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2009.05.23

スリランカ内戦終結、雑感

 スリランカ内戦が終結した。この話題は大手紙の社説で読まなかったように思う。私の読み落としでないとするなら、重大なニュースとは判断されなかったのだろう。私はというと、この数日この問題について考える度に重たい気分になった。ブログに書くべきか悩んでいた。
 スリランカ内戦には四半世紀の歴史がある。根は民族紛争とイギリス植民地政策だ。スリランカ人口の七割を占めるシンハラ人は、シンハラ語を使い、仏教徒が多い。二割はヒンドゥー教徒のタミル人だが、これにはその三分の二がスリランカに定住していたタミル人であるのに対して、植民地政策でインド領から強制移民させられたインド系のタミル人がいる。植民地時代にはタミル人が優遇されていた側面もあり、シンハラ人によるイギリスへの反抗もあった。
 1948年、スリランカはイギリス連邦(コモンウェルス)として、「セイロン」国名で独立した。前年の議会選挙ではシンハラ人が多数派となり、シンハラ人民族国家形成の道を採る。民族間のの宥和は進まず、タミル人は1948年「セイロン市民権法」で公民権を、翌年の「国会選挙法」では選挙権を失ない、1956年にはシンハラ語が公用語とされ、仏教国教化の流れと共にタミル人差別は国家構造化されていった。タミル人は、スリランカ全体からすると少数派だが高地など地域によっては多数を占めるために内戦の萌芽を抱えた状態が続いたが、80年代までは穏健派のタミル人政党も存在していた。
 1972年、スリランカは共和制に移行し国名もスリランカ共和国となったが、同年に抵抗運動の拠点も形成された。タミル人抵抗運動「新しいタミールの虎(TNT:Tamil New Tiger)を18歳のヴェルピライ・プラブハカラン(Velupillai Prabhakaran)が設立。1976年にはTNTを元に、その後の内戦の核となるタミル・イーラム解放のトラ(LTTE: Liberation Tiger of Tamil Eelam)が結成された。
 1970年代後半には多数派シンハラ人によるタミル人暴動が発生し、これに対抗する形で、1980年代に入ると、LTTEはインド内での武装訓練を元に、タミル人の分離独立を目指す武装闘争を開始するようになった。スリランカ内戦が四半世紀に及ぶとされてるのはこの時期、特に初のゲリラ活動を開始した1983年を想定している。
 LTTEが優勢に見えた時期もあったが、内戦は混迷し、2000年以降はノルウェーの調停で停戦となり、日本政府も元国連事務次長明石康をスリランカ復興支援担当として任に当たらせている。内戦長期化の理由について明石は、海外在留タミル人がLTTEを援助したことを挙げている。また、国際社会による停戦仲介が失敗したことについては、2004年インド洋大津波の際の国際復興支援金の配分で協力する枠組みが機能しなかったことを挙げている(参照)。こうした側面をどのように歴史的に評価するかは難しい。
 国際社会による停戦努力は水泡に帰し、武力による鎮圧によって内戦は終結した。LTTEのカリスマ的指導者プラバカランも殺害され、生存伝説を封じるために遺体とされる映像も放映されたらしい(参照)。歴史のifになるが、これでよかったのだろうかという思いが残る。私はこれでよいわけがないのだと思うが、代案も見当たらなかったし、局所的な武力もまったく否定もできないでいた。
 日本国内では諸事情もありあまり議論されていないのかもしれないが、今回のスリランカ内戦終結では、和平調停失敗以外の点でも日本が考慮すべきことがある。特に、日本・中国・アジアの近未来的な抗争を俯瞰した「アジア三国志」(参照)の著者でもあるビル・エモット(Bill Emmott)によるタイムズ紙への寄稿「China's accidental empire is a growing danger(計画性のない中国帝国は危険性を増している)」(参照)は考慮せざるをえない。


Events in Sri Lanka, as that nation finally brings an end to a quarter-century-long civil war, are the latest example of China's growing overseas reach. The victory of the Sri Lankan Government was assisted by the supply of arms from China, especially fighter jets, as The Times revealed on May 2, while the Chinese are also building a spanking new port on the southern coast of the country, which the Chinese Navy will be able to use for refuelling and repairs.

四半世紀にわたるスリランカの内戦終結は、中国の進展しつつある海外拡大の最新例である。スリランカ政府による勝利は中国からの武器供与によって支援されていた。特に、タイムス紙が5月2日に報道したジェット機が支援になった。支援に合わせて中国は、スリランカ南部海岸に最新の港を建設していたが、それは中国海軍が燃料供給と修繕に利用できるようにするためのものだ。


 インド洋へのプレザンスを維持するためのバーターとしてスリランカ政府を軍事支援したのが、今回の内戦終結への決定打になったとエモットは見ている。こうした傾向は、中国の対インド政策として他にもあった。

China's long-time policy of supporting Pakistan, as a means of keeping India preoccupied by the confrontation with its old enemy, was maintained, but in a more discreet way. Arms sales and other aid were also provided to Sri Lanka, Bangladesh and Nepal, but China was careful not to make the support too blatant and substantial, for fear of annoying India.

中国によるパキスタンへの長期政策は、インドを仇敵に釘付けにしておく手段として維持されてきたもので、従来はそれほど目立たないものだった。スリランカ、バングラデシュ、ネパールへの武器供与や支援も実施されていたが、中国はインドの困惑を恐れて、露骨ならないようにかつ実質的にならないように配慮していたものだった。


 しかしそれが変わってしまう一つのエポックとしてスリランカ内戦終結もあった。

Hence the flag of Chinese military power is following its trade. And when countries such as Sri Lanka ask to buy weapons, while others deny them because of bossy worries about human rights abuses, what could be more natural, commercial and friendly than for China to accede to their requests?

中国の軍事力の旗は貿易について回っている。そしてスリランカのような国が武器を購入したいと嘆願し、他国が偉そうに人権侵害への強い憂慮からその要求を拒むような状況では、中国がそれを受け入れることほど当然で通商にもよく、友好的なことがあるだろうか。

Everything China is doing in the Indian Ocean can be explained away by its growing economy and by the natural evolution of a new superpower's military expansion.

インド洋での中国の出来事はすべて、中国の経済発展や、新興超大国の軍事拡大の自然な展開を理由に弁明しうる。


 この指摘は、今回の内戦終結以外にもほぼ原則的に当てはまることになるだろう。やっかない問題でもある。
 話を戻して、今後のスリランカだが、内戦が終結し、LTTEが壊滅しても、タミル人問題が解決したわけでもない。また、こうした権力の空隙には特有の問題も発生しやすい。ある意味では、非常に困難な時代に移ったと言える。

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2009.05.21

正しいマスクの使い方: 咳やくしゃみの人にそれを譲ってあげること

 公衆衛生に関わる問題について権威のない立場から不確かな情報を発信すべきではないので、ごく普通の市民であるブロガーとしてできることは、確かな情報源を引用するくらいのことだろう。マスクについて、典拠明記の上、気になったことをまとめておきたい。
 この問題で一番参考になったのは、ニューヨークタイムズのコンサルタント・ブログに掲載された"Is It Safe to Fly During the Swine Flu Outbreak?"(参照)、という、専門家マーク・ジェンドルー(Mark Gendreau M.D.)による質疑応答だった。"Q. Are there ways to protect oneself against the spread of swine flu when flying?"(旅行中、豚インフルエンザの拡散に対して個人できる防御策はありますか?)という問いで、マスクについてはこう答えている。


Consider a face mask. Face masks may help but only need to be used when outbreaks become widespread and are declared a pandemic.
マスクについて考慮すべきこと。マスクは役立つかもしれませんが、必要になるのはアウトブレイクが拡散した状態であり、パンデミックの宣言が出てからのことです。

The most commonly used simple face masks only filter about 62 percent of very small particles, compared to about 98 percent for professional-grade face masks (these are typically designated N-95).
通常のマスクの微細物へのフィルター率は62%ですが、これ比して専用のもはは98%です。これらはN-95と明記されています。

Simple face masks are designed to prevent large droplets that are coughed or sneezed from contaminating the environment rather than protecting the wearer.
通常のマスクはそれを付けている人を保護するというより、咳や鼻水などで汚染された環境における大きめな飛沫への防御用です。

Bring an extra mask along, and kindly offer it to anyone coughing or sneezing who looks sick. This will keep any droplets from landing on you.
余分のマスクがあるなら、具合が悪そうで咳や鼻水の人に提供してください。そうすることで、飛沫があなたに届かなくなります。


 専門家の示唆によれば、マスクの正しい使いかたは、咳やくしゃみの人にそれを譲ってあげることだ。
 世界保健機関(WHO)はマスクについてどのような指針を出しているだろうか。これは国立感染症研究所 感染症情報センターの「インフルンエザA(H1N1)アウトブレイクにおける市中でのマスク使用に関する助言 暫定的な手引き」(参照)として掲載されている。原文は"Advice on the use of masks in the community setting in Influenza A(H1N1) outbreaks"(参照PDF)にある。

 呼吸器ウイルスの感染拡大予防の評価をした研究によると、医療機関においては、マスクの使用がインフルエンザの感染の伝播を減少させる可能性が示されている。医療機関におけるマスク使用の助言は、正しいマスクの使用のトレーニングや定期的な供給、及び適正な廃棄施設といったマスク使用の有効性に影響する可能性がある補足的な対策情報と一緒に提供されている。

 「医療機関」において正しいマスク使用がなされるなら、あくまで「補足的な対策」として考慮されるものとしている。だが、一般的には次のように指針を出している。

しかしながら、特に開かれた空間において、インフルエンザ様症状のある人と閉鎖空間で濃厚接触した場合と比較した、マスク着用の有効性は確立されていない。

 マスクの効果は科学的にはわかっていない。マスクの効果がないとも言えないが、あるとはいえないというのが科学的な立場だ。
 WHOはもう少し一般の人の心理に配慮し、指針を出している。強調は原文のままである。

 それでもなお、多くの人がインフルエンザ様症状のある人と濃厚接触した場合、例えば家族に対するケアを行う時のような場合に、家庭内または市中でマスクを着用することを望むかもしれない。さらに、インフルエンザ様症状のある人がマスクを使用すると、口および鼻を覆うのに役立ち、呼吸飛沫を覆うという咳エチケットの1つを行うのに役立つ。

しかしながら、マスクを正しく使用しないことは、感染リスクを低下させるよりはむしろ、感染リスクの増加につながるかもしれない。もし、マスクを使用するならば、他のインフルエンザのヒト-ヒト感染を予防する一般的な対策も同時に行い、マスクの正しい使用の訓練を行い、文化や個人の価値観を考慮すべきである。


 つまり、マスクの使用によって感染リスクが増加することに懸念している。
 日本での新型インフルエンザ専門家会議による「新型インフルエンザ流行時の日常生活におけるマスク使用の考え方」(参照PDF)ではこう検討されている。不織布製マスクはN-95ではない通常のマスクを指している。

不織布(ふしょくふ)製マスクのフィルターに環境中のウイルスを含んだ飛沫がある程度は捕捉されるが、感染していない健康な人が、不織布製マスクを着用することで飛沫を完全に吸い込まないようにすることは出来ない。

 米国疾病対策センター(CDC)も同様の見解を"CDC H1N1 Flu | Interim Recommendations for Facemask and Respirator Use in Certain Community Settings Where H1N1 Influenza Virus Transmission Has Been Detected"(参照)で出している

Based on currently available information, for non-healthcare settings where frequent exposures to persons with novel influenza A (H1N1) are unlikely, masks and respirators are not recommended.

現時点で可能な情報に基づけば、新型インフルエンザA(H1N1)に人が頻繁に晒される医療機関外の状況は想定しがたく、マスクや呼吸制御器は推奨されない。


 以上の情報元をまとめると、(1)通常のマスクはインフルエンザにかかっている人がウイルスを撒き散らすことを控える効果はあるが、健康者ウイルスから防御する役には立たないだろう、(2) N-95など専用のマスクはウイルスを遮断する、という二点が言えるだろう。
 すると、N-95なら防御効果があるのだろうか。
 この点、NaturalNews.comという科学系啓蒙サイトに掲載されたマイク・アダムス(Mike Adams)による記事"Myth Busted: N95 Masks Are Useless at Protecting Wearers from Swine Flu by Mike Adams the Health Ranger"(参照)が、誇張過ぎるとも言えるが、ユーモラスに指摘している。

N95 masks have virtually no ability to protect the wearer from other people's airborne germs.
N-95規格のマスクの装着は、実際には、他者による空気感染ウイルスから防御する能力はありません。

If it's not air-tight, it's not right!
息が苦しくないと、正しくはない

This should be obvious by simply noticing that N95 masks are not air-tight! When you inhale while wearing such a face mask, the air you're inhaling enters through the gaps on the sides of the mask, completely bypassing the mask filtration system.
ちょっと観察した程度だと、N-95マスクが(機密型で)息苦しいわけではないと思うでしょう。通常マスクのように装着して息を吸っても、空気はマスクの横から入ってきます。つまり、フィルターの役割をまったく無視した状態になっているわけです。

This is why -- duh! -- level 4 biohazard scientists don't waltz into their labs wearing N95 face masks. If they did, they would die. Since they don't want to die, they don't depend on N95 respirators.
だから、いいかい、レベル4の生物学的危機状況に置かれた科学者は、N-95マスクをした状態で研究室へワルツのステップで入ることはできません。そんなことをすれば死んでしますよ。死になくないので、N-95に頼りません。

So all those people planning on wearing N95 face masks are kidding themselves. That's what I mean about ill-informed preparedness. It's almost worse than no preparedness at all because it gives people a false sense of security.
だから、N95を装着しようというのは思い違いです。私が言いたいのは、こういうのが間違った情報による準備だということです。人々に間違った安心感を与えるというのは、準備がないよりひどいということなのです。


 というわけで、典拠のわからない新型インフルエンザ完全対策マニュアルといった情報に踊らされるのは、準備を何にもしないよりましではなく、もっとひどいことになりかねない。
 ところで、このマイク・アダムスの記事は本当だろうか。先の新型インフルエンザ専門家会議による「新型インフルエンザ流行時の日常生活におけるマスク使用の考え方」にも呼応する指摘がある。

 日常生活においてマスクのフィルターで捕捉したい粒子としては、花粉や、咳やくしゃみにより飛散するウイルスを含んだ可能性のある飛沫がある。花粉の粒子の大きさは、20 から30μmである。また、インフルエンザウイルス等のウイルス自体は、0.1μm程度の大きさであるが、非常に微細で軽いためウイルス単独では外に飛ぶことができない。通常ウイルスが外に出る際には唾液等の飛沫と呼ばれる液体とともに飛散する。飛沫の大きさは5μm程度である。花粉や飛沫を捕捉することがマスクのフィルターの性能として求められ、それは材質等によって決まる。
 しかしながら、吸い込む空気の全てがマスクのフィルターを通して吸い込まれるわけではなく、通常は顔とマスクの間からフィルターを通過していない空気が多く流入する。これらの空気には、花粉や飛沫等が含まれている可能性がある。使用する際にはマスクをなるべく顔に密着させることが求められるが、それでも空気が顔とマスクの間からある程度は流入する。それゆえ、これらの空気とともにウイルスが含まれた飛沫が流入すると感染する可能性がある。また、より密閉性が高いマスクを使用すると、呼吸することが難しくなる。

 N-95規格のマウスは日常生活においては呼吸困難に陥ると理解してよいだろう。
 なお、ここでの指摘にはもう一つ興味深いことがある。ウイルスは空気感染するとはいうけど、0.1μm程度のサイズのインフルエンザは単体では飛翔できないということだ。

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2009.05.20

[書評]奇跡の脳(ジル・ボルト・テイラー)

 子供のころ私は「頭の体操」というクイズ集が好きだった。シリーズには科学版があり、正確な問いは覚えていないが、こういう問いがあった。A氏の身体にB氏の脳を移植したら、この人は誰か? 答えは、B氏である。脳が身体を支配するのだから、脳であるB氏がその人だ、と。今に至るまで記憶しているのは、子供のころ解答を知ってなるほどと思った反面、違和感もあったからだ。大人になった私としては、脳の移植は不可能だからくだらない問いかけにすぎないという感想と、それでも脳がその人を意味するという現代人の憶見を示しているだけなのではないかと皮肉な思いが交差する。

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奇跡の脳
ジル・ボルト・テイラー
 「私の脳」と「私」は同じものだろうか。脳はその器官のイメージから、あたかも認識の客体として想像されやすいが、認識し思念する「私」がその脳という器官と同じかどうかは、ハードプロブレムと呼ばれるような哲学上の難問でもある。もちろん「私」の認識や思念が脳機能の過程に深く関わっていることは間違いなく、「私の脳」に異変があれば「私」は変わる。「私」が脳学者であるならその変化の過程を刻々と構造に関連付けて意識することもできるはずだ。
 想像上はそうでも、解体していく「私」という意識過程を言語表出で他者が受け取ることはない。壊れゆく脳変化の過程を何らかの手法で他者に伝えることができる水準にまで、一度壊れた脳が回復することはほとんどないからだ。そう思われていた。脳学者ジル・ボルト・テイラー博士は違った。奇跡だったと言いたくなる。彼女は、脳学者として自分の脳の損傷過程を内的に体験し、正常に近い脳の状態まで帰還してから、私たちに壊れゆく脳の中の「私」というものの意味を本書「奇跡の脳(ジル・ボルト・テイラー)」(参照)で解き明かし、伝えた。それは驚くべきメッセージだった。
 1996年12月10日、朝、37歳で独身、一人暮らしの脳学者ジル・ボルト・テイラー博士は頭痛で目覚めた。血行を良くしようと日課のエキササイズを始めたが身体感覚は異常だった。しだいに視覚も異常になり、日常の思考にも困難を生じた。テイラー博士は自分の脳に異変が起きたことを知り、助けを求めようと電話を手にしたが、ダイヤルも困難であり、言葉もままならなかった。左脳の言語中枢がやられていた。ようやく電話を受けた同僚がうめき声で事態を察し、博士を救出したのは偶然に近い幸運だった。
 脳卒中に襲われ、外部から見ると言語も意識も乏しい状態にしか見えないテイラー博士だが、彼女のある意識は突然の脳損傷にもかかわらず存在し、世界と、彼女に接してくる人々を認識していた。左脳損傷から考えれば、その意識は右脳にあったのだろうと推測される。右脳の意識によって、痛覚の中にも宇宙と渾然と一体化する至福感も味わっていたという。
 卒中の開始から病院での数日間の、神秘的とも言える内的な描写は、本書の圧巻だ。読みながら、私の父は卒中で死に、私もいずれ卒中で死ぬではないかと怯えていたが、その刹那に浄土のような至福感があるかもしれないと、希望のようなものすら夢想した。
 本書のオリジナルタイトル"My Stroke of Insight"(参照)にはその神秘的な脳活動への含意がある。Strokeの両義である「卒中」に加え「一撃」の意味には、「洞察が一撃のように現れた」というメッセージが込められている。彼女を襲った至福感が、その洞察を意味していた。彼女はこれを右脳特有の機能ではないかと後に考察していく。
 本書のもう一つの山場は、回復の過程にある。GG(ジジ)と愛称される彼女の母親(数学者)による献身的な介護と回復に至る長い日々の描写は読み応えがある。本書は米国でベストセラーになり、さらに著者テイラー博士は2008年のタイム誌「世界で最も影響力のある100人」に選ばれたが、その評価を支えたのは、彼女が脳卒中や脳損傷患者への介護について多くの洞察を与えたからだ。言語も思考も不自由にしか見えない患者にも豊かな内面があるということを、彼女の証言から多くの人が察するようになった。このことはもっと簡単に言える。患者は、右脳の意識のなかで、接する人々の愛情とエネルギーを正確に察知しているということだ。そのことを多くの人々が理解し、患者への接し方を改めるようになった。
 日本にもテイラー博士の思いが伝わっていることは、NHKの関連番組の影響もあるが、本書がすでにベストセラーに上がっていることからでもわかる。だが本書が現代日本の精神風土で読まれる場合に、私には二つの誤解が立ち塞がりはしないかとも懸念した。
 一つは、左右脳機能への無理解だ。本書はいわゆる俗流の右脳礼賛本と読まれる危険性がある。左脳の分析的な思考が人間を孤独にし、右脳の情感が連帯をもたらすといった単純な読み方だ。確かにそう読める部分はあるが、テイラー博士は右脳の可能性についての文脈で述べているのであり、通常の脳機能が左右脳の統合によることは明記されている。テイラー博士は卒中を経験したとはいえ、脳学者の見識もあり同僚たちに支えられている。内容は確固たる科学性に裏付けられていると信頼してよい。
 もう一つは、俗流のオカルト志向を正当化するように誤解されることだ。残念ながら、部分的に取り上げるならそう誤解されてしかたないだろう。だがこれもそうした断片をあげつらうのではなく、本書の全体から読み解くべきだ。
 人が他者の愛情を感得する仕組みには、別段オカルト的な神秘性はないが、にも関わらず科学でも哲学でも解き明かされたものでもない。ヴィトゲンシュタインは他者の痛みを知ることの不可能性を説いたが、その前提には、我々が日常において他者の痛みを察知している現実というものの奇跡的な了解がある。私たち人間は、他者の愛情や痛みを感得する能力があり、その能力の仕組みをまだ十分に知っているわけでもない。なにより、愛情の交流を知るためには、各人がそのような愛情の場に組み込まれることを要請するような倫理が問われる。人とはそのような存在なのだ。
 誤解を招いてはいけないが、本書は瞑想など精神の内奥に関心をもつ人なら、著者が意図せずした書いた部分に各種の符丁を見いだし、そこに驚嘆することだろうと思う。

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2009.05.19

[書評]渚にて 人類最後の日(ネヴィル・シュート作・佐藤龍雄訳)

 先日ぼんやりと人類が滅亡する日のことを考えていた。具体的な脅威が刻々と迫って滅亡するという情景ではなく、遙か遠い未来のこととして想像してみた。うまくいかなかった。自分の死と同じように、その日が確実に来るとわかっていながら、うまく想像できないものだと痛感した。そして、この問題はまさに「自分の死と同じように」という部分に重要性があるのではないかと思い直し、ネヴィル・シュートの「渚にて」(参照)を思い出した。

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渚にて【新版】
人類最後の日
ネヴィル・シュート
佐藤龍雄訳
 「渚にて」は、私の世代から上の世代は誰もが話を知っている作品でもあり、それゆえに私は実際に読む機会を逸していた。アマゾンで探すと、創元SF文庫で4月に新訳が出ていたことを知り、これを機に読んでみた。なるほどこれは名作だった。魂を揺さぶられる思いがした。
 以前の版も創元SF文庫だと記憶していたので、どういう経緯の新訳なのか気になった。東京創元社文庫創刊50周年の記念らしい。それだけ旧訳の言葉使いが古いのだろうか。光文社古典新訳文庫のように読みやすさに工夫されているのだろうか。読後の感触からすると優れた訳文だろうと思うが、「かぶりを振った」式の訳文にはそれほどの現代性はなく、読みやすい訳ではあるものの漢語の格調も高い分、若い世代にはなじみづらいかもしれないとは少し思った。
 「渚にて(On the Beach)」の原作は、私が生まれた1957年に出版された。米ソ冷戦のただ中であり、この年、人類最初の人工衛星スプートニクは当時の米国に、現代日本が感得するテポドンの脅威以上の危機(Sputnik crisis)を与えた。「イワンが知っていることがジョニーにはできない("What Ivan Knows that Johnny Doesn't." )」として米国に教育改革が起こり、日本にも波及して私の世代から初等数学が集合論によって基礎付けされるようになった。私は冷戦によって育てられた。
 初訳は1958年、文藝春秋新社による木下秀夫訳「人類の歴史を閉じる日」である。翌年の映画「渚にて」(参照)とともにそれなりに話題になった。1962年にキューバ危機が起こり、人類は全面核戦争に直面し、1965年、創元推理文庫前訳版にあたる井上勇訳が出版されると、この直面した危機の余波で広く読まれるようになった。あたかもネヴィル・シュートの予言が当たるかのようにも思えたからだろう。「渚にて」の物語の時間は、1964年に想定されていた。
 物語は、中ソ間の暴発がきっかけとなった第三次世界大戦で、地球北半球が全面核戦争によって死滅した状態から始まり、さらにその放射能が南下し全面的な地球滅亡を待つ南半球のオーストラリアを舞台にしている。物語では、一つの国家がじわじわと死滅に至る過程が描かれている。
 現代の常識からすれば、人類が全面核戦争を起こしても、ネヴィル・シュートが想定したような人類滅亡にはならないだろう。それゆえに私もこの小説は名作であっても科学的にはナンセンスなお話ではないかと思っていた。本書新訳の帯に小松左京の言葉、「未だ終わらない核の恐怖。21世紀を生きる若者たちに、ぜひ読んでほしい作品だ」が引かれているように、本書は従来、核戦争の恐怖と愚かさを伝える作品として理解されてきた。あるいは、冷戦的な世界を描き出した予言の書として読まれてきた。私はその側面に関心を持つことがなかったが、読後、まったく異なる感想を持った。その前に、物語にもう少し言及しよう。
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エンド・オブ・ザ・ワールド
レイチェル・ウォードほか
 物語の舞台は、北半球で全面核戦争が終わって1年後の1964年の1月から半年の、メルボルンとその近郊である。米国はすでに国民と国家が死滅したと見られていたが、米国原潜スコーピオンは生き延び、オーストラリア、メルボルンに寄港した。
 オーストラリア政府は、スコーピオンに期待した。北半球の状況、および南下する放射能の状況によってオーストラリア大陸もまた死滅する運命にあるのか、米国軍人である、スコーピオン号艦長ドワイト・ライオネル・タワーズ大佐に調査を依頼し、オーストラリア海軍ピーター・ホームズ少佐が補佐することになった。
 物語は、ホームズ少佐家族の和やかな日常から始まる。ホームズ少佐は、大任を共に遂行することになるタワーズ大佐と親交を深めるためにホームパーティに誘う。ホームズ少佐には若い妻メアリ・ホームズと幼い娘がいる。パーティでは、雰囲気を盛り上げようとホームズ家の知人として20代の女性モイラ・ディッドソンが参加する。これをきっかけに彼女は、米国に妻子を持つ30代のタワーズ大佐を慕うようになる。タワーズもモイラを慕うが、米国の妻子はすでに死んでいると理性的に考えつつも、その現実を受け入れることができず、その恋の一線を越えることができない。物語の主軸は、タワーズとモイラの恋、それとホームズ夫妻の家族愛である。それらを不可避の死滅がじわじわと覆っていく。
 原潜スコーピオンは、タワーズ大佐にとっては恋人モイラを、ホームズ少佐にとっては妻と娘を残し、死滅したはずの米国から送られる謎の通信や、北半球の放射能状況を探るべく出航する。放射能分析のためにオーストラリア科学工業研究所の研究員ジョン・S・オスボーンも同乗するが、彼がこの物語のもう一人の重要な登場人物になる。
 無事任務を終え原潜スコーピオンはメルボルンに戻るが、もはやオーストラリアおよび南半球の人類の死滅も逃れることができない状態が明確になった。そのなかで、人々はどのように生きて、死を迎えるのか。この作品が名作であると疑いえない確信を読者に迫るのは、終末に至る人々の淡々とした生のありさまであり、ホームズ夫妻の家族愛とタワーズとモイラの恋の終わりの描出にある。
 読後私には、ネヴィル・シュートが英国人だからというのではないが、まさにシェークスピア悲劇のような重たい印象を得た。その思いに沈みながら、しだいに、不思議と、描き出された核戦争の脅威でも、人類の死滅でも、人に不可避の死という残酷さでもなく、逆に生の時間というかけがえのないもののあり方が心に深く生き返ることに気がつことになった。この物語は悲劇であるが、単なる悲劇ではない。時代や戦争の装いをしながら、シェークスピア文学のように人が生きることの意味を問い、それに答えている物語だった。
 ホーム夫妻の最後、タワーズとモイラの最後には涙を誘うが、その悲劇を単に悲劇としないためにオスボーンの生のありさまが対置して描かれ、最終に至る筆致のなかで、自然は美しく、人々の日常は輝き出す。人はそのように生きることができるからこそ、いかなる死も受け入れる存在であることが深く示されている。希望とは未来への企図ではなく、人としてあるべき日常のこの瞬間の全機現にあるのだろう。

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