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2009.05.15

[書評]アンティキテラ 古代ギリシアのコンピュータ(ジョー・マーチャント)

 文明というもの、それに内包される科学知識や技術というものは、徐々にそして段階的に進展していくと通常考えられている。だから古代は、現代よりも科学技術にはおいて劣っていたとみなされて当然だが、古代が我々に直接伝える遺物には、科学技術進展の原則を疑わせる物がまれに存在する。とりわけ人の驚きを誘うのがオーパーツ(OOPARTS:Out Of Place Artifacts)だ。ギリシア人の感嘆の声、オーパ!をもじったものだろうか。「アンティキテラ島の機械」と呼ばれる、小さな古代の遺物を知った現代人は、間違いなく感嘆の声を上げるに違いない。

cover
アンティキテラ
古代ギリシアのコンピュータ
ジョー・マーチャント
 本書、「アンティキテラ 古代ギリシアのコンピュータ(ジョー・マーチャント)」(参照)は、現代の人間がいまだに知りえない、古代ギリシアの科学技術を探求する過程を描いた作品で、その過程もまた驚嘆を誘う。SF作家アーサー・C・クラークがこの機械を知ったとき、「この知識が継承されていたなら、産業革命は100年以上も早まり、いまごろ人類は近くの星に到達していたはずだ」とつぶやいたという。
 だが本書を丹念に読めば、クラークの驚嘆が否定されることの驚嘆というものに私たちは遭遇することになる。彼の直感に反してそれらは継承されていた。では、現代文明の歴史はどう書き換えればよいのか。本書の読後、人類史への感覚は変わる。
 オーパーツは興味深いが、大半は期待に反して、偽物である。後の時代が過去の幻想として作り出した悪質な模造品に過ぎない。だが、クレタ島の西北、ペロポネソス半島の南端マレア岬の間にあるアンティキテラ島の海底の古代船から発見されたがゆえに「アンティキテラ島の機械」と呼ばれるこの小さい機械は異なっていた。
 錆びているとはいえ、多数の歯車を内蔵した時計のようなこの精密な機械は、現代人の常識だけからすればせいぜい古くてもルネサンス以降の遺物にしか見えない。他の発掘品や現代考古学による年代推定がなければ、近代の時計の残骸にしか見えないだろう。しかしそれは紛れもなく紀元前に作成された巧緻な機械であり、そして本物だった。紀元前にこれは作られていた。

アンティキテラ島の機械

 その精妙さに驚嘆した後、現代人は「いったいこれは何のための機械なのか?」という問題に捕獲される。古代人はなんのためにこんな緻密な機構を必要としたのか。ちょっと見には、アンチーク時計の内部に見える。ただの時計ではないのかと、歯車の歯のかみ合わせを調べ、テンプや動力を想定してみる。時計であるなら存在するはずのそれらは、存在してない。ではこれは何か。計算機なのではないか。不思議な連想ではない。電子計算機が登場する以前には、歯車を多く装備した機械式の計算機が存在した。それによって世界大戦は可能になった。

プライス
デレク・デ・ソーラ・プライス
 計算機だとしよう。広義にコンピューターと呼んでもよいかもしれない。では、この古代の機械で何を計算したのか。それを知るには、この機械を解明し、再現してみたらよいのではないか。このことに最初に気がつき、人生の多くの時間を費やしたのが、物理学者かつ科学史家でもあり、科学計量学という情報科学の基礎を築いたデレク・デ・ソーラ・プライス(Derek J. de Solla Price:1922 - 1983))だった。
 本書はアンティキテラ島の機械の発見の経緯と、その歴史的背景を前の三分の一で詳説した後、プライスを筆頭にこの機械に見せられた人々の物語に入る。プライスは調査と再現の過程と総合しつつ解明を試み、基本的にこれを暦法の機械だと考えた。さらに科学史家として、この謎の機械は、クラークの驚嘆とは異なり、イスラム文化のなかに継承されていたに違いないと予言した。
 古代人は、太陽を元にした太陽暦と、月の満ち欠けを元にした太陰暦を調和させることで天文学や数学を発展させてきた。アンティキテラ島の機械はそうした知見を具現化したものだろう、とプライスは考えた。本書のスリリングな後章を読み進めれば、プライスの直感はまったくの間違いとも言い切れないだが、考察には間違いもあった。オーパーツの呪縛にかかってしまったと言えるかもしれない。アンティキテラ島の機械に差動装置(differential gear)を幻想してしまった。
 この間違いに気がついたのは、本書の後半から登場する、事実上本書の主人公ともいえるマイケル・ライト(Michael Wright)だった。彼は当時ロンドン博物館の工学部門を担当していたキュレーターだったが、後、全人生をこれに捧げるほどの探求を行うことになった。もっとも最初からライトがアンティキテラ島の機械に魅惑されたわけではなく、ビザンチン文化の日時計に仕組まれている歯車の機構からこの問題に取り組むことになった。歴史の細い伝承が彼を引き出したかのようだった。
 本書の面白さは、謎の古代という魅惑的な物語であることに加えて、マイケル・ライトという人間を描き出した文学的な感興にある。ライトは学者ではなかった。それゆえに、差別的ともいえる境遇と葛藤に落とされてしまう。学者ではないということが、本質的な問題を見つけ、その解明に人生を捧げようとする人間にとって、これほどまでの障害になりうるのか。私も一度はアカデミズムに志し、そこから脱落した人間なのでライトの苦悩に深く共感することがあった。
 ライトを巡る人間ドラマにはアカデミズムに加え、もうひとつ唐突な現代科学が敵対する。近年になり、プライスやライトには駆使しえなかった最前線の光学技術でアンティキテラ島の機械を解析し、それを実作ではなくコンピューター上に仮想で再現していく研究グループが現れたのだ。トニー・フリース(Tony Freeth)とマイク・エドマンズ(Michael Geoffrey Edmunds)による「アンティキテラ島の機械研究プロジェクト(The Antikythera Mechanism Research )」のグループである。
 フリース・グループの発想自体は単純だ。謎に見えるアンティキテラ島の機械だが、それが謎なのは腐食した遺物からレプリカが再現できないことにある。だが、腐食を乗り越える光学技術およびコンピュータグラフィックスによる解析技術があれば、「はい、これがアンティキテラ島の機械ですよ」とやすやすとコンピューター上に提示することができるだろうというものだ。それができれば、あとは学際的な研究知見を総合していけばよいはずだ。どこかしら現代情報産業におけるグーグルのような技術志向の考えかただ。
 人間の総合的な「知」というものには二つの側面がある。個別の知識を非個人的に体系化したサイエンス(science)と、手技にも近い徒弟訓練から習得されるアート(art)の側面だ。本書終盤で圧倒的にこの読書者を引き込むのは、フリースらが代表するサイエンスに、ライトが代表するアートが対決していく描写だ。
 もちろんサイエンスとアートは必ずしも対立するものではない。サイエンスなくしてアートはなく、アートなくしてサイエンスはない。だが現代人は、グーグルが暗示するような非個人的な科学知識の総合において、人類的な知が形成できるような幻想を持ち始めている。そこでは、学際という看板を掲げてもその結節となる個人の知識は、いずれ非個人的な知識に還元されてしまう。それでよいのだろうか。私の関心は、アンティキテラ島の機械という人類の謎に取り組むのは、ライトのようなアートが、つまり個人の人生の総合をかけるような個人的な知というものが不可欠なのではないかという点にある。私は率直に言えば、ライトに加担した心情を持ちつつ本書をスリリングに読み終えた。
 ライトはアンティキテラ島の機械について天界を機構的に表現したものだと見ているが、フリースはどちからいえば蝕の計算機だと見ている。その点だけで言えば私はフリースが正しいのではないかと思うが、ライトの考えにはまさしくアート的な深みがある。なにより本書こそ、ライトのアートのありかたに著者ジョー・マーチャントが引き込まれた産物でもある。
 彼女は、アンティキテラ島の機械にまつわる人間関係のドラマを公平に描きながら、プライスの理解にすらライトを頼んでいった。アートは人間のドラマを描き出し人の心に感動を生み出す。その情感がアンティキテラ島の機械を人々の心に再現させ、動かす力になる。

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2009.05.13

ラフマニノフのピアノ協奏曲第3番

 30代の終わりだったか40代に入ったころだったか、なぜか毎日、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番とピアノ協奏曲第3番を聞かずにはいられない日々があった。脳がそれを欲しているという奇妙な状態だった。鬱だったのかもしれない。あるいは、激鬱だったのかもしれない。そういう精神状態に陥っているときは自分でもよくわからない。不思議な日々だった。
 なぜラフマニノフのピアノ協奏曲だったのだろうか。なぜ脳がそれを欲していたのだろうか。神経内のある種のシナプスたちがピアノの離散的な音に反応するみたいだったが、ピアノの演奏ならなんでもよいわけではなかった。複雑な演奏でないといけなかった。
 昔からそういう傾向はあった。離散的な音を聞いていると脳がデバッグされるような感じがした。ピアノ曲が好きだったのは、そういう脳の性向の結果に過ぎなかったのかもしれないが、30代まではメロディアスで情感的な曲は好きではなかった。ショパンは、イヴォ・ポゴレリチのショパンを除けば、好きではなかった。リストのピアノ曲は私には単純な音楽に聞こえた。脳はある程度の複雑性を要求するので、ラヴェルのピアノ曲をよく聞いていた。
 その後、生ピアノでオイリュトミーとかやっているうちに普通にロマン派のピアノ曲もええなあ、と思うようにはなった。それらが30代後半、ラフマニノフのピアノ協奏曲に、がしょっと凝固したような状態になった。

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ラフマニノフ
ピアノ協奏曲第2番
キーシン(エフゲニー)
 ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番と第3番のどっちが好きかというと第3番かな。それほどどっちという差はない。問題は、というか、問題があるとすればだが、誰の演奏か、ということだろう。ここがちょっと微妙なところだ。このエントリの、テーマみたいなものになるかちょっと戸惑っている。
 ラフマニノフのピアノ協奏曲を聞いていた日々、ラフマニノフについてはあまり知らなかった。伝記みたいものを読む気もなかった。最近映画があったようだが、それもいまいち関心はない。それでも一通りラフマニノフという人がなんとなくわかったのは、以前NHKでラフマニノフの生涯を描いたドキュメンタリー「ラフマニノフ・メモリーズ~悲しみの収穫~」という番組を見たからだ。
 NHK制作の作品ではない。ぐぐると「NVC ARTS/NDR/ARTE, 1998、Tony Palmar監督」らしい。娘エリーナとタチアーナに語るというモノローグ風な語りに、ドキュメンタリータッチにラフマニノフの子孫とかも出てくるというしろものだった。おかげでロシアのラフマニノフの邸宅(別荘)も見ることができた。作品として感銘を受けたかというと、そこがなんとも微妙にB級なところがあった。総じて、よい作品ではあった。
 一番印象深かったのは、ラフマニノフが米国に移民してからロシアなるものを愛してやまなかったことだった。これは正教への愛といってもよいかと思う。このあたりの深い心情は「徹夜祷」などにもうかがえる、というか、自分でもどうも矛盾しているのだが、ラフマニノフの音楽はピアノ的な離散性とまさにヴォカリーズのような肉声の響きの双方がある。その微妙な、正教的とでもいうのだろうか、調和に、なにか魂を揺すぶられる。
 ラフマニノフのロシア的なもの、正教的なものへの愛の、その裏面には、彼が米国でピアニストとして成功することのアイロニーがあったらしい。番組ではピアニストとして成功する反面、ハリウッド映画のBGMくらいにしか批評家に理解されないことの嘆きがあった。
 そういえば以前、米アマゾンからラフマニノフのCDをごそっと買ったとき、BGM風のアレンジがけっこうあり、最初何気なく聞いていたのだが、自然に落ち込んでしまった。ラフマニノフの音楽というのは、俗っぽいロマンという趣向になることが、どうにも否定しがたい。愛の調べってか。
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ラフマニノフ
ピアノ協奏曲第3番
アルゲリッチ(マルタ)
 CDにはアルゲリッチとキーシンのがあった。比べて聞くと、アルゲリッチって、これ正しく演奏してんのか?と思えた。その情熱はわからないではないし、彼女の若いころのピアノ演奏は好きなのだが、どうにも受けつけなくなった。
 結果的にキーシンを聞いていた。最近でもキーシンのばかり聞いている。第3番の指揮は小澤征爾。それだけでどんびく人もいるかもしれないし、どうも微妙は微妙なのだが、悪いものではない。いや、いいんじゃないかな。言ってて矛盾しているが。
 私はキーシンの演奏がよいとそれほど思っているわけではない。キーシンというという人がよくわからないなと思う。若い頃の演奏を納めたCDもいくつか米アマゾンから買ったことがある。悪くはないのだが、よくわからない。技術は間違いないのだが、いま一つ、心がうまく伝わってこない感じがする。冷たいというのではなく、なんか人間離れしてんなというか。どさくさに言うと、この人はいったんポゴレリチのように地獄を見たらいいんじゃないかというか。
 なにか喉に詰まったような感じもあって、ときおりNHK BSとかでラフマニノフのピアノ協奏曲の演奏があると、特に誰がどうということなく、聞く。へぇと思うことや、それなりに感動はすることはある。ラン・ランの演奏(参照)とか見ると、さすが中国雑伎団、とか思う。悪い演奏ではないのだけど。
 そして、キーシン・小澤の演奏との違いに戻って、また困惑する。で、ラフマニノフのピアノ協奏曲って、どれが本物の演奏なのか? あるいは正しい演奏というのはあるのか。
 そういう問いかけがナンセンスのはわかっている。だが以前、ラヴェルの「夜のガスパール」で、どれがよいのか悩んでいたとき、野島稔の演奏を聴いて、「ああ、これが正しい演奏なのか」と得心したことがあった。ラフマニノフについても、どこかに、そういう定点の演奏のようなものがあるような気がしている。アシュケナージ(参照)がそうなのかもしれない。よくわからない。好きではないからかもしれない。
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ラフマニノフ自作自演
ピアノ協奏曲第2番&第3番
 ラフマニノフについては、自身によるピアノ協奏曲の演奏が録音されている。もちろん、聞いてみた。今でもよく聞いている。録音の質についてはとやかく言うまい。なるほど本人としてはそういうふうに演奏するのかというのはわかる。だがどうも、正しいという感じはしない。ピアノ協奏曲第3番は手の都合から、ラフマニノフ本人しか弾けないという話もあり、そういえばアルゲリッチもけっこう音をこぼしていたような印象があった。ラフマニノフ生存時には彼以外にはホロヴィッツしか弾けなかったとも聞く。ラフマニノフはホロヴィッツの演奏をどう思ったのだろう。自分よりいいなと思ったのだろうか。私は個人的にはホロヴィッツの演奏(参照)は受けつけない。ある種の調和が感じられないせいだ。
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Rachmaninov
Concerto No. 3
Jorge Bolet
 最近のことだが、たまたま「ラフマニノフ「ピアノ協奏曲第3番」収集記」(参照)という、ずばりそれの専用ブログを見かけた。参考になったかというと、それがまた微妙なのだが、とにかくその一番のお勧めのホルヘ・ボレットのは買って聞いてみた。こういうことらしいから。

聴いて、もうとにかくビックリ。こんな激しい演奏は初体験。いままでの中でも文句なしナンバーワンの「熱さ」。かつ、圧倒的なテクニックでミスタッチもほとんどない。これまで、ギーゼキングの「迫力」が一番と思ってましたが、それをはるかに上回る力強さ&スピード。かつ、テクニックが完璧。まさに、わたしの考えるこの曲の理想。こんなスゴイ録音があったなんて、今までどうして出会わなかったんだろう、と。とにかく、その他の録音とは「格」が1段も2段もちがう。よって、点数も最高点。コレを聴かずして、ラフ3ははじまりません。この曲の最高峰の演奏であり、これ以上は望めない究極の録音です。

 録音状態についてはこれも不問として、演奏はたしかに驚きはした。なるほどという部分がけっこうある。手抜きがないなというのか、音の一つ一つが丁寧に奏でられているし、迫力もある。このボレットを聞いてからアルゲリッチを聞くと、なるほどなと思うところはあった。YouTubeにあるボレットの、日本での演奏(参照)とはかなり違う。
 率直にいうと、でも、この「激しい演奏は」は自分にはなじまない。私は迫力というより、なんというのか、沈黙が黒ずんで生温かく自分を誘惑したあと、緩やかに水に飲まれるように燦めきながら失墜するような感覚が好きなので、ダダダダみたいのはどうも受けつけない。
 そして私の定番キーシン・小澤の演奏を、彼、そのブロガーさんはどう見ているか。

こういう異色の演奏もあるということで、わたしの理想演奏とは真逆ですが、この曲に「美しさ」を求める人には、これ以上の盤は無いと思います。おすすめです。

 異色の演奏という評価になっている。
 たしかにあの遅さは異色と言えるかもしれない。これはキーシンの思いなのか小澤なのか。全体としては小澤なのだろうと思うが、自分の印象ではよくピアノを引き立てているし、キーシンの思いに身を引いている感じがする。キーシンなんだろうな、この異色さはと思う。
 もうちょっと引用する。前の部分になるけど。

ピアノの「つぶつぶ・きらきら」した美しい音色。終止「美しさ」あふれる演奏。なんてきれいなんでしょう。個人的には、この曲に求める演奏は「豪快・雄大」さ。とにかく弾きまくる演奏が好みなんですが、こういう美しい音色もたまにはアリかと。

 このブロガーさんは、ピアノ協奏曲第3番に「豪快・雄大」を求めているのがわかる。別のお勧めリストを見てもそういう感じがわかる。良い悪いではないけど、求めるところが私とは随分と違う。
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ラフマニノフ
ピアノ協奏曲第3番
キーシン(エフゲニー)、小澤征爾
 結局私はキーシンの演奏が、これは違うんだろうなと思いつつ、好きだし、どうもこの系列の演奏は他には出そうにはないように思う。たぶん、私は「豪快・雄大」ではなく、悪魔的な力を求めているのだろう。そしてその悪魔性みたいなところでキーシンにまだ物足りなさを感じているのだろう。
 話がずれるが、このところスクリャービンを聞いていて、ああ、なるほどと思うことがあり、その感性からラフマニノフを見直す感じがある。ロマン派という情熱ではなく、正教的ななにかなのかもしれない。

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