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2009.01.15

それってとにかく説明体系としての進化論や脳科学のような気もするが

 NHKスペシャルの「シリーズ 女と男 最新科学が読み解く性」(参照)という3回シリーズの番組があり、すでに2回まで放映され、私も録画したのを見た。面白いといえば面白かった。特に西田尚美が好演という印象だった。
 1回目は”惹(ひ)かれあう二人 すれ違う二人”(参照)ということで、こんな話から。


男女はなぜ惹かれあうのか。脳科学はいま、恋のメカニズムを解明しつつある。その中心はドーパミンという脳内物質。快楽を司るドーパミンの大量分泌が恋する二人の絆となっているのだ。ところが脳科学は同時に、皮肉な状況も浮かび上がらせている。高い代謝を要求するドーパミンの大量分泌は身体への負担が大きく、長く続かない。そのため、“恋愛の賞味期間”はせいぜい3年ほどだというのだ。

 まあ、よくある話だ。以前、「愛はなぜ終わるのか―結婚・不倫・離婚の自然史(ヘレン・E・フィッシャー)」(参照)も話題になった。と思い返すにこれ1993年。もうそんなに経つのか。そういえば草思社って文芸社の子会社になったのだったな。フィッシャーはその後どうしているかなと見るとに、「女の直感が男社会を覆す―ビジネスはどう変わるか〈上〉」(参照)、「女の直感が男社会を覆す―恋愛、家族はどう変わるか〈下〉」(参照)がある。あ、これもあるな。「人はなぜ恋に落ちるのか?―恋と愛情と性欲の脳科学」(参照)。番組のほうもこれらを読んでべたに企画したんじゃないかなという感じだった。
 それと。

しかし、いまの男女関係は子育てのためだけにあるのではない。そこで、男女関係はどうすれば長続きするのかという科学的な探求がさまざま進められている。アメリカでは30年に及ぶ家族の長期研究を通して、長続きしない男女関係では、男女差が大きな障害になっている事実が浮かび上がってきた。

 とういところで、ゴットマンの話が出てきて、これもあれだ。「結婚生活を成功させる七つの原則(ジョン・M. ゴットマン, ナン シルバー)」(参照)や「「感情シグナル」がわかる心理学 人間関係の悩みを解決する5つのステップ(ジョン・ゴットマン)」(参照)。というわけで、どうもNHK側の作りの思い入れが強すぎるというか、邦訳書文化の延長みたいな感じの既視感が多かった。
 このあたりの最新話題は、そのスジの識者というか専門家の示唆をきちんと聞いて、古げな邦訳書とは違った取材をしてもよかったんじゃないかなとも思ったが、どうなんだろう。ただ、映像で見ると思いを新たにする面白さはあった。たとえば、ゴットマン博士キッパを被っていましたな。キッパとは違うのだろうか。へぇと思った。一応学問だから、ユダヤ教的な思想とは違うのかもしれないけど、そういえばエリスとかセリグマンとかもユダヤ人だし、なにか共通の夫婦観みたいなものがありそうな印象はあるかな。
 話を戻すと、そうした、邦訳ベストセラーでお馴染みの話で、さらに、なぜそうなのかという説明なのだが。
なぜ4年程度しか恋のシステムはもたないのか。それはそもそもの起源と深い関係があると考えられている。もともと恋愛システムは、人間の子育てのために発達したという。二足歩行と脳が大きくなったために、人間の出産・育児は他の類人猿に比べても極端に負担が重いものになっている。そのため、子どもが確実に育つよう、いわば夫婦で協力して子育てするという仕組みを発達させたと考えられるのだ。

 とか。

こうした男女の違いは、長い狩猟採集時代の遺物ではあるが、無意識のなかに深く根ざしており、日常生活のなかで深刻な影響を与えやすいという。違いをちゃんと意識して、相手の気持ちを理解する努力が欠かせないのだ。

 とか。
 見ていて、いや我ながらオッサンになったなと思うけど、つい、そ、それ根拠レス、それ違うだろ、とか思わずツッコンでしまった。
 進化論は正しいかみたいなネットで愉快なお話はさておき、進化論がこの手の説明体系の物語に利用されるっていうのは、どうなんだろ。それをいうなら、脳もそうだな。ぶっちゃけ、人間行動とかって、進化論とか脳を持ち出したお話をでっちあげると、それが科学っぽくなるんじゃなかろうか。それって、進化論とも脳科学とも違った、微妙な逸脱なんじゃないか。
 とか思う人はいないのかと思っていたら、今週の日本版ニューズウィークにサイエンス担当のシャロン・ベグリーのコラム「まちがいを認めない学者の誠意(On Second Thought)」があって、ちょっとほっとした。例によって原文は無料で読める(参照)。
 学説が否定されても科学者は考えを考えを変えないものだみたいな話なのだが、例が面白い。例よって邦訳はちょっと変なところがあるが。

 最も興味深いのは、進化心理学を推進してきた科学者たちの転向だ。この学問は、人間が今も石器時代に繁殖の成功に役立つ機能を果たした遺伝子を持っていると仮定する。男性は遺伝子的に気まぐれで、女性は内気であり、男性は女性をレイプし、裏切った女性を殺す生物学的性質がある、と考える。

The most fascinating backpedaling is by scientists who have long pushed evolutionary psychology. This field holds that we all carry genes that led to reproductive success in the Stone Age, and that as a result men are genetically driven to be promiscuous and women to be coy, that men have a biological disposition to rape and to kill mates who cheat on them, and that every human behavior is "adaptive"—that is, helpful to reproduction.


 さらに、ピンカーとか出てくるあたりが愉快。

 しかし、ハーバード大学の生物学者マーク・ハウザーは、言語や道徳、その他の人間の行動理由が繁殖における優位性にあるという説には証拠が「欠けている」ことを認めた。著名な進化心理学者スティーブン・ピンカーも、多くのヒト遺伝子が想像以上に速く変化していることを認めた。

But as Harvard biologist Marc Hauser now concedes, evidence is "sorely missing" that language, morals and many other human behaviors exist because they help us mate and reproduce. And Steven Pinker, one of evo-psych's most prominent popularizers, now admits that many human genes are changing more quickly than anyone imagined.


 つまり、男女の差とかを進化論的に説明するっていうのは、ただの、フカシ、なんじゃないの。
 それと、ピンカーの邦訳書の話は、御大がすでに転向してんじゃないの。
 とか思った。

脳機能に影響を及ぼす遺伝子が高速で進化しているとすれば、石器時代の遺伝子が存在するという前提も見直す必要があるかもしれない。

If genes that affect brain function and therefore behavior are also evolving quickly, then we do not have the Stone Age brains that evo-psych supposes, and the field "may have to reconsider the simplifying assumption that biological evolution was pretty much over" 50,000 years ago, Pinker says.


 邦訳のほうではピンカーの明記はないけど、まあ、現存の人類ってこの5万年くらいの進化の産物かもしれない、っていうか、脳とかに関連していうと。栄養吸収とか代謝とかはそうもいかないだろうけど。

 それにしても、人間は本質的に原始人と変わらないという説が長い間支持されたのはなぜか。「科学の世界でも」と、神経学者ロジャー・ビンガムは言う。「魅力的なストーリーはときにデータに勝る」

How has the view that reproduction is all, and that humans are just cavemen with better haircuts, hung on so long? "Even in science," says neuroscientist Roger Bingham of the University of California, San Diego, "a seductive story will sometimes … outpace the data." And withstand it, too.


cover
神々の沈黙
意識の誕生と文明の興亡
ジュリアン・ジェインズ
 というわけで、人類の脳機能の高度化は、けっこう最近のことかもしれないというか、それって進化というより、特定の脳機能の一時的な定着みたいなものかもしれないなとも思うが。っていうか、ジュリアン・ジェインズが微妙に正しいのかもしれん。


追加(2009.3.18)
 ピンカーはペグリーの記事に苦情を述べていた。日本版ニューズウィーク(3.25)より。


人間の心理は子諾の環境の中ではぐくまれたものに加え、現代の環境に適応して変化すると思われるからだ。
 ペグリーはこの結論を曲げて解釈し、私が「転向」したと決めつけた。さらにペグリーは、「すべての心理的特性は環境で変わる」という仮説を、あたかも私が信じているかのように書いている。

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2009.01.14

本屋が変わったなぁと思った

 先日九段下あたりを歩いていたら歩道に警官が集まっていて通れませんと言われた。困惑した。なんだろと思っているのは私ばかりではなく、なんとなく、なんだなんだの小さな人集りができている。私も気になって、そこいらにいる人の立ち話をそれとなく聞いていたのだが、爆弾だとか靖国神社とかそんなキーワードがあり、要するに私には関係ないな、桑原桑原と思って回り道したのだが、そういえばと神田の古本屋街に回ってみた。自分がいままでまるで関心をもったことのない領域のある種の本をちょっと調べてみたいと思っていたのだった。
 神田の古本屋街を歩くのは別段久しぶりでもないのだが、意外と神田で本屋の中に入るということはなくなったなと思った。もちろん、私も本好きにありがちな行動だが歩道に並んでいる古書店の店頭の本のツラなどはよく見るし、のらくろの昔の本とかめっけて買うかなとか立ち止まって考えることもある。学生時代も沖縄出奔前も終日この町をしらみつぶしに見て歩いたものだったが、あのころの自分はどうしたのだろう。そういえば知人が構えていた事務所とかどうなかったかなとか、町並みを歩きながら懐かしく思った。
 今回は書泉と三省堂に入ってみたのだが、お目当ての本がまるで無かった。それ以前に、うぁ売り場が狭いなと驚いた。実際に狭いのか記憶と照合してみるとそうでもない。三省堂のほうもそういう印象があった。もちろん建て替え後の三省堂なのだけどね。
 しばしそういう思いの自分に呆然としたものの、これじゃ埒があかないと神保町から都営で新宿に出てジュンク堂に回ったのだが、その過程でようやく気が付いた。狭いというのはジュンク堂と無意識に比較していたわけか。東京に戻ってから見る本屋といえば、池袋のジュンク堂と新宿のジュンク堂、それと紀伊国屋くらいなものだな。しかも、ジュンク堂についてはあらかた出かける前にネットで蔵書の状態を下調べしたりする。
 どうして自分はこうなっちゃったんだろとジュンク堂に着いてから考えた。もちろん、ジュンク堂にはお目当ての本はあったし、その関連書もわかって、一通り欲しかった情報のメンタルマップみたいのもわかったのだが、それでも10年以上前の本とかはないし、アマゾンで古書の状況を照合したくもなった。というあたりで、いつからそんなふうに書籍を考えるようになったのだろうかと、我に返った。
 そういえば、昔は紀伊国屋など毎日に近く寄って舐めるように書架を見ていたので、店員くらい書籍の状態を知っていたものだ。つまり本屋に自分がアクセスするという行動それ自体に意味があったし、その行動でしか知り得ない、ある体系的な知識のようなものがあったものだった。いつからか、それが、なんというのだろう、フラットな、電子テキスト化された情報になったような気がする。本という物じゃなくて。
 そういえばの続きで、私はオープン書架の図書館で学部生時代短期だったがアルバイトをしていたこともあった。もともと図書館が好きでうろうろしているのと書棚の整理をしているのとたいして変わらないなということでもあったが、バイトのおかげで若干の図書館学の勉強にもなったし、なんというのか人がどういうふうに書籍を手に取るのか感覚的にわかったように思えた。ああいう感覚って、現代の若い人は持てるのだろうか。持てないわけもないと思うし、それが重要だと言いたいわけでもないのだが、もどかしい感じがする。
 物思いだけで疲れた感じがしてジュンク堂で休んで、そういえば、古書というのも大きな存在になったと思った。アマゾンでも古書が充実しているようになったが、ようするにネットのおかげで探してカネだせばたいていの古書は見つかるようになった。学生時代に読みたかったけどなんとなく機会を逸したような本でも、思い出せば入手できる。そして購入して読む。不思議なものだ。選んだ古書は面白く、読めば新鮮に感じられもする。
 ブログでは、ここでもそうだが、書籍にアフィリエイトコードを貼ったりするし、なんというのか書評ブログみたいのもあるが、たぶん儲けというかビジネス的には、エントリでは新刊書を回したほうがいいのだろう。そういえば年末、2008年に読んだベスト本リストというエントリもよく見かけたものだった。それが悪いわけでもないし、出版業界や本屋は新刊書を回していかなくてはならないのだろうが、人が読むべきというか人が書籍に出会うというのとはなにか違うように思う。本屋でないと本に出会えないとまでは言わないが。
 神田の古本屋街を迂回しているとき、ふと、あのあたりにはエロ本屋があったっけとか思い返したりもした。当時はビニ本と呼ばれていた。気取るわけではないがあまりご厄介になったことはないが(高かったし)、なんというのかこの手のアングラ・エロ本というのはそれなりに戦後の歴史そのものという部分もあったに違いない。エロ本はあまり見て無いというのに続けていうのもなんだが、ヌード写真に盲腸手術の跡なんていうのも、見かけなくなったな。縦に切らなくなったからか手術が少なくなったのか、画像処理で消してしまうのか……いや、それ以前にヌード写真とか見なくなったな、俺。ああいう世界もずーんとデジタル化されちゃったということなんだろうか。

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2009.01.12

成人の日に

 さっきNHKの「爆笑問題のニッポンの教養 成人の日スペシャル」(参照)という番組を見ていた。爆笑問題(漫才師)、立花隆(評論家・ジャーナリスト)、 糸井重里(コピーライター)、矢口真里(タレント・歌手)という面子。番組は現代らしく、40歳過ぎの面々が一様に、20歳になったからといって大人になったという自覚はなくて、そう思えたのは、40歳過ぎてから、人を雇うにようになってから、子どもができてからみたいな話だった。爆笑問題が二人とも40代半ば、糸井が60歳、立花が68歳で、矢口が25歳ということで、そうだな、俺みたいな50代はなかったが(今年で私は52歳になる)。
 話の流れで、糸井さんにお子さんができたのはというのがあって、1981年と聞き、ふーんと思った。33歳くらいにできた子で今27歳くらいになるのだろう。その話はそこでぷつんと切れたが。
 番組を見たのは偶然だったが、今日街中で成人式の女性をずいぶん見かけたこともあっていろいろ物思いみたいのはあった。新成人についての私の率直な印象は、げ、でかいな、この女、というのと、首に巻いた、あれなんというのか、ショール? 随分派手だな、くらいか。もちろん、着物も派手だし、私が二十歳ころの着物となんか違うようにも思ったし、それをいうなら所作も違うのだが、時代の変化にどうこういうのも野暮というものだろう。
 成人の日といえば、新聞社説でもまいどながら新成人の若者に語るふうの話がある。今年は平成生まれが二十歳になるというのだから、その趣向もわからないでもない。私はといえば特に、新成人に語ることなんかない。ああいうのは、それなりに社会的に成功した人が、若者に私たちのようになれよ、と、フカすものなんで、私のような人生の失敗者には出る幕もないのだが、が、というのは、こう言うとなんだが、たぶん、新成人の多くは、普通の意味では社会的には成功しないだろうと思う。どっちかといえば失敗したな俺の人生って、50歳くらいに思うようになると思う。もちろん、結論を先にいうと、その途中くらいで、人生って別段社会的な成功とか失敗ってもんじゃないなという転機はあるものだけど。
 ということをちょっと書いてみてもいいかもしれないなと思った。このねじくれた精神のブログを新成人が読むとも思えないけど。
 52歳にもなる私だが、20歳の成人の日のことはよく覚えている。地方行政が用意した集会で中学の同級生とすげー久しぶりにあって驚いたものだった。つうことは、15歳からの5年間というのはすげー長い日々だったという実感がある。恐ろしいことに、その5年間と、それからの30年ン年とどっちが長いかという、印象としては前者だったりする。つうことは、人生は短い。唖然とするね。
 会合では国歌斉唱だったか君が代斉唱だったかでご起立をと言われてたが、たぶん私だけ座っていた。口パクもしなかった。バカじゃね、君が代は国歌でもなんでもねーよ、法的根拠もないし(当時はなかった)、歌詞の来歴もわからねー(典拠はないはず)、メロディーも明治政府が擬古的に作り直したもん(最初外人に作らせてこけた)で伝統も歴史もねーよ、けっ、とか思っていたし、私は全共闘世代ではないけど、戦後民主主義教育をべたに受けた真っ直ぐ少年でもあった。そんなもの。
 それからとある著名人の講演があった。今でも覚えているのは、そのオッサンが自分の人生を実現するのに子どもを作らないと決めた、そういう人生もあるのだと熱弁していたことだった。もちろん、何言ってんのこのオッサンと思っていた。今思うと彼は今の私の年だった。そう考えると、今頃、彼の心情がわからないでもないなと思うことはあるにはある。彼は社会的に成功した人だったし、その後の人生も成功と言えるだろう。今もご健在だし。ただ、お子さんはその後もなかっただろうな。
 成人したという記憶といえばそのくらいか。私が酒を飲んだのは20歳以降だったと思う。家にある酒をちらと味見くらいはしたことはあったかと思うが、飲むというほどでもなかったと記憶している。そして、それから人生に二度くらい悪酔いした。三度くらいだったかな。でもそのくらい。酒で吐いたことはない。酒に合う体質でもなかった。遺伝的なものだろう。が、今思うと、それでもひどい酒飲んでいたなと思う。若いとまずい酒飲めるよなと思う。というあたりで、自分はもう若くはない。いつまでたっても私の心性は中二病みたいなところがあるけど、それでもどっかで、えいやと死の方向の橋をなんどか渡ってしまった。
 人生厳しいなというのの最初は25歳で人生に蹉跌したことだった。ああ、俺の人生終わりだなと思った。実際人生終わりだったと言ってもいいだろう。自分が社会的な失敗者になったのは、あそこで決まっていたなと思う。あの感覚は、なんというか、20歳過ぎていつになったら自分の本当の人生が始まるんだろうと思っていたのに、緞帳が上がったら終わっていたみたいな感じだった。へぇ、人生って終わった光景を見ることから始るんだと思った。イヤミで言うわけじゃないけど、これはたぶん少なからぬ人が普通に経験することだと思う。
 それから社会的にはいてもいなくてもいいような些細な人間として生存していたのだがそれなりいろいろあったり死にかけたりした。つまり、そういうのが自分の人生だったし、運命だった。
 夏目漱石を思うと50歳まで自分が生きているとはあのころ到底思えなかったし、それを言うなら40歳に達しなかった太宰治の享年も越えたのが、へぇと思ったし、三島由起夫の年も越えた。へぇ、俺って生きているんだ、ウソみたいじゃね、と。そうした、なんというか道標のように思った人の享年を越えて思った。
 新成人の人も、大半はたぶん50歳くらいまでは生きている。邱永漢が、人間というのは酷使しても50歳までは生きるものだなと書いていたが、それはそうかもしれない。無謀な人はそのあたりで消えるが、そのくらいまでは生きる。
 新成人のなかには、あと30年も生きるなんて悪夢だと思う人もいるだろうけど、そんなものだ。二回くらい大きな蹉跌があって、それを越えて、ぼろぼろになって、へぇ、自分ってもう子どもじゃないなって悲しい感じがする。泣くかもしれない。私は泣いたな。そして、ああ、自分にも20歳だったころがあったなと思い返した。そう思うときに、どんなにみじめでも20歳の日々はそれなりに、というか、自分にとっては大切ものだったと確認する。それがつまりは、自分が自分であることなんだろうし、自分で自分の運命を了解しつつ生きることになる、というか、20歳以降はふつうにそうなるだろうと思う。

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