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2009.05.30

[書評]今こそアーレントを読み直す(仲正昌樹)

 本書「今こそアーレントを読み直す(仲正昌樹)」(参照)のテーマとなるハンナ・アーレント(Hannah Arendt)は、1906年ドイツ生まれのユダヤ人政治哲学者だ。名前からわかるように女性で、若いころは彼女の先生だった哲学者ハイデガーと濃い師弟関係もあった。後年ナチス政権を逃れ、フランスを経て1941年に米国に亡命した。その後米国で英語での主要著作をなし、1975年、期待される大著執筆の途中、68歳で没した。

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今こそアーレントを読み直す
仲正昌樹
 彼女の思索が注目されたのは、その経歴の刻印にも関係するが、ナチスという政治体制を筆頭に、20世紀の全体主義体制をどのように考えたらよいかという課題に、独自の議論を展開したことによる。その独自性の意味合いと、彼女の最終的な思想の帰結について、本書「今こそアーレントを読み直す(仲正昌樹)」は、新書として軽い文体で書かれているものの、明確に描き出していて読み応えがあった。私はアーレントの思想に詳しくないが、後に述べる理由もあって、本書はアーレント思想入門として、また現代日本を考察する上でも優れた書籍であると思った。
 類書(参照)を連想させる標題は、新書シリーズとして出版側から付けられたのだろうと推測するが、それでも、なぜ、現代日本で、今こそアーレントを読み直すのか、というテーマは明確に意識されている。著者仲正が指摘するように、現代日本で説かれる政治思想は、装いは複雑に見えても、実際には単純な倫理命題に帰するものが多く、その意味でわかりやすく説かれすぎている。「何をなすべきか」に具体的な当為を描き出してしまう。そのわかりやすさそのものに、アーレントの危惧する全体主義につながる傾向がある。もちろん、そうした観点もわかりやすすぎるという矛盾ははらんでいるし、本書もそこは配慮されている。
 仲正が取り上げている、現代日本の政治思想のわかりやすい一例には「格差社会論」がある。現実の人間には、社会的地位、学歴、技能、コミュニケーション能力など多面性があり、格差の形成も多様な形態を取っているにもかかわらず、ひとたび思想として「人間らしい平等な生活」といった枠組みが提示されると、それだけから「格差社会と戦わなければならない」という至上命題が現れる。数年おきに起きる通り魔殺人事件が、さも現代の格差社会の結果のように真顔で論じられたりもする。こうなれば政治思想といっても、もはやその主張の党派に入るか否かだけが問われているにすぎない。党派的な「善」や「説明」が希求されれば、「格差とはどのようなものか、なぜ格差が問題なのか」と多様性を志向する議論自体、排除されるべき対象とされ、対立する集団の利権の争いのような政治性に帰着してしまう。あるいは、政治性が先行して思想が類別されるようになる。
 アーレントの思想が起立するのは、こうした「政治性」こそ政治ではないのだする指摘においてだ。アーレントによれば、政治とは、人が公を存在の部分を負って公の場に現れ、多様な議論を形成することにある。複数の主張が公において息づくことが政治だとするのだ。アーレントの政治観からすれば、党派的な命題だけが宗教的に問われる現代日本の「政治」議論は倒錯的だ。さらに、「格差是正は無条件に正しい」といった「善」の倫理は、一つの世界観を提示することで、不安に駆られた大衆を理想に導く「思想」となるが、その「思想」の担い手はマックス・ウェーバーが「世界観政党」と呼んだものであり、その政党性こそ全体主義に至る階梯にある。
 ここにもう一つ、アーレントのキーワードがある。「大衆」だ。個人が大衆に埋没し、「世界観政党」に併呑されないためには、公において複数の議論が提出される、アーレントの言う「政治」が求められるし、それをなす主体が「人間」として再定義される。
 当然ながら、アーレントの思想は、現代日本の状況など、個別の状況的課題に対して、直接的な解答を与えない。しかもその議論は、既存の「善」を志向する思想家たちをあえていらだたせるものすらある。仲正はこうしたアーレントのスタイルを「ひねくれ方」とも見ているし、アーレントを「ヘンなおばさん」とも言っているが、同時にそこが魅力なのだとしている。むしろ日本の知識人に迎合されてきた、全体主義批判者アーレントといった単純な像を転倒するところにも、本書の妙味がある。
 本書はアーレント思想の入門書としても企図されており、巻末には簡素ながらも年表もある。また、軽妙な書籍に見えるわりには、アーレントの主要著作、「全体主義の起源」(参照参照参照)、「イェルサレムのアイヒマン - 悪の陳腐さについての報告」(参照)、「人間の条件」(参照)、「革命について」(参照)、「暴力について - 共和国の危機」(参照)等についても、中心課題とキーワードを縦糸にして包括的に説明している。著者の自嘲気味な修辞に惑わされなければ、これらのテーマを扱った序論以降の、第一章「『悪』はどんな顔をしているか?」、第二章「『人間本性』は、本当にすばらしいのか?」、第三章「人間はいかにして『自由』になるか?」までの叙述は非常にプレーンだ。別の言い方をすれば普通にオーソドックスな解説であり、ある程度アーレント思想になじんだ人にとっては、いつもアーレントというべき部分だろう。
 おそらく日本の知識的状況においては、そこまでが普通のアーレントなのかもしれないし、率直に言えば、そこまでのアーレントの思想なら、問題提起としては彼女の意図に反したとしても、それほどわかりづらいものではない。彼女の議論に啓発され、自分で物事を考えようとすれば、ある意味で足りる部分でもある。しかし本書を読み進めながら、スリリングな感興を得たのは、第四章「『傍観者』ではダメなのか?」で、仲正がアーレントとカント哲学の問題に踏み込むあたりだ。
 結果的にという限定が付くが、晩年のアーレントは三部構想の「精神の生活」の執筆において、「第一部 思考」(参照)、「第二部 意志」(参照)まで書き終えて亡くなり、その最終でもあり全生涯の総括ともなりうるはずの「第三部 判断」を残さなかった。おそらくこの第三部の「判断」から、彼女の後期思想、あるいは全思想の眺望が伺えるはずでもあったとすれば、未踏のアーレントを想像することこそ、アーレントを読むという知的営為となる。それがこの小冊子の一章に充てられている。
 アーレントの最後の思想については、同書の二部までに加え、仲正が完訳した「カント政治哲学講義録」(参照)、つまりニュー・スクール・フォー・ソーシャル・リサーチ(New School for Social Research)での講義録から読み解かれるものとされる。つまり、カント哲学の文脈で読み解かれるものだ。
 ここでの主要なテーマは、従来の、人間が公的な存在たるべく活動を促すアーレントの議論とは異なり、政治における「観想」になる。人は時代と状況にあってどのように思索・観想するのか。思索・観想というあり方の政治的・倫理的な意味が問われるようになる。
 仲正はアーレントのカント講義において、美についての判断力の議論の援用から政治的判断力を構想していたと見ている。私たちがある対象を美として「判断」するということは、私という個人の内面において単独な判断が成立しているのではなく、共通感覚としての他者の判定の眼差しが組み込まれているということだ。アーレントは、観想的人間存在の政治性を、他者という共通感覚を基盤としつつ、個人の「拡大された心性(enlarged mentality)」によって、他者との調和を獲得する過程に意味づけていく。
 この考え方は、それ以前のアーレント思想において、公における複数の活動ということを基礎づけてもいるのだが、同時に、観想的な存在はまた他者の、観客としてのあり方も相互的に意味づけることになる。観想的な他者は公の判定として、公を注視する存在となるからだ。この開かれた公を基礎づける注視者は「非党派的注視者(impartial spectator)」ともなる。
 仲正の議論を追いながら、ここで、アーレントの潜在的な、しかし本源的な提起に遭遇する。非党派的注視者は、判断(judgement)が過去・歴史を考慮するように、いわゆる政治への関心においても過去に軸足をおくべきではないかというのだ。なお、仲正は言及していないが、おそらくこの語感は審判(judgement)に近いだろうと私は思う。
 現代日本で政治として語られている問題(issue)は、その直接的な利害関係においてアクチュアルに解き明かすことが前提となりがちだ。しかし、アーレントの潜在的な最後の思想においては、表層的な政治的問題ですら、共同体の過去のあり方・来歴の意味を説き明かすことのなかで公的な議論の枠組みが与えることになる。
 ここで本書から少し外れ、著者仲正のようにアーレントを契機とした自分の思想のようなものを、私も僅かに語ってみたい。
 アーレントも仲正もキーワードにはしていないが、私は、共同体の政治課題は、その過去像の「言語経験」の合意のなかで見いだせるものであり、さらに言えば、荻生徂徠の政治思想のように、言葉の意味を歴史了解に見いだす思惟において重要性を得るものでもあるだろう。またそれは森有正が、個人の体験と峻別した、名辞に至る「経験」にも近いものだろう。
 そこでは共同体の「言語経験」というものが重視されるはずであり、仲正も本書ではそこに気がかりな視線を投げかけてはいるが、「言語経験」、つまり言語共同体を重視する思想は、ドイツ語の神秘思想のようになってしまったハイデガーのそれであって、ドイツ語を捨て英語で思想を紡ぎ出したアーレントのそれではない。私はそこにある驚愕を覚える。後期アーレントの本質は、まさに後期ハイデガーの転倒にあったのではないか。
 英語という異国の言葉によって世界思想を解き明かそうとする、アーレントの思索道程そのものが、共同体の言語経験の歴史を、その民族的な意識において拡大する(enlarge)ことの模範となっている。もちろん、アーレントがギリシア語やラテン語の哲学を駆使したように、それでも西洋の文脈にあるとも言えるのかもしれないし、結局のところ、当初は異国の言葉だった英米の言語だが、その言語経験の歴史共同体に彼女も埋没したとも言えないこともない。だが、その延長は見える。そこでは、民族的心性から生まれた言語経験の価値性が、「拡大された民族的心性」として、民族的心性を解体しうることを示唆している。

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2009.05.28

[書評]バチカン - ミステリアスな「神に仕える国」(秦野るり子)

 ひとつクイズ。先日亡くなった盧武鉉元韓国大統領と麻生太郎現日本国総理の共通点はなにか? いろいろある。どちらも優れた政治家であるという点は批判の多さから理解できる。どちらも男性であるというのも共通点だ。クイズの答えとしては、カトリック教徒だとしたい。少し意外性があるのではないかと思うからだ。

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バチカン
ミステリアスな
「神に仕える国」
 「バチカン - ミステリアスな「神に仕える国」(秦野るり子)」(参照)はカトリックの総本山、バチカンの歴史を概説した書籍だ。研究書ではない。著者はジャーナリストでもあり、エクソシストへのインタビューなどにそうした視点が感じられるが、総じてジャーナリズム的な書籍でもない。聖人名などにラテン語とイタリア語の混乱も見られるが、読書レベルとしても高校生が世界史の補助読本として読むのに概ね適当と言えるし、お勧めしたい。私がこの本を読んだのも、バチカンやカトリックについての自分の知識を確認しておくためのものだった。
 特に「第1章 ローマ教皇の成立(イエス・キリスト、殉教と発展の地、ローマ)」「第2章 「神の代理人」へ(中世から近代へ、変化しながら現代へ)」は世界史的な知識のおさらいになっている。日本人も名称だけは知っている、コンクラーベ、カノッサの屈辱、十字軍、テンプル騎士団、マルタ騎士団などのエピソードも読みやすい。女性教皇といったエピソードも西洋文化理解の一端として知っておくべき部類だろう。
 日本では上智大学に関連するイエズス会だが、西欧の文脈で、「今でもイタリア語や英語などで「イエズス会修道士」という言葉に「二枚舌、詭弁家」との意味を持たせるのは、その名残であろう」としているのも、ごく常識の部類だ。つまり、"Jesuit(ジェスイット)"のことだが、この用語自体は本書には出て来ない。
 著者はキリスト教的な生活環境にあった人ではないので、ごく基本的なミスがあるかとも懸念したが、概ねこれでよいだろう。しいて言えば東西分裂の教義的な側面についても触れてもよかったかもしれない。
 個人的には、世界史のおさらいを終えるころの、近代とバチカンの歴史が興味深かった。特に、本書標題にあるバチカン市国成立に関わるラテラノ条約の話なども読みやすかった。
 もう一点個人的には、第5章でも触れられているが、戦後のエキュメニズム(教会一致促進運動)の経緯が興味深かった。私の世代までは、キリスト教の現代史的な課題といえばこれだったものなので、懐かしい思いもあった。
 「第3章 バチカンのしくみ(バチカンの機構、現代教皇列伝、コンクラーベ、ローマ教皇庁)」は国際ニュースを読むうえで必要になる、現代カトリック機構や仕事を理解するためのリファレンスとして利用できる。国家でもあるバチカンはどのような仕組みになっているのかがわかりやすい。私としては読みながら知識の整理を兼ねていたのだが、国務省における「東方教会省」の存在とその変則的な許容性に考えさせられるものがあった。近未来とはいえないだろうが、いずれ大陸中国でカトリックが十分に解禁され、壮大な人口がバチカンに組織されるだろうとき、類似の扱いになるのではないかと夢想した。
 「第4章 バチカン市国の特権と闇(小さい国土をささえるもの、バチカンと外交、バチカンと日本、現代の諸問題)」は、現代のバチカンとカトリックを扱い、現代カトリックが抱える諸問題を簡素にまとめている。こうした問題は、日本ではあまり取り上げられることはないが、国際ニュースなどを追っていくときにいろいろとひっかかることがある。エマニュエル・ミリンゴ元大司教の問題にも率直に言及されていた。
 本書を読みながら、プロテスタントや諸派についても、歴史的な解説を含めた入門書があってもよいのではないかと思えた。入門的書籍と見なされることは少ないが、マックス・ウェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(参照)はある程度、プロテスタントの分類解説になっている。しかし、諸派(denominations)についてはクエーカーが扱われている程度で、それらの延長が重要になる現代アメリカの宗教事情を歴史的に読み解くのには利用できない。

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2009.05.26

第二回北朝鮮核実験、雑感

 昨日、北朝鮮が2006年の核実験に続き、第二回目の核実験を行ったようだ。厳密には放射性物質の観測結果が出るまで確定はできないが、概ね事実と見てよいだろう。私は昨日に実施されるとは想定していなかったので驚いたが、まったく想定外のことではなかった。
 日時まではわからないものの、プラン通りに推進された結果だった。北朝鮮は先月29日の時点で、「核実験なども辞さない」と報道官声明を発表しており、先日のミサイル実験を律儀に実施したことも考慮すれば、今回も有言実行であったにすぎない。ゆえにこの時点の文脈に戻れば、北朝鮮の今回の核実験の意図は理解しやすく、ミサイル発射に対する国連安保理の議長声明への反発であったということになる。あの時点で国際社会が中国への配慮から強硬な制裁に躊躇を示すなか、なんとか日本が議長声明という形でまとめたことですら北朝鮮の意向に沿わなかった。日本もこの問題の蚊帳の外でもないということかもしれない。
 今回の実験は、日本の報道では単純に核実験とされているが、実際にはミサイル搭載用の核弾頭の実験であり、前回の実験が単に核保有国宣言だったこととは意味合いが異なる。加えて、先日のテポドンにおいてきちんと技術進歩を見せたように、今回の核弾頭実験もその破壊力から想定すると、前回より着実な進歩を見せている。
 日本が直面する危機という点から言えば、韓国とは異なり、来年にも日本が北朝鮮の核の影響下に置かれるということはない。もう数年はかかるだろう。だが今回の着実な進歩だけを見れば、その延長線の情景は想定しやすい。また小型化にはまだ成功していないという議論は、基本的に米国を射程に収めるテポドンの文脈であって、日本のほぼ全域を射程に収めるノドンに装着するサイズと見るなら少し早期に実現できる。
 今回の実験に利用されたのは、核弾頭として小型化しやすい、おそらく長崎原爆と同様のプルトニウム爆弾だが、現状北朝鮮が保持しているプルトニウムには限界があり、30キロから40キロ程度と見られる。二回の実験で虎の子を効果的に消費したが、残りは5発程度だろう。この量のままであれば、テポドンやノドンに装填可能化するまでの技術開発途中で効果的に消費するか、あるいはより短距離向けの核爆弾にするかだろう。北朝鮮としてはさらなるプルトニウムが欲しいところだが、従来のように日本からの実質的な支援が受けられるかは難しい。代わりにミサイル同様イランとの連携も想定されないではないが、現状ではイランにはプルトニウムはない。
 今回の実験が前回と異なる点には、前回のミサイル実験同様、世界に向けた広報の改善がある。前回は直前になって中国に伝えたようだが、今回は事前に、中国のみならず米国にも通知していたようだ。当然、韓国政府も日本政府もそれを知っていただろう。事後の各国政府の動向を見ていても沈着であり、北朝鮮の国際協調の改善と見てもよい。
 今後の動向だが、国際社会が中国に配慮したミサイル実験への議長声明ですら気にくわないということで、形式上北朝鮮が中国の顔に泥を塗ったことになる。中国としてもそれなりの対応が迫られるだろうが、この点もすでに中国では織り込み済みだろう。私の推測では、中国は今回も大した動きは見せないだろう。米国はオバマ政権の核廃絶スローガンに隠した冷戦軍備整理もあって、表面的には非難するだろうが、すでにワシントンポスト社説などの論調でも明らかだが、米国では近日に迫る、北朝鮮に捕らわれた米国人ジャーナリストの裁判が優先するだろう。存外にイランが同様の事件で見せたように、釈放というメッセージを米国に送るかもしれない。その芸当をやってのけたとしたら、外交力の点で北朝鮮は日本のかなう相手ではない。
 今回の実験では、金正日体制後の北朝鮮内部の抗争の表現ではないかという見方がある。後継王については大筋では、日本びいきとも見られる長男正男の他、後妻で在日朝鮮人高英姫夫人による次男正哲、三男正雲の三名が後継にノミネートされている。従来は、正男か正哲かという話題だったが、正哲氏を担ぐ李済剛が失脚したことから、正男か正雲かという話に移り、正雲が継ぐという情報がこのところ連発されている。
 キーになるのは従来正男派と見られていた金正日義弟張成沢だが、正雲でよいとしている可能性がある。だとすると、実際には中国・張成沢・金正男が実質の地歩を固めた上で、高英姫支持だった軍との妥協が成立していることになる。
 この推測が正しければ中国にとってはすでに北朝鮮は制御可能な状態にあるので、中国としては今回の事態も無問題だろう。そうであるかが今後注視点になる。その文脈のなかで今回の核実験を見なおすと、軍側のガス抜きということではないか。

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2009.05.25

[書評]シリコンバレーから将棋を観る - 羽生善治と現代(梅田望夫)

 本書標題「シリコンバレーから将棋を観る - 羽生善治と現代(梅田望夫)」(参照)に含まれる「シリコンバレー」は、米国の情報技術先端地域であり、著者梅田望夫が10年以上も情報産業コンサルタントをしている土地でもある(参照)。標題が意味しているのは、最先端の情報技術の視点から、日本の伝統な将棋の世界で得られる最先端技術への啓発である。

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シリコンバレーから
将棋を観る
羽生善治と現代
梅田望夫
 将棋を単に優れた伝統だからとして見直すのではない。すでに現代将棋の渦中にあり、伝統を踏まえつつそれを乗り越えようとする若き天才棋士羽生善治の現在の姿のなかに、情報産業の未来のありかたをとらえようとしている点が本書の特徴だ。なぜ現代将棋に情報産業の未来を見ることが可能なのだろうか。そこには羽生に始まる現代将棋の天才たちの達成があるからだ。
 梅田が羽生に注目したのは、ちょうど梅田が起業した時期にも重なる時期に、将棋専門誌「将棋世界」に連載された羽生による「変わりゆく現代将棋」があったためだ。梅田は連載で羽生が「将棋とはどういうものなのか」という原理を追求していく姿に魅了されていった。理系の梅田をして「数学書を読んでいるかのごとき爽快な感覚が沸いてくる」と言わしめるものがあった。そこに本書の原点がある。
 情報技術を含め、科学・技術の世界は検証され緻密に精査された知識の累積の上にそびえ立つものであり、未来もまたその上に築かれるものではあるが、実際にその先端にあって創造に着手する人に問われているものは、科学・技術の原理性への本質的な問いかけである。それによってのみ、未知の可能性と展望が開け、自由が顕現する。梅田が羽生の将棋の探求に観たのは、その比喩であったと言ってもよく、その比喩の意味が本書では懇切に説かれている。
 情報技術が人間社会を開く鍵となり同時に桎梏ともなりうる現在、その展望の可能性を、現代将棋の探求を比喩として多くの人が共感できるように示すことが梅田の仕事となっているし、本書はその一貫性の上にある。本書出版後、情報技術の先端にある若い人から得られた共感は、その達成を十分とは言えないまでも示している。
 本書を読みながら、私は自分がいろいろと問われているようにも思えた。私は梅田ほど将棋に関心はないが、羽生が将棋を通して何を考えているのかということには興味を持ち続けてきたせいもある。羽生のインタビューなどもできるだけ傾聴したものだ。そのなかで、ほとんど決定的な、ある意味では衝撃に思えたのは、2001年のNHK番組「課外授業 ようこそ先輩 将棋は対話なり」という番組だった。功を成した著名人が母校で一週間ほど指導をするという番組である。羽生は当然将棋を教えることになるのだが、実際に彼が子供に教えようとしていることは、ルールを作ってみよう、そしてそれを遊んでみようということだった。ルールを作るとどういうプレイになるだろうかということを彼は子供に伝えようとしていた。
 番組として見れば、残念ながらうまくその部分が子供に伝達されたかどうかは今一つはっきりしないのだが、羽生の優しい、しかし眼光鋭い視線の先には、子供がいて、どのようなルールを創造し、そのなかからどのような喜びを見いだすのかにじっと思念が注がれていた。時折、将棋の長考のように内省もしていた。この人はルールとはなにかという原理と本質を考えていると私は思った。この人はボビー・フィシャーがチェスのルールを改変しようとまで思索したように、将棋の根底に潜むルールの原理性を問い詰めているのだとも思った。
 もう一つ私の雑感を加えたい。さらにそれ以前の羽生の対談だったが、正確な言葉は忘れたが、彼は、人間とコンピューターが対戦してコンピューターが勝つ日は来るでしょう、と言ってのけた。また、高段者同士の対戦における勝敗の差はごくわずかなものにすぎません、とさらっと言った。印象深く覚えている。詰め将棋的な終盤になれば、人知はコンピューターには叶わない、とも言っていたと記憶する。であれば、序盤のなかに将棋の本質と可能性を見ていくことになる。
 本書に戻ると、梅田も「変わりゆく現代将棋」を読むまでは、将棋の魅力は中盤と終盤にあると思っていたようだ。もちろん、そこにも魅力がある。だが、序盤とその原理性のなかに将棋の現代的な本質を見いだしていくことになる。
 比喩としてではなく、将棋それ自体について本書を堪能することも可能だ。梅田は本書で、指す将棋ではなく観る将棋という楽しみがあってよいのではないかと提言する。彼はやや自己弁明的に話を切り出しているが、観る将棋において梅田は、私などからすればはるかに達人に近い。別の言い方をすれば、観る将棋の意義を理解し、その楽しみを得ている人にとっては、本書のコアをなす「第2章 佐藤康光の孤高の脳―棋聖戦観戦記」「第5章 パリで生まれた芸術―竜王戦観戦記」は堪能できるものだろうし、私も将棋盤を取り出して、駒を置いて追って読むべきなのだろう。
 だが正直なところ、私はそこまでは敷居が高かった。おそらく情報産業の未来像に関心を持つという読者でもそこは、敷居が高いのではないか。もちろん、敷居を低めるべく、梅田は一流のコンサルタントらしく解説や羽生の対談によって補っているのだが。
 それでも観る将棋を語る梅田の情熱で私が感銘したのは、精魂尽くしたプロのサービス精神よりも、こう言っては失礼なのかもしれないが、将棋好きな無邪気なおっさんの心というものの表出だった。
 端正な相貌の梅田望夫をおっさんと呼び、貶めたいのではない。私もおっさんであり、おっさんならではの純な心情というものがある。おっさんはそれなりにプロであり、プロとして生きてくればこそ、その純な部分を大切にしつつも、それほどは他者には開示しなくなる。若さが失われたということもあるが、若い人のように心情を開示し、自己表現すればよいというものでもない。純粋性というのは、もしかしたら子供のころに宿り、おっさんになって開花すべきものかもしれない。
 梅田は本書で、本当に自分が将棋が好きだ、そして、天才羽生のファンだという、おっさん、嬉しくてたまらない、という心情をうまく伝えている。私は、情報産業がもたらす未来にとって必要なのは、そっちなのではないかと思う。
 もう少し言うと、この点では梅田も私も、ポスト団塊世代であるものの、新人類世代よりは年長になる。この世代の少なからぬ人々は、多少なりともこの情報産業の世界の創出に関わってきた。ようやく見えるその世界の地平の上で、若い世代の天才たち、羽生や、また梅田が関与している「はてな」世代のような人々が活躍するのを好ましく思っているし、その発展の支援者であり助言者でありたいと願っている。だが支援よりも今後必要になるのは、この地平を作り出したときの躍動感の蘇生に、さらに子供のころの純な心情を吹き込むことではないか。梅田は本書でそれを成功させたし、年長らしいコミュニケーションにもある程度成功した。
 おっさんたちよ、おっさんにならんとする者たちよ、いやおばさんも、本書は、エールだ。

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