにできたとしても、恒常的な財源にはならないということなのだろう。特に社会保障の財源が問題になる。
 今回の選挙では、世論調査などを見ると、なぜなのか社会保障が一番の関心に上がっている(参照)。具体的には年金問題が焦点にもなりそうだが、これがなぜ問題なのかというと、端的に言えば、カネが足りないからだ。では、どのくらい足りないのか。
 「バカヤロー経済学」(参照)の先生によれば、300~400兆円で、率だとあと、7~8%増加ということらしい。強調部分本文ママ。

今の保険料率は一〇%ちょっとだと思うけど、あと七、八%必要。議論の中心は、この七、八%を上げられるかどうかなんだがけど、もし国力が十分だったら簡単に上げられる。でも、経済成長率は下がっているし、少子化も進んでいるでしょ。これは痛いんですよ。結論から言うと、経済成長を遂げるか少子化対策が進まないと、年金は大問題になるの。

 イメージとしては現状の社会保険料が二倍弱くらいになるということかと思う。払わない人が多いと言われている国民年金だと月額3万円くらいになるのではないか。そしてこれが民主党案だと実質国税化されることになり、徴収の問題は改善される。企業負担も増えるかとも思うが、年金システムは一元化されるので企業負担としては逆に減るのかもしれない。
 随分と重税感があるがそれが先進国の常態だとも言える。日本の社会保険負担率と租税負担率は2009年で38.9%だが、ドイツだと52%(2006年)、フランスだと62.4%(2006年)、スウェーデンだと66.2%(2006年)ということなので(参照)、欧州・北欧型の福祉国家を志向していくとなれば、社会保険の費用が7~8%アップするイメージとだいたい合う。安心できるがその分現状よりは重税をという国家のイメージになるだろう。しかも、経済成長が予想されない状況では重税感はきつい。
 それを国民が合意しているかどうか。また年金は先の「バカヤロー経済学」の先生も指摘しているが基本的に働く世代から高齢者への仕送りといった本質のもので、総体として見れば高齢者に富が偏在している日本でどの程度の理解が得られるかといった不安もあるだろう。
 フィナンシャルタイムズ紙社説に戻ると、そのあたりの日本国民の合意は得られていないだろうということだが、おそらくその指摘は正しいのではないか。
 問題はその先で、同社説の予言的な部分だ。民主党政権は来年7月の参院選挙で逆風に遭い、債券市場は不安定化(bond markets could wobble)するという指摘をどう見るかだ。私の直感的な印象としては、堪え性のない国民の現状では来年参院選挙ごろには経済政策面からの失墜感が可視になるのではないか。その波及としての債券市場の不安定化だが、これは端的に日本の国債の不安定化だろう。
 日本の国債は他国と異なり日本国内で購入されているので暴落による危機はないだろうが、不安定化によって長期金利上昇や円安になるかもしれない。円安になると、リフレと同質の効果が発生するので、輸出産業が盛り返し、それなりの経済に安定するかもしれない。冗談のようだがその意味で、民主党政権によって日本経済の評価がむしろ早急に下がるほうが、重税国家ではあれ産業打撃が少なく安定した衰退が期待できるかもしれないし、そうなると、来年の参院選での逆風は弱まるだろう。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2009.08.16

民主党政権で社会保険庁は存続だが日本年金機構は廃止の件

 社会保険庁は解体され年金業務は公法人の日本年金機構に移行することは、法律第109号として2007年に7月6日公布され2010年1月に施行されることになっていたが、これを民主党政権は凍結するという報道が東京新聞に昨日流れた。大手紙やNHKでの報道は見当たらないのでどうなのだろうと疑問に思っていたがその後、共同でも流れた。その後の続報はというと見当たらない。拙速感はあるが、重要な問題でもあり、忘れぬ内にブログに庶民の雑感を記しておきたい。
 当の東京新聞「年金機構 移行を凍結 民主検討 記録散逸を懸念」(参照)ではこう切り出されていた。


 民主党は十四日、衆院選で政権についた場合、二〇一〇年一月に予定される社会保険庁から日本年金機構への年金業務移行を凍結する方向で検討に入った。衆院選マニフェストで年金問題への取り組みを「五つの約束」の一つに掲げているが、年金業務を移行して社保庁を廃止すれば、年金記録の関係資料が散逸したり、組織改編で責任の所在が不明確になり、問題解決が遠のく可能性が高いと判断した。

 端的に言えば、日本年金機構凍結というより、社会保険庁の廃止を阻止するという意味が強い。理由としては、「年金記録の関係資料が散逸したり、組織改編で責任の所在が不明確になり」の2点が上げられている。
 当初この報道を見て私は、すでに成立寸前の日本年金機構を阻止するのかと驚いた。だが、結論を先に言うことになるが、マニフェストβを読み直すと、この方針は驚くほどのことではなく規定路線であった。それでも、マニフェストβの趣旨が、設立寸前の日本年金機構をつぶすという話だったのかとは読み込めないでいた。いずれにせよ、つまりそういうことだ。マニフェストβにはこう書かれている。

社会保険庁廃止と歳入庁創設
 社会保険庁を廃止し、国税庁と機能を統合して「歳入庁」を創設します。社会保険庁の職員については厳しく審査して移管する者を決定します。
 社会保険庁を「日本年金機構」(特殊法人)に移行させることによって年金記録問題がうやむやになる可能性があります。社会保険庁の体質をそのまま受け継いだ組織では問題は解決できません。

 現時点で読み返すと、日本年金機構を潰すことに加えて含蓄があるが、後に言及したい。
 当面の問題としては、これまで日本年金機構は設立が既定事項に見られていたこともあり、すでに採用内定者が出ているが、これをどうするかということだ。同じく東京新聞記事「<政権選択>年金機構『凍結』 記録回復 解決は手探り」(参照)ではこの問題に言及している。

 加えて、来年一月発足予定の年金機構は、七月下旬に民間から採用する千七十八人を内定しており、追加募集も始めている。このため、移行凍結は雇用問題に発展する可能性もあり、民主党は採用内定者を非公務員の身分で年金記録問題への対応に充てることも検討している。

 日本年金機構採用予定者の身分は不明であり、対照的に社会保険庁職員の身分は公務員のまま保持されることになる。12倍近い難関をくぐられた日本年金機構採用予定者は、公務員になれるチャンスと見るより不安感が先立つのではないか。
 共同の報道「民主、社保庁を当面存続 年金機構移行を凍結、秋に法案」(参照)では、この部分への当然とも言えるが簡単な政治的な言及がある。

 年金機構は社保庁の一連の不祥事を受け2007年6月に成立した社保庁改革関連法で設立が決まった。社保庁への懲罰的な意味が強く、不祥事で処分された社保庁職員は機構への移行を認めないことになっている。このため社保庁を存続させることには自民、公明両党から「民主党を支持する労働組合の擁護だ」と強い反発が出そうだ。

 庶民感覚としても、積み重なる不祥事から社会保険庁は当然解体されると想定していたはずだが、これが事実上そのまま「歳入庁」とやらに組み込まれ、内実は温存されるような印象を受ける。だが民主党としては日本年金機構のほうが、「社会保険庁の体質をそのまま受け継いだ組織では問題は解決できません」としている。
 問題が錯綜しているのは、社会保険庁の不祥事を、(1)組織の問題とするか、(2)不祥事で処分された社保庁職員の問題とするかが、はっきりしないことだ。もちろん両方関わっているとも言えるが、特定組織に不祥事を起こす人員がしかも組織的に存在しているとすれば、基本的に前者の組織の問題であると見てよいだろう。するとこの問題は、不祥事を誘発する構造が、民主党の案で解消されるのかということになる。また、日本年金機構がそれに劣ると言えるのだろうかとも問い直される。当面、ごく単純に言えることは、社会保険庁は存続されるということで、その意味は当面不祥事構造が温存されるということだ。
 凍結される日本年金機構と不祥事で処分された社保庁職員の関係について、具体的な処分の意味合いを知る上で報道を少し見直しておこう。5月19日付け朝日新聞記事「「のぞき見」など処分の2116人も採用 年金機構内定」(参照)がわかりやすい。

 社会保険庁が解体された後の後継組織「日本年金機構」(10年1月発足)の設立委員会は19日、社保庁から移行する9971人の採用を内定した。このうち約2割の2116人は、年金記録ののぞき見や国民年金保険料の不正免除などで訓告や厳重注意などの処分を受けた職員。
 社保庁の正規職員は現在、約1万3千人。年金機構の採用基準により懲戒処分歴のある約850人は採用されないが、それより軽い訓告などを受けた人は移れる。
 移行を希望した職員は1万1118人。正規職員として内定したのは9613人(定員約9880人)、有期雇用の准職員は358人(同約1400人)。能力や意欲の面から不採用とされたのは28人。残る約1100人は健康上の理由で面接が受けられないなど、採否が保留となっている。社保庁は採用されなかった職員は民間への再就職をあっせんする。

 庶民感覚的には2割のグレーな人が移行できる予定だったのかの感はあるが、私としては必ずしも処分が適正だったか疑問点もあるので、そこはあまり問題は感じない。むしろ、事実上、社会保険庁職員の大半が日本年金機構に移行できる状態だったことを再確認した。
 7月4日中日新聞「社保庁職員1000人再雇用せず 処分歴ありが半数」(参照)にはより現時点に近い報道があるが、興味深いのは、大半が新機構に移行できる状態でありながら、移行できない職員対処が問題視されていたことだ。

 厚労省と社保庁は不採用者の再就職を支援する対策本部を6月下旬に設置。分限免職をできるだけ回避する方針で、国家公務員の再就職を一元管理する「官民人材交流センター」が企業などへの再就職をあっせんするが、全員に再就職先が見つかる保証はない。
 社保庁の労働組合は、処分歴のある職員を年金機構で一律不採用とした政府の決定を不当と批判しており、組合員があえて分限免職を受け、提訴することも検討している。

 これらの問題は、社会保険庁解体凍結ということで当面解消されることになるだろう。
 議論の局面を変える。社会保険庁廃止阻止のメリットである「年金記録の関係資料が散逸したり、組織改編で責任の所在が不明確になり」の2点はどれだけあるのだろうか。率直に言って、これは問題にならないのではないか。資料の散逸は意図し計画すれば未然に防げるだろうし、責任の所在というとき処罰される職員についてはトレース可能だろう。デメリットとされるものは機構的には日本年金機構解においても改善されうるし、過去の責任を問うより混乱した事態の収拾が重要になるはずだからだ(なお天下り等の問題は別の問題)。
 背景に潜む問題は、誤解を受けそうであまり言及したくないところでもあるが、社保庁職員の身分が必然的なモラル・ハザードを機構的含んでいるように見えることだ。よく誤解されるがモラルハザードとは「倫理観の欠落」といった道徳的な問題ではなく、契約後に依頼者が観察できない部分で起きる問題のことだ。国民が国家を介在して社会保険庁職員を観察・管理できない仕組みになっているように見える。別の言葉で言えば、社会保険庁職員が国家のグリップを外れた地方公務員のようにも見える。いわば、身分の二重性がある。
 身分の二重性は労組にも反映されているので、その視点から見るのに、読売新聞記事「基礎からわかる「社会保険庁」Q 労組は?」(参照)がわかりやすい。

 社保庁職員の労組は現在、主に民主党を支援する自治労傘下の「全国社会保険職員労働組合」(旧・自治労国費評議会、約1万1000人)と、共産党の影響力が強い全労連系の「全厚生職員労働組合」(社保庁職員は約2000人)がある。
 旧評議会の設立は1972年8月。国家公務員だが、知事の指揮下に入る「地方事務官」という職員の身分の特殊性から、地方公務員中心の自治労に加盟した。名称は「実質的に地方公務員だが、国のお金(国費)を扱う」ことに由来するという。

 社保庁職員は、国家公務員だが、知事の指揮下に入る「地方事務官」という職員の身分の特殊性がある。記事には言及されていないが、実際には逆に国家公務員として知事の指揮下に入りづらい。つまり、社保庁職員の労働団体に対応するのが国なのか地方なのか、わかりづらく、どちらでもないようにも見える。この二重構造の解消には、基本的には、日本年金機構のように全員を公務員から外すか、地方公務員の労組ではなく国家公務員の労組に改編する必要がある。後者は一応措置も執られていたが、実質に変化はない。

旧評議会は、地方事務官制度が00年度に廃止されてから7年間は経過措置として存続したが、今年4月、「全国社会保険職員労働組合」に衣替えし、国家公務員の労組として再出発した。名称変更後も「理念を共にする」という理由で自治労に加盟している。活動内容にも本質的な変化はない。秋田、神奈川、愛知、京都、愛媛など7府県の組織は全労連系の組合に加盟している。

 社会保険庁を構成する職員の身分の点からは三層構造とも言える構造もある。社保庁職員の常勤職員は、「厚労省キャリア職員(国家公務員1種)」「社保庁本庁採用職員」「社保庁地方採用職員」の3種類がある。「厚労省キャリア職員」は2年という腰掛け期間で厚生労働省に戻るため、現場業務には実質立ち入らない。事実上、厚労省側からの直接的な管理は不在に近い。ここにもモラル・ハザードがある。また先の自治労の二重構造は「社保庁地方採用職員」にあたり、いわば、直接国家公務員として「社保庁本庁採用職員」とは対照的になる。
 この問題はこうしたモラル・ハザードを必然的に含み込む二重性をもった社保庁職員をどう整理するかにあり、日本年金機構では問題を原点から解決し、そもそも公務員ではないとするはずであった。リバタリアン的な政治観を持つ私としては国家はできるだけ小さい方が好ましいので、日本年金機構に賛成したいが、しかし日本年金機構が実現されない見通しとなった。
 民主党政権下で社保庁職員はどうなるのか。地方採用で実際には地方公務員にしか見えなくても、保険・年金業務を原理的には国家事業とするなら、国家公務員として規制するということになるはずだろう。端的に言えば、地方職員の組合である自治労(全日本自治団体労働組合)とどういう分離になるのかが問われることになるはずだ。が、そこが民主党案からは見えてこない。推測で言えば、おそらく現状ママになるのではないか。つまり、二重構造は歳入庁に持ち込まれることになるだろうと思う。
 もう一点だけ述べてこのエントリを終わりにしたい。新規歳入庁は国税庁に統合されるということは、年金が実質国税化するわけで、厚労省の管轄から離れ、財務省の外局として、財務省に移ることになる。ついこぼれそうになる本音として、「なーんだ、財務省の焼け太りじゃん、これなら民主党に反発ねーわ」とかを言いそうになる人もいるかもしれない。そこをぐっと抑えても、厚労省側はそれですんなり終わるのだろうか、バトル観客としての国民に疑問は残る。

| | コメント (15) | トラックバック (2)

« 2009年8月9日 - 2009年8月15日 | トップページ | 2009年8月23日 - 2009年8月29日 »