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2009.06.26

[書評]サブリミナル・インパクト 情動と潜在認知の現代(下條信輔)

 人間は自分で意識し、自由な意志をもって行動していると思い込んでいる。だが脳の機能を実験的に解明していくと、実は本人が自覚していない脳の認識プロセスの結果として、その意識や意志が出力されていることが明らかになってきた。

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サブリミナル・インパクト
情動と潜在認知の現代
下條信輔
 本人が気がつかない何かが、その人の意識を決定しているというのだ。では、その何かとは何か。現代に溢れる各種メディアの情報である。意識的に気がつかないがゆえに、本人の意識の及ばないところにあってその意識に注入され、意識を決定する。それが現在の人間の置かれた状況であり、そもそも人間とはそのような存在として進化してきたのではないか。本書「サブリミナル・インパクト 情動と潜在認知の現代(下條信輔)」(参照)が問い掛ける、ある意味で奇っ怪なメッセージはそれだ。
 人の脳の意識構造にありながら本人は意識していない領域を、著者下條は潜在認知と呼び、潜在認知を突き動かしているのは情動であると考えている。人が自覚的に思っている意識をするりと抜け、潜在認知に意識や意志の種を撒く仕組みとして情動が捉えられている。そんなことがあるのだろうかと疑うなら、本書で提示された実験や考察の累積を追ってみるとよい。それは科学的な事実であると見て妥当なものだろう。
 情動を加味して与えられる情報によって人間の自由意志が奪われるならば、自由であるべき人間はどのようにこの状況に対抗すべきか……。違うのだ。この現状は安易に克服はできない。状況を加速しているのは、世界の背後にあって人間の意識を操ろうとしている悪の実体ではない。人間の進化のありかたが、まさにこの状況を求めて作り出したのだ。自縄自縛の世界を欲したのは人間でもある。
 問われれば、そんなことがあるのかと疑問に思いながら、現代人の欲望を内省してみても、それが外部の情報によって枠取られていることがわかるはずだ。例えば、アマゾンのサイトで書籍を買おうと説明を読めば、「本書を購入した読者はこの本も購入しています」と勧められる。そんな他者の購買活動などどうでもよいのではないかと思う以前に、人の欲望の動向に意識はすでに動いて、潜在的に欲望が枠取られている。そしてそのことが心地よいのだ。欲しい書籍の類書が読みたい。もっと面白い書籍が読みたい。他者の欲望をなぞりたい。そうした要求に、この情報システムは応えている。確かにそうだ。
 そもそも欲望によって彩られた情報が提示されなければ、欲望の形すら自分で描くことができないほど、私たちは自由になり、自由の磔刑でうめく乾きは「それがお前の欲望なのだ」と示してくれる情報を求めている。
 人間の選択意志が弱いからこうなったのではない。多くの選択肢のなかからもっとも快感をもたらすものを選び出すための効率的な仕組みとしてできた達成であり、脳はその効率の速度に見合うように進化している。そのエンジンたる快感は、外界から「飴と鞭」の飴として与えられたものではなく、脳それ自体の内部に報酬の快感を放出する自己完結的な仕組みをもっているようだ。人を走らせるニンジンは脳内に吊されているのだ。
 情報を提供する側も、情動と潜在認知によって突き動かされる人間に最適化しなければならない。広告情報も政治メッセージも、基本的に、情報選択肢を減らし、欲望を誘導し、そのプロセスを潜在意識に効果的に経済的に送り込むことが求められいる。
 具体的なレベルで人の潜在を支配する情報がどのように形成されるかについて、本書では、繰り返しや、非言語的な映像メッセージなどの提示に加え、選び出された主人公による物語を挙げているのが興味深い。人にある消費行動や政治行動を取らせるためには、人々の意識を、ある主人公の物語に向けさせ、その主人公への共感から情動を惹起する。かくして、情動を経由して物語りの背後のメッセージが潜在意識に刷り込まれる。
 そんなことは取り立てて言うまでもないことのように思えるし、今に始まったことでもないようにも見える。しかし本書の読後私が思ったのは、その過剰の再認識だった。現在の情報の状況、特に消費情報や政治情報を見ていくと、諸問題は命題の形ではなく、どれも「ある主人公の情感的な物語」になっていることに唖然とする。日本の福祉はどうあるべきか、外交はどうあるべきか、労働者はどうあるべきか、年金はどうあるべきか、裁判制度はどうあるべきか、ブログの可能性はどうあるべきか。それら諸問題は、もはや命題としては問われていない。代わりに、それぞれに「ある主人公の情感的な物語」が立てられ、私たちはその物語に情動的に反応しているだけだ。しかも人は、情動への反応をそれが正しいとして脳内の快感の報酬を得ている。「正しい」とは、その消費情報や政治情報を自身の意志としたということだ。
 ぞっとする状況だとも言える。だが著者下條は、人間のこうした状況を良いとも悪いとも見ていない。両義的なものだとしている。むしろ、人間の進化の潜在性の開花としてそれがどこに辿り着くのかに科学者としての関心を向けている。
 それでも「マクドの賢い客」になりたいものだと最後に控え目に提言していることは重要だろう。マクドナルドに置かれた椅子は、環境管理型権力として現れているが、それがそのような現れを人は「マクドの賢い客」として否定できるのではないかと下條は疑念を投げている。本書の考察はその提言でぶっきらぼうに終わるようにも見える。だからこそ。その先の思索と研究を著者下條に求めたい気持ちにさせる。
 以上は「序章 心が先か身体が先か―情動と潜在認知」「第1章 「快」はどこから来るのか」「第2章 刺激の過剰」「第3章 消費者は自由か」「第4章 情動の政治」を私なりに受け取ったものだが、「第5章 創造性と「暗黙知の海」」ではテーマの方向性を変わり、創造性の問題に取り組んでいる。マイケル・ボランニの暗黙知の理論を継承し、新しい視点から俯瞰した内容になっている。この章は、前章までを前提としているものの、別の問題系列として別冊にしてもよかったのではないかとも思えるほどだ。
 なお、本書は現在カリフォルニア工科大学生物学部教授の下條信輔による9年ぶりの著作で、本書標題から連想されるように中公新書の前作「サブリミナル・マインド 潜在的人間観のゆくえ」(参照)の続編といった印象を受ける著作でもある。本書あとがきで本人も続編として捉えてよいとし、また本書は応用編であり前著は基礎編であるとも述べている。別の前著で双子の作品としている講談社現代新書の「「意識」とは何だろうか 脳の来歴、知覚の錯誤」(参照)も、その意味で基礎編になる。
 私の印象としては前二著は10年前の神経情報処理の最前線をプレーンにまとめたサイエンス解説書だが、本書はかなり大胆に哲学・思想的な考察に踏み出してスリリングだった。新書の形態を取りながら、なかなかの大著といった印象も読後に残こす。だが文体が前二著に比べ、軽快に読み進めることができるので、難しい読書ではないだろう。心理学の心得のある人ならそこここに心理学用語や知見を見いだすこともできるだろうが、巧妙な語りゆえにそこでひっかかることはないだろうし、前二著を読まなくても本書は読めるだろう。

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2009.06.21

[書評]イスラムの怒り(内藤正典)

 もう15年ほど前になるが私がトルコ旅行をした後、内藤正典のトルコ滞在記「トルコのものさし日本のものさし」(参照)を読み、自分と同世代で、普通のムスリムの生活をやさしく見つめるこの論者に関心を持ち続けてきた。近著「イスラムの怒り(内藤正典)」(参照)も、普通のイスラム教信者の視点から、西洋が彼らに浴びせる非難について、イスラムの心がどう受け止めているのかをわかりやすく解き明かしている。

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イスラムの怒り
内藤正典
 特に書名が暗示するように、普通のイスラム教信者が、異教徒の言動の、どこに怒りを覚えるのかという問題に重点が置かれている。日本が今後、対外労働者をどの程度まで入れていくのか現状では不明だが、世界最大のイスラム教国インドネシアとの人的交流が活発化するなか、同書で述べられているイスラムの「常識」は普通の日本人も理解したほうがよいだろう。できることならイスラム教と限らず、異文化における生活人の思考様式のごく常識的な部分は小冊子にして、中学生くらいから学んでおくとよいだろうが、そうした簡便な書籍はないのではないか。
 本書序章は、2006年サッカー・ワールドカップ、ドイツ大会の決勝戦で、フランス代表のジェネディーヌ・ジダン選手が、試合終了直前、イタリアチームのマルコ・マテラッツィ選手に暴力的な頭突きをした事件から切り出される。なぜジダンは自制できずに暴力に訴えたのか。当時は「なぜ」が話題になった。マテラッツィの映像から読唇術でメッセージを読み出そうとまでされたものだった。現在ではこの事件はかなりの部分解明されているのだが、著者内藤はその真相解明の報道以前に、事件の時点で、イスラム教徒なら誰でもジダンの怒りを理解した、理解できるのだ、と言う。ジダンを怒らせたのは、人種差別発言でも、テロリスト呼ばわりでもないと断言する。しかもあの怒りは十分に抑制され、そしてムスリムなら怒らなくてはならないものでもあったと続く。そのあたりの解説から、ムスリムの生活をつなぎ止める心情や、さらに西欧でムスリムが置かれている状況へと解説が進む。
 イスラム教をある程度理解する人間ならジダンの事件でもそれなりの想像は付くのだが、私が本書を読んで自身を無知だったなと思ったのは、ジダンの問題はその余波のほうが大きかったということだった。ジダンはこの事件の後、自分から真相は語らないまでもテレビ・インタビューに応じ、こう答えたという。「このような事件が起きると、いつでも自分のように(暴力的に)反応した者が罰せられる。だが、悪意の挑発をした者は罰せられない。それは不公正だ。挑発した側も罰せられるべきではないか」。それは当時のフランスにおける、ムスリム、さらには世界のムスリムの普通の心情を吐露したものであった。内藤は、ジダンのインタビュー後、フランスのジャーナリズムがこの問題に急に沈黙したと語っている。そこにこそ現在世界の、イスラムと西欧社会の断絶の象徴がある。
 本書中盤のドイツやデンマークの、移民のムスリムの事例も興味深い。ドイツの事例では、戦後ドイツに向かったイスラム教徒のトルコ人労働者は、西欧的なリベラルな風土を受け入れていた。飲酒も女遊びも自由であり、社会は表向き異文化・異宗教に「寛容」の建前をとっていた。移民の彼らは、そうした風土にしだいに自堕落になり自分を見失い、その反動として心の拠り所としてイスラム教を求めるようになったようだ。そして、2001年のテロ事件がきっかけになり、イスラム教徒排斥の機運が西洋で高まり、「寛容」が一気に反転し、追い詰められた移民のムスリムはいっそうイスラム教に生活の指針を求めるようになったという。
 寛容は宥和とは異なる。寛容は、「自分たちに干渉しなければ、(他者は好きではないが)我慢できる」というに過ぎない。そして「寛容」は、どうやら反転しうる欺瞞性を本質に秘めているようでもある。こうした大衆心情は、日本人にとっても他人事ではないよう思える。
 本書の終章のコラム「ムスリムはなぜオバマを支持したのか」にも興味深い指摘がある。すでに知られているように、米国オバマ大統領の父はイスラム教徒であり、イスラム教の考えかたからでは、父がイスラム教徒なら息子も自動的にイスラム教徒になる。イスラムの常識からすれば、オバマ大統領はイスラム教徒になる。オバマのフルネーム「バラク・フセイン・オバマ」の、フセインはムハンマドの後継者の名に由来し、バラクはイスラム教の「神の恩寵」を意味する。この名を負った男の現実の信教はキリスト教である。ということは、普通のイスラム教徒からすれば彼は棄教者である。イスラム法では死罪にも当たる。この話はすでに広く知られているところであり、知られていても西欧社会や東アジア諸国などではさして問題にもならないのだが、内藤はやはり潜在的な問題を秘めていると見ている。内藤はオバマ大統領に対するムスリムの心情をこう見ている。

 今後彼が、ムスリムに対して行うことになる「行為」をみてから判断しようというのである。それが良ければ改宗(棄教)問題は不問に付し、それが悪ければ棄教者として断罪することになるだろう。
 好きになった相手が敵だと知ったら、その反動としての怒りは大きくなってしまう。イスラムが、無用な争いを避けようとする平和的な性格をもっていることは間違いない。しかし、それが一瞬にして暴力もいとわない怒りへと激変するのも、イスラムの特徴である。

 残念ながらこの問題は、オバマ大統領の個人の努力だけでどうなるものではない。
 本書で内藤は、フランス流のライシテ(参照)について、かなりイスラムに同情的に見ているし、個々の事例では内藤の説明が説得的であり、さらに日本人としても表面的には宗教に寛容なことから、むしろフランス流のライシテのありかたに疑念を持つ人も多いだろう。またこの問題は西欧の思想として諸国に一貫しているものでもない。それでもライシテのような近代合理化・脱宗教化のイデオロギーというものは、それ独自の力と運動を持つ。なにより移民・黒人の大統領を生み出した米国的なリベラルなイデオロギーもライシテと類似の背景の力によるだろう。そう見れば、本質的な衝突は避けがたいこともあるだろう。

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