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2009.06.06

[書評]1Q84 book1, book2 (村上春樹)

 文学は社会が隠蔽すべき猥雑で危険な思想をあたかもそうではないかのように見せかけつつ、公然に晒す営みである。日本の、物語の出で来初めの祖なる「竹取物語」は天皇とその体制を愚弄する笑話であった。日本の歴史を俯瞰して最高の文学であるとされる「源氏物語」は天皇の愛人を近親相姦で孕ませ、それで足りず少女を和姦に見立てて姦通する物語である。

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1Q84 BOOK 1
 同様に村上春樹の「1Q84」(book1参照book2参照)の2巻までは、17歳の少女を29歳の男が和姦に見立たて姦通する、「犯罪」の物語である。また国家に収納されない暴力によって人々が強い絆で結ばれていく、極めて反社会的な物語でもある。それが、そう読めないなら、文学は成功している。あたかも、カルトの信者がその教義のなかに居て世界の真実と善に疑念を持たないように。いや、私は間違っている。「1Q84」は、私たちの社会がその真実と善に疑念を持ち得ないような閉塞なカルトに近く変性したことに疑義を植えつつある。
 物語は、「青豆」という変わった名字のスポーツ・インストラクター兼ロルフィングのようなマッサージ師兼、殺し屋の29歳の女性と、代々木の予備校で数学教師をしながら文学賞を狙うべく小説を書き続ける同年生まれの男性、川奈天吾の二人を主人公とし、「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」(参照)のように、青豆の物語と天吾の物語が一章ずつ交互に書かれている。一方がリアルワールドで他方がファンタジーという構成は表向き取っていないかに見えるが、読み進むにつれわかるのだが、青豆の物語が天吾の物語が生み出したフィクションであることが明かされ、さらにフィクションが相互の物語を浸蝕していく。メタフィクションが小説論と作者村上春樹の執筆心情を巻き込み、独特のハイパーリアルな世界を形成していく。春樹らしい趣向である。
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1Q84 BOOK 2
 Book1、Book2ともに全章はきちんと24章で構成され、1巻ごとに4月から1984年の四季の時間を追っている。正確には1984年という実際の歴史時間ではなく、タクシーに乗りヤナーチェクを聞きながら青豆が殺人に急ぎ、渋滞する高速道路を降りた時点から宇宙は異質な時間に流れ込み、天界に月は2つ浮かぶ。青豆はその世界を1984年と区別し1Q84という年代で呼ぶ。1Q84の年はパラレルワールドではない。スイッチが切り替わるように世界の進行が切り替わったことを意味する。三菱パジェロは描かれても不思議ではないが、実際の1984年の日本で人々が生活経験に刻印した些細な馬鹿騒ぎ、エリマキトカゲ・ブームのような日本的な風景は、翻訳の邪魔であるかのように払拭されている。浅間山荘事件、ヤマギシ会騒動、オウム真理教事件などを連想させつつも、具体的に戦後日本史に潜む、ある一貫した暗部が描かれようしてるわけではない。日本の1984年という時代を実際に生きた経験を持つ人には違和感があっても、その時代を知らない人には受け入れやすく、外国人がデータベースを駆使して描いた異国の物語のようなテイストがある。
 主人公の一人、青豆は「エホバの証人」を連想させる「証人会」の家庭の娘として生まれ、テレビなど娯楽情報も与えられず衣服も質素極まる生活を送り、子供ながらに日曜日には訪問宣教に駆り出され街中を引き回されていた。学校でも学友から排除され、透明人間のように過ごした。青豆と同級生の天吾は、満州引き揚げでNHKの集金人をする父の男手一人で育てられ、青豆のように日曜日も集金に街中を引き回された。天吾は子供ながらに自分の境遇を苦痛に思いながらも、学業においても体力においても学友に優越すべく努力し、一度だが理科の授業で青豆を庇うような行為をした。その後、青豆からじっと見つめられ手を握られるという経験をする。そのたった一つの経験がその後、それぞれその人生の核になるが、その思いを掛け替えのない愛として秘めていることを互いに深く知らずにいた。物語はその二つの引き合う魂の力がもたらしていくとも言える。一人っ子的な心情の展開は、「国境の南、太陽の西」(参照)を連想させる。
 物語の性質としては、村上春樹の作品系列では「羊をめぐる冒険」(参照)で残した問題の解決編になる。17歳の神秘的な美少女、深田絵里子は、特殊な耳をもったガールフレンドと羊男の融合である。1Q84では、少女の耳は少女の生殖器の暗喩であることを顕し、ヤブユム(Yab-yum)を形成する。「羊をめぐる冒険」で先生の脳にそして鼠の脳に住み着いた羊のほうは、山羊の口から出てきた、TVピープル(参照)のようなリトル・ピープルとして現れる。世界の背後にあって人間社会を支配し揺るがしうる闇の存在は、「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」のやみくろや、短編集「神の子どもたちはみな踊る」(参照)の「かえるくん、東京を救う」のみみずくんなど春樹ワールドのお馴染み存在ともいえるが、1Q84ではそれが王国の王権との関係に置かれ、世界の危機をもたらす影の存在というだけではない点がユニークであり、モーツアルトの魔笛のような善悪の世界のコペルニクス的転回ではないが、善悪を超えた特殊な世界の動因として描かれている。終結はBook2では見えない。
 転回の象徴は、青豆の物語に現れる。自身の倫理観から女性を虐待する男たちを、この世にもはや生存しないほうがよいとして死を言い渡す老婦人に青豆は仕え、暗殺者となる。物語では、青豆は命を賭けた最後の仕事として、つばさと呼ばれる10歳の少女の子宮を破壊するまで強姦したカルト「さきがけ」の教祖の暗殺を請け負う。しかし実際に向き合うことになる教祖は老婦人や青豆が想定したような悪の存在ではなく、ただリトル・ピープルのメディアに過ぎなかった。そのことで物語は老婦人や青豆が希求する、市民社会が超えがたい正義と悪の限界を暗示している。青豆は教祖の予言を確信し、天吾の命と引き換えに自分が死ぬことを決意し、その運命のなかで彼女は愛に生きることを知る。Book2では青豆がその死に直面したところで終わる。
 天吾はカルト教祖の娘でもあり、リトル・ピープルのこの世界への顕現が生み出した反動としての神女ふかえりこと深田絵里子が描き出した小説「空気さなぎ」のリライト仕事から、彼女と深く関わるようになる。ふかえりの父である教祖が、リトル・ピープルのこの世への通路を塞ぐこととして青豆によって断命される豪雨のなか、彼女は天吾にその通路を与える。その通路に顕現するだろう何かはリトル・ピープルとは対立するものとして想定されているようでありながら、これもBook2では見えない。
 Book3では、リトル・ピープルやカルト教団「さきがけ」による青豆の殺害、天吾とふかえりのコンビへの対決が始まると想定されるが、そこでもまた大きな倫理の転回があるのかもしれない。世界がなぜ青豆と天吾を選んだのかもまだ十分に開示されていないし、新しい王国と王権は出現していない。「天吾」は明らかに「天は吾」を意味していることがわかるが「青豆」の暗喩はまだ封じられている。1Q84は完結していない。その最後の像を評価することもできない。「ねじまき鳥クロニクル」(参照)のように咨嘆に終わらないとも言い切れないが、おそらくそれはないだろう。
 一つの長編作として1Q84を見れば、登場人物は春樹ワールドに典型的な少数の一座の使い回しとも言えるが、それぞれが引きずる掌編的なエピソードは小説を豊かにしている。「海辺のカフカ」(参照)以降の村上春樹の生活のエピソードとしてのランニングの話「走ることについて語るときに僕の語ること」(参照)は青豆の生活描写に、エルサレム賞受賞(参照)で示した彼の父の死は天吾の父の臨終描写に、それぞれ反映していることだろう。余談だが、「空気さなぎ」と高円寺の設定には、農林省蚕糸試験場跡の蚕糸の森公園が関係しているだろう。

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2009.06.03

[書評]あなたの人生の物語(テッド・チャン)

 「あなたの人生の物語」(参照)は、中国系二世の米国人SF作家テッド・チャンの短編集で、ネイチャー誌に掲載されたショートショートを含め、8編の作品が収録されている。どれも米国のSFコンテストの賞を得ている佳作ぞろいである。

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あなたの人生の物語
テッド・チャン
 寡作の作家らしく、実質本書以外の著作はないようだ。もしかして日本で編集された選集ではないかと疑い、英書探すと「Stories of Your Life and Others(Ted Chiang)」(参照)があり、邦訳はそれに準じたのものようだ。
 私は本書を、その評価もテッド・チャンという作家についても何も知らないで読んだ。勧められたわけでもなかった。とある書店でたまたま偶然に出合った。魅惑的な書名に惹かれたわけでもなかった。その経験はうまく言い難い。読後は、ネットでよく言われる「お前は俺か」という感慨を持った。私と似たようなへんてこな思索課題に取り憑かれ、似たように展開していくのを感じた。私とテッドの違いは、私には文才というものがないことだが、読みながら、私の脳はぎりぎりぎりと苦痛のような歓喜のようなきしみの響きをあげた。思想と創造力のタガを外されたサムソンの感覚に浸った。スエーデンボルイの「天界と地獄」(参照)をただ想像力と倫理の限界を知るために読んでいた背徳の喜びに近い。いや、それ以上のものがあった。背徳仲間のイマヌエル・カント君、テッド・チャンの「あなたの人生の物語」は面白いよ。
 個別の作品を見ていこう。
 「バビロンの塔」(Tower of Babylon)は、ある意味、旧約聖書にある「バベルの塔」の物語を描いている。「ある意味」と限定したのは、設定は酷似しているが同じ物語ではないからだ。その時代、バベルの塔はほぼ完成に近づいていた。現在のイラン地方に住む主人公のヒルラムは要請され、バベルの塔に登り、数年かけてその頂上に至り、天界の壁を採掘することになる。
 作品はファンタジーに分類してもよいかもしれないが、その世界は私たちといくぶん構成要素が異なるだけで、物語はその世界の物理法則に完全に拘束されている。人々は神を語るが神は登場しない。まったく神秘性はない。描写は単なる緻密なリアリズムであるがゆえに、天界に接近する描写には独特の恐怖感が漂う。ようやく天界の壁に辿り着きその壁を採掘するのだが、その事業がもたらす危険性にも独自の恐怖があり、作者チャンの確かな才能を感じさせる。クライマックスから終盤のオチは、それ自体としてはあっけないものだが、読後、まったく異なる世界、異なる宇宙を感覚するという、不思議な彷彿を味わうことができる。
 「理解」(Understand )は、溺死しかけた事故の治療から、たまたま超人的な知能を得た男の物語だ。「アルジャーノンに花束を」(参照)などと似た話かと読んでいくと良い意味で裏切られる。チャンは人間が持ちうる超知性のあり方のほうにテクニカルな関心を持っているのだ。
 超知性のプロセスではどのようなメタ認識が行われるのか、小説という想像力の形式を使って、人間を超える知性を記号論的に追求している。これこそがチャンの独自の作風であり、読み進めながらチャンという人自身がすでに人間知性を超えているような薄気味悪い印象も与える。
 本作はチャンの習作時代の作品に手を入れたものらしく、後半のスパイ小説的な展開や、もう一つの超知性との対決シーンは、率直に言えばありがちな展開でそれほど面白くはなく、稚拙さが残る。それでも超知性間の対決の意味が、倫理の思考実験に関わるところや、標題ともなった「理解」という言葉が暗示する部分には、他の作品にも見られるチャンらしい視点の原点が感じ取れる。
 「ゼロで割る」(Division by Zero)は、現代数学の基礎論における数学の危機と呼ばれる問題を借りて、数学史のエピソードと、一人の天才的女性数学者の内面とをコラージュのようにして展開した掌編だ。「ゼロで割る」のは四則演算では禁則であり、それを許すと演算ができなくなるという初等数学の話題に過ぎないが、本作ではそれが、数学の危機の比喩として標題になっている。
 数学の危機については、私も若い頃少し基礎論を囓ったので、その部分のコラージュはどちらかといえば退屈な話であり、よくあるゲーデルの不完全定理から着想を得たありがちな小説かと思い、むしろそれなら、ブラウワー(Luitzen Egbertus Jan Brouwer)をテーマにするとよいのにとさらっと読み終えたが、最終部に奇妙な人間の内面ドラマとしてのひっかかりがあった。気になり、女性天才数学者レネーの視点ではなく、その夫のカールの視点から読み直して得心した。倫理というものが持つ本質を、数学の危機の比喩で了解することで、まさに私たちの日常における愛というものの矛盾を言い当てている。
 本作品もそうだが、チャンは本人としては作品の意匠のつもりなのだろうが、相当に読みづらいトリックを仕掛けることがある。だが、読者のほうでもそれに合わせて、脳のギアを入れ替えることは、快感でもある。
 「あなたの人生の物語」(Story of Your Life)は、この手の作品の意匠性に慣れていない人には読みづらいかもしれないので、多少スポイラーになるかもしれないが構成の基本から触れておきたい。
 作品は、主人公の女性言語学者ルイーズ・バンクスが、その娘に「あなた」と呼びかけるところから始まる。それはあたかも、年頃になった娘を前にした、母たる中年の女性が、父たる男性との馴れ初め時代を語るように語られている。そして、それはそのように錯誤することを、作者チャンはあえて仕組んでいる。
 だがこの物語で「あなた」と娘に呼びかけているのは、娘がまだ生まれる前の、まさに男と性交しようとする寸前の時間なのだ。つまり、ルイーズはその性交の後、やがて生まれてくる娘に今、語っている。しかも語られているのは、「あなたの人生の物語」であり、その含意にあるように娘の死までを覆っている。人が生まれる前に、その人の死までが知られるという、時間を逆向きにした意識の状態があり、その意識の描出と、実際のその性交に至るまでの時系列の物語が、この作品ではコラージュのようにつなぎ合わされている。
 なぜこのような珍妙な構成になっているのか。SF的な趣向として読まれてもよいだろうが、チャンはここで、宇宙に起きる事象に対して人間の意識能力が時系列にしか意識できないことを、宇宙の必然ではなく人間の認識の限界として小説的に表現したいからだ。逆に言えば、人間の現存する知能のような時間了解をしなければ、人は生誕から死に至る「あなたの人生の物語」をフラットに知覚できるようになることを小説としてチャンは示したいのだ。
 そこで本作では、現存の人間が行うような時系列の時間意識と、時系列のない時間意識の二系列が提示される。時系列の物語ではルイーズが恋人と性交するまでが描かれ、非時系列では、娘の受精から死までの「あなたの人生の物語」が語られる。この意匠の根には、時間こそ私たち人間の意識の様式にすぎないというチャンのメタ認識がある。
 その知性のメタな視点設定に加え、さらに驚くべきことは、チャンはその時間意識の根源を言語による認識の様式に見ていることだ。現存の人類の言語が、時系列の時間意識を生み出しているのであり、別の知的言語の体系で意識できるなら、因果律を超えた非時系列の意識が可能になる、としている。「あなたの人生の物語」が語られ、「あなた」という娘の生誕前にルイーズがその全生涯を語りうるのは、彼女がその異質な言語を、宇宙人との接触を通して習得したからであり、その習得の過程が、時系列の側の物語に流し込まれている。
 この作品では、従来ありがちなSFのテーマである、エイリアンとの遭遇がそうした壮大なトリックの小道具にしか扱われていないことや、また物理学に関心を持っている人なら誰もが興味を持つ変分原理(フェルマーの原理)が比喩に使われているのが特徴的だ。私は読後、変分原理の量子力学的解釈というのはファインマンの経路積分なのだから、工学的な計算には便利でも時間と確率のパラドックスの意味は説いたことにならないな、チャンの言っていることは、入り組んだ洒落というものでもないか、としばし考え込んだ。
 「七十二文字」(Seventy-Two Letters)は、産業革命後の、19世紀後半イギリス、ヴィクトリア朝を改変した世界が舞台になる。「バビロンの塔」のような改変世界物語とも言えるのだが、この世界では、現存する私たちからするとオカルトでしかなのだが、名辞とされる呪符を泥人形に埋め込むと、泥人形は生気を得て、動作する。それゆえ、「バビロンの塔」とは異なり、呪術も生かされるファンタジー物語かというと、そうではない。この世界では、呪符の原理はサイエンスに所属していて、魔術とは区別されているし、魔術は知的な体系以外に実効としては登場しない。つまり、呪符による名辞の原理というサイエンスがある世界と見るなら、この世界もまた、リアリズムに徹している。「七十二文字」という標題は呪符のサイエンスを著している。
 こうした珍妙な前提が飲み込めないとなかなか入り込めない物語かもしれないが、しかし作者チャンがこの世界を前提としたのは、実際のヴィクトリア朝のサイエンスのあり方の知識や、数学のオートマトン理論、さらに遺伝子工学から中絶の倫理学など現代的な問題の枠組みを知っている人にとって興味深い比喩が提出できることを確信していたからだ。随所にその比喩が読み取れ、しかも比喩ではありながら、各分野のきわめてテクニカルな部分が言及されているので、読み進めながら、なにかしら知識がそれ自体の背徳に接するような、ゾクゾクとする悦楽がある。
 「人類科学の進化」(The Evolution of Human Science)は、ネイチャー誌に掲載されたショートショートで、「理解」における超知性をもっともらしい文体でまじめ腐った意匠で描いている。爆笑を誘うとも言えるのだが、洒落になってないぞと苦笑を加えざるを得ないところは、チャンに執筆を依頼したネイチャー誌編集の見識が伺える。
 「地獄とは神の不在なり」(Hell is the Absence of God)は、現代、しかも米国に設定された改変世界物だが、この世界では、いわば天使が落雷のような物理現象として登場する。天国と地獄という宇宙構成も、さらにそこに収納される死後の魂も、あたかも物理現象のように存在する世界だ。物理現象と言いたくなるのは、天使出現によって、難病や畸形の治癒など奇跡の救済がある反面、その出現事故でただの事故死を遂げる人々も多数おり、天使や天国、地獄、魂といった存在に対して、倫理的かつ神学的な意味が与えられていないからだ。神も直接的には存在しない。天使の顕現は、落雷のような自然現象であり、そこに神意といったものはまったく想定されていない。
 またもチャンは珍妙な世界を構想したものだと思う人がいるかもしれない。だが、私はこれこそ旧約聖書の世界そのものだと納得した。旧約聖書の世界を現代にきれいに写像すれば、この世界ができるのである。天使というのは、旧約聖書をきちんと読めば、西洋世界で異教のイメージにまみれて作り出した、翼のある美男子・美少女といったものではまったくないことがわかる。クリスチャンが讃美歌でよく歌う「聖なる、聖なる、聖なるかな」も、イザヤ書の原文に戻れば、まさしくチャンが描いたような、天災のような天使の顕現でしかない。
 こうした世界で人はどのように生きるのか。ある意味で神学的な問題が語られているのだが、同時に旧約聖書が描き出した世界の本当の意味とは、むしろこのフィクションを通して描かれているものなのだという、驚くべき洞察に行き当たる。
 「顔の美醜について --- ドキュメンタリー」(Liking What You See : A Documentary)は、人間に施して、人の顔の美醜が問えなくなるような仕組みである「カリー」を、テレビ・ドキュメンタリーのタッチで描いた作品だ。薬剤注入と外部からの薬剤活性化制御によって、人間脳内の、人の顔の美醜を判断する中枢機能だけが阻害されるシステム「カリー」を、教育の一環として採用する大学が物語の場だ。話は、従来任意に利用していたカリーを、義務づけるかどうかを描いている。この作品は最終部までは軽快で読みやすい。他作品より先に読むことをお勧めしたくもなるのだが、最終部に入り組んだヒネリがある。
 作品のテーマは、人間の顔の美醜という、ある意味で究極の差別問題とPC(ポリティカル・コレクトネス)を扱っており、ドキュメンタリーという形式を模したのは、そのテンプレート化した賛否議論を扱うためだ。現実の社会でも各種差別について議論されるが、議論している当人たちは真面目でも、実際にはこの作品のような、ある種絶妙な滑稽さを含んでいるものだ。また、こうした議論に関わるメディア・コントロールも道化回しにされている。いや、作者チャンはそれらを単に皮肉っているのではない。どうやらこれは、人間の倫理や哲学にとって相当な難問だということもうまく描いている。

 寡作なチャンだが、現在も凝った作品を執筆中とのことだ。何年後かには邦訳されて読むことができるのではないか。これらの作品を凌駕する長編であれば、21世紀を代表とする文学のノミネートされるのではないだろうか。そこまで期待したくなる。

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2009.05.31

[書評]離婚(色川武大)

 「離婚」(参照)は、「麻雀放浪記」(参照)などで有名だった麻雀小説作家、阿佐田哲也(あさだてつや)が、文学者、色川武大(いろかわたけひろ)として1978年(昭和53年)に著した短編で、同年に第79回直木賞を受賞した。単行本は同年に書かれた他の関連三作を併せている。私としては、直木賞受賞作より続編的な性質の「四人」、また前段の作品ともいえる「少女たち」のほうが優れていると思う。

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離婚
色川武大
 「離婚」は男女の機微を軽いタッチで描いた笑話として読まれた。作者、色川に擬された、40歳ほどの一人暮らし独身フリーライターの主人公、羽鳥誠一の住居に、25歳ほどの美女、会津すみ子がその父親の暴力を逃れるべく転がり込み、「ねえ、あたし、お妾にしてくんない」とそのまま同棲したものの、2年ほどして形の上では結婚し、さらに6年後に「離婚」した。が、すみ子は羽鳥の家を出たはずなのに、今度はすみ子の家に羽鳥が住み着いてしまった。そういう話だ。
 二人には15年近い年差もあり、世間並みの結婚をするつもりもなく、また両人、世間並みの夫婦を演じる気質も常識もない。性交と堕胎は繰り返したようだが、世間体のよい夫婦の情愛を深化させることはなく、それでいて両人、他に浮気をするわけでも憎しみ合うという関係でもない。女は夜遊びや短期な出奔を繰り返すが、男もそこに愛情の欠落を見るわけでもない。自堕落だが別れきれない関係が描かれている。
 男女の仲とはそういうものなのだという逆説的な説教といった味わいはなく、どこかしら色川の索漠とした内面を反映した作品という印象も強いが、それでも男女の仲によってはそういうこともあるだろうという共感は、普通に夫婦を演じている多数の人にもあるだろう。そこが文学らしくもあるが、この男女の関係に生じるドタバタは、それ自体がコメディとしても面白く、痴情的な笑話といった趣が強い。読者へのサービス精神豊かな色川としては、そのあたり狙って筆を起こしたのかもしれない。
 「離婚」は、すでに40年近くも昔の作品だし、昭和のフリーライターという堅気ではない男の生活を描いているとも言えるが、仔細にこの同棲を見ていくと、現代のインターネットで匿名で洩らされる男女の狂態にも近い。男女とも、20代で結婚し家庭をなすのが普通に思われていた古い規範のタガが緩めば、色川が「離婚」で描いた関係になる。その意味では、「離婚」は時代を先駆していたと読むこともできる。
 「離婚」は色川の私小説だとも見られている。外側から見える部分だけを照合しても色川の人生に重なる点は多い。だが昭和の私小説的な文学を色川がどの程度意識していたかはわからないし、私小説のように見えるのは単に結果論であったかもしれない。色川なりの、妻への愛情のメッセージであったと読めないこともない。私としては、色川が自身の狂態をスクリーン的な映像のように描いてみたいという願望があったのではないと思う。
 色川の実人生では、1969年(昭和44年)に、色川の従妹(母の弟夫婦の娘)、黒須孝子と同棲を始めた。それまでも色川の親と孝子の親の家の交流は普通にあり、孝子は青年期の精悍な色川青年を知っていたし、色川は少女の孝子を知ってはいた。だが孝子が大人になってからの再開は、1968年の、色川の弟の結婚式のことであり、孝子は24歳になっていた。孝子は、その時点で婚約者もいたが、彼女の目からは死にそうな病者に見えた色川への憐憫から翌年同棲を始めた。
 黒須孝子の生年は1943年(昭和18年)、色川の生年は1929年(昭和4年)である。年差は14歳。二人が同棲を始めたころ、色川はちょうど40歳を迎えるころだった。孝子の目からは、当時の色川は60歳くらいの老人に見えたというから、すでに晩年の相貌に近かっただろう。
 色川の相貌を変えたのは彼の宿痾、ナルコレプシーによるものだった。20代後半からその兆候はあったらしい。昼夜も場所も問わず突然の強い眠気の発作が起こる神経疾患であり、そこから食欲も変調を来し、過食になり、肥満になった。
 文学者としてのデビューは、実父との関係を描いた1961年(昭和36年)の「黒い布」による第6回中央公論新人賞である。33歳のことで、前途が嘱望された若き文学者でもあったが、ナルコレプシーもありスランプに陥る。当初は糊口を凌ぐためとも見られたマージャン物だが、これが当たり、さらに1969年(昭和44年)から、阿佐田哲也名で「週刊大衆」に連載された「麻雀放浪記」で人気作家となる。孝子との同棲が始まったのが年でもあった。
 色川名の文学作品となる「怪しい来客簿」(参照)の連載が、1974年(昭和49年)「話の特集」で始まり、1977年(昭和52年)に泉鏡花賞を受賞した。「離婚」で直木賞を得たのはその翌年であった。色川文学の再起は「怪しい来客簿」でもあると言えるが、その名声の上に文学者としての志向を明確にしたのは「離婚」であった。色川は50歳手前になっていた。「離婚」は、40歳の男を描きながら、微妙に50歳の男でないと理解しづらい人間への視線が含まれている。
 1978年(昭和53年)11月、文藝春秋から刊行された単行本「離婚」には、同年に発表された4つの作品が収録されている。「離婚」は別冊文藝春秋143号(3月)、「四人」は別冊文藝春秋145号(9月)、「妻の嫁入り」は文藝春秋オール讀物11月号、「少女たち」は、オール讀物9月号である。4編を一連の物語としてみると、「四人」と「妻の嫁入り」が「離婚」の後日譚だが、「少女たち」は「離婚」の前段に当たる。
 「離婚」の滑稽味を継いだのが「妻の嫁入り」で、羽鳥誠一から離れたすみ子に若い恋人ができ、その男と結婚し暮らす算段までついたのに、また羽鳥の元に戻るというドタバタを描いている。私はこの物語を、面白いとは思わないし、文学的な価値にも乏しいように思うが、当時はこの路線がそれなりに受けが良かったのか、「麻雀放浪記」のようなシリーズが期待されたのか、さらに「恐婚」(参照)という続編がある。
 「離婚」の前段となる「少女たち」は、通念的な意味で4作品のなかでもっとも文学的だと言えるだろう。文体も、ごく表面的にも、他3作が、悪漢の偽善的な告白を連想させる「です・ます体」であるのに対して、この作品では通常の「だ・である体」という違いがある。文体論として見ても、平明な地の描写に間接的に会話的な内容を忍ばせたり、会話を直接的に引き出されたりと奇妙なリズムがある。他者の言葉と、他者の言葉として自分に了解された像が綾をなしているのだが、この交錯は、色川に模されている40歳近い男の内面に映る、少女たちと呼ばれる20代の軽薄な女たちの像と、その向こうに生身の身体をもって現存する女の像に対応している。
 話は、独身の中年男が少女を飼う奇妙な日常だ。直接的に性的な対象としては描かれていない。いわば家出娘を自由に自宅に住まわせているだけだ。その状態を男は遊園地として見ている。男は遊園地を欲しているのだが、その理由はある種の孤独として意識されているが、明瞭ではない。この作品の文学性は、読者が読み進むうちにその孤独と共犯的な関係に置かれていくことにあるだろう。
 少女たちとして男の目に映る女たちは、すでに20歳を超えた成熟した肉体を持て余しているが、彼女たちも社会が彼女たちに強いる性的な関係へのモラトリアムとして遊園地を活用している。
 最初の少女、佐久間瑞子は短大卒の22歳である。男の友人の事務所の娘を家政婦代わりに引き取った。家出同然に世間に放り出すわけにもいかないという配慮はあった。次に、同じ事務所の伊原洋子が出入りするようになった。彼女は瑞子より5つ年上ということなので27歳くらい。自身を「オールドミス」「処女」と言う。母は一度彼女と父を捨てて若い男と駆け落ちし、失敗し精神的に問題を起こしている。著名人のモデルがありそうだが私にはわからない。田宮初美は18歳だが、恋人の男を追って行こうかと悩み、あまり遊園地には関わらない。初美のつてで土屋由美子が来る。年は初美と同じくらいだろう。信州に親がいる。私は「土屋」が信州に多い名字であることを知っているので、この設定に少し驚く。
 話はある意味予期されたように遊園地の崩壊に至る。由美子は男ができて遊園地を去る。洋子は色川に模された男を愛していると、瑞子からの伝言として告げるが、男は返答に窮する。そこにもう一人、親戚の24歳ほどの少女が加わり、男は彼女と関係を持つようになる。名前は出されていないが、それが「離婚」のすみ子である。洋子は消える。瑞子も去るがその後の噂では不倫の末、行方不明となる。由美子は恋人の男と別れ、その後サラリーマンの妻となるらしいが、十年後酔いにまかせて男と再会する。男はそれを押し返して物語は終わる。
 話はそれだけなのだが、少女たちの生態には独特の匂うような存在感があり、その中で男の、女を選択しえない困惑が鈍い光沢をなしている。由美子との再開は十年後とされているが、その年代は「離婚」の連作の時期と重なっており、団塊世代より少し年上の世代の少女たちの終わりも意味している。
 単行本「離婚」に収録されたもう一作、「四人」も「離婚」の後日譚だ。羽鳥誠一とすみ子に、もう一組の夫婦の関わりを交錯させて「四人」としている。羽鳥は、写真家として知り合った植木敏春(サム・ハスキンスの弟子とされている)の妻、植木純子こと、ベティ・ジェーン・植木と知り合いになり、仕事を共にするようになる。ベティの父は日本人、母がユダヤ系アメリカ人である。つまり、ユダヤ人だ。英語の能力を生かし、コピーライターの仕事をしている。
 ベティは「離婚」では、一緒に事務所を借りて仕事をする、写真家の妻として書かれ、すみ子の嫉妬の対象にはなるものの、ユダヤ人女性としては描かれていない。「四人」でも、おそらく執筆契機としては、「離婚」の珍妙なる夫婦関係の延長として、他人の妻との関係を面白おかしく描こうとしていたのかもしれない。だが、ベティはこの物語で決定的ともいえる存在感を持ち、さらに作者色川という文学者の本質をえぐり出すための、神の采配ともいえるような友情を描き出すことになる。
 羽鳥とベティは、同室で仕事をし、さらに海外取材では同室に寝泊まりするまでの関係になるが、性的な関係には至らない。それは恋情でなく、さらに深い友情というものを暗示させる。ベティもまた、羽鳥を性的な対象として愛しているわけではない。ただ、羽鳥の存在に引きつけられて離れることができないでいる。なぜのか。ベティは自身に、才能はないが眼力だけはあるという。羽鳥という人間のなかに、なにかの存在を見据えている。いや、もうここは小説を超えるところだろう。ベティに模されているユダヤ人女性は、色川武大のなかに、なにかを見たのだ。
 ベティは羽鳥に潜む色川と対話する。

「あたしはね、両親ともに早く死に別れたわ。一人娘だから兄弟も居ない。ユダヤ人と日本人の血は流れているけど、故国もない。国籍なんか誰にしろどうせ仮りのものだと思っているけど、一生涯居られると保証されたところはどこにもないし、死ぬところはあそこだという場所もない。だから、残るのは個人的な規範だけ。自分流の居ずまいをただしていないと、どこまでも流れていきそうでね」
「ぼくも、そういう世界浪人の臭いがするってわけか」
「ええ---」ベティは強い視線をぼくに当てながらいいました。「本質的には、そうじゃないかしら---」

 色川も、このユダヤ人女性も、「世界浪人」としてしかこの世の存在を許されなかった。そのように運命を定めたものが、彼らの友情のなかに顕現しようとしていた。色川は、その存在をおそらく人生の基点から予感していただろう。

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