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2009.07.17

[書評]アダム・スミス 『道徳感情論』と『国富論』の世界(堂目卓生)

 ところで今日7月17日は経済学の祖と言われるアダム・スミス(Adam Smith)の命日である。1723年の初夏、対岸にエディンバラを臨む、スコットランドの港町カコーディーに彼は生まれたが、その日のほうはわかっていない。幼児洗礼を施された6月5日を便宜上誕生日と見なすこともある。父は弁護士で税関監督官の仕事をしていたが、アダムが生まれる半年前に急死し、身重の17歳の妻を残した。アダムは極貧に育ち、母を支え、生涯妻を娶らなかった。童貞だったかどうかはあまりスミス研究において重視されないようでもある。

cover
アダム・スミス
『道徳感情論』と
『国富論』の世界
 2008年に、日経新聞掲載記事を膨らませる形で描かれ、同年サントリー学芸賞政治・経済部門を受賞し、また同年のエコノミストが選ぶ経済図書ベスト10にも入った堂目卓生著「アダム・スミス 『道徳感情論』と『国富論』の世界」(参照)には、そうした話、つまりアダム・スミスの私生活に類した話は、ほとんど描かれていない。描かれているのは、「国富論(An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations )」によって経済学の祖と言われるアダム・スミスの思想、日本でも流布されている従来からのアダム・スミス思想としての、経済の自由放任主義(レッセフェール)について、原典を丹念に読み解くことによって、誤解を解いていく姿だ。
 アダム・スミスの思想は、従来、市場の予定調和的機能を比喩にした「見えざる手(invisible hand)」をキーワードとし、個々人の利己心に基づく利益追求が、自由な市場を介することで社会全体の利益につながるという主張として受け止められてきた。政府による市場規制を撤廃し、健全な企業競争を促進すれば、国家は高い経済成長を遂げるという、昨今の日本では新自由主義や小泉改革とも呼ばれるものにすら、誤解されてきた。
 本書は、こうした謬見を除くために、スミスの、実際上二つしかない主要著作を有機的に見直すことで、特に前著とされる「道徳感情論(The Theory of Moral Sentiments)」に見られる人間観と社会観の哲学を基礎にして、「国富論」を解明していく。本書はわかりやい解説的な記述と読みやすい文体で描かれた、アダム・スミス思想の最善の入門書といえるだろうし、すでに固まっていると見られる本書への評価も頷けることだろう。印象としては、清水書院からシリーズで刊行されている哲学者解説書といった趣もあり、高校生でも理解できるだろう。むしろ、高校生・大学生が読むのに適切な書籍でもある。
 私が本書を読んで、一種得したような印象を持ったは、「道徳感情論」の懇切な解説によって、先日のエントリ「今こそアーレントを読み直す(仲正昌樹)」(参照)でも触れたが、アーレントの描かれざる最終的な思想の到達点における、スミスの哲学の関わりがより明確になったことからだった。端的に言えば、哲学者アーレントが彼女の最終的な関心事として収斂した先にあったものが、スミス哲学における「共感(sympathy)」と「公平な観察者(the impartial spectator)」の、近代から現代、そして未来の人類の倫理学の姿であったのだと納得できた。本書を読みながら、アーレントが、加えて言うなら同じくスミスの影響を受けたカントが、どのように人間と社会を考察していったのか、その思索の基礎の定跡といったものがスミス思想の解説によって見えてきたように思えた。
 本書著者堂目氏はそれを上手にかつわかりやすく表現しているが、私の理解としてはこうだ。アダム・スミスは、人間存在は、それぞれが利己的な要求に駆られつつも、共感(同情)という心的特性を持ち、さらにその共感の抽象的、原理的、遠隔的、理想的な直感によって「公平な観察者」の存在を確信し理解し、そこから内面の倫理基準として持つことで、同時に他者もそれを持つだろうという共感による予期と行動を持つ。そして、それらの、ある種経済学的な均衡の原理が、社会の倫理・道徳を支えていると捉えた。単純に言えば、世の中に出合う人々との経験から、みんなが持ち得る妥当で公平な善というものの観点で自己を律することができるゆえに、社会が成り立つのだという社会原理の提示である。
 この、人間の相互視点を全体として、ある種ゲーム理論のように捉える考え方にすでに、経済学的な社会観、つまり社会全体を利する富への志向を見るところに、国富論的な関連を見ることができるし、堂目氏は、「道徳感情論」に示されたスミスの人間観こそが、後に経済学の基礎となる経済人を構成しているとしている。
 そこには、現在関心の高まる行動経済学における、従来の経済学における経済人=エコノ、対、人間的な心情から過ちを冒す人間=ヒューマン、といった二元性を越えて、人間社会にとってあるべき経済学を再構築しようとするようにも見える。
 しかし、私はここで違和感も覚える。恥ずかしい話ではあるが、私は国富論を読んだことがない。それを言うなら道徳感情論もそうなのだが、それで済ませてきたのは、私の世代の知識人は青年期にこってりとマルクス経済学を叩き込まれ、その一部として、国富論とアダム・スミスは内包され、克服されたものと見なしていた。また私の時代におけるマル経の宿敵ケインズ経済学も、ジョン・スチュアート・ミル(John Stuart Mill)を経由して抽象化されたスミス経済学によって、原典はすでに乗り越えたもの見られていたように思う。ゆえに、国富論は、古典派経済学(classical economics)の歴史学習を含めた、読みづらい入門としての古典といった意味合いしかなかった。
 本書に沿って、道徳感情論的な人間観を理解し、その上に構築されたと見ることで、国富論の本来の姿が明らかになるだろうか? 私は、率直に言って、ある種まとまりのなさとでも言うような印象を受けた。著者の国富論理解さらに道徳感情論理解が間違っているというのではない。
 道徳感情論の解説がそれほどにはうまく国富論の解説に接続していない印象も受けた。接合の説明がまずい、あるいは全体象が描かれていないということではない。僭越な言い方になるが、道徳感情論からスミスの人間観を取り出し、そこをベースに国富論を読み返すことで、現代人に示唆を与える、人間らしい人間観を含んだ経済学の構築という構想、それはそもそも無理なのではないだろうか。そう思えた。
 私のようにマル経から経済学を学んだ人間には、国富論において、スミスが、分業が交換の原因ではなく、逆に交換が分業の原因であり、なぜ人間は交換を行うかといえば、そのような交換を求める本性があるのだとする視点は、カール・ポランニの人類経済学を思わせる興味深い指摘でもあるが、こうした「それ以上は説明できないような本源的な原理」といった基礎による理論構築は、古典世界的な、超越的な倫理の措定であり、ここから人間らしさと社会の利益を構想しても、古典的な、緩和であれパターナリズムにしかならないのではないだろうか。
 また、国富論の経済学的な考察は、その標題「諸国民の富の性質と原因の研究」が暗示するように、スミスの時代の英国における重商主義という国策と、当時まさに独立せんとする植民地アメリカを介して英国がいかにあるべきかという国策に収斂するように見える。フランス革命の動向にも、英国の国益的な視点から所定の思索的な距離を設定していたように見える。
 それらの考察において、スミスがその後の米国の台頭を正確に見抜いていることは驚きもあるし、アーレントがフランス革命ではなく米国独立の思想を評価する差異とも呼応するし、そこには確かな先見性があった。しかし、別の言い方をすれば、スミス思想の今日的な価値は、国富論より道徳感情論の中に胚胎するのであって、国富論における従来の、レッセフェール的な理解の是正による示唆・再考は、それほど現代において重要性を持たないのではないだろうか。

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2009.07.16

ナッジの視点から見た改正臓器移植法

 改正臓器移植法が13日に成立し、これで日本人にとって死は脳死ということになったと言ってよいだろう。もちろん、死のとらえ方は個人の領域の問題でもあり、改正法によってもその人の生前意思として脳死は死ではないのだと言うに等しい余地は残されている。それでも私は違和感が残った。「脳死は人の死か」というこの難問の根幹についてではない。その問題についてなら、いささか奇妙な視点ともいえるが、「[書評]昏睡状態の人と対話する(アーノルド・ミンデル)」(参照)、「極東ブログ: [書評]記憶する心臓―ある心臓移植患者の手記(クレア・シルヴィア他)」(参照)、「極東ブログ: [書評]内臓が生みだす心(西原克成)」(参照)などともあわせて、自分なりの考察してきたし、今後も機会があれば進めたいと思っている。
 違和感は、衆院選挙に向けて拙速に決めてしまった政治屋や、本来こうした問題こそ政党に問われるべきことが党議拘束を外して政治の外に放り出した無責任な政治屋についてでもない。政治屋とはそんなものだ。そうではなく、社会的ナッジの視点から見た場合、改正臓器移植法はどうなのだろうかということだ。
 ナッジについては「[書評]実践 行動経済学 --- 健康、富、幸福への聡明な選択(リチャード・セイラー、キャス・サンスティーン)」(参照)で触れた。同書では、臓器移植について社会はどのようにナッジを設計すべきかということについて丸一章分を当てている。「第11章 臓器提供者を増やす方法」という章題からも、臓器提供者を増やすための社会的ナッジの設計を論じているのがわかる。それを読みながら、むしろ日本の改正臓器移植法に私は違和感を覚えた。
 同書に触れられている米国での事実(ファクツ)からまず紹介したい。というのも、こうした点についての日本のファクツについて私は知らないでいるからだ。
 米国で臓器移植が成功したのは1954年、死者からの移植が実施されたのはその8年後。1988年以降、36万件以上の臓器が移植され、死者からの提供はその80%に及ぶ。臓器に対する需要は供給を大きく上回っており、2006年の待機者リストは米国で9万人。年率12%の増加を示している。臓器提供を受けないがゆえに死ぬ人も多い。
 同書ではこうした状況から臓器提供をさらに増やすための社会的ナッジを考察していくのだが、では日本に比べれば遙かに臓器移植の先進国に見える米国は、どのような問題を抱えているのだろうか。ファクツに戻る。
 米国では潜在的なドナー(提供者)の脳死患者は年1万2000人から1万5000人。ドナーはその半分(なお、ドナー1人から3つの臓器が摘出できる)。残り半分の臓器提供を米国において阻んでいるのは、「遺族からの同意を得る必要があること」とされている。米国では遺族の同意が得られにくいようだ。
 同書を読みながら私が疑問に思ったのは、では遺族の同意をはばんでいるのは何かということだ。宗教観だろうか。同書を読み進めると、ナッジ設計において議論されているのは、いかに多くの人に臓器提供の意思を明示化させるかということだった。どうやら米国では、脳死になった本人が臓器提供の意思を持っていたか不明の場合、デフォルトでは、本人意思がわからないゆえに他者はその意思を代行できないということのようだ。
 今回の日本の改正臓器移植法でも、米国と同様に脳死者の家族の承諾で臓器移植が提供できることになるので、米国と同じようになったとも見える。脳死となった本人が生前、臓器提供の意思を持たなければそれが尊重されれるという点でも米国と同じだ。なのに、米国で「本人意思がわからないゆえに他者はその意思を代行できない」ということが通例となっているのはなぜだろうか。
 同書のナッジ設計の議論を読むと、まず米国では脳死について連邦ではなく州法で扱うのだが、大半の州が「明示的同意ルール」を持つという。これは、「臓器提供者になるには、規定の手順に従って臓器を提供する意思を表明しなければならない」ということだ。日本の、以前のドナーカードの機能にも似ている。米国の場合、本人の「明示的同意ルール」がまず尊重され、それが不明の場合は、家族もその意思に介入しないことが多いということのようだ。くどいが、でなければ、「明示的同意ルール」が、悪しきナッジとして本書で議論されるわけはない。
 「明示的同意ルール」の次に、同書では「ルーチン的摘出ルール」を説明する。これは脳死の臓器移植について州が権利を持つというもので、実際にこれを採用している州はなく、端的に言えば論外としていいだろう。ただし、死者の網膜摘出についてはこの規定を持つ州があるそうだ。
 私が一番疑問に思ったのは、その次の「推定同意ルール」である。「推定同意方式ではすべての市民は臓器提供に同意しているものと見なされるが、臓器提供に対する不同意の意思表示をする機会が与えられ、その意思表示を簡単に行うことができる」というものだ。ナッジ的な言い方をすれば、臓器提供がデフォルトに設定されている。
 この「推定同意ルール」なのだが、それって日本で今回成立した改正臓器移植法とほぼ同じなのではないだろうか。同書によれば、米国ではほとんどの州が「明示的同意ルール」を持ち、「推定同意ルール」ではない。だから同書のナッジ設計が議論にもなるのだろう。
 「推定同意ルール」は珍しいのだろうか。そうではないようだ、欧州の場合は「推定同意ルール」が多いらしい。日本は欧州型のようだ。


アメリカでは、本人の明示的な同意を表明したドナーカードがない場合には、約半数の家族が臓器提供の要請を断っている。推定同意ルールを採用している国はドナーの希望を示した記録文書がないのがふつうだが、拒否率はずっと低い。

 日本の改正臓器移植法には、欧米諸国のようにデフォルトでドナーの希望文書なしで拒否率を減らすということがもくろまれているのだろう。というか、それが日本における脳死による臓器移植の社会的ナッジとして組み込まれたことになる。
 なぜ米国では「推定同意ルール」ではく「明示的同意ルール」なのか。あるいは、同書は欧州や日本のような「推定同意ルール」を社会的ナッジとして推奨しているのだろうか。それが違うのである。
 米国におけるこの問題の立法についてだが、「推定同意方式は移植に利用できる臓器の供給を増やすにはきわめて効果的な方法だが、政治的的には受け入れやすいとはいいがたい」として、社会的に忌避されているようだ。さらにこう指摘している。

推定同意方式の場合は、ドナーの「暗黙」の同意を家族が覆してしまうおそれがあるが、問題はそれだけではない。前述したように、この考え方は政治的に受け入れられにくい。このような微妙な問題となると、何かを「推定」するという考え方に大勢の人が異議を唱えるようになる。

 ここで私はさらに困惑する。私たち日本の市民は、そのような問題を提出されたことがあっただろうか? A案、B案、C案、D案として提出されたバリエーションはそのような問題を十分内包していただろうか(参照)。
 同書ではこうして欧州や日本型の「推定同意ルール」も臓器移植の社会的ナッジとしては採用せず、もう一つの方法として「命令的選択ルール」を推奨している。具体的には、自動車免許取得の際に、臓器提供の意思を強制的に明示化させるというものだ。「命令的選択ルール」は興味深い社会制度設計の議論だが、今となっては日本とは関係ないことになってしまった。

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2009.07.15

オバマ外交の手旗信号:青上げて赤上げないで青下げる

 「アホでマヌケ」と言われた米国ブッシュ元大統領の外交に比べて、オバマ大統領の外交は「賢い」と言われる。そのやり方はこうだ。人立たせ、「進め」の青い旗を右手に持たせ、「止まれ」の赤い旗を左手に持たせて、こう呼びかける、「はい、青上げて、赤上げぇ……ないで、青下げる」 ちゃんとわかったかな。
 とりあえず話の発端は、5日米国オバマ大統領を支えるバイデン副大統領によるABCニュースでの発言に世界がぶったまげた(参照)。話題はイスラエルによるイランの空爆だ。


BIDEN: Look, Israel can determine for itself -- it's a sovereign nation -- what's in their interest and what they decide to do relative to Iran and anyone else.
バイデン:いいですか、イスラエルというのは主権国家ゆえに自国で何事でも国益に沿って事を決することができるのです。それが対イランであろうがどこの国であってもですね。

STEPHANOPOULOS: Whether we agree or not?
ステファンプーロス:米国は合意しているのですか?

BIDEN: Whether we agree or not. They're entitled to do that. Any sovereign nation is entitled to do that. But there is no pressure from any nation that's going to alter our behavior as to how to proceed.
バイデン:米国が合意するしないの問題ではないのです。イスラエルはできるということです。主権国家というのはそういうものです。しかも米国の対処行動を変更するよう他国から圧力はありません。

What we believe is in the national interest of the United States, which we, coincidentally, believe is also in the interest of Israel and the whole world. And so there are separate issues.
米国には自国の国益があるように、イスラエルやその他の国にも国益があると確信しています。そして国益の内容は別の問題です。

If the Netanyahu government decides to take a course of action different than the one being pursued now, that is their sovereign right to do that. That is not our choice.
もしネタニヤフ首相率いるイスラエル政府が、現状求められている政策とは異なる手段に訴えるとしても、主権国家なのだからそれができます。それは米国の選択の問題ではありません。

STEPHANOPOULOS: You say we can't dictate, but we can, if we choose to, deny over-flight rights here in Iraq. We can stand in the way of a military strike.
ステファンプーロス:つまり、指図はできないとしても、米国が選択するなら、イスラエルによるイラク空域通過は認めないということですね。空爆経路に米国は関われる。


 微妙な会話なのだが、反響が話を明瞭にした。バイデン副大統領はイスラエルによるイラン空爆に「進め」の青旗を揚げたがオバマは否定したということだ。時事「「イラン攻撃容認」説を否定=イスラエルの自制求める-米大統領」(参照)などからわかる。

ロシア訪問中のオバマ米大統領は7日、CNNテレビのインタビューで、イラン核問題に絡んで米国がイスラエルによるイラン攻撃を容認したとの説について、「絶対にそんなことはない」と明確に否定した。
 米国では、バイデン副大統領が5日のテレビ番組で「イスラエルは主権国家であり、イランやその他の国への対処を自ら決定できる」と発言したため、イラン攻撃に「青信号」を出したとの解釈が一部で広がっていた。

 当のCNN報道はニュアンスが違う。CNN「イスラエルによるイラン攻撃の容認ないと、オバマ大統領」(参照)より。

大統領の今回の発言は、バイデン米副大統領が5日、米ABCテレビとの会見で、「イスラエルは主権国家であり、イラン問題を含め自ら決定したことを遂行出来る」とイスラエルのイラン核施設への空爆も許されると受け止められる言動を受けたもの。オバマ氏は副大統領の発言について「あくまでも事実に言及したものであり、シグナルを送ったわけではない」と擁護した。

 つまり、バイデン副大統領が上げた青旗について、ボスのオバマ大統領はイスラエルによる空爆はダメだとの「止まれ」の赤旗は上げていない。下げろとも言ってないようにも見える。結局どうなの?
 報道の流れを見ていると、バイデン副大統領がフライングして、尻ぬぐいをオバマ大統領がしているようにも見えるが、ABCニュースのインタビューにもあるが、イスラエルのネタニヤフ首相は米国からの認可を得ている公言しているわけで、外交的には、オバマはイスラエルよるイラン空爆を認可していると見てもよさそうだ。
 そのあたりの苛立ちはニューヨークタイムズ「10 Weeks」(参照)からも感じられる。

President Obama told CNN that Washington has not given Israel a “green light” to attack. He needs to make sure the Israelis believe him

オバマ大統領はCNNで米国政府がイスラエルに空爆許可の青信号を与えていないと述べた。彼は、イスラエルの人々の信頼を勝ち得ているか確認する必要がある。


 つまり、オバマがその確認作業を対イスラエル政府で行うかどうかが、オバマの実質的な外交の内容を示すだろうということで、その後の流れからすると、その確認作業はないようなので、とすれば9月下旬にはイスラエルによるイラン空爆はオンスケジュールと国際的に見られる余地は残る。
 他方言い出しっぺのサルコジ大統領は真っ青になって、米国を牽制している。時事「イスラエルがイランを攻撃すれば大惨事に=仏大統領」(参照

フランスのサルコジ大統領(写真)は9日、訪問先のイタリア中部ラクイラで、イランの核開発の野心をくじくために、イスラエルが同国を攻撃すれば、大惨事となるのは確実だと警告した。

 ところで9月下旬というスケジュールでことが進むとすると日本はどうなるか。現状の趨勢からすると、民主党鳩山内閣の最初の外交の大仕事になる可能性がある。
 先のニューヨークタイムズでは、「10週後は遠い先のことではない。その間も、イランの核開発は進展する(Ten weeks is not a lot of time. And Iran’s program is moving ahead.)」としているが、国際原子力機関(IAEA)の、期待の天野之弥次期事務局長は、実績あるエルバラダイ現事務局長とは正反対に、イランが核兵器開発能力の取得を目指していることを示す確固たる証拠はみられないとの見解を示している(参照)。鳩山内閣としては、IAEAの見解に沿ってイスラエルや米国に軍事行動は慎むよう、友愛の兜を掲げての奮迅が期待される。

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2009.07.14

2009年8月30日衆院選挙に向けて

 政治の歯車がそれなりに一コマ進んだと言えるのだろうか。とりあえずブログに記しておこう。麻生首相は昨日、衆院を解散することに決め、連立自公幹部の同意を得た。解散は今月21日の週になり、選挙は8月18日公示、8月30日投票の日程で行われることになる。
 麻生総理としては都議選直後の解散を意図していたようでもあったが、自民党内には、都議選惨敗の趨勢の、現状ままで衆院選挙に突入すれば必敗し自民党瓦解も免れないとの思惑もあり、解散阻止包囲網が敷かれる懸念もあったようだ。しかし解散時期はすでに誤差の範囲である。どう転んでも自民党は歴史だ(LDP is history)。ダメもとじゃんの明るい認識と首相としての最後の意志を示すために、この機に解散をしたいということだろう。
 時期設定のためにいろいろと爆笑コントを仕組んでくれた自民党古賀誠選挙対策委員長も笑劇の幕引きとともに辞任するらしい。そういえば都議選開票時に自民都連元会長石原伸晃はお笑いを理解せずに怒りまくっていたが、高度なお笑いはなかなか通じないことがある。
 麻生首相の決断だが、与党の他、野党も応援として、衆院にツンデレ風内閣不信任決議案、参院にこれで国に帰れますの首相問責決議案を提出した。仲良きことは美しきかな。大連立でもよろしく。
 麻生首相に残す期待は、最終日にお家の伝統芸バカヤローの一喝による国民の覚醒だが、国民は「もうどうにでもな~れ」の壮大なガラポンをやる気でいる。官僚は「知らんがな」を決め込んだ(だって民主党政権は続かないでしょのココロ)。

 独自のユーモアをベースとする日本文化としての政局は、海外には理解しづらい。せっかく民主党がどさくさまぎれに不審船舶検査の貨物検査特別措置法案をうやむやに闇に葬ってくれた空気も読まずに、東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれてどーんと祝砲とかやってくれるかもしれない……いやさすがにそれはないか。英国紙フィナンシャルタイムズ「Japan is dared to defeat the LDP」(参照)は、英国流の他文化理解とユーモアセンスで事態を見守っていた。


Yet rather like an ageing overweight sumo wrestler, it is hard to see how the party can avoid being tripped up when the country goes to the polls on August 30.

年を食って太りすぎの力士よろしく、8月30日の衆院選挙で自民党が土俵に転げるさまを見ないですむわけにはいかない。


 自民党は不様に転ぶだろう。日本人の現下の、シェークスピア悲劇のような絶望的な状況もよく理解している。

Yet Japanese voters do not have a scintillating choice of alternatives. The DPJ has just been through its own leadership crisis, with the resignation of the veteran political heavyweight Ichiro Ozawa after a fund-raising scandal. His successor, Yukio Hatoyama, is worthy and uncharismatic. Like Mr Aso, he comes from a long political dynasty, so he does not offer much change for those fed up with the political establishment.

日本の有権者にはまともな選択肢がない。民主党は、老獪な政治家である小沢一郎が資金問題で失脚するという指導者危機を経たばかりだ。その後継の鳩山由紀夫は、取り澄ましていてカリスマ的な魅力がない。麻生氏と同じく、政治家一族の出自である。政治の既得権体制にうんざりしている人々に変化を示すことはない。

Nor has the DPJ spelt out a clear economic platform to deal with the consequences of the global crisis. It is ideologically to the left of the LDP, stressing welfare and social justice. But its real attraction is just in being an alternative. That may be good enough this time.

しかも民主党には国際的な金融危機にどう対処するか明確な経済政策を示していない。同党のイデオロギーは左派なので、福祉や正義を強調するが、国民の人気を得ているのは単に、自民党の代用品というだけのことだ。今回は、そんなところやろ、ぼちぼちでんな。


 かつての同盟国であるジョンブルらしい提言もある。

But Mr Hatoyama has yet to spell out a clear agenda: not just on the economy, but on future relations with the US and, just as important, with China. He needs to show he is serious about power.

鳩山氏が政策として明確にしなくてはならないのは、経済政策だけではない、日米関係と、同じく重要な日中関係の未来をどうするのかということだ。鳩山氏には、国家間の力学に本気で取り組んでいる姿勢を示す必要がある。


 鳩山氏に仮託されているが、文脈からすれば、民主党がもう一度ガラポンした後に立つ指導者が見据えるべき現実を示していると言えるだろう。
 というか、それを見据える東洋の鉄の女の記事をフィナンシャルタイムズは来年の夏頃書くだろうか。

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2009.07.13

2009年東京都都議選、雑感

 後出しじゃんけんのようになるが今回の都議選の結果は概ね想定の範囲だった。率直に言うと、実質的な争点もなく、それほど重要な選挙でもないようには思えて、あまり関心はなかった。が、都民の一人として一票の意味が重い選挙でもあり、昨日は早々に投票した。
 事前の関心事は、しいて言えば、自公で過半数が取れないという事態になるか、だった。微妙に僅差で取れないというあたりか、と見ていた。蓋を開けたところ、自公が61、野党が66なので、自分が思ったよりやや野党の伸びが目立った。
 概ね想定の範囲と言いながら、ここの読みは違ったかなというのは二点あった。一つは公明党の全勝だった。この手の選挙に強いというのは知っているが今回はガチな強さを見せつけられた形になって唸った。逆に言えば、自民はそれだけガチにはなれない弱さもあったということだが、では民主党がガチに進めていたかというとそれほどでもないだろう。自民が10席減らし、民主が20席増やしたのは、時代の空気の影響も大きいだろう。実際一都民としてみると、自公と民主の候補に政策的な差はほとんど感じられなかった。
 自民減10席が民主に移ったのかというと、民主はこれに上乗せの10席があり、共産など小勢力から奪った形になっている。共産党の言う「たしかな野党」は議論の外に出された感もあるが、この勢力が東京オリンピック反対など、むしろ争点を担っていた。自民党大敗と言われているが、民主の勝利分の半分の要因にすぎないので、それほどでもないという印象が強い。
 争点は明確ではなかった。少なくとも投票者の立場からすると、自公と民主の差は見つけづらい。しいて言えば、新銀行東京存続、築地移転見直し、オリンピック開催という三点になるのだろう。新銀行への追加融資400億円について民主は反対していたので、ここは石原都政としては方向転換が求められるだろう。が、この問題、方向を変えれば好転するということもない。実際のところ、どの選択でもあまりよい未来はなく、その意味では都民生活の展望に関わることとは言い難い。
 新銀行東京存続で自公がごり押しのように見えたのは、「融資先企業をつぶせない」というご事情があったからで、つまりその融資先が自公の利益地盤になっている。今回の選挙で自民が「大敗」したかに見えるが、この利益地盤の必死さの最低ラインは防衛されているようにも見えるし、民主党もその利益地盤に無関係ともいえず、ごりっと押すこともできないだろう。その意味でも、それなりに緩和な顛末になるだろう。
 築地移転見直しも民主は推進しているが、有害化学物質対策がイコール移転という強い政策を推すわけにもいかないだろう。オリンピック開催については、OICからダメが出てほっとするのではないだろうか。そう考えると都政の変化は乏しいし、自公都政への否定と捉える向きもあるが、石原都政にあまり変化はないのではないか。
 今回の都議会の勢力配置変化が政策決定の際にどう現れるか。あまり変化が想定できない。野党が優勢とはいえ、民主に対抗しているのも野党内の勢力なので野党協調ということは難しいだろう。国政の場合は社民・国民新が民主に取り込まれた形になっているが都政にはこれらは存在しない。とすると、実質都政は、自公に民主の大連立という形にならざるを得ない。そのあたりでいろいろ個別の利害で落とし所が決まるという、やはり緩和な行政となるだろう。
 投票率がアップしたとのことだが、個人的には若い人の層がどのくらいアップしたかが気になる。どこかに統計が出ているだろうか。私の印象では、普通の国家に相当する行政体である東京都の市民における本質的な利害の対立は、自営業的な自公支持、対、老後安定を願う郊外市民的な民主支持、ではないかと思う。世代間闘争のようなものが表面化し投票に反映したなら、若い人はどっちも嫌だということになり、ここまで民主党は伸びなかったのではないか。つまり、小党の票を奪った民主の伸びからは、若者の政治離れというか、じんわりまったりした挫折感が広がっているように感じられた。
 大手紙を含めマスメディアは、今回の結果で衆院選を占い、また総選挙時期の前倒しが叫ばれているようだ。都議選と国政選挙は関係ないかというと、県知事選のように一人を選ぶのではなく、多数を選ぶという点で党の指導性が問われるという点から、それなりの影響はあるだろう。党の指導性という点からしても、端的に言って、衆院選挙では自民党は大敗するだろう。
 衆院選挙のほうでは都議選より小選挙区制の部分があり、まさにこの時期に読まれるべき「バカヤロー経済学」(参照)の先生が指摘しているデュヴェルジェの法則が強く働き、二大政党化が進む。それゆえに小政党にキャスティング・ヴォートが握られることを予見して社民・国民新がすでに民主に巻き込まれているが、実際に政権を担えば、個別案件で民主党政権では合意は出せない。朝日新聞社説は「都議選終えて - 混沌の出口はただ一つ」(参照)と主張しているが、「出口」ではなく「入口」となるだろう。

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