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2009.04.16

そしてもう一度夢見るだろう(松任谷由実)

 松任谷由実ことユーミンの三年ぶりのアルバム。前回のは「極東ブログ: 松任谷由実と「A GIRL IN SUMMER」」(参照)に書いた。その後私は「A GIRL IN SUMMER」では「海に来て」「哀しみのルート16」「もうここには何もない」の三曲をたまに聴くだけ。「哀しみのルート16」は個人的には傑作。
 いちアルバムにひとつ傑作があればそれでいいんじゃないのという感じだったので、今回のアルバムもそのくらいの気持ちでアマゾンに予約を入れていておいた。その後、というか今、ITMSを覗いたらダウンロードだと2000円で購入できるのを知った。っていうか、これ今日公開されたのか? あと、4曲セット800円もあった。

cover
そしてもう一度夢見るだろう
松任谷由実
 今回のアルバムには、「極東ブログ: なんとなく最近iPodで聞いている曲」(参照)で触れた、そら恐ろしい曲「人魚姫の夢」が入っていて、他、「まずはどこへ行こう(ゆうばり国際ファンタスティック映画祭2009応援イメージソング) 」「Flying Messenger(NHK「探検ロマン世界遺産」テーマソング) 」「夜空でつながっている(ハウスプライムカレー CMソング) 」と、すでになんとなく聞いている曲を集めているので、残りにどのくらい期待できるかなという感じだった。
 どうだったか。アルバムの実質コンセプト曲の「ピカデリー・サーカス」はかなりよかった。歌詞にわからない部分はあるし、私自身は英国の「ピカデリー・サーカス」への思いはないので、そこはわからないといえばわからないが、60年代の郷愁のこの情感はわかる。

ピカデリー・サーカスに出れば
はじめてこの場所に来たときの
何も怖くない自分のように
誰もまだ知らぬ歌と
雨に灯りだす街の灯と
そして もう一度夢見るだろう

 最後のフレーズがアルバムのタイトルになっているのだが、いちおうアルバムジャケットにはAND I WILL DREAM AGAINとあり、この英語のフレーズに典拠があるのか少し調べてわからなかったが、どうも特設サイト(参照)で旦那さんの話を聞くと、ジャケットのビジュアル上英語にしたとのことだ。つまり、今回は、日本語の「そして もう一度夢見るだろう」がオリジナルらしい。気になっていたのは、その日本語と、英語のそれとは少し語感が違うことだった。が、その差異にはそれほど意図的な意味はなさそうだ。
 この気になる日本語のフレーズでもある「そして もう一度夢見るだろう」だが、もちろんいろいろな解釈があってもいいし、おそらくあの時代の空気を知っている45歳以上の人たちの、老年期までのもう一つの未来、第二の人生としてもいいのだろうけど、私としては、これは、人が死んで、死後に人生という夢を「そして もう一度夢見るだろう」ということだと思う。
 こんなことを言うと、死後の世界を信じるのかとか野暮なツッコミが入りそうな時代になったが、別段死後の世界といったオカルトじみた話ではない。死というものをそういうある幻想領域として捉えるといったことでもある。そう難しいこと言わなくても、わかる人にはわかるだろうと思う。
 そう解釈すると、「人魚姫の夢」がわかる。

いつか あなたはやって来る 深い涙の底へ
私を目醒めさせるために
やがて 薔薇色の朝になり あなたはささやくのよ
哀しい夢だったと

 人魚姫が叶わぬ恋でその身を泡として海に消し死んでいく。人は、人生のなかで垣間見た真実のように思えたなにかに、ついに人生で裏切られて死を迎える。だが、そして、そこで目醒めるのだと、この詩は言う。どこで目覚めるかというと、死後の世界で目覚めるのだ。そして、人生は「哀しい夢」だったと知る。
 トンデモ解釈とされてもいいし、こういう解釈を押しつけたい気はさらさらないが、この情感と世界意識は、吉本隆明が後年親鸞研究を通して見つけた「死からの眼差し」でもあるし、死の境地から見た生の世界でもあるだろうし、浄土教というビジョンの思想そのものであろう。
 厳密に言えば、吉本や親鸞のいう死からの眼差しや死という地点から見た人の生の姿の場合、どちらかというと禅のように悟りに至って見える世界はそのままの世界であるというのに近い。だが、ユーミンのこの詩と情感は、より日本の文化の古層にある浄土教的な美に近いものだ。それはこの世の生の姿をそのまま肯定する自然(じねん)の思想というより、この世界のなかに超越の契機が啓示的に介入してくることの真理性にある。人はこの人生のなかで掴めないにせよ、真理と歓喜を垣間見ることで、死後の永遠を通してその生を肯定していくというものだ。ニーチェの最後の思想にも近い。と言うに、下らない言辞を弄しているようだが。
 一見ナイスなほどハウスプライムカレーな「夜空でつながっている」も、実はファミリーとか愛とかつながりではなく、死を超えていく心情に力点がある。上の段落で気違いモードで書いたことが、この死の意味であることは、私はあまりにも明らかことしか思えない。

広い この広い宇宙で なぜめぐり逢えたの
なのに それなのになぜ去っていったの
私を残して

ありがとう こんなに 愛せるひとがいるなんて
だから きっと 私は生きてゆける


 この詩では、現世では掴みえない真理性が、それ自体が一つの恩恵的に緩和されている。不合理にもそうした愛に遭遇したがそれを生きている時間のなかで賛美できるという肯定性がある。だが、人はそうやすやすと人生も恋も生きられるわけもなく、すべてが失敗に消えてくこともあるわけで、そこから最後の「人魚姫の夢」につながっていく。だから、このアルバムバージョンでは音の響きが変わっている。シングルカットでは長調転調後は希望的な響きを持っていたが、このバージョンでは明るさの現実性を弱めるように、低音やディレイをかぶせて現世感をあえて喪失されている。こんなサウンド、だれが作ったのだろうか。旦那?
 音楽的には、加藤和彦と共作かな「黄色いロールスロイス」が優れているだろうし、私は率直にいうと好きではないが、「Bueno Adios」はなにかオリジナルでもあるんじゃないかというほど、こなれたタンゴになっている。「Judas Kiss」はユーミンサウンドのある頂点というか自己模倣的な完成でもあるのだろうと思う。率直にいうと、これも私は好きではない。
 今回のアルバムのプロモーションもかねてだろうが、NHK SONGSで「第85回 松任谷由実スペシャル Part 1」(参照)と「第86回 松任谷由実 Part 2」(参照)があり、両方見た。Part 1とPart 2はコンセプトが違っていた。Part 1は地方の若い人たちと交流をする、おばさまユーミン的な話、Part 2は回想的。録画撮りされた歌は、率直にいうと残念ながらクオリティの面で問題があったと思う。また、歌手としてのビジュアルもスタジオ撮りにはソフトフォーカスをかけても無理があったように思えた。
 二回とも見て気がつくと、このエントリで書いたような「ピカデリー・サーカス」と「人魚姫の夢」の構造性はあえて脱色されていた。これはアルバムでしか表現できないものだろう。
 特設サイトで、ユーミンがためらいながら、こう言っていた。

ほんとに途中作れるんだろうか、お迎えが来るほどのグロングロンになって地獄を見たので、その分なんか全体に死と狂気がね、漂っていると思う。それだけに究極の励まし究極の慰めがあるんじゃないかな。

 そうかもしれないし、それらはすべて偽物であるかもしれない。私たちの生を鼓舞するのは、そうした美しい夢をすべて捨てたときにあるのかもしれない。そういう音楽はどんなものかわからないが、なんとなく、ユーミンはもう一歩さらにこのサウンドと詩の世界を捨てるだろうと思う。

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2009.04.15

婚活とか愚考してみる

 テレビを買い換えてからなんとなくテレビを見る機会が増え、この春からは朝ドラの「つばさ」も見ている。「ちゅらさん」以来のことではないかな。そのついでのように、NHK金曜ドラマ「コンカツ・リカツ」(参照)も見ている。おもしろいかというとドラマとしてはそれほどおもしろくはないし、これはどちらかというと現代世相解説番組のなかに入れたスキットを拡張したようなものだろう。れいによって桜井幸子という人を知らないのだが、ウィキペディアを見たら35歳とあった。ドラマの39歳の設定より若く見えるのはなるほどね。ちなみに、松坂慶子は56歳だが設定では62歳。国生さゆりは39歳の設定だが実年齢は42歳か。へぇみたいな感じ。
 解説サイトには書いてないが、このドラマ、原案がパラサイでお馴染みの山田昌弘先生と、「「婚活」時代」(参照)で共著者だった白河桃子、というか、この本がようするに原案ということなのだろう。
 趣旨は同じとも言えるのだが、今月のVOICEに「婚活」というテーマで山田先生が書いているのだが、特段、ほぉと思うほどの話でもないのだが、ちょっと気になることがあった。その前に、山田先生のボヤッキーから。


 新しくつくりだした言葉は、広まれば広まるほど誤解が大きくなり、本来の意図とは懸け離れたものになってしまう。パラサイト・シングルや格差社会のときもそうだった。自立したら損だから自立しないという日本社会の現状を批判するつもりで書いた『パラサイト・シングル』がいつの間にかブランド物を買う未婚女性はけしからんという話なった。『希望格差社会』でも、若い人から努力が報われるという見通しが失われている状況を批判したのに、収入格差はよくないという点に矮小化されてしまった。婚活という言葉も同じ道を辿るのではないかと心配している。

 で、婚活はどう「誤解」されているか。

あるバラエティ番組で「年収六〇〇万円以上の独身男性は三・五%、だから早くつかまえなければいなくなってしまう」という歌詞にされていたのにはびっくりした。

 正しい解釈としてはこうらしい。まず、高収入男性は少ないという現実を示して、

 だから私と白河さんは、未婚女性に対して、期待水準を下げること、そして、夫婦共働きを覚悟することを推奨している。つまり現実を見れば、あなたの思っているような収入の高い未婚男性が見つかる確率はたいへん低いですよ。そして共働きの覚悟をすれば男性を広い範囲から見つけることができますよ。結婚したかったら相手の収入を脇に置いて、趣味が合いコミュニケーション力がある男性を見つかることが肝心ですよ。そこで白河さんは、「女性よ、狩りに出よ」といったのである。

 はあ。でもそれは、誤解されてしかたないのではないかなとも思う。共働きでもよい結婚を求めるというのと、「婚活」という「就職活動(就活)」の比喩ではつながらないのではないか。
 で、それはそれとして、このエッセイで心にひっかかったのは、次の事実だった。よくわからないのである。

 社会学者として私がいちばん心配しているのは、結果的に結婚できなかった専業主婦志向女性の将来である。三十五~四十四歳で親と同居している未婚者は、二〇〇七年時点で男女合わせて二六四万人いる(当該人口の約一四%)。うち、約一〇%は無職、約一〇%は非正規雇用者である。

 よくわからないのは、「専業主婦志向女性の将来」がテーマのようだが、親と同居未婚者は男女一緒の統計値なので、その割合はどうなんだろというのが一つ。もう一つは、これってそんなの大きな規模の問題ではないんじゃないかということ。当該人口の約一四%で、しかも、無職・非正規雇用は二〇%ということは、残り八〇%のほうが大きく、親と同居はしていてもそれなりにキャリアは積んでいる。親の介護とかあればきついだろうけど、家は持ち家としてあるのだから一人で生きていくとしてもそれほど困難でもないというか、それ自体がその人の人生の結果的な選択という以上ないように思えるのだが。
 山田先生の懸念はこうらしい。

 しかし、親と同居し、収入の高い人と結婚して専業主婦になる予定でキャリアを積まず、家事手伝いやアルバイトをしながら、親の年金に頼って生活している中年未婚女性の将来は暗い。

cover
「婚活」時代
山田昌弘, 白河桃子
 だが、それは先の統計で男女半々とすると、その懸念に該当するのは、26万人くらいではないかな。社会動向として多いと言えるのだろうか。つまり、それは時代の趨勢というか変化のなかのライフスタイルの変化の許容のうちというだけといことはないのか。だとすると、そうした許容を社会不安にしないような社会設計(持ち家を担保にした年金とか)の問題ということではなのか、個人の婚活とかではなく。

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2009.04.14

「ゆとり世代」という考え方がわからんな

 「ゆとり世代」についてというか、「ゆとり世代について書かれたもの」についてちょっと心が引っかかっているのだが、どうもうまくまとまらない。気にはなっているので、少し書いてみようかと思う。
 気になったきっかけは先月の月刊文藝春秋「「ゆとり世代」社員はやはり非常識」(ジャーナリスト山内宏泰)という記事だ。ところで、この山内さんって誰?というか、私は知らない。文春に書いているのだから、なにか単著でもあるのかなと見ると、「彼女たち―Female Photographers Now」(参照)というのがある。ほぉとおもって、著者略歴を見るとこう。


著者について
1972年愛知県生。フリーランスライター。写真をはじめとする美術、都市論、教育問題、人物ルポなど幅広い分野で執筆活動を行う。
主著:『フォトグラファーになるには』(共著・ぺりかん社)

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
山内 宏泰
1972年愛知県生まれ。フリーランスライター。写真をはじめとする美術、都市論、教育問題、人物ルポなどの分野にて執筆(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)


 ということで、写真関係のライターさんのようだ。というか、1972年生まれなのかと、ちょっと驚いた。私くらいの年代のかたかなと思っていたからだ。そうではなかった。今年37歳かあ。うーむ、いや、標題に「非常識」とあり、さすれば「常識」にスタンスを置くわけだが、30代で常識を論じるものかな、とちょっと思った。いや、別に批判というわけではないが。
 こうして著者さんの履歴を見ると、同エッセイが沢尻エリカのエピソードで始まるのもなんとなくわかる面はあるな。

 映画公開時の舞台挨拶といえば、主演女優にとっては晴れの場だ。最高の笑顔を振りまくべきところのはずだが、そんな常識など通用しなかった女優が一人。何を質問されても仏頂面で「別に……」と繰り返す。その不遜な態度から若者たちの間で「エリカ様」と呼ばれる女優、沢尻エリカである。
 彼女は一九八六年生まれの二十二歳。今年卒業して企業にやって来る新入社員と同じ年代だ。一九九〇年代から二〇〇〇年代にかけて学校教育の現場で「ゆとり教育」を受けた。いわゆる「ゆとり世代」でもある。

 私はこの沢尻エリカという女優さんをほとんど知らない。ハーフかクオーターだったかなと思ったが、別のAV女優と勘違いしているかもしれないというか、いやそれはないか。
 ところで話は少し飛ぶのだが、先日、10歳ほど年下の人と話していて、私は「あー、今年の新入社員って、あれですね、私の子どもの世代なんですよね。団塊チルドレンからコマが進んだ感じですね」と。で、答えはなかった。返答しようもないよね。
 私の青春時代っていうか、男でも26歳くらいで結婚していたというか、実際仲の良い友だちがそうだったが、それが1983年か。28歳で結婚しても1985年。翌年子どもが生まれると、エリカ様の年代になるわけか。ガーン!とか言わない。いや、全然実感ないので、困っている。ただ、「ゆとり世代」って私の子どもの世代なんだなとは思った。
 つまり、私の世代が子育てしてできたのが「ゆとり世代」なのだろう、ということだが、うーむ、まるで実感がない。話がねじれてきたが、ようするに「ゆとり世代」というのは、山内宏泰が言うように、90年代から2000年に学校教育の現場で「ゆとり教育」を受けたから、そう呼ばれるのだが、では、親の世代である私たちは、どうなんだろ? ちょっと補助線的にいうなら、親としての自分たちの世代はこの「ゆとり世代」にどう関わってきたのか。あるいは、子どもたちの学校教育とやらにどう思っていたのか?
 どうもそのあたりが、親の世代としての私に問われてもよさそうなのだが、つまりだな、学校教育が「ゆとり」でだから非常識っていう話ではなく、ようするに親が非常識だから子どもが非常識というだけなのではないか。そして、自分を省みると、たしかにオレは非常識だよなとは思う。ただ、なんか違うというか、よくわからない。
 実際のところ、たとえば、はてなダイアリーとかはてなブックマークとかのコメントとか見ていると、これが「ゆとり世代」かと思うことはある。いや、実際は、ネットでぶいぶいしている世代は、それより10年上だったり、先日驚いたのだが、朝日新聞のけっこうなお年の社員が2ちゃんねるで匿名罵倒とかやっていたりして、どうも年代とは関係ないようにも思う。まことによくわからない。
 が、山内のエッセイで気になったのは、そうは言っても、たしかに、当たっているところもありそうな感じ、というあたりだ。

 では、「ゆとり世代」の若者はどのような特徴を持っているのだろうか。「ひと言でいうと、教養と気概を教育されなかった子供たちなのです」
 そう語るのは、安倍内閣時の「教育再生会議」の元委員長であり、「百ます計算」で知られる立命館小学校副校長の陰山英男氏だ。

 はあ。

「彼らは個性尊重の名の下で『やりたいことをやりなさい』と育てられてきました。人は苦境や困難を乗り越えることで成長し、自信を得ますが、ゆとり教育というのは彼らが越すべきハードルを取り除いてしまおうという発想でした。ですから、彼らは何かを克服しようという気概がなく、成長の機会も逃してきた。

 そうかなあ。違うようには思うが。やりたいことがやれないという挫折が放置されてきたということではないかと思うが、まあ、いいや。気になったのはこの先だ。

 陰山氏は「ゆとり教育」を受けた世代の全体的な特徴として、次の三つの傾向が見られるという。
①問題を社会のせいにしがちなこと。周囲の人間や社会に対する不平不満、批判が多い。
②「物事はうまくいって当たり前」と考えていること。少しでもうまくいかないとマイナスだと捉え、自信を失ってしまう。
③このダメダメな状況を一気に解決する夢のような方法がある、と信じていること。

 先にはてなダイアリーとかはてなブックマークとかのコメントに言及したが、あれ見ていると、ゆとり世代に限定されないけど、①と③は強くその傾向があるような気がする。つまり、問題は社会にある、そして、それを一気に解決する方法がある、というあたりだ。
 これが「正義」に集約されるか、技術に集約されるか、あるいは学歴などに集約されるか、いずれにせよ、自分が依拠する集約点を持つような気がする。つまり、まるでストリートビューに人間のアイコンを置くように、あるポジションに自分を置くことで社会が批判でき、解決が主張できるというふうな類型がありそうに思える。あるいは、ウィキペディア的な知識に正解があって、それ以外は間違いといった。
 で、これは「ゆとり教育」とは何か違うと思うのだが、よくわからない。
 もう一つ気になるのは、②で、これはそうなんだろうか。違うようにも思うのだが、が、というのは、事態をプラスかマイナスかのどっちかに分けるというのはありそうだ。
 これはなんなのだろう? 
 こうした世代の世界観にはヒールの魅力みたいなものはなさそうだし、語感という感じはないんじゃないかな。自分が語っている言葉には歴史が背負わせた語感というのがある、とは思ってなくて、言語とはコードくらいにしか思っていないのではないか。あるいは、言葉がその表出と意味の二面だけであって、言葉が担わされた歴史の姿みたいのはなさそうに思える。
 なにかがよくわからない。
 別段私は「ゆとり世代」批判をしたいわけでもないし、そもそも「ゆとり世代」という規定は違うように思う。
 なんなんだろとは思うが、いずれにせよ、現実世界には、ダメダメな状況を一気に解決する夢のような方法は存在しない。なので、社会不満は膨らみ続けるだろうし、自身をそうした不合理な社会の構成要因としては見ないではないかなとは思う。

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2009.04.12

些か弥栄

 エントリのネタがないわけでもないけど、書いてもしかたないな感みたいのがあったりして、かくしてまたブログに穴があきそうな感じもしないでもない。じゃあ、くだらない話でも……と、最近のくだらない話といえば、麻生首相が「弥栄」を「いやさかえ」と読み上げたというのがよいだろう。実にどうでもいいようなくだらない話で、こんなのニュースになるのかというとなったから聞き及んだわけだ。11日付け毎日新聞「麻生首相:皇室の「いやさかえ」 両陛下の前で…」(参照)より。


 麻生太郎首相は10日、祝賀行事や記者会見で言い間違える場面が相次いだ。
 皇居・宮殿松の間での天皇、皇后両陛下の結婚50年の祝賀に閣僚ら約50人と出席した首相は、参列者の代表として両陛下の前で、紙を見ずに繁栄を意味する「弥栄(いやさか)」を「いやさかえ」と述べ、「皇室の“いやさかえ”を心から祈念し、国民を代表してお祝いの言葉とさせていただきます」などと語った。
 午後5時からの首相官邸での記者会見では、「社会保障」を「社会保険」、09年度の「国債発行額」を「国債発行残高」、「公共事業の占める比率は2兆4000億」を「2兆5000億」と言い間違え、官邸報道室が訂正を発表した。

 あえて全文引用したのは、毎日新聞記者はこれをがちな言い間違えだと認識していそうだというのがわかるようにということ。ただし、終段の含みが重要だったりするかもしれない。
 日経にもある「「いやさか」を「いやさかえ」 首相、祝賀行事で言い間違え」(参照)。共同でも「祝賀行事で首相言い間違え 「弥栄」を「いやさかえ」」(参照)がある。これをニュースだとしたのは共同だろうか。
 産経も「麻生首相「弥栄」を「いやさかえ」と言い間違え 両陛下の祝賀行事」(参照)があるがすでになぜかリンクが切れている。魚拓があるかなと思ってみるとあった(参照)。産経が最初だっただろうか。
 ところでその後ネットでは、「弥栄」を「いやさかえ」と読んでもよいといった典拠が流れ、先日の「こころずかい」と似たようなことじゃないかというような話題でもある。どうなんだろうか。
 「こころずかい」の時は、私は、それはあながち間違いとも言えないなとは思ったが、「弥栄」を「いやさかえ」というのはどうだろうか。麻生さんご自身のサイトでも「靖国に弥栄(いやさか)あれ」(参照)とあり、また、これは「万歳(ばんざい)」みたいな慣用句なので、「いやさかえ」と読んだのはやはりただのミスだったのではないか。ただ、官邸報道室での記者会見では訂正はなかったようなので、そういう読みも問題ない許容という認識はあったようにも思える。いずれにせよ、ニュースにするほどのことでもないことで、くだらないなとは思った。
 で、それから、「弥栄」を「いやさか」と読むのは、慣用だとして、「いやさかえ」と読みうるだろうかとふと疑問に思った。歌舞伎では「弥栄芝居賑」(いや栄え芝居の賑わい)という演目があるらしい。「弥栄華持芝居賑(いや栄え華持つ芝居の賑わい)」とも言うらしい。私はこの言い回しに語感がないが、言いそうな感じはする。ただ、その場合、「弥栄」は「賑わい」に掛かる形容詞句的なものになる。「天皇弥栄」という用例と同じだろうか。
 ところで、私は高校生時代ひょんなことから万葉集が好きで、けっこう暗唱していたものだった。茂吉選の万葉秀歌は当時は全部暗唱できた。で、そのくらい暗唱すると、それなりに古語の語感のようなものが出来てくるのだが、そのあたりで、「弥栄」にひっかるものがある。余談ついでだが、私は高校生のころ短歌をよく作っており、しかも与謝野鉄幹ではないけど、古今集はくだらないぞ、歌はますらおぶりだぞとか当時は思っていたこともあった。それもあって、万葉の古語と古今の古語の歌の語感は興味深かった。
 ちょっと調べると、巻18の4111に家持の歌にある。

み雪降る冬に至れば霜置けどもその葉も枯れず常盤なすいやさかばえに然れこそ神の御代より宜しなへこの橘を時じくのかくの菓実と名付けけらしも

美由伎布流冬尓伊多礼婆霜於氣騰母其葉毛可礼受常盤奈須伊夜佐加波延尓之可礼許曽神乃御代欲理与呂之奈倍此橘乎等伎自久能可久能木實等名附家良之母


 ということで、「いやさかばえ」というコロケーションで「はえ」を必要としてる。漢字を充てるなら「映え」であろう。すると、「いやさか」は「非常に」くらいの副詞句的な機能があるのだろう。
 こんなことを言うののは、「いやさか」に「弥栄」が充てられているのは、「いや」単独で「非常に」の語感を持っていると理解されているのではないかなと思うからだ。つまり、「いよいよ(ますます)」+「栄えよ」で「弥栄」といった。麻生首相もそう理解しているから、「いやさかえ」とつい読んでしまったのだろう。
 が、この「栄」なのだが「栄え」「栄える」を「さか」として充てるものだろうか? と疑問に思い、以前「極東ブログ: [書評]日本語の語源(田井信之)」(参照)で触れた同辞典に当たってみて、ちょっと驚いた。「いやさか」を「弥尺」としている。
 これは一般的な解釈なのかとぐぐってみるとほとんど情報がない、が、「新版 祝詞新講(次田潤)」(参照)にこうあるようだ。

「八尺」の意義については、従来弥栄の義であるとか、弥真明の義であるとか解釈せられていたが、弥尺の義で、長い緒に貫き連ねた意に見るのが穏当である。

 として「八尺」(やさか)について、「弥栄」の義ではなく、「弥尺」としている。「弥尺」は「長い緒に貫き連ねた意」としている。
 もちろん、これは話の方向が逆で、「八尺」は「弥栄」ではない、「八尺」は「弥尺」であるという議論なのだが、それでも、「さか」に「尺」が充てられる事例である。
 田井の議論に戻ると、単純に「いやさか」を「弥尺」としている。意味も、よって、「とても長い」というだけになる。"very long"といった感じだが、これはむしろ家持の歌にも適合する。「いやさかばえ」は"long duration glow"といった感じだろう。
 田井はさらに万葉集が歌われた時代に、「いやさか」は「やさか」に音変化があると見て、「八尺の嘆き嘆けども」の用例を上げている。
 これだけをもって、「いやさか」を「とてもながく」の意味だけだという論にはならないが、「栄」は近世以降の宛字の可能性はありそうだ。
 ついでに田井の「弥」、つまり「彌」の考察を見ていくとおもしろい。どこまでが本当なのか、まるで判断できないが、それっぽい感じはする。

  • 「彌俄かに」→「やにわに」
  • 「彌妄りに」→「やだりに」→「やたらに」
  • 「彌実に」→「いやげに」→「やけに」
  • 「無理に彌無理に」→「むりやりに」
  • 「彌いみじくも」→「やみじくも」→「やみくも」
  • 「彌無茶な」→「やんちゃな」
  • 「彌姦し」→「やかまし」
  • 「彌罵る」→「やじる」
  • 「彌立つ」→「よだつ」
  • 「彌芽吹く木」→「やまぶき」
  • 「彌長枝」→「やなぎ」

 ほんとかねという感じだが、「彌生」→「やよい」はまさに「弥生」である。ちなみに今日は弥生十七日で、野山は「いや生い(ますます生い茂る)」といった風情だ。
 案外田井の考察の大半は当たっているのではないか。というか、このあたりの俗語の語源は、意味側のこじつけより、音変化で見るほうが妥当だろう。ただ、田井はこの研究の成果だけをまとめてしまって、地域的なまた歴史的な変遷についてはあまり触れていない。

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